越中の劍岳は、古来全く人跡未到の劍山として信ぜられ、今や足跡
余は三十六年頃より三角点測量に従事して居ますが、
測夫 静岡県榛原 郡上川根村 生田信(二二)
人夫 上新川郡大山村 山口久右衛門(三四)
人夫 同郡同村 宮本金作(三五)
人夫 同郡福沢村 南川吉次郎(二四)
人夫 氏名不詳
人夫 上新川郡大山村 山口久右衛門(三四)
人夫 同郡同村 宮本金作(三五)
人夫 同郡福沢村 南川吉次郎(二四)
人夫 氏名不詳
の四名を引率して登山の途に就き、同日は室むろ堂どうより別山を超こえ、別山の北麓で渓を距へだたる一里半ばかりの劍沢を称する処ところで幕営し、翌十三日午前四時同地を出発しましたが、此こ処こは別山と劍山との中間地で黒部の上流へ落合う渓流が幅三米メー突トルばかり、深さ六、七尺もありました、なおその地方は落から葉ま松つ等の周囲一丈ばかりもある巨樹、鬱蒼として居ますが幸さいわいに雪があったから渡わたれたものの、雪がなかったら危険地でとても渡れないだろうと思います、それより半里ばかり東南の谷間を下り、それから登山しましたが、積雪の消えない非常な急坂がありまして一里ばかりの雪道を約五時間も費やしました、その雪を通過すると劍山の支脈で黒部川の方向に走れる母指との間のような処に出ました、もっともこの積雪の上を徒とし渉ょうするのにどうしても滑りますから鉄製の爪あるカンジキを穿はいて登るのであります。
この積雪地よりは草木を見ず、立山の権ごん現げん堂どうより峰伝えに別山に赴く山路の如く一面に花かこ崗うへ片んま麻が岩んにてガサガサ岩の断崖絶壁削るが如く一歩も進む能あたわず、引率せる人夫四名の中氏名不詳とせし男は此処より進む能わずとて落伍しました、残りの一行は更に勇を鼓し一層身軽にし双眼鏡、旗、鍋の外ほかは一切携帯せずに進むこととなりましたが、その苦しい事は口にも述べられぬほどです。上の方に攀よじ登のぼるのに綱を頭上の巌にヒョイと投げかけ、それを足代に登りかけると上の巌が壊れて崩れかかるという仕しま末つで、その危険も一通りや二通りではありません、こんな処が六十間もありましたが、其そ処こを登りますと人間のやや休息するに足る場所がありましたからホッと一休みしました、また其処よりは立山の権現堂からフジという処を経て別山に赴くほどの嶮路で花崗片麻岩のガサ岩ばかりであります。かくて漸ようやく絶頂に達しましたのは、午前十一時頃でありました、この絶頂は円形のダラダラ坂で約四、五坪もありましょう。むかし何い時つの時代か四尺五尺位の建物でもありましたものか、丁度その位の平地が三ヶ処ばかりありました、しかし木材の破片などは一切見当りません。一行がこの絶頂に於て非常に驚いたのは古来いまだかつて人間の入りし事のないちょうこの山の巓いただきに多年風雨に曝さらされ何ともいえぬ古色を帯おびた錫しゃ杖くじょうの頭と長さ八寸一分、幅六分、厚三分の鏃やじりとを発見したことである。鏃は空気の稀薄なるためか空気の乾燥せる山頂にありしがためかさほど深錆とも見えないが、錫杖の頭は非常に奇麗な緑ろく青しょ色ういろになっております。この二品は一尺五寸ばかり隔へだててありましたが、何時の時代、如何なる人が遺のこして去りしものか、槍の持主と錫杖の持主とは同一の人かもし違って居るとすれば同時代に登りしものか、別時代に登りしものか、これらはすこぶる趣味ある問題で、もし更に進んで何なに故ゆえにこれらの品物を遺留し去りしか、別に遺留し去ったものでなく、風雨の変に逢うて死んだものとすれば遺いが骸い、少くも骨の一片位はなくてはならんはずだが、品物はそのまま其そ処こに身体は何ど処こか渓たに間まへでも吹飛されたものか、この秘密は恐おそらくは誰だれも解とくものはあるまい、なお不審に堪えざるはその遺留品ばかりではない、この絶頂の西南大山の方面に当り二、三間下に奥行六尺、幅四尺位で人の一、二人は露宿し得るような岩窟がある、この窟の中で何い年つか焚火した事があるものと見え蘚せん苔たいに封ぜられた木炭の破片を発見した事である、この外には這はい松まつの枯れて石のようになりたる物二、三本と兎うさぎの糞二、三塊ありしのみである、この劍山の七合目までは常じょ願うが寺んじ川等にあるような滑かっ沢たくの大きな一枚岩であるが、上部は立山の噴火せし際降ふり積りしと思わるる岩石のみである、東南の早はや月つき川方面の方は赤褐色を帯べる岩で、北方は非常の絶壁でその支峰もいずれも剣を立てたるがごとく到底攀ずる事が出来ない、かくて一行は当日午後一時に下山し始め同四時に前夜の宿営地に無事引上げここに第一回の登山を終った。第二回には三角点測量標を建設せんものをと
測夫 鳥取県東白郡市勢村 木山竹吉(三六)
人夫 中新川郡大岩村 岩木鶴次郎(二四)
人夫 中新川郡大岩村 岩木鶴次郎(二四)
その他を率いたが、二等三角点を設けんとせしも、名にし負おう嶮山とて機械及材料を運はこ上びあぐる事能わず、止やむを得ず四等三角点を建設する事とした。それも四本を接合せて漸く六尺位になる柱一本を樹たてたに過ぎない、この接合せるようにしたのは無論運搬が困難であるからであります、立山の高さは不明であります、立山に居りて見れば劍山の方が高く見えますけれど劍山では立山の方が高く見えます、大抵同様の高さかと思わる、立山の高さですか、それは二千五百米突以上という事になっています 云うん々ぬん