一
女じょ給きゅうの君きみ江えは午後三時からその日は銀座通のカッフェーへ出ればよいので、市いちヶ谷や本ほん村むら町ちょうの貸間からぶらぶら堀ほり端ばたを歩み見みつ附けそ外とから乗った乗合自動車を日ひ比び谷やで下りた。そして鉄道線路のガードを前にして、場末の町へでも行ったような飲食店の旗ばかりが目につく横よこ町ちょうへ曲り、貸事務所の硝ガラ子スま窓どに周しゅ易うえき判断金きん亀きど堂うという金文字を掲げた売うら卜ない者しゃをたずねた。 去年の暮あたりから、君江は再三気味のわるい事に出で遇あっていたからである。同じカッフェーの女給二、三人と歌か舞ぶ伎き座ざへ行った帰り、シールのコートから揃そろいの大島の羽織と小こそ袖でから長なが襦じゅ袢ばんまで通して袂たもとの先を切られたのが始まりで、その次には真しん珠じゅ入いり本ほん鼈べっ甲こうのさし櫛ぐしをどこで抜かれたのか、知らぬ間に抜かれていたことがある。掏す摸りの仕しわ業ざだと思えばそれまでの事であるが、またどうやら意いし趣ゅある者の悪いた戯ずらではないかという気がしたのは、その後ご猫の子の死んだのが貸間の押入に投入れてあった事である。君江はこの年月随分みだらな生活はして来たものの、しかしそれほど人から怨うらみを受けるような悪いことをした覚えは、どう考えて見てもない。初めは唯ただ不思議だとばかり、さして気にも留めなかったが、ついこの頃、﹃街巷新聞﹄といって、重おもに銀座辺の飲食店やカッフェーの女の噂うわさをかく余り性たちの好くない小こし新んぶ聞んに、君江が今こん日にちまで誰も知ろうはずがないと思っていた事が出ていたので、どうやら急に気味がわるくなって、人に勧められるがまま、まず卜うら占ないをみてもらおうと思ったのである。 ﹃街巷新聞﹄に出ていた記事は誹ひぼ謗うでも中傷でもない。むしろ君江の容姿をほめたたえた当り触さわりのない記事であるが、その中に君江さんの内うち腿ももには子供の時から黒ほく子ろが一つあった。これは成長してから浮気家業をするしるしだそうだが、果してその通り、女給さんになってから黒子はいつの間にか増ふえて三つになったので、君江さんは後援者が三人できるのだろうと、内心喜んだり気を揉もんだりしているという事が書いてあった。君江はこれを読んだ時、何だか薄気味のわるい、誠にいやな心持がした。左の内腿に初めは一つであった黒子がいつとなく並んで三つになったのは決して虚う誕そでない。全くの事実である。自分でそれと心づいたのは去年の春上野池いけの端はたのカッフェーに始めて女給になってから、暫しばらくして後のち銀座へ移ったころである。それを知っているのはまだ女給にならない前から今もって関係の絶えない松崎という好色の老人と、上野のカッフェー以来とやかく人の噂に上る清岡進という文学者と、まずこの二人しかないはずである。黒子のある場所が他ほかとはちがって親兄弟でも知ろうはずがない。風ふ呂ろ屋やの番頭とてそこまでは気がつくまい。黒子の有ある無なしは別にどうでもよい事であるが、風呂屋の番頭さえ気のつかない事を、どうして新聞記者が知っていたのだろう。君江はこの不審と、去年からの疑惑とを思おも合いあわせて、これから先どんな事が起るかも知れないと、急に空おそろしくなって、今まで神信心は勿もち論ろん、お御みく籤じ一本引いたことのない身ながら、突然占うらないを見てもらう気になったのである。 アパートメントの一室を店にしている新時代の売うら卜ない者しゃは年の頃四十前後、口くち髭ひげを刈り洋服を着、鼈べっ甲こうのロイド眼鏡をかけ、デスクに凭もたれて客に応対する様子は見たところ医者か弁護士と変りはない。省しょ線うせん電車の往復するのが能よく見える硝ガラ子スま窓どの上には﹁天てん佑ゆう平へい八はち郎ろう書しょ﹂とした額を掲げ、壁には日本と世界の地図とを貼り、机の傍の本箱には棚を殊ことにして洋書と帙ちつ入いりの和本とが並べてある。 君江は薄地の肩掛を取って手に持ったまま、指さし示しめされた椅子に腰をかけると、洋装の売卜者はデスクの上によみかけの書物を閉じ廻転椅子のままぐるりとこちらへ向むき直なおって、 ﹁御縁談ですか。それとも大体にお身の上の吉きっ凶きょうを見ましょうか。﹂とわざとらしく笑顔をつくる。君江は伏ふし目めになって、 ﹁別に縁談というわけでも御ござ在いません。﹂ ﹁では、まず大体の事から拝見しましょう。﹂と易者はあたかも婦人科の医者が患者の容態をきくように、なりたけ気がねをさせまいと苦心するらしい砕けた言葉づかいになり、﹁占いも見つけると面白いものと見えまして、いろいろなお客様がお出いでになります。毎朝会社のお出かけにお寄りになって、その日その日の吉凶を見る方かたもあります。しかしむかしから当るも八はっ卦け、当らぬも八卦という事がありますから、凶の卦けに当ってもあまりお気におかけなさらん方がよいです。お年はおいくつでいらっしゃいます。﹂ ﹁丁度で御在ます。﹂ ﹁それでは子ねの年としでいらっしゃいますな。それからお生れになったのは。﹂ ﹁五月の三日。﹂ ﹁子の五月三日。さようですか。﹂と易者はすぐに筮ぜい竹ちくを把とって口の中で何か呟つぶやきながらデスクの上に算さん木ぎを並べ、﹁お年廻りは離りち中ゅう断だんの卦に当ります。しかし文字通り易の釈義を申上げても廻まわり遠くて要領を得ない事になりましょうから、わたくしの思いついた事だけを手てみ短じかに申上げて見ましょう。大体を申上げると、この離中断の卦に当る方は男女に限らず親兄弟にはなれ友達も至って少く一人で世を渡る傾きがあります。それにあなたのお生れになった月日から見ますと、遊ゆう魂こん巽せん風ぷうの卦に当ります。これは一時お身の上に変った事が起っても、その変った事が追おい々おい元の形に立戻るという卦であります。この卦から考えて見ますと、現在のお身の上は一時変った事の起った後、追々もとのようになって行こうという間のように思われます。天気に譬たとえて申上げれば暴風のあった後、その名残りがなかなか静まらない。しかし追々静しずかになって、やがてもとの天気になろうというその途中だと申したらよいでしょう。﹂ 君江は膝ひざの上に肩掛を弄もてあそびながらぼんやり易者の顔を見ていたが、その判断は全くその身に覚えがない事ではない。どこか当っている処があるので、何となく気まりのわるいような心持で再び伏目になった。一時身の上に変った事があったと言うのは、大おお方かた両親の意見をきかず家を飛出し、東京へ来て、とうとう女給になった事だろうと思ったのである。 君江が家を出たわけは両親はじめ親類中じゅう挙こぞって是非にもと説き勧めた縁談を避けようがためであった。君江の生れた家は上野停てい場しゃ車ばから二時間ばかりで行かれる埼玉県下の丸円町にあって、その土地の名物になっている菓子をつくる店である。君江は小学校の友達の中で、一時牛うし込ごめの芸げい者しゃになり、一年たつかたたぬ中うち身みう受けをされて、人の妾めかけになっていた京子という女と絶えず往ゆき来きをしていたので、田舎者の女房などになる気はなく、家を逃げ出してそのまま京子の家に厄介になった。田舎から迎いの人が来て、二、三度連れ戻されてもまたすぐ飛出す始末。親たちも困りぬいて、君江の我わが儘ままを通させ銀行か会社の事務員になる事を許した。 君江は京子の旦那になっている川島という人の世話で、間もなく或ある保険会社に雇われたものの、これは一時実家へ対しての申もう訳しわけに過ぎないので、半年とはつづかず、その後ごはぶらぶら京子の家に遊んで日を暮している中うち、突然京子の旦那は会社の金を遣つか込いこんだ事が露見して検事局へ送られる。京子は芸者に出ていた頃のお客をそのまま妾しょ宅うたくへ引ひき込こみ、それでも足りない時は知合いの待まち合あいや結婚媒介所を歩き廻って、結句何不自由もなく日を送っているのを、傍そばで見ている君江もいつかこれをよい事にしてその仲間にはいった。しかし何分にもその筋の検挙がおそろしいので、京子はもとの芸者になろうと言いい出だす。君江もともども芸者はどんなものか一度はなって見たいと思いながら、鑑札を受ける時所轄の警察署から実家へ問とい合あわせの手続をする規定のある事を知って、やむことをえず女給になった。 京子は田舎の家へ仕送りをしなければならぬ身であるが、君江はそんな必要がない。田舎に育っただけそれほど流はや行りの物に身を飾る心もなければ、芝居や活動のような興行物も、人から誘われないかぎり、自分から進んで見に行こうとはしない。小説だけは電車の中でも拾い読みをするほどであるが、その他ほかには自分でも何が好きだかわからないと言っている位で、結局貸間の代と髪かみ結ゆい銭せんさえあれば、強いて男から金など貰もらう必要がない。金などは貰わずに、随分男のいうままになってやった事もあるほどなので、君江は今までいかほど淫いん恣しな生活をして来ても、人からさほど怨うらみを受けるようなはずはないと思い込んでいる。占者の説明を待って、 ﹁それでは今のところ別にたいして心配するようなことはないんで御ござ在いますね。﹂ ﹁御健康はいかがです。現在別に御おわるいところがないのなら、無論近い将来にもさして病難があるとは思われません。現在は唯ただ今いまも申上げたように波はら瀾んのあった後むしろ無事で、いくらか沈滞というような形もあります。御自分ではお気がつかないでいらっしゃるかも知れませんが、何か知ら不安で、おちつかないような気がなさるのかも知れません。しかし易の卦では唯今申上げたように一時の変動が追々静まって行くのですから、これから先たいした事件が起ろうとは思われません。しかし何か御心配な事があって、その事をどうしたらいいかと思おぼ召しめすなら、その特別な事について、もう一度見直しましょう。それで大抵お心当りがつくだろうと思います。﹂と易者は再び筮竹を取り上げた。 ﹁実はすこし気にかかる事が御在まして。﹂と君江は言いかけたが、まさかに黒ほく子ろの事は明らさまには言出しにくいので、﹁自分には別に覚おぼえがないんですけれど、誰かわたくしの事を誤解している人がありはしないかと思うような事が御在ます。﹂ ﹁はい。はい。﹂と易者は仔しさ細いらしく眼を閉じて再び筮竹を数え算木を置き直して、﹁なるほど。この卦は物に影の添う事を意味します。して見ると、何か御自分でいろいろ思いすごしをなさるのですな。それがためない事もあるように思われて来ます。唯今の言葉で申すと幻影と実体ですな。物があって影の生ずるのが自然でありますが、時と場合には、それとは反対に影から物の起ることもあります。それ故まず影をなくすようになされば、自然と物事は落つく処へ落ついて行くわけで。そういう御おこ心ころ持もちでいらっしゃれば、別に御心配には及ばないと思います。﹂ 君江は易者のいう事を至極尤もっともだと思うと、自分ながらつまらない事を気に掛けていたと、忽たちまち心丈夫な気になってしまった。それでもまだ何やらきいて見たいような心持がしながら、しかしあまり微細な事まで問とい掛かけて、それがため現在の職業はまだしもの事、二、三年前京子と二人で待合や媒介所を歩き廻った事まで知られてはと、底気味のわるい心持もする。猫の死骸や櫛くしのなくなった事もきいて見ようとは心づきながら、カッフェーへ行く時間が気になるので、今日はこのまま立去ろうと考え、 ﹁失礼ですが、御礼は。﹂といいながら帯の間へ手を入れる。 ﹁壱いち円えんいただく事にしてありますが、いかほどでも思おぼ召しめしで宜よろしいのです。﹂ 出入口の戸があいて、洋服の男が二人無遠慮に君江の腰をかけているすぐ側そばの椅子に坐ったのみならず、その一人はぎょろりとした眼付の、どうやら刑事かとも思われる様子に、君江は横を向いたまま椅子から立って、易者にも挨あい拶さつせず、戸を明けて廊下へ出た。 建物を出ると、おもては五月はじめの晴れ渡った日かげに、日比谷公園から堀端一帯の青葉が一層色あざやかに輝き、電車を待つ人だまりの中から流はや行りの衣いし裳ょうの翻えるのが目に立って見える。腕時計に時間を見ながら、君江はガードの下を通りぬけて、数すき寄や屋ば橋しのたもとへ来かかると、朝日新聞社を始め、おちこちの高い屋根の上から広告の軽気球があがっているので、立たち留どまる気もなく立留って空を見上げた時、後うしろから君江さんと呼びながら馳かけ寄る草ぞう履りの音。誰かと振返れば去年池いけの端はたのサロンラックで一緒に働いていた松子という年は二十一、二の女で。その時分にくらべると着物も姿もずっと好よくなっている。君江は同じ経験からすぐに察して、 ﹁松子さん。あなたも銀座。﹂ ﹁ええ。いいえ。﹂と松子は曖あい昧まいな返事をして、﹁去年の暮、暫しばらくアルプスにいたのよ。それから遊んでいたの。だけれどまたどこかへ出たいと思って実はこれから五丁目のレーニンっていう酒場。君江さんも御存じでしょう。あの時分ラックにいた豊子さんがいるから、ちょっと様子を見て来ようと思っているの。﹂ ﹁そう。あなた、アルプスにいたの。ちっとも知らなかったわ。わたしはあれからずっとドンフワンにいるわ。﹂ ﹁この春だったか、アルプスでお客様から聞いたことがあったわ。お逢あいしたいと思ってもつい時間がないでしょう。あの、先生もお変りがなくって。﹂ 君江は小説家清岡進の事にちがいないとは思いながら、数の多いお客の中には、弁護士の先生もあれば、医者の先生もあるので、それとなく念を押すに若しくはないと、﹁ええ。この頃は新聞の外ほかに映画や何かで大変おいそがしいようだわ。﹂ 松子はこれを何と思いちがいしたのか、﹁アラ、そう。﹂といかにも感に打たれたらしく深く息を呑のんで、﹁男はいざとなると薄情ねえ。わたしもいい経験をしたのよ。だから今度は大おおいに発展してやろうと思ってるのよ。﹂ 君江は心の中で高が五人か十人、数の知れた男の事を大層らしく経験だの何だのと言うにも及ぶまいと、可お笑かしくなって来て、からかい半分、わざと沈んだ調子になり、﹁あの先生には立派な奥様はあるし、スターで有名な玲子さんがあるし、わたし見たような女給なんぞは全く一時的の慰み物だわ。﹂ 橋を渡ると、人通りは尾おわ張りち町ょうへ近くなるに従って次第に賑にぎやかになる。それにもかかわらず松子は正直な女と見えて、忽たちまち激した調子になり、﹁だって、玲子さんが結婚したのは、先生が君江さんを愛したためだっていう評判よ。そうじゃないの。﹂ 君江はあたりを憚はばからぬ松子の声に辟へき易えきして、﹁松子さん。その中うちゆっくり会って話しましょうよ。何なら、ちょっとお寄んなさいな。ドンフワンでも募集しているから紹介してもいいわ。﹂ ﹁あすこは今幾いく人たりいて。﹂ ﹁六十人で、三十人ずつ二組になっているのよ。掃除はテーブルも何も彼かも男の人がするから、それだけ他わきよりも楽だわ。﹂ ﹁一日に幾番くらい持てるの。﹂ ﹁そうねえ。この頃じゃ三ツ持てればいい方だわ。﹂ ﹁それで、綺き羅らを張ったら、かつかつねえ。自動車だって一度乗ると、つい毎晩になってしまうし……。﹂ 君江はこまこました世せち智が辛らいはなしが出ると、他人の事でもすぐに面倒でたまらなくなる。それにまた、金なんぞはだまっていても無理やりに男の方から置いて行くものと思っているので、人ひと込ごみの中に隔てられたまま松子の方には見向きもせず、日の光に照てり付つけられた三みつ越こしの建物を眩まぶしそうに見上げながら、すたすた四よつ辻つじを向側へと横ぎってしまったが、少しは気の毒にもなって、後を振返って見ると、松子は以前の処に立止ったまま、挨あい拶さつのしるしに遠くからちょっと腰をかがめ、それでもう安心したという風で、これも忽ち人通りの中に姿を没した。二
松屋呉服店から二、三軒京きょ橋うばしの方へ寄ったところに、表おも附てつきは四しけ間んま間ぐ口ちの中央に弧ゆみ形なりの広い出入口を設け、その周囲にDONJUANという西洋文字を裸体の女が相寄って捧げている漆しっ喰くい細ざい工く。夜になると、この字に赤い電気がつく。これが君江の通勤しているカッフェーであるが、見渡すところ殆ほとんど門かど並なみ同じようなカッフェーばかり続いていて、うっかりしていると、どれがどれやら、知らずに通り過ぎてしまったり、わるくすると門かどちがいをしないとも限らないような気がするので、君江はざっと一年ばかり通かよう身でありながら、今だに手てま前えど隣なりの眼鏡屋と金物屋とを目めじ標るしにして、その間の路ろ地じを入るのである。路地は人ひとりやっと通れるほど狭いのに、大きな芥ごみ箱ばこが並んでいて、寒中でも青あお蠅ばえが翼はねを鳴ならし、昼中でも鼬いたちのような老ろう鼠ねずみが出没して、人が来ると長い尾の先で水みず溜たまりの水をはね飛とばす。君江は袂たもとをおさえ抜ぬき足あしして十歩ばかり。やがて裏通を行く人の顔も見分けられるあたり。安油の悪臭が襲うように湧わき出してくる出入口をくぐると、何ど処こという事なく竈かま虫どむしのぞろぞろ這はい廻っている料理場である。料理場は後あとから建て増したものらしく、銀座通に面した表附とはちがって、震災当時の小屋同然、屋根も壁もトタンの海なま鼠こい板た一枚で囲ってあるばかり。それでも土間から急な梯はし子ごだ段んを土足のまま登って行くと、十畳ばかり畳を敷いた一室があって、四方の壁際ぐるりと十四、五台ばかりも鏡台が並べてある。丁度三時五、六分前。十畳の一室は、朝十一時から店へ出ていた女給と、今いま方がた来たものとの交代時間で、坐る場所もないほど混雑している最中。鏡一台の前にはいずれも女が二、三人ずつ繍め眼じ児ろ押おしに顔を突つき出だして、白おし粉ろいの上うわ塗ぬりをしたり髪の形を直したり、あるいは立って着物を着かえたり、大おお胡あぐ坐らで足た袋びをはき替かえたりしているのもある。 君江は竪たてシボの一ひと重えば羽お織りをぬいで肩掛と一つにして風ふろ呂し敷きに包んだ。そして廊下への出口に置いてある衣いし裳ょう棚だなに、名前の貼紙がしてある処を見てその包つつみを載のせ、コンパクトで鼻の先を叩たたきながら、廊下づたいにパンツリイを通り抜けると、丁度店二階の方から歩いて来る春代という女に出で逢あった。帰り道が同じ四よつ谷やの方ほう角がくなので、六十人いる朋ほう輩ばいの中では一番心安くなっている。 ﹁春さん。昨夜はグレたんじゃないの。後あとで何かおごってよ。﹂ ﹁それァあなたでしょう。わたし随分待っていたのよ。今夜はきっと一緒に帰りましょう。その方が経済だからねえ。﹂ 君江はそのまま表二階の方へ行きかけると、階段の下から下げそ足くば番んをしている男ボーイが、﹁君江さん、電話です。﹂と頻しきりに呼んでいる声が聞えた。 ﹁はアイ。﹂と大声に答えながら、口の中で﹁誰だろう。いけすかない。﹂とつぶやきながら、テーブルや植木鉢の間を小走りに通り抜けて階段を下りて行った。 階下は銀座の表通から色いろ硝ガラ子スの大戸をあけて入る見通しの広い一室で、坪つぼ数すうにしたら三、四十坪ほどもあろうかと思われるが、左右の壁際には衝つい立たての裏表に腰掛と卓テー子ブルとをつけたようなボックスとかいうものが据え並べてあって、天井からは挑ちょ灯うちんに造花、下には椅子テーブルに植木鉢のみならず舞台で使う藪やぶ畳だたみのような植うえ込こみが置いてあるので、何となく狭苦しく一見唯ただごたごたした心持がする。正面の奥深い片隅に洋酒を棚に並べた酒場があって、壁に大きな振ふり子こ時計、その下に帳場があり、続いて硝子戸の内に電話機がある。君江は行きちがう人ごとに笑顔をつくりながら、電話室へ駈かけ込み、﹁もしもしどなた。﹂ときくと、電話は君江を呼んだのではなく、清子という女給の聞きちがえであった。 爪つま先さきで電話室の硝子戸を突きあけ、﹁清子さん。電話。﹂と呼びながら君江は反そり身みに振返ってあたりを見廻したが、昼間のことで客はわずかに二組ほど、そのまわりに女給が七、八人集っているばかり。植木の葉かげを透すかして見ても清子の姿は見えない。誰やらが﹁清子さんは早番でしょう。﹂という。君江はその通り電話の返事をして硝子戸の外へ出ると、その姿を見て、洋服をきた中年の痩やせた男が帳場の台に身を倚よせたまま、﹁君江さん。﹂と呼留めて、﹁どうしました。占うらないは。﹂ ﹁たった今、見てもらったわ。﹂ ﹁どうでした。やっぱり男のおもいでしょう。﹂ ﹁それなら見てもらわなくっても覚えがあるはずじゃないの。もうそんな景気じゃないわ。小松さん。わたし大おおいに悲観しているのよ。﹂ ﹁へえ。君江さんが……。﹂と小松といわれた男は円まる顔がおの細い目尻に皺しわをよせて笑う。年はもう四十前後。神田の何とやらいうダンスホールの会計に雇われている男で、夕方六時に出勤する頃まで、毎日懇意なカッフェーを歩き廻って女給の貸間をはじめ、質屋の世話、芝居の切符の取次など、何事にかぎらず女の用を足してやって、皆から小松さん小松さんと重ちょ宝うほうがられるのをこの上もなく嬉しいことにしている男である。いや味な事は言わないかわり、お客になって飲み食いもした事がない。以前はどこかの箱はこ屋やだともいうし役者の男おと衆こしゅうだったという噂うわさもある。君江はこの男から日比谷の占者のことをきいたのである。 ﹁君江さん。どうでした。何か手がかりがありましたか。﹂ ﹁さア。何だか、いろいろな事を言われたけれど、何の事だかわけがわからないのよ。わたしの方でも別に何ともきいては見なかったんだけれど。﹂ ﹁それじゃ駄目だ。君江さんと来たら実にのん気だからな。﹂ ﹁壱いち円えん損したわ。﹂と君江は人に問われて始めて占者の判断の甚はなはだ要領を得ていなかった事と、自分のきき方も随分不熱心であった事に心づいた。最もす少こし向むこうの困るくらい委くわしくこまかい事まできけばよかったという気がした。 ﹁でもねえ、小松さん。当分今の通りで別条はないんですとさ。覚えているのはそれッきりよ。いろんな事を言われたけれど﹃何が何だかわからないのヨ﹄なのよ。まったくさ。何しろ占を見てもらうのは生れて始てでしょう。見てもらいつけないと駄目なものねえ。占もやっぱり聞きき方かたがあるんじゃないか知ら。﹂ ﹁占いかたはあっても、別に聞き方はないでしょう。﹂ ﹁それでも、お医者さまでも始めて見てもらう時には、いろいろこっちから言わなくっちゃ、いけないッていうじゃないの。だから占や何かでもやっぱりそうだろうと思うわ。﹂ 表おも梯てば子しごの方から蝶ちょ子うこという三十越したでっぷりした大おお年どし増まが拾じゅ円うえん紙幣を手にして、﹁お会計を願います。﹂と帳場の前へ立ち、壁の鏡にうつる自分の姿を見て半はん襟えりを合せ直しながら、 ﹁君江さん。二階に矢ヤアさんがいてよ。行っておあげなさいよ。うるさいから。﹂ ﹁さっき見掛けたけれど、わたしの番じゃないから降りて来たのよ。あの人、先せんに辰たつ子こさんのパトロンだって、ほんとうなの。﹂ ﹁そうよ。日にっ活かつの吉ヨウさんに取られてしまったのよ。﹂とはなし出した時会計の女が伝票と剰つり銭せんとを出す。その時この店の持主池田何なに某がしという男に事務員の竹下というのが附き随したがい、コック場へ通う帳場の傍わきの戸口から出て来る姿が、酒場の鏡に映った。蝶子と君江とは挨あい拶さつするのが面倒なので、さっさと知らぬふりで二階の方へ行く。池田というのは五十年配の歯の出た貧ひん相そうな男で、震災当時、南米の植民地から帰って来て、多年の蓄財を資本にして東京大阪神戸の三都にカッフェーを開き、まず今のところでは相応に利益を得ているという噂である。 表梯子から二階へ上った蝶子は壁際のボックスに坐すわっている二人連れの客のところへ剰銭を持って行き、君江は銀座通を見みお下ろす窓際のテーブルを占めた矢ヤアさんというお客の方へと歩みを運びながら、 ﹁いらっしゃいまし。この頃はすっかりお見かぎりね。﹂ ﹁そう先廻りをしちゃアずるいよ。先日はどうも、すっかり見せつけられまして。あんなひどい目に遇あった事は御ござ在いません。﹂ ﹁矢ヤアさん。たまにゃア仕方がないことよ。﹂と愛あい嬌きょうを作って君江は膝ひざ頭がしらの触れ合うほどに椅子を引寄せて男の傍そばに坐り、いかにも懇意らしく卓テーブルの上に置いてある敷しき島しまの袋から一本抜取って口にくわえた。 矢ヤアさんというのは赤あか阪さか溜ため池いけの自動車輸入商会の支配人だという触ふれ込こみで、一ひと時しきりは毎日のように女給のひまな昼過ぎを目掛けて遊びに来たばかりか、折々店員四、五人をつれて晩ばん餐さんを振ふる舞まう。時々これ見よがしに芸者をつれて来る事もある。年は四十前後、二ツはめているダイヤの指ゆび環わを抜いて見せて、女たちに品質の鑑定法や相場などを長々と説明するというような、万事思切って歯の浮くような事をする男であるが、相応に金をつかうので女給連れんは寄ってたかって下にも置かないようにしている。君江は既に二、三度芝居の切符を買ってもらったこともあるし、休暇時間に松屋へ行って羽織と半襟を買ってもらったこともあるので、この次どこかへ御ごは飯んでも食べに行こうと誘われれば、その先は何を言われても、そう情すげなく振切ってしまうわけにも行かない位の義理合いにはなっている。それ故矢ヤアさんからひやかされたのを、なまじ胡ご麻ま化かすよりも明あからさまに打明けてしまった方が、結句面倒でなくてよいと思ったのである。矢ヤアさんは内心むっとしたらしいのを笑いにまぎらせて、 ﹁とにかく羨うらやましかったな。罪なことをするやつだよ。﹂とテーブルの周囲に集っているお民たみ、春江、定さだ子こなど三、四人の女給へわざとらしく冗談に事寄せて、﹁お二人でお揃そろいのところを後うしろからすっかり話をきいてしまったんだからな。人中なのに手も握っていた。﹂ ﹁あら。まさか。そんなにいちゃいちゃしたければ芝居なんぞ見に行きゃアしないわ。わきへ行くわよ。﹂ ﹁こいつ。ひどいぞ。﹂と矢ヤアさんは撲ぶつまねをするはずみにテーブルの縁ふちにあったサイダアの壜びんを倒す。四、五人の女給は一度に声を揚げて椅子から飛び退のき、長い袂たもとをかかえるばかりか、テーブルから床ゆかに滴したたる飛とば沫しりをよける用心にと裾すそまで摘つまみ上げるものもある。君江は自分の事から起った騒ぎに拠よん所どころなく、雑ぞう巾きんを持って来て袂の先を口に啣くわえながら、テーブルを拭いている中うち、新しく上って来た二、三人連づれの客。いらっしゃいましと大年増の蝶子が出迎えて﹁番ばん先さきはどなた。﹂と客の注文をきくより先に当番の女給を呼ぶ金かな切きり声ごえ。﹁君江さんでしょう。﹂と誰やらの返事に君江は雑巾を植木鉢の土の上に投付けて﹁はアい。﹂と言いながら、新来のお客の方へと小走りにかけて行った。 客は二人とも髭ひげを生はやした五十前後の紳士で、松屋か三越あたりの帰りらしく、買物の紙包を携たずさえ、紅茶を命じたまま女給には見向きもせず、何やら真ま面じ目めらしい用談をしはじめたので、君江はかえってそれをよい事に、ひまな女たちの寄より集あつまっている壁際のボックスに腰をかけた。テーブルの上には屑くず羊よう羹かんに塩しお煎せん餅べい、南なん京きん豆まめなどが、袋のまま、新聞や雑誌と共に散らかし放題、散らかしてあるのを、女たちは手先の動くがまま摘つまんでは口の中へと投げ入れているばかり。活動写真の評判や朋ほう輩ばい同士の噂うわさにも毎日の事でもう飽あきている。睡ねむ気けがさしてもさすがここでは居いね睡むりをするわけにも行かないらしく、いずれも所しょ業ざいなげに唯ただ時間のたつのを待っているという様子。その時隅の方でひとり雑誌の写真ばかり繰りひろげて見ていた女が、突然、 ﹁アラ、実にシャンねえ。清岡先生の奥様よ。﹂という声に、ボックスに休んでいた女は一斉に顔を差出した。君江も屑羊羹を頬ほお張ばりながら少し及およ腰びごしになって、 ﹁どれさ。見せてよ。わたしまだ知らないんだからさ。﹂ ﹁はい。よく御覧なさい。﹂と以前の女が差さし付つける雑誌の挿絵。見れば、縁側に腰をかけている夫人風の女の姿で、﹁名士の家庭。﹂﹁創作家清岡進先生の御夫人鶴子さまのお姿。﹂としてあった。 ﹁君江さん。あんた、何ともない事。そんなもの見て。わたしなら破いてしまいたくなるわ。﹂と写真の上に南京豆を打ちつけたのは、もと歯医者の妻で生活難から女給になった鉄子である。 ﹁あなた。随分焼やき餅もちやきねえ。﹂と君江はかえって驚いたように鉄子の顔を見返して、﹁いいじゃないの。奥様なら奥様で。気にしないだって。﹂ ﹁君江さんは全く徹底しているわ。﹂とダンス場から転じてカッフェーに来た百ゆ合り子こというのが相あい槌づちを打つと、もとは洋よう髪はつ屋やの梳すき手てであった瑠る璃り子こというのが、 ﹁とにかく一番幸福なのは清岡さんよ。令夫人はシャンだし、第二号は銀座における有名なる女給さんだし……。﹂ ﹁ちょいと何が有名なのさ。止よして頂ちょ戴うだいよ。﹂と君江はわざとらしく憤ふん然ぜんと椅子を立って、先さっ刻きから打うち捨すてて置いた自動車商会の矢田さんの方へと行ってしまった。女たちは無論戯れとは知りながら、少し心配したように斉ひとしくその後うし姿ろすがたを見送ったが、瑠璃子はもともと梳子の時分ないない私しし娼ょう窟くつに出没して君江とも一、二度言葉を交えた間柄。偶然このカッフェーで邂かい逅こうしても、互たがいに黙契する処があるらしく秘密を守り合っているくらいなので、何を言ってもまた言われても互に気を悪くするはずはないと、平気な顔で、折からテーブルを叩たたくらしい音がするのを聞きつけ、自分が持番の客ではないかと、音する方へ目を注ぐ。丁度その途端、階段から上って来る新しい客の洋服姿が向むこうの壁の鏡に映ったのを早くも認めて、﹁アラ清岡先生よ。﹂と瑠璃子は小声で一みん同なに知らせた。 ﹁先生。くしゃみが出なかって。﹂と君江とは仲の好い春代が逸いち早はやく駈かけ寄よって、﹁あっちのボックスがいいわよ。﹂と洋服の袖そでに縋すがり、人目につかない隅のボックスへ連れて行った。これは君江を張りに来る自動車屋の矢田さんが、まだ帰らずにいるので、万一の事を用心した春代の心づかいである。 ﹁歩いて来るともう暑い。黒ビールか何か貰もらおうよ。﹂と清岡進は抱えていた新刊雑誌と新聞紙とをテーブルの下の揚あげ板いたに押入れ、新しい鼠ねず色みいろの中なか折おれ帽ぼうをぬいで造花の枝にかけた。紺こん地じ二重ボタンの背広に蝶ちょ結うむすびのネキタイ。年の頃は三十五、六。鼻先と頤おとがいのとがっているのが目に立つので、色の白い眼の大きい頬ほおのこけた顔立は一層神経質らしく見えるのに、長く舒のばした髪をわざと無造作に後うしろに掻き上げている様子。誰が目にも新進の芸術家らしく、また宛さな然がら活動写真中に現れて来る人物らしくも見える。その父は漢学者だとかいう事であるが、清岡は仙台あたりの地方大学に在学中も学業の成績は極めて不出来で、卒業の後文学者の仲間入はしたものの、つい三、四年ほど前までは、更に月げっ旦たんに登るような著述もなかった。然しかるに、何から思いついたのやら、ふと曲きょ亭くて馬いば琴きんの小説﹃夢むそ想うべ兵えこ衛ちょ胡うも蝶のが物た語り﹄を種たね本ほんにして、原作の紙た鳶こを飛行機に改め、﹁彼はどこへでも飛んで行く。﹂という題をつけ、全篇の趣向をそのまま現代の世相に当てはめた通俗小説を執筆して、或ある新聞に連載した。これが偶然大当りにあたって、新派俳優の芝居や活動写真にも仕組まれ、爾じら来い名声は藉せき然ぜんとして、一作ごとに高くなり、今こん日にちでは大抵の雑誌や新聞に清岡進の名を見ないものはないような勢いきおいになった。 ﹁これも先生の御本。﹂と春代は遠慮なくテーブルの上の一冊を取り上げ口絵を見ながら、﹁これはまだ活動にはならないんでしょう。﹂ 清岡はわざとうるさいような顔をして、﹁春さん。ちょっと電話を掛けてくれ。﹃丸円新聞﹄の編へん輯しゅ局うきょくに村岡がいるはずだから。京橋の丸丸番だよ。呼出してすぐにここへ来いッて。﹂ ﹁村岡さんて、いつもの村岡さん。﹂ ﹁そうだよ。﹂ ﹁京橋の丸丸番だわね。﹂と春代が行きかけた時、持番の定さだ子こというのが、黒ビールと南京豆の小皿を持って来て、酌をしながら、﹁わたし、先生の小説には思出の深い事があるのよ。あの時分、別に役も何も付いた訳じゃないけれど、始めて蒲かま田たへ這は入いったのよ。﹂ ﹁定さん。蒲田にいた事があるのか。﹂と清岡はコップを片手に定子の顔を斜ななめに見上げながら、﹁どうして止よしたんだ。﹂ ﹁どうしてッて。見込みがないんですもの。﹂ ﹁お世辞じゃないが、定さんのような顔立なら映画には向くんだがね。監督の言う事を聴かないからだろう。女は何になっても男の後援がなくっちゃ駄目だからな。女流作家だって少し売出すまでには、みんな背景があるんだよ。﹂ その時君江が巻まき煙たば草こを啣くわえながら歩いて来て、黙って清岡の側そばに腰をかける。春代が戻って来て電話の返事を伝え、そのまま腰をかけて、 ﹁先生。何か御馳走してよ。君ちゃんは。﹂ ﹁わたしこの方がいいわ。﹂と清岡が飲残した黒ビールのコップを取上げた。 ﹁おむつまじい事ね。じゃア、春代さん、チキンライスか何か一緒にたべましょう。﹂と定子は帯の間から取出す伝票紙に注文の品を書きながら立って行った。 明り取りの窓にさしていた夕日の影はいつか消えて、階段の下から突然蓄音機が響き出した。これが五時半になった知らせで、三時過から休んでいた女給も化粧をし直して出てくる。階上階下の電燈には残りなく灯がついて、外はまだ明あかるい夏の夕方も建物の内ばかりは早くも夜の景気である。三
帰り途みちが同じ四よつ谷やの方角なので、君江と春代とは大抵毎晩連つれ立だって数すき寄や屋ば橋しあたりから円タクに乗る。銀座通では人目に立つのみならず、その辺へんにはカッフェーを出た酔客がまだうろうろ徘はい徊かいしているので、これを避けるため、少し歩きながら、通とお過りすぎる円タクを呼止め、値切る上にも賃銭を値切り倒して、結局三十銭位で承知する車に乗るのである。その晩二人は数寄屋橋を渡ってガードの下を過ぎ、日ひ比び谷やの四よつ辻つじ近くまで来たが、三十銭で承知する車は一台もない。春代は腹立しげに、﹁何だい。馬鹿にしている。停とまるかと思ったら、あいつも行ってしまった。﹂ ﹁いいわよ。ぶらぶら歩きましょうよ。少し酔ったから丁度いいわよ。﹂ ﹁もうすっかり夏だわねえ。御おほ堀りの方を見ると、まるで芝居の背景見たようねえ。﹂ 日比谷の四辻には電車を待つ人がまだ大分立っている。 ﹁今夜は節約して電車に乗ろうよ。﹂ 二人は道幅のひろい四辻を歩道から線路の方へと歩み寄ろうとした時、横合いからぬっと二人の前へ立ちふさがった洋服の男があったので、二人はびっくりしてその顔を見ると、今日も午後にカッフェーへ来ていたダイヤモンドの矢田さんであった。 ﹁まア、大変御ゆっくりねえ。どこで飲んでいらしったの。﹂ ﹁送ってあげよう。﹂と矢田は円タクを呼びかけた。 ﹁わたし、電車でいいのよ。お客様と自動車に乗るのはやかましいから。﹂と春代は体ていよく逃げようとすると、矢田は、度々その手を食っていると見えて、 ﹁それァ銀座通のことじゃないか。ここまで来れば構やせん。僕が責任を負う。﹂ ﹁あなたも節約して電車になさいよ。矢ヤアさん。﹂と君江は丁度来かかった赤電車の方へとすたすた行きかけたので、矢田はとやかく言っている暇もなく、二人の後について新しん宿じゅく行の電車に乗った。 案外すいている車の中には、二人の知らない他の店の女給が三人ばかりに、男が五、六人。いずれも居眠りをしている。半はん蔵ぞう門もんを過ぎて四よつ谷やみ見つ附けに来かかる時まで、矢田はさすがにおとなしく、連れではないような風をして口もきかずにいたが、君江が春代を残して一人車から降りかけるのを見るや否や、あわててその後について来て、 ﹁君江さん。もう乗のり換かえはないぜ。自動車を呼ぼう。﹂ ﹁いいのよ。すぐ其そ処こですから。﹂と君江は人ひと通どおりの絶えた堀ほり端ばたを本ほん村むら町ちょうの方へと歩いて行く。円タクの運転手が二人の姿を見て、窓から手を出し指で賃銭の割引を示すものもあれば、垢あかじみた顔を出してひやかすものもある。矢田はぴったり寄添い、 ﹁君江さん。どうしても家うちへ帰らなくっちゃいけないのか。一晩ぐらい都合できないのか。エ、君江さん。どうしてもいけなければ、一時間でも、三十分でもいい。話をしてすぐ別れてもいいから、ちょっとつき合ってくれ。僕はそんな無理なことは決して言わない。今夜の中にきっと帰すから。﹂ ﹁もう晩おそすぎるわよ。ぐずぐずしていると、わたし帰れなくなってしまうから。それに明あし日たは早番だから。﹂ ﹁早番だって、あすこは十一時じゃないか。こんな事を言ってぐずぐずしている中うちに時間がたってしまうじゃないか。この近辺はいけないのか。荒あら木きち町ょうか、それとも牛うし込ごめはどうだ。﹂と矢田は君江の手を握って動かない。 土手上の道路は次第に低くなって行くので、一ひと歩あしごとに夜の空がひろくなったように思われ、市いちヶ谷やから牛込の方まで、一目に見渡す堀の景色は、土手も樹木も一様に蒼あおく霧のようにかすんでいる。そよそよと流れて来る夜よふ深けの風には青くさい椎しいの花と野草の匂においが含まれ、松の聳そびえた堀ほり向むこうの空から突然五ごい位さ鷺ぎのような鳥の声が聞えた。 ﹁アラ。何だか田舎へ行ったようねえ。﹂と君江は空を見上げた。矢田はすかさず、 ﹁どこか静な処へ行こうじゃないか。一晩位犠牲におしよ。僕のために。﹂ ﹁矢さん。もしか目め付っかって、ごたごたしたら、あなた。あの人の代りになってくれること。わたし、実はもうカッフェーなんかよしたいと思っているの。﹂と君江は矢田の心を引いて見るつもりで、わざと身を摺すり寄せながら静に歩き出した。実は今夜連れられて行った先で、矢田が気前好よく祝しゅ儀うぎを奮発するかどうかを確めて置こうと思っただけである。 ﹁あの人ッて、誰だ。この間一緒に邦ほう楽がく座ざへ行った人か。﹂ ﹁いいえ。﹂と言いかけて君江は心づき、﹁え、そうよ。あの人よ。﹂と狼うろ狽たえて言いい直なおした。邦楽座へ一緒に行ったのは旦那でも恋人でも何でもない。つまり矢田さんと同様なその場かぎりのお客なのである。 ﹁そうか。あの人が君さんの旦那なのか。﹂と矢田はすっかり本気にして、﹁しかし、今まで世話をしている関係があっちゃア、そう急によしてしまう訳わけには行かないだろう。恨まれるのはいやだからな。﹂ 君江は噴き出したくなるのを耐こらえて、﹁ですからさ。もしも、万一の事があったらッて言うのよ。知れると面倒だから、今夜の事は誰にも絶対に秘密よ。﹂ ﹁そんな事は心配しないだって大丈夫だよ。まさかの時にはきっと僕が引受ける。﹂と矢田はまず今夜だけはいよいよ自分のものになった嬉しさ。人通のない堀端を幸さいわいに、いきなり抱き寄せて女の頬ほおに接せっ吻ぷんした。 本村町の電車停留場はいつか通過ぎて、高こう力りき松まつが枝を伸のばしている阪の下まで来た。市ヶ谷駅の停車場と八幡前の交番との灯が見える。 ﹁あすこの交番はうるさいのよ。すこしおそくなると、いろいろな事を聞くから、車に乗りましょう。﹂ 矢田はこの機逸いっすべからずと、あたりを見廻したが、折おり悪あしく円タクが通らないので、二人はそのまま立止った。 ﹁わたしの家はすぐ其そ処この横よこ町ちょうだわ。角に薬屋があるでしょう。宵の中うちには屋根の上に仁じん丹たんの広告がついているからすぐにわかるわ。わたしこの荷物を置いて来るから待っててヨ。﹂ ﹁おい。君さん。大丈夫か。すっぽかしはあやまるぜ。﹂ ﹁そんな卑ひき怯ょうな真ま似ねしやしないわヨ。心配なら一緒にそこまでいらっしゃいよ。わたしが帰らないと、いつまでも下のおばさんが鍵かぎをかけずに置くから。﹂ 高力松の下から五、六軒先の横町を曲ると、今までひろびろしていた堀端の眺望から俄にわかに変る道幅の狭さに、鼻のつかえるような気がするばかりか、両側ともに屋やな並みの揃そろわない小家つづき、その間には潜くぐ門りもんや生いけ垣がきや建けん仁にん寺じが垣きなども交まじっているが、いずれも破れたり枯れたりしているので、あたりは一層いぶせく貧し気に見える。君江は軒のき先さきに魚さか屋なやの看板を出した家の前まで来て、﹁ここで待っていらっしゃい。﹂と言いすて、魚屋の軒下から路ろ地じへ這は入いった。矢田はすぐにその後について行こうとしたが、君江の感情を害しはせぬかと遠慮して、暫しばらく首をのばして真まっ暗くらな路地の中をのぞくと、がたりがたりといかにも具合のわるそうな潜くぐ戸りどの音がしたので、いくらか安心はしたものの、どうも、様子が見届けたくてならぬところから、一ひと歩あし二ふた歩あしとだんだん路地の中へ進み入ると、忽たちまち雨だれか何かの泥ぬか濘るみへぐっすり片足を踏み込み、驚いて立戻り、魚屋の軒けん燈とうをたよりに半はん靴ぐつのどろを砂じゃ利りと溝どぶ板いたへなすりつけている。間もなく、君江は出て来て、 ﹁アラ、どうしたの。﹂ ﹁イヤ、ひどい道だ。馬鹿にくさい。猫か犬の糞くそだろう。﹂ ﹁だから、外で待っていらっしゃいッて言ったんじゃないの。ほんとに臭くさいわ。あなた。﹂と君江は寄添う矢田からその身を離して、﹁わたし、草ぞう履りだから、足た袋びへくっ付けちゃ、いやヨ。﹂ 矢田は歩きながら、砂利に靴の裏をこすりこすりもとの堀端へ出ると、丁度曲まが角りかどの軒下に薪まきと炭すみ俵だわらとが積んであったのでやっと靴の掃除をし終った時、呼びもしない円タクが二人の前に停とまった。 ﹁神かぐ楽らざ阪か。五十銭。﹂と矢田は君江の手を取って、車に乗り、﹁阪の下で降りよう。それから少し歩こうじゃないか。﹂ ﹁そうねえ。﹂ ﹁今夜は何となく夜通し歩きたいような気がするんだよ。﹂と矢田は腕をまわして軽く君江を抱き寄せると、君江はそのまま寄りかかって、何も彼かも承知していながら、わざと、 ﹁矢ヤアさん。一体どこへ行くの。﹂ときいた。 矢田の方でも随分白ばッくれた女だとは思いながら、その経歴については何事も知らないので、表面は摺すれていても、その実案外それほどではないのかという気もするので、この場合は女の仕向けるがまま至極おとなしい女給さんとして取扱っていれば間違いはないと、君江の耳元へ口を寄せて、﹁待まち合あいだよ。﹂と囁ささやき聞かせ、﹁差しつかえはないだろう。今夜は晩おそいからね。僕の知ってる処がいいだろう。それとも君江さん。どこか知っているなら、そこへ行こう。﹂ 思いがけない矢田の仕返しに、さすがの君江も返事に困り、﹁いいえ。何ど処こだってかまわないわ。﹂ ﹁じゃ、阪下で降りよう。尾沢カッフェーの裏で、静な家を知っているから。﹂ 君江はうなずいたまま窓の外へ目を移したので、会はな話しはそのまま杜と絶だえる間もなく車は神楽阪の下に停った。商店は残らず戸を閉め、宵の中うち賑にぎやかな露店も今は道端に芥あくたや紙かみ屑くずを散らして立去った後、ふけ渡った阪道には屋台の飲食店がところどころに残っているばかり。酔った人たちのふらふらとよろめき歩む間を自動車の馳かけ過すぎる外ほかには、芸者の姿が街をよこぎって横町から横町へと出没するばかりである。毘びし沙ゃも門んの祠ほこらの前あたりまで来て、矢田は立止って、向側の路ろじ地ぐ口ちを眺め、 ﹁たしかこの裏だ。君江さん。草履だろう。水みず溜たまりがあるぜ。﹂ 石を敷いた路地は、二人並んでは歩けないほどせまいのを、矢田は今だに一人先に立って行ったら君江に逃げられはせぬかと心配するらしく、ハメ板に肱ひじや肩先が触さわるのもかまわず、身を斜ななめにしながら並んで行くと、突つき当あたりに稲いな荷りらしい小さな社やしろがあって、低い石垣の前で路地は十文字にわかれ、その一ひと筋すじはすぐさま石段になって降り行くあたりから、その時静な下げ駄たの音と共に褄つまを取った芸者の姿が現れた。二人はいよいよ身を斜にして道を譲りながら、ふと見れば、乱れた島田の髱たぼに怪あやし気げな癖くせのついたのもかまわず、歩くのさえ退たい儀ぎらしい女の様子。矢田は勿もち論ろんの事。君江の目にも寐ねし静ずまった路地裏の情景が一段艶なまめかしく、いかにも深ふけ渡った色いろ町まちの夜らしく思いなされて来たと見え、言合したように立止って、その後姿を見送った。それとも心づかぬ芸者は、稲荷の前から左手へ曲る角の待合の勝手口をあけて這は入いるが否や、疲れ果てた様子とは忽ち変った威勢のいい声で、﹁かアさん。もう間に合わなくって。﹂ 君江は耳をすましながら、﹁矢ヤアさん。わたしも芸者になろうと思ったことがあるのよ。ほんとうなのよ。﹂ ﹁そうか。君江さんが。﹂と矢田はいかにもびっくりしたらしく、その事わ情けをきこうとした時、早くも目指した待合の門口へ来た。内にはまだ人の気けは勢いがしていたが、門の扉の閉めてあるのを、矢田は﹁おいおい﹂と呼びながら敲たたくと、すぐに硝ガラ子ス戸どの音と、下駄をはく音がして、 ﹁どなたさま。﹂と女の声。 ﹁僕。矢さんだよ。﹂ ﹁あら、大変御ゆっくりねえ。﹂と門の扉を明けた女中は、君江の姿を見て、いくらか調子を改め、﹁さア、どうぞ。﹂ 女中は廊下の突当りから、厠かわやらしい杉戸の前を過ぎて、瓦がと塔うぐ口ちの襖ふすまをあけ、奥まった下しも座ざし敷きの四畳半に案内した。今しがたまでお客がいたものと見え、酒のかおりと共に、煙たば草この烟けむりも籠こもったままで、紫した檀んの卓テーブルの溝みぞには煎いり豆まめが一ツ二ツはさまっていた。女中は片隅に積み載せた座ざぶ布と団んを出し、﹁ただ今いま綺きれ麗いにいたします。やっと今方片づいた処なんで御ござ在いますよ。﹂ ﹁大した景気だな。﹂ ﹁いいえ。相変らずで仕様が御在ません。﹂と女中はお定きまりの茶菓を取りにと立って行く。 ﹁すこし明けようじゃないか。﹂ ﹁蒸し蒸しするわねえ。﹂と君江はいざりながら手を伸のばして障子を明けると、土どび庇さしの外の小庭に燈とう籠ろうの灯ひが見えた。 ﹁あら、いいわね。芝居のようだわ。﹂ ﹁カッフェーとはまた別だな。これが江戸趣味ッていうんだろうな。﹂と矢田は沓くつ脱ぬ石ぎの上に両足を投出して煙草へ火をつけた。 植込を隔てて隣となりの二階の窓が見える。簾すだれがおろしてあるが障子の上に、島しま田だに結ゆった女が立って衣きも服のをぬいでいるらしい影のありあり映っているのを見て、君江はそっと矢田の袖そでを引いたが、それと同時に艶なまめかしい影は雲のように大きく薄くなったまま消え去って、かすかな話声ばかりになった。矢田は何の事やら気がつかなかったらしく、石の上に両脚を踏みのばしたまま洋服の上着を脱ぎ、ネキタイを解きかけたが、君江は女中が茶を運び、続いて浴ゆか衣たを持って来る時まで、そのままぼんやり隣の火ほか影げを眺めていた。何ともつかず、突然君江は待合というところへ初めて連れ込まれた時の事を憶おもい出したからである。場処は牛込ではなく、大森であったが、中庭を隔てた植込の彼かな方たに二階の灯ほか影げを見ながら男と二人縁側に腰をかけて、女中が仕度するのを待っていたその場の様子は今夜と少しも変りがない。変ったのは自分の心持ばかり。その時分恐しかったり珍しかったりした事は、もう馴なれた上にも馴れきって、何とも思わなくなってしまった。 ﹁君さん。何かたべるか。もう支し那な蕎そ麦ばぐらいしか出来ないとさ。﹂ 矢田の声に君江は振返ると、洋服を浴衣にきかえ、立ってしごきを結びかけている。 ﹁わたし、ほしくないわ。﹂と君江も一ひと重えば羽お織りの紐ひもを解きかけた。 女中は矢田の洋服を入れた乱みだ箱ればこを片隅に運び、﹁今夜はどこもふさがっておりますから、お狭いでしょうけれど、ここで、どうぞ。﹂と床の間につづいた押入から夜具を取出したので、二人は再び濡ぬれ縁えんに腰をかけて庭の方を向いた。君江の眼にはいよいよ初めての夜の事が浮んで来る。 ﹁お風ふ呂ろはいつでもわいておりますから。﹂と女中は出て行く。 ﹁君さん。何を考えているんだ。お着かえよ。﹂と矢田は心配そうに横顔を覗のぞき込んで君江の手を取った。 君江は羽織をきたまま坐ったなりで、帯おび揚あげと帯おび留どめとをとり、懐中物を一ツ一ツ畳の上に抜き出しながら、矢田の顔を見てにっこりした。君江は三年前、家を飛出して、学校友達で人の妾めかけになっていた京子の許もとに身を寄せ、その旦那の世話で保険会社の女事務員になって、僅わずか一、二カ月たつかたたぬ中うち、早くも課長に誘惑されて大森の待合に連れられて行った。これが実際男と戯れた初めであったが、君江はその前から京子が旦那の目をかすめていろいろな男を妾しょ宅うたくへ引入れるさまを目撃していたのみならず、折々は京子とその旦那との三人一ツ座敷へ寝たことさえある位で、言わば待合か芸者家の娘も同様、早くから何事をも承知しぬいていただけ、時にはなお更甚しく好奇心に駆かられる矢先。課長の誘惑をよい事にしてこれに応じたまでの事である。課長は五十を越した道楽者にも似ず、その晩君江が酒も飲めば冗談も言うし、更に気まりのわるい事を知らない様子に、かえって興をさましたらしく、そこそこにその場を引上げた。それらの事を憶おもい返して、君江はおぼえず口の端に微笑を浮べたのを、矢田は何事も知らないので、笑顔を見ると共に唯嬉しさのあまり、力一ぱい抱きしめて、 ﹁君さん、よく承知してくれたねえ。僕は到底駄目だろうと思って絶望していたんだよ。﹂ ﹁そんな事ないわ。わたしだって女ですもの。だけれど男の人はすぐ外ほかの人に話をするから、それでわたし逃げていたのよ。﹂と君江は男の胸の上に抱かれたまま、羽織の下に片手を廻し、帯の掛けを抜いて引き出したので、薄い金きん紗しゃの袷あわせは捻ねじれながら肩先から滑り落ちて、だんだら染ぞめの長なが襦じゅ袢ばんの胸もはだけた艶なまめかしさ。男はますます激した調子になり、 ﹁こう見えたって、僕も信用が大事さ。誰にもしゃべるもんかね。﹂ ﹁カッフェーは実に口がうるさいわねえ。人が何をしたって余計なお世話じゃないの。﹂と言いながら、端はし折ょりのしごきを解き棄すて、膝ひざの上に抱かれたまま身をそらすようにして仰あお向むきに打倒れて、﹁みんな取って頂ちょ戴うだい、足た袋びもよ。﹂ 君江はこういう場合、初めて逢あった男に対しては、度々馴なじ染みを重ねた男に対する時よりもかえって一倍の興味を覚え、思うさま男を悩殺して見なければ、気がすまなくなる。いつからこういう癖がついたのかと、君江は口く説どかれている最中にも時々自分ながら心付いて、中途で止やめようと思いながら、そうなるとかえって止められなくなるのである。美男子に対する時よりも、醜い老人やまたは最初いやだと思った男を相手にして、こういう場合に立たち到いたると、君江はなお更烈はげしくいつもの癖が増長して、後になって我ながら浅間しいと身みぶ顫るいする事も幾度だか知れない。 この夜、平素気き障ざな奴だと思っていた矢田に迫まられて、君江は途中から急にその言うがままになり出したのも、知らず知らずいつもの悪い癖を出したまでの事である。四
翌日の朝、矢田と合乗りした自動車から、君江はひとり士官学校の土手際で降りて、路地の貸間に立戻ったが、鏡台の前へ坐ると、急に眠くなって来て化粧をし直す力もなく、わずかに羽織をぬぎすてたばかり。着のみ着のまま、ごろりと横になった。腕時計の針はまだ九時半をさしたところなので、十時まで三十分間眠るつもりで眼をつぶったのであるが、忽たちまち格子戸につけた鈴の音と共に男の声のするのを聞きつけて耳をすますと、思いがけない清岡の声なので、君江はびっくりして起おき直なおった。 清岡がこの貸間へ来るのは、いつも君江がその翌日五時出の晩おそ番ばんに当る前の夜にきまっている。それも大抵カッフェーにいる間から予あらかじめ知れていることで、今日のような早出の朝、不意に尋ねて来ることは滅多にない。君江は昨夜のことが知れたのではないか。それにしては知れ方が早過ると、心の中では随分あわてながら、何喰わぬ顔で勢いきおい好よく、 ﹁お早いことねえ。まだ散らかしたまんまなのよ。﹂と梯はし子ごだ段んを降りて行くと、清岡は丁度靴をぬいで上ったばかり。戸口を掃いていた小お母ばさんも抜ぬけ目めのない狸たぬ婆きばばあと見えて、 ﹁君江さん。おいやでも、もう一度おばさんの薬を上ってお出かけなさいましよ。昨夜はほんとにびっくりしました。﹂ 君江はそれに力を得て、﹁もう大丈夫よ。きっと食たべ合あわせがわるかったのねえ。﹂ ﹁どうかしたのか。お腹なかでも下したのか。﹂と言いながら清岡は二階へ上って、窓へ腰をかけた。 二階は六畳に三畳の二間つづきであるが、前まえ桐ぎりの安やす箪だん笥すと化粧鏡と盆に載せた茶器の外には殆ほとんど何にもない。箪笥の上にも何一ツこまごました物も載せられていないので、二階中はいかにもがらんとして古畳と鼠ねず壁みかべのよごれが一ひと際きわ目に立つばかり。座ざぶ布と団んも色のさめたメリンスの汚し点みだらけになったのが一枚、鏡台の前に置いてある外ほかには、木綿麻の随分古ぼけた夏物が二枚壁際に投出されているばかりである。君江はいつものように鏡台の前の座布団を裏返しにして清岡にすすめると、清岡はそれを窓の敷居の上に載せ、ズボンの折目を気にしながら再び腰をかけた。 窓の下はコールタの剥はげたトタン葺ぶきの平屋根で、二階から捨てる白おし粉ろいや歯はみ磨がきの水の痕あとばかりか、毎日掃はき出だす塵ちりほこりに糸いと屑くずや紙屑もまざっている。この汚らしい屋根の彼かな方たは、士官学校門前の通に立っている二階家の裏側で、汚い洗濯物や古毛布や赤児のおしめが干してある間から、絶えずミシンの音やら印刷機の響が聞える。これと共に士官学校の構内で生徒の練習する号令の声、軍歌の声、喇ラッ叭パの響のみならず、昼の中うちは馬場の砂すな烟けむりが折々風の吹きぐあいで灰のように飛んで来て畳の上のみならず襖ふすまをしめた押おし入いれの内までじゃりじゃりさせる事がある。清岡は丁度去年の今頃、初めて君江に導かれてこの貸間に立寄った時から、もう少しあたりの清潔な居心地の好い処へ引越したらばと勧めていたが、君江は唯口先でばかり同意しながら、その実今日まで更に引越そうとする様子もなく、家具も一年前と同じで、その後新あらたに湯ゆの呑み一つ買った事もないらしい。金には決して不自由していないのに、机も衣いこ桁うもなく、電気の笠もかけたままで、いつまでたっても、今方引越して来たばかりだという体裁である。君江は年頃の女のように、窓に草花の鉢を置いたり、箪笥の上に人形や玩具を飾り立てたり、壁に絵葉書を貼ったりするような趣味は全然持っていない。とにかく一風変った妙な女だと清岡は早くから心付いていた。 ﹁お茶はいらない。もうそろそろ出掛ける時分だろう。﹂と清岡は窓から座布団と共に腰をすべらせて畳の上に胡あぐ坐らをかき、﹁僕もこれから新しん宿じゅくの駅まで用事があるんだよ。それでちょいと寄って見たんだ。﹂ ﹁そう。でも、お茶だけ入れましょうよ。おばさん。お湯がわいているなら頂ちょ戴うだい。﹂と叫びながら下へ降り、すぐに瀬せと戸び引きの薬やか鑵んを提さげて来た。 ﹁昨きの日う、お前、占を見てもらいに行ったんだってね。﹃街巷新聞﹄に出た黒ほく子ろの一件は、誰がいたずらをしたのか当あてがついたか。﹂ ﹁いいえ。当も何もつかないわ。﹂と君江は久きゅ須うすの茶を湯呑につぎながら、﹁初めは、いろいろな事をきいて見ようと思って出かけて見たんだけれど、何だか気まりがわるいから止よしてしまったのよ。だけれど、考えるとほんとに不思議ねえ。誰も知っているはずがない事なんですもの。﹂ ﹁占いでわからなければ、今度は巫いち女こか、お先さき狐ぎつねにでも見てもらうんだな。﹂ ﹁巫女ッて何。﹂ ﹁知らないのか、よく芸者なんぞが見てもらうじゃないか。﹂ ﹁わたし、占者だって全く昨日が始てですもの。何だか馬鹿馬鹿しいような気がするから、ああいう事はわたしには駄目よ。﹂ ﹁だから、気にしない方がいいッて僕は最初からそう言ってるじゃないか。﹂ ﹁でもあんまり不思議なんですもの。知れようはずのない事が知れたんですもの。まったく不思議だわ。﹂ ﹁自分ばかり知れないと思っていても、世の中には案外な事があるからね。秘密はかえって漏れやすいものさ。﹂と言い終って清岡は自分から言過ぎたと心付き、急いで煙たば草こを啣くわえながら君江の顔色を窺うかがうと、君江の方でも何か言おうとしたのをそのまま黙って、飲みかけた湯呑を口の端に持ち添えたまま、じろりと清岡の顔を見たので、二人の目はぴったり出で遇あった。清岡は煙草の烟けむりにむせた風をして顔を外そ向むけ、 ﹁何でも気にしないのが一番いいよ。﹂ ﹁ほんとうねえ。﹂と君江の方でも心からそう思っているらしく見せかけるために、声まで作ったが、それなり後の言葉が出て来ないので、湯呑の茶をゆっくり飲干して静に下に置いた。君江は昨夜矢田と神楽坂へ泊った事は知られていないにしても、何しろ二年越しの間柄なので、何事に限らず大抵の事は清岡には知られていると思っているが、さてどの辺まで知られているか、それは君江にも当がつかない。君江は何か好い折があったら、清岡とは関係を断たってさっぱりとして、自分の過去の事を少しも知らない新しい恋人を得たいという気にもなっている。君江はどういう訳わけだか、自分の平生を人に知られている事を好まない。秘密にする必要がない事でも、君江は人に問われると、唯にやにや笑いにまぎらすか、そうでなければ口から出まかせな虚う言そをつく。最もっとも親しいはずの親兄弟に対しては君江は一番よそよそしく決して本心を明した事がない。自分の方から好きだと思う男に対してはなお更の事で、その男が何か深く聞知ろうとすればいよいよ堅く口を閉じて何事をも語らない。同じ店につとめているカッフェーの女給連は、君江さんほど姿の優しいしとやかな人はないが、不断何を考えているのやらあれほど訳のわからない人もないと言われているのである。 清岡が君江を識しったのは君江が始めて下した谷や池いけの端はたのサロン、ラックという酒場の女給になったその第一日の晩からであった。清岡は始めて君江を見た時、女給をした事がないというならば、どこかで芸者をしていた女だろうと想像した。容貌はまず十人並なみで、これと目に立つ処はない。額は円まるく、眉まゆも薄く眼も細く、横から見ると随分しゃくれた中なか低びくの顔であるが、富ふじ士びた額いの生はえ際ぎわが鬘かつらをつけたように鮮あざやかで、下唇の出た口元に言われぬ愛あい嬌きょうがあって、物言う時歯並の好い、瓢ひさごの種のような歯の間から、舌の先を動かすのが一ひと際きわ愛くるしく見られた。この外には色の白いのと、撫なで肩がたのすらりとした後姿が美点の中の第一であろう。清岡はその晩、君江が物言いのしずかなのと、挙動の疎暴でないのを殊更うれしく思って、纏ちっ頭ぷは拾円奮発してその帰途をそっと外で待っていた。それとは心づかない君江は広ひろ小こう路じの四辻まで歩いて早わ稲せ田だ行の電車に乗り、江戸川端ばたで乗換え、更にまた飯いい田だば橋しで乗換えようとした時は既に赤電車の出た後であった。清岡は自動車でここまで跡をつけて来たので、そっと車を降り、偶然再会したような振りで話をしかけた。君江は問われてもはっきり住処は知らせなかったが、唯市いちヶ谷や辺へんだと答えて、一緒に外そと濠ぼりを逢おう阪さか下したあたりまで歩いて行く中、どうやら男の言うままになってもいいような素そぶ振りを示した。 君江はその頃、久しく一緒に住んで共に私しし娼ょうをしていた京子という女が、いよいよ小こい石しか川わ諏すわ訪ちょ町うの家をたたんで富ふじ士みち見ょ町うの芸者家に住込む事になったので、泣きの涙で別れ、独り市ヶ谷本ほん村むら町ちょうの貸二階へ引移り、私娼の周旋宿へ出入する事をよしていたので、一月あまりの間一晩も男に戯れる折がなかった。夜ふけてから外へ出た事さえ稀まれだったので、この夜久しぶり静にふけ渡った濠ほり端ばたの景色を見てさえ、何とも知れず心の浮き立つ折から、時候も丁度五月の初めで、袷あわせの袖そで口ぐちや裾すそ前まえから静に夜風の肌を撫なでる心持。君江は清岡の事を少壮の大学教授か何かだろうと、始めからわるく思っていなかったので、飛び立つような嬉しさをわざと押隠し、誘われるがまま気まりのわるい風をしながら、その夜は四よつ谷や荒あら木きち町ょうの待まち合あいへ連られて行った。君江は新に好きな男ができると忽たちまち熱くなって忽ち冷めてしまうという、生れついての浮気者なので、翌日も夕方近くまでいちゃついていたが、離れるのがいやさにカッフェーもそれなり休んで、井いの頭かしら公園の旅館に行き次の夜は丸まる子こえ園んに明あかして三日の後、市ヶ谷の貸間まで一緒に来てやっとわかれた。 清岡は丁度その頃、一時妾めかけにしていた映画女優の玲子とやらを人に奪われ、代りの女を物色していた矢先、君江が身も心も捧げ尽したような濃厚な態度に、すっかり迷い込み、どんな贅ぜい沢たくな生活でも望む通りにさせてやるから、女給をやめるようにと勧めたが、君江は将来自分でカッフェーを出したいから、もう暫く女給をしていたいと言った。それならば本場の銀座へ出て経験をした方がよいと、池ノ端のサロンは一カ月あまりで止めさせ、半月ばかり京阪を連れ歩いた後、清岡は人を介して、銀座では屈指のカッフェーに数えられている現在のドンフワンに君江を周旋した。間もなく入梅があけて夏になり、土用の半なかばからそろそろ秋風の立ち初める頃まで、清岡は何一つ疑う所もなく、心から君江に愛されているものとばかり思込んでいた。ところが或ある夜二、三の文学者と芝居の帰り、銀座に立寄って見ると、君江は急に心持がわるくなったと言って夕方から店を休んだという事を、他の女給から聞き、友達にわかれてから、一人本村町の貸間へ病気見舞いに行こうとした時、いつも曲る濠端の横町から、突つと現われ出た女の姿を見た。まだ十二時前ではあったが、片かた側がわ町の人家は既に戸を閉め、人通りも電車も杜と絶だえがちになった往来には円タクが馳かけ過すぎるばかり。清岡は四、五間けんこちらから、白っぽい絽ろち縮りめ緬んの着物と青竹の模様の夏帯とで、すぐにそれと見さだめ、怪かい訝がのあまり、車道を横断して土手際の歩道を行きながら女の跡をつけた。女はスタスタ交番の前をも平気で歩み過るので、市ヶ谷の電車停留場で電車でも待つのかと思いの外ほか、八幡の鳥居を入って振返りもせず左手の女阪を上って行く。いよいよ不審に思いながら、地理に明い清岡は感づかれまいと、男の足の早さをたのみにして、ひた走りに町を迂うか回いして左さな内いざ阪かを昇り神社の裏門から境けい内だいに進すす入みいって様子を窺うと、社殿の正面なる石段の降口に沿い、眼下に市ヶ谷見附一帯の濠を見下す崖がけ上うえのベンチに男と女の寄添う姿を見た。尤もっともベンチは三、四台あって、いずれも密会の男女が肩を摺すり寄よせて腰をかけていた。清岡はかえって好い都合だと、桜の木立を楯たてにして次第次第に進み寄り、君江がどんな話をしているかを窺うかがい、同時に相手の男の何者たるかを見定めようと試みた。 清岡はいかなる作者の探偵小説中にも、この夜の事件ほど探偵に成功したはなしは恐らくあるまいと、殆どその瞬間には驚きょ愕うがくのあまり嫉しっ妬との怒りを発する暇がなかったくらいであった。男はパナマらしい帽子を冠かぶり紺こん地じの浴ゆか衣た一枚、夏羽織も着ず、ステッキを携えている様子はさして老人とも見えなかったが、薄暗い電燈の灯ほか影げにも口くち髯ひげの白さは目に立つほどであった。腕をまわして帯の下から君江の腰を抱きながら、 ﹁なるほどここは涼しい。お前のおかげで、おれもいろいろな事を経験するよ。六十になってベンチで女を待ち合わすなんて、実に我ながら意想外だ。この社殿の向むこうに今でもきっと大だい弓きゅ場うばがあるだろうが、おれも若い時分に弓をやりに来たことがあった。それから何十年とこの石段を上った事がない。それはそうと今夜はこれからどこへ行こうというんだね。ここのベンチでもいいよ。はははは。﹂と笑いながら君江の頬ほおに接せっ吻ぷんした。 君江は黙って、暫くの間老人のなすがままになっていたが、やがて静にベンチから立上り着物の裾すそ前まえを合せ、鬢びんを撫なでながら、﹁すこし歩きましょう。﹂と連立って石段を降りる。清岡は先さっ刻き君江が昇った女阪の方へ迂ま回わって見えがくれに後をつけた。それとは知らない二人は話しながら堀端を歩いて行く。 ﹁京子は富士見町へ出てから、どうだね。あの女のことだから、きっといそがしいだろう。﹂ ﹁毎日昼間からお座敷があるんですって。この間ちょいと尋ねたのよ。だけれどろくろく話をしている暇ひまもなかったのよ。あなた。これから寄って見ない。いなかったらいなかったで、別にかまやアしないから。﹂ ﹁うむ。久しぶり、三人で夜明しするのも面白い。諏すわ訪ちょ町うの二階では実にいろいろな事をしたね。とにかくお前と京子とは実にいい相棒だよ。僕は昼間真面目な仕事をしている最中でも、ふいと妙な事を考え出すと、すぐにお前の事を思出す。それから京子の事を思出して、夢でも見ているような心持になるんだ。﹂ ﹁それでも京子さんに較くらべれば、わたしの方がまだ健全だわねえ。﹂ ﹁どっちともいえない。お前の方が見かけが素しろ人うとらしく見えるだけ罪が深いよ。カッフェーへ行ってから別に変ったのも出来ないかね。西洋人はどうだ。﹂ ﹁銀座はあんまり評判になり過すぎるから、そう思うようにはやれないわ。そこへ行くと芸者の方が大びらで、面倒臭くなくっていいわ。諏訪町にいる時分はほんとに面白かったわね。﹂ ﹁旦那はあれっきりか。まだ出て来ないのか。﹂ ﹁そうでしょう。その後別に話が出ないから、どの道もう関係はないんでしょう。それにもともと京子さんの方じゃ、借金を返してもらった義理があるだけで、別に何とも思っていた訳じゃないんだから。﹂ ﹁今度は何て言っている。やはり京子というのか。﹂ ﹁いいえ。京きょ葉うはさんていうのよ。﹂ 二人は夜ふけの風の涼しさと堀端のさびしさを好い事に戯れながら歩いて新しん見みつ附けを曲り、一ひと口くち阪ざかの電車通から、三さん番ばん町ちょうの横よこ町ちょうに折れて、軒けん燈とうに桐きり花はな家やとかいた芸者家の門かど口ぐちに立寄った。夏の夜の事で、その辺の芸者家ではいずれもまだ戸を明けたまま、芸者は門口の涼すず台みだいに腰をかけて話をしているのを、男はなれなれしく、 ﹁京葉さんはいますか。﹂ときくと、直に家の内から、小づくりの円まる顔がお。髪はつぶしにたけながを結んだ女が腰の物一枚、裸体のまま上あが框りがまちへ出て来て、 ﹁あら、御一緒。まアうれしいわね。わたし今帰って来たところ。丁度よかったわ。﹂ ﹁どこかいい家うちを教えろよ。ゆっくり話をするから。﹂ ﹁そうねえ。それじゃア……。﹂と裸体の女は行先を男に囁ささやくと、二人はそのまま歩いて四ツ角をまがる。 ここまで跡をつけて来て路地のかげに身をひそめていた清岡は、万事があまりに都合好く進しん捗ちょくして行くので、このまま中ちゅ途うとから帰るわけには行かなくなった。頃合いを計って、清岡は君江のつれられて行った同じ待合へと、振りの客になり済まして上り込み、女中には勘定を先に払って、なりたけおとなしい若い芸者をといい付け、素知らぬ振りで寝てしまった。そして彼かの見知らぬ老人が君江と京葉の二人を相手の遊びざまを思い残りなく窺うかがった後、翌日の朝はまだ日の照らぬ中うち清岡はそっとその待合を出た。しかし赤あか阪さかの家へ帰るには時間が少し早過るので、やむことをえず四よん番ばん町ちょうの土手公園を歩みベンチに腰をかけて、ぼんやりとして堀向うの高台を眺めた。 清岡は三十六歳のその日まで、夢にも見なかった事実を目撃し、これまで考えていた女性観の全然誤っていた事を知って、嫉しっ妬との怒りを発する力もなく、唯わけもなく欝ふさぎ込んでしまった。清岡はその日まで、独り君江に限らず世間の若い女が五十六十の老人に身を寄せて平気でいるのは、恋愛と性慾との不満足を忍んでひたすら生活の安定を得ようがためとばかり思込んでいたのであるが、豈あに図はからんや。事実は決してそうでない。自分ばかりを愛していると思っていた君江の如きは、事もあろうに淫いん卑ぴな安芸者と醜悪な老ろう爺やと、三人互たがいに嬉き戯ぎして慚はじる処を知らない。清岡は自分の経験と観察とのいかに浅薄であったかを知ると共に、君江に対しては言うに言われぬ憎悪の念を覚え、このままもう二度と顔は見まいと思った。しかしその日家へ帰ってから一ト寐入りして目をさますと、一時激昂した心も大分おちついている。それと共にこのまま何事をも知らぬ顔に済してしまうのは、あまり言いい甲が斐いがなさ過る。面責した上、女の口から事実を白状させてあやまらせねば、どうも気がすまない。しかしまた更に思おも直いなおして見ると、君江は見掛けに似ず並大抵の女でない。問われるままに案外無造作に白状してしまうかも知れない。それと共に自分の遊び足りない事と嫉妬を起した事などを心ここ窃ろひそかに冷笑しないとも限らない。これは男の身に取っては浮気をされたよりも、なお更忍びがたい侮辱である。清岡は黙殺するのも無念だし、表面は謝あや罪まって、蔭で舌を出されるのはなお更口く惜やしいと、さまざま思案した末、やはり何事をも知らぬ振りで表面は今まで通り、あくまで馬鹿にされながら、その代りいつか時節を待って、痛烈な復ふく讐しゅうをしてやるに若しくはないと決心した。 清岡は多年原稿生活を営む必要上、腹心の男を二人使っている。一人は村岡といって、早わ稲せ田だあたりを卒業したばかりの文士で、毎月百円内外の手当を貰もらい、清岡の口述する小説を筆記して原稿を製作すると、それを駒田という五十年輩の男が新聞社や雑誌社へ売込みに行く。駒田は多年或ある新聞社の会計部に雇われていたので、原稿料の相場にも明あかるくまた記者仲間にも知己が多いので、清岡の受取るべき稿料の二割を自分の所得にする約束で働いているのである。清岡は門人同様の村岡に命じて、君江が歌舞伎座へ見物に行った帰途、安全剃かみ刀そりの刃で着物の袂たもとを切らせた。尤もっともその衣類は清岡が買ってやったものである。暫しばらくしてから清岡はこれも三越で自分が買ってやった真珠入の櫛くしを、一緒に自動車に乗った時、その降り際ぎわにそっと抜き取って見た。君江はきっと泣いて騒ぐだろうと思いの外、さして気にも留めないらしく、清岡にもまた間貸しのおばさんにも別にそんな話さえしない様子であった。 君江は極めてじだらくで、物の始末をしたことのない、不経済な女である代り、着物もそれほど着たがらない事は清岡も不断から心づいてはいたものの、かくまで無頓着だとは思っていなかった。そこで、留守の中に窃そっと猫の児この死しが骸いを押入の中に投込んで様子を見たが、これさえさほど恐怖の種にはならなかったらしいので、遂に清岡はわるくすると感付かれるかも知れぬと危ぶみながら、君江が内うち股またの黒ほく子ろの事を、村岡にいい付けて﹃街巷新聞﹄に投書させたのであった。これは大分君江の心を不安にさせたらしいので、清岡は内心それ見ろと幾分か胸のすくような心地がした。しかし一度目が覚めた後、君江の生活を探偵して見るといよいよ腹の立つ事ばかりなので、報復の手段も唯一時の悪いた戯ずらではなかなか気がすまないようになる。もっと激烈な痛苦を肉体と精神とに加えてやる機会を窺うため、清岡は十分相手に油断をさせ、こちらの胸中を悟られぬよう、以前にも増してあくまで惚ほれ込んでいるような様子を示すようにしていたが、平常心の底に蟠わだかまっている怨えん恨こんは折々われ知らず言葉の端にも現われそうになるのを、清岡は非常な努力でこれを押えていなければならない。 今方占者のはなしから、清岡は我知らず言過ぎたと心付き狼うろ狽たえて言いまぎらしたのも、実はこういう事わ情けからである。このまま長く向い合って二階にいるのはよくないと心づいて、腕時計を見ながら、いかにも驚いたように、﹁もう十時半だ。そこまで一緒に出かけよう。﹂ 君江の方でも昨夜泊ったまままだ湯にさえ入らぬ身のまわりを男に見廻されるのが、何となく辛くてならないので、何はともあれ一まず外へ出るに如しくはないと考え、 ﹁ええ。少し歩きましょう。お天気が好いと店へ行くのがいやになるわ。一日、日の目を見ずにいるんだから。﹂とぬぎ捨ててあった竪たてしぼの一重羽織を引掛けて、窓の障子をしめた。 ﹁今日十一時だと明あし日たは五時出だね。﹂ ﹁ええ。だから、今夜店へいらしってよ。何ど処こかゆっくり遊びに行きたいわ。いいでしょう。﹂ ﹁そうだな。﹂と男は曖あい昧まいな返事をしながら帽子を取った。 ﹁ねえ、遊びに行きましょうよ。どの道今夜はゆっくり遊ぶ日じゃないの。﹂と君江は既に梯はし子ごだ段んの降口に出た清岡の身に寄添い、接吻してと言わぬばかりに顔を近寄せ、睫まつ毛げの長い目を軽くふさいだ。 清岡は憎い仕方だとは思いながら、もともと嫌いではない女のいかにも艶なまめかしく情を含んだ姿を見ると、その瞬間はさすがに日頃の怒りも何処へやら消え去って、生れつき売笑婦にでき上っているこういう女に対して、道徳上とやかく非難するのはあるいは過酷かも知れない。男の劣情を挑発する一種の器械だと思えば、自分の見ない処で何をしていても更に咎とがむべき事ではない。弄もてあそぶだけ弄んで随意に捨ててしまえばそれでよいのだというような心持にもなる。忽たちまち進んで、それにしてもこの女がもすこし自分の心を汲くみ分け、その身を慎しんで、自分の専有物になってくれればという慾望が次第に強くなって来る。清岡は横を向いてさり気なく、 ﹁とにかく夜になったら銀座で逢あおう。その時にきめよう。﹂ ﹁ええ。そうして頂ちょ戴うだい。﹂と君江は急に明あかるい顔になって一足先にばたばたと下へ降り、おばさんの手から雑ぞう巾きんを奪い取って、手ずから清岡の靴を拭いた。 市ヶ谷の堀端へ出る横町は人目に立つので、二人は路地から路地を抜けて士官学校の門前に出いで比びく丘に尼ざ坂かを上って本ほん村むら町ちょうの堀端を四谷見附の方へ歩いた。昼前のことで、二人は並びながらも少し離れて話もせず、君江は日傘に顔をかくしていたが、ふとこの堀端は昨夜十二時過電車を降りてから矢田と手を引合って歩いた同じ道だと思うと、夜と昼との相違から、君江はどうして昨夜はあんな矢田のような碌ろくでもない男の言う事をきく気になったのだろうと、自分ながらその腑ふ甲が斐いなさに厭いやな心持がした。清岡さんがそれと知ったらどんなに怒ることだろうと、日傘のかげからそっと男の横顔を窺うかがうと、少しは気が咎とがめもするし、またいかにも気の毒でならないような心持もして、これからはカッフェーの帰り道にはなりたけ慎しんでその場かぎりの浮気は起すまいという気にもなる。せめての申訳というではないが、何やら急に清岡の事が恋しくなって、君江は歩きながら突つと摺すり寄よって人通りをもかまわずその手を握った。 清岡は君江が石にでも躓つまずいて、そのために急に自分の手を握ったとでも思ったらしく、﹁どうしたんだ。﹂と言いながら、往来の人目を憚はばかって溝どぶ際ぎわの方へ少し身を避よけた。 ﹁わたし、今日どうしても休みたいの。電話で断るわ。いいでしょう。﹂ ﹁断ってどうするんだ。﹂ ﹁あなたの御用がすむまで、わたしどこかで待っているわ。﹂ ﹁夜になれば会えるんだから、休むにも及ばないじゃないか。﹂ ﹁だって、わたし何だか急になまけたくなっちまったのよ。でも、あなたの御用の邪魔をしちゃアわるいわねえ。﹂ 清岡はもともと用事があるのではない。君江の様子を窺いに不意と出て来たので、この場合振切って別れたなら、浮気な君江の事だから、今夜自分の行くまでに何をしだすか知れないと、つまらない事が妙に気になり出した。 君江の方ではこの年月いろいろな男をあやなした経験で、こういう場合には男がすこしは持て余すほど我わが儘ままを言った方がかえって結果の好い事を知っている。それにまた先さっ刻き占いのはなしから清岡の言った事が何となく気にかかってならぬ矢先、夜になるのを待たず一刻も早く男の心の打解けるような方法を取らなくてはならないと考えたのである。これも度々の実験で、君江は男がどんなに怒っていても結局その場に至れば訳わけもなく悩殺する事ができるものと、あくまで自分の魔力に信頼して安心している所がある。魔力というのは、生れつき君江の肌には一種の温度と体臭とがあって、別に技巧を弄ろうせずとも一度これに触れた男は終生忘れることの出来ない快感を覚えるという事である。君江はこれまで一人ならず二人ならず、さまざまな男からお前はほんとの妖よう婦ふだなどと言われて、自分の肉体はそんなにまで男に強い刺しげ撃きを与えるものかと、次第に自覚した後熟練を積み、今では自分ながら深く信ずる所があるようになっている。 四谷駅の降り口近くまで歩いて来た時、君江は急に悲しいような遣やる瀬せのないような表情を見せて、﹁じゃ、わたし、あんまり我儘をいうとわるいから、ここから円タクで行きますわ。﹂ ﹁うむ。﹂とそっ気けなく言ったが、清岡は君江の遣瀬なげな様子に気がつくと、その瞬間どうしたのか、昨きの日うき今ょ日う新あらたに得た恋人と別れるような、何とも知れぬ残り惜しい心持になった。君江はわざとぼんやり清岡の顔を見詰めたまま、日傘の尖さきで砂利を突きながら立ちすくんでいる。 清岡は何も彼かも忘れて寄り添い、﹁いいよ。休んでしまえ。どこでもいい。一緒に行こう。﹂ ﹁あなた。ほんとウ。﹂と君江は巧たくみに睫毛の長い眼の中をうるませて徐しずかに俯うつ向むいた。五
府ふ下か世せ田たヶ谷や町松しょ陰うい神んじ社んじゃの鳥居前で道路が丁字形に分れている。分れた路を一、二町ほど行くと、茶畠を前にして勝しょ園うえ寺んじという額へんがくをかかげた朱しゅ塗ぬりの門が立っている。路はその辺から阪になり、遥はるかに豪ごう徳とく寺じ裏手の杉林と竹たけ藪やぶとを田と畠との彼かな方たに見渡す眺望。世田ヶ谷の町中でもまずこの辺が昔のままの郊外らしく思われる最もっとも幽静な処であろう。寺の門前には茶畠を隔てて西洋風の住宅がセメントの門もん墻しょうをつらねているが、阪を下ると茅かや葺ぶき屋根の農家が四、五軒、いずれも同じような藪垣を結ゆいめぐらしている間に、場所柄からこれは植木屋かとも思われて、摺すり鉢ばちを伏せた栗の門柱に引違いの戸を建て、新樹の茂りに家の屋根も外からは見えない奥深い一ひと構かまえがある。清岡寓ぐうと門の柱に表札が打付けてあるが、それも雨に汚れて明あきらかには読み得ない。小説家清岡進の老父熙あきらの隠宅である。 初夏の日かげは真まっ直すぐに門内なる栗や楝おうちの梢こずえに照渡っているので、垣外の路に横たわる若葉の影もまだ短く縮んでいて、の声のみ勇ましくあちこちに聞える真昼時。じみな焦こげ茶ちゃの日傘をつぼめて、年の頃は三十近い奥様らしい品のいい婦人が門の戸を明けて内に這は入いった。髪は無造作に首筋へ落ちかかるように結び、井の字絣がすりの金きん紗しゃの袷あわせに、黒一ツ紋の夏羽織。白い肩掛を引ひっ掛かけた丈せいのすらりとした痩やせ立だちの姿は、頸うなじの長い目鼻立の鮮あざやかな色白の細ほそ面おもてと相あい俟まって、いかにも淋さびし気に沈おち着ついた様子である。携えていた風ふろ呂しき敷づつ包みを持替えて、門の戸をしめると、日の照りつけた路みち端ばたとはちがって、静しずかな夏樹の蔭から流れて来る微そよ風かぜに、婦人は吹き乱されるおくれ毛を撫なでながら、暫しばしあたりを見廻した。 麦りゅ門うの冬ひげに縁ふちを取った門内の小こみ径ちを中にして片側には梅、栗、柿、棗なつめなどの果樹が欝うつ然ぜんと生おい茂しげり、片側には孟もう宗そう竹ちくが林をなしている間から、その筍たけのこが勢いきおいよく伸びて真まっ青さおな若竹になりかけ、古い竹の枝からは細こまかい葉がひらひら絶たえ間まなく飛び散っている。栗の木には強い匂においの花が咲き、柿の若葉は楓かえでにも優まさって今が丁度新緑の最も軟やわらかな色を示した時である。樹き々ぎの梢から漏れ落る日の光が厚い苔こけの上にきらきらと揺れ動くにつれて、静な風の声は近いところに水の流でもあるような響を伝え、何やら知らぬ小こと禽りの囀さえずりは秋晴の旦あしたに聞く鵙もずよりも一層勢が好い。 婦人は小禽の声に小砂利を踏む跫あし音おとにも自然と気をつけ、小径に従って斜ななめに竹林を廻り、此こな方たからは見通されぬ処に立っている古びた平ひら家やの玄関前に佇たた立ずんだ。玄関には磨すり硝ガラ子スの格子戸が引いてあるが、これは後から取付けたものらしく、家はさながら古寺の庫く裏りかと思われるほどいかにも堅けん牢ろうに見える。しかしその太い柱と土台には根ねつ継ぎをした痕あとがあって、屋根の瓦かわらは苔で青く染められている。玄関側の高い窓が明放しになっていたが、寂しんとした家の内からは何の物音も聞えない。窓の下から黄つ楊げとドウダンとを植うえ交まじえた生いけ垣がきが立っていて、庭の方を遮さえぎっているが、さし込む日の光に芍しゃ薬くやくの花の紅白入り乱れて咲き揃そろったのが一ひと際きわ引立って見えながら、ここもまた寂しんとしていて、花はな鋏ばさみの音も箒ほうきの音もしない。唯ただ勝手口につづく軒のき先さきの葡ぶど萄うだ棚なに、今がその花の咲く頃と見えて、虻あぶの群むれあつまって唸うなる声が独り夏の日の永いことを知らせているばかりである。 ﹁御免下さい。﹂と肩掛を取りながら、静に格子戸を明けると寂しんとした奥の間まから、﹁どなたじゃ。﹂という声がして、すぐさま襖ふすまを明けたのは、真白な眉まゆ毛げの上まで老眼鏡を釣つるし上げた主人の熙あきらであった。 ﹁鶴子か。さアお上んなさい。今日は婆ばあやはお墓参り。伝助も東京へ使つかいにやって誰もおらん。﹂ ﹁それじゃ、丁度よう御ござ在いました。代りに何か御用をいたしましょう。﹂と婦人は包つつみを持ったまま、老人の後について縁側づたいに敷しき居いぎ際わに坐り、 ﹁もう虫むし干ぼしをなさいますの。﹂ ﹁いつという事はない。手がないから気の向いた時、年中やるよ。年寄の運動には一番いい。﹂ 縁側の半なかほどから奥の八畳の間に書しょ帙ちつや書しょ画がち帖ょうなどが曝さらしてある。障子も襖ふすまも明け放してあるので、揚あげ羽はの蝶ちょうが座敷の中に飛込んで来て、やがてまた庭の方へ飛んで行く。鶴子は風呂敷包を膝ひざの上にほどいて、 ﹁先日のお召めし物ものを仕立直してまいりました。あちらへ置いてまいりましょう。ついでにお茶でも入れてまいりましょうか。﹂ ﹁そう。一杯貰もらいましょう。茶の間に到とう来らい物ものの羊よう羹かんか何かあったと思うが、ついでにちょっと見て下さい。﹂と老人は鶴子が座を立つのを見て縁側に曝した古書を一冊一冊片づけはじめた。五ごぶ分が刈りの頭髪は太い眉毛や口くち髭ひげと共に雪のように白くなっているので、血色のいい顔色はなお更赧あからみ、痩やせた小づくりの身から体だは年と共にますます矍かく鑠しゃくとしているように見える。やがて鶴子が番茶と菓子とを持って来たのを見て、老人はそのまま縁先に腰をかけ、 ﹁暫しばらく見えんから風か邪ぜでも引いたのかと思っていた。市中では今だにインフルエンザがはやるそうだな。﹂ ﹁お父とうさまは去年からお風邪一つお引きになりませんのね。﹂ ﹁今の若い者とは少し訓練がちがうからな。はははは。その代りふだん丈夫なものはころりと行くからな。当てにはならん。﹂ ﹁アラ、そんな事をおっしゃるもんじゃありません。﹂ ﹁むかしから頼みにならない事を、君くん寵ちょう頼み難がたし。老健頼み難しなどというじゃないか。はははは。進は相変らず達者か。﹂ ﹁はい。おかげさまで。﹂ ﹁その中うちちょっと逢いたいと思う事があるのだ。実はこの間偶然電車の中でお宅の御おあ兄にさんにお目にかかってな……。﹂と老人は言いかけて咳せ嗽きをしながら眼鏡越しに鶴子の顔を見た。鶴子はかえってさり気げなく、 ﹁何か、わたくしの話が出ましたの。﹂ ﹁そうだ。わるい話ではない。お前の戸籍をこの後ごどうして置くかというはなしさ。なりはじめの事はもうとやかく言った処で仕様のない事だからな。成せい事じは説とかず、遂すい事じは諫いさめず、既きお往うは咎とがめずという教おしえもあるから、わしはいずれにしても異存はないと申上げて置いた。お前の家とわしとが承知なら、進は無論何とも言うはずはないわけだから、どうだね。早くその手続をしてしまったら、届書は区役所の代書にたのめばすぐ出来るから、印さえ押せばそれでいいのだよ。﹂ ﹁はい。帰りましたら早速そう申します。﹂ ﹁戸籍などはどうでもいいようなものだが、しかし人じん倫りんの道は正しいに越した事はない。幾年も夫婦同様にしていれば結局籍を入れるのがあたり前のはなしだからな。最初の事は能よく知らんが、お宅のはなしではもう五年になるそうだな。﹂ ﹁はい。たしか。﹂と鶴子はわざと言葉を濁にごして伏目になった。今更指を折って数えて見るまでもなく、鶴子は五年前、年と齢しは二十三の秋、前の夫が陸軍大学を出て西洋へ留学中、軽かる井いざ沢わのホテルで清岡進と道ならぬ恋に陥ったのである。先夫の家は子しし爵ゃくで、別に資産はなかったが、とにかく旧華族の家柄なので、世間の耳目を憚はばかり親族は夫の帰朝を待たず多病といいなして鶴子を離別した。鶴子の家にはその時既に両親がなく、惣そう領りょうの兄が実業界では相応に名を知られていたところから、衣食に窮しないだけの資産を鶴子に与えて生涯実家や親類の家へ出入する事を禁じた。その時分進はまだ駒こま込ごめ千せん駄だぎ木ちょ町うにあった老父熙あきらの家にいて、文学好きの青年らと同人雑誌を刊行していたのであるが、鶴子が離別されると間もなく父の家を去って鎌倉に新家庭をつくった。半年ほどたった時老父の熙は突然流行感冒で老妻を先立たせ、また文官年限令で帝国大学教授の職を免ぜられたので、これを機会に千駄木の家を人に貸して、以前から別荘にしてあった世田ヶ谷の廃屋に棲せい遅ちした。 世田ヶ谷の家には十年ほど前まで、八十歳で世を去った熙の父玄げん斎さいが隠居していた。玄斎は維新前駒こま場ばにあった徳川幕府の薬園に務めていた本ほん草ぞうの学者で、著述もあり、専門家の間には名を知られていたので、維新後しばしば出しゅ仕っしを勧められたが節義を守ってこの村そん荘そうに余生を送った。今こん日にち庭内に繁茂している草木は皆玄斎が遺愛の形見である。 熙は初め中なか村むら敬けい宇うの同人社に入り後に佐さと藤うぼ牧くざ山んと信しの夫ぶじ恕ょけ軒んとの二家について学を修め、帝国大学を卒業後は直ただちに助教授に挙げられ、老免せられるまで凡およそ三十年漢文の講座を担任していたのであるが、深く時勢に感ずる所があったと見えて、平素学生に向っては、今の世の中に漢文学の如き死文字を学ぶほど愚おろかな事はない。唯骨こっ董とうとしてこれを好むものが弄もてあそんでいればよいものだと称して、人に意見をきかれても笑って答えず、同僚の教授連とも深くは交まじわらず、唯自じ家かの好む所に従って専ら老ろう荘そうの学を研究し、著書も少くはないのであるが、一として世に示したものはない。熙はその子の進が人妻と密通して世間を憚はばからず一家を構えたのを知って、深く憤りはしたものの、現代の青年男女は老人の訓戒などに耳を借すはずがないと、あきらめ切っているので、表向は何事も知らぬ振りで、実は義絶したのも同様、世田ヶ谷に隠居してから三年ばかりの間は一度も音信をしたことさえなかった。進の方でも父が平生の気質からその憤りを察して、これに反抗するため、わざとそれなりに月日を過していた。ところが老人は亡妻の命日に駒込の吉きち祥じょ寺うじに往いった時、一人の若い女が墓前に花を手た向むけているのを見て、不審のあまり、丁度狭い垣根の内のことで、女の方から気まりわるそうに辞儀をするまま、その名をきいて始めてその女が倅せがれの妻の鶴子である事を知ったのである。老人は進の如き乖かい戻れいな男と好んで苦楽を偕ともにしているような女が、言わばその姑しゅうとめに当るものの忌きに日ちを知って墓参りをするとは、そもそもどうした訳わけであろう。そんな訳のあろうはずがない。年寄の耳の聞まちがえではないかという気もしたので、墓地の小こみ径ちを並んで歩む折重ねてその名をきき直した。それが話の糸口になって、寺の門を出てから電車に乗って別れる時まで知らず知らず話をしつづけた。老人は平素現代の青年男女には道徳の観念は微みじ塵んもない。男は大抵乖戻放慢の徒で、女はまず禽きん獣じゅうと大差なきものと思込んでいる矢先、鶴子の言葉使いや挙動のしとやかな事がますます不可思議に思われ、更にまた、これほど礼節をもわきまえている女がどうして姦かん通つうの罪を犯したのであろうと、家へ帰った後も頻しきりに心を労した末、ふと老人は鶴子が操みさおを破ったのはあるいは放ほう蕩とう無ぶら頼いな倅に欺あざむかれたためではないかという気がした。果してそうだとすると、実に気の毒な事だ。何となく親の身として申訳のないような心持がして来るので、その後老人は図はからず新宿の停てい車しゃ場ばで出会った時は此こな方たから呼びかけたくらいであった。それらの事から、鶴子はいつともなく世田ヶ谷の隠宅へ出入することを許されるようになったのであるが、しかし進との間柄については、二人とも何やら互たがいに遠慮して、問いもせず言いもせず、そのままになっている。生計の事ではその後ご進は莫ばく大だいな収入がある身となっているし、老人の質素な生活は恩給だけでも有り余るほどなので、互に家事向の話の出いずべき所がないわけであった。 世田ヶ谷の家には庭掃除の下げな男んと雇やと婆いばばがいるものの、鶴子は老人が日々の食事を始め衣類や身のまわりの事に不自由しているらしいのを見て、それとなく陰へ廻って気のつくかぎり世話をするようになった。表向きお世話をするといえば老人はきっとそれには及ばないと言うにちがいはない。かつまた、清岡の家には既に或ある医学博士に嫁かした姉娘もあるので、鶴子はその手前をも憚はばかって、何事も目に立たないようにひかえ目にしている。その態度や心持は月日と共におのずから老人の眼にもわかるようになったので、老人はいよいよ鶴子の胸中を気の毒に思い、心窃ひそかに倅進の如きものの妻にはむしろ過ぎたものと感服しなければならぬようになった。 老人は茶を飲み干した茶ちゃ碗わんを膝ひざの上に握りながら、﹁その中うちお宅へ伺ってお話を伺おうと思っているのだがね、年をとると、つい袴はかまをはくのが面倒でな。そうかといって、初めて伺うのに着きな流がしではあまり失礼だし、何か好い折がと思っているのだが、お前はその後もやはり出入りはせんのかね。﹂ ﹁はい。そのままになっております。兄ばかりならかえって遠慮が御ござ在いませんけれど、義あ姉ねの手前も御在ますから。﹂ ﹁それは大きにそうかも知れない。﹂ ﹁とにかくわたくしが悪いのにちがいは御在ませんのですから、別にどなたの事もお怨うらみ申してはおりません。﹂ ﹁その心持があればもう立派なものだ。﹂と言った時、した古こほ法うじ帖ょうの上に大きな馬うま蠅ばえが飛んで来たので、老人は立って追いながら、﹁過あやまちを改むるに憚はばかること勿なかれ。若い時の事はどうもいたし方がない。人間の善悪はむしろ晩節にあるのだよ。﹂ 鶴子は何か言おうとしたが、自分ながら声が顫ふるえはせぬかと思ってそのまま俯うつ向むくと、胸が急に一杯になって来て、どうやら眼が潤うるんで来るような心持がした。折おり好よく勝手の方に人の声がしたのを聞付けて、これ幸さいわいとあわてて坐を立った。老人は馬蠅の飛び去る方を睨にらみながら、﹁酒屋か郵便屋だろう。うっちゃってお置きなさい。﹂と徐おもむろに石いし摺ずりの古法帖を畳たたんだ。 鶴子は涙を見せまいと台所へ行って見ると、老人の言った通り、酒屋の男が醤しょ油うゆの壜びんを置いて立去るところであった。勝手口は葡ぶど萄うだ棚なのかげになって日の光も和げられ、竹たけ藪やぶの間から流れて来る風はひやりとするほど爽さわやかである。女中部屋は雇やと婆いばばが出がけに掃除をして行ったものと見え、火鉢の灰もならしたまま綺きれ麗いに片づいている。鶴子は酒屋の男の去った後あたりにはもう誰もいないと思うと、こらえていた涙が一時に溢あふれ落るのを急いでハンカチで押えた。ここの家うちのお父さまは何も知らずにいらっしゃるのであるが、自分と進との間柄は今では名ばかりの夫婦で、入籍するの、しないのというような状態ではない。夫の進は一昨日家を出たなり今夜も多分帰って来ないであろう。この二、三年原稿の製作を口実にして随意に外泊することはもう珍しくはない。いずれ二、三日すれば帰って来るであろうが、今のような状況では、自分を正妻にして籍を入れる事をまさかに拒みはしまいけれど、さして喜びもしない事は言わずと明あきらかである。事によればかえって迷惑そうな顔をしないとも限らない。と思うと、鶴子は老人の好意をかたじけなく思うにつけ、その好意を受ける事のできない身の上を省みて涙を催さずにはいられなかったのである。 進と鶴子との恋愛生活は鎌倉に家を借りていた間、わずか一年くらいのものであった。進は一躍して文壇の流行児になり、俄にわかに売文の富を得るようになると、忽たちまち杉原玲子という活動写真の女優に家を持たせるばかりか、絶えず芸者遊びをするようになった。その後玲子が進を捨てて同業の俳優と正式に結婚をすると、進はすぐその代りにカッフェーの女給を妾めかけにするという有様。鶴子は殆ほとんどあきれ返って、嫉しっ妬との情を起すよりも次第に夫の人格に対して底知れぬ絶望の悲しみを抱くようになった。鶴子は女学校に通っていた時から、仏フラ蘭ン西スの老婦人に就ついて語学と礼法の個人教授を受け、また国学者某氏に就いて書法と古典の文学を学んだ事もあったので、結局それらの修養と趣味とがかえって禍わざわいをなし、没趣味な軍人の家庭にはいたたまれなかった。それと共に自分から夫に択えらんだ文学者清岡進の人物に対しても永く敬愛の情を捧げている事ができなくなったのである。初め軽井沢の教会堂で人から紹介せられた時の進と、今は通俗小説の大家を以て目もくせられている進とを比較すると、全く別の人としか思われない。五年前の進は勉学の志を擲なげうたない真しん率そつな無名の文学者であったが、今こん日にちの進は何といってよいのやら。思想上の煩はん悶もんなどは少しもないらしい様子で、その代り絶えず神経を鋭くして世間の流行に目を着け、営利にのみ汲きゅ々うきゅうとしているところは先まず相場師と興行師とを兼業したとでも言ったらよいかも知れない。新聞に連載しているその小説を見れば、今まで世にありふれた講談や伝奇を現代の口語に書替えたまでの事で、忌きた憚んなく言えば少し読書好きの女の目にさえ、これでは殆ほとんど読むには堪えまいと思われるくらいのものである。鶴子は進が去年の暮あたりから或ある婦人雑誌に連載し出した小説を見た時、ふと六ろく樹じゅ園えんの﹃飛ひだ弾のた匠くみ物もの語がたり﹄の事を思出して、娘の時分源氏の講義を聞きに行った国学者の先生が、いつも口癖のように今の文士にくらべると江戸時代の作者がどれだけ優すぐれているか知れないと言ったことなどを夢のように思返した事もあった。平へい生ぜい家へ出入する進の友人を見れば、言葉使いから様子合いまで、いずれも兄弟かと思われるほど能よく似た人ばかりで、二、三人集まればすぐ洋酒を飲み、胡あぐ坐らをかいたり寐ねそべったりして、喧けん嘩かでもするような高調子。その談話は何かと聞けば、競馬の掛けごとに麻マー雀ジャ賭ンと博ばく、友人の悪評、出版屋の盛衰と原稿料の多た寡か、その他は女に関する卑ひわ猥い極きわまる話で持切っている。 鶴子は既に幾たびとなく決心して、折があったら進の家を去ろうと思っていた。今更兄の家の厄介にはなれないので、その当時義絶の証として与えられた金がまだ半分位は銀行に預けてあるのをたよりに、間借りでもして、何ど処こかの事務員にでも雇われようとまで、すっかり覚悟をきめて、それとなく最後の破はた綻んの来る時を待っていたが、進の方からはまさか手切金の請求を恐れたわけでもあるまいが、そのままに何事も言出さず、表向きはどこまでも令夫人らしく冷ひややかに崇あがめ奉っているので、月日のたつにつれて、さすがに女の方から突然別ればなしを持ち出す訳にも行かず、つい言出しそびれて今日に至った。それやこれやの思いに暮れて、鶴子はハンケチを口に銜くわえたまま台所の柱に身をよせかけ、葡萄棚に集る虻あぶの羽音を聞いていた。 突然人の跫あし音おとがしたので、鶴子はびっくりして様子をつくろうとしたが、眼の縁に残った涙の痕あとと、憂いに沈んだ顔の色とは俄にわかにどうする事もできない。 老人は鶴子が勝手へ行ったままいつまでも戻って来ないので、性たちの好くない行商人でも来たのではないかと、何気なく様子を窺うかがいに来たのである。 ﹁鶴子。心持でもわるいのじゃないか。何なら少しお休みなさい。﹂ ﹁いいえ。別に。﹂と言いはしたものの、鶴子は身体の置場にこまって板の間にべったり坐った。 ﹁顔色がよくない。﹂と老人は既に様子を察したものらしく、﹁わしは人から聞いたはなしは何事によらず他たご言んはしない。むかし細ほそ井いへ平いし洲ゅうという先生は人の手紙を見るとその場で焼いてしまったという事だ。心配せん方がよい。﹂ 鶴子はこの時胸にある事は何も彼かもこの老人だけには打明けてしまいたい気になって、縋すがるようにその足下に摺すり寄より、﹁お話したい事が御ござ在いますの。わたくし、お父さまより外ほかには、お話したいと思いましても、誰もお話する方が御在ませんから。﹂ ﹁うむ。聞きます。先さっ刻きからどうも様子が変だと思っていた。﹂と老人は酒屋の男が明あけ放はなしにして行った勝手口の硝ガラ子ス戸どに心づき、手を伸のばしてそれを閉めた。 ﹁お父さま。あのおはなし。あれはもう、折角の思おぼ召しめしで御在ますけれど、実はもう、なんにもならない事だと存じますから。﹂と涙を啜すすった。 ﹁そうか。家がうまく行っておらんのか。困ったものだ。お前の考かんがえはどうだ。この末望みがないのか。﹂ ﹁今のところ、別にどうという事も御在ませんけれど、籍を入れましても、ほんの名義だけの事で、いつどういう事になるか分りませんから、かえってこのままの方がよくはないか知らと、そういうような心持もいたします。わたくし、ほんとに我わが儘ままな事ばかり申しまして……。﹂ ﹁いや、それで事情は大抵わかりました。お前に向って進の事を悪くいっては甚はなはだ気の毒だが、これは進ばかりには限らん事で、今日文学を弄もてあそぶ青年に物の道理を説いてきかしてもわかるはずはない。わしは長年教師をしていたからそのくらいの事はよく知っています。見込みのあるものなら、呼びつけて意見もして見るが、わしはまず駄目だとあきらめている……。﹂ ﹁わたくしが、何か申上げたようになりましても困りますし……。﹂ ﹁それは今も言う通り、わしは一切何も言いません。しかしこのままにして置いたら、行末お前が困るでしょう。それが気の毒だ。﹂ ﹁いえ。わたくしは、もうどの道、若い身空でも御在ませんから、行先の事は別にそれほど心配してはおりません。長い間には宅の心持もまたどんな事で直らないとも限りませんし……。﹂ ﹁うむ。うむ。﹂と老人は立ったまま腕を拱こまねいて嘆声を発したが、裏木戸の方に音のするのを聞きつけ、﹁伝助が帰って来たらしい。あっちで話をしましょう。﹂ 老人は手を取らぬばかりに鶴子を急せき立てて勝手から立ち去った。六
雨は降っているが、小降りで風もなく、雲切れのし始めた入梅の空は、まだなかなか暮れきらぬ七時頃。富ふじ士みち見ょ町うの待まち合あい野の田だ家やの門口へ自動車を乗りつけた三人連づれ。一人は清岡の原稿売込方を引受けている駒田弘吉という額の禿はげ上った鰐わに口ぐちの五十男に、一人は四十あまり、一人は三十前後の、一見していずれも新聞記者らしい眼鏡をかけた洋服の男である。駒田が先に格こう子し戸どを明け、靴をぬぐ間から女中にからかいながら、どやどやと表二階の広い座敷へ通る。前以て電話が掛けてあったものと見えて、煙たば草こぼ盆んに座ざぶ布と団んも人の数だけ敷いてあって、煉ねり香こうの匂においがしている。﹁お風ふ呂ろがわいております。﹂と女中の挨あい拶さつに、間もなくこの土地では姉さん株らしい三十近い年とし増まと、二はた十ち前後の芸者が現われ、女中の運び上げる料理の皿を卓つくえの上に並べる。 駒田は現在﹃丸円新聞﹄に連載せられている清岡の小説がほどなく半月くらいで完結する見込なので、早くも別の新聞社へ交渉して次の原稿を売込む相談をまとめたところから、編へん輯しゅ長うちょうへは内々で割わり戻もどしの礼金も渡してしまい、部下の記者は待合に連れて来て酒しゅ肴こうを振ふる舞まい芸者をあてがう腹である。 ﹁先生も、もうそろそろお出いででしょう。構いませんから先へやりましょう。﹂と駒田は盃さかずきを年上の記者にさして吸すい物もの椀わんの蓋ふたをとる。 ﹁僕はどうも飲む方は得意でない。﹂と年上の記者は芸者に酌をさせながら、﹁まず箱なしの一方というやつだ。﹂ ﹁恐入りましたね。売うれッ児こはそれでなくっちゃいけません。﹂ ﹁お前、どこかで見たことがあるな。思出せないが。まさかカッフェーでもあるまい。﹂ ﹁いいえ。そうかも知れませんよ。この頃は芸者が女給さんになったり、女給さんが芸者になったり、全く区別がつきませんからね。﹂ ﹁芸者から女給になるのはざらだが、カッフェーから芸者になるのは少いだろう。﹂ ﹁少いこともないわ。随分あってよ。ねえ。姐ねえさん。﹂ ﹁そうか。随分いるのか。それは驚いた。﹂ ﹁そうねえ。五、六人……さがしたらもっといるかも知れないことよ。﹂ ﹁銀座あたりにいた奴やつはいないか。﹂ ﹁辰たつ巳み家やからこの間お弘めした児、なんていったっけ……。﹂と年増が飲みかけた盃の手を留めて、眉まゆを寄せ、﹁あの児はたしか銀座にいたんだわね。﹂ ﹁新橋会館よ。﹂と若い方の芸者が直すぐに答えた。 ﹁新橋会館に。そうか。いつ時分だろう。﹂と今まで黙っていた若い記者が急に卓を押し出したので、駒田は女中を見返り、 ﹁その芸者を掛けろ。おい。名前は何ていうんだ。﹂ ﹁辰巳家の辰千代さん。﹂と若い芸者が名ざしをしたので、女中はすぐさま立ちかけた時、下から、﹁お花さん。お客様がお見えになりました。﹂ ﹁先生だろう。﹂と駒田は襖ふすまの方を見返りながら、少し席を譲る間もなく、梯はし子ごだ段んに跫あし音おとがして、パナマ帽を片手に、鼠ねずみセルの二にじ重ゅう廻まわしを着たまま上って来たのは、清岡進である。 ﹁おそくなって失礼しました。﹂と進は年増の芸者に帽子と二重廻を渡し、お召めしの一ひと重えも物のに重ねた鉄てつ無むじ地ひと一え重ば羽お織りの紐ひもを結むす直びなおしながら、卓の上に小皿と箸はしの置いてある空席に坐る。年輩の記者は既に知り合っていると見え、若い記者を紹介したので、直すぐ様さま茶ぶ台の上で名刺の交換が始まった。女中が芸者の返事と共に銚ちょ子うしを持って来て、 ﹁辰千代さん。すぐ伺います。﹂ ﹁ほんとに皆さん、あがらないのね。﹂と年増が新しい銚子を受取って、﹁あなた。お一ツ。﹂ ﹁一向景気がつかないようだね。﹂と清岡は酌をさせながら、駒田を顧み、﹁まだ後から来るのか。﹂ ﹁目下大おおいに選定中なんですよ。まだ外ほかに知らないか。女給芸者がいるから、ダンサー上りや女優上りもいるだろう。どうせ、呼ぶなら変ったのがいい。﹂ ﹁こちら、ほんとに物好きねえ。﹂ ﹁家にもこのあいだまで一人変ったのがいたんだけれど、誰がいいか知ら。﹂ ﹁姐ねえさん、ほら。桐花家さんの。評判じゃないこと。﹂ ﹁ウム。京きょ葉うはさん。﹂と年増は膝ひざを叩たたいて、﹁あの人ならむしろダンサー以上。逆さか立だちくらいやり兼ねないわ。﹂ ﹁その代り大変な御面相だろう。﹂ ﹁ところが綺麗で、色っぽいのよ。何しろこの土地で一番いそがしい人ですもの。﹂ ﹁いやに宣伝するなア。いくらか貰もらっているな。とにかく呼べ呼べ。﹂と駒田はすこし酔い始めたらしく大分元気づいて来たが、清岡は桐花家京葉の名を聞くと共に、去年残暑の頃の一件を想起して厭いやな心持がしたが、この場合よせとも言えないので、素知らぬ顔をしていると、年増の芸者は座談に興を添えるつもりで、 ﹁わたしだって、もう三、四ツ年がわかければ芸者なんぞやめて銀座へ押出しますわ。女給さんの方がとにかく表うわ面べだけは素しろ人うとなんですからね。何をするにも胡ご麻ま化かしがききますよ。わたし、つくづくそう思っているのよ。わたしの家のすぐ隣となりが待合さんなのよ。その家へいろいろなお客さまを連れて来る女給さんがあるのよ。家が建込んでいるから、窓から首を出せば障子一重で、話はみんな聞えてしまうのよ。身せ丈いがすらりとして、身なりは芸者衆よりいい位だから、銀座でもきっと一流のカッフェーでしょうよ。いつでも来るのは朝早いのよ。九時前の時もあるわ。それから正おひ午るになるかならない中うちお立ちだわ。こっちは九時や十時じゃやっと眼がさめた時分でしょう。それに今のところ抱かかえはいないし家の内はしんとしているから、つい耳をすまして聞く気になるのよ。﹂ 清岡はだまって若い方の芸者に酌をさせている。記者は二人ともいかにも面白そうに、﹁うむ、それから、それから。﹂とあおり立てるので年増も興にまかせて、 ﹁相手のお客様は時々ちがうらしいのよ。だけれど、いつでも君さん君さんというから、きっと君子さんとか君代さんとかいうんでしょうよ。実にすごいものよ。いつだったか感心しちまった事があるわ。﹂ 清岡は上うわ目めづかいにじろりと記者の顔を見た。駒田も年を取っているだけ、すぐに気がつき、芸者のはなしがドンフワンの君江の事でなければいいがと心配したらしく、それとなく記者の方を見たが、記者は二人とも案外銀座のカッフェーの事には明あかるくないと見え、別に心当りもない様子で、﹁感心したというのは一体どういう事なんだ。芸者よりも濃厚だっていうのか。﹂ ﹁それァ勿もち論ろんそうよ。まアお聞きなさいよ。虚う言そ見たようなはなしだけれど……。﹂ 駒田はとにかく長く話をさして置いてはいけないと、気転をきかして、﹁おい。さっき呼んだ芸者はどうした。催促するようにそう言って来い。﹂ ﹁はい。﹂と立上ったのは若い方の芸者なので、駒田は更に、﹁おれはそろそろ飯をくおう。﹂ ﹁僕もつき合いましょう。﹂と酒を飲まない記者が駒田に同意した。御飯の給仕やら番茶の入いれ替かえやらで、どうやら年増芸者のはなしも中絶した時、辰千代という女が明けてある襖ふすまの外に手をついた。 年は二はた十ちばかり。つぶしの島田に掛けたすが糸も長目に切り、薄うす紫むらさきに飛模様の裾すそを長々と引いているので、肉付のいい大柄な身は芸者というよりも娼しょ妓うぎらしく見られた。 ﹁銀座にいたのはお前か。﹂ ﹁ええ。そうよ。﹂と辰千代はむしろ得意らしい調子で、﹁あっちでお目に掛かったか知ら。何しろわたし眼がわるいんでしょう。だから失礼ばっかりしているのよ。﹂ 年増の芸者は辰千代が自分の方には見向きもせず独りでぺらぺらしゃべり続けるのを、さも苦にが々にがしそうに尻目に見返したが、此こな方たは一向気がつかない様子で、さされる盃を立てつづけに二杯干して若い記者に返しながら、﹁こっちへ来てから一度も銀座の方へ行かないから、きっと変ったでしょうね。今どこが一番賑にぎやかなのか知ら。﹂ ﹁お前、先せんに何ど処こにいたんだ。コロンビヤか。﹂ ﹁あら、失礼しちゃうわ。新橋会館よ。﹂ ﹁どうして芸者になったんだ。あんまり発展しすぎて睨にらまれたんだろう。﹂ ﹁そう仰おっ有しゃるけれどカッフェーは割に堅いことよ。何しろ昼間から夜の十二時まではちゃんとお店にいるんですもの。﹂ ﹁十二時から先のはなしさ。﹂ ﹁十二時から先は誰だって寝るんじゃないの。夜通し起きてはいられないじゃないの。ねえ。あなた。﹂ その時同じく潰つ島ぶ田しに結ゆった小づくりの年は二十二、三の芸者につづいて、ハイカラに結った身せ丈いの高い十八、九の芸者が来て末座に坐る。清岡は小づくりの女が京葉だということは、いつぞや市いちヶ谷や八はち幡まんの境内から窃ひそかに君江の跡をつけた晩、一生涯忘れるはずのないほどはっきり見覚えている。しかし相手には自分の顔を見知られない方が何かの場合都合がいいと思って、その後二、三度この土地へあそびに来た時も用心して逢わないようにしていたので、自然横を向いて煙たば草この烟けむりばかり吹いていると、駒田は飯をすませて廊下へと立つ。 ﹁駒田さん。ちょいと。﹂と女中が裏うら梯ばし子ごの方へ引張って行って、﹁お北姐ねえさん。丁度二本になりますから、もう帰してもよろしいでしょう。﹂ ﹁後の奴やつはみんな間に合うのか。﹂と駒田は時計を見た。 ﹁菊代さんだけ少し高いんですけれど。﹂ ﹁そんならそれも帰してしまえ。どの道、おれはいらないんだから、三人残して置けばいい。﹂ ﹁じゃア、京葉さんに、辰千代さんに、松葉さん。﹂と念を押して、﹁どういう風にしましょう。﹂ 女中が相あい方かたをきめるのに困っているらしいのを見て、駒田は厠かわやから帳場へ姿をかくし、それから清岡を呼出し、座敷には招待した記者二人を残して好きな芸者を択より取らせる事にした。 ﹁そう致しましょう。﹂と女中はまず年増芸者を帰すように座敷へ行って見ると、若い記者は女給上りの辰千代を膝の上に載せて窓に腰をかけ外を見ながら、流はや行りう唄たを唄っているので、これはそのままにして、年上の記者に耳打をした。清岡は様子を察して何とつかず立って厠へ行き、駒田をさがす振りで裏梯子から下へ降りて、再び二階の座敷へ戻って見ると、記者の姿は二人とも見えず、女中が脱いである洋服の上着と折おり革かば包んとを持ち、立ちかけた京葉に、﹁三階のすぐ突当り。﹂と教えているところであった。清岡は何事も気のつかない振りをして、窓の敷居に腰をかけると、一人取残された身せ丈いの高いハイカラの芸者は、その場の様子から清岡を自分の出る客と思ったらしく、﹁もう霽はれたようね。﹂と言いながら並んで腰をかけた。 雨はいつか歇やんで、両側とも待合つづきの一本道には往ゆき来きする足あし駄だの音もやや繁くなり、遠い曲まが角りかどの方でバイオリンを弾く門かど附づけの流行唄が聞え出した。 ﹁今帰ったお北の家はどこだ。富士見町の方か。﹂と、清岡は何の訳わけもないような風できいて見た。実は先さっ刻きその女のはなしをした隣となりの待合の事が気になっていたからである。 ﹁いいえ、三さん番ばん町ちょうもずっと先の方……。﹂ ﹁それじゃ、女学校か何かある、あっちの方か。﹂ ﹁ええ。そうよ。わたしの家もお北姐さんの家のすぐそばだわ。﹂ ﹁そうか。お北の家の隣りは待合だっていうじゃないか。﹂ ﹁ええ。千代田家さんでしょう。先どなりがお北ねえさんの家で、手前の方がわたしのいる家なのよ。﹂ ﹁そうか。それじゃその家にちがいない。背せな中かあ合わせになっている待合がありゃアしないか。﹂ ﹁何だか変ねえ。﹂ ﹁義理があるから、今度行こうと思っているんだけれど、様子がわからないからさ。﹂ ﹁あの辺へんでお茶屋さんは千代田家さんだけだわ。何しろ許可地の一番はずれですもの。﹂ 女中が三階から降りて来て、﹁どうぞ。﹂と言ったが、清岡はあまりぞっとしない芸者なので、 ﹁ちょっと用があるんだが、駒田はどうした。まだ帰りゃアしまい。﹂ ﹁先ほどお帳場で旦那とお話していらっしゃいました。見て参りましょう。﹂ 女中が立ちかけた時、駒田は上着のかくしへ大きな紙入を差込みながら、表梯子を上って来た。駒田は商売の取引ならば待合でもカッフェーでも何処へでも出入りするが、自分では滅多に女など買ったことのない男で、新聞社の営業部に勤めていた頃から株相場や家屋地所の売買に手を出し、今では大分身しん代だいをつくり上げたという噂うわさであるが、それにもかかわらず、電車の出来ないむかしから、今以て四よつ谷や寺てら町まち辺へんの車さえ這は入いらぬ細い横よこ町ちょうの小家に住んでいる。清岡は駒田の事を爪つめに火をともす流儀の古風な守しゅ銭せん奴どだと思っている。 ﹁駒田君。帰るなら一緒に出よう。まだ時間は早いし、どうせ電車だろう。﹂ ﹁君はこれから銀座へ廻るのかね。﹂ ﹁イヤ、彼あい奴つはもう止やめだ。君も知っているような始末で、ああ見さかいなしに誰でも御座れじゃ、全く名誉毀きそ損んだからな。すこし相談したい事があるんだ。とにかくぶらぶら出かけよう。﹂ ﹁アラ、ほんとにお帰りなの。﹂と芸者はさも驚いたような顔をしたが、清岡は見向きもせず、丁度窓際の柱に呼よび鈴りんの紐ひもがついていたのを引寄せて、ボタンを押した。 駒田は清岡と共に表梯子を降りながら、急に思出したらしく、送り出す女中を顧かえりみて、﹁おいおい。お泊りのようだったら芸者は明日の朝時間通りに帰してしまえ。﹂ ﹁それはもう承知しております。﹂ ﹁別に忘れ物はなかったな。マッチを貰って行こう。﹂と駒田は靴をはきながらも、さすがに抜ぬけ目めがない。 ﹁またどうぞ。お近い中うちに。﹂という声を後に二人は格子戸をあけて外へ出ると、雨あがりの空には月が出ていて、色町の横町はいかにも夏の夜らしく、往来する女の浴ゆか衣たが人の目を牽ひく。 ﹁駒田君。これから、赤坂までつき合わないか。﹂ ﹁この頃はあの方面ですか。﹂ ﹁カッフェーももう飽あきたからね。やっぱり芸者が一番いいな。少しピンとしたやつをどうかしようと思っているんだがね。﹂ ﹁どうかすると言うのは、身みう受けでもしようというはなしですか。それは考かん物がえものですよ。﹂ ﹁君に相談すれば、きっとそう言うだろうと思っていたんだ。﹂ ﹁まとまった金を出すことはとにかく止よした方がいいですよ。芸者の身受も将来奥さんになれるとか何とかいう目当があれば、女の方もそのつもりで真ま面じ目めになるでしょうが、そうでなければ、きっと面白くない事が起って結局お止やめになるんですからな。﹂ ﹁将来は、僕の方だってわからない。また一人になるかも知れないし……。﹂ ﹁そうですか。風雲頗すこぶる急ですな。﹂ ﹁イヤ、まだそれほどの事でもないんだがね。どういうもんだか、家へ帰ると陰気になっていけない。﹂ 清岡は問われるままに、家の事情を委くわしく語りたいと思いながら、さてどういう風に、何からはなし出したらいいものかと考えながら歩いて行く中うち、忽たちまち富士見町の電車停留場に来てしまった。そもそも清岡には最初から鶴子を正妻に迎えるほどの堅い決心があったわけではない。唯ただ折々人目を忍んで逢おう瀬せをたのしむくらいに留とどめて置くつもりであったが、女の方が非常にまじめで、事件が案外重大になってしまったので、どうする訳わけにも行かず、幸さいわい女がその兄から金を貰ったのを聞いて鎌倉に家を借りて同どう棲せいしたような次第であった。勿論人の妻として才色両ふたつながら非の打ちどころのない事は能よく承知しているが、その後清岡は月日の立つにつれて自分の品行の修おさまらないところから、何となく面おも伏ぶせな気がしだして、冗談一ツ言うにも気をつけねばならぬような心持がして窮屈でならなくなった。それがため、一日に一度はどうしてもカッフェーか待合に行って女給か芸者を相手に下らない事を言いながら酒を飲まなければ心淋さびしくてならないような習慣になった。清岡は女給の君江が最もす少こし乗気にさえなってくれれば、明日といわず即座にカッフェーなり酒場なり開業させようと思いながら、そういう相談には君江ではいかにも頼みにならないところから、いっそ方面を転じて、これぞと思う芸者の見つかり次第、芸者家でも出させて見ようかという気になっている。実はそれらの相談もして見たいと思って、駒田を誘い出したのであるが、駒田は電車が近づくのを見ると、早くも折おり革かば包んを抱え直して、年寄りのくせに飛乗りでもしかねまじき様子。清岡は忽たちまち興がさめて、 ﹁それじゃ失礼。僕はちょっと寄るところがあるから。﹂ ﹁あした。午後は丸円社にいますから、御用があったら電話をかけて下さい。﹂と駒田は電車に乗った。 時計を見ると十時である。清岡はこのまま家へ帰れば、さしておそいというでもなく、丁度ほど好よい時間だとは思いながら、夜ふかしに馴なれた身は、何となく物足りない気がして、もう一軒どこへか立寄ってからでなくては、どうしても足が家の方へは向かない。しかし今時分、丁度酔客の込こみ合あう時刻には、銀座のドンフワンなどへは君江との関係もあるところから、うかうか一人では行かれない。銀座辺の飲食店を徘はい徊かいする無頼漢や不良の文士などから脅迫される虞おそれもあり、また君江が酔客を相手に笑い興ずるのを目の前に見ているのも不愉快である。清岡はこれから立寄るべきところは、まずこの間から折々出かける赤あか阪さかの待合より外にはないと思いながら、しかし目ざした芸者は既に五、六度呼んでいるにもかかわらず、今もってなかなか承知する様子がないので、今夜あたりも大抵話はまとまるまいと思うと、行かない先から、何やらむやみに腹立しい心持になって来る。しかしこの腹立しさもよくよく考えて見ると、あの芸者が自分の意に従わないという事から発しているのではなくて、その原因はやはり君江に対する平素の憤りから起っている。君江がもし自分の思うようにさえなっていれば、何もあんな芸者にふられるような馬鹿な目に遇あわなくてもすむ事だと思うと、一時ゆるがせにしていた報復の悪念がまたしてもむらむらと胸中に湧わき立って来る。清岡が君江に対して、何よりも腹が立ってならないのは、平素君江が何の心配もなく面白そうに日を送っている事で、その次には君江が名声籍せき々せきたる文学者の恋人である事をさほど嬉しいとも思っていないように見える事である。もし自分が関係を断つような事があっても女の方では別に名残惜しいとも何とも思わないように見える事である。君江は自分との関係が断たえればかえってそれをよい事にして、直すぐ様さま代りの男を見付けて、今と同じように、たわいもなく浮うか々うかと日を送るに相違ない。虚栄と利慾の心に乏しく、唯懶らん惰だ淫いん恣しな生活のみを欲している女ほど始末にわるいものはない。こういう女を苦しめるには肉体に痛苦を与えるより外には仕様がないかも知れない。といって、まさかに髪を切ったり、顔に疵きずをつけたりする事もできないとすれば、まず二、三カ月も床につくような重い病気に罹かかるのを待つより外に仕様がないわけである。そんな事を考えながら足の向く方へとふらふら歩きながら、ふと心づいて行先を見ると、燈火の煌こう々こうと輝いている処は市ヶ谷停車場の入口である。斜ななめに低い堀ほり外そとの町が見え、またもや真暗に曇りかけた入梅の空に仁丹の広告の明滅するのが目についた。 君江の家はあの広告のついたり消えたりしている横町だと思うと、一昨日から今夜へかけてまず三日ほど逢わないのみならず、先さっ刻き富士見町で芸者から聞いたはなしも思い出されるがまま、とにかくそっと様子を窺うかがって置くに若しくはないと思定め、堀端を歩いて、いつもの横町をまがった。 角の酒屋と薬屋の店についている電燈が、通る人の顔も見分けられるほど隈くまなく狭い横町を照てらしている。清岡は去年から丁度一年ほど、四、五日目にはここを通るので、店のものにも必かならず顔を見知られているにちがいないと、俄に眉まゆ深く帽子の鍔つばを引下げ、急いで通り過すぎると、その先の駄菓子屋と煙たば草こ屋やの店もまだ戸をしめずにいたが、ここは電燈も薄暗く店先には人もいない。路地の入口の肴さか屋なやはもう表の戸を閉めているので、ちょっと前ぜん後ごを見廻し、暗い路地へ進すす入みいろうとすると、その途端にばったり行き会ったのは間貸しの家の老婆である。闇やみにまぎれて知らぬ振りで行き過ぎようとしたが、老婆は目ざとく、﹁アラ旦那。﹂と呼びかけ、﹁一ひと歩あしちがいで、まア能よう御ござ在いました。不用心ですから鍵かぎをかけて、お湯へ行こうと思ったんですよ。お君さんも今夜はお早いんですか。﹂ ﹁イヤちょっと市ヶ谷まで用事があったから、寄って見たんだよ。帰って来るまで、とても待ってはいられないから、今夜寄ったことは黙っていておくれ。また心配するからなア。﹂ ﹁じゃ、お茶一ツ上っていらっしゃいまし。﹂ ﹁でも、おばさん、お湯へ行くんだろう。﹂ ﹁ナニ、あなた。まだ急がないでもよう御在ます。﹂ 清岡は振切って去るわけにも行かず、勧められるがまま老婆の寐ねお起きしている下座敷に通り長火鉢の前に坐すわった。座敷は二階と同じく六畳ばかり。壁も天井も煤すすけて、床ね板だも抜けた処さえあるらしいが、隅々まで綺きれ麗いに片づいていて、障子や襖ふす紙まがみの破れも残らず張ってあるなど、もし借手さえあればここも貸間にするのかとも思われるくらいである。床とこの間まには一度も掛替えたことのないらしい摩まり利し支て天んか何かの掛物がかけてあって、渋しぶ紙がみ色いろに古びた安やす箪だん笥すの上には小さな仏壇が据えられ、長火鉢にはぴかぴかに磨いた吉よし原わら五ごと徳くに鉄てつ瓶びんがかかっている。こういう道具から老婆の年齢も大方想像がつくであろう。老婆が口ずから語る所によれば、日露戦争の際陸軍中尉であった良おっ人とが戦死してから、下女奉公に行ったり派出婦になったりまた手内職をしたりして、一人の娘を養育したが、その娘は幸いにも資産のある貿易商の妻になり、夫婦とも現在は亜ア米メ利リ加カに居住していて、老婆には不自由のないように仕送りをしているとの事である。しかし人の噂うわさでは、娘からの仕送りは真実であるが、娘は始め西洋人の妾めかけになり子供が出来てそのまま旦那の本国へ連れられて行ったのだともいう。いずれが真実やら、清岡は定めかねているのみならず、君江が始めどうしてこの家の二階を借りたのやら、そして何な故ぜ、もっと場所柄のいい綺麗な家へ引移らずにいるのやら、その事情もはっきり知ることが出来ないのである。老婆は中尉の妻だったというが、現在の様子や物の言いざまから見れば、本ほん所じょ浅あさ草くさ辺へんの路地裏によく見るような老婆で、生れも育ちも好くない事は、酒屋の通帳がやっと読める位。洋服を着て髯ひげを生はやした人をわけもなく尊敬する事などから万事は大抵想像されるのである。清岡はこの老婆に向って、自分の来ない間君江が何をしているかを、今更きいて見たところで、何の得るところもないだろうと思っているので、日頃の欝うっ憤ぷんなどは顔色にも現わさず、努めて機嫌のいい調子をつくり、 ﹁カッフェーへ行くといろいろな人に逢うんで実に困るのだよ。だから夜は前を通ってもなりたけ入らないようにしているのさ。﹂ ﹁それが能よう御ござ在いますよ。御身分のある方はつい人が目をつけて、何の彼かのと噂をしたがるもんですからね。オヤもう十一時ですね。﹂と婆ばばは隣となりの時計の鳴る音を聞きつけ、箪笥の上の八角時計を見上げ、 ﹁旦那、もう一時間お待ちになればいいんでしょう。待ってお上げなさいましよ。火鉢に火でもついで置きましょう。﹂ ﹁おばさん。何も今夜にかぎった事じゃない。あしたゆっくり来るからさ。﹂と清岡は敷しき島しまの袋を袂たもとに入れたが、婆は最初から清岡が時ならぬ時分この近所を徘はい徊かいしていたらしい様子といい、また日夜見知っている君江のふしだらとを思合せて、大抵それと察しながら、これもわざと気のつかない振ふりをして、 ﹁それでも旦那、お待たせして置かないと、後あとで君江さんに叱られますから。﹂ ﹁だまっていれば知れやしない。﹂ ﹁それでも何だかわたしの気がすみませんからさ。酒屋の電話をかりて掛けて来ましょう。﹂と婆は長火鉢の曳ひき出だしをさぐって、電話番号をかいた紙かみ片きれを取り出した。 ﹁それじゃ、とにかく帰るまで二階にごろごろしていよう。十二時には帰って来るにきまっているんだから、電話なんぞ掛けないでもいいよ。﹂と清岡は立ちかけて、﹁おばさん、留守番をしているから、何なら湯へ行ってお出いで。﹂ 清岡は老婆を銭湯にやり、二階へ上って、秘密の手紙でもあったら手に入れようという下心。老婆は前々から不意の事が起ったら電話で知らせるようにと君江からくれぐれも頼まれているので、銭湯への道すがら酒屋か薬屋から電話をかけるつもりで、電話番号の紙片を帯の間にはさみながら出て行った。七
おばさんから電話がかかった時、君江は折よく電話室に近いテーブルのお客と飲んでいたので、呼ばれるが否や、すぐに立って電話を聞いたが、もう三、四十分で店のしまう刻限、大分酔が廻っている上に、あたりの騒々しさに、清岡先生の来ていることだけは通じたけれど、それについておばさんのくどくど言うことは一向に聞取れなかった。とにかく今夜は清岡さんの来べき晩ではなく、かつまた前以て何のたよりさえなかったところから、君江は安心して既に宵の口に木村義男という洋行帰りの舞踏家とどこへか泊りに行く約束をしてしまった所へ、その後二、三度馴な染じみになった自動車輸入商の矢田さんが来て、カッフェーの帰りに春代と百合子の二人をも誘って、松屋呉服店の裏通にこの頃開店した麗れい々れい亭ていとかいうおでん屋へ是非とも寄ってくれ。外に約束があるなら一時間でも三十分でもよいからと言って、一度外へ出てから、今いま方がた再び立戻って来て、四、五人の女給にいろいろな物を食べさせている最中である。これと殆ほとんど前後して、いつもカッフェーなどへは来た事のない松崎さんという老紳士が今夜にかぎってひょっくり姿を現した。尤もっとも東京駅へ人を送りに行った帰りだという事である。 銀座通のカッフェーはこのドンフワンに限らず、いずこも十時過ぎてから店のしめ際になって急に込み合って来るのが常である。絶たえ間まなく鳴りひびく蓄音機の音も、どうかすると掻かき消けされるほど騒さわがしい人の声やら皿の音に加えて、煙草の烟けむりや塵ちりほこりに、唯さえ頭の痛くなる時分、君江は自分ながらも今夜は少し酔い過ぎたと思っている矢先、目の前には三人の男が落ち合ったのみならず、家の方にも待っているものがあると聞いて、どうしてよいのやら、殆ど途とほ法うに暮れてしまった。今夜にかぎって、どうしてこうも都合が悪るいようになったのだろうと、自分の身よりも罪のない他人を恨むばかり。一層この場で酔いつぶれてさえしまえば周囲の者が結句どうにか始末をつけてくれるだろうと、君江は松崎老人の卓テーブルに来て、 ﹁今夜わたしべろべろに酔って見たいのよ。オトカを飲まして頂ちょ戴うだい。﹂ ﹁何かいざこざがあるな。お客と喧けん嘩かでもしたのか。﹂と松崎は年を取っているだけ、すぐに気がついたらしい。 ﹁いいえ。そうじゃないのよ。だけれど。﹂ ﹁だけれど。やっぱりそういう訳じゃないかね。﹂ 君江は返事に窮こまって黙ってしまったが、その時ふと、この老人とは女給にならない以前からの知しり合あいで、身の上の事は何も彼も承知している人だから、内々打明けて相談した方がよいかも知れないと思いついた。折好くテーブルには一人も女給がいないので、君江はぴったり寄添い、 ﹁今夜、わたしこまってしまったのよ。こんな都合のわるい事は始めてだわ。﹂ その語調と様子とで、松崎は忽たちまち万事を洞察したらしく、﹁おれはもうすぐ帰るつもりだよ。今夜は唯カッフェーの景気を見物に来たばかりさ。逢あうのはその中うちゆっくり昼間にしよう。﹂ ﹁すまないわねえ。あなた、怒らないで頂戴。よくって。﹂ ﹁おこるものか。おれにはもう分っている。お客がかち合っているんだろう。﹂ ﹁さすがに小お父じさんだけあるわねえ。どうして分るんだろう。﹂と君江は松崎の耳に口を寄せて今夜の始末を包まずに打明け、﹁何かうまい工夫はないか知ら。﹂ ﹁いくらでもあるさ。わけはない。﹂と松崎はすぐに一策を授けた。それは先まずカッフェーの帰り大急行で一人のお客を待合へ連れて行き、どうしても泊るわけには行かないからと、暫しばらくしてから、男が帰り仕度をしない中、お先へ失礼と言ってあわてて帰る振りで、別の座敷へ姿をかくす。その前に極く懇意な友達の女給に頼んで市ヶ谷の家へ寄ってもらい、間貸しのおばさんに、或あるお客様が自動車で送ってやるからと言うので、何の気もなく一緒に乗ったところ、無理やりに待合へ連れて行かれた。仕様がないから芸者を呼ばせお酒だの御料理だの取らせている間に、自分だけ隙すきを見て逃げ出して来たのだから、急いで君江さんを迎いに行ってくださいと、言うのだ。そうすればきっと清岡が自身でその待合へやって来るにちがいはない。それまでにたっぷり一時間あまりはかかるから、その間にお客の一人位お前の腕ならどうにでも始末はつけられるはずだ。もう一人のお客には、人目を憚はばかるからと口実を設けて、一人先へ別の家へ行かして、気の毒だが、その方はそれなり寐ねこかしを喰わしてしまうのだ。勿もち論ろんその時はひどく怒るだろうが、怒るほど内心未練が強くなるのにきまっているから、翌日必かならず恨みをいいにやって来る。その時思うさま嬉しがらしてやれば効果はむしろ平穏無事の時より以上になるだろう。松崎は刈り込んだ半白の口くち髭ひげを撫なでながら、微笑して、﹁しかし、こういう仕事をするには、呑のみ込こみの早い、気のきいた家でなくっちゃいけない。心安い家でうまい処があるか。﹂ ﹁そうね。牛込の彼あす処こはどう。諏すわ訪ちょ町う時分にあなたとも二、三度行った家さ。この頃三番町にもちょいちょい往ゆくところがあるのよ。﹂ その時持番の女給が来たので、君江は取りとめのない冗談を言いながら立って行った。松崎はもう半時間ばかりたてば戸をしめる時間になるので、その間に君江のお客はどんな人か。また君江が果してどういう行動を取るかをも見究めたいような心持もしたが、それまで自分がここに居いす坐わっていてはやりにくかろうと察して、ほどなく勘定を払って外へ出た。両側の商店は既に灯ひを消し戸を鎖とざしている。夜よみ肆せも宵の中うち雨が降っていたのと、もう時間がおそいのとで、飲みくいする屋台店が残っているばかり。銀座の大通りは左右のひろい横町もともども見渡すかぎりひっそりしていて、雨あま気けを含んだ闇の空と、湿った路の面おもてに反映するカッフェーや酒場の色電燈が目につくばかりである。劇場や興行物は既に一時間ほど前には閉場しているので、今頃ぶらぶら歩いている男女は悉ことごとくカッフェーへ出入するものとしか思われない。通り過る電車は割合にすいていて、辻自動車ばかりが行先の見えぬほど街の角々に徘はい徊かいしている。 松崎は今ではたまにしか銀座へ来る用事がないので、何という事もなく物珍しい心持がして、立止るともなく尾おわ張りち町ょうの四よつ辻つじに佇たた立ずんだ。そしてあたりの光景を観望すると、いつもながら今更のようにこの街の変革と時勢の推移とに引きつづいてその身の過去半生の事が思返されるのである。 松崎は法学博士の学位を持ち、もと木こび挽きち町ょう辺にあった某省の高等官であったが、一時世間の耳目を聳しょ動うどうさせた疑獄事件に連坐して刑罰を受けた。しかしそれがため出獄の後は生涯遊んで暮らせるだけの私財をつくり、子孫も既に成長し立身の途についているものもある。疑獄事件で収監される時まで幾年間、麹こう町じまちの屋敷から抱かか車えぐるまで通勤したその当時、毎日目にした銀座通と、震災後も日に日に変って行く今日の光景とを比較すると、唯ただ夢のようだというより外はない。夢のようだというのは、今日の羅ロー馬マじ人んが羅馬の古都を思うような深刻な心持をいうのではない。寄よ席せの見物人が手品師の技術を見るのと同じような軽い賛称の意を寓ぐうするに過ぎない。西洋文明を模もほ倣うした都市の光景もここに至れば驚異の極、何となく一種の悲哀を催さしめる。この悲哀は街がい衢くのさまよりもむしろここに生活する女給の境遇について、更に一層痛切に感じられる。君江のような、生れながらにして女子の羞しゅ耻うちと貞操の観念とを欠いている女は、女給の中には彼一人のみでなく、まだ沢山あるにちがいない。君江は同じ売笑婦でも従来の芸げい娼しょ妓うぎとは全く性質を異にしたもので、西洋の都会に蔓まん延えんしている私しし娼ょうと同型のものである。ああいう女が東京の市街に現れて来たのも、これを要するに時代の空気からだと思えば時勢の変遷ほど驚くべきものはない。翻ひるがえって自分の身を省れば、あの当時、法廷に引出されて涜とく職しょくの罪を宣告せられながら胸中には別に深く愧はじる心も起らなかった。これもまた時代の空気のなす所であったのかも知れない。月日はそれから二十年あまり過ぎている。一時はあれほど喧かしましく世の噂に上ったこの親おや爺じが、今日泰然として銀座街頭のカッフェーに飲んでいても、誰一人これを知って怪しみ咎とがめるものもない。歳月は功罪ともにこれを忘却の中に葬り去ってしまう。これこそ誠に夢のようだと言わなければなるまい。松崎は世間に対すると共にまた自分の生涯に対しても同じように半なかばは慷こう慨がいし半は冷れい嘲ちょうしたいような沈痛な心持になる。そして人間の世は過去も将来もなく唯その日その日の苦楽が存するばかりで、毀き誉よも褒ほう貶へんも共に深く意とするには及ばないような気がしてくる。果して然しかりとすれば、自分の生涯などはまず人間中の最もっとも幸福なるものと思わなければならない。年は六十になってなお病やまいなく、二はた十ちの女給を捉とらえて世を憚はばからず往々青年の如く相戯れて更に愧はじる心さえない。この一事だけでもその幸福は遥はるかに王侯に優まさる所があるだろうと、松崎博士は覚えず声を出して笑おうとした。 * * * * 君江は舞踊家木村義男と牒しめし合して、カッフェーを出てから有ゆう楽らく橋ばしの暗い河かし岸ど通おりで待合せ、自動車で三番町の千代田家という懇意な待合へ行った。そして松崎のおじさんから教えられたように先へ帰る振りをして別の小座敷に姿をかくし、素知らぬ顔で清岡先生を迎えるつもりであったが、車の道すがら話の様子で、君江は木村が案外さばけた男で、女給には恋人の二人や三人あるくらいの事は当あた前りまえだと思っているらしいので、千代田家の裏二階へ通ると、すぐさま今夜の始末をそのまま打明けてしまった。すると、木村は案の定どこまでもおとなしく、 ﹁始めから打明けてくれれば、こんな心配をさせなくってもよかったのに。許してくれたまえ。僕がわるかったんだ。その代り今度都合のいい時ゆっくり逢ってくれたまえ。﹂ 木村はわざと追立てるように君江をせき立て、手つだってその帯まで結んでやった。 君江は始め邦楽座の舞台で活動写真の幕まく間あいに出演する木村の技芸を見た時から例の好奇心に駆られていたので、このまま別れるのが物足りなくてしようがない。木村の技芸というのは彼自身雑誌や新聞などに書いている議論によれば、露ロ西シ亜アの舞踊ニジンスキイ以後の芸術と、支那俳優の舞技と、即すなわち東西両種の芸術を渾こん和わしたとか称するもので、男女両性の肉体的曲線美の動揺は、絵画彫刻の如き静止した造形美術の効果よりも遥はるかに強烈で、また音楽が与える直感的な暗示の力よりも更に深刻だというのであるが、しかし女給さんの君江にはそういう審美学上の議論はどうでもよい。若い男と女とが裸体になって衆人の面前で時々抱き合いながらさまざまな姿態を示すのを見て、君江はああいう事を商売にしている男と逢あって見たらばどんなだろうと思ったのである。その心持はあばずれた芸者が相撲を贔ひい屓きにしたり、また女学生が野球選手を恋するのと変りがない。 ﹁先生。もうおそいから真まっ直すぐにお帰りじゃないんでしょう。きっと何ど処こかへお寄りになるのよ。口く惜やしいわねえ。﹂ ﹁だって、パトロンが来るんじゃ仕様がないじゃないか。僕はすぐ家へ帰る。虚う言そだと思うなら電話をかけて見給え。﹂と名刺を渡して、﹁君江さん。この次きっと逢ってくれるねえ。﹂ ﹁あなたもよ。きっとよくって。わたし何だかほんとに済まないような気がして、お帰ししたくないのよ。﹂と君江は例の如く新しい男に対する興味を押える事ができないので、既に帰仕度をしかけた木村の膝ひざによりかかってその手を握った。 暫しばらくしてから君江は木村の帰る自動車を頼もうと、女中を呼びに廊下へ出て、時間をきくと今方二時を打った。そして清岡さんというお客様はまだお見えにもならず、また電話もかからないと言う。自動車が来たので舞踊家の木村先生はお帰りになる。小説家の清岡先生はそれなり二時半を過ぎてもお出いでにならない。君江はカッフェーの仕しま舞いぎ際わに瑠る璃り子こという女給に市ヶ谷へ立寄って伝こと言づけをするように頼んだのである。瑠璃子はもと洋髪屋の梳すき手てをしている時分から方々の待合へも出入をしていたので、こういう事には抜目のあろうはずがない。事によると、清岡先生は瑠璃子の伝言を聞かない先に怒って早く帰ってしまったのかも知れない。そう思うと君江は木村を帰すのではなかったものをと、いよいよ残り惜しくてたまらなくなって来た。帯の間に入れた名刺を見ると、その住処、昭和アパートメントの電話番号が記してあるので、前後の考かんがえもなく電話をかけて見ようと裏うら梯ばし子ごを降りかけた時、表口の方で誰かお客の来たらしい物音がした。清岡先生にちがいないと、君江は耳をすまして表二階へ上る人の声を聞くと、清岡ではなくて、思いもかけない矢田さんらしい。矢田さんにはカッフェーのテーブルで、今夜はいくら誘われても先約があるから裏通りのおでん屋麗々亭へは行かれないがその代り少しおそくなってからならば、何処へでも行かれるから、行先を教えて先へ行って待っていて下さいと虚う言そをついて、それなり寐こかしを食わしてしまうつもりであったのだ。 矢田の方では君江のいう事を真まに受け、最初の晩君江をつれて行った神かぐ楽らざ阪か裏の待合へ行き、二時過まで待ちあぐんでいたが、電話さえかかって来ないので、矢田は形勢を察し、十日ほど前君江がカッフェーの行掛けに自分を連れて行った三番町の千代田家の事を思合せて、万一まぐれ当りにさがし当てたら、腹いせに騒いで邪魔をしてやろうと、突然自動車を乗りつけたのである。門をたたくと直すぐ様さま女中が雨戸をあけたので、矢田は鎌をかけて君江さんはと聞くと、女中はてっきり君江の待っている旦那だと思込んで、 ﹁奥様は先さっ刻きからお待ちかねなんですよ。殿方はほんとに罪だわねえ。﹂という返事。矢田は烟けむに巻かれて何とも言えず、おとなしく二階へ上り、帽子もとらず床とこの間まを後うしろに胡あぐ坐らをかいて不審そうに座敷中を見廻していた。 君江は裏梯子の下で女中から様子をきき、今はどうする事も出来ないと覚悟をきめ、いきなり座敷の襖ふすまをあけると共に、 ﹁矢ヤアさん。あなた。あんまりだわよ。﹂と鋭い声で叱りつけた。 矢田は今方女中の返事に驚かされた後、またしても意外な君江の様子に、何とも言わず、目ばかりぱちぱちさせている。 ﹁わたし、もう帰ろうかと思ったのよ。﹂と君江はきちんと坐って俯うつ向むいた。 ﹁一体どうしたというんだ。﹂と矢田は始めて心づいたらしく帽子を取り、﹁何だか、さっぱり訳わけがわからない。﹂ 君江は俯向いたまま黙って膝の上にハンケチを弄もてあそんでいる。女中が上あがり花ばなを運んで来て、 ﹁ほんとにお待ちになっていらしったんですよ。お銚ちょ子うしをおつけ致しましょうか。﹂ ﹁もう、おそう御ござ在いますから。﹂と君江は妙に声を沈ませて、﹁こんなにおそくまで。ほんとに済みません。﹂ ﹁おそいのは、もう馴なれております。それでは。どうぞ。﹂と女中は矢田の帽子と夏外がい套とうとを持って立ちかけるので、矢田はとやかく言うひまもなく、案内されるがまま、先刻舞踊家のいた座敷とも知らず、黙って裏二階の四畳半に入った。 * * * * 短みじ夜かよの明けぎわにざっと一ひと降ふり降って来た雨の音を夢うつつの中うちに聞きながら、君江は暫くうとうとしたかと思うと、忽たちまち窓の下の横よこ町ちょうから、急に暑くなったわねえという甲かん高だかな女の声と小走りにかけて行く下げ駄たの音に目をさました。軒に雀すずめの囀さえずる声。やや遠く稽けい古こじ三ゃみ味せ線んの音。表の方でばたばた掃除をする戸障子の音と共に、隣となりの屋根に洗濯物でも干しに上るらしい人の跫あし音おとがする。雨はすっかり晴れて日が照り輝いていると思うと、昨夜のままに電燈のついている閉しめ切きった座敷の中の蒸暑さが一ひと際きわ胸苦しく、我ながら寐臭い匂においに頭が痛くなるようなので、君江は夜具の上から這はい出して窓の雨戸を明けようとした。矢田は既に昨夜の中わけもなく機嫌を直していた後なので、 ﹁お止よしよ。僕があける。実際暑くなったなア。﹂ ﹁こら。こんなよ。触って御覧なさい。﹂と君江は細い赤襟をつけた晒さら木しも綿めんの肌はだ襦じゅ袢ばんをぬぎ、窓の敷居に掛けて風にさらすため、四ツ匐ばいになって腕を伸のばす。矢田はその形を眺めて、 ﹁木村舞踊団なんかよりよほど濃のう艶えんだ。﹂ ﹁何が濃艶なの。﹂ ﹁君江さんの肉体美のことさ。﹂ 君江は知らぬが仏とはよく言ったものだと笑いたくなるのをじっと耐こらえて、﹁矢ヤアさん。あの中なかに誰かお馴なじ染みがあるんでしょう。みんな好いい身から体だしているわね。女が見てさえそう思うんだから、男が夢中になるのは当前だわねえ。﹂ ﹁そんな事があるものか。舞台で見るからいいのさ。差さし向むかいになったらおはなしにならない。ダンサアやモデルなんていうものは、裸体になるだけが商売なんだから、洒しゃ落れ一つわかりゃアしない。僕はもう君さん以外の女は誰もいやだ。﹂ ﹁矢さん。そんなに人を馬鹿にするもんじゃなくってよ。﹂ 矢田はまじめらしく何か言おうとした時、女中が障子の外から、﹁もうお目めざ覚めですか。お風ふ呂ろがわきました。﹂ ﹁もう十時だ。﹂と矢田は枕まくらもとの腕時計を引寄せながら、﹁おれはちょっと店へ行かなくっちゃならないんだけれど、君さん、今日は晩おそ番ばんか。﹂ ﹁今日は三時出なのよ。暑くって帰れないから、わたしその時間までここに寐ているわ。あなたもそうなさいよ。﹂ ﹁うむ。そうしたいんだけれど。﹂と考えながら、﹁とにかく湯へはいろう。﹂ 矢田は自分の店へ電話をかけ、どうしても帰らなければならない用事が出来たというので、朝飯も食わず、君江を残して急いで帰って行った。その時はかれこれ十二時近くなっていたが、今だに清岡の様子がわからないので、君江は平ふだ素んから頼んである表の肴さか屋なやに電話をかけ、間貸しのおばさんを呼出して様子をきくと、昨夜お友達の女給さんが見えて、先生はその女と一緒にお出かけになったきりだという返事である。君江は事によると先生と瑠璃子と出来合ったのかも知れない。それでこっちへは姿を見せないのだろうと思った。しかし唯ただそう思っただけの事で、君江はそれについてとやかく心を労する気にはならなかった。十七の秋家を出て東京に来てから、この四年間に肌をふれた男の数は何人だか知れないほどであるが、君江は今以って小説などで見るような恋愛を要求したことがない。従って嫉しっ妬とという感情をもまだ経験した事がないのである。君江は一人の男に深く思込まれて、それがために怒られたり恨まれたりして、面倒な葛かっ藤とうを生じたり、または金を貰もらったために束縛を受けたりするよりも、むしろ相手の老弱美醜を問わず、その場かぎりの気ままな戯れを恣ほしいままにした方が後くされがなくて好いいと思っている。十七の暮から二はた十ちになる今日が日まで、いつもいつも君江はこの戯れのいそがしさにのみ追われて、深刻な恋愛の真情がどんなものかしみじみ考えて見る暇がない。時たま一人孑ぽつ然ねんと貸間の二階に寝ることがないでもないが、そういう時には何より先に平素の寝不足を補って置こうという気になる。それと同時に、やがて疲労の恢かい復ふくした後おのずから来るべき新しい戯れを予想し始めるので、いかなる深刻な事実も、一旦睡ねむりに陥おちるや否や、その印象は睡眠中に見た夢と同じように影薄く模も糊ことしてしまうのである。君江は睡からふと覚めて、いずれが現実、いずれが夢であったかを区別しようとする。その時の情緒と感覚との混こん淆こうほど快いものはないとしている。 この日も君江はこの快感に沈ちん湎めんして、転うた寐たねから目を覚した時、もう午後三時近くと知りながら、なお枕から顔を上あげる気がしなかった。枕もとを見れば、昨夜脱ぎ捨てた着物や、解きすてた帯おび紐ひもに取乱されている裏二階の四畳半は、昨夜舞踊家の木村が帰った後、輸入商の矢田が来て、今朝方帰りがけに窓の雨戸一枚明けて行ったままで、消し忘れた天井の電燈さえまた昨夜と同じように床の間の壁に挿さし花ばなの影を描いている。懶ものうい稽古唄や物売の声につれて、狭ひあ間わいの風が窓から流れ入って畳の上に投げ落した横顔を撫なでる心地好さ。君江は今こういう時、矢田さんでも誰でもいいから来てくれればいい。そうすればありとあらゆる身内の慾情を投げかけてやろうものをと思うと、いよいよ湧わき起おこる妄想の遣やる瀬せなさに、君江は軽く瞼まぶたを閉じ、われとわが胸を腕の力かぎり抱きしめながら深い息をついて身もだえした。その時静に襖ふすまの明あく音がして、屏びょ風うぶの前に立った男の姿を、誰かと見れば昨夜から名残惜しく思っていた木村義男である。 ﹁あら。﹂と君江はわずかに顔を擡もたげながら、起直りもせず、仰あお向むきに臥ねたまま両腕をひろげ、木村が折おり屈かがむのを待って、ぐっと引寄せながら、﹁わたし、夢を見ていたのよ。﹂ 暫くして後木村は昨夜銀細工の鉛筆を落したから、もしやと思って捜さがしに来たことを告げた。 二人は起きて、表座敷で料理の肴さかなに箸はしをつけた時、女給の瑠璃子から電話がかかった。瑠璃子は昨夜君江から頼まれた通り、狼ろう狽ばいした振りで本ほん村むら町ちょうへ行き、清岡先生に三番町の千代田という家へ行った事を告げると、先生は俄にわかに不快な顔色をして、いろいろ弁解するのも聴かず、途中から自分を振ふり捨すててどこへか行ってしまった。その事を知らせたいと思って今まで君江の来るのを待っていたが、三時の出番にも姿が見えないので、最初に肴屋へ呼出しの電話をかけ、おばさんの返事から推量して、更に電話をかけて見たという事である。 日が暮れて飯を食べてしまうと、木村は明日丸円劇場の初日なので、これから稽古に行かなくてはならないと、急いで仕度をした後、特等の座席券を五、六枚、カッフェーの女給さんたちに売ってくれと頼んで、そのまま晩飯の代も自動車賃も払わずに帰ってしまった。 君江はまるで落はな語し家かか芸人などと遊んだような気がして、俄に興きょうが覚め、折角きょう一日夢を見ていたような心持はもう消え失せてしまった。折からたっぷり日が暮れると共に、今のところ何の当もない今夜一晩の事が急に物さびしく思われて来た。女一人では待合にもいられないので、木村の飲み食した勘定を仕払って外へ出ると、横町は丁度座敷へ出て行く芸者の行ゆき来きの一番急いそがしい時分。今頃おくれてカッフェーへも行かれない、といって、家へ帰っても仕様がないので、思出すまま桐花家の京葉をたずねて見ようと、四よつ角かどを曲りかけた時、向から座敷着の褄つまを取り、赤い襦じゅ袢ばんの裾すそを夕風に翻しながら来かかる一人の芸者。見れば京葉である。 ﹁君ちゃん。これから銀座?﹂ ﹁もう晩おそくなったから休もうと思ってるの。﹂ ﹁あなた。千代田家さんにいたんじゃないの。﹂ ﹁あら。どうして知ってるの。﹂ ﹁どうしてじゃないことよ。君ちゃん。あすこはいけないよ。昨夜わたし清岡先生にもお目にかかったのよ。﹂ ﹁あら。そう。﹂と君江もさすがに目をみはった。 ﹁ゆうべ、宵の中うちに野田家さんでお目にかかったのよ。三、四人お連つれがあったわ。わたしは後あと口くちで廻って行ったもんだから、ちょっとお目にかかったばっかりなのよ。だから、その時にはどなただか気がつかなかったのよ。だけれど、わたしお連の方に出たもんだから、後ですっかり話をきいてしまったのさ。お前さんがちょいちょい千代田家さんへ行くことを能よく知っている芸者衆があるんだよ。家が隣とな合りあっているものだから、窓からよく見えるんだとさ。お座敷でその芸者衆が先生とは知らずにお前さんのはなしをしたんだとさ。何しろ此こ処こじゃはなしができないから、わたし明あし日たかあさって、おばさんにも用があるから、ゆっくり行って話をするわ。とにかくあすこはよした方がいいよ。﹂ ﹁そう。そんな事があったの。じゃ待ってるわよ。﹂ 近処の犬だの、箱はこ屋やだの、出前持だの、芸者などが、絶え間なく通とお過りすぎるので、二人は立たち談ばなしもそこそこに右と左へわかれた。八
良おっ人との起おきるのは大抵正午近くなので、鶴子は毎朝一人で牛乳に焼トー麺ス麭トを朝飯に代え、この年月飼かい馴ならした鸚おう鵡むの籠かごを掃除し、盆栽に水を灌そそぎなどした後、髪を結び直し着物をきかえて、良人の起るのを待つのである。その日の朝牛乳と共に女中の持って来た郵便物の中に、番地も宛名も洋字で書いた一封があったので、何心なく手に把とると、自分へ宛てたもので、その筆蹟にも見みお覚ぼえがある。女学校を卒業する前後二年あまり教おしえを受けた仏フラ蘭ン西スの婦人マダム、シュールの手紙である。 マダム、シュールは東洋文学研究の泰たい斗ととして各国に知られている博士アルフォンズ、シュールの夫人で、始め良人に従い支那に遊ぶ事十余年、日本に留ることまた更に数年にして一度本国に帰ったが、その後良人に先立れ孀やも婦めとなった悲しみを慰めるため、単身米国を漫遊して再び日本に来て二年ほど東京にいた。鶴子が女学校の友達二、三人と語学と礼法とを学びに通ったのはこの折であった。マダム、シュールは巴パ里リで亡夫の遺著を出版するについて至急な用事が出来たので、四、五日前またもや日本に来て、帝国ホテルに投宿したから一度訪ねて来るようにというのであった。 鶴子は進の起るのを待ち丁度正午の汽笛が鳴った頃、電話で聞合せてホテルへ往いった。 マダム、シュールは西洋の老女にはよく見るような円まる顔がおの福々しく頬ほおの垂れ下った目の細い肥った女である。日常の日本語は勿もち論ろん不自由なく、漢文も少しは読める。﹃説せつ文もん﹄で字を引く事などは現代日本の学生の及ばぬところかも知れない。 丁度食事の頃だったので、マダムは昼ひる餉げのテーブルに鶴子を案内して、亡夫の遺著を編へん輯しゅうするについて、第一に社寺または古器物の写真の不足しているのを補うためにこれを買集める事、第二には仏蘭西の本邸に儲たくわえてある東洋の書しょ画がさ載いせ籍きの整理を依嘱するため適当な日本人をさがして本国へ同行したいという事を語った。 鶴子はどの位学識があればよいのかと問うと、別に専門の学者を望んでいるのではない。譬たとえば和歌と端はう唄たとの区別を知っている位の程度でよいのであるが、学問よりもむしろ日本固有の趣味と鑑識とを具備した人で、かたがた幾分なりと仏蘭西語を知っていれば申分はないのだという。マダムはなお言葉をつづけて、 ﹁半年ぐらいで仕事はすみます。あなたがお一人で遊んでおいででしたら、是非ともお頼みするのですけれど、今ではそんなわけには行きませんから、誰か御存じの方をさがしていただかなければなりません。﹂ この言葉を聞くと共に、鶴子は食卓を押出さんばかり、殆ほとんど我を忘れて半身を突き出し、﹁わたくし、半年や一年ぐらいなら……わたくしのようなものでもお役に立ちますのなら、どんな都合をしても御一緒に参りたいと存じます。﹂ ﹁あなた。おいでになれますか。﹂とマダムも驚きと喜びとにその目を見張った。 ﹁一度はどうかして洋行して見たいと思っておりましたから。﹂と鶴子は一時に湧わき起おこる感情を見せまいとして努めて声を沈ませた。 鶴子は今朝マダム、シュールの手紙を受取り、このホテルに来て食卓の椅子につく時まで、自分の生涯にかくの如き大変動が起ろうとは夢にだも思っていなかった。運命ほど測りがたいものはない。鶴子はマダム、シュールの談はなしをきいている中、突然何物かに誘惑せられたように、唯ふらふらと遠いところへ往きたくなったのである。往った先の事はよかれあしかれ、鶴子は今住む家の門を出る事が自分の生涯をつくり直す手ては始じめだと日頃から心づいてはいたものの、きょうが日までこれを決行する機会がなかった。一時は深く絶望して何事も皆自分が為なした過あやまちの報いとのみ思いあきらめ、一日も早く年をとって、半生の悔いと悲しみとを茶のみばなしにする日の来る事を待つより外はないと思っていたが、今突然意外な機会が目の前に現われて来たのを見ては、とかくの思慮を費ついやす暇もない。日頃因循していただけ、障しょ碍うがいが起ったなら、極力これを排斥して思うところを決行しようという元気さえ出て来たような心持になった。 食事の後廊下の長椅子に並んで腰をかけ珈コー琲ヒーを啜すすりながら、懇談することまた一時間ばかり。鶴子はホテルを出て梅つゆ雨ば晴れの俄に蒸暑くなった日盛りをもいとわず、日ひ比び谷やの四辻から自動車を倩やとって世田ヶ谷に往き良人の老父をたずねて、洋行のはなしをすると、老父はかつて大学教授のころ両三度シュール博士に面談した事があるといって、﹁あっちへ行ってから書物の事で何かわからない事があったら遠慮なく手紙で問合せるがよい。﹂というような次第であった。鶴子はいよいよ門出の幸さちあるを喜び、夏の夕ゆう陽ひのまだ照り輝いている中、急いで家へ帰り良おっ人との承諾を求めようと思うと、良人は既に外出した後で、その夜十二時近くなってからいつものように今夜は晩おそくなるから先へ寝てくれるようにとの事であった。仕様がないので、鶴子はその夜は先に寝て、翌朝は良人の起るまで待っているわけにも行かないところから、マダム、シュールから依頼された用事のある事だけを一筆認したためて、再びホテルへ出かけた。マダムは次の日に京都へ往き奈良に遊び、二、三日長崎に滞在して神戸に立戻って便船を待つつもりであるから、その日までに仕度をしてその地のホテルへ来てくれるようにと、日割を明細に書いて見せてくれた。そして鶴子が旅行免状の事は至急運びがつくように大使館から直接その筋の役所へ交渉してもらう手ては筈ずだという事であった。 鶴子が良人に逢あって始めて洋行の事を打明けたのは次の夜も世間は既に寝ねし静ずまった頃であった。進はどこかで飲んで来た酒の酔も一時に醒さめるほど驚いたらしいのを、わざとさり気げなく、 ﹁そうか。それは結構だ。行って来るがいい。﹂ ﹁半年という約束で御ござ在いますけれど、都合でもっと早く帰りたいと思っております。﹂ ﹁別に急いで帰るにも及ばない。二度出掛けるのも大変だから、ゆっくり勉強したり見物したりして来る方がいい。﹂ 二人のはなしはそれなり途切れてしまった。進は鶴子が洋行する胸中を推察して今更引留めても既におそいと思ったので、未練らしい様子を見せて、﹁それ御覧なさい。その位なら平素からもう少し大事にしてくれればよいのに。﹂と思われるのが無念である。そうかといって、﹁お前のいなくなるのを待っていたのだ。﹂と思わせるほど冷静な態度を取るのも、かえって腹の底を見すかされるような気がする。いずれともつかぬ曖あい昧まいな態度を取るに若しくはない。とそう考えたのは、鶴子の身になってもやはり同じことであった。あまり名残を惜しむような様子を見せて、無理に引留められても困るし、といって、あまり冷淡にして、それがため軽薄無情な女だと思込まれるのは元より好むところでない。夫婦は互たがいに顔色を窺うかがい、できるかぎり真実の事情には触れないようにして、平和に体ていよくこの場をすませてしまいたいと心掛けたのである。 一週間ばかりの後、鶴子は夕方神戸急行の列車に乗った。始め進の友人間には送別会を催すようなはなしが起らないでもなかったが、鶴子は実家へ対して新聞などに自分の名の出るような事はなるべく避けたいからといって固く辞退したので、その夕東京駅まで見送りに行ったものは、良人の進と門生の村岡と、書生の野口という男の外には、鶴子の学友でいずれも相応のところへ嫁しているらしい婦人二、三人だけであった。実兄は窃ひそかに旅費を贈ってもいいといったほど好意を持っていたが、世間を憚はばかって見送りに行かず、世田ヶ谷の老人もまた頽たい齢れいをいいわけにして出て来なかった。 列車が出発すると、進を始め男二人と婦人たちとは自然別々になってプラットフォームを降口の方へと歩みはじめたが、村岡一人はいつまでも帽子を片手に列車の行ゆく衛えを見送ったまま立っている。進は見返りながら、 ﹁おい。村岡。何をぼんやりしているのだ。﹂ ﹁実にさびしい出発でしたな。﹂と村岡は既に人影のなくなったプラットフォームを見廻しながら初めて歩み出した。 ﹁彼あの女の生活もこれで第一篇の終を告げたのだ。﹂と進は吸いかけの巻煙草を線路の方へ投捨てた。 ﹁でも、半年たてばお帰りになるんでしょう。﹂ ﹁いずれ帰るだろう。しかし恐らく僕の家へは帰って来ないだろう。﹂ ﹁先生。僕も実はそういう気がしたんです。一種の暗示ですね。﹂ ﹁おい。村岡。君はどうして彼女のツバメにならなかったんだ。おれには能よくわかっていた。彼女は君のような感傷的な比較的純情な青年を要求していたんだぜ。﹂ 村岡はまだ三十にはならない青年なので、顔を真赤にして、﹁先生。そんな冗談を。うそですよ。そんな事は。﹂ ﹁ははははは。帰って来てからでも遅くはあるまい。﹂と進は始めて面白そうに笑った。 改札口へ来かかると俄に混雑する人の往ゆき来きに、談はな話しもそのまま、三人は停てい車しゃ場ばの外へ出た。吹きすさむ梅雨晴の夜風は肌寒いほど冷ひややかである。 ﹁おい。野口。まだ早いから活動でも見て帰るがいい。ここに招待券があるから。﹂と進は書生を遠ざけてから、村岡と連立って丸ビル下の往おう来らいをぶらぶら当てもなく歩いて行く。村岡は突然思出したように、 ﹁先生。ドンフワンはあれッきりなんですか。﹂ ﹁うむ。すこし考えていることもあるから。﹂ ﹁どんな事です。﹂ ﹁さア、別にまだはっきりした考もないんだがね。しかし君にはもう心配させないつもりだから、それだけは安心していたまえ。君はあんまり善人過すぎるから。﹂ ﹁そうでしょうか。﹂ ﹁どうかすると、まるで田舎の老人見たような事を言うからな。﹂ ﹁それでも、僕には君江さんはそんなに憎むべき女だとは思われないんですよ。﹂ ﹁君は傍観者だからさ。僕だってそれほど深く憎んでいるわけでもない。唯癪しゃくにさわるんだ。復ふく讐しゅうだとか報復だとかいうほど深い意味じゃない。唯すこしいじめてやろうと思っているんだ。僕の考えている事をはなしたら、君はきっと残酷だとか人道にはずれているとか言うにちがいない。﹂ ﹁どんな事です。﹂ ﹁君を信用しないわけではないが、今話をするわけには行かない。﹂ ﹁警察へ密告でもするというんですか。﹂ ﹁ばかな。そんな事をしたって、あいつは何とも思やしない。拘留された所で二、三日たてば出て来る。女給でなくってもあいつのする事はまだ沢山ある。僕はあいつが何なんにもする事ができなくなるようにしてやりたいと思っているんだ。それもおれが自身に手を下さずに、自然に他の人が手を下すような、そういう機会をつくらせようと思っている。はははは。これは僕の空想だよ。イヤ、僕はこういう男の心理状態を小説にして見たいとこの間から苦心しているんだ。たしかバルザックの小説にあったはなしだと思う。欺あざむかれた男が密みっ夫ぷの隠れた戸棚を密閉して壁を塗って、その前で姦かん婦ぷと酒を飲むはなしがある。僕の空想したのは、……僕の書こうと思っているのは、女を裸体にして自動車から銀座通のような町の上に投ほうり出してやりたい。日ひ比び谷や公園の木の上に縛りつけて置くのも面白い。昔は不義の男女を罰するために日にほ本んば橋しの袂たもとに晒さらし者にして置いた。それと同じような事さ。どうだろう。今の読者には受けないか知ら。﹂ 村岡は進が真実小説の腹案を語るのやら、または戯たわむれに自分をからかうのやら、あるいはまた小説に托して君江に対する報復の手段をそれとなく語るのやら、その区別がつかない。唯何となく薄気味がわるく、総毛立つような気がするばかり。やっと気を取直して、 ﹁いいでしょう。甘ったるい場面にはもう飽あきている時ですから。﹂ ﹁女が恋人と寝ている処へ放火するのも面白いだろう。乱れた姿で外へ逃げ出すところを、火事場騒ぎにまぎれて女をつかまえ、どこか知らない処へつれて行って思うさま侮辱を与える……。﹂ ﹁なるほど……。﹂ ﹁まだ考えている事がある……。﹂ ﹁先生。もう止よしてください。何だか変な心持になるから、もう止してください。﹂ ﹁暴あら風しになりそうだな。今夜は。﹂ 空は真まっ暗くらに曇って、今にも雨が降って来そうに思われながら、烈風に吹きちぎられた乱雲の間から星影が見えてはまた隠れてしまう。路傍の新樹は風にもまれ、軟やわらかなその若葉は吹き裂さかれて路みちの面おもてに散乱している。唯さえ夜になれば人通りの絶がちな丸の内の道路は、この風とこの闇やみとに一ひと際きわ物寂しく、屹きつ立りつする建物の間の小路から突然追おい剥はぎでも出て来はせぬかと思われるような気がする。 ﹁帝劇の女優が楽屋から帰り道に、車から引ずりおろされて脚を斬きられたことがあった。犯人はわからずじまいだ。﹂ ﹁そうですか。そんな事があったんですか。﹂ ﹁寝ている中に黴ばい菌きんをなすりつけられて盲目になった芸者もある。君江のような女は最後にはきっとそういう目に遇あうだろう……。﹂ 突然進がアッと叫んだので、村岡はびっくりして寄添うと、横合から吹つける風に、進は高価なパナマ帽子を奪い去られたのであった。 知らず知らず日にち々にち新聞社の近くまで歩いて来たので、二人はやや疲れたままその辺の小さなカッフェーに小こや憩すみして、進はウイスキー村岡はビール一杯を傾け、足の向くまま銀座通へ出た。村岡は別れて帰ろうとするのを清岡は無理に引留め、今夜は顔を見知られていない裏通のカッフェーを観察しようと言出して、つづけざまに五、六軒飲みあるいた。どの店へ入っても四、五盃はいずつウイスキーばかり飲みつづけるので、いつも強酒の清岡も今夜は足元が大分危くなった。それにもかまわずまたしても通りすがりのカッフェーへ這は入いろうとするので、村岡は清岡が羽織の袖そでを捉とらえながら、 ﹁先生。もう止しましょう。カッフェーよりか、どこか外の処へつれて行って下さい。僕はもうくたびれてしまいました。﹂ ﹁一体何時だ。﹂ ﹁もう十二時です。﹂ ﹁もうそんな時間か。﹂ ﹁だから、もうカッフェーはつまりません。﹂と村岡はとにかく酔って清岡がこの辺を徘はい徊かいしている事を危険に思い、それよりもどこぞの待合へでも上った方がまだしも安全だと考えて、﹁先生。もっとゆっくりした処で静に飲み直しましょうよ。﹂ ﹁うむ。君もなかなか話せるようになった。何ど処こでもいい。好きなところへ連れて行け。﹂ ﹁じゃ、先生、車に乗りましょう。﹂と村岡は早速清岡の袖を引張って、土どば橋しへ通ずる西銀座の新道路へ出ようとした。 ﹁待て待て。﹂と清岡は真暗な建物の壁に向って立小便をしはじめたので、村岡は少し離れて曲まが角りかどに立留った時、女給らしい女が三人つれ立って、摺すれちがいに通りかかったのをふと見ると、その中の一人はドンフワンの君江である。君江の方でも村岡の顔を見て、アラとかオヤとか言ったらしかったが、その声はまだ吹きやまぬ烈風に吹き去られて聞えなかった。村岡は咄とっ嗟さの間に、先さっ刻き丸の内を歩きながら清岡が言った事を思出し、何とも知れぬ恐怖を感じて、首と手を振って早く行けと知らせた。いつになく乱酔した清岡が、人ひと通どおりのないこの裏通の角で突然君江の姿を見たら、何をしだすか知れない。新聞紙を賑にぎわすような騒ぎを引起しては大変だと心配したのである。 君江は村岡の心を察したのか、どうか分らぬが、そのまま通り過ぎて、三人連づれで向側の蕎そ麦ば屋やへ這は入いりかけた時、丁度長小便をし終った清岡はひょろひょろと歩み出で、向むこうを眺めながら、﹁どこの女給だ。おれが行っておごってやろう。﹂ 村岡は驚いて袖にすがり、﹁およしなさい。変な男がついているようです。﹂ ﹁かまうものか。おごってやるんだ。﹂ ﹁先生。およしなさい。﹂と村岡は力のかぎり抱き留めながら、通り過すぎる円タクを呼留めた。この騒ぎに気がつかずにいたが、風に交っていつの間にやら霧雨が降り出していたと見え、村岡は車に乗ってから窓の硝ガラ子スの濡ぬれているのに心づいた。 * * * * 蕎麦屋を出てから自動車に乗ったのは瑠璃子、春代、君江の三人であった。瑠璃子が赤阪一ひとツ木ぎで先に降り、次に春代が四よつ谷や左さも門んち町ょうで降りると、運転手は予あらかじめ行先を教えられているので、塩しお町ちょうの電車通から曲って津つの守かみ阪ざかを降りかけた。小雨のふり出した深夜のことで人通はない。君江は酔っているので、一人になると急に眠くなって覚えず瞼まぶたを合せたかと思うと、突然君子さんと呼ぶ男の声。びっくりして気がつくと自分を呼んだのは見も知らぬ運転手である。いやな奴やつだと思いながら、大方女給同士の話から聞知って冗談を言うのだろうと、気にも留めず、﹁もう本ほん村むら町ちょうなの。﹂ 運転手はゆるゆる車を進めながら、﹁初めから君子さんにちがいないと思っていたんですよ。忘れましたか。諏すわ訪ちょ町うの加藤さんで二、三度お逢あいしました。﹂と鳥とり打うち帽ぼうをとり振返って顔を見せた。 諏訪町の加藤というのは今富士見町に出ている京葉の事なので、君江はそこで知っているというからには二度や三度出たお客にちがいないと思いながら、その顔はとうに忘れ果てて思い出せない。日頃君江はカッフェーの人ひと中なかで、もしその時分のお客と顔を見合せた場合、自分の取るべき態度については予め考えていないことはなかった。しかし東京はさすがに広いもので、半年近くも稼ぎ廻っていたにもかかわらず、銀座のカッフェーへ出てから今日まで一人もその時分のお客には出逢わなかったので、月日と共に一時の用心もおのずから忽ゆるがせになった時、今夜突然、自分の乗っている車の運転手から呼び掛けられ、君江はさすがにびっくりはしたものの、知らぬ顔で押通すに若しくはないと思定め、 ﹁人ちがいでしょう。知らないわ。わたし。﹂ ﹁君子さんの方じゃ、お忘れになるのも無理はありませんよ。円タクの運転手にまでなり下ってる始末だから。しかし君子さん女給になったからって、何もそうお高くとまるには及ばないでしょう。女給も高等も内実においては変りはないんでしょう。﹂ ﹁下おろしてよ。ここでいいから。﹂ ﹁雨が降っています。お宅まで是非送らせて下さいな。﹂ ﹁いいのよ。迷惑よ。﹂ ﹁君子さん。あの時分は十円だったね。﹂ ﹁下せっていうのに、何故下さないんだよ。男が怖くって夜道が歩けるかい。馬鹿ッ。﹂ 君江の威勢に運転手は暴力を出しても駄目だと思ったのか、そのままおとなしく車を駐とめると、折からざっと吹ッ掛けて来た驟しゅ雨ううに傘の用意のないのを、さも好いい気味だといわぬばかり。手を伸のばして内から戸を明け、 ﹁ここでいいなら。お下りなさい。﹂ ﹁一円ここへ置きますよ。﹂と君江は五拾銭銀貨二枚を腰掛の上に投出して、戸口から降りようとするその片脚が、地につくかつかぬ瞬間を窺うかがい、運転手は突然急速力で車を進めたので、君江はアッと一声。でんぐり返しを打って雨の中に投げ出された。 ﹁ざまア見ろ。淫いん売ばいめ。﹂と冷れい罵ばした運転手の声も驟雨の音に打消され、車は忽たちまち行ゆく衛えをくらましてしまった。 君江は気がついて泥どろの中に起直って、あたりを見ると、投出された場所は津の守阪下から阪町下の巡査派出所へ来る間の真暗な道だと思いの外、まるで方角のわからない屋敷町の塀へい外そとであった。自動車も通らなければ無論人影もない。足を曳ひき摺ずりながら、石の門柱についている灯あかりの下に歩み寄り、塀外へ枝を伸した椎しいの葉かげをせめての雨やどりに、君江はまず泥と雨とに濡ぬれくずれた髪の毛を束ね直そうと、額を撫なでながらその手を見ると、べったり血がついている。君江は顔の血に心づくと俄にわかに胸がどきどき鳴出して、髪や着物にかまっている気力は失せ、声を出して救いを呼ぼうとしたのをわずかに我慢して、唯ただ一心に医者か薬屋かを目当に雨の中を馳かけ出した。九
市いちヶ谷や合かっ羽ぱざ阪かを上った薬やく王おう寺じま前えち町ょうの通に開業している医者が、応急の手当をしてくれた上に、自動車まで頼んでくれたので、君江は雨の夜もいつか明あかるくなりかけた頃、本ほん村むら町ちょうの貸間へ帰って来た。顔と手足との疵きずはさほどの事もなかったが、長い間着のみ着のままぐっすり雨に濡ぬれていたので、夜明から体温は次第に昇って摂せっ氏し四十度を越え、夕方になっても一向下りそうもない容態に、医者は窒チ扶ブ斯スか、肺炎でも起さなければよいがと、貸間の老婆にも注意して行ったが、幸さいわいにしてそれほどの事もなく、三日目には入院の沙さ汰たも止み、一週間目には布ふと団んの上に起き直ってもいいようになった。
君江は事実を知らせると、大勢見舞いに来るのが煩うるさいのみならず、強ごう姦かんの噂うわさが立たないとも限らないと思って、カッフェーへは唯ただ風か邪ぜをひいたことにして置いたのである。八日目の午後になって、春代が初めて見舞に来たが、その時には額の繃ほう帯たいは既に除かれていたので、疵の痕あとはその晩路ろ地じで転んだことにいいまぎらしてしまった。次の日には瑠璃子が来たが、これも風邪の重いのに罹かかったのだとばかり思い込んで帰った。体温は既に平生に復し食慾もついて来たが、腰や手足の打うち身みはまだ直らず、梯はし子ごだ段んの上り下りにもどうかすると痛みを覚えるくらいである。間貸の婆ばばは市ヶ谷見みつ附け内の何とやらいう薬やく湯とうがいいというので、君江はその日の暮方始めて教えられた風ふ呂ろ屋やへ行き、翌日はとにかく少し無理をしても髪を結ゆおうと思いさだめた。
湯から帰って来ると、郵便が届いている。状袋には署名がないが、読んで行く中に清岡の門人村岡の手紙である事がわかった。
﹁私は直接あなたに手紙を上げていいかどうかを一度考えた後にこの手紙を書きました。何な故ぜなれば、先生がこれを知ったなら、先生と私との今までの関係は必かならず断滅するだろうと思ったからです。私はしかしながらあなたが十分に秘密を守って下さるだけの好意を私のために持っていられる事を信じて、そして私はこの手紙をかきました。あなたは御存じかどうか知りませんが、先生の令夫人は突然先月の末に或ある外国の婦人と一緒に日本を去られました。先生はこの別離については何らの感激をも催さないように粧よそおっておられますが、しかし現われたる事実が凡すべてを打消しています。その後十日ばかりの間における先生の生活は飲酒と放ほう蕩とうとのために俄にわかにすさんで行きかけています。この場合、現在とそして将来における先生の生涯を慰める力のあるものは、君江さん、あなたの愛より外にはないものと私は信じています。尤もっとも先生はあなたの名をさえ今では私たちの前では発音することを避けていられます。避けていられるだけ、それだけ、私は先生の心の底にあなたの事がまだ真実消きえ去さらずにいるものと推察するのです。先生は令夫人を失った原因をあるいはあなた一人の上に塗りつけようとしているのではないかと疑われることがある位です。私は去年からの凡ての秘密をあなたに打明けなければなりません。私はあなたに向って、先生の心の底に去年から絶えず蠢うごめいている報復の企くわだてをお知らせする事を敢あえてするのは、あなたと先生との間を遠くさせるためではなくて、かえって先生がかくの如き残忍性を感じたほど、いかにあなたを愛しつつあるかを、私はあなたに向ってお知らせしたい誠実さからなのです。先生は二、三日中に丸円発行所主催の文芸講演会で講演をされるため仙台から青森の方面へ旅行されます。今年の夏はどこか東北の温泉場で避暑するといわれるので、私もこれを機会に、久しく郷里の地を踏みませんから、先生をお見送りしてから暫しばらく東京を去るつもりでいます。その前に一度お逢あいしたいと思って、実は昨日一人でドンフワンへ行って見ました。そしてあなたが御病気で寝ておいでだという事を聞いたのです。私はむしろあなたがこの数日間病気のために外出されなかった事を祝福しなければなりますまい。私は唯それだけを言うに止めて置きます。その理由を明言する事を躊ちゅ躇うちょしていると言ったら、あなたは直ただちに凡てをお察しなさるだろうと思います。それでは、今年の秋風が丈の高くなったコスモスの茎をゆり動うごかす頃まで、私は田舎に行っていましょう。夜の涼しさに銀座の賑にぎわいが復活する時分、またお目にかかるのを楽しみにしていましょう。七月四日。﹂
君江は手紙の日附を見て、初めて七月になったのに心づいたような気がした。それと共に、わずか十日とはたたぬ先夜の事がもう一月も二月も前のような気がして、それ以来長らく枕まくらについていたような心持もした。とにかく一年あまり毎日通かよ馴いなれたカッフェーへ行かない事だけでも、境遇が一変してしまったような心持がするのに、時節も丁度その日入梅があけて、空はからりと晴れ昼の中うちは涼風が吹き通っていたが夕方からぱったり歇やみ、坐すわっていても油汗が出るような蒸暑い夜になった。小家の建込んだ路地裏は昨日までの梅雨中の静けさとは変って、人の話声やら内職のミシンの響などが俄に騒々しく聞え始め、路地の外の裏通にもラジオを始め、何という事なくいろいろな物音がしている。君江はおばさんに呼ばれて下へ行き夕飯をすますと、洗あら髪いがみのまま薄化粧もそこそこに路地を出た。家にいると毎晩のようにおばさんに話し込まれるのがうるさいのみならず、俄に真夏らしくなったあたりの様子に、唯何ともつかず散歩したくなったからである。出でしなに鏡台の曳ひき出だしから蟇がま口ぐちを取出す時、村岡の手紙が目に触れたまま一緒に帯の間に挿さし込こんだ。半分から先は夕飯に呼ばれたのと夜になりかけた窓の薄暗さに拾い読みをしたばかりなので、君江はぶらぶら堀ほり端ばたを歩みながら、どこか静な土どて手ぎ際わで電燈の光の明あかるい処でもあったらもう一度読み直そうという気もしたのである。しかし電車と自動車の往復する堀端は、新しん見みつ附けの土手へ来るまでは手紙を読返す事のできるような処もなかった。行手に牛うし込ごめ見附の貸ボートの灯ひが見え、二、三人女学生風の女が見附の柵さくに腰をかけて涼んでいたので、君江は蔦つたの葉つなぎの浴ゆか衣たのさして目にたたぬを好い事に、少し離れた処に佇たた立ずんで、束ねた洗髪を風に吹かせながら、街燈の光に手紙を開いて見た。君江には手紙の文体が学生の艶えん書しょと同じように気き障ざにも思われるし、また翻訳小説でも読むようにまわりくどくて、どうやら気味のわるい気はしながらも、事実と文飾との境がはっきりしないのである。君江は手紙の意味を手てみ短じかに言ってしまえば、清岡先生はわたしを二号同様にしていたために奥さんに逃げられたのだから、そのつもりでどうかしなければいけない。このまま知らない顔をしていれば、清岡先生はやけ半分、何か仕返しをしないとも限るまい。どうか、そういう事のないように気をつけてくれというような事になると考えた。そして随分訳わけのわからない無理な事を言う人だと腹立しい心持になった。
君江は暫しばらくしてこの手紙は村岡の心から出たものではなく、内々清岡さんに言われて書いたものではないかと、気がついて見ると、あの晩西銀座の蕎そ麦ば屋やへ這は入いりがけ、意外な処で村岡に出で逢あった時の様子から思合せて、自分が車から突落されたのも、事によると清岡さんの教きょ唆うさから起った事かも知れない。君江は突然襟首に寒さを覚えるような恐怖と共に、ナニ、先が先ならこっちもこっちで負けているものか。どうでも勝手にするがいいというような心持になった。
あまりいつまでも同じところに立ってもいられないので、君江は考え考え見附を越えると、公園になっている四番町の土手際に出たまま、電燈の下のベンチを見付けて腰をかけた。いつもその辺の夜学校から出て来て通り過すぎる女にからかう学生もいないのは、大おお方かた日曜日か何かの故であろう。金網の垣を張った土手の真下と、水を隔てた堀端の道とには電車が絶えず往復しているが、その響の途絶える折々、暗い水面から貸ボートの静な櫂かいの音に雑まじって若い女の声が聞える。君江は毎年夏になって、貸ボートが夜ごとに賑にぎやかになるのを見ると、いつもきまって、京子の囲われていた小こい石しか川わの家へ同居した当時の事を憶おもい出す。京子と二人で、岸の灯あかりのとどかない水の真中までボートを漕こぎ出し、男ばかり乗っているボートにわざと突当って、それを手がかりに誘惑して見た事も幾度だか知れなかった。それから今日まで三、四年の間、誰にも語ることのできない淫いん恣しな生涯の種々様々なる活劇は、丁度現在目の前に横よこたわっている飯いい田だば橋しから市ヶ谷見附に至る堀端一帯の眺望をいつもその背景にして進展していた。と思うと、何というわけもなくこの芝居の序幕も、どうやら自然と終りに近づいて来たような気がして来る……。
火ひと取りむ虫しが礫つぶてのように顔を掠かすめて飛去ったのに驚かされて、空想から覚めると、君江は牛込から小石川へかけて眼前に見渡す眺望が急に何というわけもなく懐しくなった。いつ見みお納さめになっても名残惜しい気がしないように、そして永く記憶から消きえ失うせないように、能よく見覚えて置きたいような心持になり、ベンチから立上って金網を張った垣際へ進すす寄みよろうとした。その時、影のようにふらふらと樹こか蔭げから現れ出た男に危あやうく突き当ろうとして、互に身を避けながらふと顔を見合せ、
﹁や、君子さん。﹂
﹁おじさん。どうなすって。﹂と二人ともびっくりしてそのまま立止った。おじさんというのは牛込芸者の京子を身受して牛うし天てん神じん下したに囲かこっていた旦だん那なの事である。君江は親の家を去って京子の許に身を寄せた時分、絶えず遊びに来る芸者たちがおじさんおじさんというのをまねて、同じようにおじさんと呼んでいた。本名は川島金之助といって或ある会社の株式係をしていたが遣つかい込みの悪事が露あらわれて懲役に行ったのである。その時分は結ゆう城きずくめの凝こった身なりに芸人らしく見えた事もあったのが、今は帽子もかぶらず、洗ざらした手てぬ拭ぐい地じの浴ゆか衣たに兵へこ児お帯びをしめ素足に安下駄をはいた様子。どうやら出獄してまだ間がないらしいようにも思われた。
川島は手拭浴衣の襟を寒そうに引合せ、﹁このざまじゃア、どうもこうもあったものじゃない。むかしはむかし今は今だ。﹂と取って付けたように笑いながらも、絶えずそれとなく四あた辺りに気を配っているらしく、何とつかずそわそわしている。年はその時分既に四十五、六になっていたが、白髪もさして目につかず、中肉中ちゅ丈うぜいの後うし姿ろすがたは、若い妾めかけとつれ立って散歩に出かける時などは、随分様子のいい血気盛の男に見まがうほどであったが、今見れば、妙に黄ばんだ顔一面、えぐったような深い皺しわができ、蓬ほう々ほうとした髪の毛の白くなったさまは灰か砂でも浴びたように爺じじむさく、以前ぱっちりしていただけ、落おち窪くぼんだ眼は薄気味のわるいほどぎょろりとして、何か物でも見詰めるように輝いている。
﹁その時分はいろいろ御お世せ話わになりまして。﹂と君江は挨あい拶さつにこまって、思出したように礼を述べた。
﹁やっぱりこの辺にいるのかい。﹂
﹁市ヶ谷の本村町におります。﹂
﹁そう。じゃ、またその中、どこかで逢あうだろう。﹂とそのまま行きかけるので、君江は住処だけでも聞いて置きたいと思って、二ふた歩あし三みあ歩し一緒に歩きながら、
﹁おじさん。京子さんにお逢いになって。わたしその後はしばらく逢いません。﹂と鎌を掛けて見た。
﹁そうか。富士見町に出ているそうじゃないか。噂うわさはきいているけれど、このざまじゃア行ったところで、寄せつけまいから、いっそ逢わない方がいい。﹂
﹁あら、そんな事はありませんわ。逢ってお上げなさいましよ。﹂
﹁君子さんの方はその後どうしているんだね。定めし好きな人ができて一緒に暮しているんだろう。﹂
﹁いいえ。おじさん。相変らずなのよ。とうとう女給になってしまったのよ。病気でこの一週間ばかり休んでいますけれど。﹂
﹁そうか。女給さんか。﹂
話しながら歩いて行く中うち、川島は木こか蔭げのベンチには若い男女の寄添っている他ほかには、人通りといっても大抵それと同じような学生らしいものばかりなので、いくらか安心したらしく、自分から先に有合うベンチに腰をおろし、﹁いろいろききたい事もあるんだ。君子さんの顔を見ると、やっぱりいろいろな事を思出すよ。むかしの事はさっぱり忘れてしまうつもりでいたんだが……。﹂
﹁おじさん。わたしも今から考えて見ると、諏訪町で御厄介になっていた時分が一番面白かったんですわ。さっきも一人でそんな事を考出して、ぼんやりしていましたの。今夜はほんとに不思議な晩だわ。あの時分の事を思い出して、ぼんやり小石川の方を眺めている最中、おじさんに逢うなんて、ほんとに不思議だわ。﹂
﹁なるほど小石川の方がよく見えるな。﹂と川島も堀外の眺望に心づいて同じように向を眺め、﹁あすこの、明あかるいところが神かぐ楽らざ阪かだな。そうすると、あすこが安あん藤どう阪ざかで、樹きの茂ったところが牛天神になるわけだな。おれもあの時分には随分したい放題な真ま似ねをしたもんだな。しかし人間一生涯の中に一度でも面白いと思う事があればそれで生れたかいがあるんだ。時節が来たら諦あきらめをつけなくっちゃいけない。﹂
﹁ほんとうね。だから、わたしも実は田舎の家へ帰ろうかと思っていますの。女給をしていても、それは別にかまわないんですけれど、つまらない事から悪く思われたり恨まれたりするのがいやですし、それにいつどんな目に遇あわされるか知れないと思うと、何となくおそろしい気がしますから……。おじさん、わたし十日ばかり前に自動車からつき落されて怪我をしたんですよ。まだ、痕あとがついているでしょう。ね。それから腕にも痕が残っています。﹂と浴衣の袖そでをまくり上げて見せた。
﹁かわいそうに。ひどい目に逢ったな。恋の意いこ恨んか。﹂
﹁おじさん。男っていうものは女よりもよほど執念深いものね。わたし今度始めてそう思いましたわ。﹂
﹁思込むと、男でも女でも同じ事さ。﹂
﹁じゃ、おじさんもそんな事を考えた事があって。先せんに遊んでいる時分……。﹂
突然土手の下から汽車の響と共に石炭の烟けむりが向の見えないほど舞上って来るのに、君江は川島の返事を聞く間もなく袂たもとに顔を蔽おおいながら立上った。川島もつづいて立上り、
﹁そろそろ出掛けよう。差さし閊つかえがなければ番地だけでも教えて置いてもらおうかね。﹂
﹁市ヶ谷本村町丸◯番地、亀崎ちか方ですわ。いつでも正おひ午る時分、一時頃までなら家にいます。おじさんは今どちら。﹂
﹁おれか、おれはまア……その中きまったら知らせよう。﹂
公園の小こみ径ちは一ひと筋すじしかないので、すぐさま新見附へ出て知らず知らず堀端の電車通へ来た。君江は市ヶ谷までは停留場一ツの道みち程のりなので、川島が電車に乗るのを見送ってから、ぶらぶら歩いて帰ろうとそのまま停留場に立留っていると、川島はどっちの方角へ行こうとするのやら、二、三度電車が停とまっても一向乗ろうとする様子もない。話も途絶えたまま、またもや並んで歩むともなく歩みを運ぶと、一ひと歩あし一ひと歩あし市ヶ谷見附が近くなって来る。
﹁おじさん。もうすぐそこだから、ちょっと寄っていらっしゃいよ。﹂と言った。君江はもし田舎へでも帰るようになれば、いつまた逢うかわからない人だと思うので、何となく心淋さびしい気もするし、またあの時分いろいろ世話になった返礼に、出来ることならむかしの話でもして慰めて上げたいような気もしたのである。
﹁さしつかえは無いのか。﹂
﹁いやなおじさんねえ。大丈夫よ。﹂
﹁間借をしているんだろう。﹂
﹁ええ。わたし一人きり二階を借りているんですの。下のおばさんも一人きりですから、誰にも遠慮は入りません。﹂
﹁それじゃちょっとお邪魔をして行こうかね。﹂
﹁ええ。寄っていらっしゃいよ。おばさんは誰か男の人が来ると、何でもない人でも、いやに気をきかして、すぐ外へ行ってしまうんですよ。あんまり気が早いんで気まりのわるい事がある位ですわ。﹂
君江は堀端から横町へ曲る時、折好く酒屋の若いものが路みち端ばたに涼んでいたのを見て、麦ビー酒ル三本と蟹かにの鑵詰とをいい付け、﹁おばさん。唯今。﹂といいながら川島を二階へ案内した。留守の中うち老婆が掃除をしたと見え、鏡台の鏡にも友ゆう褝ぜんの片きれが掛けられ、六畳の間まにはもう夜具が敷きのべてあった。川島は障子際に突立ったまま内の様子を見てびっくりしたように目ばかり光らせているので、君江は何の事とも察しがつかず、﹁おばさんはまだ病気だと思っているのよ。今片づけますわ。﹂と押入の襖ふすまをあけて枕まくらをしまいかける。
川島は始めて我に返ったらしく狼うろ狽たえた調子で、﹁君子さん。かまわずに置いてくれ。お客様にされちゃアかえってこまる。﹂
﹁じゃ、このままにして置きましょう。御厄介になっている時分、着物一つ畳んだ事がないって能よくお京さんに言われましたわね。だらしがないのはその時分から、おじさんも御承知なんですから。﹂と鏡台の前にあったメリンスの座ざぶ布と団んを裏返しにして薦すすめた。
おばさんが麦酒と蟹の鑵詰に漬つけ物ものを添えて黙って梯はし子ごだ段んの上の板の間に置いて行く。その物音に君江は立って座敷へ持運び、﹁おじさん。お肴さかななら何でも御馳走しますわ。表の家が肴屋ですから窓から呼べば何でも持って来ます。﹂
川島は君江のついだビールを一息にコップ一杯飲干したまま、何ともいわず、明あけ放はなした窓から見える外の方へ気をくばっている様子に、君江は一度懲役に行くとこうまで世間へ気をかねるようになるものかと、気がついて見ればいよいよ気の毒になって、
﹁わたし、今日起きたせいだか、暑いくせに何だか風が寒いような気がするのよ。﹂とその実蒸暑くてならないのに、窓の障子を半ばしめてしまった。
川島は二杯目のビールに忽たちまち目の縁ふちを赤くして、﹁世の中は何といってもやっぱり酒と女だな。おれももう一度奮発して働いて見ようかと思うんだが、ひびたけの入った身体じゃどうする事もできない。君子さんなんかはこれからだ。これから先ほんとうに世の中の味がわかって来るんだよ。田舎へ帰るなんて、先さっ刻きそう言っていたけれど、半月といられるものか。おれ見たようになっても、赤い布団を見たり、一杯飲んでぽうッとすると、やっぱりむらむらとして来るからな。﹂
﹁おじさん。もうすっかり堅くなっておしまいなのね。﹂
君江は川島が出獄して後現在どうしているのかきいて見たいと思いながら、あけすけには問いかねて遠廻しにこう言って見たのである。川島は大分好い心持になったと見え、調子もいくらか元気づいて、﹁無い袖そでは振れないから一番いいのさ。娑しゃ婆ばへ出てから、乞こじ食きも同然、お酒どころか飯も食えない事があったよ。倅せがれが丈夫でいたらどうにか力になるんだがね。おれがあっちへ行っている中に肺炎で死んでしまうし、嚊かかアは娘と一緒に田舎へあずけてある始末だ。まだ四、五年たたなくっちゃ芸者に売る事もできないのさ。以前世話をした奴らに頼んだら、どうにかしてくれない事もなかろうが、それほど耻はじを晒さらして歩く位なら一ひと思おもいに死んだ方がまだしもだよ。君子さん、今夜の事はあの世へ行っても……おじさんは忘れないでお礼を言うよ。﹂
﹁あら。おじさん。そんな事……。わたしの方がいくらお世話になったか知れませんわ。こうして一人でやって行けるようになったのも元はといえば、みんなおじさんのおかげじゃアありませんか。始め事務員になったのも、おじさんのおかげだし……。それから段々いろいろな事を覚えて……。方々の待合や何かの様子を覚えたのもやっぱりおじさんのおかげですわ。﹂
﹁はははは。今夜のビールはわるい事を教えてもらった御礼か。それなら、おじさんも遠慮せずに御馳走になろう。あの時分商売人の京子がびっくりしたくらいだからな。今はたいしたもんだろう。﹂
﹁割合にそうでもない事よ。あの時分会社の方かたには随分おちかづきになったわねえ。みんなどうなすってしまったんでしょう。カッフェーでもお見かけした事がありません。﹂
﹁そうか。みんな相応に年をとっていたからな。それにあの会社もつぶれてしまったから、窮こまっているのはおればかりでもないんだろう。﹂
﹁おじさんなんか。まだまだそんなに老おい込こむ年じゃないわ。六十になっても、いやになるほど元気な人があってよ。﹂と君江はその実例に松崎博士の事を語ろうとしてそのまま黙ってしまった。
﹁遊びも癖になるとつい止やめられなくなるもんだ。﹂
﹁おじさんなんかも、以前が以前だから、また直じきに癖がついてよ。﹂
十日ばかり君江も酒を断っていた後なので、話をしている中に忽たちまち取寄せた三本のビールを空からにしてしまった。
﹁商売だけあって凄すごくなったな。あすこにあるのはウイスキイじゃないか。﹂
﹁アラ。病気や何かで、すっかり忘れていたわ。﹂と君江は棚の上に載せたままにして置いた角かく壜びんの火酒を取りおろして湯ゆの呑みにつぎ、﹁グラスがないからこれで我慢して下さい。﹂
﹁おれはもういけない。﹂
﹁じゃア、ビールか日本酒を貰もらいましょう。﹂
﹁もう何にもいらない。久振りで飲むとカラ意い久く地じがない。帰れなくなると大変だ。﹂
﹁お帰りになれなかったら、そこへお休みなさい。かまいません。﹂と君江は湯呑半分ほどのウイスキイを一口に飲のみ干ほす。
﹁女給さんの手並みはなるほど見事だ。﹂
﹁日本酒よりかえっていいのよ。後で頭が痛くならないから。﹂と咽の喉どの焼けるのを潤うるおすために、飲残りのビールをまた一杯干して、大きく息いきをしながら顔の上に乱れかかる洗髪をさもじれったそうに後へとさばく様子。川島はわずか二年見ぬ間に変れば変るものだと思うと、じっと見詰めた目をそむける暇がない。その時分にはいくら淫いん奔ぽんだといってもまだ肩や腰のあたりのどこやらに生きむ娘すめらしい様子が残っていたのが、今では頬ほおから頤おとがいへかけて面おも長ながの横顔がすっかり垢あか抜ぬけして、肩と頸くび筋すじとはかえってその時分より弱々しく、しなやかに見えながら、開けた浴衣の胸から坐った腿もものあたりの肉づきはあくまで豊ゆた艶かになって、全身の姿の何処ということなく、正業の女には見られない妖よう冶やな趣が目につくようになった。この趣は譬たとえば茶の湯の師匠には平生の挙動にもおのずから常人と異ったところが見え、剣けん客かくの身体には如い何かにくつろいでいる時にも隙すきがないのと同じようなものであろう。女の方では別に誘う気がなくても、男の心がおのずと乱れて誘い出されて来るのである。
﹁おじさん。わたしも今ので少し酔って来ましたわ。﹂と君江は横坐りに膝ひざを崩して窓の敷居に片かた肱ひじをつき、その手の上に頬を支えて顔を後に、洗髪を窓外の風に吹かせた。その姿を此こな方たから眺めると、既に十分酔の廻っている川島の眼には、どうやら枕の上から畳の方へと女の髪の乱れくずれる時のさまがちらついて来る。
君江は半なかば眼めをつぶってサムライ日本何とやらと、鼻はな唄うたをうたうのを、川島はじっと聞き入りながら、突然何か決心したらしく、手てじ酌ゃくで一杯、ぐっとウイスキーを飲み干した。
* * * *
何やら夢を見ているような気がしていたが、君江はふと目をさますと、暑いせいかその身は肌着一枚になって夜具の上に寐ていた。ビールやウイスキーの壜びんはそのまま取りちらされているが、二階には誰もいない。裏うら隣どなりの時計が十一時か十二時かを打続けている。ふと見ると枕まくらもとに書しょ簡かん箋せんが一枚二ツ折にしてある。鏡台の曳ひき出だしに入れてある自分の用箋らしいので、横になったままひろげて見ると、川島の書いたもので、
﹁何事も申上げる暇がありません。今夜僕は死場所を見付けようと歩いている途中、偶然あなたに出で逢あいました。そして一時全く絶望したむかしの楽しみを繰返す事が出来ました。これでもうこの世に何一つ思置く事はありません。あなたが京子に逢ってこのはなしをする間には僕はもうこの世の人ではないでしょう。くれぐれもあなたの深しん切せつを嬉しいと思います。私は実際の事を白状すると、その瞬間何も知らないあなたをも一緒にあの世へ連れて行きたい気がした位です。男の執念はおそろしいものだと自分ながらゾッとしました。ではさようなら。私はこの世の御礼にあの世からあなたの身辺を護衛します。そして将来の幸福を祈ります。KKより。﹂
昭和六年