私は、よく怪物に勝つことがあるよ、しかし或あるいは負けていたのかもしれないがね――
数すね年んぜ前ん、さる家を訪ねて、昼ちゅ飯うはんの馳走に与あずかって、やがてその家を辞して、ぶらぶら向むこ島うじまの寺てら島じま村むらの堤つつみにかかったのが、四時頃のことだ、秋の頃で戸おも外ては未まだ中なか々なか明あかるい、私が昼の膳に出してくれた、塩しお鰹かつおが非常に好うま味いといったので、その主人が、それなら、まだ残っているこの片身を持って行ゆきたまえというので、それを新聞紙に包んでもらって、片手に提さげながらやってくると、堤どての上を二三町歩むか歩まぬ内うち突然、四あた辺りが真暗に暮れてしまった、なんぼ秋の日は釣つる瓶べお落としだと云ったって、今の先さきまで、あんなに明あかるかったものが、こんな急に、暗くなる道理はない、その時分には未いまだあの辺あたりも開ひらけぬ頃で、あたりはもう、あまり人通りもないのだ、こいつ必ず何かの悪いた戯ずらだろうと気がついたから、私は悠然とその堤どての草の上に腰をおろして、さて大声をはりあげて怒ど号なった、この時傍そばで誰か聞いていたら、さぞ吹ふき出だしたろうよ、
﹁やい、狐か狸か知らないが、よく聞け、貴様は、今己おれが手に持っておる、この鰹かつおが欲しいので、こんな悪いた戯ずらをするのだろう、己おれは貴様達に、そんな悪いた戯ずらをされて、まざまざとこの大事な魚うおを、やるような男ではないぞ、今お己れはここで、美みご事とにこれを、食ってしまうから、涎よだれでも垂らしながら見物しろ﹂
といって、紙の内から、例の塩しお鰹かつおを出して私はムシャムシャ初めて、とうとう皆食い終おわって、
﹁モウ、皮でも食らえ﹂
といいながら、前の方へ、投ほう出りだすと、見みる見る内うちに、また四あた辺りが明るくなったので、私も思わず、笑いながら、再び歩あゆ出みだして、無事に家に帰ったが、何しろ、塩しお鰹かつおを、そんな一時に食ったので、途とち事ゅう咽のどが渇かわいて仕方がない、やたらに水を飲んだもので、とうとう翌日に下げ痢りで苦しんだよ、それ故まあ、一時はおどかしてやったものの矢やは張り私の方が結けっ句く負けたのかも知れないね。
これと同じ様な事が、京きょ都うとに居おった時分にもあった、四年ばかり前だったが、冬の事で、ちらちら小雪が降っていた真まっ暗くらな晩だ、夜、祇ぎお園んの中なか村むら楼ろうで宴会があって、もう茶屋を出たのが十二時過すぎだった、中村楼の雨傘を借りて、それを片手にさしながら、片手には例の折詰を提さげて、少し、ほろ酔い加減に、快よい気持で、ぶらぶらと、智ちお恩んい院んの山さん内ないを通って、あれから、粟あわ田だにかかろうとする、丁ちょ度うど十じゅ楽うら院くいんの御ごり陵ょうの近きん処じょまで来ると、如ど何うしたのか、右ゆん手でにさしておる傘からかさが重くなって仕方がない、ぐうと、下の方へ引き付けられる様で、中なか々なか堪こらえられないのだ、おかしいと思って、左の折詰を持った手で、傘かさを持ってる手の下をさぐってみたが何物も居いない、こいつまた何かござったなと、早さっ速そく気がついたので、私はまた御みさ陵さぎの石段へどっかと腰を下ろして怒号ったのだ、
﹁己おれは貴様達に負ける男ではないから、閉口して、己おれが今この折詰のお馳走を召めし上あがるところを、拝見しろ﹂
といいながら、それを開けて、蒲鉾の撮つま食みぐいだの、鯛の骨しゃぶりを初めて、やがて、すっかり、食い終おわったので、
﹁折でも食え﹂
と投なげ出だして、やおら、起たって、また傘かさをさして歩み出したが、最も早う何事もなく家に帰った、昔からも、よくいうが、こんな場合には、気を確たしかに持つことが、全く肝要の事だろうよ。