ふるさとの東京には、去年の秋流寓先から帰ったその日、ほんの一夜を明あかしたばかりなので、その後は東京の町がどうなったか、何も知るよしがない。年は変って春の来るのも近くなった。何かにつけて亜ア米メ利リ加カに関することが胸底に往来する折からでもあろう。不ふ図とわたくしは、或ある年としの春、麻布広尾なる光林寺の後丘に米国通訳官ヒュースケンの墳墓をたずねたことを思出した。 ヒュースケンの事蹟は今更贅ぜいするに及ぶまい。開港前下田に上陸した米国の使節タウンセント、ハリスが幕府の有司と談判するには和オラ蘭ン陀ダ語に通ずる事の必要から、和蘭陀人にしてまた米国人なるその人を伴って来た。本国には一人の母がいたと云う。ヒュースケンは後に米国の公使館が九段下から麻布善福寺の境内に移されてから、一夜芝赤羽橋外異人接遇所から馬でかえる道すがら、薪河岸で日本の刺客数人に襲われ重傷を負い、善福寺境内の公使館に入ると間もなく息を引取った。今座右に参考書を持たないから、文久年間とばかりで、歳月を明記することができない。 葬式はどういう関係からであるか、善福寺では執行せられず、さほどには遠からぬ広尾の光林寺で営いとなまれ、その亡骸はその裏手の岡に登る墓地に埋葬せられた。その時の光景は英国公使オルコックが﹁大たい君くんの首都における三年﹂と題された名高い記録に細述せられている。それに依って見るに、葬儀の主宰者は仏フラ蘭ン西スの伝道師某氏で、英米独仏の使節と随員とが参列し、独ドイ逸ツ軍艦から上陸した海兵が軍楽を吹奏した。そして、光林寺の境内には老樹が多く墓地の幽ゆう邃すいであった事までが仔細に描写せられている。 わたくしがヒュースケンの墓を見て置きたいという心になったのは、オルコック公使の記録に誘われたが為である。記録は乾燥なる報告書ではない。著者は後に江戸浮世絵の蒐集家として欧洲の好こう事ず家か中に知られた人だけあって、観察は細微に渉り、文章は理路整然としていながら、時には神経質かと思われる程感情に富んでいる。 わたくしは読下の際、光林寺葬送当日の光景は、もしもわたくしにして、これを能よくすべき才能があったなら、好個の戯曲、好個の一幕物をなさしむるに足るべきような心持がした。顧れば十余年前の事である。満洲事変が起ってから、世には頻々として暗殺が行われ初めた頃である。一種の英雄主義が平和に飽きた人心を蠧とど毒くし初めた頃である。しかるに、どういうわけからか、この新しい世の趨勢に対して、わたくしは不満と不安とを覚えて歇やまざる結果、日本刀の為に生命を失った外国使臣の運命について、これを悲しむ情の俄にわかに激しくなるのを止とどめ得なかった。日本刀を以て外客を道に斬った浪士の心は言うまでもなく壮となすべきであろう。しかし、それと共に、老母を国に残して来た遠客の死は、更に遥に悲壮であり、また偉大であると言わねばなるまい。 わたくしは慶応義塾の教壇を退いてから、久しく広尾のあたりを通る機会がなかった。四谷塩町から青山霞町を過ぎて広尾に至る市内電車の初て開通したのは久しからざる以前の事で、その時分笄橋から、広尾の麓を過ぎて三ノ橋に至る小流の岸にはむかしながらの郊外らしい田園の風趣が残っていた。電車の屋根は沿道の樹木の垂れさがる枝に触れぬばかり。流の水の堰せきにせかれて瀑となるあたりには、水車がゆるやかに回っていた。 しかし震災後に至って電車は広尾の曲り角から、その支線を豊沢から恵比須の方へと延長させるようになって、水車の回っていたあたりは、市中のいずこにも見られるような乗換場の雑沓を呈する処と化した。 光林寺の門前には赤羽橋の方へ行く電車の停留場がある。門前の道路には松の老樹が両側からその枝を交えていたことを覚えているが、幾年の後重ねて来て見ると、松は大方伐り去られながら、それでもどうやら往時を思い起させるだけの一、二本を残していた。 門内に進み入り、扉のかげの花屋で香こう花げを買いながら、わたくしは何と言っていいかわからぬので、まず、それとなく、 ﹁ここのお寺に西洋人のお墓があったと思いましたが、……。﹂ すると、花屋の婆は、折々弔いに来るものがあると見えて、 ﹁ええ。御ござ在いますよ。本堂の裏です。﹂ 別に恠あやしむ様子もなく、火をつけた線香と、有合う手桶を片手にすたすた井戸の方へ。わたくしは境内を見廻しながらその後について行く。 墓は本堂のうしろ。山椿の花が見頃に咲いている崖を五、六歩上りかけた処に在った。崖がけ土つちのくずれが、生茂った木の根で、危く支えられているので、傾斜した土の上に立てられた墓石は高さ三、四尺ばかりに過ぎぬが、前の方にのめりはしないかと危ぶまれた。石の頂に屋やね根が形たの飾りが載せてあって、英字で姓名及び官名。それに忌きし辰んが刻してある。石の傍にあまり大きくない一株の梅があって、その枝には点々として花がさいていた。墓の周囲には結ばれた垣もないので、梅の木は隣りの墓に葬られた人の為めに植えられたものかも知れないが、わたくしの目には限りなく懐しい心持がした。立春を過ぎて後、あまり日ひか数ずのたっていない早春の日は、冬日に変らぬ薄い軟かな光を斜に石の面に注ぎ、あるか無しかの微風に吹かれもつれる線香の烟けむりの消え行く末までを、あきらかに照し出している。 わたくしは大きくゆるやかに動く波のような悲しみ――陶酔に似たような寧むしろ快い哀愁に包まれながら、線香の烟を後に残して墓畔を去った。 日本の軍隊が北京で砲火を放ったのはこの年の夏である。わたくしはその後一たびも広尾を過ぎる機会がなかった。 去年爆弾は光林寺の堂を焼いたか、否いなか、わたくしは知らない。堂後の崖に在ったヒュースケンの墳墓が、もし無事に残っていたなら、わたくしが曽かつて見た一樹じゅの梅は、十余年の星霜を経ただけその幹を太くし、間もなく花をさかすであろう。 思うに米国進駐軍の兵士は既に幾度か、その国の不幸であった外交官の霊魂を慰めるために、花束と祈祷とを捧げに行ったであろう。そして、春になったら、彼等もまたわたくしと同じように墓畔に薫る一樹の海を﹇#﹁海を﹂はママ﹈見のがさぬであろう。 ︵昭和廿一年丙戌正月時事新報所載︶