◎北きた千せん住じゅうに今も有る何なんとか云う小間物屋の以も前との営しょ業うばいは寄席であったが、亭主が或る娼しょ妓うぎに精うつ神つをぬかし、子まである本妻を虐ぎゃ待くたいして死に至らしめた、その怨念が残ったのか、それからと云うものはこの家に奇あやしい事が度たび々たびあって驚おどろかされた芸人も却なか々なか多いとの事であるが、或ある時素しろ人うと連れんの女芝居を興行した際、座ざが頭しらの某ぼうが急に腹痛を起おこし、雪せっ隠ちんへはいっているとも知らず、席せき亭ていの主人が便所へ出掛けて行く、中の役者が戸を明あけて出る機とた会ん、その女の顔を見るが否や、席せき亭ていの主人は叫きゃ喚っと云って後ろへ転ひっ倒くらかえり汝てめえまだ迷っているか堪忍してくれと拝おがみたおされ。女おん俳なや優くしゃはあべこべに吃びっ驚くりして、癪しゃくを起おこしたなどは滑稽だ。
◎京きょ都うとの某壮士或る事件を頼まれ、神こう戸べへ赴き三日斗ばかりで、帰る積つもりのところが十日もかかり、その上に示談金が取れず、貯たくわえの旅費は支つかいきり、帰りの汽車賃にも差さし支つかえ、拠よん無どころなく夕方から徒歩で大おお坂さかまで出でか掛ける途中、西にしの宮みやと尼あまが崎さきの間あいだで非常に草くた臥びれ、辻つじ堂どうの椽えん側がわに腰を掛かけて休息していると、脇の細道の方から戛かつ々かつと音をさせて何か来る者がある、月が有るから透すかして見ると驚おどろいた、白しら糸いと縅おどしの鎧よろいに鍬くわ形がた打うちたる兜かぶとを戴いただき、大太刀を佩おび手に十文字の鎗やりを提さげ容貌堂々威いふ風うり凜んり々んたる武者である、某はあまり意外なものに出会い呆ぼう然ぜんとして見みつ詰めているうち、彼かの武者は悠ゆう々ゆうとして西の宮の方へ行いってしまったが、何が為ために深夜こんな形ぎょ相うそうをして、往来をするのか人間だろうか妖怪だろうか、思えば思うほど、不審が晴れぬと語りしは、今から七八年あとの事である。
◎浅あさ草くさの或る寺の住じゅ持うじまだ坊主にならぬ壮年の頃過あやまつ事あって生家を追われ、下しも総うさの東とう金かねに親類が有るので、当分厄介になる心つも算りで出しゅ立ったつした途中、船ふな橋ばしと云う所で某ある妓ぎろ楼うへ上あがり、相あい方かたを定めて熟睡せしが、深夜と思う時分不ふ斗と目を覚さまして見ると、一人であるべき筈の相あい方かたの娼しょ妓うぎが両ふた人りになり、しかも左右に分わかれて能よく眠っているのだ、有る可べき事とも思われず吃びっ驚くりしたが、この人若いに似にあ合わず沈おち着ついた質たちゆえ気を鎮しずめて、見詰めおりしが眼めも元と口くち元もとは勿もち論ろん、頭の櫛くしから衣類までが同ひと様つゆえ、始めて怪かい物ぶつなりと思い、叫あ喚っと云って立たち上あがる胖もの響おとに、女も眼を覚さまして起おき上あがると見る間に、一人は消えて一人は残り、何に驚おどろいて起おきたのかと聞きかれ、実は斯これ々これと伍いち什ぶしじゅうを語るに、女不いぶ審かしげにこのほども或る客と同どう衾きんせしに、同じ様な事あり畢ひっ竟きょう何なに故ゆえとも分わ明からねど世間に知れれば当この楼うちの暖のれ簾んに疵きずが付つくべし、この事は当この場ばぎり他言は御無用に願うと、依たの嘱まれ畏おそ々るおそる一ひト夜よを明あかしたる事ありと、僕に話したが昔むか時しの武ぶへ辺んし者ゃに、似通った逸いつ事じの有る事を、何やらの随筆本で見たような気もする。
◎これは些ちと古いが、旧幕府の頃南みな茅みか場やば町ちょう辺の或る者、乳ちの呑み子ごを置おいて女房に亡なくなられ、その日稼ぎの貧びん棒ぼう人にんとて、里子に遣やる手てあ当ても出来ず、乳が足たりぬので泣なきせがむ子を、貰もらい乳ちちして養いおりしが、始終子供に斗ばかり掛かかっていれば生活が出来ないから、拠よん無どころなくこの児こを寐ねかしつけ、泣ないたらこれを与えてくれと、おもゆを拵こしらえて隣家の女房に頼み、心ならずも商あきないをしまい夕か方え帰って留守中の容よう子すを聞くと、例いつも灯ひの付つくように泣なく児こが、一日一回も泣なかぬと言いわれ、不審ながらも悦よろこんで、それからもその通りにして毎日、商あきないに出でむ向くに何なにとても、留守中一回も泣ないた事が無く、しかも肥こえ太ふとりて丈夫に育つ事、あまりに不思議と、我も思えば人も思い、段だん々だん噂が高くなり、遂ついには母の亡霊来きたりて、乳を呑のますのだと云うこと、大評判となり家主より、町奉行所へ訴うったえ出たる事ありと、或る老人の話しなるが、それか有あらぬか兎とに角かく、食物を与えざるも泣なくこと無く、加しか之のみならず子供が肥こえ太ふとりて、無事に成長せしは、珍と云うべし。
◎伊い賀がの上うえ野のは旧藤とう堂どう侯の領分だが藩政の頃犯はん状じょう明あきらかならず、去さり迚とて放ほう還かんも為し難き、俗に行ゆき悩なやみの咎とが人にんある時は、本ほん城じょう伊い勢せの安あ濃の津つへ差さし送おくると号ごうし、途中に於おいて護送者が男は陰いん嚢のう女は乳ちちを打うって即死せしめ、死骸を路傍の穴へ蹴けこ込みて、落らく着ちゃくせしむる事あり、或ある時亭主殺しの疑いある女にて、繋けい獄ごく三年に及ぶも証拠上あがらずされば迚とて追放にもなし難く、例の通りこの刑を行おこないしが、その婦人の霊、護送者の家へ尋ね行き、今こん日にちは御主人にお手てか数ずを掛かけたり、御帰宅あらば宜よろ敷しくと云いい置おき、忽たちまち影を見失いぬ、妻不思議に思いいるところへ、主ある人じ帰り来きたりしかば、こうこうと物語りしに、主ある人じ色を変じて容貌風ふう体ていなどを糺ただし、それこそ今きょ日う手に掛かけたる女なり、役目とは云いながら、罪作りの所わ為ざなり、以来は為すまじき事よと、後悔して後のち百姓となり、無事に一生を送りしと、僕上野に遊んだ際、この穴を見たが惜おしいかな、土地の名を聞きき洩もらした、何でも直じき上に寺のある、往来の左ひだ方りだと記憶している。
◎先代の坂ばん東どう秀しゅ調うちょう壮年の時分、伊い勢せの津つへ興行に赴き、同所八やは幡たの娼家山やま半はん楼ろうの内うち芸げい者しゃ、八やえ重き吉ちと関係を結び、折おり々おり遊びに行きしが、或ある夜鰻を誂あつらえ八重吉と一いっ酌しゃ中くちゅう、彼が他たの客席へ招かれた後あと、突然年若き病人らしい、婦人が来て、妾わたしは当こち楼らの娼しょ妓うぎで、トヤについて食が進まず、鰻を食たべたいが買う力が無いと、涙を流して話すのを、秀調哀れに思いその鰻を与えしに、彼はペロリと食たべて厚く礼を言い、出て往いった後あと間も無く八重吉が戻って、その話を聞きまたしても畜生がと、大たい層そう立腹せしに驚き秀調その訳を訊ねしに、こは当楼の後ろの大薮に数すね年ん住すんでいる狸の所しわ為ざにて、毎度この術てで高うま味いものをしてやらるると聞き、始めて化ばかされたと気が付ついて、果はては大笑いをしたが、化ばけ物ものと直接応対したのは、自分斗ばかりであろうと、誇ほこ乎りかに語りしも可お笑かし。
◎維新少し前の事だ、重罪犯の夫婦が伝でん馬まち町ょうの牢内へはいった事がある、素もとより男牢と女牢とは別々であるが、或ある夜女牢の方に眠りいたる女房の元へ夢の如く、亭主が姿を現わし、自お個れも近ちか々ぢか年が明くから、草わら鞋じを算段してくれと云う、女房不審に思ううち、夢が消きえてしまった、大方夫婦の情で案じているから、こんな夢を見るのだろうと思いおりしに、翌晩から同じ刻限に三晩続け、殊ことに最後の夜の如きは、愚痴ッぽい事を云いって消き失えた、あまり不思議だから女房は翌日、牢番に次第を物語った、すると死刑になる囚人には、折々ある事だ願ってみろと言いわれ、右の趣を石いし出でた帯てわ刀きまで申し出で、聞きき済ずみになりて草わら鞋じを下げ渡されたが、その翌日亭主は斬罪に行なわれ、女房は重追放で落らく着ちゃくしたそうだ、最も牢内には却なか々なかお化ばけ種だねは、豊富であると、牢の役人から聞きいた事を思い出した。
◎大おお阪さか俳優中なか村むら福ふく円えんの以も前との住すま居いは、鰻うな谷ぎだにの東ひがしの町ちょうであったが、弟子の琴こと之のす助けが肺病に罹かかり余程の重態なれど、頼たの母もしい親族も無く難なん義ぎすると聞き自宅へ引ひき取とりやりしが、福円の妻女は至って優しい慈悲深き質たちゆえ親も及ばぬほど看病に心を竭つくし、後のち桃もも山やまの病院にまで入いれて、世話をしてやった、すると或ある夜琴之助が帰り来きたり、最もう全なお治りましたからお礼に来ましたと、云いったがその時は別に奇あやしいとも思わず、それは結構だ早く二階へ上ってお寝ねと云いわれ当人が二階へ上って行く後うし姿ろすがたを認めた頃、ドンドンと門を叩く者がある、下女を起おこして聞きかせるとこれは病院の使つかいで、当こち家らのお弟子さんが危篤ゆえ知しらせると云いわれ、妻女は偖さてはそれ故ゆえ姿を現あらわしたかと一いっ層そう不ふび便んに思い、その使つかいと倶ともに病院へ車を飛とばしたが最もう間に合あわず、彼は死んで横よこ倒たわっていたのである、妻女は愈いよ々いよ哀れに思い死骸を引ひき取とり、厚く埋葬を為してやったが、丁ちょ度うど三七日の逮たい夜やに何か拵こしらえて、近所へ配ろうとその用意をしているところへ、東とう洋よう鮨ずしから鮨の折おり詰づめを沢山持もち来きたりしに不審晴れず、奈い何かなる事わ情けと訊たず問ねしに、昨夜廿にじ一ゅう二いちにのこうこう云う当こな家たのお弟子が見えて、翌あ日す仏事があるから十五軒前折おり詰づめにして、持もって来てくれと誂あつらえられましたと話され、家内中顔を見合せて驚き、それは幽霊が往いったのだろうとも云いわれず、右の鮨を残らず引ひき受うけ、近所へ配って回えこ向うをしてやったそうだが、配る家が一軒も過不足なく、その数通りであったと云うは一ちょ寸っと変っている怪談であろう。
◎紀きし州ゅう高こう野やさ山んの道中で、椎しい出でから神かみ谷やの中間に、餓がき鬼ざ坂かと云うがある、霊山を前に迎えて風ふう光こう明めい媚びな処ところに、こんな忌いま々いましい名の坂のあるのは、誰でも変に感じられるが四五年以前或ある僧が此こ処こで腹を減へらし前へも出られず、後へも戻れず、立たちすくみになって、非常に弱よわっていると、参詣の老人がそれを認めて、必きっ然と餓が鬼きが着きたのだ何か食うと直すぐ治ると云って、持もっている饅まん頭じゅうを呉くれた、僧は悦よろこんで一ツ食くったが、奈い何かにも不思議、気分が平常に復してサッサッと歩いて無事に登山が出来たと話した事があった、此こ処こは妙な処ところで馬でも何でも腹が減ると、立たちすくみになると云い伝え、毎日何百疋ぴきとも知れず、荷を付けて上り下りをする馬ま士ごまで、まさかの用心に握り飯を携も帯たぬ者は無いとの事だ、考かんがえてみると何だか怪しく思われぬでも無い。
◎京きょ都うとの画工某の家いえは、清きよ水みずから高こう台だい寺じへ行ゆく間だが、この家の召めし仕つかいの僕ぼくが不ふら埒ちを働き、主人の妻と幼児とを絞こう殺さつし、火を放ってその家を焼やいた事があるそうだ、ところで犯人も到とう底てい知しれずにはいまいと考え、ほとぼりのさめた頃京都市を脱ぬけ出だして、大おお津つまで来た時何か変な事があったが、それを耐こらえて土つち山やま宿じゅくまで漸ようやく落おち延のび、同所の大おお野の家やと云う旅や宿ど屋やへ泊ると、下女が三人前の膳を持もち出だし、二人分をやや上かみ座くらへ据すえ、残りの膳をその男の前へ直なおした、男も不思議に思い、一人の客に三人前の膳を出すのは如ど何ういう訳だと聞くと、下女は訝いぶかしげに三人のお客様ゆえ、三膳出しましたと云いって、却かえってこの男を怪あやしんだ、爰ここに於おいてこの男は主人の妻子が付つき纏まとって、こんな不思議を見せるのだと思い、迚とても
れぬと観念した、自じ訴そせんと取とって返かえす途上捕ほば縛くされて、重刑に処せられた、これは当時この犯人捜索を担当して尽力した京都警察本部の某刑事の話しである。
◎先年伊い勢せの津つへ赴き、二週間斗ばかり滞在した事があった、或ある夜友人に招かれて、贄にえ崎さきの寿こと楼ぶきろうで一酌を催し、是ぜ非ひ泊れと云いったが、少し都合が有あって、同所を辞したのは午前一時頃である、楼ろう婢ひを介して車を頼たのんだが、深しん更こうに仮か托まけて応じてくれ無い、止むを得ず雨を衝ついて、寂じゃ莫くばくたる長堤を辛ようやく城内まで漕こぎつけ、藤とう堂どう采うね女め、玉たま置おき小こへ平い太た抔など云う、藩政時分の家老屋敷の並んでいる、里りぼ俗くり鰡ゅう堀ぼりへ差さし懸かかると俄がぜ然ん、紫しで電んい一っせ閃ん忽たちまち足元が明あかるく成なった、驚おどろいて見ると丸太ほどの火柱が、光りを放って空中へ上る事、幾百メートルとも、測量の出来ぬくらいである、頓やがてそれがハラハラと四方に飛散する状さまは、恰あたかも線香花火の消きえるようであった、雨は篠しのを束つかねて投なぐる如きドシャ降り、刻限は午前二時だ、僕ならずとも誰でもあまり感かん心しんはしまい。翌日旅館の主人に当夜の恐怖談をすると、彼は微笑して嘲あざけるかの如き口こう吻ふんで、由来伊勢には天火が多い、阿あこ漕ぎの浦うらの入口に柳やな山ぎやまと云う所がある、此こ処こに石の五重の塔があって、この辺あたりから火の玉が発し、通行人を驚かす事は度たび々たびある、君が鰡りゅ堀うぼりで出であ会ったのも大だい体たい同種の物だろう、と云いおわって、他を語り毫ごうも不思議らしくなかったのが、僕には妙に不思議に感じられた。
◎木こび挽きち町ょう五丁目辺の或る待まち合あいへ、二三年以前新しん橋ばしの芸げい妓ぎ某が、本ほん町ちょう辺の客を咥くわえ込んで、泊った事が有った、何でも明方だそうだが、客が眼を覚して枕を擡もたげると、坐敷の隅すみに何か居るようだ、ハテなと思い眼をすえて熟よく視みると、三十くらいで細ほそ面おもての痩やせた年増が、赤児に乳房をふくませ、悄しょ然うぜんとして、乳を呑のませていたのである、この客平つ常ねは威いば張り屋やだが余程臆病だと見え、叫あ喚っと云って慄ふるえ出し、飲のんだ酒も一時に醒さめて、最もう最もうこんな家うちには片時も居られないと、襖ふすまを蹴けひらき倉そう皇こう表へ飛とび出だしてしまい芸げい妓ぎも客の叫さけ喚びに驚いて目を覚さまし、幽霊と聞きいたので青くなり、これまた慌てて帰ったとの事だが、この噂が溌ぱっと立たって、客人の足が絶え営業の継続が出来ず、遂とう々とうこの家いえも営しょ業うばいを廃やめて、何ど処こへか転てん宅たくしてしまったそうだ、それに付き或る者の話を聞くに、この家は以も前と土蔵を毀こわした跡へ建たてたのだが、土蔵の在あった頃当時の住すま居いに人ん某それの女にょ房うぼが、良おっ人とに非常なる逆ぎゃ待くたいを受け、嬰こど児もを抱いたまま棟むな木ぎに首を吊つって、非命の最期を遂げた、その恨みが残ったと見えて、それから変事が続きて住すまいきれず、売物に出したのを或ある者が買かいうけ、その土蔵を取とり払はらって家を建たて直なおしたのだが、未いまだに時々不思議な事があるので、何代替かわっても長く住む者が無いとの事である。
◎山やま城しろの相さが楽らぐ郡ん木き津づ辺の或る寺に某と云う納なっ所しょがあった、身分柄を思わぬ殺せっ生しょ好うずきで、師の坊の誡いましめを物ともせず、例いつも大雨の後には寺の裏手の小溝へ出掛け、待網を掛けて雑ざ魚こを捕り窃ひそかに寺へ持もち帰かえって賞しょ玩うがんするのだ、この事檀だん家かの告発に依より師の坊も捨すて置おきがたく、十分に訓くん誡かいして放ほう逐ちくしようと思っていると、当人の方でも予あらかじめその辺あたりの消息を知り、放ほう逐ちくされると覚悟をすれば、何も畏おそれる事は無いと度胸を極きめ、或ある夜師の坊の寝息を考え、本堂の橡えんの下に隠してある、例の待網を取とり出だして彼かの小溝へ掛けたが、今夜は如ど何うした訳か、雑ざ魚こ一疋ぴき懸かからない、万一や網でも損じてはいぬかと、調べてみたがそうでも無い、只ひた管すら不思議に思って水みな面もを見みつ詰めていると、何やら大きな魚がドサリと網へ引ひっ掛かかった、その響ひびきは却なか々なか尋常で無なかった、坊主は〆しめたりと思い引ひき上あげようとすると、こは如い何かにその魚らしいものが一躍して岡へ飛とび上あがり、坊主の前をスルスルと歩いて通りぬけ、待網の後うしろの方から水音高く、再び飛とび入いって遂ついに逃げてしまった、大きさは約四尺も有あろう、真黒で頭の大きい何とも分らぬ怪かい物ぶつだ、流さす石がの悪僧も目前にこんな奇あやしみを見て深く身の非を知りその夜住職を起おこしてこの事を懺ざん悔げし、その後は打うって変って品行を謹しみ、今は大おお坂さかの某寺の院主と為なっているとの事だ。
れぬと観念した、自じ訴そせんと取とって返かえす途上捕ほば縛くされて、重刑に処せられた、これは当時この犯人捜索を担当して尽力した京都警察本部の某刑事の話しである。
◎先年伊い勢せの津つへ赴き、二週間斗ばかり滞在した事があった、或ある夜友人に招かれて、贄にえ崎さきの寿こと楼ぶきろうで一酌を催し、是ぜ非ひ泊れと云いったが、少し都合が有あって、同所を辞したのは午前一時頃である、楼ろう婢ひを介して車を頼たのんだが、深しん更こうに仮か托まけて応じてくれ無い、止むを得ず雨を衝ついて、寂じゃ莫くばくたる長堤を辛ようやく城内まで漕こぎつけ、藤とう堂どう采うね女め、玉たま置おき小こへ平い太た抔など云う、藩政時分の家老屋敷の並んでいる、里りぼ俗くり鰡ゅう堀ぼりへ差さし懸かかると俄がぜ然ん、紫しで電んい一っせ閃ん忽たちまち足元が明あかるく成なった、驚おどろいて見ると丸太ほどの火柱が、光りを放って空中へ上る事、幾百メートルとも、測量の出来ぬくらいである、頓やがてそれがハラハラと四方に飛散する状さまは、恰あたかも線香花火の消きえるようであった、雨は篠しのを束つかねて投なぐる如きドシャ降り、刻限は午前二時だ、僕ならずとも誰でもあまり感かん心しんはしまい。翌日旅館の主人に当夜の恐怖談をすると、彼は微笑して嘲あざけるかの如き口こう吻ふんで、由来伊勢には天火が多い、阿あこ漕ぎの浦うらの入口に柳やな山ぎやまと云う所がある、此こ処こに石の五重の塔があって、この辺あたりから火の玉が発し、通行人を驚かす事は度たび々たびある、君が鰡りゅ堀うぼりで出であ会ったのも大だい体たい同種の物だろう、と云いおわって、他を語り毫ごうも不思議らしくなかったのが、僕には妙に不思議に感じられた。
◎木こび挽きち町ょう五丁目辺の或る待まち合あいへ、二三年以前新しん橋ばしの芸げい妓ぎ某が、本ほん町ちょう辺の客を咥くわえ込んで、泊った事が有った、何でも明方だそうだが、客が眼を覚して枕を擡もたげると、坐敷の隅すみに何か居るようだ、ハテなと思い眼をすえて熟よく視みると、三十くらいで細ほそ面おもての痩やせた年増が、赤児に乳房をふくませ、悄しょ然うぜんとして、乳を呑のませていたのである、この客平つ常ねは威いば張り屋やだが余程臆病だと見え、叫あ喚っと云って慄ふるえ出し、飲のんだ酒も一時に醒さめて、最もう最もうこんな家うちには片時も居られないと、襖ふすまを蹴けひらき倉そう皇こう表へ飛とび出だしてしまい芸げい妓ぎも客の叫さけ喚びに驚いて目を覚さまし、幽霊と聞きいたので青くなり、これまた慌てて帰ったとの事だが、この噂が溌ぱっと立たって、客人の足が絶え営業の継続が出来ず、遂とう々とうこの家いえも営しょ業うばいを廃やめて、何ど処こへか転てん宅たくしてしまったそうだ、それに付き或る者の話を聞くに、この家は以も前と土蔵を毀こわした跡へ建たてたのだが、土蔵の在あった頃当時の住すま居いに人ん某それの女にょ房うぼが、良おっ人とに非常なる逆ぎゃ待くたいを受け、嬰こど児もを抱いたまま棟むな木ぎに首を吊つって、非命の最期を遂げた、その恨みが残ったと見えて、それから変事が続きて住すまいきれず、売物に出したのを或ある者が買かいうけ、その土蔵を取とり払はらって家を建たて直なおしたのだが、未いまだに時々不思議な事があるので、何代替かわっても長く住む者が無いとの事である。
◎山やま城しろの相さが楽らぐ郡ん木き津づ辺の或る寺に某と云う納なっ所しょがあった、身分柄を思わぬ殺せっ生しょ好うずきで、師の坊の誡いましめを物ともせず、例いつも大雨の後には寺の裏手の小溝へ出掛け、待網を掛けて雑ざ魚こを捕り窃ひそかに寺へ持もち帰かえって賞しょ玩うがんするのだ、この事檀だん家かの告発に依より師の坊も捨すて置おきがたく、十分に訓くん誡かいして放ほう逐ちくしようと思っていると、当人の方でも予あらかじめその辺あたりの消息を知り、放ほう逐ちくされると覚悟をすれば、何も畏おそれる事は無いと度胸を極きめ、或ある夜師の坊の寝息を考え、本堂の橡えんの下に隠してある、例の待網を取とり出だして彼かの小溝へ掛けたが、今夜は如ど何うした訳か、雑ざ魚こ一疋ぴき懸かからない、万一や網でも損じてはいぬかと、調べてみたがそうでも無い、只ひた管すら不思議に思って水みな面もを見みつ詰めていると、何やら大きな魚がドサリと網へ引ひっ掛かかった、その響ひびきは却なか々なか尋常で無なかった、坊主は〆しめたりと思い引ひき上あげようとすると、こは如い何かにその魚らしいものが一躍して岡へ飛とび上あがり、坊主の前をスルスルと歩いて通りぬけ、待網の後うしろの方から水音高く、再び飛とび入いって遂ついに逃げてしまった、大きさは約四尺も有あろう、真黒で頭の大きい何とも分らぬ怪かい物ぶつだ、流さす石がの悪僧も目前にこんな奇あやしみを見て深く身の非を知りその夜住職を起おこしてこの事を懺ざん悔げし、その後は打うって変って品行を謹しみ、今は大おお坂さかの某寺の院主と為なっているとの事だ。