荷風翁の發句

心猿





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 初て玉の井の路地を歩みたりしは昭和七年の正月堀切四ツ木の放水路提防を歩みし歸り道なり。其時には道不案内にてどの邊が一部やら二部やら方角更にわからざりしが先月來屡散歩し忘備のため略圖をつくり置きたり。路地内の小家は内に入りて見れば……。
 ※(「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1-87-25)稿
 U+2968524-15
 
 
 
 ※(「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1-87-25)
 
 
 西
 調姿
 


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 ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
 わたくしは夏草をわけて土手に登つて見た。眼の下には遮るものもなく、今歩いて來た道と空地と新開の町とが低く見渡されるが、土手の向側は、トタン葺の陋屋が秩序もなく、端しもなく、ごた/\に建て込んだ間から湯屋の烟突が屹立して、その頂きに七八日頃の夕月が懸つてゐる。空の一方には夕榮の色が薄く殘つてゐながら、月の色には早くも夜らしい輝きができ、トタン葺の屋根の間々からはネオンサインの光と共にラヂオの響が聞え初める。
 





 


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 二階の窓から改正道路を斜に見おろした寫眞に題す。
 窓のすぐ下は日覆の葭簾に遮られてゐるが、溝の向側に並んだ家の二階と、窓口に坐つてゐる女の顔、往つたり來たりする人影、路地一帶の光景は案外遠くの方まで見通すことができる。屋根の上の空は鉛色に重く垂下つて、星も見えず、表通のネオンサインに半ば空までも薄赤く染められているのが、蒸暑い夜を一層蒸暑くしてゐる。
 


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 年は二十四五になつてゐるであらう。なか/\いゝ容貌である。鼻筋の通つた圓顔は白粉焼がしてゐるが、結立の島田の生際もまだ拔上つてはゐない。黒目勝の眼の中も曇つてゐず脣や歯ぐきの血色を見ても、其健康はまださして破壞されて居ないやうに思はれた。
 夕立を秋晴としたところに、技巧がひときはあざやかである。爽やかな秋の日ざしの中に、顏の皺ばかりか、おしろいに汚れた人絹の半衿までが、眼に見えるやうに描かれてゐる。

ばしらのくづるゝかたや路地ろじの口

 路地は「ぬけられます」の、あの迷宮のことである。育ちのいゝ讀者のために、寺じまの記を拔萃しておく。
 
 
 
 


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 駿滿
 


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「目あかし」は江戸町奉行の手先、土地の顏役などで捕吏に便宜を與へる者である。刑事またはデカなどと云はないところに、談林風のをかしみがある。さらに前句を朦朧運轉手、この句を捕物の前奏と考へれば、なほさら興があらう。どうやら、この歌仙も名殘の裏あたりに入つたやうだ。
……晩餐の後淺草より玉の井に往く。路地の内なる或家に立寄るに、昨夜お尋者この土地に入り込みし樣子なりとて私服の刑事客にまじり張り込み居る故用心せらるべしと云ふ。
 右の昭和十一年五月の日記と、次の綺譚の一節を對照してみるのも面白い。

 
 犯人捜査にあたつて、先づ遊里を一通り洗ふきめ手は、今でも全く江戸の昔と變らない。


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 使
 姿調


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 姿調
 
 物に追はれるやうな此心持は、折から急に吹出した風が表通から路地へ流れ込み、あち等こち等へ突當つた末、小さな窓から家の内まで入つて來て鈴のついた納簾の紐をゆする。其音につれて一しほ秋も深くなつたやうに思はれた。其音は風鈴賣が櫺子窓の外を通る時ともちがつて、此別天地より外には決して聞かれないものであらう。夏の末から秋になつても、打續く毎夜のあつさに今まで全く氣のつかなかつただけ、その響は秋の夜もいよいよまつたくの夜長らしく深けそめて來た事を、しみ/″\と思ひ知らせるのである。氣のせゐか通る人の跫音も靜に冴えそこ等の窓でくしやみをする女の聲も聞える。
 以上で※(「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1-87-25)東綺譚私家版の句の私解を終る。





 
   19573224
 
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調


2020328

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JIS X 0213

JIS X 0213-


「飲のへん+卜」、U+29685    24-15


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