どうしても心から満足して世間一般の趨勢に伴(ともな)って行くことが出来ないと知ったその日から、彼はとある堀割のほとりなる妾(しょ)宅(うたく)にのみ、一人倦(う)みがちなる空想の日を送る事が多くなった。今の世の中には面白い事がなくなったというばかりならまだしもの事、見たくでもない物の限りを見せつけられるのに堪(た)えられなくなったからである。進んでそれらのものを打壊そうとするよりもむしろ退(しりぞ)いて隠れるに如(し)くはないと思ったからである。何も彼(か)も時(とき)世(よじ)時(せ)節(つ)ならば是非もないというような川(せん)柳(りゅ)式(うしき)のあきらめが、遺伝的に彼の精神を訓練さしていたからである。身(み)過(す)ぎ世(よ)過(す)ぎならば洋服も着よう。生れ落ちてから畳の上に両足を折(おり)曲(ま)げて育った揉(ねじ)れた身(から)体(だ)にも、当節の流行とあれば、直立した国の人たちの着る洋服も臆(おく)面(めん)なく採用しよう。用があれば停電しがちの電車にも乗ろう。自動車にも乗ろう。園遊会にも行こう。浪(なに)花(わぶ)節(し)も聞こう。女優の鞦(ぶら)韆(んこ)も下からのぞこう。沙(さお)翁(うげ)劇(き)も見よう。洋楽入りの長(なが)唄(うた)も聞こう。頼まれれば小説も書こう。粗悪な紙に誤植だらけの印刷も結構至極と喜ぼう。それに対する粗(そこ)忽(つせ)千(んば)万(ん)なジゥルナリズムの批評も聞こう。同業者の誼(よし)みにあんまり黙っていても悪いようなら議論のお相手もしよう。けれども要するに、それはみんな身過ぎ世過ぎである。川竹の憂き身をかこつ哥(うた)沢(ざわ)の糸より細き筆の命(いの)毛(ちげ)を渡(とせ)世(い)にする是非なさ……オット大変忘れたり。彼というは堂々たる現代文士の一(いち)人(にん)、但し人の知らない別号を珍々先生という半(はん)可(かつ)通(う)である。かくして先生は現代の生存競争に負けないため、現代の人たちのする事は善悪無差別に一通りは心得ていようと努めた。その代り、そうするには何処か人知れぬ心の隠(かく)家(れが)を求めて、時々生(いの)命(ち)の洗濯をする必要を感じた。宿(やど)なしの乞食でさえも眠るにはなお橋の下を求めるではないか。厭(いや)な客(きゃ)衆(くしゅ)の勤めには傾(けい)城(せい)をして引(ひけ)過(す)ぎの情(ま)夫(ぶ)を許してやらねばならぬ。先生は現代生活の仮面をなるべく巧(たくみ)に被(かぶ)りおおせるためには、人知れずそれをぬぎ捨てべき楽(がく)屋(や)を必要としたのである。昔より大(たい)隠(いん)のかくれる町(まち)中(なか)の裏通り、堀割に沿う日かげの妾宅は即ちこの目的のために作られた彼が心の安息所であったのだ。
妾宅は上(あが)り框(かまち)の二畳を入れて僅か四(よ)間(ま)ほどしかない古びた借(しゃ)家(くや)であるが、拭(ふき)込(こ)んだ表の格(こう)子(し)戸(ど)と家(かな)内(い)の障(しょ)子(うじ)と唐(から)紙(かみ)とは、今の職人の請(うけ)負(おい)仕事を嫌い、先(さき)頃(ごろ)まだ吉(よし)原(わら)の焼けない時分、廃業する芸者家の古(ふる)建(たて)具(ぐ)をそのまま買い取ったものである。二階の一間の欄(らん)干(かん)だけには日が当るけれど、下(した)座(ざし)敷(き)は茶の間も共に、外から這(は)入(い)ると人の顔さえちょっとは見分かぬほどの薄暗さ。厠(かわや)へ出る縁(えん)先(さき)の小庭に至っては、日の目を見ぬ地面の湿(し)け切っていること気味わるいばかりである。しかし先生はこの薄暗く湿(しめ)った家をば、それがためにかえってなつかしく、如何にも浮世に遠く失敗した人の隠家らしい心持ちをさせる事を喜んでいる。石(せき)菖(しょう)の水鉢を置いた子(れん)窓(じまど)の下には朱の溜(ため)塗(ぬり)の鏡台がある。芸者が弘(ひろ)めをする時の手拭の包紙で腰張した壁の上には鬱(うこ)金(ん)の包みを着た三味線が二(にち)梃(ょう)かけてある。大きな如(じょ)輪(りん)の長(なが)火(ひば)鉢(ち)の傍(そば)にはきまって猫が寝ている。襖(ふすま)を越した次の座敷には薄暗い上にも更に薄暗い床(とこ)の間(ま)に、極(ごく)彩(さい)色(しき)の豊(とよ)国(くに)の女姿が、石(せき)州(しゅ)流(うりゅう)の生(いけ)花(ばな)のかげから、過ぎた時代の風俗を見せている。片隅には﹁命(いのち)﹂という字を傘(かさ)の形のように繋(つな)いだ赤い友(ゆう)禅(ぜん)の蒲(ふと)団(ん)をかけた置(おき)炬(ごた)燵(つ)。その後(うしろ)には二枚折の屏(びょ)風(うぶ)に、今は大(おお)方(かた)故人となった役者や芸人の改名披露やおさらいの摺(すり)物(もの)を張った中に、田(たの)之(すけ)助(はん)半(し)四(ろ)郎(う)なぞの死(しに)絵(え)二、三枚をも交(ま)ぜてある。彼が殊(こと)更(さら)に、この薄暗い妾宅をなつかしく思うのは、風(ふう)鈴(りん)の音(ね)凉しき夏の夕(ゆうべ)よりも、虫の音(ね)冴(さ)ゆる夜長よりも、かえって底(そこ)冷(びえ)のする曇った冬の日の、どうやら雪にでもなりそうな暮(くれ)方(がた)近く、この一(ひと)間(ま)の置炬燵に猫を膝にしながら、所(しょ)在(ざい)なげに生(なま)欠(あく)伸(び)をかみしめる時であるのだ。彼は窓(まど)外(そと)を呼び過ぎる物売りの声と、遠い大通りに轟き渡る車の響と、厠の向うの腐りかけた建(けん)仁(にん)寺(じが)垣(き)を越して、隣りの家(うち)から聞え出すはたきの音をば何というわけもなく悲しく聞きなす。お妾(めかけ)はいつでもこの時分には銭湯に行った留守のこと、彼は一人燈(あか)火(り)のない座敷の置炬燵に肱(ひじ)枕(まくら)して、折々は隙(すき)漏(も)る寒い川風に身(みぶ)顫(る)いをするのである。珍々先生はこんな処にこうしていじけていずとも、便利な今の世の中にはもっと暖かな、もっと明(あかる)い賑(にぎや)かな場所がいくらもある事を能(よ)く承知している。けれどもそういう明い晴やかな場所へ意気揚々と出しゃばるのは、自分なぞが先に立ってやらずとも、成功主義の物欲しい世の中には、そういう処へ出しゃばって歯の浮くような事をいいたがる連中が、あり余って困るほどある事を思返すと、先生はむしろ薄寒い妾宅の置炬燵にかじりついているのが、涙の出るほど嬉しく淋しく悲しく同時にまた何ともいえぬほど皮肉な得意を感ずるのであった。表の河(かし)岸(どお)通(り)には日暮と共に吹起る空(から)ッ風(かぜ)の音が聞え出すと、妾宅の障子はどれが動くとも知れず、ガタリガタリと妙に気力の抜けた陰気な音を響かす。その度々に寒さはぞくぞく襟(えり)元(もと)へ浸(し)み入る。勝手の方では、いつも居眠りしている下女が、またしても皿小鉢を破(こわ)したらしい物音がする。炭(たど)団(ん)はどうやらもう灰になってしまったらしい。先生はこういう時、つくづくこれが先祖代々日本人の送り過(す)越(ご)して来た日本の家の冬の心持だと感ずるのである。宝(たか)井(らい)其(きか)角(く)の家にもこれと同じような冬の日が幾(いく)度(たび)となく来たのであろう。喜(きた)多(がわ)川(うた)歌(ま)麿(ろ)の絵筆持つ指先もかかる寒さのために凍(こお)ったのであろう。馬(ばき)琴(ん)北(ほく)斎(さい)もこの置炬燵の火の消えかかった果(は)敢(か)なさを知っていたであろう。京(きょ)伝(うでん)一(いっ)九(く)春(しゅ)水(んすい)種(たね)彦(ひこ)を始めとして、魯(ろぶ)文(ん)黙(もく)阿(あ)弥(み)に至るまで、少くとも日本文化の過去の誇りを残した人々は、皆おのれと同じようなこの日本の家の寒さを知っていたのだ。しかして彼らはこの寒さと薄暗さにも恨むことなく反抗することなく、手錠をはめられ板(はん)木(ぎ)を取(とり)壊(こわ)すお上(かみ)の御(ごせ)成(いば)敗(い)を甘受していたのだと思うと、時代の思想はいつになっても、昔に代らぬ今の世の中、先生は形ばかり西洋模倣の倶(ク)楽(ラ)部(ブ)やカフェーの煖(だん)炉(ろ)のほとりに葉巻をくゆらし、新時代の人々と舶来の火(ウイ)酒(スキー)を傾けつつ、恐れ多くも天下の御政事を云(うん)々(ぬん)したとて何になろう。われわれ日本の芸術家の先天的に定められた運命は、やはりこうした置炬燵の肱枕より外(ほか)にはないというような心持になるのであった。
人種の発達と共にその国土の底に深くも根ざした思想の濫(らん)觴(しょう)を鑑(かんが)み、幾時代の遺伝的修養を経たる忍従棄権の悟(さと)りに、われ知らず襟(えり)を正(ただ)す折(おり)しもあれ。先生は時々かかる暮れがた近く、隣の家(うち)から子供のさらう稽古の三味線が、かえって午(ひる)飯(めし)過(す)ぎの真昼よりも一層賑(にぎや)かに聞え出すのに、眠るともなく覚めるともなく、疲れきった淋しい心をゆすぶらせる。家(うち)の中はもう真暗になっているが、戸(おも)外(て)にはまだ斜にうつろう冬の夕日が残っているに違いない。ああ、三味線の音(ねい)色(ろ)。何という果(はか)敢(な)い、消えも入りたき哀れを催させるのであろう。かつてそれほどに、まだ自己を知らなかった得意の時分に、先生は長たらしい小説を書いて、その一節に三味線と西洋音楽の比較論なぞを試みた事を思返す。世の中には古(こし)社(ゃ)寺(じ)保存の名目の下(もと)に、古社寺の建築を修繕するのではなく、かえってこれを破壊もしくは俗化する山師があるように、邦楽の改良進歩を企てて、かえって邦楽の真生命を殺してしまう熱心家のある事を考え出す。しかし先生はもうそれらをば余儀ない事であると諦めた。こんな事をいって三味線の議論をする事が、已に三味線のためにはこの上もない侮(ぶじ)辱(ょく)なのである。江(えど)戸(おん)音(ぎょ)曲(く)の江戸音曲たる所(ゆえ)以(ん)は時勢のために見る影なく踏みにじられて行く所にある。時勢と共に進歩して行く事の出来ない所にある。然(しか)も一(ひと)思(おも)いに潔(いさぎよ)く殺され滅されてしまうのではなく、新時代の色々な野心家の汚(きたな)らしい手にいじくり廻されて、散々慰(なぐさ)まれ辱(はずか)しめられた揚(あげ)句(く)、嬲(なぶ)り殺しにされてしまう傷(いたま)しい運命。それから生ずる無限の哀傷が、即ち江戸音曲の真生命である。少くともそれは二十世紀の今(こん)日(にち)洋服を着て葉巻を吸いながら聞くわれわれの心に響くべき三味線の呟(つぶや)きである。さればこれを改良するというのも、あるいはこれを撲滅するというのも、いずれにしても滅び行く三味線の身に取っては同じであるといわねばならぬ。珍々先生が帝国劇場において﹃金(きん)毛(もう)狐(こ)﹄の如き新曲を聴く事を辞さないのは、つまり灰の中から宝石を捜(さが)出(しだ)すように、新しきものの処々にまだそのまま残されている昔のままの節(ふし)附(づけ)を拾出す果敢い楽しさのためである。同時に擬古派の歌舞伎座において、大(おお)薩(ざつ)摩(ま)を聞く事を喜ぶのは、古きものの中にも知らず知らず浸み込んだ新しい病毒に、遠からず古きもの全体が腐って倒れてしまいそうな、その遣(やる)瀬(せ)ない無常の真理を悟り得るがためである。思えばかえって不思議にも、今日という今日まで生残った江戸音曲の哀愁をば、先生はあたかも廓(くるわ)を抜け出で、唯(ただ)一人闇の夜道を跣(はだ)足(し)のままにかけて行く女のようだと思っている。たよりの恋人に出逢った処で、末永く添い遂げられるというではない。互に手を取って南無阿弥陀仏と死ぬばかり。もし駕(か)籠(ご)かきの悪者に出逢ったら、庚(こう)申(しん)塚(づか)の藪(やぶ)かげに思うさま弄ばれた揚句、生(いの)命(ち)あらばまた遠(えん)国(ごく)へ売り飛ばされるにきまっている。追(おっ)手(て)に捕(つか)まって元の曲(くる)輪(わ)へ送り戻されれば、煙(キセ)管(ル)の折(せっ)檻(かん)に、またしても毎夜の憂きつとめ。死ぬといい消えるというが、この世の中にこの女の望み得べき幸福の絶頂なのである。と思えば先生の耳には本調子も二(にあ)上(が)りも三(さん)下(さが)りも皆この世は夢じゃ諦(あきら)めしゃんせ諦めしゃんせと響くのである。されば隣りで唄(うた)う歌の文句の﹁夢とおもひて清(せい)心(しん)は。﹂といい﹁頼むは弥陀の御(お)ン誓ひ、南無阿弥陀仏々々々々々々。﹂というあたりの節廻しや三味線の手に至っては、江戸音曲中の仏教的思想の音楽的表現が、その芸術的価値においてまさに楽劇﹃パルシフヮル﹄中の例えば﹁聖金曜日﹂のモチイブなぞにも比較し得べきもののように思われるのであった。
諦めるにつけ悟るにつけ、さすがはまだ凡(ぼん)夫(ぷ)の身の悲しさに、珍々先生は昨(きの)日(う)と過ぎし青春の夢を思うともなく思い返す。ふとしたことから、こうして囲(かこ)って置くお妾(めかけ)の身の上や、馴(なれ)初(そ)めのむかしを繰返して考える。お妾は無論芸者であった。仲(なか)之(のち)町(ょう)で一(いち)時(じ)は鳴(なら)した腕。芸には達者な代り、全くの無(むひ)筆(つ)である。稽(けい)古(こぼ)本(ん)で見馴れた仮名より外には何にも読めない明(あき)盲(めく)目(ら)である。この社会の人の持っている諸(あら)有(ゆ)る迷信と僻(へき)見(けん)と虚偽と不健康とを一つ残らず遺伝的に譲り受けている。お召(めし)の縞(しま)柄(がら)を論ずるには委(くわ)しいけれど、電車に乗って新しい都会を一人歩きする事なぞは今だに出来ない。つまり明治の新しい女子教育とは全く無関係な女なのである。稽古唄の文句によって、親の許さぬ色恋は悪い事であると知っていたので、初恋の若旦那とは生(なま)木(き)を割(さ)く辛(つら)い目を見せられても、ただその当座泣いて暮して、そして自(やけ)暴(ざ)酒(け)を飲む事を覚えた位のもの、別に天も怨(うら)まず人をも怨まず、やがて周囲から強(しい)られるがままに、厭(いや)な男にも我慢して身をまかした。いやな男への屈従からは忽(たちま)ち間(ま)夫(ぶ)という秘密の快楽を覚えた。多くの人の玩(もて)弄(あそ)物(びもの)になると同時に、多くの人を弄んで、浮きつ沈みつ定めなき不徳と淫(いん)蕩(とう)の生涯の、その果(はて)がこの河添いの妾宅に余生を送る事になったのである。深(ふか)川(がわ)の湿地に生れて吉(よし)原(わら)の水に育ったので、顔の色は生れつき浅黒い。一度髪の毛がすっかり抜けた事があるそうだ。酒を飲み過ぎて血を吐いた事があるそうだ。それから身(から)体(だ)が生れ代ったように丈夫になって、中(ちゅ)音(うおん)の音(の)声(ど)に意気な錆(さび)が出来た。時々頭が痛むといっては顳(こめ)へ即(そっ)功(こう)紙(し)を張っているものの今では滅多に風(か)邪(ぜ)を引くこともない。突然お腹(なか)へ差(さし)込(こ)みが来るなどと大騒ぎをするかと思うと、納(なっ)豆(とう)にお茶漬を三杯もかき込んで平然としている。お参りに出かける外(ほか)、芝居へも寄(よ)席(せ)へも一(いっ)向(こう)に行きたがらない。朝寝が好きで、髪を直すに時間を惜しまず、男を相手に卑(びろ)陋(う)な冗談をいって夜ふかしをするのが好きであるが、その割には世(しょ)帯(たい)持(もち)がよく、借金のいい訳がなかなか巧(うま)い。年は二十五、六、この社会の女にしか見られないその浅黒い顔の色の、妙に滑(すべ)っこく磨き込まれている様子は、丁度多くの人手にかかって丁寧に拭き込まれた桐の手あぶりの光(つ)沢(や)に等しく、いつも重そうな瞼(まぶた)の下に、夢を見ているようなその眼(めい)色(ろ)には、照りもせず曇りも果てぬ晩春の空のいい知れぬ沈滞の味が宿っている――とでもいいたい位に先生は思っているのである。実際今の世の中に、この珍々先生ほど芸者の好きな人、賤業婦の病的美に対して賞讃の声を惜しまない人は恐らくあるまい。彼は何(なに)故(ゆえ)に賤業婦を愛するかという理由を自(みずか)ら解釈して、道徳的及び芸術的の二条に分った。道徳的にはかつて﹃見(み)果(は)てぬ夢﹄という短篇小説中にも書いた通り、特種の時代とその制度の下(もと)に発生した花柳界全体は、最初から明(あか)白(らさま)に虚偽を標榜しているだけに、その中(うち)にはかえって虚偽ならざるもののある事を嬉しく思うのであった。つまり正当なる社会の偽善を憎む精神の変調が、幾多の無理な訓練修養の結果によって、かかる不正暗黒の方面に一条の血路を開いて、茲(ここ)に僅なる満足を得ようとしたものと見て差(さし)支(つかえ)ない。あるいはまたあまりに枯淡なる典型に陥(おちい)り過ぎてかえって真情の潤(うるお)いに乏しくなった古来の道徳に対する反感から、わざと悪徳不正を迎えて一時の快(かい)哉(さい)を呼ぶものとも見られる。要するに厭世的なるかかる詭(きべ)弁(んて)的(き)精神の傾向は破壊的なるロマンチズムの主張から生じた一種の病弊である事は、彼自身もよく承知しているのである。承知していながら、決して改(かい)悛(しゅん)する必要がないと思うほど、この病弊を芸術的に崇拝しているのである。されば賤業婦の美を論ずるには、極端に流れたる近世の芸術観を以てするより外はない。理性にも同情にも訴うるのでなく、唯(ただ)過敏なる感覚をのみ基礎として近世の極端なる芸術を鑑賞し得ない人は、彼からいえば到底縁なき衆(しゅ)生(じょう)であるのだ。女の嫌いな人に強(しい)て女の美を説き教える必要はない。酒に害あるはいわずと知れた話である。然(しか)もその害毒を恐れざる多少の覚悟と勇気とがあって、初めて酒の徳を知り得るのである。伝(きく)聞(なら)く北米合衆国においては亜(アメ)米(リカ)利(イ)加(ン)印(デ)甸(ア)人(ン)に対して絶対に火(ウイ)酒(スキー)を売る事を禁ずるは、印甸人の一(ひと)度(たび)酔えば忽(たちま)ち狂暴なる野獣と変ずるがためである。印甸人の神経は浅酌微酔の文明的訓練なきがためである。修養されたる感覚の快楽を知らざる原始的健全なる某帝国の社会においては、婦人の裸体画を以て直(ただち)に国民の風俗を壊乱するものと認めた。南阿(ア)弗(フ)利(リ)加(カ)の黒(こく)奴(ど)は獣(けもの)の如く口を開いて哄(こう)笑(しょう)する事を知っているが、声もなく言葉にも出さぬ美しい微(ほほ)笑(えみ)によって、いうにいわれぬ複雑な内心の感情を表白する術(じゅつ)を知らないそうである。健全なる某帝国の法律が恋愛と婦人に関する一切の芸術をポルノグラフィイと見なすのも思えば無理もない次第である――議論が思わず岐(わき)路(みち)へそれた――妾宅の主人たる珍々先生はかくの如くに社会の輿(よろ)論(ん)の極端にも厳格枯淡偏狭単一なるに反して、これはまた極端に、凡そ売色という一切の行動には何ともいえない悲壮の神秘が潜(ひそ)んでいると断言しているのである。冬の闇(やみ)夜(よ)に悪病を負う辻(つじ)君(ぎみ)が人を呼ぶ声の傷(いたま)しさは、直ちにこれ、罪障深き人類の止(や)みがたき真(まこ)正(と)の嘆きではあるまいか。仏(フラ)蘭(ン)西(ス)の詩人 M(マ)a(ル)r(セ)c(ル)elS(シ)c(ュ)h(オ)w(ッ)o(ブ)bはわれわれが悲しみの淵に沈んでいる瞬間にのみ、唯の一夜、唯の一度われわれの目の前に現われて来るという辻君。二度巡り会おうとしても最(も)う会う事の出来ないという神秘なる辻君の事を書いた。﹁あの女たちはいつまでもわれわれの傍(そば)にいるものではない。あまりに悲しい身の上の恥かしく、長く留(とどま)っているに堪えられないからである。あの女たちはわれわれが涙に暮れているのを見ればこそ、面と向ってわれわれの顔を見上げる勇気があるのだ。われわれはあの女たちを哀れと思う時にのみ、彼(かの)女(おんな)たちを了解し得るのだ。﹂といっている。近松の心(しん)中(じゅ)物(うもの)を見ても分るではないか。傾(けい)城(せい)の誠が金で面(つら)を張る圧制な大(だい)尽(じん)に解釈されようはずはない。変る夜ごとの枕に泣く売春婦の誠の心の悲しみは、親の慈悲妻の情(なさけ)を仇(あだ)にしたその罪の恐しさに泣く放蕩児の身の上になって、初めて知り得るのである。﹁傾城に誠あるほど買ひもせず﹂と川(せん)柳(りゅ)子(うし)も已に名句を吐いている。珍々先生は生れ付きの旋(つむ)毛(じま)曲(が)り、親に見放され、学校は追出され、その後は白(しら)浪(なみ)物(もの)の主人公のような心持になってとにかくに強いもの、えばるものが大嫌いであったから、自然と巧(たくま)ずして若い時分から売春婦には惚(ほ)れられがちであった。しかしこういう業(ごう)つくばりの男の事(こと)故(ゆえ)、芸者が好きだといっても、当時新(しん)橋(ばし)第一流の名花と世に持(もて)囃(はや)される名(なご)古(や)屋(だ)種(ね)の美人なぞに目をくれるのではない。深川の堀割の夜(よふ)深(け)、石置場のかげから這(はい)出(だ)す辻君にも等しい彼(か)の水(みず)転(てん)の身の浅(あさ)間(ま)しさを愛するのである。悪病をつつむ腐(くさ)りし肉の上に、爛(ただ)れたその心の悲しみを休ませるのである。されば河添いの妾宅にいる先生のお妾も要するに世間並の眼を以て見れば、少しばかり甲(こう)羅(ら)を経たるこの種類の安物たるに過ぎないのである。
隣りの稽(けい)古(こう)唄(た)はまだ止(や)まぬ。お妾(めかけ)は大分化粧に念が入(い)っていると見えてまだ帰らない。先生は昔の事を考えながら、夕(ゆう)飯(めし)時(どき)の空(くう)腹(ふく)をまぎらすためか、火の消えかかった置(おき)炬(ごた)燵(つ)に頬(ほお)杖(づえ)をつき口から出まかせに、
変り行く末の世ながら﹁いにしへ﹂を、﹁いま﹂に忍ぶの恋(こい)草(ぐさ)や、誰れに摘(つ)めとか繰返し、うたふ隣のけいこ唄、宵はまちそして恨みて暁と、聞く身につらきいもがりは、同じ待つ間の置炬燵、川風寒き子(れん)窓(じまど)、急ぐ足音ききつけて、かけた蒲団の格(こう)子(しそ)外(と)、もしやそれかとのぞいて見れば、河(か)岸(し)の夕日にしよんぼりと、枯れた柳の影ばかり。
まだ帰って来ぬ。先生はもう一ツ、胸にあまる日頃の思いをおなじ置炬燵にことよせて、
春水が手錠はめられ
海老蔵は、お江戸かまひの「むかし」なら、わしも定めし島流し、
硯の海の波風に、命の筆の
水馴竿、折れてたよりも荒磯の、道理引つ込む無理の世は、今もむかしの夢のあと、たづねて見やれ思ひ寝の、
手枕寒し置炬燵。
とやらかした。小(こば)走(し)りの下(げ)駄(た)の音。がらりと今度こそ格子が明(あ)いた。お妾は抜(ぬき)衣(えも)紋(ん)にした襟(えり)頸(くび)ばかり驚くほど真白に塗りたて、浅黒い顔をば拭き込んだ煤(すす)竹(だけ)のようにひからせ、銀(いち)杏(ょう)返(がえ)しの両(りょ)鬢(うびん)へ毛(け)筋(す)棒(じ)を挿込んだままで、直(す)ぐと長(なが)火(ひば)鉢(ち)の向うに据えた朱の溜(ため)塗(ぬり)の鏡台の前に坐った。カチリと電燈を捻(ね)じる響と共に、黄(きいろ)い光が唐(から)紙(かみ)の隙間にさす。先生はのそのそ置炬燵から次の間へ這(はい)出(だ)して有(あり)合(あ)う長(なが)煙(ギセ)管(ル)で二、三服(ぷく)煙草を吸いつつ、余念もなくお妾の化粧する様子を眺めた。先生は女が髪を直す時の千姿万態をば、そのあらゆる場合を通じて尽(ことごと)くこれを秩序的に諳(そらん)じながら、なお飽きないほどの熱心なる観察者である。まず、忍び逢いの小座敷には、刎(はね)返(かえ)した重い夜具へ背をよせかけるように、そして立(たて)膝(ひざ)した長(なが)襦(じゅ)袢(ばん)の膝の上か、あるいはまた船(ふな)底(ぞこ)枕(まくら)の横腹に懐中鏡を立掛けて、かかる場合に用意する黄(つ)楊(げ)の小(おぐ)櫛(し)を取って先ず二、三度、枕のとがなる鬢(びん)の後(おく)毛(れげ)を掻き上げた後(のち)は、捻(ねじ)るように前(ぜん)身(しん)をそらして、櫛の背を歯に銜(くわ)え、両手を高く、長襦袢の袖(そで)口(ぐち)はこの時下へと滑ってその二の腕の奥にもし入(いれ)黒(ぼく)子(ろ)あらば見えもやすると思われるまで、両(りょ)肱(うひじ)を菱(ひし)の字なりに張出して後(うしろ)の髱(たぼ)を直し、さてまた最後には宛(さなが)ら糸(へち)瓜(ま)の取(とっ)手(て)でも摘(つま)むがように、二本の指先で前髪の束(たば)ね目(め)を軽く持ち上げ、片手の櫛で前髪のふくらみを生(はえ)際(ぎわ)の下から上へと迅速に掻き上げる。髱(たぼ)留(ど)めの一、二本はいつも口に銜えているものの、女はこの長々しい熱心な手芸の間(あいだ)、黙ってぼんやり男を退屈さして置くものでは決してない。またの逢(おう)瀬(せ)の約束やら、これから外(ほか)の座敷へ行く辛(つら)さやら、とにかく寸(すん)鉄(てつ)人を殺すべき片(へん)言(げん)隻(せき)語(ご)は、かえって自在に有力に、この忙しい手芸の間に乱発されやすいのである。先生は芝居の桟(さじ)敷(き)にいる最中といえども、女が折々思出したように顔を斜めに浮かして、丁度仏画の人物の如く綺麗にそろえた指の平(ひら)で絶えず鬢(びん)の形を気にする有様をも見逃さない。さればいよいよ湯上りの両(りょ)肌(うはだ)脱ぎ、家(うち)が潰(つぶ)れようが地面が裂けようが、われ関(かん)せず焉(えん)という有様、身も魂も打込んで鏡に向う姿に至っては、先生は全くこれこそ、日本の女の最も女らしい形容を示す時であると思うのである。幾世紀の洗練を経たる A(ア)l(レ)e(キ)x(サ)a(ン)n(ド)d(リ)r(ン)ine 十二音の詩句を以て、自在にミュッセをして巴(パリ)里(イむ)娘(すめ)の踊の裾(すそ)を歌わしめよ。われにはまた来歴ある一(いっ)中(ちゅ)節(うぶし)の﹃黒髪﹄がある。黄(つ)楊(げ)の小(おぐ)櫛(し)という単語さえもがわれわれの情(じょ)緒(うしょ)を動かすにどれだけ強い力があるか。其(そ)処(こ)へ行くと哀れや、色さまざまのリボン美しといえども、ダイヤモンド入りのハイカラ櫛立派なりといえども、それらの物の形と物の色よりして、新時代の女子の生活が芸術的幻想を誘起し得るまでには、まだまだ多くの年(ねん)月(げつ)を経た後(のち)でなければならぬ。新時代の芸術の力をもっともっと沢山に借りた揚(あげ)句(く)の果でなければならぬ。然(しか)るに已に完成しおわった江戸芸術によって、溢(あふ)るるまでその内容の生命を豊富にされたかかる下町の女の立(たち)居(いふ)振(る)舞(ま)いには、敢(あえ)て化粧の時の姿に限らない。春(はる)雨(さめ)の格(こう)子(し)戸(ど)に渋(しぶ)蛇(じゃ)の目(め)開(ひら)きかける様子といい、長火鉢の向うに長煙管取り上げる手付きといい、物思う夕まぐれ襟(えり)に埋(うず)める頤(おとがい)といい、さては唯(ただ)風に吹かれる鬢の毛の一筋、そら解(ど)けの帯の端(はし)にさえ、いうばかりなき風(ふぜ)情(い)が生ずる。﹁ふぜい﹂とは何ぞ。芸術的洗練を経たる空想家の心にのみ味わるべき、言語にいい現し得ぬ複雑豊富なる美感の満足ではないか。しかもそれは軽く淡く快き半音下(さが)った m(ミ)i(ノ)n(ウ)e(ル)urの調子のものである。珍々先生は芸者上りのお妾の夕化粧をば、つまり生きて物いう浮世絵と見て楽しんでいるのである。明治の女子教育と関係なき賤業婦の淫(いん)靡(び)なる生活によって、爛熟した過去の文明の遠いきを聞こうとしているのである。この僅かなる慰安が珍々先生をして、洋服を着ないでもすむ半日を、唯うつうつとこの妾宅に送らせる理由である。已に﹁妾宅﹂というこの文(もん)字(じ)が、もう何となく廃滅の気味を帯びさせる上に、もしこれを雑誌などに出したなら、定めし文芸即(すなわち)悪徳と思込んでいる老人たちが例の物議を起す事であろうと思うと、なお更に先生は嬉しくて堪(たま)らないのである。
お妾のお化粧がすむ頃には、丁度下女がお釜(かま)の火を引いて、膳(ぜん)立(だて)の準備をはじめる。この妾宅には珍々先生一流の趣味によって、食事の折には一切、新時代の料理屋または小(こま)待(ちあ)合(い)の座敷を聯(れん)想(そう)させるような、上等ならば紫(した)檀(ん)、安ものならばニス塗の食卓を用いる事を許さないので、長火鉢の向うへ持出されるのは、古びて剥(は)げてはいれど、やや大形の猫(ねこ)足(あし)の塗膳であった。先生は最初感情の動くがままに小説を書いて出版するや否や、忽(たちま)ち内務省からは風俗壊乱、発売禁止、本屋からは損害賠償の手(てづ)詰(め)の談判、さて文壇からは引続き歓楽に哀傷に、放蕩に追憶と、身に引受けた看板の瑕(きず)に等しき悪(あく)名(みょう)が、今はもっけの幸(さいわい)に、高等遊民不良少年をお顧(とく)客(い)の文芸雑誌で飯を喰う売文の奴(やっこ)とまで成り下(さが)ってしまったが、さすがに筋目正しい血筋の昔を忘れぬためか、あるいはまた、あらゆる芸術の放胆自由の限りを欲する中(なか)にも、自然と備(そなわ)る貴族的なる形の端麗、古典的なる線の明晰を望む先生一流の芸術的主張が、知らず知らず些(ささ)細(い)なる常(じょ)住(うじ)坐(ゅう)臥(ざが)の間(あいだ)に現われるためであろうか。︵そは作者の知る処に非(あら)ず。︶とにかく珍々先生は食事の膳につく前には必ず衣(えも)紋(ん)を正し角(かく)帯(おび)のゆるみを締(しめ)直(なお)し、縁(えん)側(がわ)に出て手を清めてから、折々窮屈そうに膝を崩す事はあっても、決して胡(あぐ)坐(ら)をかいたり毛(けず)脛(ね)を出したりする事はない。食事の時、仏(フラ)蘭(ンス)西(じ)人(ん)が極(きま)って S(セ)e(ル)r(ヴ)v(ィ)i(エ)e(ッ)t(ト)teを頤(おとがい)の下から涎(よだ)掛(れかけ)のように広げて掛けると同じく、先生は必ず三(み)ツ折(おり)にした懐中の手拭を膝の上に置き、お妾がお酌する盃(さかずき)を一(ひと)嘗(な)めしつつ徐(おもむろ)に膳の上を眺める。
小(ちいさ)な汚(きたなら)しい桶(おけ)のままに海(この)鼠(わ)腸(た)が載っている。小皿の上に三(みき)片(れ)ばかり赤味がかった松(まつ)脂(やに)見たようなもののあるのはである。千(せん)住(じゅ)の名産寒(かん)鮒(ぶな)の雀焼に川(かわ)海(え)老(び)の串(くし)焼(やき)と今(いま)戸(ど)名物の甘い甘い柚(ゆず)味(み)噌(そ)は、お茶(ちゃ)漬(づけ)の時お妾が大(だい)好(こう)物(ぶつ)のなくてはならぬ品物である。先生は汚らしい桶の蓋(ふた)を静に取って、下(げ)痢(り)した人糞のような色を呈した海(なま)鼠(こ)の腸(はらわた)をば、杉(すぎ)箸(ばし)の先ですくい上げると長く糸のようにつながって、なかなか切れないのを、気長に幾(いく)度(たび)となくすくっては落し、落してはまたすくい上げて、丁度好(いい)加(かげ)減(ん)の長さになるのを待って、傍(かたわら)の小皿に移し、再び丁寧に蓋をした後、やや暫くの間は口をも付けずに唯(ただ)恍惚として荒海の磯臭い薫(かお)りをのみかいでいた。先生は海(この)鼠(わ)腸(た)のこの匂といい色といいまたその汚しい桶といい、凡(すべ)て何らの修飾をも調理をも出来得るかぎりの人為的技巧を加味せざる︵少くとも表示せざる︶天然野生の粗暴が陶器漆(しっ)器(き)などの食器に盛(もら)れている料理の真中に出しゃばって、茲(ここ)に何ともいえない大胆な意外な不調和を見せている処に、いわゆる雅致と称(となえ)る極めてパラドックサルな美感の満足を感じて止まなかったからである。由来この種の雅致は或一派の愛国主義者をして断言せしむれば、日本人独特固有の趣味とまで解釈されている位で、室内装飾の一例を以てしても、床(とこ)柱(ばしら)には必ず皮のついたままの天(てん)然(ねん)木(ぼく)を用いたり花を活(い)けるに切り放した青竹の筒(つつ)を以てするなどは、なるほど R(ロ)o(コ)c(コ)oco 式にも E(ア)m(ン)p(ピ)i(イ)r(ル)e式にもないようである。しかしこの議論はいつも或る条件をつけて或程度に押(おし)留(とど)めて置かなければならぬ。あんまりお調子づいて、この論法一点張りで東西文明の比較論を進めて行くと、些細な特種の実例を上げる必要なくいわゆる M(メ)a(イ)i(ゾ)s(ン)ond(ド)eP(パ)a(ピ)p(エ)i(ー)er︵紙の家︶に住んで畳の上に夏は昆虫類と同棲する日本の生活全体が、何よりの雅致になってしまうからである。珍々先生はこんな事を考えるのでもなく考えながら、多年の食(くい)道(どう)楽(らく)のために病的過敏となった舌の先で、苦(に)味(が)いとも辛(から)いとも酸(すっぱ)いとも、到底一(ひと)言(こと)ではいい現し方のないこの奇妙な食物の味(あじわい)を吟味して楽しむにつけ、国の東西時の古今を論ぜず文明の極致に沈(ちん)湎(めん)した人間は、是非にもこういう食物を愛好するようになってしまわなければならぬ。芸術は遂に国家と相容れざるに至って初めて尊(たっと)く、食物は衛生と背(はい)戻(れい)するに及んで真の味(あじわい)を生ずるのだ。けれども其処まで進もうというには、妻あり子あり金あり位ある普通人には到底薄気味わるくて出来るものではない。そこで自(おの)然(ず)と、物には専(くろ)門(う)家(と)と素(しろ)人(うと)の差別が生ずるのだと、珍々先生は自己の廃頽趣味に絶対の芸術的価値と威信とを附与して、聊(いささ)か得意の感をなし、荒(すさ)みきった生涯の、せめてもの慰(なぐ)藉(さめ)にしようと試みるのであったが、しかし何となくその身の行末空(そら)恐(おそろ)しく、ああ人間もこうなってはもうおしまいだ。滋養に富んだ牛肉とお行儀のいい鯛の塩焼を美味のかぎりと思っている健全な朴(ぼく)訥(とつ)な無邪気な人たちは幸福だ。自分も最(も)う一度そういう程度まで立戻る事が出来たとしたら、どんなに万々歳なお目(め)出(で)度(た)かりける次第であろう……。惆(ちゅ)悵(うちょう)として盃(さかずき)を傾くる事二(ふた)度(た)び三(み)度(た)び。唯(と)見(み)ればお妾は新しい手拭をば撫(なで)付(つ)けたばかりの髪の上にかけ、下女まかせにはして置けない白(しら)魚(うお)か何かの料理を拵(こしら)えるため台所の板の間に膝をついて頻(しきり)に七(しち)輪(りん)の下をば渋(しぶ)団(うち)扇(わ)であおいでいる。
何たる物哀れな美しい姿であろう。夕化粧の襟足際(きわ)立(だ)つ手拭の冠(かぶ)り方、襟付の小(こそ)袖(で)、肩から滑り落ちそうなお召(めし)の半(はん)纏(てん)、お召の前掛、しどけなく引(ひっ)掛(かけ)に結んだ昼(ちゅ)夜(うや)帯(おび)、凡て現代の道徳家をしては覚えず眉を顰(ひそ)めしめ、警察官をしては坐(そぞろ)に嫌疑の眼(まなこ)を鋭くさせるような国(くに)貞(さだ)振(ぶ)りの年(とし)増(まざ)盛(か)りが、まめまめしく台所に働いている姿は勝手口の破れた水障子、引窓の綱、七(しち)輪(りん)、水(みず)瓶(がめ)、竈(かまど)、その傍(そば)の煤(すす)けた柱に貼(は)った荒(こう)神(じん)様(さま)のお札(ふだ)なぞ、一体に汚らしく乱雑に見える周囲の道(どう)具(ぐだ)立(て)と相(あい)俟(ま)って、草(くさ)双(ぞう)紙(し)に見るような何という果(はか)敢(な)い佗(わび)住(ずま)居(い)の情調、また哥(うた)沢(ざわ)の節廻しに唄い古されたような、何という三絃的情調を示すのであろう。先生はお妾が食事の仕度をしてくれる時のみではない。長火鉢の傍(そば)にしょんぼりと坐って汚(よご)れた壁の上にその影を映させつつ、物静に男の着物を縫っている時、あるいはまた夜(よる)の寝床に先ず男を寝かした後(のち)、その身は静に男の羽織着物を畳んで角(かく)帯(おび)をその上に載せ、枕(まく)頭(らもと)の煙草盆の火をしらべ、行(あん)燈(どう)の燈(とう)心(しん)を少しく引込め、引廻した屏(びょ)風(うぶ)の端(はし)を引直してから、初めて片膝を蒲団の上に載せるように枕頭に坐って、先ず一服した後(あと)の煙(キセ)管(ル)を男に出してやる――そういう時々先生はお妾に対して口には出さない無限の哀傷と無限の感謝を覚えるのである。無限の哀傷は恐ろしい専制時代の女子教育の感化が遺伝的に下町の無教育な女の身に伝(つたわ)っている事を知るがためである。無限の感謝は新時代の企てた女子教育の効果が、専制時代のそれに比して、徳育的にも智育的にも実用的にも審美的にも一つとして見るべきもののない実例となし得るがためである。無筆のお妾は瓦(ガ)斯(ス)ストーヴも、エプロンも、西(せい)洋(よう)綴(とじ)の料理案内という書物も、凡(すべ)て下(へ)手(た)の道(どう)具(ぐだ)立(て)なくして、巧に甘(うま)いものを作る。それと共に四季折々の時候に従って俳諧的詩趣を覚えさせる野菜魚介の撰択に通暁している。それにもかかわらず私はもともと賤しい家業をした身(から)体(だ)ですからと、万事に謙譲であって、いかほど家庭をよく修め男に満足と幸福を与えたからとて、露ほどもそれを己れの功としてこれ見よがしに誇る心がない。今(いま)時(どき)の女学校出身の誰々さんのように、夫の留守に新聞雑誌記者の訪問をこれ幸い、有難からぬ御面相の写真まで取出して﹁わらわの家庭﹂談などおっぱじめるような事は決してない。かく口汚く罵るものの先生は何も新しい女(フェ)権(ミニ)主(ズ)義(ム)を根本から否定しているためではない。婦人参政権の問題なぞもむしろ当然の事としている位である。しかし人間は総じて男女の別なく、いかほど正しい当然な事でも、それをば正当なりと自分からは主張せずに出しゃばらずに、何処までも遠慮深くおとなしくしている方がかえって奥(おく)床(ゆか)しく美しくはあるまいか。現代の新婦人連は大方これに答えて、﹁そんなお人(ひと)好(よし)な態度を取っていたなら増(ます)々(ます)権利を蹂(じゅ)躙(うりん)されて、遂には浮(うか)瀬(むせ)がなくなる。﹂というかも知れぬ。もし浮瀬なく、強い者のために沈められ、滅(ほろぼ)されてしまうものであったならば、それはいわゆる月に村(むら)雲(くも)、花に嵐の風(ふぜ)情(い)。弱きを滅す強き者の下(げせ)賤(ん)にして無礼野蛮なる事を証明すると共に、滅される弱き者のいかほど上品で美麗であるかを証明するのみである。自己を下賤醜悪にしてまで存在を続けて行く必要が何処にあろう。潔(いさぎ)よく落花の雪となって消(きゆ)るに如(し)くはない。何に限らず正当なる権利を正当なりなぞと主張する如きは聞いた風(ふう)な屁(へり)理(く)窟(つ)を楯(たて)にするようで、実に三(さん)百(びゃ)代(くだ)言(いげ)的(んてき)、新聞屋的、田舎議員的ではないか。それよりか、身に覚えなき罪(つみ)科(とが)も何の明しの立てようなく哀れ刑場の露と消え……なんテいう方が、何となく東洋的なる固有の残忍非道な思いをさせてかえって痛快ではないか。青山原宿あたりの見掛けばかり門構えの立派な貸家の二階で、勧(かん)工(こう)場(ばし)式(き)の椅子テーブルの小道具よろしく、女子大学出身の細君が鼠色になったパクパクな足(た)袋(び)をはいて、夫の不品行を責め罵るなぞはちょっと輸入的ノラらしくて面白いかも知れぬが、しかし見た処の外観からして如何にも真(しん)底(そこ)からノラらしい深みと強みを見せようというには、やはり髪の毛を黄(きいろ)く眼を青くして、成ろう事なら言葉も英語か独(ドイ)逸(ツ)語(ご)でやった方がなお一層よさそうに思われる。そもそも日本の女の女らしい美点――歩行に不便なる長い絹の衣(きも)服(の)と、薄暗い紙張りの家屋と、母(ぼい)音(ん)の多い緩慢な言語と、それら凡(すべ)てに調和して動かすことの出来ない日本的女性の美は、動的ならずして静止的でなければならぬ。争ったり主張したりするのではなくて苦しんだり悩んだりする哀れ果(はか)敢(な)い処にある。いかほど悲しい事辛(つら)い事があっても、それをば決して彼(か)のサラ・ベルナアルの長(なが)台(ぜり)詞(ふ)のようには弁じ立てず、薄暗い行(あん)燈(どう)のかげに﹁今頃は半(はん)七(しち)さん﹂の節廻しそのまま、身をねじらして黙って鬱(ふさ)込(ぎこ)むところにある。昔からいい古した通り海(かい)棠(どう)の雨に悩み柳の糸の風にもまれる風(ふぜ)情(い)は、単に日本の女性美を説明するのみではあるまい。日本という庭園的の国土に生ずる秩序なき、淡泊なる、可憐なる、疲労せる生活及び思想の、弱く果敢き凡ての詩趣を説明するものであろう。
然り、多年の厳しい制度の下(もと)にわれらの生活は遂に因襲的に活気なく、貧乏臭くだらしなく、頼りなく、間の抜けたものになったのである。その堪(た)えがたき裏(うら)淋(さび)しさと退屈さをまぎらすせめてもの手段は、不可能なる反抗でもなく、憤(ふん)怒(ぬえ)怨(ん)嗟(さ)でもなく、ぐっとさばけて、諦(あきら)めてしまって、そしてその平々凡々極まる無味単調なる生活のちょっとした処に、ちょっとした可(おか)笑(し)味(み)面白味を発見して、これを頓智的な極めて軽い芸術にして嘲(あざけ)ったり笑ったりして戯(たわむ)れ遊ぶ事である。桜さく三味線の国は同じ専制国でありながら支那や土(ト)耳(ル)古(コ)のように金と力がない故万(ばん)代(だい)不(ふえ)易(き)の宏大なる建築も出来ず、荒凉たる沙漠や原野がないために、孔(こう)子(し)、釈(しゃ)迦(か)、基(キリ)督(スト)などの考え出したような宗教も哲学もなく、また同じ暖い海はありながらどういう訳か希(ギリ)臘(シヤ)のような芸術も作らずにしまった。よし一つや二つ何か立派などっしりした物があったにしても、古今に通じて世界第一無類飛(とび)切(き)りとして誇るには足りないような気がする。然らば何をか最も無類飛切りとしようか。貧乏臭い間の抜けた生活のちょっとした処に可(おか)笑(し)味(み)面白味を見出して戯れ遊ぶ俳句、川柳、端(はう)唄(た)、小(こば)噺(なし)の如き種類の文学より外には求めても求められまい。論より証拠、先ず試みに﹃詩経﹄を繙(ひもと)いても、﹃唐詩選﹄、﹃三体詩﹄を開いても、わが俳句にある如き雨漏りの天井、破(やぶ)れ障(しょ)子(うじ)、人馬鳥獣の糞(ふん)、便所、台所などに、純芸術的な興味を托した作品は容易に見出されない。希(ギリ)臘(シヤ)羅(ロー)馬(マ)以降泰(たい)西(せい)の文学は如何ほど熾(さかん)であったにしても、いまだ一(いち)人(にん)として我が俳諧師其(きか)角(く)、一(いっ)茶(さ)の如くに、放屁や小便や野(のぐ)糞(そ)までも詩化するほどの大胆を敢(あえ)てするものはなかったようである。日常の会話にも下(しも)がかった事を軽い可(ユウ)笑(モ)味(ア)として取扱い得るのは日本文明固有の特徴といわなければならない。この特徴を形造った大天才は、やはり凡(すべ)ての日本的固有の文明を創造した蟄(ちっ)居(きょ)の﹁江(えど)戸(じ)人(ん)﹂である事は今更茲(ここ)に論ずるまでもない。もし以上の如き珍々先生の所論に対して不同意な人があるならば、請(こ)う試みに、旧習に従った極めて平凡なる日本人の住(じゅ)家(うか)について、先ずその便所なるものが縁(えん)側(がわ)と座敷の障子、庭などと相(あい)俟(ま)って、如何なる審美的価値を有しているかを観察せよ。母(おも)家(や)から別れたその小さな低い鱗(こけ)葺(らぶき)の屋根といい、竹格子の窓といい、入(いり)口(くち)の杉戸といい、殊に手を洗う縁先の水(みず)鉢(ばち)、柄(ひし)杓(ゃく)、その傍(そば)には極って葉(はら)蘭(ん)や石(つわ)蕗(ぶき)などを下(した)草(くさ)にして、南天や紅梅の如き庭木が目隠しの柴垣を後(うしろ)にして立っている有様、春の朝(あした)には鶯がこの手(ちょ)水(うず)鉢(ばち)の水を飲みに柄杓の柄(え)にとまる。夏の夕(ゆうべ)には縁の下から大(おおき)な蟇(ひきがえる)が湿った青(あお)苔(ごけ)の上にその腹を引(ひき)摺(ず)りながら歩き出る。家の主(ある)人(じ)が石(せき)菖(しょう)や金魚の水鉢を縁側に置いて楽しむのも大抵はこの手水鉢の近くである。宿の妻が虫籠や風(ふう)鈴(りん)を吊(つる)すのもやはり便所の戸口近くである。草双紙の表紙や見返しの意匠なぞには、便所の戸と掛(かけ)手(てぬ)拭(ぐい)と手水鉢とが、如何に多く使用されているか分らない。かくの如く都会における家庭の幽雅なる方面、町(まち)中(なか)の住いの詩的情趣を、専(もっぱ)ら便所とその周囲の情景に仰いだのは実際日本ばかりであろう。西洋の家庭には何処に便所があるか決して分らぬようにしてある。習慣と道徳とを無視する如何に狂激なる仏(フラ)蘭(ン)西(ス)の画家といえども、まだ便所の詩趣を主題にしたものはないようである。そこへ行くと、江戸の浮世絵師は便所と女とを配合して、巧みなる冒険に成功しているのではないか。細帯しどけなき寝(ねま)衣(きす)姿(がた)の女が、懐(かい)紙(し)を口に銜(くわえ)て、例の艶(なまめ)かしい立(たて)膝(ひざ)ながらに手水鉢の柄杓から水を汲んで手先を洗っていると、その傍(そば)に置いた寝(ね)屋(や)の雪(ぼん)洞(ぼり)の光は、この流派の常(つね)として極端に陰影の度を誇張した区劃の中に夜(よる)の小(こさ)雨(め)のいと蕭(しめ)条(やか)に海(かい)棠(どう)の花(はな)弁(びら)を散す小庭の風(ふぜ)情(い)を見せている等は、誰でも知っている、誰でも喜ぶ、誰でも誘(いざな)われずにはいられぬ微妙な無声の詩ではないか。敢えて絵(えそ)空(らご)事(と)なんぞと言う勿(なか)れ。とかくに芝居を芝居、画(え)を画とのみして、それらの芸術的情趣は非常な奢(しゃ)侈(し)贅(ぜい)沢(たく)に非(あら)ざれば決して日常生活中には味われぬもののように独断している人たちは、容易に首(しゅ)肯(こう)しないかも知れないが、便所によって下町風な女姿が一層の嬌(きょ)艶(うえん)を添え得る事は、何も豊(とよ)国(くに)や国(くに)貞(さだ)の錦(にし)絵(きえ)ばかりには限らない。虚(う)言(そ)と思うなら目にも三坪の佗(わび)住(ずま)居(い)。珍々先生は現にその妾宅においてそのお妾によって、実地に安上りにこれを味ってござるのである。
今の世は唯(ただ)さえ文学美術をその弊害からのみ観察して宛(さなが)ら十悪七罪の一ツの如く厭(いと)い恐れている時、ここに日常の生活に芸術味を加えて生存の楽しさを深くせよといわば、それこそ世を害し国を危くするものと老人連はびっくりするであろう。尤(もっと)も国民的なる大芸術を興(おこ)すには個人も国家もそれ相当に金と力と時間の犠牲を払わなければならぬ。万が一しくじった場合には損害ばかりが残って危険かも知れぬ。日本のような貧乏な国ではいかに思想上価値があるからとてもしワグナアの如き楽劇一曲をやや完全に演ぜんなぞと思(おも)立(いた)たば米や塩にまで重税を課して人民どもに塗(とた)炭(ん)の苦しみをさせねばならぬような事が起るかも知れぬ。しかしそれはまずそれとして何もそんなに心配せずとも或種類の芸術に至っては決して二(にの)宮(みや)尊(そん)徳(とく)の教と牴(てい)触(しょく)しないで済むものが許(いく)多(ら)もある。日本の御老人連は英(イギ)吉(リ)利(ス)の事とさえいえば何でもすぐに安心して喜ぶから丁度よい。健全なるジョン・ラスキンが理想の流れを汲んだ近世装飾美術の改革者ウィリアム・モオリスという英吉利人の事を言おう。モオリスは現代の装飾及(および)工芸美術の堕落に対して常に、趣味Gotと贅沢 Luxe とを混同し、また美 Beaut と富貴 Richesse とを同一視せざらん事を説き、趣味を以て贅沢に代えよと叫んでいる。モオリスはその主義として芸術の専門的偏狭を憎みあくまでその一般的鑑賞と実用とを欲したために、時にはかえって極端過激なる議論をしているが、しかしその言う処は敢て英国のみならず、殊にわが日本の社会なぞに対してはこの上もない教訓として聴かれべきものが尠(すくな)くない。一例を挙ぐれば、現代一般の芸術に趣味なき点は金持も貧乏人もつまりは同じであるという事から、モオリスは世のいわゆる高尚優美なる紳士にして伊(イ)太(タ)利(リ)亜(ヤ)、埃(エジ)及(プト)等を旅行して古代の文明に対する造(ぞう)詣(けい)深く、古美術の話とさえいえば人に劣らぬ熱心家でありながら、平然として何の気にする処もなく、請(うけ)負(おい)普(ぶし)請(ん)の醜劣俗悪な居(きょ)室(しつ)の中(なか)に住んでいる人があると慨嘆している。これは知識ある階級の人すら家具及び家内装飾等の日常芸術に対して、一向に無頓着である事を痛(つう)罵(ば)したものである。わが日本の社会においてもまた同様。書画骨董と称する古美術品の優秀清雅と、それを愛好するとか称する現代紳士富豪の思想及生活とを比較すれば、誰れか唖(あぜ)然(ん)たらざるを得んや。しかして茲(ここ)に更に一層唖然たらざるを得ざるは新しき芸術新しき文学を唱(とな)うる若き近世人の立(たち)居(いふ)振(るま)舞(い)であろう。彼らは口に伊(イ)太(タ)利(リ)亜(ヤ)復興期の美術を論じ、仏国近世の抒情詩を云(うん)々(ぬん)して、芸術即ち生活、生活即ち美とまでいい做(な)しながらその言行の一致せざる事むしろ憐むべきものがある。看(み)よ。彼らは己れの容貌と体格とに調和すべき日常の衣服の品質縞(しま)柄(がら)さえ、満足には撰択し得ないではないか。或者は代(だい)言(げん)人(にん)の玄関番の如く、或者は歯医者の零(おち)落(ぶれ)の如く、或者は非番巡査の如く、また或者は浪(なに)花(わぶ)節(し)語りの如く、壮士役者の馬の足の如く、その外見は千差万様なれども、その褌(ふんどし)の汚さ加減はいずれもさぞやと察せられるものばかりである。彼らはまた己れが思想の伴侶たるべき机上の文房具に対しても何らの興味も愛好心もなく、卑俗の商人が売(うり)捌(さば)く非美術的の意匠を以て、更に意とする処がない。彼らは単に己れの居室を不潔乱雑にしている位ならまだしもの事である。公衆のために設けられたる料理屋の座敷に上(あが)っては、掛物と称する絵画と置物と称する彫刻品を置いた床(とこ)の間(ま)に、泥だらけの外(がい)套(とう)を投げ出し、掃き清めたる小庭に巻煙草の吸殻を捨て、畳の上に焼け焦(こが)しをなし、火鉢の灰に啖(たん)を吐くなぞ、一挙一動いささかも居室、家具、食器、庭園等の美術に対して、尊敬の意も愛惜の念も何にもない。軍人か土(どか)方(た)の親方ならばそれでも差(さし)支(つかえ)はなかろうが、いやしくも美と調和を口にする画家文士にして、かくの如き粗暴なる生活をなしつつ、毫(ごう)も己れの芸術的良心に恥(はず)る事なきは、実(げ)にや怪しともまた怪しき限りである。さればこれらの心なき芸術家によりて新に興さるる新しき文学、新しき劇、新しき絵画、新しき音楽が如何にも皮相的にして精神気(きは)魄(く)に乏しきはむしろ当然の話である。当節の文学雑誌の紙質の粗悪に植(しょ)字(くじ)の誤り多く、体裁の卑俗な事も、単に経済的事情のためとのみはいわれまい……。
閑(あだ)話(しご)休(とは)題(さておきつ)。妾宅の台所にてはお妾が心づくしの手料理白魚の雲(うに)丹(や)焼(き)が出来上り、それからお取り膳(ぜん)の差しつ押えつ、まことにお浦(うら)山(やま)吹(ぶ)きの一(いち)場(じょう)は、次の巻(まき)の出づるを待ち給えといいたいところであるが、故あってこの後(あと)は書かず。読者諒(りょう)せよ。
明治四十五年四月