神がコラムを永遠の宴に召される一年ほど前のことである、﹇#﹁ことである、﹂は底本では﹁ことである。﹂﹈ある夜、兄弟たちの中の最年少者﹁雀そば斑かす﹂とあだなされたポウルが彼のもとに来た。 ﹁月が星のなかにあります、おおコラムよ、きょう神と共にある老ムルタックは、神とあなたのお心どおり、島の東端のかわいた砂の深みに葬られます﹂ そこで聖者は疲れねの床から起きあがり、ムルタックの葬られたところに行って、その場所を祝福した、地に這う虫もいかなる生物も聖き死者に触るるなと命じた。彼は言った﹁ただ神のみが、神のみが御手ずから造りたまいしものを奪とりたまえ﹂ 帰るみちすがらねむけが去ってしまった。海のうつくしい潮の香がコラムの鼻に入った、彼は体じゅうの血管に波が走るのを聞いた。 僧房の入口で彼は振りむいて、兄弟たちに内に入れと命じた﹁平和なんじらと共にあれ﹂彼は疲れたように言った。 それから彼はひとりで海の方に下りて行った。 近頃になって高僧コラムはたいそう物やさしくなって来た。彼が神の子らの最も小さき者なる魚ども蝿どもにまで祝福を与えて以来、そのたましいはより清い焔にかがやいた。その灰色の眼には深いあわれみが宿って見えた。夜なかに彼は目がさめた、神がそこにおいでなされた。 コラムは老いて真白な頭をひくく下げて言った﹁おおキリストよ、このよろこび、このよろこび、今こそわたくしの時が来た﹂ しかし神は仰せられた﹁いやコラムよ、今も私を十字架にかけているコラムよ、まだお前の時は来ない、私が栄さか光えに連れて行こうとする霊は、ムルタックだ、むかし曾てドルイドであったムルタックだ﹂ その時コラムは懼れ悲しみつつ立ち上った。部屋には灯がなかった。深い暗黒のなかに彼の霊がうなだれた。しかし、心のうつくしさが彼の身のまわりに和らかい光を与えた、その徳のかがやきの中に彼は立ち上がってムルタックの寝ているところまで行った。 老僧ムルタックはまことに眠っていた。うつくしい息をついて――今わかく美しくなった彼は天の林檎の樹の下で平和に笑っているのであった。 コラムは叫んだ﹁おおムルタックよ、曾てお前がドルイドであった為、また、お前の異教の同みよ族りが悔い改めないで殺されるのをお前が見るのをいやがっていた為に、私はお前をわが兄弟たちの中の最劣等者と見ていた。しかし、まことに、私はこの年になって何も知らないで教えられる少年のようになった。神よ、私の生涯からたかぶりの罪をあらい清めたまえ﹂ そういうと和らかい白い光が翼ある美しいものの姿で、死者の側に立った。 ﹁あなたはムルタックか﹂コラムは深く畏れて囁いた。 ﹁いや、ムルタックではない﹂消えてゆく歌のような息がした。 ﹁あなたは誰か﹂ ﹁私は平和だ﹂その栄ひか光りが言った。 コラムは跪ひざまずいて、歓びにむせび泣いた、曾かつてあり今はもうない悲しみのために。 ﹁おお真白き平和よ、きかせよ、神のいます林檎の樹の陰にいるムルタックに私の声はきこえるか﹂ ﹁神の愛はあちこちに吹く風である。言え、お前は聞くことができる﹂ コラムが言った﹁おお兄弟ムルタックよ、教えてくれ、私はどんな風にして、まだ神を十字架にかけているのか﹂ そのとき部屋のうちに物音がきこえた、子供たちの朝の笑い声にも似た、鳥のうたう声にも似た、天の青い野をとおして日光の流れるにも似た物音が。 やがてムルタックの声が天からきこえて来た、やさしくやさしく。その声は蜜のように優しかった、そして栄光の深い惶おそれに包まれていた。 ﹁キリストのしもべコラムよ、立て﹂ コラムは立った、一枚の葉のように、風のなかにある一枚の葉のように。 ﹁コラムよ、まだあなたの時は来ない、天の門が深く根ざしている深淵の中なる永遠の生命の泉のましろい光に浴している﹇#﹁浴している﹂は底本では﹁沿している﹂﹈私は、それを知っている﹂ ﹁おおムルタックよ、私の罪は、罪は?﹂ ﹁あなたが悔い改めないから、神は待ちくたびれておいでなされる﹂ ﹁おおわが神、わが神! ムルタックよ、もしそれが真実なら、それが真実にちがいない、しかし、それは私の知らない事だ。私は凡ての男にも女にも祝福を与えた、獣類にも、鳥にも魚にも、地に這う物にも飛ぶものにも、みどりの草にも茶いろの土にもさかまく波にも、吹き来り吹き去る風にも、焔ほのおの不思議さにも、すべてに祝福を与えた! 私は自分の罪のためにいつも悔いている、たった一つの罪のためにも断食をし祈りをした、かなしい哉――私は呪われている、何の罪が私を抑えているのか﹂ するとムルタックは、そのあたりをまぶしくも美しく見せた幸福の涙の虹と美しい夢の奥から声をひびかせて、また言った。 ﹁おおコラムよ、あなたは盲目だ。いつかあなたは黒い大きな海あざ豹らしを捕えた、それは呪文によって姿を変えさせられた人間であったが、あなたは弟子の僧たちと一緒になってその男を大岩の上で十字架にかけた、むかしあなたの小舟が始めて岸に着いたほとりで。あなたはそれを悔い改めたか﹂ ﹁おお神に愛されたるムルタックよ、天地の王なる﹃彼﹄にあなたから言いわけをしてくれ、黒きアングウスと呼ばれたあの海豹は人間の女に罪を犯したものだ、そのために、霊魂を持たぬ海族の子がひとり世に生れている﹂ それには返事がなかった、あたりを見廻すと、和らかい光は消えてただ老僧ムルタックの骸のみが残った。コラムは重い心を抱いて、たましいは苦痛の海に沈んでゆく小舟のような気持で、身をかえしてそとの夜のなかに歩み出た。 そとは美しいすばらしい夜であった。月は海の上に低く下りて、さざなみ立てて走る水の流れる金とかがやく銀とはその月の方に流れゆく洪水となって、輝くうつろのまばゆさの中に落ち込んでゆくかと見えた。 海草を踏みながら、老いたる聖者は疲れかなしみ歩いて行った。砂のほとりまで来て彼は立ち止まった。岩の上に一人の女の子がいた。その子は裸体で、和らかい白い月光を身にまとうていた。髪には黄ろい海草をかぶり、それが月の輝きに金いろに光っていた。両手で大きな貝を持って、その貝に彼女の口をつけていた。歌をうたっていた、海の楽のひびきがふくまれて、聞くに痛みを覚えるほどの美しい歌であった。
わたしはさびしい小さい子
たましいのない子
神はわたしを家もない波のようにおつくりなされた
あてもない波のように
わたしの父はあざらし
人間の身を変えたあざらし
母は父をいとしう思うた、人間の
姿でもない父を
父は波を立てて母を沈めた
母は波に乗って父を浮かせた
まぼろしの陰でわたしは生れた
暗い海のみなそこで
照る陽の青いうつくしいあいだは
わたしはみどりの波間にすべり泳ぐ
ひるまのうちはかなしい陸は
わたしの眼にはいらない
やみが波の上に来れば
わたしは貝を持って陸に来る
岩に腰かけてわたしは
さびしい歌をうたう
おおわたしがうたう狂わしい歌はなに
あやしい暗いこころの歌は
わたしは霊のない子、わたしは海の波
霊のない子のうたをうたう
静かにコラムが近よった。
﹁平和なれ﹂コラムは言った﹁平和なれ、おさない者よ、ああ、優しいおさな心、平和なれ﹂
子供はかすむ海のようにひろい目をあけてコラムを見た。
﹁あなたは聖者コラムか﹂
﹁いや、仔鹿よ、真白いおさなごよ、わたしは聖者コラムではない、神を知らないあわれな愚おろ人かものコラムだ﹂
﹁おおコラムよ、あすこの渦巻のなかに住む海の女となったわたしの母を呪ったのは、あなたか﹂
﹁ああ神よゆるしたまえ﹂
﹁おおコラムよ、わたしの父を十字架につけたのはあなたか、曾て人間であって黒きアングウスと呼ばれた父を﹂
﹁ああ神よゆるしたまえ﹂
﹁おおコラムよ、この国の子供たちがわたしを見て逃げるようにしたのはあなたか、わたしが霊魂のない子だと言って、海のあやしい力でほかの子供を青い波間にひき入れるかも知れぬと言って﹂
﹁ああ神よゆるしたまえ﹂
﹁おおコラムよ、それは神のおん栄さか光えのためか﹂
﹁おお、神は御存じである、今宵死んだムルタックからもお聞きとりなさるであろう﹂
﹁見よ﹂
コラムは見た、彼は月光の波間に人間の海豹、黒きアングウスが黒く浮いているのを見た、その丸い頭にある目は愛の眼であった。おとこの海豹の側に見目うつくしい女が泳いでいた。女はよろこびを以て男を見、自分のうみの子を見、そしてコラムをも見た。
コラムはそのとき跪ひざまずいて叫んだ――
﹁わたしを呪ってくれ、あら海の女﹂
﹁コラムよ、平和なれ﹂彼女は答えて、陰影のかさなる波に沈んだ。
﹁わたしを呪ってくれ、黒きアングウス﹂悲しみに震えながら聖者が叫んだ。
﹁コラムよ、平和なれ﹂おとこの海豹は答えて、海ふか底みの暗い静かさの中に沈んだ。
﹁ああ、このくるしみ! おさなごよ、神にゆく道を教えてくれ﹂老いたるコラムは霊を持たぬ子の方に振り向いて叫んだ。
その時、見よ、栄さか光えと不思議があった!
なぐさめるような眼でコラムを見たのは小さい裸体の子であったが、髪に海草も交らず、小さい両手に貝も持っていなかった。今、そこに立っているのは男の子であった、内からの光にひかり輝いて、日光のような金髪には茨の冠をかむり、片手に大きな真珠を持っていた。
﹁おお、わが神、キリスト﹂コラムはきえぎえの声で言った。
﹁コラムよ、今こそこれはお前の物だ﹂その子は白くかがやく大きな真珠をさし出した。
﹁おおわが神よ、何を下さるのか﹂神の老いたる僕しもべは歓びに満ちてささやいた﹁今、わたくしに、何を下さるのか﹂
﹁まったき平和﹂
﹁三つの不思議﹂の一節