一
なにがしと呼ぶ婦人雑誌の編へん輯しゅ人うにんしばしばわが廬ろに訪とひ来りて通俗なる小説を書きてたまはれと請こふこと頻しきりなり。そもそも通俗の語たるやその意解しやすきが如くにしてまた解しがたし。僕一人の観て以て通俗となすもの世人果して然りとなすや否やいまだ知るべからざるなり。通俗の意はけだし世と共に変ずべきものなるべし。川せん柳りゅう都どど々い逸つは江戸時代にあつては通俗の文学なりき。しかして今日は然らず。今日もしつぶさに﹃末すえ摘つむ花はな﹄のいふ処を解釈し得ば容易に文学博士の学位を得べし。むかし女郎の無心手紙には候かしくの末に都々一なぞ書き添るもの多かりしが、今日大正の手紙には童謡とやら短歌とやら書きつけて性の悶もだえを告ぐとか聞けり。されば今日の男女に喜ばるべき通俗小説をものせんとせば、筆を秉とるに先んじてまづ今日の下かじ情ょうに通暁せざるべからざるなり。下情に通暁せんにはその眼光水戸黄門の如くなるにあらざれば、その経歴遠とお山やま左さえ衛もん門のじ尉ょうに比すべきものなくんばあるべからず。ここにおいてや通俗小説の述作豈あにそれ容易の業わざならんや。人おのおの好むところあり。下げ戸こあり。上じょ戸うごあり。上戸の中うち更に泣くものあり笑ふものあり怒るものあり。然れども下戸上戸おしなべて好むところのものまたなきにあらず。淫事即すなわちこれなり。当今の人これを呼んで性の要求となす。なほ車夫の四辻を十字街といひ芸妓の手踊を舞踊とよぶが如し。当世人の言語一として新聞記者の口こう吻ふんに似ざるはなし。厭いとふべきなり。 通俗の本旨既に色欲淫事にあり。然りとすれば一たび筆を通俗の小説に秉とらんとするもの、淫事を他にしてまた何をか描かんや。﹃源氏物語﹄は我国淫本の権けん輿よなり。泰たい西せいにボッカーズの﹃浮世双紙﹄、ナワール女王の﹃懺ざん悔げろ録く﹄等あり。漢土に﹃飛燕外伝﹄、﹃雑事秘﹄の類あり。近世に至つて﹃紅楼夢﹄﹃金瓶梅﹄の如き、皆読む者をしてアヂな気を起さしむ。 淫書の見解また時によりて変ず。古人の眉まゆを顰ひそめて淫書となせしもの、今こん人じん見て必しも然りとなさざるものあり。今人の世に害ありとなすもの、将来において果して然るや否や知るべきにあらず。宮みや古こ路じの浄瑠璃は享きょ保うほ元げん文ぶんの世にあつては君子これを聴いて桑そう間かん濮ぼく上じょうの音となしたりといへども、大正の通人は頤あごを撫なでて古雅掬きくすべしとなす。けだし時世変遷の然らしむるところなり。大正癸きが亥いの年の夏、女記者お何といふものあり。夫の目を忍びて小説家某と密通し、事の露あらわれんとするや姦婦姦夫倶ともに為すところを知らず、人跡断えたる山中の一ツ家に隠れ、荒淫幾日、遂に相抱いて縊い死しす。日を経て悪臭数里に漂ひ人の初てこれを知るや、死屍既に腐爛して性の陰陽を弁ぜず、眼球頭髪倶に脱落して蛹うじ雲集せしといふ。当世の才子佳人これを伝唱して以て絶代の佳話となす。そのいふ所を聞くに、道徳を超越して能よく本能を満足せしめたるが故なりと。狂言作者古ふる河かわ黙もく阿あ弥みのかつてその戯曲﹃鵜飼の篝かが火りび﹄をつくるや狼の羣むれをして山中の辻堂に潜ひそめる淫婦の肉を喰つて死に致さしむ。その意は勧善懲悪にありしなり。これに由つてこれを観れば、道徳審美の観念時と共に浮動することあたかも年々時様の相異るに似たりといふべし。 ああ、大正の世人既に姦淫双そう斃へいの事を説いて以て盛世の佳話となす。この時に当つて僕独ひとり耳を掩おおうて鄙ひ語ご聴くに堪へずとなすが如きは甚はなはだ通俗の本旨に戻もとるものなり。いやしくも筆を通俗小説に秉とらんとするものの為すべき所にあらざるや論を俟またず。僕今芸者の長なが襦じゅ袢ばんを購あがなはんがために、わが生涯の醜事を叙し出して通俗小説に代へ以て売文の貲しを貪むさぼらんとす。老ろう羸るいなほかくの如くにして聊いささか時運に追随することを得たりとせんか、幸何ぞよくこれに若しくものあらんや。 僕年甫はじめて十八、家婢に戯たわむる。﹃柳やな樽ぎだる﹄に曰く﹁若旦那夜は拝んで昼叱り。﹂とけだし実景なり。翌年独ひとり芳よし原わらの小こご格う子しに遊び、三年を出でざるに、東廓南品、甲駅、板橋、凡そ府内の岡おか場ばし所ょにして知らざる処なきに至る。二十四歳海外に渡航するや五大洲各国の娘じょ子うし軍ぐんと※げき﹇#﹁卓+戈﹂、220-2﹈を交まじへ皆抜ばつ羣くんの功あり。然しかれどもなほ安やすんぜず、窃ひそかに歎じて曰く宮本武蔵は※ひ々ひ﹇#﹁けものへん+非﹂、220-3﹈を退治せり。洋人の色に飢るや綿羊を犯すものあり。僕未いまだ能よくここに到るを得ずと。年三十にして家に帰るや、爾じら来いここに十有余年、追歓索笑虚日あるなし。妓ぎを家に納いるる事数次。自ら旗亭を営むこと両度。細君を追出してまた迎る事前後三人。今年、馬歯蚤はやくも桑そう年ねんに垂なんなんとして初めておくびの出るを覚えたり。﹃操みさ草おぞ紙うし﹄といへる書に曰く﹁まことに色の世の中なればとかく戯れ遊ぶべし。人間わづか五十年といへど四十からはぱつとも遊びにくし。その内も十七、八までは何の心もなく世をくらせば差引残り二十二年ほどなり。それさへ半分は寝て過せばわづか十一年なり。それも悉く通ひ詰にする人あらんやうもなければ、よく遊んでからが、高が五十年の中にまる十年とは遊ばれぬ人間世と知るべし。﹂と。ああ、僕夜半夢覚めてつらつら四十余年の生涯を顧るに、身蒲ほり柳ゅうの質にしてしかも能く人一倍遊びたりと思へば、平生おのづから天命をまつ心ありしが故にや、ことしの秋の大地震にも無む辜この韓人を殺して見んなぞとの悪念を起さず。火事場の稼ぎにもゴムの鎧よろいに身を固むることを忘れざれば天てん狗ぐの鼻はな柱ばしら遂に落るの憂なく、老眼今なほ燈下に毛けじ蝨らみを捫ひねつて当世の事を談ずるの気概あり。家にはたびたび狐狸妖怪棲すみ家かをなせしといへども、幸にして産を破るに至ざりしは何たる果報ぞと、今になりては妖婦の魔力よりも僕が身の安泰かへつて不思議とやいふべき。二
卯うの年に生れて九きゅ星うせ四いし緑ろくに当るものは浮気にて飽きやすき性しょうなりといへり。凝こり性しょうの飽性ともいへり。僕はそもそもこの年この星の男なり。さるが故にや半年と長つづきした女はなし。大抵は三月目位にて、庭の花にはあらねど時候の変かわ目りめが色のかはり目とはなるなりけり。然れどもこれは後より言ふはなしにて始より一季半季ときまりをつけて掛るわけではさらさらなし。初しょ手ては随分この女ならば末の末までもと、のぼせ上るが常なるを、さうと見て取るや否や、この男殺すも活いかすも勝手次第と我儘の仕しほ放うだ題いしはじめるは女なり。男の目に女子が天性の欠点ありありと見えすいて来るは正にこの時ぞかし。初は嚔くさめ一ツも男の見る前には遠慮せしを、髪かたち身じまひは勿論なり。一ツ寝の床に寐ねぞ相うをかまはず寐ねご言と歯ぎしりに愛想をつかさるるとは知らで、たまたま小言の一も言はるれば、一いち図ずに薄情とわるく気を廻して、これよりいよいよ何かにつけて悋りん気きの角を現す。悋気は女の慎しむべきところ。女にして悋気を慎しまば、その他の欠点は男大抵はこれを許しこれを忍ぶべし。悋気をつつしむ愚婦の徳は廻まわ気りぎはげしき才女にまさること万ばん々ばんなり。つらつら女子が悋気のありさまを思ひ見るに、その境遇性質体格によりて一様ならず、女子の悋気はなほ男子の欝憤に同じきものなれば、その行に発する所おのづからその為ひと人となりを現すものなり。顳こめに即そっ功こう紙し張りて茶碗酒引かける流儀は小こう唄たの一ツも知らねば出来ぬことなるべく、藁わら人にん形ぎょうに釘打つ丑うしの時とき参まいりは白しろ無む垢くの衣裳に三枚歯の足あし駄だなんぞ物もの費いりを惜しまぬ心掛すでに大おお時じだ代いなり。格子先に男の胸倉取つて泣きわめくは古今通例の下世話にして罪はなし。羽織の紐より帯ネキタイなんぞの結目に気をつけ、甚しきはすぐと男の懐中へ手を入れ移うつ香りがをためすが如きに至つては浅間しくもまたいやらしき限りなり。事あるごとにおのれが衣類髪のものを箪たん笥すにしまひ鍵をかけて切口上に離縁申出す女房あり。また何かといふとすぐに駈け出して親類友達の家なぞへ行つて泊る女房あり。いづれも三日打捨てて置けば必ず向より詫を入れて還ること、あたかももう来ねへぞといふお客必かならずその晩に来るが如し。夜中に鴨かも居いへ細帯を引掛け、あるいは井いど戸ば端たをうろついて見せる女、いづれも人の来つて留めるを待つこと、これまた袂を振つて帰る帰るとわめく甚じん助すけ親おや爺じと同様なり。人知れず硫酸モルヒネ猫ねこ不いら入ずなんぞ飲むものなきにしもあらねど、こは啻ただに痴情のなす所のみにあらず、男に入いれ揚あげ貢みつぎし後ぽんと捨てられなぞしたる揚あげ句くの果にして、色情のほかに金銭のいざこざ大おおいにあるものと知るべし。女の財宝に心ひかるること哀れにもまたおそろし。然るが故に、新聞雑誌の議論にかぶれたる新しき女の、ともすれば貞操蹂じゅ躪うりんの訴訟に金銭を獲えんとしてかへつて弁護士の喰物となるも、色よりは慾のあやまちなり。尤もっともこの手てあ合いの女、大抵悪わる摺ずれしたる田舎出のものにあらざれば市中小こあ商きん人どの娘にして江戸ツ児にはなき事なり。僕先年三田慶応義塾に勤めし頃娶めとりしもの、湯嶋聖堂の裏手に相応の店を張りし商家の娘なりしが、離縁のはなしに親元より五百円ほしき由よし申出でたれば持たせつかはしたる事あり。東京の女にもかかる例あれば参考のため記しるし置くなり。その後売女の手てぎ切れき金んにつきてはまた別に記すべし。世には売女とさへいへば貪欲甚しきやうに思ふものありといへども、いざ手切金のだんになりて話さへわかれば案外さつぱりとしたものにて、わづかばかりの目めく腐され金がねに人の足を運ばせるはかへつて素しろ人うとに多し。一ひと口くち物ものに頬を焼くといふ古人の金言思ふべきなり。三
女子の悋りん気きはなほ恕ゆるすべし。男子が嫉しっ妬とこそ哀れにも浅あさ間ましき限りなれ。そもそも嫉妬は私欲の迷にして羨せん怨えんの心憤ふん怒ぬと化して復讐の悪意を醸かもす。野や暮ぼの骨こっ頂ちょうなり。血気の少年はさて置き分ふん別べつ盛ざかりの男が刃はも物のざ三んま昧い無理心中なぞに至つては思案の外ほかにして沙汰のかぎりなり。およそ森羅万象一つとして常住なるはなし。時に昼夜あり節に寒暖あるは自然の変化なり。変化に先立ちてこれが備そなえをなさざれば遣やり繰くり身しん上しょういかでか質の流を止めんや。夜ごと枕並ぶるおのれが女の心に気もつかで、飽かれて後に怨うらみ、怨みて後に怒るは愚にあらずや。怨み憤いきどおるに先立ちて先見の明なかりしおのれが檮とう昧まいを愧はづべきに、未練に未練を重ねて離行く女の後を追ひ、是が非にも己おのが実意の底を見せて改心させんと片意地になるが如きは以ての外の不ふり量ょう見けんなり。そもそも男女の恋仲、仁義道徳を説いて然る後に出来合ふものにあらず、初手の馴れ染めは唯ふとした気のまよひより起るものなれば、相手の心変りを責めて引戻すに義理を論じ人情を説くも詮せん方かたなし。むかし思へば見ず知らずとは小唄の文句にもあることなれば、それもこれも皆一ツ時の縁なり。片時たりとも嬉しき夢を見ただけが徳と思はば誰をか怨み何をか悲しまんや。 僕天性浮気の身なれば従つて嫉しっ妬との執念薄く、嫉妬の執念薄きほどなれば、いやがるものを無理無体にくどきなびかせんとの執着は更になし。さりとて気ざな咳払ひして据すえ膳ぜんならでは喰ひやせぬといふほどの自うぬ惚ぼれもなければ、まづ小当りに当つて出来やすきを取る。出来やすきを取るが故に捨てるも捨てられるも皆その時の運とあきらめるは年来僕の取り来りし道にぞありける。岡おか目めは八ちも目くこれを見て頻しきりに襤ぼろ褸か買いといひしも一理なきにあらざるべし。襤褸買は安やす物もの買がいの銭ぜに失ひをいふ。その意一文もん惜しみの百損に同じといへども、これ畢ひっ竟きょうその結果を見ての推論なるべし。人誰か完全を望まざるものあらん。然りといへども小しょ人うじんにして珠たまを抱けば必かならず過あやまちあり。鏡に面つらをうつして分を守るは身を全うするの道たるを思はば襤褸買必しも百損といふを得んや。一いっ張ちょ羅うらの晴着に空模様ばかり気にしては花見の興も薄かるべし。日の暮るるも知らで遊び歩くは不断着の尻しり端はし折ょりにしくぞなき。さればや僕少壮の頃吉よし原わら洲すさ崎きに遊びても廓かく内ない第一と噂に高き女を相あい方かたにして床の番する愚を学ばず、二、三枚下つたところを買つて気楽にあそぶを得え手てとなしけり。肌合面白く床の上手なるものかへつて二、三枚下つた処にありしぞかし。然るを世の嫖ひょ客うきゃくといふものは大抵土地の評判を目当にして女を選び、新聞の美人投票に当りしものなぞ買ふを名誉とす。これ医者ならば博士は皆名医なりと思ひ、宮くな内いし省ょう御用と銘打ちし菓子は皆上等と心得て安心する輩やからなり。名義に拘こう泥でいする風習勿論昔よりこれありしといへども近来に至つてますます甚しきは何ぞや。新橋芸者の品しな定さだめにもすぐと一流二流の差別をつけるはまだしも忍ぶべし。文学絵画の品評にまでとかく作家の等級をつけたがるは何たる謬びゅ見うけんぞや。尤もっともかくの如き謬見に捉はるるは田舎出の文士に多し。田舎出の文士に限つて世評を気にかけ売名に汲々として新春年賀の端はが書きにもおのれが著書の目録なんぞを書きつらぬるが癖なり。僕西洋より帰り来りし頃には文壇売名の悪風いまだ今日の如く甚しからざりしが大正四、五年の頃より文壇のみならず世間の風潮全く一変したり。芸者も文士画工と同じく売名に憂身をやつすもの追々に増加し踊三味線のさらひの如きも劇場博覧会その他公開の場所へ持出し新聞紙に芸評を掲げらるるを無上の名誉となすに至れり。この悪風の生ずる処一つには遊芸師匠の教きょ唆うさによるものにして、師匠は芸者の名を借りて門戸を張らんとし新聞におさらひの評判出るを以て流派の面目と思ひなしたり。烟えん花かき狭ょう斜しゃの風俗かくの如く新聞紙を利用して売名をのみ専もっぱらとなすに至つては粋すいも意気もあつたものにあらず。粋といひ意気といふ江戸伝来の風儀なくなれば三味線弾は広告屋の楽隊と異る所なく芸者は簡単なる醜業婦にして、まづは生きたる共同便所ともいふべきものとはなるなり。病毒少くして揚あげ代だい廉やすければ醜業婦の能のう事じは畢おわるなり。ここにおいてや明治四十一、二年の頃より大正三、四年の頃まで浅草十二階下、日にほ本んば橋しは浜まち町ょう蠣かき殻がら町ちょう辺に白しろ首くび夥おびただしく巣を喰ひ芸者娼妓これがために顔色なかりき。その頃芸者買の勘定どの位かと考ふるに、待まち合あい席せき料りょう一円、芸者祝しゅ儀うぎ枕まく金らがね共二円、玉ぎょ代くだい一本二十五銭、女中祝儀三拾銭を以て最低とす。新橋にてもこの程度にて遊べるところ路ろ地じの小こま待ちあ合いには随分ありたり。神かぐ楽らざ坂かふ富じみ士ちょ見う町よ四つ谷や辺ならば芸者壱円にて帯を解くものもありしかど名ばかりの芸者にて長なが襦じゅ袢ばんは胴どう抜ぬきのメレンスなり。然るに浜町の白首、俗に高等とよびしもの衣裳容貌山の手の芸者に劣らざるものにして待合席料一円、女並なみ五、六十銭より上じょ玉うだま一円どまりにて別に女中の祝儀は取らず。これ女の揚代より四分を待合が取るゆゑとか聞きぬ。御泊りとなれば芸者は十一時より翌朝まで玉ぎょくだけでも十二本の規き則めなるに、浜町は女二円にて事済みなり。かくの如く浜町のあそびは芸者買の半分にも足らざるほどにしてしかも振られるといふ事なければ流は行やること夥おびただしく、遂に芸者組合より苦情出で内々その筋へ歎願密告せしかば大正五年四月の頃より時の警視総監西久保某といへる人命令を部下の角かく袖そでに伝へてどしどし市中の白首を召めし捕とりけり。以後浜町蠣殻町辺には白首の優ゆう物ぶつ跡を絶ち、芝しば神しん明めい境けい内だい、柳やな原ぎわ郡らぐ代んだ屋いや敷しきなぞ維新前後よりありし魔窟も忽たちまち一掃せられしは、そぞろ天てん保ぽう寅とら年どしのむかしも思ひ出されたり。その代り山の手の芸者が売淫この時よりいよいよ公然黙許の形となり芸者連名帳にれいれいと枕金の高を書出す勢とはなりけり。まづ僕が多年の実歴を回想して市中色いろ町まちの盛衰を語るべし。四
明治三十年の頃僕麹こう町じま一ちい番ちば町んちょうの家に親の脛すねをかじりゐたり。門を出でて坂を下れば富士見町の妓ぎ家か軒先に御ごじ神んと燈うをぶら下げたり。御神燈とは妓の名を書きたる提ちょ灯うちんをいふなり。毎日学校への往ゆきかへりに提灯の名を早くも諳そらんじ女同士が格こう子し戸どの立ばなしより耳ざとく女の名を聞きおぼえて、これを御神燈の名に照し合すほどに、いつとなく何家の何ちやんはどんな芸者といふ事、一度も遊ばざるに蚤はやくこれを知る身ぞ賢かりける。 或日、行き馴れし近処の床とこ屋やに行きしに僕より五ツ六ツ年上の若い衆。この店の忰せがれなり。今日は親爺が親戚の法事に行きて留守といふを幸さいわい頻しきりに新宿ののろけ最中、がらりと店の硝ガラ子ス戸ど引きあけざま、兄さんといふ嬌きょ声うせい。前なる鏡に映りし姿、年の頃十七、八、つぶしに大きな平ひら打うちの銀ぎん簪かんざし、八はち丈じょうの半はん纏てんに紺こん足た袋びをはき、霜やけにて少し頬の赤くなりし円まる顔がお鼻高からず、襟えり白おし粉ろいに唐とう縮ちり緬めんの半はん襟えりの汚れた塩あん梅ばい、知らざるものは矢やば場おん女なとも思ふべけれど、僕は例の御神燈にて駿河家の抱かかえ小しまといふ名まで既に知つたるこの土地の芸者なり。小しまは大阪格子を後にしたる上あが框りかまちへ腰をかけ、散らばつた﹃都みや新こし聞んぶん﹄の間より真しん鍮ちゅうの長なが羅ラ宇ウ取り上げながら、兄さん、パイレートの絵はたまつたかへ。貰ひに来たんだよ。と泥だらけの駒こま下げ駄たはきし両足をぶらぶらさせ大きな叭あくびする顔を鏡に映して見てゐる様子かへつてあどけなし。後にて店の若わか衆いしゅにきけば腹ちがひの妹とやら言はれて何ともつかず此こち方らが気まりわるくなり、更に近処の烟草屋で内々にきいて見れば、宇都宮とやら高崎とやらにて半はん玉ぎょくに出てゐたりしがその後のわけは知らず去年帰つて来てこの土地から出たとの事。二にし七ちふ不ど動うの縁えん日にち、三番町や九くだ段んし下たの寄よ席せにても折々顔を見合す中うち或日突然向むこうよりにつこりと、笑顔を向けられて、僕その時は真赤になりしが、翌日はもう我慢がならず、横町の稲いな荷りの鄰に何庵とかいふ蕎そ麦ば屋やの二階より口をかけて小しまを呼べば、すぐに来て、あら、お酒がいらないのなら、待まち合あいさんから呼べばいいのに。つうえいぢやないか。と忝かたじけなき忠告。富士見町の妓風二十年前既にかくの如く開けたものなり。そも富士見町の妓家待合いつの頃より開け始めしにや。維新以前九段の坂上は馬場なりしといふ。富士見町は武家屋敷のみにして怪し気なる女師匠は麹町三丁目辺町家の間にありしのみなりとぞ。明治十六年酔すい多たど道う士しの著あらわせし﹃東京妓情﹄には麹町の名を掲かかぐるのみにして明に所在の地を示さず。明治十八年﹃東京流行細見記﹄には府下一般芸者之部といふ条くだりに、富士見町の部、小春、小ぎく、小とく、小すず、長吉の五名を出せるのみ。 僕の初めてこの地に遊びし頃妓家既に二、三十軒を富士見町に算し、十五、六軒を三番町に数へ得たり。待合の富士見町にあるもの菊の家、梅月、寿鶴︵後に相模家︶、常磐木、寿々村の如き今なほ僕の記憶するところなり。三番町には求友亭の名を記憶するのみにて余は悉く忘却す。料理屋に万源あり。紅こう葉よう小さざ波なみの門人ら折々宴会を催したるところなり。鰻うな屋ぎやの大おお和わ田だまた箱を入れたりしが陸軍の計けい吏りと芸者の無理心中ありしより店を閉とざしたり。今日電車通に繁昌せる魚久は当時魚屋にて仕出しをなせしのみ。三番町表通に大周楼といふ牛肉屋に接して小料理や魚清あり。麹きく坊ぼう派はの文士画家一時競つて魚清の娘お清を挑いどむ。その遂に何なん人びとの手に落ちしや知らず。お清後に半元服して三番町に待合を営みゐたるを見たり。その頃また五番町英国公使館裏手の坂道に快々亭とかいふ西洋料理屋ありて、その娘お富が嬌名はこのあたりに広々としたる坂本牧場に鳴く牛の声と共に近隣に聞え渡りしも、今よりして顧れば都の中とは思はれぬのどけさなり。招しょ魂うこ社んしゃの馬場の彼かな方たに琉球屋敷あり。筒つつ袖そでの着物に帯を前で結び、男も長き簪かんざしに髪を結ひたる琉球人の日傘手にして逍遥せしさま日もおのづから長き心地せり。韓国もいまだ滅びずしてありしかばその公使館もまた下二番町にありて、この二箇処へ出入りして道ならぬ栄えい耀ようをなす女らを人々皆後うし指ろゆびさして、琉球や朝鮮の毒を受けたら最後骨がらみになると言ひはやしき。二七不動に近き路地裏に西さい京きょ汁うし粉るこの行あん燈どうかけて、萩はぎの袖そで垣がきに石いし燈どう籠ろう置きたる店口ちよつと風雅に見せたる家ありけり。ここに年の頃は二十一、二、色は白けれど引ひき臼うすの如き尻しり付つき、背の低く肥ふとりたる姿の見るからにいやらしき娘こそ、琉球人の囲かこ者いものとの噂高くして、束髪に紫縮緬の被ひ布ふなぞ着て時々月げっ琴きんの稽けい古こに行くとは真赤な虚う言そ、その実は琉球屋敷の手すきに錦にし町きちょう辺の高等下宿へもかせぎに行くといふ事なりしが、僕も跡をつけて見たわけではなし。年月たちて明治四十一年の頃、僕友達に案内せられて、浜町二丁目五徳庵といふ鳥料理の近くなる小こま待ちあ合いに上りし時、上あがり花ばな持出る女中をふと見れば、まがふ方なくかの琉球屋敷へ出入の女なりしぞ奇遇なる。浜町の景況この女のはなしにて聞知るところ尠すくなからず。次の如し。五
明治四十一、二年の頃、浜町二丁目十三番地俚俗不ふど動うじ新んみ道ちといふあたりに置おき屋やと称となへて私娼を蓄たくわうる家十四、五軒にも及びたり。界かい隈わいの小待合より溝どぶ板いたづたひに女中の呼びに来るを待ち、女ども束髪に黒くろ縮ぢり緬めんの羽はお織り、また丸まる髷まげに大嶋の小袖といふやうな風俗にて座敷へ行く。その中には身なり人柄、昼中見てもまんざらでもなき者ありし故誰いふとなく高等とは言ひなしたり。あくまで素人らしく見せるが高等の得え手てなれば、女中の仕度して下へ行くまでは座敷の隅に小さくなつて顔も得え上あげず、話しかけても返事さへ気まりわるくて口の中といふ風なり。始め処女の如きはやがて脱だっ兎との終を示す謎とやいふべき。席料その他一切の勘定三円を出ざる事既に述べたり。浜町を抜けて明治座前の竈へっ河つい岸がしを渡れば、芳よし町ちょう組合の芸者家の間に打交りて私娼の置おき家やまた夥しくありたり。浜町の女と区別してこれを蠣かき殻がら町ちょうといへり。蠣殻町は浜町に比ぶれば気風ぐつと下りたりとて、浜町の方にては川かわ向むこうの地を卑しむことあたかも新橋芸者の烏から森すもりを見下すにぞ似たりける。当時東京市中の私し窩か子しを訪たずね歩むに、本所立川の入口相あい生おい町ちょうの埋立地に二階建の家五、六軒ありて夜は公然と御神燈をかかげてチヨイトチヨイトと客を呼びゐたり。中なか洲すま真さ砂ご座ざといふ芝居の横手の路地にも銘酒屋楊よう弓きゅ場うば軒を並べ、家名小さく書きたる腰こし高だか障しょ子うじの間より通がかりの人を呼び込む光景、柳原の郡代、芝神明、浅草公園奥おく山やま等の盛況に劣らず。山の手にては四谷津の守なる芸者家町の凹地に銘酒屋七、八軒ありしが暫時にして取払ひとなる。下した谷や池いけの端はた、湯ゆし嶋まて天んじ神んけ境いだ内い、また京橋築地あたりの小待合の中には、いづこより連れて来るか知らねど素人を専もっぱらとする家各四、五軒づつはありけり。京橋区役所裏の玉の家といふはこの道にて名高き由。銀座二丁目上方屋といふ花はな骨ガル牌タ売る店の前の路地に菊泉とかいふ待合は近処の鳥屋牛肉屋の女中洗せん湯とうのかへりにお客を引込むところとか聞きぬ。青山三聯隊の裏手にて墓地に接したる凹地にも明治四十二、三年の頃より達磨茶屋でき、また赤坂新町辺芸者家に接したる裏町にも白しろ首くびいつとはなく集り住みて人の袖を引きしが、この二箇処いづれも大正五年以後妖婦の跡を絶ちぬ。下谷佐竹ヶ原、根ね津づ、入いり谷や、芝しば愛あた宕ごし下た、小石川柳町、早わせ稲だつ田るま鶴きち巻ょ町う辺、いづれも話には聞きたれど、これらは親しく尋ね究むる暇なかりしものなればここには記さず。およそ明治の末年東京市内にありし私窩子の風俗、名家の文章にその跡を留めたるもの、本郷丸山の風俗の一葉女史が名作﹃にごりえ﹄に描かれたるを以て第一となすべし。﹃にごりえ﹄は明治二十八年の作なり。その一節に曰く、﹁店先へ腰をかけて駒こま下げ駄たのうしろでとんとんと土間を蹴るは二はた十ちの上を七つか十か引ひき眉まゆ毛げに作り生はえ際ぎわ、白おし粉ろいべつたりとつけて唇は人喰ふ犬の如く、かくては紅べにも厭らしきものなり。お力りきと呼ばれたるは中肉の背せか恰っこ好うすらりつとして洗ひ髪の大おお嶋しま田だに新わらのさわやかさ、頸えり元もとばかりの白粉も栄はなく見ゆる天然の色白をこれみよがしに乳ちのあたりまで胸くつろげて、煙草すぱすぱ長なが煙ギセ管ルに立たて膝ひざの無ぶさ作ほ法うさも咎とがめる人のなきこそよけれ。思ひ切つたる大形の浴ゆか衣たに引かけ帯は黒くろ繻じゅ子すと何やらのまがひ物、緋ひの平ひらぐけが背の処に見えて言はずと知れしこのあたりの姉さま風なり。︵略︶店は二にけ間んま間ぐ口ちの二階造り、軒のきには御ごじ神んと燈うさげて盛もり塩しお景気よく、空あき壜びんか何か知らず銘めい酒しゅあまた棚の上にならべて帳ちょ場うばめきたる処も見ゆ。勝かっ手ても元とには七しち輪りんを煽あおぐ音折々に騒がしく、女ある主じが手づから寄よせ鍋なべ茶碗むし位はなるも道こと理わり、表にかかげし看板を見れば仔しさ細いらしく御料理とぞしたためける。云云。﹂これによつて看みるに、襟えり元もとばかりの白粉に顔は天然の色白きを誇りたるお力が化粧、今日大正十三年の女子が厚化粧に比すれば瀟しょ洒うしゃの趣おもむき売女とは思はれぬなり。さて明治三十二、三年頃後ごと藤うち宙ゅう外がい﹃松葉かんざし﹄とかいへる小説に浅草公園楊よう弓きゅ場うばのことを描きたり。四十三、四年頃にいたりて正まさ宗むね白はく鳥ちょう浜町の私窩子を描き、小おぐ栗りふ風うよ葉うは鶴巻町辺の酌しゃ婦くふの事を小説に書きしことあるやうに覚えしが今その名を憶ひ得ず。暫く後こう考こうを俟まつ。およそ明治中葉以降芸者のことを書きたる小説汗かん牛ぎゅ充うじ棟ゅうとうもただならぬに、地獄白首のことを書きたるものに至つては晨しん星せい寥りょ々うりょうたるの感あるは何ぞや。芸者の内うち幕まくを穿うがつて書けば通人といはるるに引かへて、白首の事より外ほかには知らぬ人といはれては、文士もいささか気まりがわるくなるものと見えたり。六
星移れば物換かわりて人情もまた従つて同じからず。吉原のおいらんを歌舞の菩ぼさ薩つと見て崇あがめしは江戸時代のむかしなり。芸者を粋すいなり意い気きなりと見てよろこびしも早や昨日の夢とやいふべき。明治五年新しん富とみ町ちょうの劇場舞台開きをなせし時、新しん柳りゅ二うに橋きょうの歌妓両花道に並んで褒ほう詞しを述べたる盛況は久しく都人の伝称せし所なりけり。宴席に園遊会に凡そ人の集るところに芸者といふもの来らざれば興を催す事能あたはざりしは明治年間四十余年を通じての人情なりけり。年改れば新年の宴あり年尽きんとすれば忘年の催もよおしあり。知人の旅行するごとに送別の宴あり。還かえり来るごとに歓迎の会あり。会開かれて酒出れば必かならず芸者現る。芸者現れてお座ざつ付きを弾ひけば、客酔うて必かならずかくし芸をなす。たまたま為さざるものあれば一座挙こぞつてこれを強しゆ。ここにおいて世に出で人に交らんとするものは日頃窃ひそかに寄よ席せに赴き葉はう唄た都どど々い一つ声こわ色いろなぞを聞覚えて他日この難関に身を処するの用意をなす。あたかも大正の今日西洋料理の宴会に臨むもの、何処でおぼえて来るものやら知らねど、大抵テーブルスピーチとかいふものを心得ゐるが如し。往時宴会の隠かく芸しげいは愚劣なれども滑稽にして罪はなし。旦那はほんとにいいお声だよ。すみには置けませんよと芸者にほめらるるを生涯の面目とはなせしなり。今日青年諸君の好んで為さるるテーブルスピーチに至つては弁巧と才気とをこれ見よがしの振舞さてもさても片腹痛し。大おお勢ぜい食事の折おり柄から腹こなしに一席弁じたくば亜アメ米リ利カ加じ人んが食卓の祈きと祷うの如きまだしも我慢がなりやすし。風俗時勢の新旧を問はず宴会といふものほど迷惑千万なるはなし。同じく飲む酒も親しき友二、三人と騒がしからぬ旗きて亭いに対酌すれば夜よま廻わりの打つ拍ひょ子うし木ぎにもう火をおとしますと女中が知らせを恨むほどなるに、百畳にも近き大広間に酔客と芸者の立ちつ坐りつする塵煙、燈下に濛々として人の顔さへ見えわかぬが中に、諸君我輩の叫声に耳を掩おおひつつ干ひも物のの如き塩焼の肴さかな打眺めて坐する浮世の義理また辛つらしといふべし。幸田露伴先生宴会の愚劣なるを痛つう罵ばし宴席の酒を以て鴆ちん毒どくなりと言はれしが世の人の心はまたさまざまなり。小人数で料理屋に上つて芸者を呼ぶよりは、宴会が結句割わり徳どくの安上りと胸むな算ざん用ようして出席する下げ賤すもあり。頻しきりに名刺の交換を迫つて他日人の名を利用して事をなさんとする曲くせ者ものもあり。火事場泥棒の如きかかる輩やからは芸者を口説くにも容貌や芸なぞは二の次にして金まはりのよささうな女にねらひをつけ、年上であらうと何であらうと構はず、此こち方らからちやほやと機嫌を取つて入込むが常なり。新聞社の営業係、小会社の外交員なぞにはこの類たぐいの曲者多しといへり。されば新橋辺にて家いえ持もちの芸者は色仕掛のお客と見れば用心なしあまりしげしげ呼ばるる時は芸者の方より体ていよく返礼をなして後の難儀を避くる由よし。そもそも三十年前にあつては応オー来ライ芸者と称して通人の眉まゆを顰ひそめたる新橋の妓ぎ、今はかへつて御客の狡こう猾かつなるに恐れをなすといふに至つては人心の下落呆あきるるの外はなし。七
言ふべき事とかく岐わき路みちへそれたがるには我ながら閉口なり。さても僕の初めて芸者の帯解く姿を見たりしは既に記せし如く富士見町の寿鶴といふ待まち合あいにして、勘定何もかも一切にて金参円を出でざりし。その頃は半はん助すけといふ言葉も通用しまた壱円のことを大そうらしく武たけ内のうちに面会せんなぞといふもあり。当時売女の相場、新吉原仲なかの町ちょう角かど海え老びの筋すじ向むかいあたりにありし絵えぞ草う紙し屋やにて売る活版の細見記を見ても、大おお見み世せの女の揚あげ代だい金壱円弐拾銭にて、これより以上のものはなかりし。以て一般を推すべし。さて僕も富士見町ばかりでは所詮山の手の土臭く井戸の蛙の譏そしりもうしろめたしと思へる折から、神かん田だれ連んじ雀ゃく町ちょう金清楼の宴会にて、講武所駒こまの家やの抱かかえ小みつといへるが水を向けるをこれ幸ひと、一人先に金清楼を出で小みつが教ゆる外そと神かん田だ佐久間町河岸の船ふな宿やど小松家といふに行き土どぞ蔵うづくりの小座敷に女の来るを待ちたりけり。これは明治三十二、三年のことなり。そのころには自由廃業といふ言葉もまだ耳新しく﹃二六新報﹄の記者が吉原の小格子をあらし廻る事をさしていふものとのみ思へる人もありしほどなれば、芸者屋仲間にはまだ全国芸妓組合なぞといふものなく、営業の区域を限る許可地とか称するきまりもなかりしやうなり。芸者その頃冬の夜道を向嶋あたりへ遠とお出でに行く時、お高こそ祖ず頭き巾んをかぶるもありき。四角なる縮ちり緬めんの角に糸を輪にして付け、それを耳じ朶だにかけてかぶるなり。小こそ袖でには糸織縞に意気な柄多くありたり。芸者襟付の不ふだ断ん着ぎに帯は必かならず引ひっ掛かけにして前まえ掛かけをしめ、黒縮緬五ツ紋の羽はお織りを着て素すあ足しにて寄よ席せなぞへ行きたり。毛織のショール既にすたれて吾あず妻まコート流行。絹はんけちを三角に二ふた折つおりとなして頸くびに巻きて口をかくし、金縁薄色の黒眼鏡をかける。男も同じく絹はんけちに黒眼鏡、天ビロ鵞ー絨ドの鳥とり打うち帽ぼう、大嶋か何かの筒つつ袖そでの羽織、着物は市いち楽らくか風ふう通つう織おりにて、帯は幅広し。小指に金の見みと留めい印んの指環、黒八丈の前掛をしめ、雪せっ駄たちやらちやらと鳴して歩く。これ色男がりたる気き障ざな風なり。芸者が座敷より帰つて来る刻限を計り御ごじ神んと燈うの火ほか影げに格こう子し戸どの外より声をかけ、長なが火ひば鉢ちの向へ坐つて一杯やるを無上の楽しみとす。すべて妓家の模様を書きしるせしもの既に言ひしが如く汗かん牛ぎゅ充うじ棟ゅうとうなればここには除けり。好奇の人左に掲ぐる図書について見玉はば、明治年間花柳風俗の変遷おのづから歴然たるものあらん歟か。
柳橋新誌 二巻 明治七年出板成嶋柳北著
柳巷絃妓全盛揃 一巻 松本重清画酔月亭撰
新橋雑記 二巻 明治十一年十一月三十日出板松本万年著
東京新繁昌記 六巻 明治七年四月出板服部誠一著
東京妓情 三巻 明治十六年十月出板酔多道士著
花柳事情 三巻 明治十三年十二月板酔多道士著
新橋芸妓評判記 初編 明治十四年九月出板中村呉園著
東京粋書 初編 明治十四年五月出板野崎城雄著
銀街小誌 初編 明治十五年二月出板槎盆子著成嶋柳北序
芸娼妓評判記 一巻 明治十八年八月出板粋多道人著
通人必携 一巻 明治十七年四月出板二代目花笠文京著伊東橋塘序
仙洞美人禅 一巻 明治十七年十一月出板三木愛花著
東都仙洞綺話 一巻 明治十五年十二月出板三木愛花著
東都仙洞余譚 一巻 明治十六年八月出板三木愛花著
東京遊覧記 一巻 明治廿一年十月出板竹外居士原田真一著
東京流行細見記 明治十八年七月出版
当時全盛絃妓細軒記 明治三庚午版流行道人著
柳橋芸者名寄 出板年月不詳
全盛北里花魁列伝 第一編第二編 明治十四年十二月出板桜洲散史大久保常吉著三木愛花序
龍山北誌 二巻 明治十二年十二月四日出版一名花街春史服部誠一閲桑野鋭戯著
娼妓節用 一巻 明治十七年出板三木愛花原作戯蝶子補綴
新橋八景芸者節用 一巻 明治十七年出板三木愛花原作戯蝶子補綴
日本橋浮名歌妓 一巻 明治十七年出板山田春塘著伊東橋塘閲
東京芸妓評判録 初編 明治三十七年出板著者不詳
よし原 一巻 (明治廿四年二月出板大文字楼静江序角海老楼金龍句稲本楼八雲詩松の家露八句其他の題詞あり年英挿画)
太平楽娼妓演説 (明治二十四年二月廿四日出版八幡楼高尾序川上鼠文序烏有山人筆記娼妓てこ鶴の演説)
東都の名妓 大正六年出版川尻清潭岡村柿紅共編
柳巷絃妓全盛揃 一巻 松本重清画酔月亭撰
新橋雑記 二巻 明治十一年十一月三十日出板松本万年著
東京新繁昌記 六巻 明治七年四月出板服部誠一著
東京妓情 三巻 明治十六年十月出板酔多道士著
花柳事情 三巻 明治十三年十二月板酔多道士著
新橋芸妓評判記 初編 明治十四年九月出板中村呉園著
東京粋書 初編 明治十四年五月出板野崎城雄著
銀街小誌 初編 明治十五年二月出板槎盆子著成嶋柳北序
芸娼妓評判記 一巻 明治十八年八月出板粋多道人著
通人必携 一巻 明治十七年四月出板二代目花笠文京著伊東橋塘序
仙洞美人禅 一巻 明治十七年十一月出板三木愛花著
東都仙洞綺話 一巻 明治十五年十二月出板三木愛花著
東都仙洞余譚 一巻 明治十六年八月出板三木愛花著
東京遊覧記 一巻 明治廿一年十月出板竹外居士原田真一著
東京流行細見記 明治十八年七月出版
当時全盛絃妓細軒記 明治三庚午版流行道人著
柳橋芸者名寄 出板年月不詳
全盛北里花魁列伝 第一編第二編 明治十四年十二月出板桜洲散史大久保常吉著三木愛花序
龍山北誌 二巻 明治十二年十二月四日出版一名花街春史服部誠一閲桑野鋭戯著
娼妓節用 一巻 明治十七年出板三木愛花原作戯蝶子補綴
新橋八景芸者節用 一巻 明治十七年出板三木愛花原作戯蝶子補綴
日本橋浮名歌妓 一巻 明治十七年出板山田春塘著伊東橋塘閲
東京芸妓評判録 初編 明治三十七年出板著者不詳
よし原 一巻 (明治廿四年二月出板大文字楼静江序角海老楼金龍句稲本楼八雲詩松の家露八句其他の題詞あり年英挿画)
太平楽娼妓演説 (明治二十四年二月廿四日出版八幡楼高尾序川上鼠文序烏有山人筆記娼妓てこ鶴の演説)
東都の名妓 大正六年出版川尻清潭岡村柿紅共編
これ僅に僕の経目せしものを挙げしに過ぎざるなり。山田春塘の著﹃日本橋浮名歌妓﹄は明治十六年六月檜ひも物のち町ょうの芸妓叶家歌吉といへるもの中橋の唐とう物ぶつ商しょう吉田屋の養子安兵衛なるものと短刀にて情死せし顛てん末まつを小説体に書きつづりしものにしてこの情死は明治十三年九月新吉原品川楼の娼妓盛糸と内務省の小しょ吏うり谷豊栄が情死と相前後して久しく世の語り草とはなれるなり。品川楼盛糸がことは当時﹃有う喜き世よ新聞﹄に﹃心しん中じゅ比うひ翼よく塚づか﹄とか題して浄瑠璃風に文飾して書きつづりしものあり。また春亭史彦といふ人のつづりし﹃北さと廓のは花なさ盛かる紫むらさき﹄と題せし草くさ双ぞう紙しもあり。これらを採りて明治三十二、三年の頃伊いは原らせ青いせ々いえ園ん﹃都みやこ新聞﹄に続物小説を執筆せしを伊井一座の壮士役者これを芝居に仕組み赤坂溜池演伎座にて興行したり。明治年間にありし情死にして小説戯曲に仕組まれしもの先まずこの二ツ位なるべし。広ひろ津つり柳ゅう浪ろうが小説﹃今戸心中﹄は京町二丁目中米楼にありしものとか聞きしがその文体力つとめて実録となる事を避くるが如くなれば例外とすべし。世の噂は七十五日といはるるに心中沙汰のみ世に永く語り伝へらるるはこれ畢ひっ竟きょう小説戯曲の力による事近松門左衛門が浄瑠璃の例を引くにも及ぶまじ。明治四十五年の春新橋信しが楽らき新じん道みちの政中村家政代とよびし芸者、俳優中村又五郎を怨みて硫酸を飲んで死したり。されど小説にかきつづりて世に伝へんとする好こう事ず家かもなかりしかば化けて出る噂もほどなく消えてしまひけり。大正の世となりて女優松井おすまの縊い死し、新華族芳よし川かわの娘おかまが出しゅ奔っぽん、医者浜田の娘おえいの自殺なんぞ、皆痴ちじ情ょうのためにその身を亡し親兄弟に歎をかけ友達の名を辱はずかしめたる事時じじ人んの知るところなり。浜田の娘おえいは猫入いらずといふ殺さっ鼠そざ剤いを服して最後を遂げたりしより無分別の若き男女思案に余ることあれば今にこの薬を購あがなふもの絶えやらずといふ。猫入らずは即むかしの石いわ見みぎ銀んざ山んなり。明治三年猿さる若わか町ちょうのおきぬといふ女金貸の旦那をこの毒薬にて殺せし事ありてより、石見銀山の名久しく人の口にいひ伝へられしが世は変りてその名もまたいつか異りたり。往時編笠かぶりて心中の沙汰なぞ唄うたひ歩みし読よみ売うり今は縁えん日にちの夜の唱歌となるもまた物同じくしてその名のみ同じからざる一例となすべし。書生風したる男のヴァイオリンひきて卑し気なる調子にて物うたふは、これを名づけて何節といふにや知らざれど、その謡うたふところを聞くに賤しき語にて簡単に事の次第を伝へたるものあり。後世の史家必かならず見て以て風俗史の資料となすべし。
ああ悲しやな悲しやな、
恋しき君に先立たれ、
今は語らむ人もなし。
思へば衣裳も手につかず、
幕の下りるを待兼ねて、
忍泣きする舞台裏。
いとも哀れな須すま磨こじ子ょ嬢う。
恋しき嶋しま村むら抱ほう月げつの、
お跡をしたふ死し出での旅。
こはたまたま僕の記憶に存せる語句を摘記したるに過ぎず。街頭の俗謡といへども固もとより作者の存するあり。当時教科書編纂者のなすが如くだまつて他人の文を盗用するは礼にあらず。故に一言して妄みだりにその断片を採つてここに録する所ゆえ以んを述ぶ。