市外荏えば原らご郡おり世せ田たヶ谷や町まちに満まん行ぎょ寺うじという小さな寺がある。その寺に、今から三、四代前とやらの住職が寂じゃ滅くめつの際に、わしが死んでも五十年たった後のちでなくては、この文庫は開けてはならない、と遺ゆい言ごんしたとか言伝えられた堅固な姫ひめ路じが革わの篋はこがあった。 大正某年の某月が丁度その五十年になったので、その時の住じゅ持うじは錠前を打うち破こわして篋をあけて見た。すると中には何やら細さい字じでしたためた文書が一通収められてあって、次のようなことがかいてあったそうである。 愚ぐそ僧う儀ぎ一生涯の行状、懺ざん悔げのためその大略を此ここに認したため置おき候そうろうもの也なり。 愚僧儀はもと西さい国こく丸まる円まる藩はんの御ごか家し臣ん深ふか沢ざわ重じゅ右うえ衛も門んと申もうし候者の次男にて有これ之あり候。不ふつ束つかながら行末は儒者とも相あいなり家名を揚げたき心願にて有之候処、十五歳の春、父上は殿様御帰国の砌みぎり御おと供もま廻わり仰おお付せつけられそのまま御おく国にづ詰めになされ候に依より、愚僧は芝しば山さん内ない青せい樹じゅ院いんと申す学寮の住職雲うん石せき殿どの、年ねん来らい父上とは昵じっ懇こんの間柄にて有之候まゝ、右の学寮に寄宿仕つかまつり、従前通り江戸御おや屋し敷き御おか抱かえの儒者松下先生につきて朱しゅ子しが学く出精罷まか在りあり候処、月日たつにつれ自然出しゅ家っけの念願起り来きたり、十七歳の春剃てい髪はつ致し、宗学修しゅ業ぎょう専念に心ここ懸ろがけ候間あいだ、寮主雲石殿も末頼たの母もしき者に思おぼ召しめされ、殊ことの外ほか深しん切せつに御指南なし下され候処、やがて愚僧二十歳に相なり候頃より、ふと同寮の学僧に誘はれ、品しな川がわ宿じゅくの妓ぎろ楼うに遊び仏ぶっ戒かいを破り候てより、とかく邪念に妨げられ、経きょ文うもん修業も追々おろそかに相なり、果はては唯うか〳〵とのみ月日を送り申候。或夜いつもの如く品川宿よりの帰り途みち、連つれの者にもはぐれ、唯一人牛うし町まちの一ひと筋すじ道みちを大急ぎに歩み参まいり候と思おもいの外ほか何ど処こまで行き候ても同じやうなる街道にて海さへ見え申さず候故ゆえ、これはてつきり、狐きつねのわるさなるべしと心付き足の向むき次第、唯と有る横道に曲り候処、いよ〳〵方角を失ひ、かつはまた夜も次第にふけ渡り、月も雲間に隠れ候故ゆえ、聊いささか途法に暮れ、路みち端ばたの草の上に腰をおろし、一心に念仏致をり候処、突然彼かな方たより女の泣声聞え来り候間あいだ弥いよ妖よう魔まの仕しわ業ざなるべしと、その場にうづくまり、歯の根も合はず顫ふるへをり候に、やがて男の声も聞え、人の跫あし音おと次第に近づき来るにぞ、此こな方たは生きたる心地もなく繁しげりし草むらの間にもぐり込み、様子如いか何にと窺うかがいをり候処、一人の侍さむらい無理遣やりに年頃の娘を引連れ参り、隙すきを見て逃にげ出ださむとするを草の上に引ひき据すゑ、最前よりいろ〳〵事の道理を分けて御意見申上候そう得らえども、御聞入れ無これ之なく候そう得らえ者ば、是非なき次第に候間、このまゝ手足を縛りてなりとお屋敷へ連れ帰り、御ごふ不び憫んながら不義密通の訴うったえをなし申もうすべしと、何やら申もう聞しきかしをり候処へ、また一人の侍さむらい息を切らして駈かけ来り、以前の侍に向ひ、今夜の事は貴殿より外ほかには屋敷中誰一人知るものも無これ之なき事に候なり。われら駈かけ落おち者ものを捕へ候とて、さほど貴殿の御手柄になり候訳わけにてもあるまじく候間、何とぞ日頃の誼よしみにこのまゝお見逃し下されよと、袂たもとに縋すがり、地に額ひたいを摺すり付けて頼み候様子なれど、以前の侍一いっ向こう聞入れ申さず。貴殿に対しては恩も恨うらみもなき身なれど、このお小おさ夜よど殿のは恩儀ある我が師の娘むす御めごなり。道ならぬ恋に迷ひ家かち中ゅうの者と手に手を取り駈落致したりとの噂うわさ、世に立ち候時は、師匠の御身分にもかゝはり申べく候。今の中うちなれば拙せっ者しゃの外は誰一人知るものなきこそ幸さいわいなれ。このまゝそつと御帰宅なされ候はゞ、親御様も上うわ部べはとにかく、必かならず手ひどい折せっ檻かんなどはなされまじ。かくいふ中にも時刻移り候ては取返しの付かぬ一大事、疾とく〳〵拙者と御一緒にお帰り遊ばされ候へと、泣なき沈しずむ娘を引立て行かむとするにぞ、一人の侍今はこれまでなりと覚悟致し候様子にて、突つと立上り、下した手てに出いでをれば空そら々ぞらしきその意見、聞いてはをられぬ。ない〳〵御嬢様に色いろ文ぶみつけ、弾はじかれたを無念に思ひ、よくも邪魔をしをつたな。かうなれば、刀にかけて娘御はやらぬ。覚悟をしやれと、引抜く一刀。此こな方たも心得たりと抜き放ち、二、三合ごう切きり結むすぶ中うち、以前の侍足を踏み滑べらせ路の片側なる崖がけの方かたへと落ち込む途とた端ん裾すそを払ひし早はや業わざに、一人は脚にても斬きられ候や、しまつたと叫びてよろめきながら同じく後うしろの崖に落ち、路みち傍ばたに取残されしは、娘御ひとりとなり候処、この時手に手に、提ちょ灯うちん持ちたる家中の侍とも覚しき人にん数ず駈け来り、娘御の姿を見候て、皆々驚く中うちにも安あん堵どの体ていにて一人の男の背に娘御をかつぎ載せ、そのまゝもと来きたりし方かたへと立去り候一場の光景。愚僧は始より終まで、草むらの中にて見定め、夢に夢見る心持にて有之候。但し固もとより夢にては無これ之なき事に候間、とかくする中、東の空白みかゝり塒ねぐらを離るゝ鴉からすの声も聞え候ほどに、すこしは安心致し草むらの中より這はい出だし、崖下へ落ち候二人の侍、生死のほども如いか何が相なり候哉やと、恐る〳〵覗のぞき申候に、崖はなか〳〵険けん岨そにて、大たい木ぼく横よこざまに茂り立ち候間より広々としたる墓場見え候のみにて、一向に人影も無ござ御な座く候。その辺に血にても流れをり候哉と見廻し候へども、これまたそれらしき痕あとも相あい見え申さず候。さては両人共崖に墜おち候が勿もっ怪けの仕しあ合わせにて、手疵きずも負はず立去り候もの歟かなど思ひながら、ふと足元を見候に、草の上に平ひら打うちの銀ぎん簪かんざし一本落ちをり候は、申すまでもなくかの娘御の物なるべくと、何心なく拾ひろ取いとり、そのまゝ一歩二歩、歩み出し候処、またもや落ちたるもの有之候故ゆえ、これも取上げ候に革の財布にて、大分目方も有之候故、中を改め候処、大枚の小判、数ふれば正しく百両ほども有之候。これ必ひつ定じょう、駈落の侍が路ろよ用うの金なるべしと心付き候へば、なほ更空恐しく相なり、後ごじ日つの掛り合になり候ては一大事と、そのまゝ捨て置き立去らむと致せしが、ふとまた思おも直いなおせば、この大金このまゝこゝに捨て置き候へば、誰か通がゝりの者に拾はるゝは知れた事なり。かつはまた金の持主は駈落者にて、今は生死のほども知れずに相なり候者故、これぞ正しく天の与あとうる所。これを受けずばかへつて禍わざわいをや蒙こうむらむと、都合好よき方へと理をつけ、右の金きん子す財布のまゝ懐中に致し候ものゝ、俄にわかに底知れず恐しき心地致し、夢が夢中にて走り出し候中うち、夜は全く明けはなれ、その辺の寺々より鉦かねや木もく魚ぎょの音頻しきりに聞え、街道筋とも覚しき処を、百姓供ども高声に話しながら、野菜を積み候荷車を曳ひき行くさま、これにて漸ようやく二にほ本んえ榎のきより伊いさ皿らご子へ辺んへ来かゝり候事と、方角も始はじめて判明致候間、急ぎ芝しば山さん内ないへ立戻り候へども、実は今こん日にちまで、身は持もち崩くずし候てもさすがに外泊致候事は一度も無之、いつも夜の明けぬ中立戻り、人知れず寝床にもぐりをり候事故、今はその時刻にも遅れ候て、わが学寮へは忍入る事も叶ひ申さず。かつはまた百両の金の隠し場所にも困こまり候故、そのまゝ引返し、とぼ〳〵と大だい門もんのあたりまで参まいり候処、突然後うしろより、モシ良りょ乗うじ殿ょうどの、早朝より何いず処こへお出いでかと、声掛けられ、びっくり致し振返れば、浄じょ光うこ寺うじと申す山さん内ない末まつ院いんの所しょ化けにて、これも愚僧などゝ同様、折々悪あく所しょ場ばへ出でい入り致し候得とく念ねんと申す坊主にて有之候。京橋まで用事有之候趣にて、同道致候道みち々みち、愚僧の様子何となくいつもとは変りをり候ものと見え、何か仔しさ細いのある事ならむと頻しきりに問とい掛かけ、果はては得念自身問はれもせぬに、その身の事供ども打明け話し候を聞くに、得念は木こび挽きち町ょうに住居致候商家の後ご家けと、年来道ならぬ契ちぎりを結び、人の噂うわさにも上り候ため度たび々たび師匠よりも意見を加へられ候由。しかる処後家の方にても不身持の事につき、親戚中にてもいろ〳〵悶もん着ちゃく有之候が、万一間違など有之候ては、かへつて外聞にもかかはり候事とて、結局得念に還げん俗ぞく致させ候上、入にゅ夫うふ致させ申すべき趣おもむき。内ない談だんも既にきまり候に付つき、浄光寺の住職方がたへは改めて挨あい拶さつ致し、両三さん日にち中ちゅうには抹まっ香こう臭き法ころ衣もはサラリとぬぎ捨て申すべき由。人間若い時は一度より外ほか無これ之なきもの故、愚僧にも今の中とくと思案致すが好よいなど申し続け候。その日は得念に誘はれそのまゝ後家方かたへ立寄り候処、いろ〳〵馳ちそ走うに預り候上、風ふ呂ろに入いり候処、昨夜よりの疲労一時に発し、覚えずうと〳〵と眠ねむりを催し驚きて目を覚し候へば、日も早や晩景に相なり候故、なほ〳〵驚き、後家を始め得念にはいづれ両三日中重かさねて御礼に参上致すべき旨申し、厚く礼を陳のべ候て立たち出いで候ものゝ、山内の学寮へは弥いよ時刻おくれて帰りにくゝ、さりとて差当り行くべき当あても無之身の上。足の向くがまゝ芝しば口ぐちへ出いで候に付き、堀ほり端ばたづたひに虎とらの門もんより溜ため池いけへさし掛り候時は、秋の日もたっぷりと暮れ果て、唯さへ寂しき片側道。人ひと通どおりも早や杜と断だえ池一面の枯かれ蓮はすに夕風のそよぎ候響ひびき、阪さか上うえなる葵あおいの滝の水音に打まじりいよ〳〵物寂しく耳立ち候ほどに、わが身の行末俄にわかに心細く相あいなり土手際ぎわの石に腰をかけ、ただ惘ぼう然ぜんとして水の面おもてを眺めをり候処、突然後うしろより愚僧の肩を叩たたきコレサ良乗殿。大おお方かたこんな事と思ひし故、心配して後をつけて参つたのだ。と申し候は今方木挽町なる後家の許もとにて別れ候得念なり、得念は愚僧をば身投げにても致す心に相違なしといろ〳〵に申候末、あたりを見廻し急に言葉を改め、愚僧が懐中に大金を所持致すは、大方山内の宝蔵より盗みし金なるべし。友達の誼よしみに他言は致さぬ故、半分山分けに致せと申出で候。さては最前風呂より上り、居眠り致候節見抜かれしと思ひ、昨夜の顛てん末まつ委くわしく語りきかせ、実はこれよりその屋敷を尋ね、金きん子すを返却致したき趣おもむき申聞かせ候へども、得念一向承知せず。果は押問答の末無法にも力づくにて金子を奪うばい取らむと致候間、掴つかみ合の喧けん嘩かに相なり候処、愚僧はとにかく十五歳までは武術の稽けい古こも一ひと通とおりは致候者なれば、遂に得念を下に引ひき据すゑ申候。得念最早や敵かなはずと思ひ候にや、忽たちまち大声にて人殺しだ。泥棒だと呼よび続つづけ候故、愚僧も狼ろう狽ばいの余り、力一杯得念が咽の喉どを締め候に、そのまゝぐたりと相なり、如い何かほど介抱致候ても息を吹返す様子も相見え申さず候故、今は如いか何んとも致しがたく、幸さいわい闇やみ夜よにて人ひと通どおりなきこそ天の佑たすけと得念が死しが骸いを池の中へ蹴けお落とし、そつと同所を立去り戸とだ田さ様ま御屋敷前を通り過ぎ、麻あざ布ぶ今いま井いだ谷に湖こう雲ん寺じ門前に出いで申候処、当時はまだ御改革以前の事とて長なだ垂れざ阪か上の女じょ郎ろう屋やいたって繁はん昌じょうの折から、木戸前を通りかゝり呼び込まれ候まゝ、こゝに一夜を明し申候。誠に人間一生の浮沈は測はかりがたきものなり。偶然大金を拾ひ候ばかりに人ひと殺ごろしの大罪を犯す身となり果はて候上は、最早や如何ほど後悔致候ても及びもつかぬ仕し儀ぎにて、今は自首致して御おし仕お置きを受け申すべきか。さらずば、運を天に任せて逃げられ候処まで逃げ申すかの二ツより外ほかに道は無之候。今更懐中の金子を道に棄すて行き候とも、人殺の罪は免れぬ処と、夜やち中ゅうまんじりとも致さず案じ累わずらひ候末、とにかく一ひと先まず何いず地ちへなり姿を隠し、様子を窺うかがひ候上、覚悟相定め申べしと存じ、翌朝麻布の娼しょ家うかを立出で、渋しぶ谷やむ村ら羽はね根ざ沢わの在ざい所しょに、以前愚僧が乳う母ばにて有之候お蔦つたと申す老ろう婆ば。いたつて実直なる農婦にて、二度目の婿むこを取り候後も、年々寒暑の折には欠かさず屋敷へ見舞に参まいり候ほどにて、愚僧山内の学寮へ寄宿の後も、有あり馬まさ様ま御おな長が屋や外の往おう来らいにて、図らず行ゆき逢あひ候事など思ひ浮べ、その日の昼下り、同処へ尋たずね行き申候。思おもいの外ほか手びろく生くら計しも豊かに相見え候のみならず、掛かけ離はなれたる一軒家にて世を忍ぶには屈くっ竟きょうの処と存ぜられ候間、お蔦夫婦の者には、愚僧同寮の学僧と酒の上口論に及び、師しの坊ぼうにも御迷惑相掛け、追放同様の身と相なり候に依より、一ひと先まず国くに許もとへ立たち退のきたき考かんがえなれば、四、五日厄介になりたき趣を頼み候処、心好く承知致しくれ候故、ゆっくり疲労を休め、縞しまの衣服、合かっ羽ぱなど買求め候そう得らえども、円き頭ばかりは何とも致いた方しか無たご御ざな座く候間、俳はい諧かい師しかまたは医者の体ていに粧よそおひ、旅の支度万端とゝのひ候に付き、お蔦夫婦の者に別れを告げ、教へられ候道を辿たどりて、その夜は川かわ崎さき宿じゅくに泊り申候。しかしながら始より国許へ立帰り候所存とては無これ之なき事ことに候間、東海道を小おだ田わ原らまで参り、そのまゝ御城下に数日滞在の上、豆ずし州ゅうの湯治場を遊び廻り、大おお山やまへ参さん詣けい致し、それより甲州路へ出で、江戸に立戻らむと志し候途中、図らず道づれに相なり候は、これ即ち当とう山ざん満まん行ぎょ寺うじ先代の住職了りょ善うぜ上んし人ょう殿にんどのにて御座候。殊の外愚僧を愛せられ、是非とも満行寺に立寄れよと御おす勧すめなされ候により、そのまゝ御厄介に相なり候処、当山は申すまでもなく西にし本ほん願がん寺じ派は丸まる円まる寺じの分れにて、肉にく食じき妻帯の宗門なり。了善上人には御おつ連れあ合いも先年寂じゃ滅くめつなされ、娘むす御めごお一人御座候のみにて、法ほう嗣しに立つべき男子なく、遂に愚僧を婿むこ養よう子しになされたき由申出され候中うち、急病にて遷せん化げ遊ばされ候。尤もっともこれは愚僧当とう山ざんの厄介に相なり候てより三年の後にて、愚僧は御ごゆ遺いご言んに基もとづき当山八代目の住職に相なり候次第にて有之候。これより先、愚僧はかの百両の大金、豆ずし州ゅうの湯治場を遊び廻り候ても、僅わずか拾両とは使ひ申さず。殆ほとんどそのまゝ所持致をり候事故、当山の御厄介に相なり候に付いては、またもやその隠かくし場所に困りをり候処、唯今にても当寺表おも惣てそ門うもんの旁かたわらに立ちをり候榎えのきの大木に目をつけ、夜やち中ゅう攀よじ上のぼり、幹の穴に隠し置き申候。さて先代御ごじ成ょう仏ぶつの後は愚僧住職の身に御座候へば、他たし出ゅつ他たぎ行ょうも自由気きま儘まに相なり候故、夜中再び人知れずかの大木に攀上り、九拾両の中四拾両ほど取出し、残り五十両はそのまゝ旧もとの通り幹の穴に隠し、右の四拾両を以て、一時妾めかけを囲ひ、淫いん楽らくに耽ふけりをり候処、その妾も数年にして病死致し、続いて先代住職の形見なる梵ぼん妻さいもとかく病身の処これまた世を去り申候。その時は愚僧もいつか年四十を越し、檀だん家か中の評判も至極宜よろしく、近郷の百姓供ども一同愚僧が事を名僧知識のやうに敬ひ尊び候やうに相なりをり申候。何事も知らぬが仏とは誠にこの事なるべく候。それにつけても月日経ち候につけ、先年溜ため池いけにて愚僧が手にかゝり相果て候かの得念が事、また百両の財布取とり落おとし候侍さむらいの事も、その後は如いか何が相なり候哉やと、折々夢にも見みも申うし候間、所用にて江戸表へ参り候節はそれとなく心を付けをり候へども、一向にこれと申すほどの風聞も無之模様にて、更に様子相知れ申さず候故、次第に安心も致すやう相なり候事に御座候。なほまた愚僧が先年寄宿罷まかりあり候芝山内青樹院の様子につきては、その後聞き及び候処によれば、愚僧突然行ゆく衛え不明に相なり候に付き、その節学寮にては、心あたり漏れなく問合せ候ても一向に相知れ申さず候につき、殺され候歟か、または神隠しにでも遇あひ候歟、いずれにも致せ、不ふび憫んの事なりとて、雲うん石せき師しは愚僧が出しゅ奔っぽんの日を命日と相定め、寮内に墓まで御建てなされ候趣に御座候。さて、愚僧は右の如く僅わずか一、二年の間に妻さい妾しょう両人共喪うしなひ申候に付き、またもや妾を囲ひたきものと心には思ひをり候ものゝ、早や分ふん別べつ盛ざかりの年輩に相なり候ては、何となく檀家を始め人の噂うわさも気にかゝり候て、血気の時のやうに思切つた事も出来兼ね、唯ただ折もあらばと、時節をのみ待ち暮し申候。時々は遠からぬ新しん宿じゅくへなりと人知れず遊びに出掛けたき心持にも相なり候へども、これまた同様にて埒らち明き申さず。空しく門前の大木を打仰ぎ候て、幹の穴に五拾両有之候上は、時節到来の砌みぎりは、如何なる浮世の楽しみも思ひのまゝなる身の上。別に急ぎ候には及ばぬ事と我慢致し月日を送り申候。人間の慾心は可お笑かしきものにて、いつにても思ひのまゝになると安心致をり候時は、案外我慢の出来るものにて有之候。唯心にかゝり候事は、風雨雷鳴の時にて、門前の大木万一風にて打折らるゝか、または落雷に砕かれ候て隠かく置しおき候大金、木の葉の如く地上に墜おち来り候やうの事有之候ては一大事なりと、天気宜よろしからざる折には夜やち中ゅうにも時折起おき出いで、書院の窓まどを明け、大木の梢こずえを眺め候事も度々にて有之候。とかくする中、数かぞうれば今より十余年ほど前の事に相なり候。彼ひが岸んも過ぎて、野も山も花盛りに相なり候頃ころ、白はく昼ちゅう俄にわかに風雨吹起り、近村へ落雷十余箇処にも及び候事有之。当山門内の大榎は、幸さいわいにも無事にて有之候ひしかど、その後両三日にちは引続き空曇りて晴れ申さず。また〳〵嵐あらし来り申すべくなど人々申をり候を聞き、愚僧心痛一方ならず。深夜そつと起き出で、大金を取出し置かむものと、大木の幹に登りかけ候処、血気の頃には猿ましらの如くする〳〵と攀よじ昇のぼり候その樹きの幹には変りはなけれども、既に初老を過ぎ候身は、いつか手足思ひのまゝならず、二、三間げん登り候処にて片足を滑らせ、そのまゝ瞠どうとばかり地上に堕おち申候。静しずかなる夜にて有之候はゞ、この物音に人々起おき出いで参り大騒ぎにも相なるべきの処、幸さいわいにも風大分烈はげしく吹ふきいで候折とて、誰一人心付き候者も無之。愚僧は地上に落ち候まゝ、殆ほとんど気絶も致さむばかりにて、漸ようやく起おき直なおり候ものゝ、烈しく腰を打ち、その上片足を挫くじき、四よツ這ばいになりて人知れず寝しん所じょへ戻り候仕末。その夜は医者を呼び迎へ候事も叶かなひ申さず。翌朝に至るを待ち始はじめて療治を受け申候。それより時候の変かわ目りめごとに打身に相悩み候やうに相なり、最も早はや二度とはかの大木には登れそうにもなき身に相なり申候。左さそ候うら得え者ば、樹上の大金は再び手にすることも出来兼かね候訳わけなり。人に頼めばわが身のむかしを怪しまるゝ虞おそれ有之。かの五拾両は樹上に有之候とも、最早やわが身には生涯何のやくにも立たざる物になり候よと思へば、満身の気力一時に抜ぬけ落おち候やうなる心地致され、唯惘ぼう然ぜんとして榎の梢を眺め暮すばかりにて有之候。今までは一向気にも留めざりし鴉からすの鳴声も、かの大木の梢に聞付け候時は、和おし尚ょう奴め、ざま見ろ。いゝ気味だと嘲ちょ弄うろう致すものゝやうに聞きなされ、秋あき蝉ぜみの鳴きしきる声は、惜しよ惜しよ。御ごし愁ゅう傷しょうといふやうに聞え候て、物寂しき心地致され申候。雨あがりの三みか日づ月き、夕焼雲の棚たな曳びくさまも彼かの大木の梢に打眺め候へば誠に諸しょ行ぎょ無うむ常じょうの思ひに打たれ申候。しかしながらいかほど嘆なげき候ても、もと〳〵わが身の手にて隠し候金きん子す。わが身の手にて取出す力なくなり候事なれば、誰を怨むにも及ばざる事に候間、月日を経ふるに従ひ、これぞ正まさしく因いん果が応報の戒いましめなるべくやと、自然に観念致すように相なり申候。とにかくに半金の五拾両は面白可お笑かしく遣つかひ棄すて候事なれば、唯今の中うち諦あきらめを付け申さず候ては、思ひもかけぬ禍わざわいを招まねぐも知れずと、樹上の金子の事はきつぱり思切るやうにと心掛け申候。然しかる処また〳〵別の考かんがえいつともなく胸きょ中うちゅうに浮び来り申候。それは彼かの金子今も果して樹上の穴に有之候哉や否や。愚僧の心付かぬ中うち盗み去りし者は無之候哉と、この事ばかり気にかゝり候て、一応金の有無だけはしかと見定め置きたき心地致し候。次にはまた、もし彼の金子今以て別条無これ之なきにおいては、天下の通つう宝ほうを無用に致し置く訳わけなれば、誰なりと取出し、勝手に遣へばよきものをといふ心にも相なり申候。但し軽々しく口外致すべき事には無ござ御な座く候間あいだこれまたそのまゝに致し、唯たゞ時節の来るを待ちをり申候処、或日の事、当村の庄しょ屋うや殿どのより即刻代官所へ同道致されたき趣おもむき、使つかいを以て申越され候間、直すぐ様さま参り申候処、御役人御おい出で有之其その許もと方かたに慶けい蔵ぞうと申候寺てら男おとこ召使ひ候事有之候哉との御おた尋ずねなり。御おお仰せの通り昨年冬頃まで召使ひ候旨御おこ答たえ申上候処、御役人申され候には、かの慶蔵事新しん宿じゅく板いた橋ばし辺へんの女じょ郎ろう屋やにて昨年来身分不相応の遊興致し候のみならず、あまつさへ大金所持致しをり候故ゆえ、不審の廉かどを以て吟ぎん味み致し候処、右慶蔵申立て候処によれば、慶蔵事盗み候金子は満行寺境内に有之候子こそ育だて地じぞ蔵うそ尊んの賽さい銭せんばかりにて、所持の大金は以前より満行寺門内の大木の穴に有之候ものゝ由にて、当夜慶蔵事地蔵尊の賽銭を盗み取りこれを隠し置かむと存じ、門内の榎に登り候処、何いつ時ご頃ろ何者の隠し置き候もの歟か、幹の穴には五拾両の大金差込み有之候を、慶蔵図らず見付出し、寺方へはそれとなく暇ひまを取り候趣おもむき申立て候そう得らえどもなほ不審の廉かど少なからざるにつき、一応住職に聞たゞし候上うえ、江戸表おもてへ送り申すべき手ては筈ずなりとの事に御座候。愚僧は大おおいに驚き慶蔵の申開きにはいさゝかの偽りも無これ之なき旨むね申述べたくは存じ候ものゝ、然しからば樹上の五拾両は誰が隠し置き候哉と御ごせ詮ん議ぎに相なり候ては大変なりと、何事も申上げずそのまゝ立帰り申候。当村はその時分小こぶ普しん請ぐ組み御支配綱つな島じま右うき京ょう様さま御領分にて有之候間、寺男慶蔵は伝てん馬まち町ょう御おろ牢う屋やへ送られ、北の御ごぶ奉ぎょ行うし所ょ御おか掛かりにて、厳しく御ごぎ吟ん味みに相なり候処、慶蔵事十余年前麹こう町じま辺ちへん通行の折拾ひ候処隠かく場しば所しょにこまり当山満行寺へ住すみ込こみ候を幸さいわい、大木へ上り隠し置き候旨むね申立て候由。勿もち論ろんこの儀ぎは拷ごう問もんの苦痛に堪へかね偽りの申立を致候事なれど、いづれに致せ、賽銭を盗み候儀は明白に御座候間、そのまゝ入じゅ牢ろうと相きまり候処、十日ばかりにて牢内において病死致候。右の次第につき、五拾両の金子は慶蔵の遣ひ残り弐拾両余り有之候処、右は愚僧御呼出しの上落し人明白に相なり候時まで当山において、しかと御預り致すべき趣にて、そのまゝ御下げ渡しに相なり候。これにて愚僧が犯せる罪科の跡は自然立たち消ぎえになり候事とて、ほつと一息付き候ものゝ、実はまんまとわが身の悪事を他人に塗ぬり付つけ候次第に候間、日ひか数ず経たち候につれていよいよ寝ねざ覚めあしく、遂に夜な〳〵恐しき夢に襲はれ候やうに相なり候間、せめて罪つみ滅ほろぼしにと、慶蔵の墓のみならず、往年溜ため池いけにて絞しめ殺ころし候浄光寺の所しょ化け得とく念ねんが墓をも、立派に建て、厚く供くよ養うは致し候へども、両人が怨おん念ねんなか〳〵退散致さゞるものと見え、先年大木より滑り落ち候時の打うち身みその年の秋より俄にわかに烈はげしく相なり候上、引続き余病もいろ〳〵差さし加くわはり、一日起きては三日ほど寝ると申すやうなる身から体だになり果て候。この分にては到底元の身体には本復致すまじくやと覚おぼ束つかなく存ぜられ申候。増して年も追おい々おい六十に迫り候老体の事に御座候へば、いづれにも致せ、余命のほどは最早や幾いくばくも無之事と観念致をり候間、せめて今の中懺ざん悔げのあらまし認したため置きたく右の通り書き続け申候也。なほ以て当山満行寺住職後あと継つぎの件につきては別紙に委細落ちなきやう認め置き申候。なほ〳〵愚僧実家の儀に付きては、往年三さん縁えん山ざん学寮出奔この方かた、何十年音いん信しん不通に相なり候間、これまた別簡一いっ封ぷう認め置申候也。以上。南なむ無あ阿み弥だ陀ぶ仏つ南無阿弥陀仏。慶応 年 月 日。武ぶし州ゅう荏えば原らご郡おり荏原村。円えん光こう山ざん満まん行ぎょ寺うじ住職釈しゃ良くり乗ょうじょう書。 昭和四年三月稿 昭和六年二月訂正