巣鴨菊

正岡容




 廿
 
 
 西西()()()()()西()()179-3()()()179-3
 西
 


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()()()()()()※(「木+越」、第3水準1-86-11)()()()()
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()湿()()()※(「さんずい+艶」、第4水準2-79-53)()()()()※(「木+越」、第3水準1-86-11)()()()


のごときである。今日、江戸川に架せられてゐる小橋の一つに小桜橋の名の存するのは、正しく花の名所であつた往時の遺香と云つていい。次にこの辺りの掃ふ可き墓石としては先づ、小日向水道町称名寺に「花暦八笑人」「滑稽和合人」の作者滝亭鯉丈の墳墓がある。台石に池田の二字が緑青いろに刻まれてゐて、十年以前、掃墓したときにはいま尚遺族の参詣は絶えないと云ふことであつた。また関口町の蓮光寺。音羽の電車通りを西折したところには、喇叭の円太郎と做ばれた四代目橘家円太郎の墓がある。此は台石に三遊連と朱書されてゐるところを見ると、往昔全盛を誇つた三遊派の同僚花形たちはこの明治開化一代の人気者のために金円を投じ合つて墓表を建立したものかも知れない。私は故野村無名庵君によつてこの墓の存在を教へられ、拙作「円太郎馬車」上演に際しては春曇の午前、古川緑波、高尾光子、斎藤豊吉の諸君と共に香華を手向けたことを忘れない。四世円太郎、本名石井菊松、明治卅一年十一月四日卒、戒名は円立院花橘日松信士である。さらに江戸川公園裏手なる目白坂永泉寺は五代目桂文治(先々代)及び二世蝶花楼馬楽(もりさだの馬楽)の菩提所であり、同じく関口駒井町大泉寺にはよかちよろの遊三の墓があると聞くがいづれも未だ私は掃つてゐない。
 小石川伝通院の北方宅蔵司稲荷祠畔も亦今次の火に襲はれて亡びたであらう。私は、あの境内の風致や本郷台と相対する眺望もさることながら、伝通院前電車通りに戦争開始前後まで業を営んでゐた狐そばの由来、即ち宅蔵司の眷属たる一匹の狐が屡々この店の蕎麦を求めに行き、後世狐そばの名をのこしたと云ふ市井の伝説にむしろロマンティックな感興をおぼえてゐる。盲目の小せんが落語「白銅」の中で云々した蒟蒻閻魔は、この坂下を春日町の通りへと急ぐ右横にあつて、朱のいろ褪せた荒廃の堂宇、無限の詩趣を醸してゐたが、この閻魔堂も亦烏有に帰したであらうこと云ふまでもない。しかしながら後方の丘上、明治開化当時宛らの瓦斯燈一基を門前に、頗る明治風の構へを持つた下宿屋が存してゐたが、此は幸ひにも今次の災禍を免れたと云ふ。としたら、この現存の下宿屋並びに瓦斯燈こそ明治文明の生形見として、永世、東京都は保護保存す可きであらうと私は声を大にして叫び度いのである。安藤坂牛天神の境内には貧乏神を祀つた淫祠があつたと嘗て私はこの辺に住した安藤鶴夫君から聞かされたことがある。故桃川若燕、現下の門葉東燕が演ずる「蝮の於政」には、牛天神の社内で謎の密書と指輪とを拾ふ泰西の探偵小説めいた譚があつたと記憶してゐる。狂馬楽また「春雨や牛天神の女坂」なる詠をのこしてゐるし、最近に至つては永井先生の「問はずがたり」がこの境内をよく描いてゐる。
 さう云へば先生はこの牛天神から程遠からぬ小石川金富町に生誕されたためであらうじつに屡々この辺りを材としてかいてゐられる。嘗ての「伝通院」及び近業「来訪者」中の「冬の夜がたり」みな/\先生幼少の日の御自邸やその近隣の追憶ならぬはない。「浮沈」の女主人公さだ子が一とたび嫁ぐ小石川の辰野邸は恐らくや先生生家の光景をそのまゝ借用されたものであらうし、婚家の母堂の基督教信者たることまた自づと先生御母堂のありし日のお姿が紙上再現されて来たものと見てよからう。「浮沈」と「冬の夜がたり」とを比べ見た者ならば、何人と雖も私のこの妄説に賛意を表して呉れるであらう。「荷風日暦」には兵火直前の秋日生家附近を散策されて、
ふるさとは巣鴨に近し菊の花
の一句を吟じられたことなども記載されてゐる。この金富町から電車通りを竹早町の方へと対つて北へ下りた左側に、此又果而空爆の厄を免れたかどうか路傍西側にいかにも古風に彫りの深い「極楽水」なる石標があつた。極楽水は「ごくらくみづ」と訓まれ三村竹清氏の『江戸地名字集覧』には、この極楽水、「小石川久堅町」の謂とある。極楽水には、新舞踊の道にいそしむ松賀流家元松賀緑さんが住してゐられたが、戦後、私たちの住むこの東葛飾のお医者某氏へ嫁がれてどうやら舞踊はそのまゝ廃されてしまつたものらしい。
 荊妻の家元となつた花園流は極めて昨今の創始であるが、洋舞と日本舞踊の微妙な近代化、誰にも分つて低俗に堕さぬ大衆舞踊の創作、童幼に恋愛ものを教へぬことをモットーに、流派の繁栄に春美、桜と一門を挙げて挺身してゐるが、松賀流は私たちの浅い歴史とは全く段ちがひの江戸聯綿の流派であつて、先年水谷八重子拙作「久米八桜」劇化の砌りも東劇休憩室に飾られた九女八参考資料の中には、明治初年、松賀流繁栄を示したびら風のものなど見かけられた。聞説く、松賀緑さんは嘗て嘱されて他流から松賀流家元を継がれたお仁である由。とすれば同女は至急適当の後継を求めて此に松賀流を永遠に保存さす可きであらう。一個人としての松賀女史が家庭人になつて舞扇を裂き、厨房に魚介を煮るのは自由であるが、卑しくも流祖としての責任をそのまゝに放棄してしまつて、松賀流幾春秋の歴史を闇から闇へと葬り去つてしまふことは些か穏やかでない。切に松賀旧家元再考をば促し度いところである。

(昭和廿二年七月記)






底本:「東京恋慕帖」ちくま学芸文庫、筑摩書房
   2004(平成16)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「東京恋慕帖」好江書房
   1948(昭和23)年12月20日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2016年3月4日作成
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JIS X 0213

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「月+矣」の「矢」に代えて「天」    179-3、179-3


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