死生の説
孟子曰ク。殀エウ壽不レ貳ウタガハ。修メテレ身ヲ以俟ツレ之ヲ。所二以立ツル一レ命ヲ也。︵盡心上︶
殀壽は命の短きと、命の長きと云ふことなり。是が學者工くふ夫う上の肝かん要なる處。生死の間落おち着つき出來ずしては、天性と云ふこと相分らず。生きてあるもの、一度は是非死なでは叶かなはず、とりわけ合がて點んの出來さうなものなれども、凡そ人、生を惜み死を惡む、是皆思慮分別を離れぬからのことなり。故に慾心と云ふもの仰ぎよ山うさん起り來て、天理と云ふことを覺さとることなし。天理と云ふことが慥たしかに譯わかつたらば、壽殀何ぞ念ねんとすることあらんや。只今生れたりと云ふことを知て來たものでないから、いつ死ぬと云ふことを知らう樣がない、それぢやに因つて生と死と云ふ譯わけがないぞ。さすれば生きてあるものでないから、思慮分別に渉ることがない。そこで生死の二つあるものでないと合がて點んの心が疑はぬと云ふものなり。この合點が出來れば、これが天理の在り處にて、爲すことも言ふことも一つとして天理にはづることはなし。一身が直ぐに天理になりきるなれば、是が身修ると云ふものなり。そこで死ぬと云ふことがない故、天命の儘まゝにして、天より授かりしまゝで復かへすのぢや、少しもかはることがない。ちやうど、天と人と一體と云ふものにて、天命を全まつたうし終をへたと云ふ譯なればなり。
︵按︶右は文久二年冬、沖永良部島牢居中、孟子の一節を講じて島人操坦勁に與へたるものにて、今尚ほ同家に藏す。
一家親睦の箴いましめ
翁、遠島中、常に村童を集め、讀書を教へ、或は問を設けて訓育する所あり。一日問をかけて曰ふ、﹁汝等一家睦むつまじく暮らす方法は如何にせば宜しと思ふか﹂と。群童對こたへに苦しむ。其中尤も年長たけたる者に操みさを坦勁と云ふものあり。年十六なりき。進んで答ふらく、﹁其の方法は五倫五常の道を守るに在ります﹂と。翁は頭を振ふつて曰ふ、否いな々〳〵、そは金きん看かん板ばんなり、表うは面べの飾かざりに過ぎずと。因つて、左の訓言を綴つゞりて與へられたりと。
此の説き樣は、只當あたり前の看板のみにて、今日の用に益なく、怠たい惰だに落ち易し。早さつ速そく手を下すには、慾よくを離るゝ處第一なり。一つの美味あれば、一家擧げて共にし、衣服を製つくるにも、必ず善きものは年長者に讓ゆづり、自じぶ分んが勝つ手てを構かまへず、互に誠を盡すべし。只慾よくの一字より、親戚の親したしみも離るゝものなれば、根こん據きよする處を絶たつが專せん要なり。さすれば慈愛自然に離れぬなり。
書物の蠧むしと活くわ學つが問くもん
明治二年、翁は青年五人を選び、京都の陽明學者春かす日がせ潜んあ庵んの門に遊學せしむ。五人とは伊い瀬せ知ぢ好成︵後の陸軍中將︶、吉田清一︵同上︶、西郷小兵衞︵翁の弟︶、和田正苗、安藤直五郎なり。其時翁は吉田に告げて曰ふ。
貴きさ樣ま等は書物の蠧むしに成つてはならぬぞ。春かす日がは至つて直ちよくな人で、從つて平生も嚴げんな人である。貴樣等修業に丁ちや度うど宜しい。
と、又伊瀬知に告げて曰ふ。
此からは、武術許ばかりでは行けぬ、學問が必要だ。學問は活いきた學問でなくてはならぬ。其れには京都に春日と云ふ陽明學者がある、其處に行つて活きた實用の學問をせよと。
私學校綱かう領りやう
一 道を同 し義相協 ふを以て暗 に集合せり、故に此理を益研究 して、道義に於ては一身を不レ顧ミ、必ず踏 行ふべき事。
一 王を尊び民を憐 むは學問の本旨。然らば此天理を極め、人民の義務にのぞみては一向 難 に當り、一同の義を可キレ立ツ事。
(按)翁の鹿兒島に歸るや、自分の賞典祿を費用に當てゝ學校を城山の
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で表しました。