永井荷風里の今昔

　昭和二年の冬、酉とりの市いちへ行った時、山さん谷やぼ堀りは既に埋められ、日にほ本んづ堤つみは丁度取崩しの工事中であった。堤から下りて大だい音おん寺じま前えの方へ行く曲くる輪わそ外との道もまた取広げられていたが、一面に石いし塊ころが敷いてあって歩くことができなかった。吉原を通りぬけて鷲おお神とり社じんじゃの境けい内だいに出ると、鳥居前の新道路は既に完成していて、平日は三みの輪わゆ行きの電車や乗合自動車の往復する事をも、わたくしはその日初めて聞き知ったのである。　吉原の遊里は今年昭和甲こう戌じゅつの秋、公こう娼しょ廃うは止いしの令の出づるを待たず、既に数年前、早く滅亡していたようなものである。その旧習とその情趣とを失えば、この古き名所はあってもないのと同じである。　江戸のむかし、吉原の曲くる輪わがその全盛の面影を留とどめたのは山さん東とう京きょ伝うでんの著作と浮世絵とであった。明治時代の吉原とその附近の町との情景は、一いち葉よう女史の﹃たけくらべ﹄、広ひろ津つり柳ゅう浪ろうの﹃今いま戸どし心んじ中ゅう﹄、泉いず鏡みき花ょうかの﹃註文帳﹄の如き小説に、滅び行く最後の面影を残した。　わたくしが弱じゃ冠っかんの頃、初めて吉原の遊里を見に行ったのは明治三十年の春であった。﹃たけくらべ﹄が﹃文芸倶ク楽ラ部ブ﹄第二巻第四号に、﹃今戸心中﹄が同じく第二巻の第八号に掲載せられたその翌年である。　当時遊里の周囲は、浅草公園に向う南側千せん束ぞく町まち三丁目を除いて、その他の三方にはむかしのままの水みず田だや竹藪や古池などが残っていたので、わたくしは二番目狂言の舞台で見馴れた書かき割わり、または﹁はや悲し吉原いでゝ麦ばたけ。﹂とか、﹁吉原へ矢先そろへて案か山か子しかな。﹂などいう江戸座の発ほっ句くを、そのままの実景として眺めることができたのである。　浄瑠璃と草くさ双ぞう紙しとに最初の文学的熱情を誘い出されたわれわれには、曲輪外のさびしい町と田たん圃ぼの景色とが、いかに豊富なる魅力を示したであろう。　その頃、見みか返えり柳やなぎの立っていた大おお門もん外の堤に佇たた立ずんで、東の方かたを見渡すと、地じか方たい今まど戸ま町ちの低い人家の屋根を越して、田圃のかなたに小こづ塚かッ原ぱらの女郎屋の裏手が見え、堤の直ぐ下には屠牛場や元もと結ゆいの製造場などがあって、山谷堀へつづく一ひと条すじの溝渠が横わっていた。毒だみの花や、赤のままの花の咲いていた岸には、猫柳のような灌木が繁っていて、髪かみ洗あら橋いばしなどいう腐った木の橋が幾筋もかかっていた。　見返柳を後にして堤の上を半町ばかり行くと、左手へ降おりる細い道があった。これが竜りゅ泉うせ寺んじ町まちの通で、﹃たけくらべ﹄第一回の書初めに見る叙景の文は即ちこの処であった。道の片側は鉄おは漿ぐろ溝どぶに沿うて、廓くる者わものの住んでいる汚い長屋の立ちつづいた間から、江戸町一丁目と揚あげ屋やま町ちとの非常門を望み、また女郎屋の裏木戸ごとに引上げられた幾筋の刎はね橋ばしが見えた。道は少し北へ曲って、長屋の間を行くこと半町ばかりにして火ひの見み梯ばし子ごの立っている四辻に出る。このあたりを大音寺前と称となえたのは、四辻の西にし南みなみの角に大音寺という浄土宗の寺があったからである。辻を北に取れば竜泉寺の門前を過ぎて千束稲荷の方へ抜け、また真直に西の方へ行けば、三みし島まじ神んじ社ゃの石垣について阪さか本もと通どおりへ出るので、毎夜吉原通いの人じん力りき車しゃがこの道を引きもきらず、提ちょ灯うちんを振りながら走り過るのを、﹃たけくらべ﹄の作者は﹁十分間に七十五輌﹂と数えたのであった。　長屋は追々まばらになって、道もややひろく、その両側を流れる溝どぶの水に石橋をわたし、生茂る竹むらをそのままの垣にした閑雅な門構の家がつづき出す。わたくしはかつてそれらの中の一ひと構かまえが、有名な料理屋田川屋の跡だとかいうはなしを聞いたことがあった。﹃たけくらべ﹄に描かれている竜りゅ華うげ寺じという寺。またおしゃまな娘美み登ど里りの住んでいた大黒屋の寮なども大方このあたりのすたれた寺や、風雅な潜くぐ門りもんの家を、そのまま資料にしたものであろうと、通るごとにわたくしは門の内をのぞかずにはいられなかった。江戸時代に楓もみじの名所といわれた正しょ燈うと寺うじもまた大音寺前にあったが、庭内の楓樹は久しき以前、既に枯れつくして、わたくしが散歩した頃には、門内の一樹がわずかに昔の名残を留めているに過ぎなかった。　大音寺は昭和の今日でも、お酉とり様さまの鳥居と筋向いになって、もとの処に仮かり普ぶし請んの堂を留とどめているが、しかし周囲の光景があまりに甚しく変ってしまったので、これを尋ねて見ても、同じ場処ではないような気がするほどである。明治三十年頃、わたくしが﹃たけくらべ﹄や﹃今戸心中﹄をよんで歩き廻った時分のことを思い返すと、大音寺の門は現在電車通りに石の柱の立っている処ではなくして、別の処にあってその向きもまたちがっていたようである。現在の門は東向きであるが、昔は北に向い、道端からはずっと奥深い処にあったように思われるが、しかしこの記憶も今は甚だおぼろである。その頃お酉様の鳥居前へ出るには、大音寺前の辻を南に曲って行ったような気がする。辻を曲ると、道の片側には小家のつづいた屋根のうしろに吉原の病院が見え、片側は見渡すかぎり水田のつづいた彼かな方たに太郎稲荷の森が見えた。吉原田圃はこの処をいったのである。裏田圃とも、また浅草田圃ともいった。単に反たん歩ぼともいったようである。　吉原田圃の全景を眺めるには廓かく内ない京きょ町うまち一、二丁目の西側、お歯はぐ黒ろど溝ぶに接した娼しょ楼うろうの裏窓が最もその処ところを得ていた。この眺望は幸にして﹃今戸心中﹄の篇中に委くわしく描き出されている。即ち次の如くである。

忍しのぶヶ岡おかと太郎稲荷の森の梢には朝あさ陽ひが際立ッて映あたッている。入いり谷やはなお半分靄もやに包まれ、吉よし原わら田たん甫ぼは一面の霜である。空には一ひと群むれ一群の小鳥が輪を作ッて南の方へ飛んで行き、上野の森には烏からすが噪さわぎ始めた。大おお鷲とり神じん社じゃの傍そばの田甫の白鷺が、一羽起ち二羽起ち三羽立つと、明日の酉の市の売場に新らしく掛けた小屋から二、三個にんの人が見あらわれた。鉄おは漿ぐろ溝どぶは泡立ッたまま凍ッて、大音寺前の温泉の烟は風に狂いながら流れている。一声の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る見る中うちに岡の裾を繞めぐッて、根ねぎ岸しに入ッたかと思うと、天王寺の森にその煙も見えなくなッた。

　この文を読んで、現在はセメントの新道路が松竹座の前から三みノ輪わに達し、また東西には二筋の大道路が隅田川の岸から上野谷中の方面に走っているさまを目撃すると、かつて三十年前に白鷺の飛んでいたところだとは思われない。わたくしがこの文についてここに註釈を試みたくなったのも、滄そう桑そうの感に堪えない余りである。﹁忍しのぶヶ岡おか﹂は上野谷中の高台である。﹁太郎稲荷﹂はむかし柳やな河がわ藩主立花氏の下しも屋やし敷きにあって、文化のころから流は行やりはじめた。屋敷の取払われた後、社殿とその周囲の森とが浅あさ草くさ光こう月げつ町ちょうに残っていたが、わたくしが初めて尋ねて見た頃には、その社殿さえわずかに形かたばかりの小祠になっていた。﹁大音寺前の温泉﹂とは普通の風呂屋ではなく、料理屋を兼ねた旅館ではないかと思われる。その名前や何かはこれを詳つまびらかにしない。当時入谷には﹁松まつ源げん﹂、根岸に﹁塩しお原ばら﹂、根ね津づに﹁紫しめ明いか館ん﹂、向島に﹁植うえ半はん﹂、秋葉に﹁有馬温泉﹂などいう温泉宿があって、芸げい妓ぎをつれて泊りに行くものも尠すくなくなかった。﹃今戸心中﹄はその発表せられたころ、世の噂によると、京町二丁目の中なか米ごめ楼ろうにあった情死を材料にしたものだという。しかし中米楼は重おもに茶屋受の客を迎えていたのに、﹃今戸心中﹄の叙事には引手茶屋のことが見えていない。その頃裏田圃が見えて、そして刎はね橋ばしのあった娼家で、中米楼についでやや格式のあったものは、わたくしの記憶する所では京二の松まつ大だい黒こくと、京一の稲いな弁べんとの二軒だけで、その他は皆小こご格う子しであった。﹃今戸心中﹄が明治文壇の傑作として永く記憶せられているのは、篇中の人物の性格と情緒とが余す所なく精細に叙述せられているのみならず、また妓楼全体の生活が渾こん然ぜんとして一幅の風俗画をなしているからである。篇中の事件は酉とりの市いちの前後から説き起されて、年末の煤すす払はらいに終っている。吉原の風俗と共に情死の事を説くには最も適切な時節を択えらんだところに作者の用意と苦心とが窺われる。わたくしはここに最終の一節を摘録しよう。

小こま万んは涙ながら写真と遺かき書おきとを持ったまま、同じ二階の吉よし里ざとの室へやへ走ッて行ッて見ると、素もとより吉里のおろうはずがなく、お熊くまを始め書かき記やくの男と他ほかに二人ばかり騒いでいた。小万は上かみの間まに行ッて窓から覗いたが、太郎稲荷、入いり谷や、金かな杉すぎあたりの人家の燈とも火しびが散ちら見つき、遠く上野の電気燈が鬼ひと火だまのように見えているばかりである。次の日の午ひる時ご頃ろ、浅草警察署の手で、今戸の橋場寄りの或露ろ地じの中に、吉里が着て行ッたお熊の半はん天てんが脱ぬぎ捨すててあり、同じ露地の隅田川の岸には娼じょ妓ろうの用いる上うわ草ぞう履りと男物の麻裏草履とが脱捨ててあッた事が知れた。︵略︶お熊は泣なく々なく箕みの輪わの無むえ縁んで寺らに葬むり、小万はお梅を遣やッては、七日七日の香こう華げを手た向むけさせた。

　箕輪の無縁寺は日本堤の尽きようとする処から、右手に降りて、畠道を行く事一、二町の処にあった浄じょ閑うか寺んじをいうのである。明治三十一、二年の頃、わたくしが掃墓に赴いた時には、堂宇は朽廃し墓地も荒れ果てていた。この寺はむかしから遊女の病死したもの、または情死して引取手のないものを葬る処で、安政二年の震災に死した遊女の供くよ養うと塔うが目に立つばかり。その他ほかの石は皆小さく蔦つたかつらに蔽おおわれていた。その頃年少のわたくしがこの寺の所在を知ったのは宮戸座の役者たちが新比ひよ翼くづ塚かなるものに香華を手向けた話をきいた事からであった。新比翼塚は明治十二、三年のころ品川楼で情死をした遊女盛せい糸しと内務省の小吏谷豊栄二にに人んの追善に建てられたのである。︵因ちなみにいう。竜りゅ泉うせ寺んじ町まちの大音寺もまた遊女の骨を埋めた処で、むかし蜀山人が碑の全文を里言葉でつくった遊女なにがしの墓のある事を故老から聞き伝えて、わたくしは両三度これを尋ねたが遂に尋ね得なかった事がある。︶　日本堤を行き尽して浄閑寺に至るあたりの風景は、三、四十年後の今日、これを追想すると、恍こうとして前世を悟る思いがある。堤の上は大門近くとはちがって、小屋掛けの飲食店もなく、車夫もいず、人通りもなく、榎か何かの大木が立っていて、その幹の間から、堤の下に竹垣を囲めぐらし池を穿うがった閑雅な住宅の庭が見下された。左右ともに水田のつづいた彼かな方たには鉄道線路の高い土手が眼界を遮さえぎっていた。そして遥か東の方に小こづ塚かッ原ぱらの大きな石いし地じぞ蔵うの後向きになった背が望まれたのである。わたくしはもし当時の遊記や日誌を失わずに持っていたならば、読者の倦うむをも顧かえりみずこれを採録せずにはいなかったであろう。　わたくしは遊廓をめぐる附近の町の光景を説いて、今余すところは南側の浅草の方面ばかりとなった。吉原から浅草に至る通路の重なるものは二筋あった。その一筋は大門を出て堤を右手に行くこと二、三町、むかしは土手の平ひら松まつとかいった料理屋の跡を、そのままの牛肉屋常とき磐わの門前から斜に堤を下り、やがて真まっ直すぐに浅草公園の十二階下に出る千せん束ぞく町まち二、三丁目の通りである。他の一筋は堤の尽きるところ、道どう哲てつの寺のあるあたりから田たま町ちへ下りて馬うま道みちへつづく大通である。電車のないその時分、廓くるわへ通う人の最も繁く往復したのは、千束町二、三丁目の道であった。　この道は、堤を下おりると左側には曲くる輪わの側面、また非常門の見えたりする横町が幾筋もあって、車夫や廓くる者わものなどの住んでいた長屋のつづいていた光景は、﹃たけくらべ﹄に描かれた大だい音おん寺じま前えの通りと変りがない。やがて小流れに石の橋がかかっていて、片側に交番、片側に平野という料理屋があった。それから公園に近くなるにつれて商店や飲食店が次第に増えて、賑にぎやかな町になるのであった。　震災の時まで、市いち川かわ猿えん之のす助け君が多年住んでいた家はこの通の西側にあった。酉とりの市いちの晩には夜通し家を開け放ちにして通りがかりの来客に酒さけ肴さかなを出すのを吉例としていたそうである。明治三十年頃には庭の裏手は一面の田圃であったという話を聞いたことがあった。さればそれより以前には、浅草から吉原へ行く道は馬道の他ほかは、皆田でん間かんの畦あぜ道みちであった事が、地図を見るに及ばずして推察せられる。﹃たけくらべ﹄や﹃今戸心中﹄のつくられた頃、東京の町にはまだ市区改正の工事も起らず、従って電車もなく、また電話もなかったらしい。﹃今戸心中﹄をよんでも娼妓が電話を使用するところが見えない。東京の町々はその場処場処によって、各おのおの固有の面目を失わずにいた。例えば永代橋辺と両国辺とは、土地の商業をはじめ万事が同じではなかったように、吉原の遊里もまたどうやらこうやら伝来の風習と格式とを持続して行く事ができたのである。　泉鏡花の小説﹃註文帳﹄が雑誌﹃新小説﹄に出たのは明治三十四年で、一葉柳浪二家の作におくれること五、六年である。二六新報の計画した娼妓自由廃業の運動はこの時既に世人の話わへ柄いとなっていたが、遊里の風俗はなお依然として変る所のなかった事は、﹃註文帳﹄の中に現れ来る人物や事件によっても窺い知ることが出来る。﹃註文帳﹄は廓外の寮に住んでいる娼家の娘が剃かみ刀そりの祟たたりでその恋人を刺す話を述べたもので、お歯はぐ黒ろど溝ぶに沿うた陰欝な路地裏の光景と、ここに棲息して娼妓の日用品を作ったり取扱ったりして暮しを立てている人たちの生活が描かれている。研とぎ屋やの店先とその親爺との描写はこの作者にして初めて為なし得べき名文である。わたくしは﹃今戸心中﹄がその時節を年の暮に取り、﹃たけくらべ﹄が残暑の秋を時節にして、各おのおのその創作に特別の風趣を添えているのと同じく、﹃註文帳﹄の作者が篇中その事件を述ぶるに当って雪の夜を択んだことを最も巧妙なる手段だと思っている。一いち立りゅ斎うさ広いひ重ろしげの板画について、雪に埋れた日本堤や大門外の風景をよろこぶ鑑賞家は、鏡花子の筆致のこれに匹ひつ如じょたることを認めるであろう。　鉄道馬車が廃せられて電車に替えられたのは、たしか明治三十六年である。世態人情の変化は漸く急激となったが、しかし吉原の別天地はなお旧習を保持するだけの余裕があったものと見え、毎夜の張はり見み世せはなお廃止せられず、時節が来れば桜や仁に和わ賀かの催しもまたつづけられていた。　わたくしはこの年から五、六年、図はからずも

旅きりょの人となったが、明治四十一年の秋、重ねて来り見るに及んで、転うたた前ぜん度どの劉りゅ郎うろうたる思いをなさねばならなかった。仲なかの町ちょうにはビーヤホールが出来て、﹁秋信先まず通ず両行の燈影﹂というような町の眺めの調和が破られ、張はり店みせがなくなって五ごち丁ょう町まちは薄暗く、土手に人力車の数の少くなった事が際立って目についた。明治四十三年八月の水害と、翌あく年るとし四月の大火とは遊里とその周囲の町の光景とを変じて、次第に今日の如き特徴なき陋ろう巷こうに化せしむる階かい梯ていをつくった。世の文学雑誌を見るも遊里を描いた小説にして、当年の傑作に匹ひっ疇ちゅうすべきものは全くその跡を断つに至った。　遊里の光景と風俗とは、明治四十二、三年以後にあっては最早やその時代の作家をして創作の感興を催さしむるには適しなくなったのである。何が故に然りというや。わたくしは一葉柳浪鏡花等の作中に現れ来きたる人物の境遇と情緒とは、江戸浄瑠璃中のものに彷ほう彿ふつとしている事を言わねばならない。そしてまた、それらの人物は作家の趣味から作り出されたものでなく、皆実在のものをモデルにしていた事も一言して置かねばならない。ここにおいてわたくしは三、四十年以前の東京にあっては、作者の情緒と現実の生活との間に今日では想像のできない美妙なる調和があった。この調和が即ちかくの如き諸篇を成さしめた所ゆえ以んである事を感じるのである。　明治三十年代の吉原には江戸浄瑠璃に見るが如き叙事詩的の一面がなお実在していた。﹃今戸心中﹄、﹃たけくらべ﹄、﹃註文帳﹄の如き諸作はこの叙事詩的の一面を捉え来って描写の功を成したのである。﹃たけくらべ﹄第十回の一節はわたくしの所感を証明するに足りるであろう。

春は桜の賑ひよりかけて、なき玉たま菊ぎくが燈籠の頃、つづいて秋の新しん仁に和わ賀かには十分間に車の飛ぶことこの通りのみにて七十五輌りょうと数へしも、二の替りさへいつしか過ぎて、赤あか蜻とん蛉ぼう田圃に乱るれば、横堀に鶉うずらなく頃も近ちかづきぬ。朝夕の秋風身にしみわたりて、上じょ清うせいが店の蚊かや遣りこ香う懐かい炉ろば灰いに座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角かど海え老びが時計の響きもそぞろ哀れの音ねを伝へるやうになれば、四季絶間なき日にっ暮ぽ里りの火の光りもあれが人を焼く烟けぶりかとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細道に落ちかかるやうな三味の音を仰いで聞けば、仲なか之のち町ょう芸者が冴さえたる腕に、君が情の仮寐の床にと何ならぬ一ふしあはれも深く、この時節より通ひ初そむるは浮かれ浮かるる遊ゆう客かくならで、身にしみじみと実じつのあるお方のよし、遊つと女めあがりのさる人が申しき。

　一葉が文の情調は柳浪の作中について見るも更に異る所がない。二家の作は全くその形式を異にしているのであるが、その情調の叙事詩的なることは同一である。『今戸心中』第一回の数行を見よ。

太そ空らは一片の雲も宿とどめないが黒味わたッて、廿四日の月は未だ上のぼらず、霊あるが如き星のきらめきは、仰げば身も冽しまるほどである。不夜城を誇ほこ顔りがおの電気燈は、軒のきより下の物の影を往来へ投げておれど、霜しも枯がれ三みつ月きの淋しさは免まぬかれず、大門から水道尻まで、茶屋の二階に甲かん走ばしッた声のさざめきも聞えぬ。明後日が初酉の十一月八日、今年はやや温あた暖たかく小袖を三みッ枚つ重かさ襲ねるほどにもないが、夜が深ふけてはさすがに初冬の寒さむ気さが感じられる。少いま時のさ前き報うッたのは、角かど海え老びの大時計の十二時である。京町には素ひや見か客しの影も跡を絶ち、角すみ町ちょうには夜よを警いましめの鉄かな棒ぼうの音も聞える。里の市が流して行く笛の音が長く尻を引いて、張店にもやや雑はな談しの途と断ぎれる時分となッた。廊下には上うわ草ぞう履りの音がさびれ、台の物の遺骸を今室へやの外へ出している所もある。遥かの三階からは甲走ッた声で、喜助どん喜助どんと床とこ番ばんを呼んでいる。

　遊里の光景とその生活とには、浄瑠璃を聴くに異らぬ一種の哀調が漲みなぎっていた。この哀調は、小説家がその趣味から作り出した技巧の結果ではなかった。独り遊里のみには限らない。この哀調は過去の東京にあっては繁華な下町にも、静な山の手の町にも、折に触れ時につれて、切々として人の官覚を動す力があった。しかし歳月の過すぐるに従い、繁激なる近世的都市の騒音と燈光とは全くこの哀調を滅してしまったのである。生活の音調が変化したのである。わたくしは三十年前の東京には江戸時代の生活の音調と同じきものが残っていた。そして、その最後の余韻が吉原の遊里において殊に著しく聴取せられた事をここに語ればよいのである。　遊里の存亡と公娼の興廃の如きはこれを論ずるに及ばない。ギリシャ古典の芸術を尊むがために、誰か今日、時代の復古を夢見るものがあろう。甲こう戌じゅつ十二月記