何事にも倦あき果はてたりしわが身の、なほ折節にいささかの興を催すことあるは、町中の寺を過る折からふと思出でて、その庭に入り、古墳の苔を掃はらつて、見ざりし世の人を憶おもふ時なり。 見ざりし世の人をその墳墓に訪とふは、生ける人をその家に訪ふとは異りて、寒かん暄けんの辞を陳のぶるにも及ばず、手土産たづさへ行くわづらひもなし。此こな方たより訪はまく思立つ時にのみ訪ひ行き、わが心のままなる思に耽ふけりて、去りたき時に立去るも強しいて袖引きとどめらるる虞おそれなく、幾年月打捨てて顧かえりみざることあるも、軽薄不実の譏そしりを受けむ心づかひもなし。雨の夜のさびしさに書を読みて、書中の人を思ひ、風静なる日その墳墓をたづねて更にその為ひと人となりを憶ふ。この心何事にも喩たとへがたし。寒夜ひとり茶を煮る時の情味聊いささかこれに似たりともいはばいふべし。 わが東京の市内に残りし古碑断だん碣けつ、その半なかばは癸きが亥いの歳としの災禍に烏うゆ有うとなりぬ。山の手の寺院にあるもの、幸にして舞ぶ馬ばの災わざわいを免まぬかれしといへども、移行く世の気運は永く市して廛ん繁華の間に金石の文字を存ぜしむべきや否や。もしこれ杞きじ人んの憂ひにあらずとなさんか、掃墓の興は今の世に取残されしわれらのわづかにこれを知るのみに止りて、われらが子孫の世に及びては、これを知らんとするもまた知るべからざるものとはなりぬべし。 掃墓の間かん事じぎ業ょうは江戸風雅の遺習なり。英米の如き実業功利の国にこの趣味存せず。たまたまわれ巴パリ里ーにありてこれあるを見しかど、既に二十年前のことなれば、大乱以後の巴里の人士今なほ然るや否や知るべくもあらず。江戸時代にありて普あまねく探墓の興を世の人に知らしめし好奇の士は、﹃江戸名家墓所一覧﹄の一書を著せし老ろう樗ちょ軒けんの主人を以てまづはその鼻祖ともなすべきにや。﹃墓所一覧﹄の梨りそ棗うに上のぼせられしは文政紀元の春なること人の知るところなり。 春秋の彼岸は墓参の時節と定められたり。しかれども忘れられたる古墳を尋ね弔とむらはんには、秋の彼岸には既に傾きやすく、やうやうにして知れがたき断碑を尋出して、さて寺の男に水運ばせ苔こけを洗ひ蘿つたを剥はがして漫まんせる墓誌なぞ読みまた写さんとすれば、衰へたる日影の蚤はやくも舂うすつきて蜩ひぐらしの啼なきしきる声一ひと際きわ耳につき、読難き文字更に読難きに苦しむべし。春の彼岸には風なほ寒くして雨の気きづ遣かはるる日もまた多きをや。花見の頃は世間さわがしければ門をいづる心地もせざるべし。八重の桜も散りそむる春の末より牡ぼた丹んいまだ開かざる夏の初こそ、老ろう躯く杖をたよりに墓をさぐりに出づべき時節なれ。長き日を歩みつづけて汗ばむ額も寺の庭に入れば新樹の風ただちにこれを拭ひ、木の根石の端に腰かくるも藪やぶ蚊かいまだ来らず、醜しこ草ぐさなほはびこらざれば蛇のおそれもなし。苔蒸す地の上には落花なほみだれてあり。日の光にかがやく木の芽のうつくしさ雨に打れし墓石の古びたるに似もやらねば、亡き人を憶ふ心落葉の頃にもまさりてまた一段の深きを加ふべし。 ことし甲かっ子しの暮春、日曜日にもあらず大祭日にもあらぬ日なり。前夜の雨に表おも通てどおりも砂ほこりをさまりて、吹き添ふ微風に裏町の泥ぬか濘るみも大方はかわきしかと思はれし昼過。丸まるの内うちより神かん田だを過ぎて小こい石しか川わは原らま町ちなる本ほん念ねん寺じに大おお田たな南ん畆ぽの墓を弔ひぬ。われ小石川白はく山さんのあたりを過る時は、必かならず本念寺に入りて北ほく山ざん南畆﹇#﹁南畆﹂は底本では﹁南畝﹂﹈両儒の墓を弔ひ、また南畆が後こう裔えいにしてわれらが友たりし南なん岳がくの墓に香こう華げを手た向むくるを常となせり。震災の時これらの墳墓いかがなりしや。殊に南畆の墓碑はこの兆ちょ域ういきにても形大なるものなれば、倒れ砕けはせざりしやと心にかかりてゐたりしが、この日行きて見るにその位置少しく変りしのみにて石は全まったかりき。南岳の墓は本もとのところに依然として立ちたり。自然石にて面に大田南岳墓。碑陰にまつくろな土どび瓶んつゝこむ清水かなの一句を刻す。これ南岳の句にして小さざ波なみ巌いわ谷や先生書する所、石もまた巌谷翁の貲しを捐すてて建てられしものなり。われ初て南岳と交まじわりを訂ていせしは明治三十二年の頃清朝の人にして俳句を善くしたりし蘇そさ山んじ人んら羅が臥う雲んが平ひら川かわ天てん神じん祠しは畔んの寓居においてなりけり。南岳諱いみなは亨とおる。野のぐ口ちゆ幽うこ谷くの門人なり。初はじめ陸軍士官学校に入らむとして体格検査に合格せざりしかば、素志を翻ひるがえして絵かい事じに従へるなり。その初はじめ武を以て身を立てんと欲せしはその家世征夷府に仕へて徒か士ちたりしによれるもの歟か。南岳少わかくして耳聾ろうせり。人と語るに音おん吐と鐘の如し。平生奇行に富む。明治卅八年秋八月日にち魯ろ両国講和条約の結ばれし時、在野の政客暴民を皷こせ煽んし電車を焼き官庁を破壊す。輦れん轂こくの下巡じゅ邏んらを見ざること数日に及べり。市民各おのおのその欲する所を恣ほしいままにする事を得たりしかば、南岳白日衣をまとはず釣竿を肩にして桜田門外に至り綸いとを御おほ溝りに垂れて連日鯉魚十数尾を獲えて帰りしといふ。また大婚式記念郵便切手の発行せられし時都人各近鄰の郵便局に赴き局員に請こひて、記念当日の消けし印いんを切手に捺なつせしむ。南岳輙すなわち春画を描きたる絵葉書数葉を手にし郵便局の窓に抵いたりて消印を請ふ。局員裏面の絵画に心づかず消印をなすこと三、四葉にして初て驚愕の声を発す。この時おそし南岳臂えんぴを伸べ絵葉書を奪つて疾走す。後に人に語つて曰いわくこれ洵まことに敝へい家かの宝物なり。子孫の繁栄を祝するものけだしこれに優るものあるを知らずと。その為ひと人となりおほむねかくの如し。かつて上野なる日本美術協会の展覧会に出品して褒ほう状じょうを得たり。褒賞授与の日川かわ端ばた玉ぎょ章くしょう手づからこれを南岳に与へしに、南岳一礼して手に取るや否や、寸断して脚下に放棄し、悠々としてその席に還りて坐す。満堂の画人皆色を失ふ。南岳おもむろに鄰席を顧て曰く諸君驚くことなかれ、我狂するにあらず。唯平生川端玉章の為人を好まず、従つてその手に触れしもの我これを受うくることを欲せざるのみと。爾来復ふたたび浮名を展覧会場に争はず。閑居自適し、時に薬草を後園に栽培して病者に与へ、また﹃田うごき草﹄と題する一冊子を刊刻してその効験を説く。人戯たわむれに呼んで田うごきの翁おきなとなせり。南岳また年々土中に甕かめを埋めて鈴虫を繁殖せしめ、新凉の節を待つてこれを知友に頒わかつ。南岳を知るものの家秋に入つて草虫琳りん琅ろうの声を聴かざる処なし。知友また呼ぶに鈴虫の翁を以てす。南岳は弓術の達人にしてまた水すい府ふり流ゅう遊泳の師たりき。大おお田たな南ん畝ぽが先人自得翁の墓誌を見るに、享保二十年七月、将軍吉宗公中川狩猟の時徒兵の游泳を閲けみするや自得翁水すい練れんに達したるを以て嘉賞する処となりしといふ。されば南岳の水練に巧なるけだし来由する所ありといふべきなり。大正四、五年の頃南岳四谷の旧居を去つて北総市川の里に徙うつり寒暑昼夜のわかちなく釣ちょ魚うぎょを事とせしが大正六年七月十三日白昼江戸川の水に溺れて死せり。人その故を知るものなし。あるひは言ふ水中にあつて卒中症を発したるならんと。時に年四十又ゆう三なり。その配はい中村氏は南畆先生が外がい姑この後こう裔えいなり。容姿艶麗そのいまだ嫁せざるや近鄰称するに四よつ谷やこ小ま町ちの名を以てしたりしといふ。某男某女あり。嗣し子し名は大。家を継ぎしが本年の春病んで歿したりしと。われこの日始てこれを寺僧に聞得て愕がく然ぜんたりき。因ちなみにしるす南岳が四谷の旧居は荒木町絃げん歌かの地と接し今岡田とかよべる酒楼の立てるところなり。この日兼てより写し置かんと思ひゐたりし南畝が室しつ富原氏の墓誌を手帳にしるす。墓誌の終に悼とう亡ぼうの詩六首を刻したり。﹃蜀山集﹄に出でたればここに録せず。 本念寺を出で白はく山さん権ごん現げんの境内をよこぎりわづかに人力車を通ずべき垣根道を北へと歩み行けば、坂の下に蓮久寺とよべる法華寺あり。これ去年癸きが亥い七月十二日わが狎こう友ゆう唖あ々あ子し井上精一君が埋骨のところなり。門に入るに離々たる古松の下に寺の男の落葉掃きゐたれば、井上氏の塋えい域いきを問ふ。導かれて行くにいまだ一周忌にも到らざれば、冢ちょ土うど新にしていまだ碑ひけ碣つを建てず。傍かたわらなる妣はは某氏の墓前に香華を手た向むけて蓮久寺を出づ。われは今日に至りても唖々子既に黄土に帰せりとの思をなすこと能あたはず。この日子のわれと共にあらざるは前夜の酒を病みなぞして約に背そむきて来らざるが如き心地のせらるるのみ。世に竹ちく馬ばの交まじわりをよろこべるものは多かるべしといへども、子とわれとの如く終生よく無頼の行動を共にしたるものは稀なるべし。学生の頃悪少年を以て目せられしものは、儕せい輩はいの中うち子とわれとの二人なり。十六、七の頃には倶ともに漢詩を唱和し二十の頃より同じく筆を小説に染めまた倶に俳諧に遊べり。わが狎こう妓ぎの窃ひそかに子と情を通じたるものあり。子の情婦にしてわれのこれを奪ひしものまたなしとせず。けだし這しゃ般はんの情事は烟花場裏一夕の遊戯にして新しん五ござ左え衛も門ん等の到底解し得べきところに非あらざるなり。われ田舎の人より短冊を乞はるることあるや常に唖々子が句を書して責せめを塞ふさげり。われ俳才なく自作の句を記憶せず。これを憶おもふ時子の名吟まづわが念頭に浮びいづるを以てなり。旧交を追想して歩を移すほどに、いつしか白はく山さん御ごて殿んま町ちを過ぎ、植物園に沿ひたる病人坂に出づ。坂の麓に一古寺あり。門に安閑寺の三字を掲げたり。ふと安閑寺の灸とて名高き艾もぐさを售うりしはこの寺なり。われら稚いとけなき頃その名を聞きてさへ恐れて泣き止みしものをと心づけば、追想おのづから縷る々るとして糸を繰るが如し。その頃植物園門外の小径は水田に沿ひたり。水田は氷川の森のふもとより伝でん通ずう院いん兆域のほとりに連り一流の細水潺せん々せんとしてその間を貫きたり。これ旧記にいふところの小石川の流にして今はわづかに窮巷の間を通ずる溝こうとなれり。ああ四十年のむかしわれはこの細流のほとりに春は土つく筆しを摘み、夏は蛍を撲うちまた赤蛙を捕へんとて日の暮るるをも忘れしを。赤蛙は皮を剥ぎ醤油をつけ焼く時は味よし。その頃金かな富とみ町ちょうなるわが家の抱かか車えし夫ゃふに虎蔵とて背に菊きく慈じど童うの筋ぼりしたるものあり。その父はむかし町まち方かたの手先なりしとか。老いて盲めし目いとなり忰せがれ虎蔵の世話になり極楽水の裏屋に住ひゐたり。虎蔵わが供をなして土筆を摘み赤蛙を捕りての帰道、折節父の家に立寄り夕ゆう餉げの菜さいにもとて獲たりしものを与へたり。貧しき家の夕闇に盲めし目いの老夫のかしらを剃りたるが、兀ごつ然ぜんとして仏壇に向ひて鉦かね叩き経誦よめる後姿、初めて見し時はわけもなく物おそろしくおぼえぬ。わが家の女中ども虎蔵がおやぢはむかし多くの人を捕へ拷問なぞなしたる報むくいにて、目も見えぬやうになりしなりと噂せしが、虎蔵もやがてわが家より暇いとま取りし後いつか牛込警察署の刑事となり、わが十七、八の頃一番町の家に来りて、ゆうべは江戸川端の待まち合あいにて芸者の寝込を捕へたりなぞ、その後家に来りし車夫に語りゐたりしを聞きし事ありき。極楽水の麓を環めぐりし細流のほとりには今博文館の印刷工場聳え立ちたれば、その頃仰ぎ見し光円寺の公いち孫ょ樹うも既に望むべからず。小家の間の小道を上りて久ひさ堅かた町まちより竹たけ早はや町ちょうの垣根道を過ぐるにかつて画伯浅あさ井いち忠ゅうが住みし家の門前より、数歩にして同どう心しん町ちょうの康こう衢くに出づ。電車砂塵を捲まいて来らい徃おうせり。道の向側は切きり支した丹んざ坂かに通ずる坂の下口にて、旧丹後舞鶴の藩主牧野家の黒板塀、玄関先の老樹と共に四十年のむかしに変る所なければ、なつかしさのあまり覚えず歩を止む。切支丹坂より茗みょ荷うが谷だにのあたりには知れる人の家多かりき。今はありやなしや。電車通を伝通院の方に向ひて歩みを運べば、ほどなく新しん坂ざかの降おり口くちあり。新樹の梢こずえに遠く赤城の森を望む。新坂にはわが稚き頃大学総長浜尾氏の邸やしき、音楽学校長伊沢氏の邸、尾おざ崎きが咢くど堂うが居しゅうきょ、門もん墻しょうを連ね庭樹の枝を交へたり。この坂車を通ぜざりしが今はいかがにや。電車通を行くことなほ二、三町にしてまた坂の下おり口くちを見る。これ即すなわち金こん剛ごう寺じざ坂かなり。文化のはじめより大田南畝の住みたりし鶯うぐ谷いすだには金剛寺坂の中ほどより西へ入る低地なりとは考証家の言ふところなり。嘉永板の切きり絵え図ずには金剛寺の裏手多福院に接する処明あき地ちの下を示して鶯谷とはしるしたり。この日われ切絵図はふところにせざりしかど、それと覚しき小径に進入らんとして、ふと角の屋敷を見れば幼き頃より見覚えし駒井氏の家なり。坂路を隔てて仏蘭西人アリベーと呼びしものの邸やし址きあと、今は岩崎家の別べっ墅しょとなり、短葉松植ゑつらねし土つい墻じは城塞めきたる石塀となりぬ。岩崎家の東鄰には依然として思しあ案んが外い史し石いし橋ばし氏の居きょあり。遅ちづ塚かれ麗いす水い翁またかつてこのあたりに鄰を卜ぼくせしことありと聞けり。正しょ徳うとくのむかし太だざ宰いし春ゅん台だいの伝でん通ずう院いん前に帷とばりを下せしは人の知る処。礫こい川しかわの地古来より文人遊息の処たりといふべし。さてわれは駒井氏の門前より目指せし小路を西に入るに、ここにもまた幼き頃見覚えたりし福岡氏の門あり。福岡氏は維新の功臣なり。門前の小径は忽たちまちにして懸けん崕がいの頂いただきに達し紐ひもの如く分れて南北に下れり。崕下に人家あり。鶯谷は即このあたりをいふなるべし。さるにても南畝が遷せん喬きょ楼うろうの旧址はいづこならむ。文化五戊ぼし辰んの年三月三日、南畝はここに六ろく秩ちつの賀がえ筵んを設けたる事その随筆﹃一話一言﹄に見ゆ。大おお窪くぼ詩しぶ仏つが﹃詩聖堂詩集﹄巻の十に﹁雪せつ後ごう鶯ぐい谷すだ小にに集すこ得しく庚あつ韻まりてこういんをえたり﹂と題せるもの南畆の家のことなるべし。その作に曰く
遷喬楼在二懸崖上一 〔遷喬楼 は懸崖 の上 に在 り
闌干方与二赤城一平闌干 は方 に赤城 と平 らなり
霞気不レ消連旬雪霞気 も消 さず連旬 の雪
万瓦渾如レ粧二水晶一万瓦 は渾 て水晶 を粧 うが如 し
疑在二広寒清府一 疑うらくは広寒清虚 の府 に在 るかと
四望生レ眩総瑩瑩四望 は眩 を生 じて総 て瑩瑩 たり
主人愛レ客兼愛レ酒 主人 客を愛し兼 ねて酒を愛し
暇日開レ宴迎レ客傾暇日 宴 を開 き 客を迎 えて傾 す
衣冠何須挂二神武一衣冠 何 ぞ須 ん神武 に挂 ることを
与レ身并忘刀筆名身 と与 に并 て忘 る刀筆 の名
我是江湖釣漁客我 は是 れ江湖 の釣漁 の客
平生不三曾接二冠纓一平生 曾 て冠纓 に接 せず
十里泥濘深レ於レ海 十里泥濘 海よりも深けれども
今日肯来訂二酒盟一 今日肯 て来たりて酒盟 を訂 ぶ
唯応三爛酔報二厚意一唯 だ応 に爛酔 して厚意 に報 ゆべく
対レ君不レ酔作麼生 君と対 して酔 わずんば作麼生 せん〕
闌干方与二赤城一平
霞気不レ消連旬雪
万瓦渾如レ粧二水晶一
疑在二広寒清府一 疑うらくは
四望生レ眩総瑩瑩
主人愛レ客兼愛レ酒 主人 客を愛し
暇日開レ宴迎レ客傾
衣冠何須挂二神武一
与レ身并忘刀筆名
我是江湖釣漁客
平生不三曾接二冠纓一
十里泥濘深レ於レ海 十里
今日肯来訂二酒盟一 今日
唯応三爛酔報二厚意一
対レ君不レ酔作麼生 君と
また六ろく樹じゅ園えんが狂文﹃吾あず嬬まなまり﹄に鶯谷のさくら会と題する一文ありて、勾こう欄らんの前なる桜の咲きみだれたるが今日の風にやや散りそむといへど、今はそれかとおぼしき桜の古木もさぐるによしなし。このあたり今は金かな富とみ町ちょうと称となふれど、むかしは金かな杉すぎ水道町にして、南畆が﹇#﹁南畆が﹂は底本では﹁南畝が﹂﹈いはゆる金かな曾そ木ぎなり。懸崖には喬きょ木うぼくなほ天を摩まし、樹根怒張して巌石の状さまをなせり。澗かん道どうを下るに竹林の間に椿の花開くを見る。人家の犬籬り笆はの間より人の来るを見て吠ゆ。宛然田でん家かの光景なり。細径に従つて盤回すればおのづから金剛寺の域さかいに出づ。寺はわづかに堂宇を遺すのみにして墓田は尽ことごとく人家となりたれば、旧記に見る所の実さね朝ともの墓も今は尋ぬべきよすがもなし。本堂の前を過ぎ庫く裏りと人家との間の路地に入るに、迂回して金剛寺坂の中腹に出でたり。路地の中に稚おさなき頃見覚えし車井戸なほあるを見たり。大都の康こう荘そうは年々面目を新にするに反して窮きゅ巷うこ屋うお後くごの湫しゅ路うろは幾星霜を経るも依然として旧観を革あらためず。これを人の生涯に観るもまたかくの如き歟か。人一たび勢利の巷ちまたに奔ほん馳ちするや、時運に激せられて旧習に晏あん如じょたる事能あたはず。たまたま鄰人の新聞紙をよみて衣服改良論を称となうるものあれば忽たちまち雷同して、腰のまがつた細君にも洋服をまとはしめ、児輩の手を引いて、或時は劇場に少女歌劇を見、或時は日比谷街頭に醜しゅ陋うろうなる官吏の銅像を仰いでその功績を説かざるべからず。然るに独ひとり吾輩の如き世間無用の間かん人じんにあつては、あたかも陋巷の湫路今なほ車井戸と総そう後ごう架かとを保存せるが如く、七たな夕ばたには妓女と彩いろ紙がみを截きつて狂歌を吟じ、中秋には月つき見みだ団ん子ごを食つて泰平を皷腹するも、また人のこれを咎とがむることなし。幸なりといふべし。
金剛寺坂の中腹には夜ごとわが先せん考こうの肩揉もみに来りし久きゅ斎うさいとよぶ按あん摩ま住みたり。われかつて卑稿﹃伝でん通ずう院いん﹄と題するものつくりし折には、殊更に久を休につくりたり。久斎姓は村瀬名は久太郎といへり。その父寅吉といへるは幕府の御ごけ家に人んなりしとか。わが家金富町より一番町に移りし頃久斎は病みて世を去り、その妻しんといへるもの、わが家に来りて炊すい爨さん浣かん滌できの労を取り、わづかなる給料にて老いたる姑しゅうとめと幼きものとを養ひぬ。わが父三たび家を徙うつして、終ついに燕えん息そくの地を大久保村に卜せられし時、衡こう門もんの傍なる皀さい莢かちの樹陰に茅かや葺ぶきの廃屋ありて住むものもなかりしを、折から久斎が老母重き病に伏したりと聞き、わが母上ここに引取り、やがて野の辺べのおくりをもなさしめ玉ひけり。しん深くこの恩義に感じてや、先せん考こう館舎を捐すてられし後は、一ひと際きわまごころ籠めてわが家のために立ちはたらきぬ。大正七年の暮われ先考の旧居を人に譲り琴書を築地の居しゅうきょに移せし時、しんは年漸く老い、両眼既におぼろになりしかば、その忰せがれの既に家を成して牛うし込ごめ築つく土どに住みたりしをたより、次の年の春暇いとまを乞ひてわが許を去りぬ。去るに望みて、御用の節にはいつにても御知らせ下さりましさしづめ来月の大掃除にはお手つだひに上りませうと言ひゐたりしがそのかひもなく、一月あまりにして突然身まかりし趣、忰のもとより言いい越こし来きたりぬ。享年六十余歳。流行感冒に罹かかりて歿せしといふ。しん逝ゆきて後ここに幾年、わが家再びこれに代るべき良婢を得ざりき。しんは武州南葛飾郡新宿の農家に生れ固もとより文字を知るものにもあらざりしかど、女の身の守るべき道と為すべき事には一として闕かくところはあらざりき。良おっ人とにわかれて後永く寡かを守り、姑を養ひ、児を育て、誠実の心を以てよく人の恩義に報いたり。われ大正当今の世における新しき婦人の為す所を見て翻ひるがえつてわが老婢しんの生涯を思へば、おのづから畏敬の念を禁じ得ざるも豈あに偶然ならんや。しんの墓は小こび日なた向すい水どう道ちょ町うなる日輪寺にありと聞きしのみにて、いまだ一たびも行きて弔とむらひしことなければ、この日初夏ののなほ高きに加へて、寺は一いち牛ぎゅ鳴うめいの間にあるをさいはひ杖を曳きぬ。路傍に石せき級きゅうあり。その頂いただきに寺の門立ちたり。石級の傍別に道を開きて登るに易やすからしむ。登れば一望忽たちまち曠然として、牛うし込ごめ赤あか城ぎの嵐らん光こう人家を隔てて翠すい色しょく滴したたらむとす。供くよ養うの卒そ塔と婆ばを寺僧にたのまむとて刺しを通ぜしに寺僧出で来りてわが面を熟視する事良しば久らくにして、わが家小石川にありし頃の事を思起したりとて、ここに端はしなく四十年のむかしを語出せしもまた奇縁なりけり。
やがて寺のしもべ来りて兆ちょ域ういきに案内す。兆域は本堂のうしろなる丘きゅ阜うふにあり。石せき磴とうを登らむとする時その麓なる井のほとりに老婆の石像あるを見、これは何かと僕しもべに問へば咳せ嗽きのばばさまとて、せきを病むもの願がんを掛け病癒いゆれば甘酒を供ふるなりといへり。この日も硝ガラ子スび罎んの甘酒四、五十本ほども並べられしを見たり。霊れい験げんのほど思ひ知るべし。
日輪寺を出で小日向水道町を路の行くがままに関口に出で、目白坂の峻坂を攀よぢて新しん長ちょ谷うこ寺くじの樹下に憩いこふ。朱しゅ塗ぬりの不ふど動うど堂うは幸にして震災を免れしかど、境内の碑ひけ碣つは悉くいづこにか運び去られて、懸崖の上には三層の西洋づくり東とう豊ほう山ざんの眺望を遮しゃ断だんしたり。来路を下り堰せき口ぐちの瀑たきに抵いたり見れば、これもいつかセメントにて築き改められしが上に鉄の釣橋をかけ渡したり。駒こま留とめ橋ばしのあたりは電車製造場となり上水の流は化して溝こう※とく﹇#﹁さんずい+賣﹂、178-2﹈となれり。鶴巻町の新開町を過れば、夕せき陽ようペンキ塗の看板に反映し洋食の臭気芬ふん々ぷんたり。神かぐ楽らざ坂かを下り麹こう町じまちを過ぎ家に帰れば日全く昏くらし。燈を挑かかげて食後戯たわむれにこの記をつくる。時に大正十三年甲かっ子し四月二十日也。