抑そも〳〵われは寄よる辺べない浮ふら浪うが学くし生やう、御おん主あるじの御み名なによりて、森もりに大おほ路ぢに、日にち々にちの糧かてを乞こひ歩あるく難なん渋じふの学がく徒とである。おのれ今いま、忝かたじけなくも尊たふとい光けし景きを観み、幼をさ児なごの言こと葉ばを聞きいた。われは己おのれが生しや涯うがいのあまり清きよくない事ことを心こゝ得ろえてゐる、路みちの傍かたはらの菩ぼだ提いじ樹ゆ下かに誘いう惑わくに負まけた事ことも知しつてゐる。偶たま〳〵われに酒さけを呑のませる会くわ友いいうたちの、よく承しよ知うちしてゐる如ごとく、さういふ物ものは滅めつ多たに咽の喉どを通とほらない。然しかしわれは人ひとを傷きずつけ害そこなふ党やからとは違ちがふ。幼をさ児なごの眼めを剞くり抜ぬき、足あしを断たち、手てを縛しばつて、これを曝さら物しものに、憐あは愍れみを乞こふ悪あく人にんどもが世せけ間んにある。さればこそ今いまこの幼えう児じ等らを観みて、心しん配ぱいいたすのだ。いや勿もち論ろん、これには御おん主あるじの擁おう護ごもあらうて。自じぶ分んの言いふことは、兎とか角く出では放うだ題いになる、胸むね一いつ杯ぱいに悦よろこびがあるので、いつも口くちから出でまかせを饒しや舌べる。春はるが来きたといつては莞につ爾こり、何なにか観みたといつては莞につ爾こり、元ぐわ来んらいがあまり確しつかりした頭あたまでないのだ。十じつ歳さいの時とき、髪かみ剃そりを頂いたゞいたが、羅ラテ甸ンの御おき経やうはきれいに失しつ念ねんして了しまつた。わが身みはちやうど蝗いな虫ごのやうだ、こゝよ、かしこよと跳はね回まはる、唸うなつて歩あるく、また或ある時ときは色いろ入いりの翅はねを拡ひろげて、小ちひさな頸くびの透すきとほつて、空からな処ところをみせもする。伝つたへ聞きく聖せい約ヨハ翰ネは荒あれ野のの蝗いな虫ごを食しよくにされたとか、それなら余よほ程ど食たべずばなるまい。尤もつとも約ヨハ翰ネさ様まと吾われ々われ風ふぜ情いとは人ひと柄がらが違ちがふ。
われは日ひご頃ろ約ヨハ翰ネさ様まに帰きえ依しん信か仰うしてゐる。此この御おか方たもやはり浮ふら浪うの身みにあらせられて、接つゞ続きの無ないお言こと葉ばを申まをされたでは無ないか。嘸さぞかし温あたゝかいお言こと葉ばであつたらう。さう言いへば、今こと年しの春はるも実じつに温をん和わだ。今こと年しみたいに、紅こう白はくの花はながたんと咲さいた歳としは無ない。野のは一いち面めんに眼めが覚さめるやうな色いろだ。どこへ行いつても垣かき根ねの上うへに主しゆの御おん血ちし潮ほは煌ぴか々ぴかしてゐる。御おん主あるじ耶イエ蘇スさ様まは百ゆ合りのやうにお白しろかつたが、御おん血ちの色いろは真しん紅くである。はて、何な故ぜだらう。解わからない。きつと何なにかの巻まき物ものに書かいてある筈はずだ。もし自じぶ分んが文もん字じに通つうじてゐたなら、ひとつ羊やう皮ひ紙しを手てに入いれて、それに認したゝめもしよう。さうして毎まい晩ばんうんと旨うまい物ものを食たべてやる。又また諸しよ所しよの修しう道だう院ゐんを訪ともらつて、もはや此この世よに居ゐない会くわ友いいうの為ために祈いのりを上あげ、其その名なを巻まき物ものに書かきとめて、寺てらから寺てらへと其その過くわ去こち帳やうを持もち回まはつたなら、皆みんなも嘸さぞ悦よろこぶ事ことであらうが、第だい一、死しんだ会くわ友いいうの名なを知しらないのだ。事ことに依よつたら、主しゆの君きみも、それをお知しりにならうとなさらないのだらう。時ときに、あの子こど供もたちも名なが無ないやうだ。主しゆの君きみは却かへつて其その方はうが好いいと仰おつ有しやるだらう。幼をさ児なごは白しろい蜜みつ蜂ばちの分すだ封ちのやうに路みち一いつ杯ぱいになつてゐる。何ど処こから来きたのか解わからない。ごく小ちひさな巡じゆ礼んれいたちだ。胡くる桃みの木きと白しら樺かんばの杖つゑをついて十ク字ル架スを背し負よつてゐるが、その十ク字ル架スの色いろが様さま々ざまだ。なかに緑みどりのがあつたが、それはきつと木この葉はを縫ぬひつけたのだらう。皆みんな野のそ育だちの無む知ちの子こど供もたちで、どこを指さして行ゆくのだか、何なにしろずんずん歩あるいてゆく。唯たゞ耶イエ路ルサ撒レ冷ムを信しんじてゐる。何なんでも耶イエ路ルサ撒レ冷ムは遠とほい処ところだ、さうして主しゆの君きみは、われわれのごとく傍そばにお出いで遊あそばすのだ。衆みんなは耶イエ路ルサ撒レ冷ムまで往いかれまい。耶イエ路ルサ撒レ冷ムが衆みんなのとこへ来くるだらう。丁ちや度うど自じぶ分んにも来くるやうに。凡すべて神しん聖せいな物ものの終はては悦よろこびに在ある。われらが主しゆの君きみはこの紅あかい茨いばらの上うへに、このわが口くちに、わが貧まづしい言こと葉ばにも宿やどつていらせられる。なぜといふに、自じぶ分んは主しゆの君きみを思おもひ奉たてまつると、其その聖おは墓かが心こゝろの中うちにもう入はいつてゐるからだ。亜アメ孟ン。どれ、日ひあ射たりのいゝ此こ処こへでも寝ねこ転ろばうか。これこそ聖せい地ちだ。われらが御おん主おるじ﹇#ルビの﹁おんおるじ﹂はママ﹈の御みあ足しは何ど処こをも聖きよくなされた。さあ、ぐつすり眠ねるとしよう。耶イエ蘇ススよ。十ク字ル架スを負おふあの白しろい幼をさ児なごたちをも、夜よる々よる眠ねむらし給たまへ。われ真まことにかく願ねがひ奉たてまつる。あゝ眠ねむくなつた。われ真まことにかく願ねがひ奉たてまつる。事ことに依よつたら御ごら覧んになつたかも知しれないが、幼をさ児なごのことゆゑ、気きを付つけてやらねばなるまい。真まひ昼るど時きで気きが重おもくなる。物もの皆みな悉こと〴〵く白しろつぽい。しかあれかし、亜アメ孟ン。