上
法隆寺の夢殿の南門の前に宿屋が三軒ほど固まつてある。其の中の一軒の大黒屋といふうちに車屋は梶棒を下ろした。急がしげに奥から走つて出たのは十七八の娘である。色の白い、田舎娘にしては才はじけた顔立ちだ。手ばしこく車夫から余の荷物を受取つて先に立つ。廊下を行つては三段程の段階子を登り又廊下を行つては三段程の段階子を登り一番奥まつた中二階に余を導く。小作りな体に重さうに荷物をさげた後ろ姿が余の心を牽く。 荷物を床脇に置いて南の障子を広々と開けてくれる。大和一円が一目に見渡されるやうないゝ眺望だ。余は其まゝ障子に凭もたれて眺める。 此の座敷のすぐ下から菜の花が咲き続いて居る。さうして菜の花許りでは無く其に点接して梨子の棚がある。其梨子も今は花盛りだ。黄色い菜の花が織物の地で、白い梨子の花は高く浮織りになつてゐるやうだ。殊に梨子の花は密生してゐない。其荒い隙間から菜の花の透いて見えるのが際立つて美くしい。其に処々麦畑も点在して居る。偶燈心草を作つた水田もある。梨子の花は其等に頓着なく浮織りになつて遠く彼方に続いて居る。半里も離れた所にレールの少し高い土手が見える。其土手の向うもこゝと同じ織り物が織られてゐる様だ。法隆寺はなつかしい御寺である。法隆寺の宿はなつかしい宿である。併し其宿の眺望がこんなに善からうとは想像しなかつた。これは意外の獲物である。 娘は春日塗りの大きな盆の上で九谷まがひの茶椀に茶をついで居る。やゝ斜に俯向いてゐる横顔が淋しい。さきに玄関に急がしく余の荷物を受取つた時のいき〳〵した娘とは思へぬ。赤い襦袢の襟もよごれて居る。木綿の着物も古びて居る。それが其淋しい横顔を一層力なく見せる。 併しこれは永い間では無かつた。茶を注いでしまつて茶托に乗せて余の前に差し出す時、彼はもう前のいき〳〵した娘に戻つて居る。 ﹁旦那はん東京だつか。さうだつか。ゆふべ奈良へお泊りやしたの。本間になア、よろしい時候になりましたなア﹂ と脱ぎ棄てた余の羽織を畳みながら、 ﹁御参詣だつか、おしらべだつか。あゝさうだつか。二三日前にもなア国学院とかいふとこのお方が来やはりました﹂ と羽織を四つにたゝんだ上に紐を載せて乱箱の中に入れる。 余は渇いた喉に心地よく茶を飲み干す。東京を出て以来京都、奈良とへめぐつて是程心の落つくのを覚えた事は今迄無かつた。余は膝を抱いて再び景色を見る。すぐ下の燈心草の作つてある水田で一人の百姓が泥を取つては箕に入れて居る。箕に土が満ちると其を運んで何処かへ持つて行く。程なく又来ては箕に土をつめる。何をするのかわからぬが此広々とした景色の中で人の動いて居るのは只此百姓一人きりほか目に入らぬ。 娘は椽に出て手すりの外に両手を突き出して余の足袋の埃りを払つて又之を乱箱の中に入れる。 ﹁いゝ景色だナア﹂ といふと直ぐ引取つて、 ﹁此辺はなア菜種となア梨子とを沢山に作りまつせ。へー燈心も沢山に作ります。燈心はナー、あれを一遍よう乾かして、其から叩いてナー、それから又水に漬けて、其から長い錐のやうなもので突いて出しやはります。其から又畳の表にもしやはりまつせ。長いのから燈心を取りやはつて短かいのは大概畳の表にしやはります﹂ ﹁畳の表には藺ゐをするのぢやないか。燈心草も畳の表になるのかい﹂ ﹁いやな旦那はん。燈心草といふのが藺の事つたすがな﹂ と笑ふ。余は電報用紙を革袋の中から取り出す。娘は棚の上の硯箱を下ろして葢を取る。 ﹁まア﹂ といつて再び硯箱を取り上げてフツと軽く硯の上の埃りを吹いて薬缶の湯を差して墨を磨つて呉れる。墨はゴシ〳〵と厭やな音がする。 電報を認め終つて娘に渡しながら、 ﹁下は大変多勢のお客だね。宴会かい﹂ と聞く。娘は電報を二つに畳んで膝の上に置いて、 ﹁いゝえ。皆東京のお方だす。大師講のお方で高野山に詣りやはつた帰りだすさうな。今日はこゝに泊りやはつてあした初は瀬せに行きやはるさうだす。今晩はおやかましうおますやろ﹂ と娘は立たうとする。電報は一刻を急く程の用事でも無い。 ﹁初瀬は遠いかい﹂ とわざと娘を引とめて見る。 ﹁初瀬だつか﹂ と娘も一度腰を下ろして、 ﹁初瀬はナー、そらあのお山ナー、そら左りの方の山の外れに木の茂つたとこがありますやろ……﹂ と延び上るやうにして、 ﹁あこが三輪のお山で。初瀬はあのお山の向うわきになつてます。旦那はんまだ初瀬に行きやはつた事おまへんか﹂ ﹁いやちつとも知らないのだ。さうかあれが三輪か。道理で大変に樹が茂つてゐるね。それから吉野は﹂ ﹁吉野だつか﹂ と娘は電報を畳の上に置いて膝を立てる。手摺りの処に梢を出してゐる八重桜が娘の目を遮ぎるのである。余は立上つて椽に出る。娘も余に寄り添うて手摺りに凭れる。 ﹁そら、此向うに高い山がおますやろ、霞のかゝつてる。へーあの藪の向うだす。あれがナー多武の峰で、あの多武の峰の向うが吉野だす﹂ 娘は桜の梢に白い手を突き出して、 ﹁あの高い山は知つとゐやすやろ﹂ ﹁あれか、あれが金剛山ぢやないか。あれは奈良からも見えてゐたから知つてる﹂ 娘は手摺り伝ひに左りへ〳〵と寄つて行つて、 ﹁旦那はん、一寸来てお見やす。そらあそこに百姓家がおますやろ。さうだす、今鴉の飛んでる下のとこ。さうだす、あの百姓家の左の方にこんもりした松林がおますやろ。そやおまへんがナー。それは鉄道のすぐ向うだすやろ。それよりももつとずつと向うに、さうだすあの多武の峰の下の方にうつすらした松林がありますやろ。さう〳〵。あこだす、あこが神武天皇様の畝火山だす﹂ 娘の顔はます〳〵いき〳〵として来る。畝火山を教へ終つた彼はまだ何物をか探して居る。彼の知つて居る名所は見える限り教へてくれる気と見える。 ﹁お前大変よく知つて居るのね。どうしてそんなによく知つて居るの。皆な行つて見たのかい﹂ ﹁へー、皆んな行きました﹂ といつて余を見た彼の眼は異様に燃えてゐる。 ﹁さう、誰と行つたの、お父サンと﹂ ﹁いゝえ﹂ ﹁お客さんと﹂ ﹁いゝえ。そんな事聞きやはらいでもよろしまんがナア﹂ と娘は軽く笑つて、 ﹁私の行きました時も丁度菜種の盛りでなア。さう〳〵やつぱり四月の中頃やつた﹂ と夢見る如き眼で一寸余の顔を見て、 ﹁旦那はん、あんたはんお出でやすのなら連れていておくれやすいな、ホヽヽヽ私見たいなものはいやだすやろ﹂ ﹁いやでも無いが、こはいナ﹂ ﹁なぜだす﹂ ﹁なぜでも﹂ ﹁なぜだす﹂ ﹁こはいぢやないか﹂ ﹁しんきくさ。なぜだすいな、いひなはらんかいな﹂ ﹁いゝ人にでも見つからうもんなら大変ぢやないか﹂ ﹁あんたの﹂ ﹁お前のサ﹂ ﹁ホヽヽ、馬鹿におしやす。そんなものがあるやうならナー。……無い事もおへんけどナー。……ホヽヽヽヽ、御免やすえ。……アヽ電報を忘れてゐた。お風呂が沸いたらすぐ知らせまつせ﹂ と妙な足つきをして小走りに走つて畳の上の電報を抄ふやうに拾ひ上げて座敷を出たかと思ふと、襖を締める時、 ﹁本間におやかましう。御免やすえ﹂ としづかに挨拶してニツコリ笑つた。 ﹁お道はん。〳〵﹂ と下で呼ぶ声がする。 ﹁へーい﹂ といふ返辞も落ついて聞こえた。 お道さんが行つたあとは俄かに淋しくなつた。きのふ奈良でしらべた報告書の残りを認める。時々下の間で多勢の客の笑ふ声に交つてお道サンの声も聞こえるが、座敷が別棟になつてゐるのではつきりわからぬ。 夢殿の鐘が鳴る。時計を見るともう六時だ。 漸く風呂が沸いたと知らして来た。其はお道さんでは無く、此家の主婦であらう三十四五の髪サンであつた。晩飯の給仕に来たのもお道さんで無く此の髪サンであつた。 此髪サンの話によると、お道サンといふのは此うちの娘でなくすぐ此裏の家の娘で、平生は自分のうちで機械機を織つて居るが、世話しい時は手伝ひに来るのだとの話であつた。 ﹁へい、此辺でナー、ちつと渋皮のむげた娘はナー、皆南の方へ行きやはります。南の方といふのはナー下市、上市、吉野あたりだす。お道はんも一寸行てやはりましたが、お父つあんが一人で年よつてるさかいに半年許りで帰つて来やはつた。へー、何だす。そりやナー若い時はナー。そやけれどお道はんに限つてそないな事はありまへんやらう。ホヽヽヽ﹂ とお髪サンは妙な眼つきをして人の顔を見て笑ふ。中
翌日午前は法隆寺に行つて、午後は法起寺に行つた。これで今回官命の役目は一段落となるのである。法起寺は住職は不在で、年とつた方の所化も一寸出たとの事で、十五六になるのつそりした小僧が炭をふう〳〵吹いて灰だらけにした火鉢を持つて来て、ぬるい茶を汲んで来て主ぶりをする。取調の事は極めて簡単で直ちに結了する。塔の修覆が出来てからまだ見ぬので庭に出て見る。腰衣をつけた小僧サンもあとからついて来る。白い庭の上に余の影も小僧サンの影もくつきりと映る。うらゝかな春の日だ。三重の塔は法隆寺の塔を見た目には物足らぬが其でも蟇股や撥形の争はれぬ推古式のところが面白い。余はふと此塔に登つて見度くなつた。 ﹁小僧サン、塔に登りたいものですが……﹂ ﹁塔にお登りやすの、きたのうおまつせ﹂ といひながら無造作に承諾してもう鍵を取りに行く。頭に手をやつて見たり、腰に手をやつて見たり自分の影法師を面白さうに見ながら悠々として庫裡の方に行つた。 直下に立つて仰ぐと三重の塔でも中々高い。三重目の欄干のところに雀が群がつて飛んで居る。立札を読むと特別保護建造物で一年余を費して修理したとある。別に立札に内務省の下賜金が二万何千円とある。此地はもと聖徳太子の御学問処で、推古天皇の御創立になつた官寺で、昔はたいしたものであつたのだらうが、今は当時の建物として此塔許り残つてゐて他は見すぼらしい堂宇許りだ。とても法隆寺などには比べものにはならん。 小僧サンが悠然として鍵を持て来て、いきなり塔の扉に突ツ込む。ゴトンと音がして大きな扉ががた〳〵と開く。冷たい風が塔の中から吹く。安置されて居る仏体は手や足の無くなつてゐる古仏でこれも推古時代の彫刻かと思はれる。小僧サンはもう梯子を登つて居る。 此梯子は高さ一間半許りの幅のせまい勾配の急な梯子で一歩踏む度に少しゆらぐ。余は元来臆病な方だが今更止めるわけに行かぬので小僧サンのあとについて登る。戸をがら〳〵と開ける音がする。埃りが落ちて来るので閉口しながら仰向いて見ると、天井に二尺角程の小さい穴があいて居る。小僧サンは今其穴に体半分を突込んで足を二本宙にぶら下げて居る。おや〳〵と思つて見て居るうちに体操のやうな事をしてヒヨイと上に飛び上る。余は恐る〳〵登つて其穴の処に達し漸く頭を突込んで上を見上げると驚いた。余は塔の中の構造も普通の家と同じに一階二階と其々天井のやうなものが出来てゐることゝ思つてゐたに、天井は一階のところに在る許りで、見上げると此上はもう頂上まで筒抜けで、中央の大きな柱が天にまで達するかと思ふやうに高い。小僧サンはもう第二の短い梯子を登つて右から左にかゝつてゐる木を軽業のやうに両手をふつて渡つてゐる処だ。 余は穴に頭を突込んだまゝ、 ﹁小僧サンもうよしませう﹂ といふ。小僧サンは不平さうに、 ﹁折角こゝまで来たんやよつて上りなはれ﹂ と横木の上に立つたまゝ下を見下して居る。何だか此際小僧サンに無限の権威があるやうに思はれて仕方なしに上ることにする。小僧サンは今体操をするやうなことをして此の穴を上がつたが、其が已に余に取つて大困難だ。頭の上に斜に横たはつてゐる木に手をかけて見る。木が大きくて手のさきがかゝる許りだ。指のさきに懸命の力を籠めて左りの手を其木にかけ、右の腕でべたりと天井の上を圧さへると埃りだらけで紋付羽織がだいなしになる。漸く天井裏に登る。 其から第二の梯子は無造作に登れたが、小僧サンが手をふつて渡つてゐた横木の上に来て途方に暮れる。何かつかまへるものが無いと足がふるへて顛倒しさうだ。頭の処に併行した大きな木がある。両手をぐつと上げて此木を握る。足の方も見ねばならず手の方も見ねばならず、上目を使つたり下目を使つたり一分きざみに渡つて居ると忽ちゴーといふ地鳴りのやうな音がする。何事かと思つて立どまつて見ると一陣の風が塔に吹き当る音であつた。ゆれはしないかと中央の大きな柱を見ると大船の帆柱よりも大きいのが寂然として立つて居る。漸く意を安んじて横木を渡つてしまふと、サア行き詰りになつてしまつてどうしてよいのかわからぬ。梯子もなく、別に連絡して居る他の木もない。俄に恐ろしくなつて来てもう空目を使つて小僧サンを見る勇気もない。 ﹁小僧サン、これからどうしたらいゝんです﹂ 小僧サンの声は思はぬ方から聞こえる。 ﹁其上の木にまたいで上りなはれ﹂ と極めて易々たる事のやうにいふ。其がさう易々たる事なら何も小僧サンを呼びはしないのだが、これはいよ〳〵窮地に陥つた事だと泣き度くなる。仕方なしに両方の手で上の木に抱きつくやうにしてやつと這ひ上る。羽織の袖が何かにかゝつたらしいのを一生懸命で振り切る。一息ついて上を見上げると上はまだなか〳〵遠い。下を見下ろすと下ももうなか〳〵遠い。もう下りるのも上るのも同じく命がけだと覚悟を極めて未練なく登ることにする。 小僧サンは立どまつてはふりかへり、ふりかへつては歴階して上つて居る。余もまけぬ気になつて登る。 ﹁こゝの欄干のところにしまひよか、露盤のところに出なはるか﹂ と小僧サンが上の方から呼ぶ。露盤の処から九輪の処に首を突出す事が出来るといふ事は曾て聞いた事もあつた。小僧サンは其処までも行く気と見える。其処まで行くうちには余はもう手足の力を失つて途中から転落するに極つてる。 ﹁欄干のところで結構です﹂ ﹁さうだつか。露盤のとこに出ると畝火の方がよく見えまんがなア﹂ 畝火は宿屋の二階からでも見えぬことは無い。こちらは其どころでは無いのだ。小僧サンはどうするかと気が気でなく見て居ると、やつと露盤の方は断念したと見えて、欄干の方に出る小さい窓を開けて居る。 小僧サンは其窓を大仏殿の柱くゞりといつたやうな風に這うて出る。余も漸く其窓に達して、今度こそすべり落ちたら百年目と度胸を据ゑて這うて出る。窓の外は三重目の小さい回廊で欄干を握つて立つと、ニチヤ〳〵と手につくものがある。見ると雀の糞だ。其辺真白になつて居る。さつき雀の飛んで居つたのが此処だなと思ふ。小僧サンに並んで欄干を掴まへて下を見下ろす。 自分の足下には二重目の屋根が出て居る。此処に立つて下を見下ろすのは想像してゐた程に恐ろしく無い。小僧サンに跟て回廊伝ひに東の方に廻つて見る。宿屋の二階で見た菜の花畑はすぐ此塔の下までも続いて居る。梨子の棚もとび〳〵にある。麗かな春の日が一面に其上に当つて居る。今我等の登つてゐる塔の影は塔に近い一反ばかりの菜の花の上に落ちて居る。 ﹁又来くさつたな。又二人で泣いてるな﹂ と小僧サンは独り言をいふ。見ると其塔の影の中に一人の僧と一人の娘とが倚り添ふやうにして立話しをして居る。女は僧の肩に凭れて泣いて居る。二人の半身は菜の花にかくれて居る。 ﹁あの坊さん君知つてるのですか﹂ ﹁あれなあ、私の兄弟子の了然や。学問も出来るし、和尚サンにもよく仕へるし、おとなしい男やけれど、思ひきりがわるい男でナー。あのお道といふ女の方がよつぽど男まさりだつせ。あのお道はナア、親にも孝行で、機もよう織つて、気立もしつかりした女でナア、何でも了然が岡寺に居つた時分にナア、下市とか上市とかで茶屋酒を飲んだ事のある時分惚れ合つてナア、それから了然はこちらに移る、お道はうちへ帰るしゝてナア、今でもあんなことして泣いたり笑つたりしてますのや。ハヽヽヽ﹂ と小僧サンは無頓着に笑ふ。お道は今朝から宿に居なかつたが今こゝでお道を見やうとは意外であつた。殊に其情夫が坊主であらうとは意外であつた。我等は塔の上からだまつて見下ろして居る。 何か二人は話してゐるらしいが言葉はすこしも聞こえぬ。二人は塔の上に人があつて見下ろして居やうとは気がつくわけも無く、了然はお道をひきよせるやうにして坊主頭を動かして話して居る。菜の花を摘み取つて髪に挿みながら聞いてゐたお道は急に頭を振つて包みに顔を推しあてゝ泣く。 ﹁了然は馬鹿やナア。あの阿呆面見んかいナ。お道はいつやら途中で私に遇ひましてナー、こんなこというてました。了然はんがえらい坊ぼんさんにならはるのには自分が退くのが一番やといふ事は知てるけど、こちらからは思ひ切ることは出来ん。了然はんの方から棄てなはるのは勝手や。こちらは焦がれ死にゝ死ぬまでも片思ひに思うて思ひ抜いて見せる。と斯んなこというてました。私お道好きや。私が了然やつたら坊主やめてしもてお道の亭主になつてやるのに。了然は思ひきりのわるい男や。ハヽヽヽヽ﹂ と小僧サンは重たい口で洒落たことをいふ。塔の影が見るうちに移る。お道はいつの間にか塔の影の外に在つて菜の花の蒸すやうな中に春の日を正面に受けて居る。涙にぬれて居る顔が菜種の花の露よりも光つて美くしい。我等が塔を下りやうと彼の大仏の穴くゞりを再びもとへくゞり始めた時分には了然も纔わづかに半身に塔の影を止めて、半身にはお道の浴びて居る春光を同じく共に浴びてゐた。了然といふ坊主も美くしい坊主であつた。下
其夜晩酌に一二杯を過ごして毛布をかぶつたまゝ机に凭れてとろ〳〵とする。ふと目がさめて見るとうすら寒い。時計を見ると八時過ぎだ。二時間程もうたゝ寝をしたらしい。昨日に引きかへ今日は広い宿ががらんとして居る。客は余一人ぎりと見える。静な夜だ。耳を澄ますと二処程で筬をさの音がして居る。
一つの方はカタン〳〵と冴えた筬の音がする。一つの方はボツトン〳〵と沈んだ音がする。其二つの音がひつそりした淋しい夜を一層引き締めて物淋しく感ぜしめる。初め其筬の音は遠い様に思つたがよく聞くと余り遠くでは無い。余は夢の名残りを急須の冷い茶で醒ましてぢつと其二つの音に耳をすます。
蛙かはづの声もする。はじめ気がついた時は僅に蛙の声かと聞き分くる位のひそみ音であつたが、筬の音と張り競ふのか、あまたのひそみ音の中に一匹大きな蛙の声がぐわアとする。あれが蛙の声かなと不審さるゝ程の大きな声だ。昼間も燈心草の田で啼いてゐたがあんな大きな声のはゐなかつた。夜になつて特に高く聞こえるのかも知れぬ。一匹其大きなのが啼き出すと又一つ他で大きなのが啼く。又一つ啼く。しまひには七八匹の大きな声がぐわア〳〵と折角の夜の寂寥を攪き乱すやうに鳴く。其でも蛙の声だ。はじめひそみ音の中に突如として起こつた大きな声を聞いた時は噪がしいやうにも覚えたが、其が少し引き続いて耳に慣れると矢張り淋しいひそみ音の方は一層淋しい。気の勢か筬の音もどうやら此蛙の声と競ひ気味に高まつて来る。カタン〳〵といふ音は一層明瞭に冴えて来る。ボツトン〳〵といふ音は一層重々しく沈んで来る。
お髪サンが床を延べに来る。
﹁旦那はん毛布なんかおかぶりやして、寒むおまつか﹂
﹁少しうたゝねをしたので寒い。それに今晩は馬鹿に静かだねえ。お道さんは来ないのかい﹂
﹁今晩は来やはりまへん。そら今筬の音がしてますやろ、あれがお道はんだすがな﹂
﹁さうかあれがお道さんか﹂
と余は又筬の音に耳を澄ます。前の通り冴えた音と沈んだ音とが聞こえる。
﹁二処でしてゐるね。其に音が違ふぢやないか。お道さんの方はどちらだい﹂
﹁そらあの音の高い冴え〳〵した方な、あれがお道さんのだす﹂
﹁どうしてあんなに違ふの。機が違ふの﹂
﹁機は同じ事こつたすけれど、筬が違ひます。音のよろしいのを好く人は筬を別段に吟味しますのや﹂
余は再び耳を澄ます。今度は冴えた音の方にのみ耳を澄ます。カタン〳〵と引き続いた音が時々チヨツと切れる事がある。糸でも切れたのを繋ぐのか、物思ふ手が一寸とまるのか。お髪サンは敷布団を二枚重ねて其上に上敷きを延べながら、
﹁戦争の時分はナア、一機の織り賃を七十銭もとりやはりましてナア、へえ繃帯にするのやさかい薄い程がよろしまんのや。其に早く織るものには御褒美を呉りやはつた。其時分は機もよろしうおましたけど、もう此頃はあきまへん。へーへあんたはん一機二十五銭でナア、一機といふのは十反かゝつてるので、なんぼ早うても二日はかゝります﹂
お髪サンは聞かぬ事まで一人で喋舌る。突然筬の音に交つて唄が聞こえる。
﹃苦労しとげた苦しい息が火吹竹から洩れて出る﹄
﹁お道さんかい﹂
と聞くと、
﹁さうだす。えゝ声だすやろ﹂
とお髪サンがいふ。余は声のよしあしよりもお道サンが其唄をうたふ時の心持を思ひやる。
﹁あれでナア、筬の音もよろしいし唄が上手やとナア、よつぽど草臥れが違ひますといナ﹂
﹁あんな唄をうたふのを見るとお道サンもなか〳〵苦労してゐるね﹂
﹁ありや旦那はん此辺の流行唄だすがナ、織子といふものはナア、男でも通るのを見るとすぐ悪口の唄をうたうたりナア、そやないと惚れたとかはれたとかいふ唄ばつかりだす﹂
俄に男女の声が聞こえる。
﹁どこへ行きなはる﹂
﹁高野へお参り﹂
﹁ハヽア高野へ御参詣か。夜さり行きかけたらほんまにくせや﹂
﹁お父つはんはもう寝なはつたか﹂
﹁へー休みました﹂
高野へ参詣とは何の事かと聞いて見たら、
﹁はゞかりへ行くことをナア、此辺ではおどけてあないにいひまんのや﹂
とお髪サンは笑つた。よく聞くと女の声はお道サンの声であつた。男の声は誰ともわからぬ。長屋つゞきの誰かであるらしい。
筬の音が一層高まつて又唄が聞こえる。唄も調子もうき〳〵として居る。
﹃鴉啼迄寝た枕元櫛の三日月落ちて居る﹄
お髪サンは床を延べてしまつて、机のあたりを片づけて、火鉢の灰をならして、もうラムプの火さへ小さくすればよいだけにして、
﹁お休みやす。あまりお道サンの唄に聞きほれて風邪引かぬやうにおしなはれ﹂
と引下る。
酒も醒めて目が冴える。筬の音を見棄てゝ此儘寝てしまふのも惜しいやうな気がする。昼間書きさして置いた報告書の稿をつぐ。ふと気がつくといつの間にやら筆をとゞめて、きのふのお道サンの喋舌つた事や、今日塔から見下ろした時の事やを回想しつゝ筬の音に耳を澄まして居る。又唄が聞こえる。
﹃大分世帯に染しゆんでるらしい目立つ鹿の子の油垢﹄
調子は例によつてうき〳〵として居るが、夜が更けた勢かどこやら身に入むやうに覚える。これではならぬと更に稿をつぐ。
終に暫くの間は筬の音も耳に入らぬやうになつて稿を終つた。今日で取調の件も終り、今夜で報告書も書き終つた。がつかりと俄に草臥れた様に覚える。
火を小さくして寝衣になつて布団の中に足を踏み延ばす。筬の音はまだ聞こえて居る。忘れてゐたが沈んだ方のもまだ聞こえて居る。
眠るのが惜しいやうな気がしつゝうと〳〵とする。ふと下で鳴る十二時の時計の音が耳に入つたとき気をつけて聞いて見たら、沈んだ方のはもう止んでゐたが、お道サンの筬の音はまだ冴え〳〵として響いてゐた。