深川古石場町の警防団員であった荒物屋の佐藤は三月九日夜半の空襲に、やっとのこと火の中を葛西橋近くまで逃げ延び、頭巾の間から真赤になった眼をしばだたきながらも、放水路堤防の草の色と水の流を見て、初て生いの命ちび拾ろいをしたことを確めた。 しかしどこをどう逃げ迷って来たのか、さっぱり見当がつかない。逃げ迷って行く道すがら人なだれの中に、子供をおぶった女房の姿を見失い、声をかぎりに呼びつづけた。それさえも今になっては何ど処このどの辺であったかわからない。夜通し吹荒れた西南の風に渦巻く烟けむりの中を人込みに揉もまれ揉まれて、後へも戻れず先へも行かれず、押しつ押されつ、喘あえぎながら、人波の崩れて行く方へと、無我夢中に押流されて行くよりしようがなかったのだ。する中うち人込みがすこしまばらになり、息をつくのと、足を運ぶのが大分楽になったと思った時には、もう一歩も踏出せないほど疲れきっていた。そのまま意い久く地じなくその場に蹲しゃ踞がんでしまうと、どうしても立上ることができない。気がつくと背中に着物や食料を押込められるだけ押込んだリクサクを背負っているので、それを取りおろし、よろけながら漸ようやく立上り、前後左右を見廻して、佐藤はここに初て自分のいる場所の何処であるかを知ったのである。 広い道が爪先上りに高くなっている端はずれに、橋の欄干の柱が見え、晴れた空が遮るものなく遠くまでひろがっていて、今だに吹き荒れる烈風がなおも鋭い音をして、道の上の砂を吹きまくり、堤防の下に立っている焼残りの樹木と、焦こげた柱ばかりの小家を吹き倒そうとしている。そこら中じゅう夜具箪笥風呂敷包の投出されている間あい々だあいだに、砂ほこりを浴びた男や女や子供が寄りあつまり、中には怪我人の介抱をしたり、または平気で物を食べているものもある。橋の彼方から一ぱい巡査や看護婦の乗っているトラックが二台、今方佐藤の逃げ迷って来た焼跡の方へと走って行くのが見えた。大勢の人の呼んだり叫んだりする声の喧かしましい中に、子供の泣く声の烈風にかすれて行くのが一層物哀れにきこえた。佐藤は身近くそれ等の声を聞きつけるたびたび、もしや途中ではぐれた女房と赤ン坊の声であってくれたらばと、足元のリクサクもその儘ままに、声のする方へと歩きかけたのも、一度や二度ではなかった。 避難者の群は朝日の晴れやかにさしてくるに従って、何処からともなく追々に多くなったが、しかし佐藤の見知った顔は一人も見えなかった。咽喉が乾いてたまらないのと、寒風に吹き曝さらされる苦しさとに、佐藤は兎とに角かく荷物を背負い直して、橋の渡り口まで行って見ると、海につづく荒川放水路のひろびろした眺望が横たわっている。橋の下には焼けない釣舟が幾艘となく枯蘆の間に繋がれ、ゆるやかに流れる水を隔てて、向岸には茂った松の木や、こんもりした樹木の立っているのが言い知れず穏おだやかに見えた。橋の上にも、堤防の上にも、また水際の砂地にも、生命拾びろいをした人達がうろうろしている。佐藤は水際まで歩み寄って、またもや頭巾を刎ねのけ荷物をおろし、顔より先に眼を洗ったり、焼やけ焦こげだらけの洋服の塵を払ったりした後、棒のようになった両足を投出して、どっさりその場に寝転んでしまった。 すると、そのすぐ傍そばに泥まみれのモンペをはき、風呂敷で頬ほお冠かむりをした若いおかみさんが、頭巾をかぶせた四、五歳の女の子と、大きな風呂敷包とを抱えて蹲踞んでいたが、同じように真赤にした眼をぱちぱちさせながら、 ﹁一ちょ寸っと伺いますが東陽公園の方へは、まだ帰れないでしょうか。﹂と話をしかけた。 ﹁さア、どうでしょう。まだ燃えてるでしょうからね。おかみさん。あの辺ですか。﹂ ﹁ええ。わたし平井町です。一ッしょに逃出したんですけど、途中ではぐれてしまったんです。どこへ聞きに行ったら分るんでしょう。﹂という声も一言毎ごとに涙ぐんでくる。 ﹁とてもこの騒ぎじゃ、今すぐにゃ分らないかも知れませんよ。わたしも女房と赤ン坊がどうしたろうと困っているんですよ。﹂ ﹁まア、あなたも。わたしどうしたらいいでしょう。﹂とおかみさんはとうとう声高く涙を啜り上げた。 ﹁仕様がないから、焼跡に町会が出来たかどうだか見てくるんですね。それよりか、おかみさん。どこか行先の目当があるんですか。﹂ ﹁家は遠いんです。成田です。﹂ ﹁成田ですか。それじゃ、どの道一度町会へ行って証明書を貰って来た方がいいでしょう。一休みしてわたしも行って見ようと思っているんですよ。わたしは古石場にいました。﹂ ﹁あの、もう一軒、行徳に心安いとこがあるんです。そこへ行って見ようかと思っています。﹂ ﹁行徳なら歩いて行けますよ。この近辺の避難所なんかへ行くよりか、そうした方がよかァありませんか。わたしも市川に知った家がありますからね。あの辺はどんな様子か、行って見た上で、考えようと思ってるんです。もうこうなったら、乞食同様でさ。仕様がありませんよ。﹂ 佐藤も途法に暮れた目まな指ざしを風の鳴りひびく空の方へ向けた時、堤防の上から、 ﹁炊出しがありますから町会まで取りに来て下さアい。﹂と呼び歩く声がきこえた。 佐藤は市川で笊ざるや籠をつくって卸売をしている家の主人とは商売柄心やすくしていたので、頼み込んでその家の一間を貸してもらった。そして竹細工の手つだいをしたり、また近処の家でつくる高たか箒ぼうきを背負ったりして、時々東京へ売りに行った。その都つ度どもと住んでいた町の町会へも立寄り、女房子供の生死を調べたが手がかりがなかった。せめて死骸のありそうな場所だけでもと思ったがそれも分らずじまいであった。 火災を免れた市川の町では国府台の森の若葉が日に日に青く、真間川堤の桜の花もいつの間にか散ってしまったころである。佐藤は或ある日ひいつものように笊を背負い、束たばねた箒をかついで省線浅草橋の駅から橋だもとへ出た時、焼出されのその朝、葛西橋の下で、いっしょに炊出しの握飯を食って、その儘別れたおかみさんが、同じ電車から降りたものらしく、一歩あし先へ歩いて行くのに出会った。 わけもなくその日の事が思出されて、佐藤は後から、﹁もし、おかみさん。﹂と呼びかけた。 ﹁あら。あの時はいろいろお世話さまになりました。﹂ 振返るおかみさんの顔にも同じような心持が浮んでいる。見れば葛西橋下で初て見た時よりも今日はずっと好い女になっている。年は二十二、三。子供をつれていないので、まだ結婚しない女とも見れば見られる若々しさ。頬かぶりをしたタオルの下から縮し髪の垂れかかる細ほそ面おもては、色も白く、口元にはこぼれるような愛嬌がある。仕立直しのモンペ姿もきちんとして、何やら四角な風呂敷包を背負った様子は、買出しでなければ、自分と同じように行商でもしているのかと思われた。 ﹁おかみさん、もう此こっ方ちへ帰って来たんですか。﹂ ﹁いいえ。まだあっちに居ます。﹂ ﹁あっちとは。あの、行徳ですか。﹂ ﹁ええ。﹂ ﹁じゃ、あれッきり分らないんですか。﹂ ﹁いっそ分らない方がいいくらいでした。警察で大勢の死骸と一緒に焼いてしまったんだろうッて云うはなしです。﹂ ﹁運命だから仕方がありませんよ。わたしの方も今だにわからずじまいですよ。﹂ ﹁お互にあきらめをつけるより仕様がありませんねえ。わたし達ばっかりじゃないんですから。﹂ ﹁そうですとも。あなたの方が子供さんが助かっただけでも、どんなに仕合せだか知れませんよ。わたしに比べれば……。﹂ ﹁思出すと夢ですわね。﹂ ﹁何か好い商売を見つけましたか。﹂ ﹁飴を売って歩きます。野菜も時々持って出るんですよ。子供の食料代だけでもと思いまして……。﹂ ﹁わたしも御覧の通りさ。行徳なら市川からは一またぎだ。好い商売があったら知らせて上げましょうよ。番地は……。﹂ ﹁南行徳町□□の藤田ッていう家です。八幡行のバスがあるんですよ。それに乗って相川ッて云う停留場で下りて、おききになればすぐ分ります。百姓している家です。﹂ ﹁その中お尋ねしましょうよ。﹂ ﹁洲崎前の郵便局に少しばかりですけど、お金が預けてあるんですよ。取れないもんでしょうか。﹂ ﹁取れますとも。何処の郵便局でも取れます。罹災者ですもの。通帳があれば。﹂ ﹁通帳は家の人が持って行ったきりですの。﹂ ﹁それァ困ったな。でも、いいでさ。あっちへ行った時きいて上げましょう。﹂ ﹁済すみません。いろいろ御世話さまです。﹂ ﹁これから今日はどっちの方面です。﹂ ﹁上野の方へでも行って見ようかと思っています。広小路から池の端の方はぽつぽつ焼残ったとこもあるそうですから。﹂ ﹁じゃ、一ッしょに一廻りして見ようじゃありませんか。下谷も上野寄りは焼けないそうですよ。﹂ 時候もよし天気もよし。二人は話しながら焼け残った町々を売りあるくと、案外よく売れて、山下に来かかった時には飴はいつか残り少く、箒は一本もなくなり、笊が三ツ残ったばかりであった。停車場前の石段に腰をかけて二人は携帯の弁当包をひらき、またもや一ッしょに握飯を食べはじめた。 ﹁あの時のおむすびはどうでした。あの時だから食べられたんですぜ。玄米の生なま炊だきで、おまけにじゃりじゃり砂が入っている。驚きましたね。﹂ おかみさんはいかがですと、小こ女う子な魚ごの佃煮を佐藤に分けてやると、佐藤は豆の煮にたのを返礼にした。おかみさんは小女子魚は近処の浦安で取れるからお弁当のおかずには不自由しないような話をする。 佐藤は女房子供をなくしてから今日が日まで、こんなに面白く話をしながら物を食ったことは一度もなかったと思うと、無むや暗みに嬉しくてたまらない心持になった。 ﹁ねえ、おかみさん。あなた。これから先どうするつもりです。まさか一生涯一人でくらす気でもないでしょう。﹂ ﹁さア、どうしていいんだか。今のところ食べてさえ行ければいいと思っているくらいですもの。﹂ ﹁食べるだけなら心配するこたアありませんや。﹂ ﹁男の方なら働き次第ッていう事もあるでしょうけど、女一人で子供があっちゃア並大抵じゃありません。﹂ ﹁だから、ねえ、おかみさん。どうです。わたしも一人、あなたも一人でしょう。縁は異なものッて云う事もあるじゃありませんか。あの朝一ッしょに炊出しをたべたのが、不思議な縁だったという気がしませんか。﹂ 佐藤はおかみさんが心持をわるくしはせぬかと、絶えずその顔色を窺いながら、じわじわ口く説どきかけた。 おかみさんは何とも言わない。しかし別に驚いた様子も、困った風もせず、気まりも悪がらず、始終口元に愛嬌をたたえながら、佐藤がまだ何か言いつづけるつもりか知らというような顔をして、男の口の動くのを見ている。 ﹁おかみさん。千代子さんでしたね。﹂ ﹁ええ。千代子。﹂ ﹁千代子さん。どうです。いいでしょう。わたしと一ッしょになって見ませんか。奮発して二人で一ト稼かせぎかせいで見ようじゃありませんか。戦争も大きな声じゃ言われないが、もう長いことはないッて云う話だし……。﹂ ﹁ほんとにね、早く片がついてくれなくッちゃ仕様がありません。﹂ ﹁焼かれない時分何の御商売でした。﹂ ﹁洗濯屋していたんですよ。御得意も随分あったんですよ。だけど、戦争でだんだん暇になりますし、それに地体お酒がよくなかったしするもんで……。﹂ ﹁そうですか。旦那はいける方だったんですか。わたしと来たらお酒も煙草も、両方ともカラいけないんですよ。其そっ方ちなら誰にも負けません。﹂ ﹁ようございますわねえ。お酒がすきだと、どうしてもそれだけじゃア済まなくなりますからね。悪いお友達もできるし……今時分こんなお話をしたって仕様がありませんけれど、随分いやな思をさせられた事がありましたわ。﹂ ﹁お酒に女。そうなると極って勝負事ッて云うやつが付つき纏まとって来ますからね。﹂ ﹁全くですわ。じたい場所柄もよくなかったんですよ。盛場が目と鼻の間でしたし……。﹂ ﹁お察ししますよ。並大抵の苦労じゃありませんでしたね。﹂ ﹁ええ。ほんとに、もう。子供がなかったらと、そう思ったこともたびたびでしたわ。﹂ あたりは汽車の切符を買おうとする人達の行列やら、立退く罹災者の往ゆき徠きやらでざわついているだけ、却かえって二人は人目を憚るにも及ばなかったらしい。いきなり佐藤は千代子の手を握ると、千代子は別に引張られたわけでもないのに、自分から佐藤の膝の上に身を寄せかけた。 休戦になると、それを遅しと待っていたように、何処の町々にも大抵停車場の附近を重おもにしてさまざまな露店が出はじめた。 佐藤と千代子の二人は省線市川駅の前通、戦争中早く取払になっていた商店の跡の空地に、おでん屋の屋台を据えた。土地の人達にも前々から知合があったので、佐藤の店はごたごた葭よし簀ずをつらねた露店の中でも、最も駅の出入口に近く、人足の一番寄りやすい一等の場所を占めていた。 年が変ると間もなく世間は銀行預金の封鎖に驚かされたが、日銭の入る労働者と露店の商人ばかりは物貨の騰貴に却て懐中都合が好くなったらしく、町の商店が日の暮れると共に戸を閉めてしまうにも係らず、空地の露店は毎夜十一時近くまで電燈をつけていた。 あたりの様子で、その夜もかれこれその時刻になったらしく思われた頃である。佐藤の店の鍋の前にぬっと顔を出した女連の男がある。鳥打帽にジャンバー半ズボン。女は引眉毛に白粉口紅。縮髪に青いマフラの頬かむり。スコッチ縞の外套をきている。人柄を見て佐藤は、 ﹁いらっしゃい。つけますか。﹂と言いながら燗徳利を取上げた。 ﹁あったら、合成酒でない方が願いたいよ。﹂ ﹁これは高級品ですから。あがって見ればわかります。﹂ ﹁それはありがたい。﹂と男はコップをもう一つ出させて、女にも飲ませながら、 ﹁お前、どう思った。あの玉じゃせいぜい奮発しても半分というところだろう。﹂ ﹁わたしもそう思ってたのよ。まさか居る前でそうとも言えなかったから黙ってたんだけど。﹂ 二人ともそれとなくあたりに気を配りながら、小声に話し合っている。折からごそごそと葭簀を片よせその間から身を斜にして店の中へ入ったのは、毎夜子供を寝かしつけた後、店仕舞の手つだいに来る千代子である。千代子は電燈の光をまともに、鍋の前に立っている客の男とその場のはずみで、ぴったり顔を見合せた。 二人の面には驚愕と怪けげ訝んの感情が電の如く閃き現れたが、互にあたりを憚ったらしくアラとも何とも言わなかった。 客の男は矢庭にポケットから紙さつ幣た束ばを掴つか出みだして、﹁会計、いくら。﹂ ﹁お酒が三杯。﹂と佐藤はおでんの小皿を眺め、﹁四百三十四円になります。﹂ ﹁剰つ銭りはいらない。﹂と百円札五枚を投出すと共に、男は女の腕をひっ掴むようにして出て行った。外は真暗で風が吹いている。 ﹁さア、片づけよう。﹂と佐藤は売れ残りのおでんが浮いている大きな鍋を両手に持上げて下におろした。それさえ殆ほとんど心づかないように客の出て行った外の方を見送っていた千代子は俄にわかにおぞげ立ったような顔をして、 ﹁あなた。﹂ ﹁何だ。変な顔をしているじゃないか。﹂ ﹁あなた。﹂と千代子は佐藤に寄添い、﹁ちがいないのよ。生きてるんだわ。﹂ ﹁生きてる。誰が。﹂ ﹁誰ッて。あの。あなた。﹂と哀みを請うような声をして佐藤の手を握り、 ﹁あの人よ。たしかにそうだわ。﹂ ﹁あの。お前のあの人かい。﹂ ﹁そうよ。あなた。どうしましょう。﹂ ﹁パンパン見たような女がいたじゃないか。﹂ ﹁そうだったか知ら。﹂ ﹁闇屋見たような風だったな。明あし日たまた来るだろう。﹂ ﹁来たら、どうしましょう。﹂ ﹁どうしようッて。こうなったらお前の心一ツだよ。お前、もと通りになれと言われたら、なる気か。﹂ ﹁なる気なら心配しやしないわ。なれッて言ったッて、もう、あなた。知ってるじゃないの。わたしの身から体だ、先月からただじゃないもの。﹂ ﹁わかってるよ。それならおれの方にも考かんがえがあるんだ。ちゃんと訳を話して断るからいい。﹂ ﹁断って、おとなしく承知してくれるか知ら。﹂ ﹁承知しない訳にゃ行かないだろう。第一、お前とは子供ができていても、籍が入っていなかったのだし、念の為田舎の家の方へも手紙を出したんだし、此こっ方ちではそれ相応の事はしていたんだからな。此方の言うことを聞いてくれないと云うわけには行くまいさ。﹂ 二人は貸間へかえる道々も、先夫の申出を退ける方法として、一日も早く佐藤の方へ千代子の籍を入れるように話をしつづけた。 次の日、一日一夜、待ちかまえていたがその男は姿を見せなかった。二日たち三日たちして、いつか一ト月あまりになったが二度とその姿を見せなかった。 時候はすっかり変った。露店のおでんやは汁粉やと共にそろそろ氷屋にかわり初めると、間もなく盂うら蘭ぼ盆んが近づいてくる。千代子は夜ふけの風のまだ寒かった晩、店のしまい際にふと見かけた人の姿は他人の空そら似にであったのかも知れない。それともあの世から迷って来たのではなかったかと、気味の悪い心持もするので、大分お腹が大きくなっていたにも係らず、子供をつれて中山の法華経寺へ回えこ向うをしてもらいに行った。また境内の鬼子母神へも胎児安産の祈願をした。 或日、新小岩の町まで仕込の買出しに行った佐藤が帰って来て、こんな話をした。 ﹁あの男はやっぱりおれの見た通りパンパン屋だよ。あすこに五、六十軒もあるだろう。大抵亀戸から焼け出されて来たんだそうだがね。﹂ ﹁あら。そう。亀戸。﹂ 千代子の耳には亀戸という一ひと語ことが意味あり気に響いたらしい。 ﹁亀戸にゃ前々から引掛りがあったらしいのよ。でも、あなた。よくわかったわね。﹂ ﹁裏が田たん圃ぼで、表は往来から見通しだもの。いつかの女がシュミーズ一ツで洗濯をしているから、おやと思って見ると、旦那は店口で溝板か何か直していたッけ。﹂ ﹁あなた。上って見て。﹂ ﹁突つき留とめるところまで、やって見なけれア分らないと思ったからよ。みんなお前の為だ。お茶代一ぱい、七十円取られた。﹂ 千代子は焼餅もやかず、あくる日は早速法華経寺へお礼参に出かけた。 ︵昭和廿二年十一月稿︶