一
身をせめて深く懺ざん悔げするといふにもあらず、唯臆おく面めんもなく身の耻とすべきことどもみだりに書きしるして、或時は閲えつ歴れきを語ると号し、或時は思出をつづるなんぞと称となへて文を売り酒沽かふ道に馴れしより、われ既にわが身の上の事としいへば、古き日記のきれはしと共に、尺しゃ八くはち吹きける十六、七のむかしより、近くは三味線けいこに築つき地じへ通ひしことまでも、何のかのと歯の浮くやうな小理窟つけて物になしたるほどなれば、今となりてはほとほと書くべきことも尽き果てたり。然るをなほも古き机の抽ひき斗だしの底、雨漏る押おし入いれの片隅に、もしや歓かん場じょう二十年の夢の跡、あちらこちらと遊び歩きし茶屋小屋の勘定書、さてはいづれお目もじの上とかく売ばい女じょが無心の手紙もあらばと、反ほ古ごさへ見れば鵜うの目鷹の目。かくては紙かみ屑くず拾ひろいもおそれをなすべし。 つらつらここにわが売文の由来を顧み尋たずぬるにわれ始めて小説の単行本といふもの出いだせしはわが友巴はさ山んじ人ん赤木君の経営せし美育社なり。数ふれば早はや十七年のむかしとなりぬ。巴山人は早稲田出身の文士にて漣さざなみ山人門下の秀才なりしが明治三十四年同門の黒田湖こざ山んと相あい図はかり麹こう町うじ三まち番さん町ばんちょう二七不動のほとりに居をかまへ文学書類の出版を企てき。その頃文学小説の出版としいへば殆ど春陽堂一手の専門にて作家は紅こう葉よう露ろは伴んの門下たるにあらずんば殆どその述作を公おおやけにするの道なかりしかば、義侠の巴山人奮然意を決してまづわれら木曜会の気勢を揚げしめんがために貲しを投じ美育社なるものを興し月刊雑誌﹃饒じょ舌うぜつ﹄を発行したり。﹃饒舌﹄は寸鉄かへつて人を殺すに足るとて三十二頁の小冊子とし、黒田湖山主筆となりて毎号巻頭に時事評論を執筆し生いく田たき葵ざ山んとわれとは小説を掲げ西にし村むら渚しょ山ざんは泰西名著の翻訳を金かね子こし紫そ草うは海外文芸消息を井いの上うえ唖あ々あは俳句と随筆とを出しぬ。これと共に美育社は青年小説叢書と題してまづ生田葵山の小説﹃自由結婚﹄次に余の拙著﹃野心﹄西村渚山の﹃小こま間づか使い﹄黒田湖山の﹃大学攻撃﹄等を出版し、また星ほし野のば麦くじ人んをして﹃古ここ今ん俳句大観﹄四巻を編纂せしめき。翌年美育社ますます業務を拡張し神かぐ楽らざ坂かう上えて寺らま町ちど通おりに書籍雑誌の売うり捌さば店きてんをも出せしが突然社主赤木君故ありてその郷里に帰らざるべからざるに及び、惜しい哉かな事皆中絶するに至りぬ。雑誌﹃饒舌﹄は湖山一いち人にんの手に残りて﹃ハイカラ﹄と改題せられしが気焔また既往の如ごとくなる能あたはず幾いく何ばくならずして廃刊しき。 これより先さき生田葵山書しょ肆し大学館と相知る。主人岩崎氏を説いて文学雑誌﹃活かつ文ぶん壇だん﹄を発行せしめ、井上唖々と共に編へん輯しゅうのことを掌つかさどりぬ。﹃活文壇﹄は木曜会同どう人じんの作を発表するの傍かたわら汎ひろく青年投書家の投書を歓迎して販売部数を多からしめんことを試みたり。然れども当時この種の投書雑誌には小こじ島まう烏す水い子の﹃文庫﹄、田たぐ口ちき掬くて汀い氏の﹃新声﹄等とうその勢力甚はなはだ盛なるあり。新刊の﹃活文壇﹄は再三上野三さん宜ぎて亭いに誌友懇談会を開き投書家を招待し木曜会の文士交こも文芸の講演を試むる等甚勉つとむる処ありしが、書しょ肆し早くも月々の損失に驚き文学を疎うとんじて赤あか本ほんを迎へんとするに至つて﹃活文壇﹄は忽ち廃刊となりき。 ここに本町一丁目の金きん港こう堂どう明治三十五年の頃突然文学婦人少年等の諸雑誌並ならびに小説書類の出版を広告して世の耳じも目くを驚かせしことあり。金港堂といへば人に知られし教科書々類の版はん元もとなり。この書肆の資金を以て文芸その他諸雑誌の発行に着手せんかこれまで独ひと天りて下んかの春陽堂博文館ともどもに顔がん色しょくなからんとわれ人ひと共に第一号の発刊を待ちかねたり。やがて現はれたるものを見れば文学雑誌はその名を﹃文芸界﹄と称し佐さっ々させ醒いせ雪つを主筆に平ひら尾お不ふ孤こ草くさ村むら北ほく星せい斎さい藤とう弔ちょ花うかの諸子を編輯員とし巻首にはたしか広ひろ津つり柳ゅう浪ろう泉いず鏡みき花ょうからの新作を掲げたり。されどこれらの新作さして評壇の問題とならず雑誌はまた徒いたずらに尨大なるのみにて一貫せる主張といふものなく甚締りなしとの非難ありき。されば従来の﹃文芸倶楽部﹄と﹃新小説﹄、依然として一は通俗的に一は専門的なる本来の面目を把は持じして長く雑誌界に覇をとなへ得たり。 金港堂の﹃文芸界﹄は第一号の発刊と共に賞を懸けて長篇小説を募集しぬ。敢て選者の名を公おおやけにせざりしかど醒雪子以下同誌編輯の諸子なりしや明なり。余が﹃地獄の花﹄とよべるいかがはしき拙作はこの懸賞に応募したるもの。選に入ること能あたはざりしが編輯諸子の認むる所となり単行本として出版せらるるの光栄を得たるなり。原稿料この時七十五円なりき。さてこの折選に入りしもの一等に米よね光みつ関かん月げつの﹃千せん石ごく岩いわ﹄二等に斎さい藤とう渓けい舟しゅうの﹃残ざん菊ぎく﹄、田口掬汀の某作等ありしと記憶す。これらの作家皆功成り名遂げて早くも文壇を去りしに、思へばわれのみ唯一人今に浮身を衆しゅ毀うきの巷ちまたにやつす。哀むに堪へたりといふべし。 懸賞小説といへばその以前より毎週﹃万よろ朝ずち報ょうほう﹄の募集せし短篇小説に余も二、三度味をしめたる事あり。選者は松まつ居いし松ょう葉よう子なりしともいひまた故人斎さい藤とう緑りょ雨くうなりしといふものもありき。応募者には知名の大家折々小こづ遣かい取とりにいたづらするもの多かりし由。当時懸賞小説さまざまありしが中なかに﹃万朝報﹄の短篇最もすぐれたるを見ればかかる噂もまんざらの根なしごとにはあらざりしが如し。 金港堂より単行本出せし後はどうやらかうやらわれも新進作家の列に数へ入れらるるやうになりぬ。たしか明治三十六年の春なりしと覚ゆ。新俳優伊いい井よう蓉ほ峰う小こじ島まふ文み衛えの一座市いち村むら座ざにて近ちか松まつが﹃寿ねび門きの松かどまつ﹄を一番目に鴎外先生の詩劇﹃両ふた浦りう島らしま﹄を中なか幕まくに紅葉山人が﹃夏なつ小こそ袖で﹄を大おお喜ぎ利りに据ゑたる事あり。またこの一座この度の興行にはわれらの知友たりし畠はた山けや古まこ瓶へいといへる早稲田出身の文士、伊井の弟子となり初めて舞台へ出づべしといふに、いささか気勢を添へんものと或日風ふう葉よう葵きざ山ん活かっ東とうの諸子と共に、おのれも市村座に赴きぬ。あたかも好よしその日は与よさ謝のて野っ鉄か幹ん子を中心とせる明みょ星うじょう派の人々﹃両浦島﹄を喝かっ采さいせんとて土間桟敷に集れるあり。幕いよいよ明かんとする時畠山古瓶以前は髯むぢやの男なりしを綺麗に剃りて羽はお織りは袴かまの様子よく幕外に出でうやうやしく伊井一座この度鴎外先生の新作狂言上じょ場うじょうの許ゆるしを得たる光栄を述べき。一幕二場演じをはりてやがて再び幕となりし時、わが傍かたわらにありける某子突然わが袖をひき隣れる桟敷に葉巻くゆらせし髭ある人を指してあれこそ森先生なれ、いで紹介すべしとて、わが驚きうろたへるをも構はずわれを引き行きぬ。われ森先生の謦けい咳がいに接せしはこの時を以て始めとす。先生はわれを顧かえりみ微笑して﹃地獄の花﹄はすでに読みたりと言はれき。余文壇に出でしよりかくの如き歓喜と光栄に打たれたることなし。いまだ電車なき世なりしかどその夜よわれは一人下した谷やよりお茶の水の流にそひて麹町までの道のりも遠しとは思はず楽しき未来の夢さまざま心の中うちにゑがきつつ歩みて家に帰りぬ。 かくて﹃文芸界﹄をはじめ﹃新小説﹄﹃文芸倶楽部﹄なぞに原稿を持ち行きても三度に一度はしぶしぶながら買つてくれるやうになりぬ。されど原稿は三月半年と買はれたるまま公おおやけにせられざれば、売名にのみ心あせるものの長く堪たふべき所ならず。ここに詩人蒲かん原ばら有あり明あけ子新声社の主人と相知れる由よしを聞き子を介して新声社に赴おもむき﹃夢の女﹄と題せし一作三百枚ほど持てあましたるものをば原稿料は無用なればとて、ここに再び単行本一冊を出版したり。新声社は即すなわちいまの新潮社が前名にて当時は神かん田だに錦しき町ちょう区役所の横手にささやかなる店をかまへゐたり。この一書さして版元の損にもならざりしと見えつづいて﹃女優ナナ﹄の出版にこたびは原稿料三拾円を得たり。これ明治三十六年初夏のことにてその年の秋虫の声やうやく繁くなり行く頃われはふと亜ア米メ利リ加カに渡りぬ。 わが売文のむかしがたりの中うちここに書かき漏もらせしはやまと新聞社に雇はれ雑報とつづきもの書きて月々拾弐円を得しことなり。そは明治三十四年なりしと覚ゆ松下某といふ人やまと新聞社を買取り桜おう痴ち居こ士じを主筆に迎へしよりその高弟榎えの本もと破はり笠ゅう従つて入社しおのれもまた驥き尾びに附しけるなり。その時まで一年ほどわれは既に人にも語りし如く桜痴居士の門弟となり歌舞伎座にて拍子木打ちてゐたりしが、今の歌うた右え衛も門ん福助より芝しか翫んに改名の折から小こも紋んの羽はお織り貰ひたるを名残りとして楽屋を去り新聞記者とはなりぬ。過ぎしことなれば身の耻語りついでに語り出せば楽屋通ひよりまたまた二、三年前のことなり。われ講釈と落語に新しき演劇風の朗読を交へ人にん情じょ咄うばなしに一新機軸を出いださんとの野心を抱き、その頃朝寝坊むらくと名乗りし三遊派の落語家の弟子となりし事もあり。当今都下の席亭にむらくと看板かかぐるものはその頃の人とは同じからずといふ。 余のやまと新聞社に入いりし時三面雑報欄を受持ゐたるは採さい菊ぎく山さん人じんと岡おか本もと綺きど堂う子なりき。採菊山人は即すなわち山さん々さん亭てい有あり人んどにして仮かな名がき垣ろ魯ぶ文んの歿後われら後学の徒をして明治の世に江戸戯作者の風貌を窺うか知がいしらしめしもの実にこの翁一いち人にんありしのみ。さればわれ日にち々にち編輯局に机を連ねて親しくこの翁の教を受け得たる事今にして思へばまことに涙こぼるる次第なり。岡本綺堂子はその頃頻しきりにユーゴー、ヂュマなぞの伝奇小説を読まれゐたり。子は半蔵門外に居を構へおのれは一番町なる父の家いえに住みければ新聞社の帰途堀端を共に語りつつ歩みたる事度々なりき。子はその頃より甚はなはだ謹厳寡かげ言んの人なりき。 日ひ比び谷やには公園いまだ成らず銀ぎん座ざど通おりには鉄道馬車の往ゆき復きせし頃尾おわ張りち町ょうの四よつ角かど今ライオン珈コー琲ヒー店てんある辺あたりには朝ちょ野うや新聞中央新聞毎日新聞なぞありけり。やまと新聞社は銀座一丁目の横町いま見る建物なりしかば、表通岩いわ谷やて天ん狗ぐの煙草店に雇われたる妙齢の女おん店なて員んいんいつもこの横町に集りて緋ひの蹴け出だしあらはにして頻しきりに自転車の稽古するさま折々目の保養となりしも既に過ぎし世のこととぞなりぬる。女の自転車と馬乗りとはその頃の流行なりしにや吉よし原わら品しな川がわ楼ろうの抱かかえが和わぐ鞍らに乗りての遊ゆさ山んまた新しん橋ばし芸げい者しゃが自転車つらねて花見に出かけし噂なぞかしましき事ありけり。 さてわが新聞記者たりしもわづか半はん年としばかり社員淘汰のためとやらにて突然解雇の知らせを得たり。わが記者たりし時世に起りし事件にていまに記憶するは星ほし亨とおるの刺せっ客かくに害せられし事と清きよ元もとお葉ようの失せたりし事との二つのみ。新聞記者をやめたる後は再びもとの如く歌舞伎座の楽屋に入いらん事を冀こいねがひしかど敬して遠とおざけらるるが如くなりしかばここに意を決し志を改めて仏フラ蘭ン西ス語稽古にと暁ぎょ星うせい学校の夜学に通ひ始めぬ。巴山湖山両子の美育社を興せしはあたかもこの年の秋なれば話の順序ここにて初めに立戻るものと知るべし。 ﹃あめりか物語﹄は明治四十年紐ニュ育ウヨウクより仏蘭西に渡りし年の冬里リオ昂ン市ヴァンドオム町まちのいぶせき下宿屋にて草稿をとりまとめ序文並に挿絵にすべき絵葉書をも取揃へ市立美術館の此こな方たなる郵便局より書留小包にして小さざ波なみ先生のもとに送り出版のことを依頼したるなり。この稿料いかほどなりしか記憶せず。翌よく年ねん秋帰国せし時﹃あめりか物語﹄は既に市いちに出でゐたりき。われは直ただちに仏蘭西滞在中及び帰航の船中にものせし草稿を訂正し﹃ふらんす物語﹄と名づけ前著出版の関係よりして請こはるるままに再び博文館より出版せしめしが忽ち発売禁止の厄やくに会ひてこれより出版書肆との談判甚はなはだ面倒になりけり。わが方かたにては最初出版契約の際受取りたる原稿料金百弐拾五円を返済すべしと申送りしを博文館にてはそれだけにてはこの損失はつぐなひがたし出版契約書の第何条とやらに原稿につきて不都合のことあり発行者に迷惑を及およぼしたる時は著作者はその責任を負ふべき旨むね明記しあれば既に御承知のはずなりと手てご強わく申出で容易に譲らざる模様なればわれはこの喧嘩相手甚よろしからずと思ひそのまま打捨て如いか何よ様うに申もう来しきたるも一切返事せざりき。わが家やの玄関には毎日のやうに無ぶし性ょう髯ひげそらぬ洋服の男来りて高こう声せいに面会を求めさうさう留守をつかふならばやむをえぬ故法律問題にするなどと持もち前まえのおどし文句をならべて帰るなぞ言ごん語ごど道うだ断んの振舞度々なりき。博文館編輯局にはその折木曜会の知友多かりき。小波先生は即すなわち編輯総長の椅子にあり。﹃太陽﹄には浅あさ田だく空う花か子﹃中学世界﹄には西にし村むら渚しょ山さん人じん﹃文芸倶楽部﹄には思しあ案んが外いし史いし石ば橋し氏各おのおのその主筆なりき。これらの人々と会合せし折博文館の文士に対する甚はなはだ礼なき事を語りしに、出版課に雇はれゐるものは皆かくの如し物のわかるものは一人もなければ打ちすて置きて心に留めたまはぬがよしといふ。かくて﹃ふらんす物語﹄損害賠償の談判は八年に渡りて落着せず大正五年籾もみ山やま書店﹃荷風傑作鈔﹄なるものを出版し該がい書しょの一部を採録するに至り重ねて懸かけ合あい面倒とはなりけり。かの薄気味わるき博文館使用人は再び頻ひん々ぴんとしてわが玄関に来りて文句をならぶ。不愉快いふばかりもなし。さすがの余も遂に譲歩してここに旧著に類似したる﹃新ふらんす物語﹄なるものの編纂と出版発売を黙許しその代りとして旧著の版権を著者の方へ取り戻すこととなしぬ。されば過般博文館より発売せし﹃新ふらんす物語﹄なるものの芸術並に文学上の責任に至つては毫ごうも原著者の与あずかり知る所にあらず。かの一書は実に原著者の意志に反して出版せられたるものなりかし。この事ありてより余は書しょ肆しを恐れ憎むこと蛇だか蝎つの如くなりぬ。今の世士農工商の階級既に存せずといへども利のために人の道を顧みざる商しょ賈うこの輩やからは全く人の最下に位せしめて然るべきなり。 毎朝勝手口に御用ききに来る出入商人始めはいかにも正直らしく見せ掛け次第々々に品物を落して不正の利を貪むさぼるを常とす、米屋酒屋薪屋皆然らざるはなし。書肆の月刊雑誌を発行するや最初は何事も唯いい々だく諾だ々く主筆のいふ処に従ふといへども号を追ふに従つてあたかも女房の小うるさく物をねだるが如く機を見折を窺ひ倦うまず撓たゆまず内容を俗にして利を得ん事のみ図る。理想は文士の生命にして利は商人の生命よりも首よりも更に大事とする所なり。両者到底水火相容るるものにあらざるはけだしやむをえざるなり。 わが著書のその筋より発売を禁止せられしもの﹃ふらんす物語﹄についで﹃歓楽﹄と題せし短篇集あり。後にまた﹃夏姿﹄といふものあり。﹃歓楽﹄の一篇は初め﹃新小説﹄に掲載せし折には何事もなかりし故その頃飯いい田だま町ち六丁目に店を持ちたる易えき風ふう社しゃの主人に請こはるるままその他の小篇と合せて一巻となし出版せしめたるに忽ち発売禁止となりぬ。易風社はその以前謝礼として壱百円を贈り来りしが発売禁止となるも博文館の如く無法なる談判をなさざる故わが方にても重じゅ々うじゅう気の毒になりいそぎ﹃荷風集﹄一巻の原稿をつぐなひとして送りけり。この著幸さいわいにして版を重ねき。易風社店を閉ぢし時籾山書店﹃歓楽﹄の紙型を買取り店員某の名儀を以て再びこれを出版す。然る処この度は何の御おと咎がめもなく今に至つてなほ販売せりといふ。 ﹃夏すがた﹄の一作は﹃三田文学﹄大正四年正月号に掲載せんとて書きたるものなりしが稿成るの後自みずから読み返し見るにところどころいかがにやと首をひねるべき箇所あるによりそのまま発表する事を中止したりしを籾山書店これを聞知り是非にも小こぼ本んに仕立てて出版したしと再三店員を差遣されたればわれもその当時は甚はなはだ眤じっ懇こんの間柄むげにもその請こいを退しりぞけかね草稿を渡しけり。然れどもその折出版届にわが名は出だすまじ万一の事ありても当方にては一切責任を負はざればその辺よくよく御承知あれと念に念を押してやりけり。果せるかなこの小冊子発売禁止となりしのみか、籾山書店はその筋へ始末書を取られ厳しきお叱を蒙りけり。籾山書店今に折々人に語りて永井さんのおかげでは度々ひどい目に逢ひますと。かくては罪まつたく作者にあるが如し。 寛政のむかし山さん東とう庵あん京きょ伝うでん洒しゃ落れぼ本んをかきて手てぐ鎖さりはめられしは、板はん元もと蔦つた屋やじ重ゅう三ざぶ郎ろうお触ふれにかまはず利を得んとて京伝にすすめて筆を執らしめしがためなりといひ伝ふ。とかくに作者あまり板元と懇意になるは間違のもとなり。 ﹃伊い波わ伝で毛も乃の記き﹄といふものあり。これ曲きょ亭くて馬いば琴きん暗あんに人を誹そしりて己おのれを高たこうせんがために書きたるものなりとか。おのれがこの﹃嘉か加か伝で毛も乃の記き﹄いささか名は似たれどもゆめゆめさる不都合の下心あるにあらず。書かでもよきこと書くは唯いつもの筆くせとしかいふ。二
このごろ雑誌﹃新潮﹄の記者見るにも足らぬわが著作を採とりこれを基もといとして余が文学年表なるものを編輯し該がい誌しじ上ょうに掲載すべければとて過ぎし日のことどもさまざま問合せ来りぬ。これによりて日頃は全く忘れ果てたりし事どもここに再び思浮ぶる節々多くなりぬ。 そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、﹃簾すだれの月﹄と題せし未定の草稿一篇を携へ、牛うし込ごめ矢やら来いち町ょうなる広ひろ津つり柳ゅう浪ろう先生の門を叩きし日より始まりしものといふべし。われその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしが一ひとツ橋ばしなる校舎に赴おもむく日とては罕まれにして毎日飽かず諸処方々の芝居寄よ席せを見歩きたまさか家いえにあれば小説俳句漢詩狂歌の戯たわむれに耽り両親の嘆きも物の数とはせざりけり。かくて作る所の小説四、五篇にも及ぶほどに専門の小説家につきて教を乞ひたき念漸ようやく押へがたくなりければ遂に何なん人びとの紹介をも俟またず一いち日にち突然広津先生の寓ぐう居きょを尋ねその門生たらん事を請ひぬ。先生が矢来町にありし事を知りしは予あらかじめ電話にて春陽堂に聞合せたるによつてなり。 余はその頃最も熱心なる柳浪先生の崇拝者なりき。﹃今いま戸どし心んじ中ゅう﹄、﹃黒くろ蜥とか蜴げ﹄、﹃河かわ内ち屋や﹄、﹃亀さん﹄等とうの諸作は余の愛読して措おく能あたはざりしものにして余は当時紅こう葉よう眉びざ山ん露ろは伴ん諸家の雅俗文よりも遥に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。 先生が寓居は矢来町の何番地なりしや今記憶せざれど神かぐ楽らざ坂かを上りて寺てら町まち通どおりをまつすぐに行く事数すう町ちょうにして左へ曲りたる細き横よこ町ちょうの右側、格こう子しど戸づく造りの平ひら家やにてたしか門もん構がまえはなかりしと覚えたり。されど庭ひろびろとして樹木尠すくなからず手ちょ水うず鉢ばちの鉢前には梅の古木の形面白く蟠わだかまりたるさへありき。格子戸あけて上れば三畳つづいて六畳︵ここに後日門人長はせ谷がわ川とう濤が涯い机を置きぬ。︶それより四枚まい立だての襖ふすまを境にして八畳か十畳らしき奥の一間こそ客間を兼ねたる先生の書斎なりけれ。床とこの間まには遊女の立たち姿すがたかきし墨絵の一いっ幅ぷくいつ見ても掛けかへられし事なく、その前に据ゑたる机は一いっ閑かん張ばりの極めて粗末なるものにて、先生はこの机にも床の間にも書籍といふものは一冊も置き給はず唯六畳の間まとの境の襖に添ひて古びたる書棚を置き麻糸にてしばりたる古雑誌やうのものを乱雑に積みのせたるのみ。これによりて見るも先生の平へい生ぜい物に頓とん着じゃくせず襟きん懐かい常に洒しゃ々しゃ落らく々らくたりしを知るに足るべし。 初めて余のおそるおそる格子戸明あけて案内を乞ひし時やや暫くにして出で来きたられしは鼻下に髭ひげを蓄たくわへし四十年配の眼まなこ大きく色浅黒き人なりき。その様子その年配正しくこの家やの主ある人じらしく見ゆるにぞ、この人こそわが崇拝する﹃今戸心中﹄の作者なるべけれと思へば、俄にわかにをののく胸押静め、漸くに名刺差出し突然ながら先生にお目にかかりたき由言いい出いでしに髭ある先生らしき人は訳もなく主ある人じは唯今不在なれば帰宅次第その趣おもむき申伝ふべしといはるるに我は是非なくさらば明朝また御邪魔にお伺ひ致すべしとそのまま格子戸を立去りしが、どうも今の人が柳浪先生らしき気がしてならぬ故そつと建けん仁にん寺じが垣きの破やれ目より庭越しに内の様子を窺へば、残暑なほ去りやらぬ九月の夕暮とて障しょ子うじ皆明あけ放ちし座敷の縁えん先さき、かの髭ある人は煙草盆引寄せ悠ゆう々ゆうとして煙草のみつつ夕風さそふ庭打眺めつ。さてはわが想像にたがはざりけり。何なん人びとの紹介状をも持参せず突然たづね行きける故主人自ら立出でしまま不在といひて謝絶せしなるべし。かくてはわが熱心の先生に通ぜん日まで幾いく度たびとなく尋ね行くより外に道なしと翌日の夕暮再び案内を乞ひしにこの度は女中らしき媼おうな取次に出でて直ただちに此こな方たへと奥の間に通されぬ。見れば床の間の前なる一閑張の机に物書きゐる人あり筆を擱おきて此方に向むき直なおらるるに、昨きの日う取次に立出でられし人に瓜二つともいふべきほどよく似たれども、近く対座して重ねてよくよく見れば年も少しく若く身から体だつきもまたすこし痩せたる別人なり。後日に至りて先生の話に聞けば取次に出でし人は先生の令れい兄けいにて日頃地方を旅行せらるる肖像画家なりとの事なりき。 さてその夕ゆうべわれは是非にも門人となりたき由懇願せしに先生なかなか承知したまはず、小説家なぞにならんと思立つは大だいなる心得違なり、君今学業を放ほう擲てきしてかかる邪道に踏み迷はば他日必ず後悔臍ほぞをかむ事あらん文筆を好まば唯正業の余暇これをなして可なりかつはまたわれは尾崎や川上とは異なりてかの人々の如く多く門生を養ひ教ふるの煩はんに堪たへざるものなり、今までも度々人に頼み込まれし事あれど皆ことわりぬ。されば到底貴下の満足する如く丁寧に教ふる事は叶かなひがたかるべし。もしそれにてもよければやむをえざる故唯折々暇いとまあらん時遊びに来きたられよ。我もまたいそがしからずば君が草稿の字句仮かな名づか遣いの誤ぐらゐは正すことを得べしといはれけり。わがよろこび誠に筆紙のつくすべき処ならず幾いく重えにもよろしくとてその日は携へ来りし草稿﹃簾すだれの月﹄一篇を差置きもぢもぢして帰りけり。 柳浪先生の繍め眼じ児ろを飼ひて楽しみとせられしはあたかも余の始めて先生を見たりしその頃より始まりしなり。最初﹃簾の月﹄一篇を置きて帰りし折には胸のみとどろきし故にや小鳥の籠の有う無むには更に心もつかざりしが、その後重ねて教を乞ひにと行く度々鳥籠は一ツ二ツと増ふえ来きたりてその年の冬には六畳の間の片隅一間の壁に添ひて繍眼児の籠はさながら鳥屋の店の如く積重ねらるる事二、三段にも及びやがて鶯の籠さへかの墨絵の遊女が一幅かけたる薄暗き床の間に二ツまで据ゑ置かれぬ。先生がその内ない相しょうを失はれたるはこの前年なりしといふ。されば守るにその人なき家の内何となく物淋しく先生独り令息俊とし郎お和かず郎おの両君と静に小鳥を飼ひて娯たのしみとせられしさまいかにも文学者らしく見えて一ひと際きわわれをして景けい仰こうの念を深からしめしなり。それより後明治三十六年に及びてわれ亜ア米メ利リ加カに渡らんとするの時暇いと乞まごひに赴きし折には先生は麻あざ布ぶり龍ゅう土どち町ょうに居きょを移され既に二度目の夫人を迎へられたりき。 先生が矢来町の閑居には小鳥と共に門人もまた加はり来りぬ。最初に長谷川濤涯君次に中なか村むら春しゅ雨んう君また女流の作家にてその名失念したれど妙齢の人代る代るかの六畳の間に机を据ゑたり。余は一いち番ばん町ちょうなる父の家より一週に一、二度は欠かさず草稿を携へて通ふ中やや読むに足るべきもの二、三篇先生の添てん刪さくを経たる後博文館または春陽堂の編輯局に送られき。これと共にわれはまた川上眉山、小栗風葉、徳田秋声等の諸先輩折々矢来の閑居に来きたるを見ておのづから辱じょ友くゆうとなることを得るに至れり。かくて明治三十二年七月わが小説﹃薄うす衣ごろも﹄と題せし一篇柳浪先生合作の名義にて初めて﹃文芸倶楽部﹄の誌上に掲げられたり。当時文壇に勢力ある雑誌はいづれも新作家が作を掲ぐる事を好まざりしよりかくは先生の許を得てその名を借用せしなり。この年朝日新聞記者栗くり島しま狭さご衣ろも君牛うし込ごめ下しも宮みや比びち町ょうの寓居に俳人谷たに活かっ東とう子と携けい提ていして文学雑誌﹃伽きゃ羅らぶ文ん庫こ﹄なるものを発行せんとするや矢来に来りて先生の新作を請へり。時に先生筆ひっ硯けん甚はなはだ多忙なりしがため余に題材を口こう授じゅし俄にわかに短篇一章を作らしむ。この作﹃夕ゆう蝉せみ﹄と題せられ再ふたたび合作の署名にて同誌第一号に掲げられぬ。﹃伽羅文庫﹄は二号を出すに及ばずして廃刊しき。 その頃わが一番町の書斎に大おお山やま吾ごど童うとよぶ人しばしば遊びに来りぬ。当時尺八の名人荒あら木きち竹くお翁うの門人にて吾童といふはその芸名なり。余もまた久しく浅あさ草くさ代だい地ちなる竹翁の家また神かん田だみ美とし土ろち代ょ町うなる福ふく城しろ可かど童うのもとに通ひたる事あり度々﹃鹿しかの遠とお音ね﹄﹃月の曲﹄なぞ吹合せしよりいつとなく懇意になりしなり。この人生れてより下しも二にば番んち町ょうに住み巌いわ谷やさ小ざな波み先生の門人とは近隣の誼よしみにて自然と相あい識しれるが中うちにも取りわけ羅らが臥う雲んとて清しん人じんにて日本の文章俳句をよくするものと親しかりければ互に往来する中われもまた羅君と語を交まじえるやうになりぬ。羅氏俳号を蘇そさ山んじ人んと称す。大だい清しん公使館通訳官浙せっ江こうの人羅らこ庚うれ齢いの長子なり。この人或日の夕元もと園ぞの町ちょうなる小波先生の邸宅に文学研究会あり木曜日の夜湖こざ山ん葵きざ山ん南なん岳がく新しん兵べ衛えなんぞ呼ぶ門人多く相集まれば君も行きて見ずやとてわれを伴ひ行きぬ。これ余の始めて木曜会に赴おもむきしいはれなり。木曜会の事はここにいはずとも既にその主人が手記せるもの﹃駒こまのいななき﹄といふ書の中に掲げられたれば就きて看みるこそよけれ。三
乙いつ羽う庵主人大橋氏逝ゆきて後のち﹃文芸倶楽部﹄の主筆に三みや宅けせ青いけ軒んといふ小説家ありけり。日頃人に向ひて﹃文芸倶楽部﹄はわれを戴きて主筆とせしより忽たちまち発行部数三、四万を越こゆるに至れりと誇ほこ顔りがおに語るを常としき。また人の文学を談ずる事あれば当今小説家と称するもの枚挙に遑いとまあらざれど真に文章をよくするものに至つてはもし向むこ島うじまの露ろは伴ん子を措おきなば恐らくは我右に出いづるものあらざるべしと傍ぼう若じゃ無くぶ人じんしきりに豪語を放ちて自ら高うせしかば新進気鋭の作家一人として青軒を憎まぬものはなかりけり。されど﹃文芸倶楽部﹄によりてその作を発表せんには是非にも主筆の知遇を待たざるべからずとて怒を忍び辞を低うして虎の門外そとなるその家を訪とふものも尠すくなからず。一いち日にちおのれも菓子折に生いく田たき葵ざ山ん君の紹介状を添へ井いの上うえ唖あ々あ子と打連れ立ちて行きぬ。日頃噂に聞く大家の事なれば最初はまづ門前払なるべしと内々覚悟せしにわけもなく二階の書斎に通され君らは巌谷の門生なりとか。これまでに何か書きたる事ありやと話は容たや易すく先方より切出されぬ。唖々子はその頃頻しきりに斎藤緑雨が文をよろこび雅号を破やれ垣がき花はな守もりと称ししばしば緑雨が﹃おぼえ帳﹄に似たるものを作りゐたり。この夜よも一文を懐中にせしままおそるおそる取とり出いだして閲覧を請ひけるに青軒子仔細らしく打見て墨を濃く摺り書体を叮てい嚀ねいに書かるるは若き人に似ず感心なりとそれよりそろそろ世の新進作家なるものの生意気なる事をさまざま口ぎたなく痛罵したる後君たち文章を書かんと思はば何はさて置き漢文をよく読み給ふべしそれも韓かん柳りゅうの文のみにて足れりといふにあらず艶えん史し小説の類たぐい殊に必要なり。されば支那小説の事に関してはわれもまた露伴子と共に決して人後に落つるものならずと言ふ。唖々子はかつて文学博士島しま田だこ篁うそ村ん翁の家塾にあり漢学の素養浅からざるの人。おのれもまたいはゆる門前の小僧習はざれども父より聞ききかじりたる事なきにあらざりしかば問はるるがままに聊いささか答ふる処ありしにぞ大おおいに青軒翁の信用を博しその夜よ携へ行きける我が原稿は唖々子のものと共に即座に﹃文芸倶楽部﹄誌上に掲載の快諾を得たりき。
この青軒先生こそはやがてわれをば桜おう痴ち居士福ふく地ち先生に紹介の労を取られし人にてありけれ。されどこの度たびの訪問は初めて硯けん友ゆう社しゃの諸先輩を歴訪せし時とは異りて容易に望を遂ぐる事能はざりけり。福地先生の邸ていはその時合あい引びき橋ばし手前木こび挽きち町ょうの河かし岸どお通りにて五ごせ世いお音と羽わ屋や宅の並びにてありき。一番町のわが家やよりかしこまでは電車なければかなりの遠路なりしを歩み歩みて朝八時頃われは先生が外出したまはざる前をと思ひて三、四度、また夕刻帰邸の時分をはかりて五、六回、先づ青軒翁が紹介状を呈出し面談の栄えいを得ん事を請願せしが、或時は不在或時は多忙或時は不ふれ例い或時は来客中とばかりにて遂に望の叶ふべき模様もなかりけり。さすがの我も聊いささか疲労しかつはまたこの上強しひんには礼を失するに至らん事を虞おそれせめてわが芝居道熱心の微びち衷ゅうをだに開陳し置かばまた何かの折宿望を達するよすがにもなるべしと長々しき論文一篇を草しそつと玄関の敷台に差置きて立ち去りぬ。やがて半月あまりを経たりしに突然福地家の執事榎えの本もと破はり笠ゅう子より予かねて先生への御用談一応小生より承うけたまわり置おくべしとの事につき御来車ありたしとの書面に接し即刻番地を目当に同じく木挽町の河岸通なる破笠子が寓居に赴きぬ。これ明治三十三年わが二十二歳の夏なりき。
さて破笠子はおのれが歌舞伎座作者部屋に入り芝居道実地の修業したき心底篤とくと聞取りし後倶ともに出でて福地家に至り勝手口より上りてやや暫くわれをば一ひと間まに控へさせけるがやがてこなたへとて先生の書斎と覚しき座敷へ導きぬ。川風凉しき夏の夕暮は燈とう火か正に点ぜられし時なり。福地先生は風呂より上りし所と見えて平ひら袖そで中ちゅ形うが牡たぼ丹たんの浴ゆか衣たに縮ちり緬めんの兵へこ児お帯びを前にて結び大だいなる革蒲団の上に座し徐おもむろに銀のべの煙キセ管ルにて煙草のみてをられけり。破笠子は恭うやうやしく手をつき敷しき居いぎ際わよりやや進みたる処に座を占めければ伴はれしわれはまた一段下りて僅に膝を敷居の上に置き得しのみ。破笠子の口添を待ちわれは今こん夕せき図はからず拝顔の望を達し面めん目もくこの上なき旨申述ぶる中にも万一先生よりわが学歴その他の事につきて親しく問はるることあらば何と答へんかなぞ宛さながら警察署へ鑑札受けに行きし芸者の如く独り胸のみ痛めけるが、先生は更にわが方かたには見向きもしたまはず破笠子を相手に今こん朝ちょう巴パリ里ーの川かわ上かみ︵壮士役者音二郎が事なり︶より新聞を郵送し来きたれりとて巴里劇界の消息を語かた出りいだされぬ。かくて三十分ばかりにて我は再び破笠子に伴はれ福地家を辞して帰りしがそれより三、四日にして歌舞伎座盆興行の稽古となるやわれはここに榎本氏請うけ人にんにて歌舞伎座へ証文を入れいよいよ梨りえ園んの人とぞなりける。証書の文もん言ごん左の如し。
一 私儀 狂言作者志望につき福地先生門生 と相成 貴座 楽屋へ出入被差許候上者 劇道の秘事楽屋一切の密事決而 口外致間敷 候依而 後日 のため一札如件
歌舞伎座稽古は後のち々のちまで三階運動場を使用するが例なり。稽古にかかる前破笠子より葉書にて作者部屋のものを呼集め手てわ分けなして書かき抜ぬきをかく。当日われは破笠子より作者の面々に引合されつづいて翌日本ほん読よみにと先生出勤の折には親しく皆のものへよろしく頼むとの一いち言ごんこれまことに御ごぜ前んの御声掛りにして作者の面々自おのずからわれをば格別の客分たらしめんとするにぞわれは破笠子に計はかりて客分の待遇は小生の願ふ所にあらず旦那芸はかへつて甚はなはだしき耻辱なれば何なに卒とぞ楽屋古来の慣例に従ひ寸毫の遠慮なく使役せられん事を請こうて止まざりしかば破笠子さればとて重ねて先生へ申上げわれをば竹たけ柴しば七しち造ぞうといふ作者の預あず弟けで子しとなしこの人より楽屋万端の心得拍ひょ子うし木ぎの入れ方など見習ふ事となしぬ。時に歌舞伎座作者部屋には榎本氏を除きて四人の作者あり。竹柴七造竹たけ柴しば清せい吉きちは黙もく阿あ弥み翁の直じき弟で子しにて一は成田屋付づき一は音羽屋付の狂きょ言うげ方んかたとて重おもに団だん菊きく両優の狂言幕まく明あき幕まく切ぎれの木きを受持つなり。他に竹たけ柴しば賢けん二じ浜はま真まさ砂す助けといふ作者ありき。賢二といへるは寺じな内いか河わた竹けし新んし七ちの弟子なればなほ血けっ気きざ盛かりの年頃なりしが真砂助は先代瀬せが川わじ如ょこ皐うの弟子とやらよほどの高齢なるに寒中も帽子を冠かぶらず尻しり端はし折ょりにて向むこ脛うずねを出し半はん合がっ羽ぱ日ひよ和り下げ駄たにて浅あさ草くさ山やまの宿しゅ辺くへんの住すま居いより木挽町楽屋へ通ひ衣裳鬘かつら大だい小しょうの道具帳を書きまた番附表看板等とうの下絵を綺麗に書く。この老人猿さる若わか町まち三さん座ざお表もて飾かざりの事なぞ委くわしく知りゐたり。
さてわが始めて劇部の人となり親しく稽古を見たりし盆興行は団菊両優は休みにて秀しゅ調うちょう染そめ五ごろ郎う家かき橘つ栄えい三ざぶ郎ろう松まつ助すけら一座にて一番目は染五郎の﹃景かげ清きよ﹄中なか幕まくは福地先生新作長唄所しょ作さご事と﹃女おん弁なべ慶んけい﹄︵秀調の出だし物もの︶二番目家橘栄三郎松助の﹁玄げん冶やだ店なお大お喜ぎ利り﹂家橘栄三郎の﹃女おん鳴なな神るかみ﹄常とき磐わ津ず林りん中ちゅう出でが語たりなりき。作者見習としてのわが役目は木の稽古にと幕ごとに二にち丁ょうを入れマハリとシヤギリの留とめを打つ事幕明幕切の時間を日記に書入れ、楽屋中へ不時の通達なすべき事件ある折には役者の部屋々々大道具小道具方衣裳床とこ山やま囃はや子しか方たと等う楽屋中漏れなく触れ歩く事等なり。着ちゃ到くとうの太鼓打込みてより一日の興行済むまでは厳冬も羽織を着ず部屋にても巻まき莨タバコを遠慮し作者部屋へ座ざも元ともしくは来客の方々見ゆれば叮嚀に茶を汲みて出しその草ぞう履りを揃へまた立たて作さく者しゃ出しゅ頭っとうの折はその羽織をたたみ食事の給仕をなし始終つき添ひ働くなり。わがしばしば草履をそろへ茶を汲みて出だせし楽屋のお客様には大おお槻つき如じょ電でん永なが井いそ素が岳くなどありけり。
九月となりてわれはここに初めて団菊両優の素すが顔おとその稽古とを見得たり。狂言はたしか﹃水みと戸こう黄も門ん記き﹄通とおしにて中幕﹁大だい徳とく寺じ﹂焼しょ香うこ場うばなりしと記憶す。団十郎はその年春興行の折病に罹かかり一時は危篤の噂さへありしほどなればこの度菊五郎との顔かお合あわ大せお芝おし居ばいといふにぞ景気は蓋ふたを明けぬ中より素す破ばらしきものなりけり。つづいて十一月には一番目﹃太たい功こう記き﹄馬ばだ盥らいより本ほん能のう寺じ討入まで団だん洲しゅうの光みつ秀ひで菊五郎春はる永ながなり中幕団洲の法ほう眼げんにて﹁菊きく畑ばたけ﹂。菊五郎の虎とら蔵ぞう福ふく助すけの息女を相手にしての仕しぐ草さ六十余よの老人とは思へぬほど若々しく水もたれさうな塩あん梅ばいさすがに古今の名優と楽屋中にても人々驚嘆せざるはなかりけり。二番目は菊五郎の﹁紙かみ治じ﹂これは丸まる本ほんの﹁紙治﹂を舞台に演ずるやう河かわ竹たけ新しん七しちのその時新あらたに書かき卸おろせしものにて一ひと幕まく目め小こは春る髪かみすきの場ばにて伊いじ十ゅう郎ろう一いっ中ちゅ節うぶしの小春をそのまま長なが唄うたにしての独吟あり廻つて河かわ庄しょ茶うち屋ゃや場ばとなる二ふた幕まく目めは竹たけ本もと連れん中じゅう出でが語たりにてわれら聞馴れし炬こた燵つの場ば引ひき返かえして天てん満まば橋した太へえ兵ご衛ろ殺しの場ばとなる。当時の劇界いまだ鴈がん治じろ郎うを知らず﹁紙治﹂はいと珍しきものなりしが如し。菊五郎と鴈治郎とはもとより雲うん泥でいの相違あるものなれば並べていひ出いづるは誤りなれども近頃鴈治郎を見馴れし目より当年の菊五郎を思へば幕明きし時定じょ木うぎを枕に後うし向ろむきに横はりし音おと羽わ屋やの姿は実に何ともいへたものにはあらず小春が手を取りよろよろと駆け出で花はな道みちいつもの処にて本ほん釣つりを打ち込み後うし手ろでに角かく帯おび引締め向むこうを見込むあたり全く二度とは見られぬものなりけり。この狂言書かき卸おろしの事とて稽古に念を入れし事到底今こん人じんの思ひも及ばぬ処なるべし。書抜の読よみ合あわせ済みし日音羽屋は茶屋三さん州しゅ屋うや二階に竹たけ本もと相あい生おい太たゆ夫うを招き置きて﹁紙治﹂一段を語らせこれを登場俳優一同に傾聴せしめ、なほ浄瑠璃すみし後のちは親しく役やく々やく言葉の語りやうをば太夫へ質問するなぞ苦心のほど察するに余あまりあり。初日を出せし後にも二、三度合あい方かたを替へそれにてもなほ落ちつかぬ模様なりけり。
芸談に耽らば限りなき事なれば筆をとどむ。歌舞伎座今は殆ほとんどその外観を変じたれど元より改築したるにあらねば楽屋の部屋々々今なほかつてわが見たりし当時に異ならず。十年の後われ遠えん国ごくより帰来してたまたま知人をここに訪ふや当時の部屋々々空しく存して当時の人なく当時の妙技当時の芸風また地を払つてなし正に国亡びて山さん河が永とこしえにあるの嘆あらしめき。長々しく昔をのみ語るの愚を笑ふ勿なかれ。当時楽屋口を入りて左すれば福助松助の室しつあり右すれば直すぐに作者頭とう取どり部屋にして八やお百ぞ蔵うの室これに隣りす。それより小道具衣裳方あり廊下の端はずれより離れて団だん洲しゅうの室に至る。小こに庭わをひかへて宛さな然がら離はな家れやの体ていをなせり。表おも梯ては子しごを上のぼれば猿さる蔵ぞう染五郎二にに人んの室あり家橘栄三郎これに隣してまた鏡台を並ぶ。それより床山を間にして間まぐ口ち甚はなはだひろきものは即すなわち菊五郎の室にして隣りは片かた岡おか市いち蔵ぞうそれよりやがて裏梯子の降おり口くちに秀調控へたりき。三階は相あい中ちゅ大うお部おべ屋やなればいふに及ばざるべし。団八梅助頭取をつとめき。
四
秋しゅ暑うしょの一いち日にち物かくことも苦しければ身のまはりの手箱用よう箪だん笥すの抽ひき斗だしなんど取片付るに、ふと上田先生が書簡四、五通をさぐり得たり。先生逝ゆきて既に三年今年の忌きじ日つもまた過ぎたり。駒くこ光う何ぞ駛はするが如きや。 おのれ始めて上田先生が辱じょ知くちとなるを得たりしは千九百八年三月先生の巴パリ里ーに滞留せられし時なり。これより先わが身なほ里リオ昂ンの正しょ金うきん銀行に勤務中一日公用にてソオン河かじ上ょうの客きゃ桟くさんに嘲ちょ風うふ姉うあ崎ねざき博士を訪ひし事ありしがその折上田先生の伊イ太タ利リ亜アより巴里に来きたられしことを聞知りぬ。わが胸はいまだその人を見ざるに先立ちて怪しくも轟きたり。何が故ぞや。そもそもその年とし月つきわが身をして深く西欧の風景文物にあこがれしめしは、かの﹃即興詩人﹄﹃月つき草ぐさ﹄﹃かげ草ぐさ﹄の如き森先生が著書とまた﹃最近海外文芸論﹄の如き上田先生が著述との感化に外ならざればなり。わが身の始めてボオドレエルが詩集﹃悪の花﹄のいかなるものかを知りしは上田先生の﹃太陽﹄臨時増刊﹁十九世紀﹂といふものに物せられし近世仏フラ蘭ン西ス文学史によりてなりき。かくてわれはいかにかして仏蘭西語を学び仏蘭西の地を踏まんとの心を起せしが、幸さいわいにして今やその望み半なかば既に達せられし折柄、あたかも好よし先生の巴里に来きたれるを耳にす。わが欣よろこび譬たとへんに物なし。やがてわれは里昂の銀行を辞職し巴里に入りて拉ラテ甸ン区くの一客きゃ舎くしゃに投宿したり。然れども巴里にはもとより知る人ひとりもなかりしかば先生の旅館も知るによしなく紹介を求めんにもそのつてなかりき。われは初めて北米に遊びてよりこの年とし月つき語るに友なき境涯に馴れ果て今は強しひて人を尋ねもとむる心もおのづからに薄らぎゐたりしかば、唯ひとり巴里の巷ちまたの逍遥にうつらうつらと日を過すのみなりき。 ある夜よ元老院門前の大通なる左側小コン紅セー亭ル ルージュとよべる寄よ席せに行きぬ。この寄席もまた巴里ならでは見られぬものの一なるべし。木戸銭安く中なか売うりの婆ばば酒珈コー琲ヒーなぞ売るさまモンマルトルの卑しき寄席に異ことならねど演芸は極めて高尚に極めて新しき管絃楽またはオペラの断片にて毎夜コンセルヴァトアルの若き楽師来きたつて演奏す。折々定じょ連うれんの客に投票を請こひ新しき演題を定めあるひは作曲と演奏との批評を求むるなどこの小紅亭の高尚最新の音楽普及に力をつくす事一ひと方かたならぬを察すべし。おのれドビュッシイ一派の新しき作曲大方漏すことなく聴き得たるはこの小紅亭の夕ゆうべなり。初て上田先生を見たるもまたこの小紅亭の夕ぞかし。 小紅亭の定連は多く拉甸区の書生画工にして時には落らく魄はくせる老詩人かとも思はるる白髪の翁おきなを見る。その夕ゆうべ中なか入いりも早や過ぎし頃ふとわれは聴衆の中にわが身と同じく黄いろき顔したる人あるを見しが、その人もまたわれを見て互に隔たりし席より訝いぶかしげに顔を見合せたり。然れども何なん人びとなるやを知らざれば言葉もかはさで去りぬ。これ即すなわち上田先生にして、その夕ゆうべ先生は英イ吉ギ利リ西ス風の背広に髭もまた英国風に刈り鼻眼鏡をかけてゐたまひけり。 次の日われサンジェルマンの四ツ角なる珈カッ琲フェ店ーパンテオンにて手紙書きてゐたりしに、向側なる卓テイ子ブルに二にに人んの同胞あり。相見れば一いち人にんはわが身かつて外国語学校支那語科にありし頃見知りたりし仏ふつ語ご科の滝たき村むら立りゅ太うた郎ろう君、また他の一人は一ひと橋つばしの中学校にてわれよりは二年ほど上級なりし松まつ本もと烝じょ治うじ君なり。この旧友二人はその夕クリュニイ博物館前なる旅館にありし上田先生のもとにわれを誘いざなひゆきたり。 翌あく年るとし︵明治四十二年︶の春もなほ寒かりし頃かと覚えたりわれは既に国に帰りて父の家いえにありき。上田先生一いち日にち鉄てつ無むじ地は羽ぶ二た重えの羽はお織り博はか多たの帯着きな流がしにて突然音おとづれ来きた給まへり。この時のわがよろこびは初めて巴里にて相見し時に優るとも劣らざりけり。なべて洋行中の交際としいへば多くは諺ことわざにいふなる旅は道づれのたぐひにて帰国すればそのままに打絶ゆるを。先生のわが身に対する交情こそさる通とお一りい遍っぺんのものにてはなかりしなれ。火鉢を間にしてわれらは互に日本服着たる姿を怪しむ如く顔見合せ今更の如く昨きの日うとなりにし巴里のこと語出でて愁しゅ然うぜんたりき。 明治四十三年の初はじめ森上田両先生慶応義塾大学部文学科刷新の事に参与せらるるやわが身もその驥き尾びに附して聊いささか為す所あらんとしぬ。事既に十年に近き昔とはなれり。当時はあからさまに言ひがたき事なきに非あらざりしかど十年一ひと昔むかしの今となりては、いかに慎みなきわが筆とて最も早はや累わざわいを人に及さざるべし。その頃われは父への手前心はもとより進まねど何処か学校の教師にてもやせんと思おも煩いわずらへる折からなり。ふと第三高等学校仏蘭西語の教師に人を要するやの噂ちらと耳にせしかば早速事を京都なる先生に謀はかりしことありき。これに対する先生の返書今偶然これを篋きょ底うていに見出しぬ。再読するにまのあたり生ける先生の言を聞くが如し。妄みだりにこれを左に録する所ゆえ以ん感慨全く禁ずべからざるがためなり。
拝啓久しく御無沙汰に打過ぎ候段 平 に御宥免被下度 候しかし毎度新聞雑誌にて面白き御作 拝見仕 りわれら芸術主義の徒 のためかつは徳川の懐かしき趣味のため御奮闘ありがたく奉感謝 候、小生事去年の秋よりついつい上京の機を得ず帝都の眼覚 しき活動に遠ざかりて残念至極に候まま明日 は明日はと思ひつつ今日 までに相成 候が今月末は是非とも東京へ参り御眼にかかりたく存 をり候実はただ今直 にても御面会致し親しく懇願致度 事件出来 候が何分意に任 かさず候故手紙にて申上候
昨年御手紙にて当地高等学校仏蘭西語学教師の件御話これあり候が早速その向 を探り申候処今年九月よりの事なれば何分まだ人選等 の事は校長にも深く考へをらず従つて御尊父様の御親交ある松井 博士の紹介あらば自然御就任の事となるべしと考へ小生もあまり騒立てぬ方かへつてよろしからむと控 をり候しかし小生の心の底には別に一種の考ありて貴兄の御入洛 を小生自身にとりて非常なる幸福と存ずると共にただ今帝都にて新芸術の華々 しき活動を試みさせ給ふ貴兄をして教育界の沈滞したる空気中に入れしかも京都の如き不徹底古典趣味の田舎へ移す事は貴兄自身にとりてもわが文学のためにも不得策 にはあらざるかとやや心進まざる向 もこれあり種々熟考仕候その内段々時日を経てその後の経行 を観察仕候処一、二の候補者も出来 たれど、どれもまだ確定せず教授の細目も聞合せ候が仏語の極めて初歩のみを教へる事にて重 に当地あるひは東京の仏蘭西法科へ入学する者のための如く随 て狭い田舎の事なれば自然大学の教師なぞよりも幾分か注文も出るならむと考へ候かたがた取集めて考へればあまり面白き事業とは思へずまたたとへ忍び得る事としても貴兄の如き芸術家をかかる刺※[#「卓+戈」、105-5]の少き田舎に置く事はどうしても口惜しい事ならむと確信の度ますます強く相成申候それ故御返事を今日まで怠りをり申候この段まことに失礼に候ひしが何かもつと華々しき事業をと心掛けついつい今日に相成候然るに一月三十一日に至りて急に東京より来信これあり珍らしき事を聞込候
この事は非常に秘密に致 をり候やうに承 をり候が実は今度東京の慶応義塾にてその文学部を大刷新しこれより漸々 文壇において大活動を為 さむとする計画これありそれにつき文学部の中心となる人物を定むる必要を感じ候趣 に候、そこで三田側の諸先輩一同交詢社 にて大会議を開き森鴎外先生にも内相談 ありしやうに覚え候が、義塾の専任となりて諸 の画策をする文学家を選び候処夏目漱石 氏か小生をといふ事に相定候由、然るに夏目氏は朝日新聞の関係を絶つ事難 くして交渉纏 らずまた森先生より小生に頼むやうにと義塾の人が千駄木 を訪問したる時、森先生のいはるるには、京都大学の関係上小生の交渉もむづかしからむと申され候由、そこで先方の言ふには小生のことわりたる時誰がそれならば適当ならむとあるに答へて、森先生は貴兄を推薦なされ候、先方の申すには然らば小生に頼む時いつそ事情を打明けて小生の身上 動きがたき場合には直ちに小生より貴兄へこの事件交渉してもらひたしとの事に御座候、小生は森先生の手紙に対し種々考を述べ置候が要するにただ今京都を去る事は出来兼ね候趣 返事いたし、また貴兄を推薦されし森先生の眼光に服しをる旨申送り候、右やうの次第万事打明け候が貴兄はこの交渉に御応じの御心 如何にや、三田の中心となりて文壇にそれより御雄飛の御奮発は小生の偏 に懇願する所何卒御快諾の吉報に接したく存をり候もとより御内意を伺ふまでにて事定らば別に正式の交渉はこれあるべく候
委細の事は御面唔 の節と存候が小生の聞込みたる処にては、唯学校を盛にするだけの事ではなくもつと大 なる運動の序幕かと存をり候例へば帝国劇場の如きは義塾の側より殆ど自在に使ひ得られべきやう見受けられ余 は言はずとも種々 面白き事ありさうに候、芸術家最高の事業はどうしても劇部にありと信ずる小生はこれを聞いて直 にモリエエルやグリックやゲエテ、ワグナアさてはアントワンを思出し何かの形にてこの愉快なる事業に助力したく自分でも大 に心を動かし候なほ委しくは森先生と御相談あるもよろしかるべきが、以上の成行 筆紙にてニュアンスを尽しがたく候がざつと如斯 に候
条件については決して不満足のなきやう致 べく、その方は殆どカルト・ブランシュの如き様子に候、これまた御承諾さへ相成らば森先生が万事御含 みのやうに候とにかく芸術のためこの際御快諾の御報 に接するやう祈上 候 匆々
二月五日
昨年御手紙にて当地高等学校仏蘭西語学教師の件御話これあり候が早速その
この事は非常に秘密に
委細の事は
条件については決して不満足のなきやう
二月五日
永井荷風様侍史
張目飛耳 の徒 多き今の文界なれば万事決定まで何分内密に願上候
悦子 よりもよろしく申上候田舎にありて曾遊 の地を思ひつづけをり候ままかつてとまりしホテルの紙を用ゐ候
この書信は維ウィ納ンナの客きゃ桟くさんホテル・ブリストルの記章を印刷したる書簡箋にペンにてこまごまと認したためられたり文中悦子とあるは令夫人なり。諄じゅ々んじゅんとしてわが身のことを説き諭さとさるるさま宛さながら慈母の児こを見るが如くならずや。この一書によりてわが三田に入りし当時の消息もまたおのづから分ぶん明めいなるべし。わが返書に対し折返して到着したる先生の書次の如し。その全文を掲ぐ。
二月七日の御手紙拝見仕候先 は過日の唐突なる願事御聞届被下 候段深く感謝仕候その後森先生とも種々御打合せの御事と察し申候が何卒折角の壮挙ゆゑ三田の方御助力を懇願仕候御謙遜の御手紙なりしが決して貴兄ならば成功せざるはずなしと確信仕候殊に御自身教鞭を執らるるのみならずその上向後 の発展上一種の Elan を与へ奮心を惹起 する任務は普通の学究にては出来にくかるべしと思へばこそ貴兄へ懇請仕候ひしかと存候小生は本月末か来月早々上京のつもりに候故その時篤 と御話申上ぐべく候
京都にては全く話対手 なく困却仕候唯宅の者と散歩して食事でもするより他に致方なく候ただ本年は元日より今日まで毎日拙作を起草しそれにて紛 れをり候この地はとにかく読書にも創作にも不適当なるぶるじよあじいの国にて御話にならぬ無聊 の郷 に候唯この頃はルウィエといふ伊東 さんのお嬢さんを娶 つた若い海軍士官と往来しこの他 に先月より二、三人急に仏蘭西人が加はつてややおもしろく相成候
きのふの御作中柳橋 の芸者が新橋 といふ敵国を見る処おもしろく拝見仕候また先日のモリス・バレスが故郷の白楊 の並木をおもふ一節感服仕候当地の平田禿木 氏はボオ・ブラムメルの処を見て英国好 の人なれば甚だ嬉しがりをり候文芸に型や主義は要らず縦横に書きまくるが可 しと考ふる小生は貴兄の作物 が鳥の歌ふ如く自然に流れでるのを羨ましく思をり候今後種々の方面へ筆を向けて、あとから追付かむとする評論家の息をはずませてやり給へと遥かに嘱望 仕候
有楽座にて二十六日はヴィニエッチ氏の音楽と他に『椿姫』の芝居これあり候由もし上京して間に合はば幸福と存候がちとむづかしく候
過日同座にて一度御眼にかかりしのみなれど何卒御尊父様並に御母堂へよろしく御鳳声被下度 候 匆々
二月十一日朝
京都にては全く
きのふの御作中
有楽座にて二十六日はヴィニエッチ氏の音楽と他に『椿姫』の芝居これあり候由もし上京して間に合はば幸福と存候がちとむづかしく候
過日同座にて一度御眼にかかりしのみなれど何卒御尊父様並に御母堂へよろしく
二月十一日朝
上田敏
永井荷風様侍史
かくの如く先生はわが拙作の世に
拝啓益々御清適の段奉賀 候、その後『三田文学』御経営の事如何 に相成候や過日大倉書店番頭原 より他の事にて二回ほど書面これあり候序 に、はじめは談判不調(尤 も与謝野 君との間の略式の話について)次にはまた再度貴兄及び塾と談合をはじめたる趣を書添へをり候とにかく雑誌御経営の困難御察申候
これにつき森先生の意見は如何に候や小生の考にては原稿料は多少他よりも高く見積りて置く事必要なるは先日申したる如くに候が何もづぬけて高くするにも及ばずはじめよりあまり多く売らむと計りても無益かと存候、要するに二百頁の雑誌とすれば毎月三百円の総入費あらば事足りむか、自営にすればその幾分は確に戻つて来るはず、書肆 の方には一年に月数拾円の損として他方に広告機関ともなる利益もあるはずこの条件に近い所にて大倉もうけ合ひさうなものに候がどういふ工合 にて謝絶せしやら何はともあれ来月中旬にいづれ雑誌発刊の運 と存候ついてはほぼ原稿締切期限等御示教被下度 候小生も何か一文 寄稿したく候
一昨日より家内および娘とともに宇治川に遊んで河沿 の宿にとまり翌朝奈良へまかりこして新築の奈良ホテルといふに休み、そこより車を雇ひて春日社頭 の鹿をはじめ名所遊覧仕候がホテルの赤旗をつけた車にのつた所はまるでめりけんの観光団に御座候ひき、夢見 の里 とも申 べき Nara la Morte にはかりよんの音 ならぬ梵鐘 の声あはれに坐 ろ古 を思はせ候、その時またおもふやう安倍仲麿 がこの小さき邑 を出でて大陸の支那しかも唐代の支那を見た時、とても帰られなくなりて今欧洲の大都 に遊ぶ人の心の如くに日本を呪詛 せしものと存候このつぎ御来遊のせつは御一所に奈良へ出かけたきものに候妻 よりよろしく 匆々
三月二十一日
これにつき森先生の意見は如何に候や小生の考にては原稿料は多少他よりも高く見積りて置く事必要なるは先日申したる如くに候が何もづぬけて高くするにも及ばずはじめよりあまり多く売らむと計りても無益かと存候、要するに二百頁の雑誌とすれば毎月三百円の総入費あらば事足りむか、自営にすればその幾分は確に戻つて来るはず、
一昨日より家内および娘とともに宇治川に遊んで
三月二十一日
上田敏
永井荷風様侍史
大正五年われ既に病みてつかれたり。まさに退いて世の交りを断たん事を欲し妓ぎ家か櫛しっ比ぴする浅あさ草くさ代だい地ちの横よこ町ちょうにかくれ住む。たまたま両国大相撲春場所の初日に当りてあたり何となく色めき立てる正ひ午る近くなり。われ銭せん湯とうより手拭さげて帰り来きたる門かど口ぐち京都より東とう上じょうせられし先生の尋ね来きたらるるに会ひぬ。さては先生の寛容深くわが放蕩無頼を咎とがめたまはざるかと、思へばいよいよ喜びに堪へず、直に筋すじ向むこうなる深ふか川がわ亭ていにいざなひしが、何ぞ図はからんこの会飲永えい劫ごうの別宴とならんとは。心ゆくばかり半日を語り尽して酒亭を出でしが表通は相撲の打出し間際にて電車の雑沓甚はなはだしかりければ、しばしが間うちとて再びわが隠かく家れがの二階に請しょうじて初夜過ぐる頃までも語りつづけぬ。わが家やの近くには豊とよ沢ざわ松まつ太たろ郎う竹たけ本もと播はり磨まだ太ゆ夫うの住すま居い妓家の間に交まじりてありければにや、女の音ねじ〆めには似も寄らぬ正しき太ふと棹ざおの響折々漏れ聞ゆるにぞ談話は江戸俗曲の事また先頃先生のさる書しょ肆しより翻刻を依頼せられしといふ﹃糸しち竹くし初ょし心んし鈔ょう﹄がことより、やがてはわがその頃の作品の批判に移りて、かかる種類のものにては笠かさ森もりお仙せんが一篇詞ことば最もおだやかに想こころ最もやはらかに形また最もととのひしものなるべしと語られけり。
数日の後先生再び京都に赴おもむかんとせらるるや我いかにしけん今までは一度も先生を停車場に送りたる事なかりしを。後あとにて思おも合いあわすれば虫が知らせしなるべし。この夕ゆうべばかりは怪しくも中央停車場に出で行く心起りて、食堂の卓テイ子ブルに汽車出づる間際まで令夫人令嬢と共に珈コー琲ヒーをすすりこの次夏の休みの御上京を待たんと言ひしがそは全く仇あだなる望にてありけり。
大正五年七月九日先生の訃ふいまだ公おおやけにせられざるに先立ち馬ばば場こち孤ょ蝶う君悲報を二、三の親友に伝ふ。余倉そう皇こうとして車を先生が白しろ金かねの邸ていに走らするに一片の香煙既に寂寞として霊れい柩きゅうのほとりに漂へるのみ。われこれを見し時咄とっ嗟さの感慨あたかも万巻の図書咸かん陽よう一いっ炬きょの烟けむりとなれるが如き思ひに打たれき。わが当代の文化や先生の訃によつてその失ふところ殆ど計り知るべからざる事を思ひたればなり。
大正七年稿