遺牘

西郷隆盛




     東上初年の消息

東湖訪問心中清淨・櫻任藏豪傑・丈夫と呼ばる・逸散駈付・江戸風に染まず
尚々藏方くらかた目付替御座候處、何となく被肝煎きもい候口氣、伊十院有之、誠に可笑事に御座候。

便()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()廿()()()()()便()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()廿()()()()()()()()()
  廿
西郷善兵衞(後吉兵衞又吉之助に更む
 椎原與右衞門樣
 椎原權兵衞樣
 追而十右衞門方へ申越候趣も御座候間、御高覽可下候。

(按)安政元年、翁二十八歳、中小姓を以て三月藩主齊彬公に扈從して始て江戸に出づ。四月樺山三圓と小石川水戸邸に赴き、始て藤田東湖に面見す。其後數々往て時事を談じ、大に其人物を推尊す。又同藩士櫻任藏にも推服する所あり。此書簡は、其當時母方の叔父椎原兄弟に寄せたものにて、椎原國雄所藏す。


     主家悲報

大變到來・太守父子一病一死・怒髮冠を衝く・不動祠祈願・奸女を倒す・身命塵埃・死の妙所・生の苦
尚々御賢父樣御元氣の筈、宜しく御傳へ可下候。
()()宿()()()()()()()()()()()()()殿()廿()()()()()()()()()()()()()()()()()()()殿
  
西郷善兵衞
 福島矢三太樣

(按)翁の始て江戸に出づるや、四月庭方役となり、屡々齊彬公に謁し意見を陳述す。六月公疾あり、閏七月世子虎壽丸夭折す、呪詛或は毒殺の風説あり。翁は樺山三圓・有村俊齋等と大に憤慨す。此書牘は其當時在藩の同志に寄せたるものなり。福島矢三太は翁が大久保・有村の諸士と伊東猛右衞門に從うて陽明學を修めし同志の一人なり。早く歿したるを以て名を成すに及ばざりき。


     東湖震死の報

杖とも柱とも・何事も此れ限り
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西郷吉之助
 大久保一藏樣

(按)安政二年十月二日江戸大地震あり。藤田東湖震死す。右は此時の書信に係る。鹿兒島市川上四郎兵衞所藏す。


     獄中の消息

英艦來襲・君を思ひ祖母を懷ふ・無鳥郷の蝙蝠・學者の鹽梅にて可笑し・學問は御蔭にて上る
尚々御煙草御惠投被成下、難有御厚禮申上候。
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大島吉之助
 椎原與三次樣
 椎原權兵衞樣

(按)右は元治元年正月、沖永良部島より、鹿兒島なる叔父椎原兄弟に贈りたる新年賀状にして、椎原國雄所藏す。


     亡父の借金返濟

陛下供奉鹿兒島着の翌日・舊恩感謝・貳百金返辨
()()()()()()()()()()()※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)()()()()()()()()()()()()()()()()()()調()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()
  廿
西郷吉之助
 板垣與三次樣

(按)右は明治四年上京して木戸孝允と共に參議に任ぜられ、翌五年明治天皇に供奉して二十二日鹿兒島に還る。其翌二十三日を以て亡父數十年前の舊借金を返辨したるものなり。板垣は北薩川内せんだいの富豪なり。此書鹿兒島倉内十介の所藏に係る。


     病中消息

持病不治・主上名醫御遣・兎狩劒術角力・獨逸強國
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西郷吉之助
 椎原與右衞門樣







西
   193914221
   19856022026
西
   19391422
5-86


2008710
2008811

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JIS X 0213

JIS X 0213-


「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」    94-4