三人法師

谷崎潤一郎




世に「三人法師」と云う物語がある。いつの時代の誰の作かは明かでない。萬治二年の版があるそうだが、作者はこれを国史叢書の中に収めてある活字版で読んだ。さしたる名文と云うのではなく、たど/\しい稚拙な書き方であるけれども、南北朝頃の世相が窺われる上に、第一の法師から、第二、第三の法師になるほど話が複雑で面白く、組み立てもまとまっているし、哀愁が心の全篇を貫いているところは文学的に相当の価値を認めてよい。ちょうど秋の夜の読み物には適していると思ったので、くどい所や仮名書きのために分らない所は省略もしたし、多少は手を入れたが、大体原文の意を辿って成るたけ忠実に現代語に直してみた。もしいくらかでも古い和文の文脈と調子とを伝えることに成功したら作者としては満足である。


高野の山へ集って来たからにはどうせ世を厭う人々ではありながら、同じ厭離おんりの願いを遂げるにも座禅入定にゅうじょうの法もあれば念佛三昧の道もある。山は廣いので思い/\の半出家たちが彼方此方かなたこなたに宿を求め、めい/\己れのしょうにかなった教についてぎょうを修めているのであるが、或る晩そう云う人たちが或る宿房へ寄り合った時だった。一人の僧が、見渡したところ、われ/\はみな半出家ですが、いずれも遁世なされたのにはそれ/″\の仔細があることでしょう、座禅をするのも悪くはありませんけれども、懺悔の徳も罪をほろぼすと云いますから、今夜は一つ皆の衆で懺悔物語をしてはどうですかと云い出して、それをしおにいろ/\な若い頃の想い出話が一座のあいだに弾んだ折、年頃は四十二三であろうか、綻びだらけの衣を着て難行苦行に見るかげもなく痩せ衰えているものゝ、鉄漿かねをふか/″\とつけて何処かに尋常な俤のある僧の、さっきから隅の方に引っ込んでじっと考え込んでいたのが、ふと、ではわたしの身の上を聞いて下さいますかと云って、しんみりした口調で語り始めた。―――
都のことは定めし方々かた/″\も御存知でしょうが、わたしはもと、尊氏将軍のおん時に、糟屋の四郎左衛門と申して近侍に召し使われていまして、十三の年から御所へ参り、礼佛礼社らいぶつらいしゃ、月見花見の御供にはずれたことはなく、まめに仕えていますうちに、或る年のことでした、二条殿へお成りになる御供に附いて行きましたら、折節朋輩どもが寄り集って遊んでいましたものと見え、わたしのところへも使をよこして、速く来ないかと云って来ましたので、まだお帰りにはがあるかしらと思いながらお座敷のていをのぞいて見ますと、ちょうど御酒が二三献過ぎた時分らしく、一人の女房が引出物に、廣蓋ひろぶたの上へ小袖を載せて持って出て来るところでしたが、その女房と云うのが、二十はたちにはならないほどのうら若さで、練絹の肌小袖に紅花緑葉の単衣ひとえをかさねて、くれないの袴を蹈んで、長い髪を揺りかけている姿の美しさ、染殿の妃、女御更衣と申してもきっと此れほどではあるまいと思われて、あゝ、人間に生れたからにはこう云う人と言葉を交し、枕を並べたいものだが、それにしても今一度出て来てくれないものかしら、せめてもう一と目とっくり顔を見たいものだと思いましたら、その時からあくがれ心地が胸をとざして、忘れようとしても忘れられず、うつゝともない恋になってしまいました。それから宿へ帰っても上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)の姿が眼の前を去らないので、食うものも食わずに打ち伏したなり四五日のあいだも出仕しなかったものですから、近頃糟屋はどうしているかと云うお尋ねに、病気のことを申し上げると、それなら薬師くすしをつかわすから療治をするがよいと云う仰せがあって、間もなく宿へ薬師が参りましたので、起き直って、烏帽子えぼし直垂ひたゝれをつけて対面しましたところが、ちょっと脈を取ってみて、どうもおかしい、別に病気があるようでもない、何か人を恨んでゞもおられるか、又は大事な訴訟でも持っておられはしないかと云うのです。私はさあらぬていを装って、子供の時からこんな工合におり/\わずらうことがありますが、半月も養生すればいつも直ってしまいますから、今度も日数を待っておりましょう、何も大事なことなんぞ思ってはいませんと云いましたけれども、薬師は御前へ出て、あれは病気とは覚えませぬ、身に大事を持っている人か、さもなかったら、昔ならまあ恋とでも云うわずらいでございましょうと申し上げたと見えるのです。すると、恋なら今の世にだってないことはあるまい、糟屋の胸のうちを探り出したいものだと云う将軍の仰せに、それなら佐々木三郎左衛門が一番親しくしておりますから、あれをおつかわしになりましたらと申し上げる者があったりしまして、やがてその佐々木が御前へ召されて仰せを受け、見舞いにやって来ましたが、わたしの寝ている枕もとへすわると、恨みを含んだ口ぶりで、日頃から朋輩の多い中でも兄弟のように契っていたものを、これほどの患いだったらなぜ知らしてくれなかったと云いますので、なあに、心配をかけるようないたつきではない、たゞ一人ある母にさえ知らせないくらいだから、お恨みは御尤もだけれども、悪く思ってくれては困る、此の上重くなるような時には御知らせするから、そうこと/″\しく云わないで帰って下さい、私の身よりは御所の勤めが大切ではないかと云いますと、まあ看病させてくれと云って、四五日傍を離れないで、心のうちを尋ねるのです、私も暫くは包み隠していましたが、あまり親切にしてくれますので有りのまゝを打ち明けましたら、佐々木は聞いて、さては御分ごぶんは恋をしておられるのだな、それなら訳はないと云って、御所へ参って申し上げると、成るほどそうか、そんなことなら容易たやすいことだと仰っしゃって、かたじけなくも御所様が御自身で御文おんふみをお書きになり、佐々木を御使にして二条殿へ申し送って下さいました。ところが二条殿の御返事に、あれは尾上と申す女房ですから地下じげへ下す訳には行かないが、その男を此方こちらへ寄越して下さいと云うお文があって、それを御所から私の宿へわざ/\届けて下すったのです。ほんとうに何と云う有難いことか、その時の御所様の御恩は報じようもありませぬ。それにつけても浮世はあじきないものだ、たとい尾上殿に逢うことが出来ても、わずか一と夜の夢のようななさけにあずかるのに過ぎないものを、今こそ遁世をする時だと、その折わたしはそう思いながら、又考え直してみますと、糟屋と云う男は二条殿の女房を恋い申し、将軍のお声がゝりでよう/\願いがかなうようになったと思ったら、急に気が臆して世を遁れたと云われるのも生涯の耻だ、せめて一と夜逢いさえしたら、それから後は兎も角もなろうと思い定めて、或る晩のこと、別に際立ってどうと云う身じまいもしませんけれど、少しはなりふりに念を入れ、若党を三人つれて、案内者を立てゝ、夜の更けた時分に二条殿の御所へ参りましたら、結構なお座敷を屏風や唐絵で飾ってある中に、同じ年頃の女房たちが五六人花やかに立ち出でゝおられる所へ通されたのです。先ず御酒が出る、茶や、香や、さま/″\の遊びが始まる。けれどもれが尾上殿やら、何しろ一と目見たゞけですし、いずれも/\美しい人ばかりですから、迷惑していますと、一人のかたが聞し召した盃を持ちながら、私の傍へちか/″\と寄って来られて、人一人をへだてゝ、おもいざしを賜わったので、あゝ、これが尾上殿だなと、はじめて合点してそのお盃を戴いたことでした。さて夜も明け方になって、八声の鳥の鳴く、寺々の鐘のおとにきぬ/″\の別れを惜しみつゝも、行くすえ変らぬ約束をして、まだ暗いうちに女房は立って行かれましたが、寝みだれ髪のひまから匂う艶なかおばせを見送っていますと、妻戸をあけて、縁へ出られて、
ならはずよたまにあひぬる人故に
   今朝はおきつる袖のしらつゆ
と遊ばしたので、わたしも直ぐにお答えしました。
こひえてはあふ夜の袖の白露を
   君が形見につゝみてぞおく
そう云うことがあってからは、始終御所へ参りましたが、時には忍んで私の宿へ入らせられることなどもあり、御苦労なことだと仰っしゃって、将軍からその女房へ、近江の国のうちで千石千貫の土地を差上げたりなさいました。そうこうするうちに、私はその時分北野の天神を信じていまして、毎月廿四日には参籠をするのが常でしたのに、その女房のために近頃とんと怠りがちになっていましたものですから、ちょうど十二月廿四日のこと、歳の暮れでもありますし、日頃の懈怠けたいをお詫びしなければならないと思って、お堂へ参って、夜どおし念誦ねんじゅしていますと、ほかにもお籠りをする人たちがあって、話しているのを聞いていましたら、あゝ可哀そうに、いったい何処の人だろうと、そう云う言葉が耳に這入りましたので、ふっと気にかゝって、何の話ですと尋ねてみると、たった今しがた、都はかよう/\の所に、年十七八ほどの女房を殺して、衣裳を剥ぎ取った者があると云うのです。聞くと私は胸騒ぎがして、気になって気になって取る物も取り敢えず走って行って見たところが、やっぱり虫が知らせた通りあの女房ではありませんか。それがむごたらしく殺された上に、何一つ残らず、髪の毛までも切り取られている有様に、夢ともうつゝともわきまえかねて、たゞぼんやりしてしまいました。まあ、ほんとうに、こんな憂き目を見ると云うのは如何なる罪の報いかしら。逢うのを嬉しいと思ったのが今では却って恨めしくなり、先だって行った人のために何しに心を盡したことか、我れ故に君は、まだ二十にも足らない年頃の女房の身として邪見の剣にかゝられるとは。その時の私の心の中をどうぞ思いやって下さい。どんな鬼神が向って来ようと、又は五百騎三百騎の敵陣の中へ割って這入ろうと、思うがまゝの働きをして捨てる命なら、露ほども惜しくはないと覚悟していた私ですけれども、知らない間に起ったことではどうにも力が及びませなんだ。そう云う訳で、その夜のうちに髻を切って僧となりましたが、それから此の御山に最早や二十年のとしつきと云うもの、其の女房の菩提を弔っているのです。
―――そう語り終ったその僧は、はんかい入道と呼ばれている半出家であったが、一座がしばらく今の話にしんと静まり返っていたとき、やがて又一人の僧が前の方へにじり出た。見ると年は五十ぐらいで、身の丈は六尺もあろうか、のどの骨がび出し、おとがいが反り、頬が高く、唇が厚く、目鼻がすごく、顔の色が黒く、いかさま逞しそうな体つきで、次には私が話しましょうと云いながら、破れた布衣の袂のかげで大きな数珠をつまぐっているので、さあ、では早速に願いましょうと皆が促すと、不思議なこともあればあるものです、その上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)を、私が手にかけて殺したのですと云う言葉に、※(「口+會」、第3水準1-15-25)はんかいはきっとなって眼の色を変えたが、此方こちらは落ち着いて、まあ/\、これから委しく事の仔細を申しますから一と通り聞いて下さいと云う。そしてはんかいが気を押し鎮めて固唾かたずを呑んでいるのを見ながらおもむろに語り始めるのであった。



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草木までわれを哀れとおもひてや
   涙に似たるつゆを見すらん
と、口ずさむではありませんか。それを聞いては強い覚悟も失せ果てゝ、露霜ならばとうに消えてもしまいそうな心地がしまして、もう/\今は包み隠していられようか、私こそはそなたの父の六郎左衛門入道だよと云おうとしたものゝ、なか/\、此処が大事なところだ、折角年ごろ思い立って世を捨てた身の、今日と云う今日、子と云う首枷くびかせを担ってなるものか、そんな料簡を起すと云うのは腑甲斐ないにも程があると、自分で自分の心を耻じしめて、それから申しますようは、よくもお詠みになりました、まことにお道理至極の歌です、神や佛もさぞかし哀れと思し召すでしょうし、お父さまやお母さまも草葉のかげでどんなに感心なさるでしょう、わたくしのような卑しいものでも涙がとめどなく誘われて来るくらいですから、やがて心ある人がお聞きになってお胸の中を思いやらずにおりましょうか、只今此処を通り合わせてこんなお痛わしいところを見ますのも、思えばさきの世の約束かも知れませぬ、それにつけてもお別れしにくう存じますけれど、いっそお暇申しますと云って立ち上りますと、仰っしゃる通り、一樹の蔭に宿りますのも、一河の流れを酌みますのも、皆他生の縁と聞いております、又いつの世にお目にかゝることが出来ましょうやら、かえす/″\もお名残惜しゅう存じます。殊更お経を遊ばして下さいましたのは何とお礼を申してよいか言葉にも盡されませぬと、姉がそう云って袂を顔に押しあてゝ泣きますので、弟の方も、まだ聞き分ける歳頃ではないのですが、姉に取りすがって身もだえしながら泣くのです。その時ひとしお心も消え、眼もあてられない思いがしましたのを、これしきの事は腹を切るのも同じことだと観念しまして、歩き出しますと、いつ迄も此方を見送っております様子に、私の方でも振り返り/\行きましたところが、子供は母の骨を箱の蓋に入れて、それを持ったまゝ我が家の方へは帰ろうとせずに違った方角へ行くものですから、又気にかゝって戻って来まして、そなたゝちは何処へおいでになるのですと聞いてみましたら、これからほうにん寺と申す御寺へ参ります、そこの御寺に都から尊い上人がお下りになっていらしって、七日の御説法がありまして、今日はもう五日になります、みんながお詣りに行きますから、わたくしたちもお詣りをして、御聴聞申し、此のお骨を納めようと存じます、と、そう云いますので、さても/\、幼いのによくお気が附かれます、母御が彼の世でどれほどおよろこびになるでしょう、そしてほうにん寺と申すのは此処からどのくらいあるのですか。どのくらいあるのか、まだ行ったことはありませんが、大勢の人のあとについて参ろうと思います。それならどうしてお供の人を連れておいでにならないのです、あまり無用心ではありませぬか、明日あすでもじいやをお連れになってお詣りなさったらよろしいのにと云いますと、姉が答えて、此のあいだじいやに連れて行っておくれと申しましたら、いとけない方がそんなことをなさらずともようございますと叱られましたものですから、今日までお詣りが出来ませんでしたと云いますので、そう云う訳ならわたくしがおともない申しましょう、そして上人をも拝み、結縁をも願いましょうと、一所について行きますと、その道すがらも姉はいろ/\と物語りしまして、お父さまが生きていらっしゃればちょうど御僧と同じお年頃なのですが、どう云う罪の報いであろうか、浅ましいことに、お父さまには生きながら別れ、お母さまには死に別れてしまいました、せめてもう少し成人してからのことならば、おん面影が身に添うて淋しい時の心の友になりましたろうに、恨めしいお父さまのなされ方ですと、又しても泣きながら口説きますのを、弟が聞いて、お父さまは佛におなりなさったのだといつもお母さまが仰っしゃったではありませんか、そんなにお泣きになるものではありませんと、いじらしいことを申しますものですから、それを聞かされる私の心は後先あとさきも分らぬ闇にとざゝれ、行く手の道も眼に見えぬような気がしました。そのうちにだん/\御寺が近くなりますと、なるほど大勢の参詣人が後から/\とつゞいて来るのです。それと申すのは、何でもその御寺は聖徳太子の御建立で元弘建武の動乱の折に所領も何も失ってしまい、お堂もすたれていましたのを、今度楠の世になりまして所領を元の通りに返し、破れたお堂を修理した上に、京都から妙法上人に来ていたゞいて供養をすることになりましたので、その噂を聞き伝えて諸所方々から集って来る貴賤の人が袖をつらね、道俗男女が市をなすばかり。御寺の境内は申す迄もなく、近所の木の下かやの下までもおびたゞしい人数が充ちあふれて、輿、ちりとり、鞍を置いた馬などが幾千萬と云う数を知らず、凡そ其の日の群衆と云ったら、此のあたりの三箇国の人々が寄って来たのだと申すことでした。そう云う混雑の折柄ですから容易に子供たちは中へ這入れそうにもありませんので、どうするだろうと見ておりますと、お頼み申します、これは上人にお目にかゝりに参った者ですと、声をかけながら人ごみの間を押し分けて進んで行くのですが、諸神諸佛も憐れみを垂れて下さるのか、不思議なことに、その子供たちの通るところは自然と人波が左右に分れて道を開いて行くのです。それからなおも見ていましたら、二三人ばかり人を隔てたあたり迄来まして、姉が手箱の蓋を、上人の御前にさしおいて、三度礼をして、掌を合わせてうずくまりますのを、上人はしげ/\と御覧になって、そこにおいでの幼い人は何処のお方ですかとお尋ねになります。はい、これは楠の一門の、篠崎六郎左衛門の子供でございますが、父になります者は、わらわが三歳の時、楠殿と仲違いをしまして、世を遁れて、今に行くえが知れないのでございます、此の程はお母さま一人に添いながら、浮世を明かし暮らしておりましたのに、有為無常のならいの悲しさは、そのお母さまにさえ先立たれて、今日で最早や三日になります、お骨を拾う人もございませんものですから、弟と二人で拾いまして、此の箱の中に入れましたけれど、何処へお納めしてよいのやら分りませんから、上人にお願い申そうために此れまで持って参りました、どうぞいかなる所へでもお納めなされて、お母さまが早く浄土へ行かれますように回向をなされて下さいましたら、ひとえに御利益に存じます、と、そう述べる言葉を黙って聞いていらしって、暫く上人は物も仰せられずに、限りなく御落涙なされるので、聴聞の人までが、遠くにいる者も近くにいる者も、一度に袖を濡らすのでした。すると姉はまた袂から一つの巻物を取り出して御前へ置きます。それを上人がお取り上げになって声高らかにお読みになります。その文句に耳を傾けていますと、それ人間のさかいを聞けば、閻浮えんぶの衆生は命不定みょうふじょうなりとは申せども、成人するまで親に添う人の子多く候ものを、如何なる宿執の報いに依って、我等三歳の時父には生きての別れ、母には死しての別れとなりぬらん、今は早や頼む方なくなり果てゝ迷いの心は晴るゝ日もなく、思いの煙は胸を焦がし、悲しみの涙乾く間もなし、我が身のようなる人しあらば、憂いの道を語り慰むすべもあるべきに、まどろむ隙もなき程に夢にだにも逢い奉らず、身に添うものはあるかなきかのかげろうばかり、僅か三日を過したるだに思いは千年萬年を暮らすに似たり、ましてや行く末の悲しきことはいかばかりぞや、露の命、幾秋をか保つべきとも覚え候わず、かように孤児となり果てんよりは、たゞ願わくは、我等二人をあわれみ給い母諸共に一つ蓮のうてなに迎え給え、と、そう書いてある後に、こざかしくも年号や日附までも記して、奥に下のような歌が添えてあるのです。
見るたびに涙ぞまさる玉手箱
   ふたおや共になしと思へば
玉手箱蓋と懸子かけごの黒髪を
   いふ方もなき身をいかゞせん
これを上人は読みも終らずに、衣の袖を顔に押しあてゝお泣きになりました。道場の内に一杯になっている聴衆が、貴賤、上下、道俗、男女の分ちなく、袂を絞らない者はありませんでした。これを聞いたり、見たりしまして、その場で髻を切って刀と一所に御前へ差出して、早速御弟子になる者もあります。そうかと思うと、又此方では一人の女性にょしょうが笠の下から髪を切って、上人に参らせて発心をする者もあります。その外われも/\と遁世をする人の数はどのくらいあったことでしょうか。その時の私の胸の中はたゞもう察していたゞくより外はありませぬ。折角こゝまで来たものですから御説法をも聴聞したいのは山々でしたが、こうしていては今にきずなに繋がれる、これはあぶないところだと、はっと気がつきますと眼をつぶって心を鬼にして、合戦のにわに千騎萬騎の中へ斬り入り一命を捨てるのもこんなではないかと思いながら、急いでそこを立ち去った其の折の覚悟の程と申すものは、六年前に始めて篠崎を出ましたよりももっと一生懸命でした。それからはる/″\と逃げて来まして、とある木の下に休みながら考えましたのは、座禅をしても悟を開くのはなか/\むずかしい、所詮高野山は弘法大師の入定なされた所だし、諸佛群集の霊地だから、あの御山に勝る所は此の世にあるまい、これはあの御山へ上るに限る、そして奥の院のほとりにでも柴の庵を結んで一大事の修行をしようと、そう思案を定めまして、その心をたよりに此の御山へ参りましたが、そのゝちは更に他念がなく、我をも知らず、人をも知らず、まして故郷ふるさとの事をも知らず、寝ても覚めても念佛三まいに月日を送っていましたので、あなたがたにお目にかゝるのも今日が始めてのような訳なのです。そう云えば今年の春のころ、河内の国から此の御山へ参った人がうわさをするのを聞きましたら、子供たちの身の上を楠が知って不便ふびんに思い、あの時六つになっていました男の子を取り立てゝ、篠崎の跡を継がせるそうです。姉の方は比丘尼になったと申しますから、これも心安うございます。
―――二人の僧は此の話を聞いて、まことに有難い御発心です、殊勝に存じますと云って貰い泣きをしたが、互に法名を名のり合って見ると、今の僧は玄梅と云い、樊※(「口+會」、第3水準1-15-25)入道はげん松と云い、荒五郎入道はげん竹と云うのである。そこで三人は一同に手を打って云った、これは不思議な御縁です、三人ながら名前の上に玄の字の附いている修行者なのです、のみならず下の字までが松、竹、梅になっています。そうしてみるとわたしたちは今の世ばかりの契りではなかったのでしょう、たとい同じ知識から名前を授けていたゞいてもこう云うことはめったにありませぬ、ほんとうに珍しい運り合わせではありませんか、長いあいだ此の山にいながら、そうとも知らずに過していたのはくちおしゅう存じます、これから後は心を一つに持ちたいものです。樊※(「口+會」、第3水準1-15-25)どのも、あの女房に逢われなかったら、どうして発心なさることが出来ましたか、いずれも/\色こそ変れ思いも寄らないはずみから道心を催すのです、あながちに悪をも嫌ってはなりませぬ、悪は善の裏なのです、恋をも厭ってはなりませぬ、恋は心の細かいところから起るのです、かの一大事は心の細かい人でなければ思い立つことは叶いませぬ、と、そう云って語り合うのであった。





底本:「聞書抄」中公文庫、中央公論新社
   1984(昭和59)年7月10日初版発行
   2005(平成17)年9月25日改版発行
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第十二巻」中央公論社
   1982(昭和57)年4月25日
初出:「中央公論」
   1929(昭和4)年10月号〜11月号
※底本は新字新仮名づかいです。なお旧字の混在は、底本通りです。
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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