兼かね太たろ郎うは点滴の音に目をさました。そして油じみた坊ぼう主ずま枕くらから半はん白ぱくの頭を擡もたげて不思議そうにちょっと耳を澄すました。 枕元に一いっ間けんの出窓がある。その雨戸の割われ目めから日の光が磨すり硝ガラ子スの障子に幾いく筋すじも細く糸のようにさし込んでいる。兼太郎は雨だれの響ひびきは雨が降っているのではない。昨きの日う午ひる後すぎから、夜も深ふけるに従ってますます烈はげしくなった吹雪が夜明と共にいつかガラリと晴れたのだという事を知った。それと共にもうかれこれ午ひる近くだろうと思った。正月も末、大だい寒かんの盛さかりにこの貸二階の半分西を向いた窓に日がさせば、そろそろ近所の家から鮭さけか干ひも物のを焼く匂においのして来る時じぶ分んだという事は、丁度去年の今時分初めてここの二階を借りた当時、何もせずにぼんやりと短い冬の日ひあ脚しを見てくらしたので、時計を見るまでもなく察しる事が出来るのであった。それにつけても月日のたつのは早い。また一年過ぎたのかなと思うと、兼太郎は例の如く数えて見ればもう五年前株式の大だい崩ぼう落らくに家倉をなくなし妻には別れ妾めかけの家からは追出されて、今年丁度五十歳の暁とうとう人の家の二階を借りるまでになった失敗の歴史を回想するより外ほかはない。以前は浅あさ草くさ瓦かわ町らまちの電車通どおりに商店を構えた玩がん具ぐ雑貨輸出問屋の主人であった身が、現在は事もあろうに電話と家屋の売買を周旋するいわゆる千せん三みつ屋やの手先とまでなりさがってしまったのだ。昨日も一日吹雪の中をあっちこっちと駈かけ廻って歩く中うち一いっ足そくしかない足あし駄だの歯を折ってしまった事やら、ズブ濡ぬれにした足た袋びのまだ乾いていようはずもない事なぞを考え出して、兼太郎はエエままよ今日はいっそ寝坊ついでに寝て暮らせと自や暴けな気にもなるのであった。もともと家屋電話の周旋屋というのは以前瓦町の店で使っていた男がやっているので、一日や二日怠けた処で昔の主人に対して小言のいえようはずもなく解雇される虞おそれもない……。 窓の下を豆腐屋が笛を吹いて通って行った。草わら鞋じの足音がぴちゃぴちゃと聞えるので雪ゆき解どけのひどい事が想像せられる。兼太郎は寝ねす過ごしてかえっていい事をしたとも思った。突然ドシーンとすさまじい響に家屋を震動させて、隣の屋根の雪が兼太郎の借りている二階の庇ひさしへ滑り落ちた。つづいて裏屋根の方で物もの干ほし竿ざおの落ちる音。どうやら寝てもいられないような気がして兼太郎は水みず洟ばなを啜すすりながら起上った。すぐに窓の雨戸を明けかけたが、建たち込こんだ路ろ地じの家の屋根一面降ふり積つもった雪の上に日影と青空とがきらきら照輝くので暫しばらく目をつぶって立ちすくむと、下の方から女の声で、 ﹁田島さん。家うちの物干竿じゃありませんか。﹂ 兼太郎のあけた窓の明りで二階中は勿もち論ろんの事、梯はし子ごだ段んの下までぱっと明あかるくなった処からこの家やの女房は兼太郎の起きた事を知ったのである。 ﹁どうだか家じゃあるまいよ。﹂と兼太郎はそんな事よりもまず自分の座敷の火ひば鉢ちに火種が残っているか否かを調べた。 ﹁田島さんもうじきお午ひるですよ。﹂ 襖ふすまの外で言いながら、おかみは梯子段を上り切って突当りに一いっ間けんばかり廊下のようになった板の間まから、すぐと裏屋根の物干へ出る硝ガラ子ス戸どをばビリビリ音させながら無理に明けようとしている。いつも建付けの悪いのが今朝は殊こと更さら雪にしめって動かなくなったのであろう。 この硝子戸から物干台へ出る間の軒下には兼太郎の使つか料いりょうになっている炭と炭たど団んを入れた箱にバケツが一個と洗面器が置いてある。 ﹁あら、まア田島さん。炭も炭団もびしょぬれだよ。昨ゆう夜べの中うちにどうにかしてお置きなされァいいのにさ。﹂ 物干竿を掛かけ直なおしたかみさんは有あり合あう雑ぞう布きんで赤ぎれのした足の裏を拭ふき拭き此こん度どは遠慮なくがらりと襖を明けて顔を出した。眉まゆ毛げの薄い目尻の下った平ひら顔がおの年は三十二、三。肩のいかった身から体だつ付きのがっしりした女であるが、長年新しん富とみ町ちょうの何とやらいう待まち合あいの女中をしていたとかいうので襟えり付つきの紡ぼう績せき縞じまに双ふた子この鯉こい口ぐち半はん纏てんを重ねた襟元に新しい沢おも瀉だか屋やの手てぬ拭ぐいを掛け、藤色の手てが柄らをかけた丸まる髷まげも綺きれ麗いに撫なで付けている様子。まんざら路地裏の嚊かかあとも見えない。以前奉公先なる待合の亭主の世話で新富座の長ちょ吉うきちと贔ひい屓きの客には知られている出でか方たの女房になって、この築つき地じ二丁目本ほん願がん寺じ横手の路地に世しょ帯たいを持ってからもう五年ほどになるがまだ子供はない。 ﹁おかみさん。湯に行って暖たまって来こよう。今日は一いち日んち楽らく休みだ。﹂と兼太郎は夜具を踏んで柱の釘くぎに引ひっ掛かけた手拭を取り、﹁大将はもう芝居かえ。一ひと幕まくのぞいて来ようかな。﹂ ﹁播はり磨ま屋やさんの大おお蔵くら卿きょう、大変にいいんですとさ。﹂ ﹁おかみさんまだ見ないのか。﹂ ﹁お正月は御おね年んし始ま廻わりや何かで家の人がいそがしいもんだから。﹂と女房は襟にかけた手拭を姉あねさまかぶりにして兼太郎の夜具を上げ、 ﹁ゆっくり行ってお出いでなさい。綺麗に掃除して置きますよ。田島さん、そうそう持って来るのを忘れてしまった。牛乳が火鉢の処に置いてありますよ。﹂ ﹁今朝はもう牛乳はぬきだ。日が当っていてもやっぱり寒い。﹂と兼太郎は楊よう枝じをくわへて﹇#﹁くわへて﹂はママ﹈寝ねま衣きのまま格こう子し戸どを明けて出た。 路地の雪はもう大抵両側の溝どぶ板いたの上に掻き寄せられていたが人じん力りき車しゃのやっと一台通れるほどの狭さに、雪解の雫しずくは両側に並んだ同じような二階家やの軒からその下を通行する人の襟えり頸くびへ余しぶ沫きを飛とばしている。それを避けようと思って何どち方らかの軒下へ立寄ればいきなり屋根の上から積った雪が滑り落ちて来ないともわからぬので、兼太郎は手拭を頭の上に載せ、昨日歯を割った足駄を曳ひき摺ずりながら表おも通てどおりへ出た。向側は一町ほども引続いた練ねり塀べいに、目かくしの椎しいの老木が繁茂した富豪の空あき屋敷。此こな方たはいろいろな小売店のつづいた中に兼太郎が知ってから後のち自動車屋が二軒も出来た。銭せん湯とうもこの間にある。蕎そ麦ば屋やもある。仕しだ出し屋やもある。待合もある。ごみごみしたそれらの町まち家やの尽つきる処、備びぜ前んば橋しの方へ出る通とおりとの四よつ辻つじに遠く本願寺の高い土塀と消防の火ひの見みや櫓ぐらが見えるが、しかし本堂の屋根は建込んだ町家の屋根に遮さえぎられてかえって目に這は入いらない。区役所の人夫が掻き寄せた雪を川へ捨てにと車に積んでいるのを、近処の犬が見て遠くから吠ほえている。太い電燈の柱の立っているあたりにはいつの間に誰がこしらえたのか大きな雪ゆき達だる磨まが二つも出来ていた。自動車の運転手と鍛か冶じ屋やの職人が野球の身みが構まえで雪投げをしている。 兼太郎は狭い路ろじ地ぐ口ちから一ひと足あし外へ踏み出すと、別にこれと見処もないこの通をばいつもながらいかにも明あかるく広々した処のように感じるのであった。そして折々自分はどうしても路地に生れて路地に育った人間ではない、死ぬまでにいつか一度元のように表おも通てどおりに住んで見たいものだと思う事もあるのであった。兼太郎がこの感慨は湯屋の硝子戸を明けて番台のものに湯ゆせ銭んを払う時殊更深くなる事がある。 築地のこの界かい隈わいにはお妾めか新けじ道んみちという処もある位で妾が大勢住んでいる。堅かた気ぎの女房も赤い手てが柄らをかける位の年とし頃ごろのものはお妾に見まがうような身なりをしている。兼太郎は番台越しに女湯で着物をぬぎかける女の中に、小作りのぽっちゃりした年とし増まざ盛かりのお妾らしいものを見ると、以前代だい地ち河が岸しに囲って置いた自分のお妾の事を思い出すのである。名はお沢さわといった。大正三年の夏欧おう洲しゅう戦争が始まってから玩がん具ぐ雑貨の輸出を業とした兼太郎の店は大打撃を受けたので、その取返しをする目算で株に手を出した。とんとん拍子に儲もうかったのがかえって破滅の本もとであった。四、五年成金熱に浮かされている中うち、講和条約が締結され一時下った相場はまた暫く途とっ拍ぴょ子うしもなく絶頂に達したかと思うと忽たちまちにしてまた崩ぼう落らくした。兼太郎は親から譲られた不動産までも人手に渡して本妻の実家へ子供をつれて同居するという始末、代地河岸に囲ってあったお妾のお沢は元の芸者の沢さわ次じになった。幸い妾しょ宅うたくの家屋はお沢の名儀にしてあったので、両人話合の末それを売って新あらたに芸げい者しゃ家や沢さわの家やの看板を買う資本にした訳わけである。兼太郎は本妻との間にその時八つになる男と十三になる娘があったにもかかわらず、いつか沢の家に入りびたりとなった。本妻の実家は資産のある金かな物もの問屋の事とて兼太郎の身持に呆あきれ果て子供を引取って養育する代り本妻お静の籍を抜きやがて他へ再縁させたという話である。 丁度そんな話のあった頃から兼太郎は沢次の家にもどうやら居いづ辛らいようになって来た。初めの中うちは旦那の落おち目めに寝返りをしたなどと言われては以前の朋ほう輩ばいにも合す顔がない。今までお世話になった御恩返しをするのはこれからだと沢次は立派な口をきいていたが、一年二年とたつ中いつか公然と待合にも泊る。箱はこ根ねへ遠出にも行く。兼太郎は我慢をしていたが、遂ついには抱えの女供どもにまで厄介者扱あつかいにされ出したのでとうとう一昨年の秋しょんぼりと沢の家を出た。さすがに気の毒と思ったのか沢次はその時三千円という妾宅を売った折の金を兼太郎に渡した。以後兼太郎はあっちこっちと貸間を借り歩いた末、今の築地二丁目の出でか方たの二階へ引っ越して来た時には、女から貰もらった手てぎ切れの三千円はとうに米こめ屋やま町ちで大あら半かたなくしてしまい、残のこりの金は一年近くの居いぐ食いにもう数えるほどしかなかった。 雪は止やんだ。裸はだ虫かむしの甲こう羅らを干すという日ひよ和りも日曜ではないので、男湯には唯ただ一人生いけ花ばなの師匠とでもいうような白しら髭ひげの隠居が帯を解いているばかり。番台の上にはいつも見る婆ばばあも小娘もいない。流しの木きふ札だの積んである側そばに銅貨がばらばらに投出したままになっているのは大方隠居の払った湯ゆせ銭んであろう。兼太郎も湯銭を投出して下駄をぬごうとした時、ガラガラと女湯の戸をあけて入って来た一人の女がある。 色糸の入った荒い絣かすりの銘めい仙せんに同じような羽織を重ねた身なりといい、頤あごの出た中なか低びくな顔立といい、別に人の目を引くほどの女ではないが、十七、八と覚おぼしいその年頃とこの辺へんでは余り見かけない七しち三さんに割った女じょ優ゆう髷まげとに、兼太郎は何の気もなくその顔を見た。娘の方でも番台を間に兼太郎の顔を見るといかにも不審そうに、手にした湯銭をそのまま暫しばらく土間の上に突つっ立たっていたが、やがて肩で呼い吸きをするように、 ﹁まあお父とっさんしばらくねえ。﹂といったなり後あとは言葉が出ぬらしい。 ﹁お照てる。すっかり見ちがえてしまったよ。﹂ 兼太郎は人のいないのを幸い番台へ寄りかかって顔を差さし伸のばした。 ﹁お父さんいつお引越しになったの。﹂ ﹁去年の今いま時じぶ分んだ。﹂ ﹁じゃ、もう柳やな橋ぎばしじゃないのね。﹂ ﹁お照、お前は今どこにいるのだ。御おか徒ちま町ちのお爺じいさんの処にいるんじゃないのか。﹂ お照は俄にわかに当惑したらしい様子で、﹁今日はアノ何なの――ちょっとそこのお友達の内へ遊びに来ているんですよ。﹂ ﹁何しろここでお前に逢あおうとは思わなかった。お照、すぐそこだから帰りにちょっと寄っておくれ。お父さんはすぐそこの炭屋と自転車屋の角を曲ると三軒目だ。木村ッていう家にいるんだよ。曲って右側の三軒目だよ。いいか。﹂ その時戸を明けて貸自動車屋の運転手らしい洋服に下げ駄たをはいた男が二人、口笛でオペラの流はや行りう唄たをやりながら入って来たので、兼太郎はただ﹁いいかねいいかね。﹂と念を押しながら本ほ意いなくも下駄をぬいで上った。お照は気まりわる気げに軽く首うな肯ずいて見せるや否や男湯の方からは見えないズット奥の方へ行ってしまった。 茶の間の長火鉢で惣そう菜ざいを煮ていた貸間のかみさんは湯から帰って来た兼太郎の様子に襖ふすまの中から、 ﹁田島さん。御飯をあがるんなら蒸して上げますよ。煮くたれててよければお汁つけもあります。どうします。﹂ ﹁お汁は沢山だ。﹂と兼太郎は境の襖を明けて立ちながら、﹁おかみさん、不思議な事もあるもんだ。まるで人情ばなしにでもありそうな話さ。女房の実さ家とへ置き去りにして来た娘に逢ったんだ。女湯もたまにゃア覗のぞいて見るものさ。﹂ ﹁へえ。まア――。﹂ ﹁その時分女房は三十越していい年をしていやがったが、よくよくおれに愛あい想そをつかしゃアがったと見えて他よそへ片付いてしまやアがったんで、つい娘や子供の事もそれきり放うっ捨ちゃって置いたんだがね、数えて見るともう十八だ。﹂ ﹁この辺においでなさるんですか。まアこっちへお入んなさい。﹂ ﹁湯ざめがしそうだから着物を着て来よう。おかみさん娘が尋ねて来るはずなんだ。あんまりじじむさい風も見せたくないよ。﹂ 兼太郎は二階へ上り着物を着換えてお照の来るのを待った。午ひる飯めしを食べてしまったが一いっ向こう格子戸の明く音もしない。兼太郎は窓を明けて腰をかけ口に啣くわえた敷しき島しまに火をつける事も忘れて、路地から表通の方ばかり見つめていたが娘の姿は見えなかった。お照はやはりおれの事をよく思っていないと見える。人情のない親だと思うのも無理はない。尋ねて来ないのも尤もっともだ。手の甲で水みず洟ばなをふきながら首をすっ込めて窓をしめると、何ど処こかの家の時計が二時を打ち、斜ななめに傾きかけた日ひあ脚しはもう路地の中には届かず二階中は急に薄暗くなった。長い間窓に腰をかけていたので湯ゆざ冷めもする、火鉢の火を掻かき立たてて裏の物干へ炭たど団んを取りに行くとプンプン鳥とり鍋なべの匂においがしている。隣とな家りは木こび挽きち町ょうの花かり柳ゅう病院の助手だとかいう事で、つい去年の暮看護婦を女房に貰もらったのである。二階から此こな方たの家の勝手口へ遠慮なく塵ちりを掃き落すというので出でか方たのかみさんは田舎者は仕様がないとわるく言切っている。兼太郎は雪に濡ぬれた炭たど団んをつまんで独り火を起すその身に引くらべると、貰って間まもない女房と定めし休暇と覚しい今日の半日を楽しく暮す助手の身の上が訳わけもなく羨うらやましく思われたので、聞くともなく物干一つ隔てた隣の話声に耳をすました。すると物干の下なる内の勝手口で、 ﹁おかみさん、留守かい。おかみさん。﹂と言う男の声。物干の間から覗のぞいて見ると紺の股もも引ひきに唐とう桟ざん縞じまの双ふた子この尻を端折り、上に鉄てつ無む地じの半はん合がっ羽ぱを着て帽子も冠かぶらぬ四十年輩の薄い痘あば痕たの男である。 ﹁伊い三さどん、大変な道だろう。さアお上り。﹂水みず口ぐちの障子を明けたかみさんは男の肩へ手をやって、 ﹁今日は二階にいるんだからね。﹂と小声に言った。 ﹁そうか。貸間の爺じじいかい。じゃまた来ようや。﹂ ﹁何、いいんだよ。さア伊三どん。おお寒い。﹂ 男を内へ上げた後のち、かみさんは男の足駄を手早く隠してぴったり水口の障子をしめた。男は伊三郎という新しん富とみ町ちょう見けん番ばんの箱はこ屋やで、何でもここの家のおかみさんが待合の女中をしている時じぶ分んから好い仲であったらしい。兼太郎は去年の今頃は毎日二階にごろごろしていたので様子は委くわしく知っているのであった。その時分には二人は折々二階へ気を兼ねて別々に外へ出て行った事もあった。 兼太郎は炬こた燵つに火を入れて寝てしまおうかと思ったが今朝は正ひ午る近くまで寝ね飽あきた瞼まぶたの閉じられようはずもないので、古ぼけた二にじ重ゅう廻まわしを引ひっ掛かけてぷいと外へ出てしまった。本もとより行くべき処もない。以前ぶらぶらしていた時分行き馴なれた八はっ丁ちょ堀うぼりの講こう釈しゃ場くばの事を思おも付いついて、其そ処こで時間をつぶした後のち地じぞ蔵うば橋しの天てん麩ぷ羅ら屋やで一杯やり、新富町の裏うら河が岸しづたいに帰って来ると、冬の日は全く暮くれ果はて雪解の泥ぬか濘るみは寒風に吹かれてもう凍っている。 格子戸をあけると、わざとらしく境の襖ふすまが明け放しになっていて、長火鉢や箪たん笥すや縁えん起ぎだ棚ななどのある八畳から手ちょ水うず場ばの開ひら戸きどまで見通される台処で、おかみさんはたった一人後うし向ろむきになって米を磨といでいた。 ﹁おかみさん。とうとう来なかったか。﹂ ﹁ええ。お出いでになりませんよ。﹂とかみさんは何な故ぜか見返りもしない。 兼太郎はわけもなく再びがっかりして二階へ上るや否や二重廻を炬燵の上へぬぎすてそのままごろりと横になった。向う側の吉よし川かわという待合で芸者がお客と一所に﹁三みち千と歳せ﹂を語っている。聞くともなしに聞いている中うち、兼太郎はいつかうとうととしたかと思うと、﹁田島さん、田島さん。﹂と呼ぶ声。 階し下たのかみさんは梯はし子ごだ段んの下の上あが框りがまちへ出て取次をしている様子で﹁お上んなさいましよ。きっと転うた寝たねでもしておいでなさるんだよ。まだ聞えないのか知ら。田島さん。田島さん。﹂ 兼太郎は刎はね起おきて、﹁お照か。まアお上り。お上り。﹂といいながら梯子段を駈かけ下おりた。 お照は毛織の襟えり巻まきを長々とコートの肩先から膝ひざまで下げ手には買物の紙包を抱えて土間に立っていた。兼太郎は手を取らぬばかり。 ﹁お照。よく来てくれたな。実はもう来やしまいと思っていたんだ。おれも今いま方がた帰って来た処だ。さア二階へお上り。﹂ ﹁じゃ御ごめ免んなさいまし。﹂とかみさんの方へ何とつかず挨あい拶さつをしてお照は兼太郎につづいて梯子段を上った。 ﹁お照、ここがお父とっさんのいる処だ。お父さんも随分変ったろう。﹂と兼太郎は火鉢の火を掻き立てながら、﹁ぬがないでもいいよ。寒いから着ておいで。﹂ けれどもお照は後向になってコートと肩掛とを取乱された六畳の間の出入口に近い襖ふすまの方ほうに片寄せながら、 ﹁さっき昼間の中うち来ようと思ったんですよ。だけれどお友達と浅あさ草くさへ行く約束をしたもんだから。﹂ ﹁そうか、活動か。﹂と兼太郎は小形の長火鉢をお照の方へと押出した。 ﹁お父さん、これはつまらないものですけれど、お土みや産げなの。﹂ ﹁何、お土産だ。それは有難い。﹂と兼太郎は真実嬉うれしくてならなかったので、お照が火鉢の傍そばへ置いた土産物をば膝ひざの上に取って包紙を開きかける。土産物は何かの缶詰であった。 ﹁お父さん、やっぱり御おさ酒けを上るんでしょう。浅草にゃ何もないのよ。﹂ ﹁ナニこれァお父さんの大好きなものだ。﹂ 兼太郎は嬉うれ涙しなみだに目をぱちぱちさせていたがお照は始終頓とん着ちゃくなくあたりを見廻す床とこの間まに二合罎びんが置いてあるのを見ると自分の言った事が当っているので急に笑いながら、 ﹁お父さん、やっぱり寝る時に上るんですか。﹂ ﹁何だ。はははは。とんだものを目め付つかったな。何、これァ昨ゆう夜べ雪が降ったから途中で一杯やったら、もういいというのに間違えてまた一本持って来やがったからそのまま懐ふと中ころへ入れて来たんだ。﹂ ﹁お父さん、今夜はまだなの。お上んなさいよ。わたしがつけて上げましょう。﹂ 丁度手の届くところに二合罎があったのでお照はそれをば長火鉢の銅どう壺この中に入れようとして、 ﹁この中へ入れてもいいんでしょう。﹂ 兼太郎は唯首うな肯ずくばかり、いよいよ嬉しくて返事も出来ず涙ぐんだ目にじっとお照の様子を見みつ詰めるばかりである。お照が二合罎を銅壺の中に入れる手付きにはどうやら扱い馴なれた処が見えた。 兼太郎は昼間湯屋の番台で出で逢あったその時から娘の身の上が聞きたくてならなかった。しかし以前瓦かわ町らまちに店があった時分から子供の事は一いっ切さい母親のお静にまかしたなり、ろくろく顔を見た事もなかった位。朝起きる時分には娘はもう学校に行っている。娘が帰って来る時分には兼太郎は外へ出て晩飯は妾しょ宅うたくで食べ十二時過ぎでなければ帰っては来なかったので、今日突然こんなに成長した娘の様子を見ると、父親としてはいかにも済まないような心持もするしまた何となく恨んでいはせまいかと恐ろしいような気もして、兼太郎はききたい事も遠慮して聞きかねるのであった。 実際その時分には兼太郎は女房の顔を見るのがいやでいやでならなかったのだ。気がきかなくてデブデブ肥ふとっている位ならまだしもの事生れ付きひどい腋わき臭ががあったので嫌い抜いたあまり自然その間に出来た子供にまでよそよそしくするようになった訳わけである。兼太郎がその頃ころ目をつける芸者は岡よそ目めには貧ひん相そうだと言われる位な痩やせ立だちな小作りの女ばかり。旅はた籠ごち町ょうへ遂に妾宅まで買ってやった沢さわ次じの外ほかに、日にほ本んば橋しにも浅草にも月々きまって世話をした女があったが、いずれも着きや痩せのする小こづ作くりな女であった。大柄な女はいかほど容きり貌ょうがよく押し出しが立派でも兼太郎はさして見返りもせず、ああいう女は昔なら大おお籬まがきの華おい魁らんにするといい、当世なら女優向きだ、大柄な女は大きなメジ鮪まぐろをぶっころがしたようで大おお味あじだと冗談をいっていたのもそのはず、兼太郎は骨格はしっかりしてはいたが見だてのない小男なので、自分よりも丈せいの高い女房のお静が大おお一いち番ばんの丸まる髷まげ姿を見ると、何となく圧あっ服ぷくされるような気がしてならないのであった。 それこれと当時の事を思い出すにつけて兼太郎は娘のお照が顔立は母に似ているが身から体だつ付きは自分に似たものかそれほどデクデクもしていないのを見ると共に、あの母親の腋臭はどうなっただろうと妙な処へ気を廻した。しかしそれは折から階し下たのかみさんが焼き初めた寒かん餅もちの匂においにまぎらされて確かめる事が出来なかった。 お照は火針へ差かざす手先に始終お燗かんを注意していたが寒餅の匂に気がついたものと見え、﹁お父さん御飯はどうしているの。下でおまかないするの。﹂ ﹁家うちにいる時はそうするがね。毎日桶おけ町ちょうまで勤めに行くからね、昼は弁当だし帰りにゃ花はな村むらかどこかで一杯やらアな。﹂ ﹁お父さん。それじゃ今は勤め人なの。﹂ ﹁碌ろくなものじゃないよ。お前は子供だったから知るまいが、瓦町の店へ来た桑くわ崎ざきという色の黒い太った男だ。それが今成功して立派な店を張っているんだ。そこへ働きに行くのさ。﹂ ﹁桑崎さん、覚えているわ。どこだかお国の人でしょう。この頃はどこへ行ってもお国の人ばかりねえ。お国の人が皆成功するのねえ。﹂ ﹁お父さん見たようになっちゃ駄目だ。御おか徒ちま町ちのおじいさんも江戸ッ児こじゃないよ。﹂ 兼太郎は話が自然にここへ巡めぐって来たのを機会にその後の様子を聞こうと、﹁お照。お前母おっかさんがお嫁に行く時なぜ一所について行かなかったんだ。連つれ児こはいけないというはなしでもあったのか。﹂ ﹁そうでもないけれど……。﹂とお照は兼太郎の見詰める視線を避よけようとでもするらしく始終伏目になっていたが、﹁お父さん、もうお燗がよさそうよ。どうしましょう。﹂ 指先で二合罎を摘つまみ出して灰の中へそっと雫しずくを落している。 ﹁お照、お前どこでお燗のつけ方なんぞ覚えたんだ。﹂ ﹁もう子供じゃないんですもの。誰だって知ってるわ。﹂と猫ねこ板いたの上に載せながら、﹁お父さんお盃さかずきはどこにあるの。﹂ 兼太郎は肝かん腎じんな話をよそにして夜店で買った茶棚の盃を出し、 ﹁どうだお前も一杯やるさ。お燗の具合がわかる処を見ると一杯位はいけるだろう。﹂ ﹁わたしは沢山。﹂とお照は壜を取上げて父の盃へついだ。 ﹁お照。お前にめぐり遇あった縁起のいい日だからな。﹂とぐっと一杯干して、﹁お父さんがお酌をしよう。飲めなければ飲むまねでもいいよ。﹂ ﹁そう。じゃついで頂ちょ戴うだい。﹂ お照は兼太郎が遠慮して七分目ほどついた盃をすぐに干したばかりか火鉢の縁ふちで盃の雫を拭ぬぐって返す手つき、いよいよ馴れたものだと兼太郎は茫ぼう然ぜんとその顔を見詰めた。 ﹁お父さん。いやねえ。先さっ刻きから人の顔ばかり見て。わたしだっていつまでも子供じゃないわ。﹂ ﹁お照、お前、お母さんがお嫁に行ってから会ったか。﹂ ﹁いいえ。東京にゃいないんですって、大阪にお店があるんですとさ。﹂ ﹁角かく太たろ郎うはどうしている。お前が十八だと角太郎は十三だな。﹂ ﹁角ちゃんは今だってちゃんと御徒町にいるでしょう。男ですもの。﹂ ﹁女だといられないのか。﹂ ﹁いられないっていうわけもないけれど、わたしが悪かったのよ。おじいさんの言う事をきかなかったから。﹂ ﹁そんなら謝あや罪まればいいじゃないか。謝罪ってもいけないのか。﹂ ﹁外ほかの事と違うから、今更帰れやしませんよ。こうしている方ほうが呑のん気きだわ。﹂ ﹁外の事とちがう。どんな事なんだ。﹂ ﹁どんな事ッて、その中うちに言わなくっても分りますよ。お父さんも道楽した人に似合わないのね。﹂ ﹁わかったよ。だが、どうもまだよくわからない処があるな。お照、何も気まりをわるがる事はねえや。そんな事をいった日にゃお父さんこそ、お前に合す顔がありゃしない。お前がちゃんとおとなしく御徒町の家にいた日にゃ途中で逢あったって話も出来ない訳わけなんだ。そうだろう。乃おい公らは女房や子供をすてた罰で芸者家からもとうとうお履はき物ものにされちまった。それだから、こうしてお前と話もしていられるんだ。﹂ ﹁それァそうねえ。わたしが御徒町の家を出たからってお父さんが先せんのように柳やな橋ぎばしにいたら、やっぱり何だか行きにくいわね。お父さん、何な故ぜ柳橋と別れたの。﹂ ﹁別れたんじゃない。追出されたんだ。もうそんな過ぎ去った話はどうでもいいや。それよりか、お照、お前の話を聞こう。表のお湯屋で逢ったんだからこの近所にゃ違いなかろうが、何処にいるんだえ。お嫁にでも行ったのか。﹂ ﹁ほほほほ。お父さん。わたしまだやっと十八になったばかりよ。﹂ ﹁十八なら一人前の女じゃないか。お嫁にだって何だって行けるぜ。自分でもさっきもう子供じゃないって言ってたじゃないか。﹂ ﹁それァいろんな心配もしたし苦労もしたんですもの。﹂ ﹁お燗はつけるしお酌はできるし、隅すみにゃ置けなそうだな。お父さんに似ていろんな事を覚えたんだろう。ははははは。当あてて見ようか。お茶屋の姐ねえさんにしちゃ髪や風な俗りがハイカラだ。まずカッフェーかバーという処だが、どうだ。お照、笑ってばかりいないで教えたっていいじゃないか。﹂ ﹁てっきりお手の筋すじですよ。﹂ ﹁やっぱりカッフェーか。どうもそうだろうと思った。この近処にゃしかし気のきいたカッフェーはねえようだが、何処だい。﹂ ﹁この間まで人にん形ぎょ町うちょうの都みやこバーにいたんですよ。だけれどももうよしたの。先せんに日ひ比び谷やにいた時お友達になった姐さんがこの先の一丁目に世帯を持っているから二、三日泊りながら遊びに来ているのよ。もう随分遊んだからそろそろまた働かなくちゃならないわ。﹂ ﹁カッフェーは随分貰もらいがあるという話だがほんとかい。月にいくら位になるもんだね。﹂ ﹁そうねえ、一番初めまだ馴なれない時分でも三、四十円にはなってよ。銀座にいた時にはやッぱり場所だわね。百円はかかさなかったわ。だけれども急がしい処は着物にかかるからつまり同じなのよ。﹂ ﹁ふーむ偉いもんだな。どうしても女でなくちゃ駄目だ。お父さんなんか毎日足を棒にして歩いたっていくらになると思う。やっと八十円だぜ。その中で二十円は貸間の代に、それから毎日食べて行かなくちゃならないからな。そこへ行くと三十円でもくらしが出なけれァ楽だ。﹂ ﹁だから残そうと思えば随分残るわけなのよ。中には五百円も六百円も貯金している人もあるけれど、何の彼かのって蓄たまったかと思うとやっぱり駄目になるんですとさ。だからわたしなんぞ貯金なんかした事はないわ。有る時勝負で芝居へ行ったり活動へ行ったりして使っちまうのよ。﹂ ﹁お客様に連れて行ってもらうような事はないのかい。カッフェーだって同じだろう。お茶屋や待合の姐さんと同じように好いお客や旦那があるんだろう。﹂ ﹁ある人はあるし無い人はないわ。お父さんもうこれでおつもりよ。﹂ お照は二合壜を倒さかさにして盃につぎ、﹁何時でしょう。わたしもうそろそろお暇いとましなくちゃならないわ。二、三日中うちに行くところがきまったら知らせるわ。﹂ ﹁まだいいやな。あの夜よま廻わりは九時打つと廻るんだ。﹂ ﹁今夜これから襦じゅ袢ばんの襟えりをかけたりいろいろ仕度しなくちゃならないのよ。明あし日たの晩にでもまた来ますよ。お酒と何かおいしそうなものを持って来ますよ。﹂とお照は立ちかけて、﹁お父さん、ここのお家、厠はばかりはどこなの。﹂ お照は約束たがえず翌あく日るひの晩、表おも通てどおりの酒屋の小僧に四しご合うび壜んの銀ぎん釜がま正まさ宗むねを持たせ、自身は銀座の甘あま栗ぐり一包を白しろ木き屋やの記しる号しのついた風ふろ呂し敷きに包んで、再び兼太郎をたずねて来た。甘栗は下のおかみさんへの進しん物もつにしたのである。この進物でかみさんはすっかり懇意になり、お照が鉄てつ瓶びんの水を汲くみにと、下へ降りて行った時袖そでを引かぬばかりに、 ﹁お照さん、あなた、お燗かんをなさるんならこの火鉢をお使なさいましよ。銅どう壺こに一杯沸いていますよ。何いいんですよ。家じゃ十一時でなくっちゃ帰って来ませんからね。いっその事今夜はここでお話しなさいましよ。田島さん、ねえ、田島さん。﹂と後からつづいて手ちょ水うず場ばへと降りて来た兼太郎にも勤めたので、二人はそのまま長火鉢の側そばへ坐った。 かみさんとお照はかき餅もちと甘栗をぼりぼりやりながら酌をする。兼太郎はいつになく酔よっ払ぱらって、 ﹁お照、お前がおいらの娘でなくって、もしかこれが色いろ女おんなだったら生いの命ちも何もいらないな。昔だったら丹たんさんという役廻りだぜ。ははははは。﹂ ﹁丹さんて何のこと。﹂ ﹁丹さんは唐から琴こと屋やの丹たん次じろ郎うさ。わからねえのか。今いま時どきの娘はだから野暮で仕様がねえ。おかみさんに聞いて御ごら覧ん。おかみさんは知らなくってどうするものか。﹂ ﹁あら、わたしも知りませんよ。御酒の好きな人の事を丹次郎ッていうんですか。アアわかりましたよ。赤くなるからそれで丹たん印じるしだっていう洒しゃ落れなんですね。﹂ ﹁こいつは恐れ入った。ははははは。恐おそれ入いり谷やの鬼きし子ぼ母じ神んか、はははは。﹂ ﹁のん気ねえ。ほんとにお父とっさんは。﹂ ﹁酒は飲んでも飲まいでもさ。いざ鎌倉という時はだろう、ははははは。しかし大分今夜は酔ったようだな。﹂ ﹁お酒のむ人は徳ねえ。苦労も何も忘れてしまうんだから。﹂ ﹁だから昔から酒は憂うれいの玉たま箒ぼうきというじゃないか。酒なくて何のおのれが桜かなだろう。お酒さえ飲んでいれァお父さんはもう何もいらない。お金もいらない。おかみさんもいらない。﹂ ﹁そんな事いったって、お父さん、一人じゃ不自由よ。いつまでこうしていられるもんじゃない事よ。﹂ ﹁いてもいられなくっても最もう仕様がないやな。まァお照そんな話はよしにしようよ。折せっ角かく今夜はお正月らしくなって来たところだ。お照、お父さんのお箱を聞かせてやろうか。蓄音機で稽けい古こしたんじゃねえよ。﹂ やがて亭主が帰って来た。役者の紋をつけた双ふた子こじ縞まの羽織は着ているが、どこか近在の者ででもあるらしい身体付から顔立まで芝居者ものらしい所は少しもない。どうやら植木屋か何かのようにも見れば見られる男で、年は女房とさして違ってもいないらしいが、しょぼしょぼした左の目尻に大きな黒ほく子ろがあり、狭い額ひたいには二筋深い皺しわが寄っている。かみさんは弟にでも物言うような調子で、 ﹁お前さん。田島さんのお嬢さんだよ。頂ちょ戴うだ物いものをしてさ。﹂ ﹁そうかい。それァどうも。﹂と言ったきり亭主は隅の方へ座って耳みみ朶たぶへはさんだエヤシップの吸すい残のこりを手にとったが、火鉢へは手がとどかないのか、そのまま指先で火を消した煙たば草この先を摘つまんでいる。 ﹁どうです。芝居は毎日大入りのようですね。﹂と兼太郎は酔った揚あげ句くの相手ほしさに、 ﹁一杯献けんじましょう。今年の寒さむさはまた別だね。﹂ ﹁ありがとう御ござ在います。お酒はどうも……。﹂と出でか方たは再びエヤシップを耳にはさんでもじもじしている。 ﹁田島さん。駄目なんですよ。奈良漬もいけない位なんですよ。﹂ ﹁そうかい。ちっとも知らなかった。酒なんざ呑のまないに越した事こたアないよ。呑みゃアつい間違いのもとだからね。おかみさん、いい御亭主を持ちなすってどんなに仕合せだか知れないよ。﹂ かみさんは何とも言わずに台所へと立って膳ぜん拵ごしらえをしはじめた。 路ろ地じの内うちは寂しんとしているので、向むこ側うがわの待合吉川で掛ける電話の鈴りんの音ねのみならず、仕出しを注文する声までがよく聞こえる。 ﹁お父さん、それじゃわたし明日からまた先せんにいた日比谷のカッフェーへ行きますからね。通りかかったらお寄んなさいよ。御ごち馳そ走うしますよ。﹂とお照は髪のピンをさし直してハンケチを袂たもとに入れた。 兼太郎は酔っていながら俄にわかに淋さびしいような気がして、﹁寒いから気をつけて行くがいいぜ。今夜はやっぱり一丁目の友達のところか。﹂ ﹁どうしようかと思っているのよ。今夜はこれからすぐ日比谷へ行こうかと思っているのよ。今日お午ひる過ぎちょっと行って話はして来たんだし、それに様子はもうわかっているんだから。﹂ ﹁今夜はもう晩おそいじゃないか。﹂ ﹁まだ十二時ですもの。電車もあるし、日比谷のバーは随分おそくまでやってるわ。夏の中うちはどうかすると夜があけてよ。﹂ お照は出方の夫婦と兼太郎に送り出されて格子戸を明けながら、 ﹁まアいいお月夜。﹂ 建たち込こんだ家の屋根には一おと昨と日いの雪がそのまま残っているので路地へさし込む寒月の光は眩まぶしいほどに明るく思われたのである。 ﹁なるほどいいお月夜だ。風もないようだな。﹂と上あがり框がまちから外をのぞいた兼太郎は何という事もなくつづいて外へ出た。兼太郎は台処の側そばにある手ちょ水うず場ばへ行くよりも格子戸を明けて路地で用を足す方が便利だと思っているので寝しなにはよく外へ出る。 お照は二、三歩先に佇たたずんで兼太郎を待っていたが、やがて思出したように、﹁お父さんあの人が芝居の出方なの。どうしてもそうは見えないわね。﹂ ﹁むッつりした妙な男だ。もう一年越し同じ家にいるんだが、ろくぞっぽ話をしたこともないよ。﹂ ﹁何だか御亭主さん見たようじゃないわね。わたし気の毒になっちまったわ。﹂ 路地を出ると支し那な蕎そ麦ば屋やが向側の塀の外に荷をおろしている。芸者の乗っているらしい車が往ゆき来きするばかりで人ひと通どおりは全く絶え、表の戸を明けているのは自動車屋に待合ぐらいのものである。銭せん湯とうは今いま方がた湯を抜いたと見えて、雨のような水みず音おとと共に溝どぶから湧わく湯気が寒月の光に真まっ白しろく人家の軒下まで漂っている。 ﹁今夜は馬鹿に酔ったぜ。そこまで送って行こう。﹂ ﹁お父さんソラあぶない事よ。﹂ ﹁大丈夫、自分で酔ったと思ってれァ大丈夫だ。﹂ ﹁ねえ、お父さん。あのおかみさんは、わたし御亭主さんに惚ほれていないんだと思うのよ。﹂ ﹁何だ。また家のはなしか。﹂ ﹁惚れていない人と一緒になると皆ああなんでしょうか。いやなものなら思切って別れちまった方ほうがよさそうなものにねえ。﹂ ﹁色と夫婦とは別なものだよ。惚れた同士は我わが儘ままになるからいけないそうだ。お前なんぞはこれからが修行だ。気をつけるがいいぜ。﹂ ﹁お父さん。わたしが銀座にいた時分から今だに毎日々々きっと手紙を寄よ越こす人があるのよ。わたしの頼むことなら何でもしてくれるわ。随分いろんなものを買ってもらったわ。﹂ ﹁そうか。若い人かね。﹂ ﹁二十五よ慶けい応おうの方かたなのよ。この間一緒に占いを見てもらいに行ったのよ。そうしたらね。一度は別れるような事があるッて言うのよ。だけれど末へ行けばきっと望のぞみ通りになれるんですッて。﹂ ﹁いい家の坊ちゃんかね。﹂ ﹁ええお父さんは銀行の頭取よ。﹂ ﹁それじゃ大したものだ。あんまり好よすぎるから親おや御ごさんが承知しまいぜ。﹂ ﹁だから占を見てもらいに行ったのよ。だけれどね、おとうさん。もしどうしても向むこうのお家でいけないッて言ったら、その時は一所に逃げようッていうのよ。お父さん、もしそうなったら、お父さんどうかしてくれて。二階へかくまって下さいな。﹂ 兼太郎は返事に困って出もせぬ咳せ嗽きにまぎらした。いつか酒屋の四つ角をまがって電車通どおりへ出ようとする真まっ直すぐな広い往来を歩いている。 ﹁大丈夫よ。お父さん、わたしだって其そん様な向むこ見うみずな事はしやしないから大丈夫よ。カッフェーに働いていさえすれば誰の世話にならなくっても、毎日会っていられるんだから。いっそ一生涯そうしている方がいいかも知れないのよ。﹂ ﹁お照、お前怒ったのか。﹂と兼太郎は心配してお照の顔色を窺うかがおうとした時電車通の方から急いで来かかった洋服の男が摺すれちがいにお照の顔を見て、 ﹁照ちゃんか。日比谷だっていうから行ったんだよ。﹂ ﹁これから行く処なの。﹂とお照は男の方へ駈かけ寄って歩きながら此こな方たを見返り、﹁お父さんそれじゃさよなら、もういいわ。さよなら、おかみさんによろしく。﹂ 取残された兼太郎は呆あっ気けに取られて、寒月の光に若い男女が互たがいに手を取り肩を摺れ合あわして行くその後うし姿ろすがたと地に曳ひくその影とを見送った。 見送っている中うちに兼太郎はふと何の聯れん絡らくもなく、柳やな橋ぎばしの沢さわ次じを他の男に取られた時の事を思出した。沢次と他の男とが寄添いながら柳橋を渡って行く後姿を月の夜に見送ってもういけないと諦あきらめをつけた時の事を思出した。思出してから兼太郎はどうして今時分そんな事を思出したのだろうとその理由を考えようとした。 お照と沢次とは同じものではない。同じものであるべきはずがない。お照は不ふと届どき至しご極くな親おや爺じの量見違いから置去りにされて唯一人世の中へほうり出された娘である。沢次は家倉はおろか女房児こまでもふり捨てて打込んだ自分をば無造作に突き出してしまった女である。事情も人間も全然ちがっている。しかし夜もふけ渡った町の角かどに自分は唯一人取残されて月の光に二人連づれを見送る淋しい心持だけはどうやら似ているといえば言われない事もない。 お照はそれにしても不人情なこの親爺にどういうわけで酒を飲ませてくれたのであろう。不思議なこともあればあるものだ。それが不思議なら、あれほど恩になった沢次が自分を路頭に迷わすような事をしたのもやはり不思議だといわなければならない。 帽子もかぶらずに出て来たので娘が飲ませてくれた酒も忽たちまち醒さめかかって来た。赤電車が表通を走り過ぎた。兼太郎は路地へ戻って格子戸を明けると内ではもう亭主がいびきの声に女房が明ける箪たん笥すの音。表の戸をしめて兼太郎は二階へ上り冷ひえ切きった鉄てつ瓶びんの水を飲みながら夜具を引ひき卸おろした。 路地の外で自動車が発動機の響を立て始めたのは、大方向むこ側うがわの待合からお客が帰る処なのであろう。 大正十一年一月―二月稿