江戸時代の医学
自然科学のいろいろな部門がすべてそうであったように、医学もまた我が国でだんだんに発達して来たのは明治以後のことでありますが、しかしそうなるまでにはやはり江戸時代の終り頃に多くの蘭学者たちによって西洋の医学がさかんに輸入されたことを見のがしてはならないのです。もちろんそれ以前にも我が国に医術というものが無かったわけではないのですが、それらはただ個々の経験を集めたようなものであって、まだ全く学問として系統立ってはいなかったのでありましたし、またわれわれ人間のからだのなかのいろいろな器官がどんなものであり、どんな働きをしているかと云いうようなことは、まるでわかっていなかったのですから、本当の意味での医学が発達するのには、どうしても西洋の医学を輸入する必要があったのでした。ところでこれを実際に行った人々のなかで、ここにお話ししようとする杉すぎ田たげ玄んぱ白くやまた前まえ野のら蘭ん化かなどと云いうのが特に名だかいのですが、それに続いてたくさんの蘭学医が出たので、今日の人々はこれらの先覚者たちの並々ならぬ苦心とその功績とを忘れてはならないのでありましょう。 尤もっとも杉田玄白よりも少し以前に、京都に山やま脇わき東とう洋ようという名だかい医者がありました。その父の清しみ水ずと東うけ軒んという人も同じく医者で、山やま脇わき玄げん修しゅうという人について医学を修めたのでしたが、後に東洋がその養子となって山脇と名のったのだということです。しかしこの医学というのはその頃古こい医ほ方うと云いわれていたもので、上に述べた西洋の医学とはちがったものであったのですが、山脇東洋は人体の本当の有様を知るのには、どうしてもこれを実際に解剖して真相を見きわめなくてはならないと感じ、久しい間それを念願していたのでした。 それでもこの頃は屍した体いの解剖などが厳禁せられていたので、獺かわうそなどを用いてそれをしらべたりしていましたが、これでは人体のことはまだよくわかりません。そこで十五年の歳月を費して機会を待っているうちに、漸ようやく寳ほう暦れき四年になって死刑屍の解剖が許されることになり、その年の閏うるう三月七日に行われた死刑者の屍しかばねを請いうけてその解剖を実行したのでした。この時、山脇東洋と共に若狭の酒井侯の侍医であった小こす杉ぎげ玄んて適きという人もそれを実見して、ここに始めて内臓の有様が明らかになったということです。東洋はこの結果を記して、﹁臧ぞう志し﹂という一書にまとめました。今から見れば、それには幾らかの誤りもないではありませんが、しかしともかくもこれは我が国で人体内臓のことを記した最初の書物として、重要な意味をもっているのです。 東洋と共に屍体解剖を実見した小杉玄適と同じく、杉田玄白もまた酒井侯の侍医であり、互いに親しい間柄であったことは注目するに足りることがらで、そこで東洋の書物からも大きな刺しげ戟きをうけて、後に玄白が同様にそれの実見を行ったことは、この時代の医学の上に重要な意味をもつ事がらであったと云いわなければなりません。杉田玄白の生涯
杉田玄白は享保十八年、若狭酒井侯に仕えた父甫ほせ仙んの江戸の邸内で生まれました。父も同じく医者でオランダの外科を学んで、かなりに名の聞こえた人でありました。玄白というのは通称ですが、名は翼、字あざなは士しほ鳳う、齋いさい又は九きゅ幸うこ翁うおうと号しました。 若年のうちに既に幕府の医官西にし玄げん哲てつの門に入って外科を修め、また宮みや瀬せり龍ゅう門もんという人から経けい史しを学び、すぐれた才能を示したのでした。その頃、京都で上に記しました山脇東洋や、そのほか吉よし益ます東とう洞どうなどと云いう医家が名だかくなって全国に聞こえるようになったのでしたが、同藩の小杉玄適が東洋のもとで学んでから、江戸に来て盛んに古こい医ほ方うということを称えたので、それに刺しげ戟きせられて玄白も大いに医学を究めようとし、しかしそのためにはオランダの医学を知る必要があると感じて、そこで自分の親友前まえ野のり良ょう沢たくと共にオランダの医者バブルに就ついて大いにその薀うん奥おうを﹇#﹁薀奥を﹂はママ﹈究めようとしたのでした。 そしてそれには訳官西幸作などにも近づいてオランダ語にも通じ、その上で十分にオランダ医学を修得して、その極めて精緻なのに感服したと云いうことです。前野良沢と云いうのは、やはり代々医者を業とした家がらの人で、中津侯に仕えていましたが、良沢は幼時に孤児となったので、山やま城しろ淀よど藩はんの医者の宮田氏に養われて育ったのでした。 玄白はともかくこのようにして良沢と共にオランダの医学に精通するようになってから、ドイツのクルムスの解剖図譜のオランダ訳書を藩侯から賜わったので、それを詳しくしらべてゆくと、古くからの言い伝えとは大いに違っているので、これを実際についてよく調べてみたいと思っていたのでしたが、偶たま々たま明和八年三月になってこれを確かめる機会が与えられたのでした。 ちょうどその三月四日の未明に江戸千住の小塚原で一人の婦人の刑けい屍した体いの解剖が行われることになったので、玄白は前野良沢と共にそこに赴き、クルムスの解剖図譜と照らし合わせて見たところが、この図譜がいかにも正確に実際と一致しているのに、今さらに驚いたのでした。これはその後小塚原の腑ふ分わけと言い伝えられた名だかい事実になっているのです。 ところで玄白と良沢とは、ここで西洋医学の正しいのに感服して、この書物を大いに世に広めることが大切であると考え、その翌日から良沢の邸に同志を会合し、良沢を盟主となし玄白のほかになお中なか川がわ淳じゅ庵んあん、桂かつ川らが甫わほ周しゅう、石いし川かわ玄げん常じょう、およびその他の人々が相寄ってこの書の翻ほん訳やくに従事することとなり、その後四箇年を費し稿を改めること十一回に及んで、遂ついに安永三年八月に至ってその仕事を一ひと先まず完成しました。これが名だかい﹁解体新書﹂という書物で、四巻から成っているので、我が国のその頃の医学に貢献したことは、実に多大であったのでした。 玄白はその後も多くの書物を著しましたが、そのなかには、﹁瘍よう家かた大いせ成い﹂、﹁蘭らん学がく事こと始はじめ﹂、﹁形けい影えい夜や話わ﹂、﹁狂医之弁﹂、﹁医叟独語﹂、﹁外科備考﹂、﹁天津楼漫筆﹂、﹁養よう生じょ七うし不ちふ可か﹂などがあります。そして文化十四年四月十七日に八十五歳の高齢で病歿しました。玄白の功績を追賞せられて、明治四十年に正四位を追贈せられたことは、彼の一代の光栄と云いうべきでありましょう。玄白は晩年に一子を挙げ、立りゅ卿うけいと名づけましたが、この立卿も、またその子の成せい卿けいも、同じく医家として世に聞こえていた人々であります。かくて杉田一家の我が国の医学に貢献した事じせ蹟きは決して尠すくなくはなかったと言わなければなりますまい。解体新書
﹁解体新書﹂は、上にもお話ししましたように杉田玄白等の四年にわたる苦心の結果で出来あがったものであり、その頃の我が国の医学に非常に役立った書物なのでありますが、この書をつくり上げるまでに玄白等がどれほど骨折ったかは、後に玄白が著した﹁蘭学事始﹂という書のなかに詳しく記してあります。﹁解体新書﹂の出来あがったのは安永三年でありましたが、﹁蘭学事始﹂はそれから凡およそ五十年を経て玄白の歿した文化十四年よりも三年程以前に玄白が書きのこしておいたもので、それも久しく世に知られなかったのでしたが、明治維新の直前になって神かん田だた孝かひ平らおよび福ふく沢ざわ諭ゆき吉ちによってふとそれが見つけ出されたので、それで玄白等の異常な苦心も明らかにされるようになったのは、まことにめずらしい事がらでもあると思われます。またその外に、玄白が建たて部べせ清いあ庵んという人との間にとりかわした手簡文を集めた﹁和おら蘭んだ医いじ事もん問ど答う﹂や、随ずい筆ひつ集しゅうたる﹁形影夜話﹂のなかにも同様なことが記してあるので、ともかくも﹁解体新書﹂ができ上がるまでに彼が非常に大きな努力を費したことは確かであります。
﹁解体新書﹂はクルムスの原著の翻ほん訳やくにはちがいないのですが、そのほかにオランダの解剖書をたくさんに参照してその図を採ったり、またいろいろの説をも引用しているばかりでなく、東洋での古来の説をも時々まじえて、それに玄白の経験を基にした考えをも記しているので、全体としては単なる翻ほん訳やく以上に出ているのでした。しかし玄白も漸ぜん次じ年を経るに従って更さらに完全なものをつくり上げようと考え、この﹁解体新書﹂をもう一度改刻しようと志していたのでしたが、老年になるに従って自分の手ではそれを果たすことが困難になって来たので、そこで門人の大おお槻つき玄げん沢たくに依いし嘱ょくしてこの仕事を行うことに決心したのでした。玄沢はそこでクルムスの原著を改めてよく調べたり、また書類を多く参照したりして、それに十年の歳月を費し、稿を改めること三回に及んで、文政九年に至り﹁重訂解体新書﹂なるものを完成したのでした。それには杉田玄白先生新訳、大槻玄沢先生重訂と記されていますが、玄沢がこれがために大いに苦心努力したのは言うまでもないのです。全体で十三巻から成り、最初の四巻は解体新書を重訂したものでありますが、そのほかのものは玄沢が、註ちゅ釈うしゃくとして附け加えたもので、そのなかにいろいろの大切な事がらが記されているのでした。玄白はこの書の稿が成ったときに、それに次の文を寄せているのです。このなかに門人茂しげ質かたとあるのは大槻玄沢の名であります。
﹁余初め斯この編を訳定する、今を距る殆ほとんど三十年、学問未だ熟せず、見識未だ定まらず、参さん攷こう書しょ無く、質問人に乏し。故に未だ其底蘊をざる者鮮しと為さず、第たゞ人をして医道の真面目を知らしめんと欲するに急にして、遽にわかに剞きけに附し、諸これを天下に公けにす。今自ら之を観れば、慙ざん愧き殊に甚だし。因つて校修を加へて以て改刻せんと欲すること一日に非ざるなり。独り奈い何かんせん、老衰日に逼せまり、志ありて未だ果さず、常に以て憾うらみとなす。乃すなわち門人茂質に命じて改訂に当らしむ。近ごろその草そう藁こうを持し来つて余に示す。余巻を開き、細玩するに、複する者は之これを芟かり、闕かく者は之これを補ひ、譌なまる者は之これを正し、綜核究窮、直ちに原書の蘊うん奥おうを尽つくす。其その紹述の功勤めたりと謂いふ可し。是に於てか余の喜び知る可きのみ。斯書一たび出ては則ち須らく以て善書と為すべし。旧本を取つて惑を生ずること勿なくんば幸甚。﹂
この文を読むと、玄白が自ら博識をもちながら、しかもいかに謙虚であり、それと共に門人玄沢に対していかに信頼の厚かったかを十分に覗うかがうことができるでありましょう。そして実際に玄沢もまたその期待に背かず、よく玄白の遺業を完成したことは、当時にあって特筆するに足りる事がらでもあったのでした。この玄沢は一関侯の藩医茂蕃の子として生まれたのでしたが、杉田玄白の名声を慕ってその門人となったので、後年には仙台侯の侍医となり、同じく名声の高くなった人です。
何いずれにしても、我が国の医学は山脇東洋に次ついで、杉田玄白や前野良沢などによって正しい道に進んだと云いってよいので、その後続々と多くの医学者の出て来たのも、専もっぱらこの人々の功績によるのであり、その意味で私たちはこれらの先覚者たちに多大の感謝をささげねばならないのでありましょう。