古い頃の日本の数学
数学と云いえば、今ではすべて西洋から輸入した算さん法ぽうが用いられ、それが一般に行われているのですが、日本にも昔の江戸時代には和算と称となえられている数学がかなりに発達して、たくさんの和算学者が出たのでした。この和算がなぜ西洋の数学に変えられたかと云いうことについては、いろいろの理由もあるのですが、大体には運うん算ざんの方法がめんどうであったり、またごく特別な問題だけを主にしていましたので、それよりも広い西洋の数学で置き換えられることになったのでした。しかしそれにしても、かなりに古い頃にこのような和算が我が国で発達したということは、大いに注目されなくてはならない事がらでもあり、それについて誰しもが幾らかは知っておかなくてはならないのであるとも思われるのです。 和算の初まりは、もちろん支那の数学が我が国に伝えられたことにあるのですが、支那ではごく古い時からかなりにすぐれた数学者が出ているので、唐とうや宋そうの頃にはよほど進んで来て居り、その後の元の郭かく守しゅ敬けいという人の創はじめた天元術というのは、殊ことに名だかいものです。そういう支那の算法が我が国に伝わって来たのは、江戸時代の初期の頃でありますが、それから漸ようやくこれを研究する学者が我が国にも出て来たので、万治、寛文年間に世に出た磯いそ村むら吉よし徳のりの算さん法ぽう闕けつ疑ぎし抄ょうとか、佐さと藤うま正さお興きの算さん法ぽう根こん源げん記きとか、澤さわ口ぐち一かず之ゆきの古ここ今んさ算んぽ法う記きとかは、その当時の算学書としていずれも名だかいものでありました。ところでその後に和算を大いに進めたのが、ここでお話ししようとする關せき孝たか和かずでありまして、その並々ならぬ努力によって關流の算法というものが出来あがり、この伝統が近く明治の初年までも続いて、その間にたくさんの名だかい数学者を輩出させたのでありました。明治以後になって、さきに述べましたように、これは西洋の数学に変えられることになったのですが、しかし和算がこれだけに進んだというのも、それは最初にその発展に努めた關孝和の大きな仕事のおかげであり、またそのなかには実際に同じ時代に西洋で見出だされたものに比べられるすばらしい発見などもあったことを想いますと、和算家としての關孝和の名は、我が国での大きな誇りの一つと見なくてはならないのでしょう。そこで關孝和がどんな仕事をのこしたかと云いうことについて、ここでごく大略のお話をしてみることにします。關孝和の生涯
關孝和は、通称を新助と云いい、字は子豹で、自由亭と号しました。本姓は内山と云いうので、内山七兵衞永明の二男であるということです。内山家の祖先は信州に住んでいたので、それから蘆あし田だ氏に属して上野国藤岡に移り、孝和は寛永十九年の三月にこの藤岡で生まれたと伝えられていますが、これは確かでないとも云いわれて居り、今ではそれがはっきりして居りません。父は蘆田氏の沒落後に幕府に仕え、駿河大納言附となったと云いうことです。孝和は長じてから甲府の徳とく川がわ綱つな重しげ並びにその子綱つな豐とよに仕えたので、寳ほう永えい元年に綱豐が将軍の世子となり、名も家いえ宣のぶと改めたときに、孝和もまたこの世子附として幕府の御家人となり、勘定吟味役から続いて御納戸組頭となりました。そして寳ほう永えい三年に勤を辞してから、同五年の十月二十四日に歿しました。 寛永十九年に生まれたとすれば、この時六十七歳に当るわけですが、それは確かとは云いわれないのでしょう。江戸牛込七軒寺町の日蓮宗浄輪寺に葬られました。關氏と名のったのは、關五郎左衞門に養われたからだと云いわれていますが、それにもいくらかの疑いはあるとのことです。 さて孝和はこのような公けの勤めの間に、自分では数学を一生懸命に勉強し、遂に和算を大成させたと云いうのですから、それをよく考えると、むしろ驚くべき事がらだと思われるのです。それももちろん数学が生来好きであったからには違いないのですが、彼の頭脳がいかにすぐれていたかと云いうことを想わせるのであります。 数学を最初には高たか原はら吉よし種たねという人に学んだとも伝えられていますが、また一説にはすべて自分で勉強したのだとも云いわれているので、これもどちらが本当かわかりません。それにしても彼のその後の独創的な考え方がその頃として他に比べるものがなかったので、これはまことにすばらしいと云いわなくてはならないのでしょう。 そのたくさんの仕事について、こまかい事までをここでお話しするわけにはゆきませんが、大体どんな成果を挙げたかということを、次にお話ししてみることにします。關孝和の業績
關孝和が和算の上で成し遂げた仕事は非常にたくさんにあるのですが、なかでも最も目立っているのは、始めて筆算式の演算を考え出したということでありましょう。それまでの和算では、すべて支那からの伝統に従って算さん木ぎというものを使って演算を行っていたのでしたが、それに代って筆算をはじめたということは、出来上った上では何でもないように思われても、最初にそれを考え出すということの苦心を想像すれば、やはり孝和のようなすぐれた考えをもっていなければなし得なかったことであると見られます。
孝和はまずそういう演算法をつかって、さきに記しました澤口一之の古今算法記や、磯村吉徳の算法闕疑抄に載せられてあって、まだ完全に解かれていなかった多くの問題をすっかり解決し、延えん寳ほう二年に﹃発はつ微びさ算んぽ法う﹄と題する一書にまとめて、それを公けにしました。この算法は演段術と名づけられて、その頃大いに評判となり、孝和の名声が一時に高まったということです。
これは今日の代数学に相当するものですが、後には更にこれから点てん竄ざん術じゅつと称するものが出ました。なお門人建たけ部べか賢たひ弘ろの名で﹁発はつ微びさ算んぽ法うえ演んだ段んげ諺んか解い﹂並びに﹁研けん幾きさ算んぽ法う﹂と題する書物が出ていますが、これらも実は孝和の考えに出たものであろうと云いわれています。ともかくも、このようにして代数学の上に大きな進歩を来したことは、孝和の大きな功績の一つであります。
次に孝和の行った仕事として方程式に関するいろいろな事がらがあります。
まず方程式を解くのに巧みな省略計算をなしたり、また理論の上からその解法を整えて、適てき尽じん方ほう級きゅ法うほうと名づけるものを考え出し、これが方程式の吟味に大いに役立ったのでした。また支那の招差法や剰一術というのを取り入れてそれらを活用し、積だせき即ち有限級数の総和を求めることができるようにしましたし、それを更に拡張して無限級数に対する公式をもつくり、そのほかに算さん木ぎによる二次方程式の解法を原則として、それから根を無限級数に展開する方法を考え出しました。この方法をだんだんに適用してゆくと、そこにいろいろの級数の比較ができ、その極限を求めることによって遂に円弧の公式をつくることができたのでした。これは円理の算法と云いわれ、和算の上では甚はなはだ名だかいものなのですが、円弧の公式を実際につくり上げたのは、門人の建たけ部べか賢たひ弘ろであったと云いうことです。
また円に関するいろいろの級数や、極大極小の問題や、整数論、三角法に関する事がらの研究もあります。その頃では螺らせ線んのことを円背と云いっていましたが、その螺らせ線んや十字環に関する算さん法ぽうもいろいろしらべましたし、円弧の回転体の立積に関して中心周の問題というものをも取扱っています。また角術というのは正多角形の算さん法ぽうで、それをいろいろの場合に明らかにしたり、そのほかに行列式の論などもあります。
これらはいずれも数学の上でかなりにむずかしい事がらでありますから、このように名目をならべただけではまだ皆さんにはよくわかりかねるかも知れませんが、ここでは一々その内容を説明しているわけにもゆきませんので、それでも關孝和がいろいろの仕事を和算の上でなし遂げたということを明らかにするために記したのでした。
關孝和の時代は、今から顧みれば三百年近くも前の時代なので、西洋で云いえばあの名だかいイギリスのニュートンなどとちょうど同じ頃なのですから、ずいぶん古い昔のことであり、その頃にこれだけのすばらしい仕事をなしたと云いうことは、我国にとっても大きな誇りであると言わなければならないのでしょう。
ただ遺憾なことには、そういう古い時代のことなので、我が国のなかでは学問といえばむしろ聖賢の道を学ぶということが主にせられていて、数学などは一種の道楽のようにも見られていたのですから、もちろん關孝和の名声は和算家のなかには大いに聞こえてはいましたものの、一般の世のなかからはさほど重んぜられなかったのも止むを得ないことなのでした。それにつれて、和算にしてもそれ以後は弟子たちに秘伝として伝えられる有様となったので、この事も広く世間にひろがるのにはある妨げとなったのでした。それでも關流の算さん法ぽうというのはその後門弟に伝えられて、その間にはたくさんの名だかい和算家を出してはいたのでした。
前にも名をしるしました建たけ部べか賢たひ弘ろとか、またその外に荒あら木きむ村らひ英でとか、それからその後の時代になって久くる留しま島よし義ひ太ろ、松まつ永なが良よし弼すけ、山やま路じぬ主しず住み、安あじ島まな直おの圓ぶとか、藤ふじ田たさ定だす資け、會あい田だや安すあ明き、和わだ田ね寧いなど、いずれも名だかい人々であります。しかし和算がただ秘伝として伝えられたことから、初めにも記しましたように、とかく問題もある方向に偏ったのは止むを得ないことでもあったのでした。
それと共に、もう一つには西洋でなされたように数学が実際上のいろいろの科学的な問題と密接に結びつかないで、単に一種の道楽のような形に残されていたことは、やはりそれの健全な発達を妨げたことにもなったのでした。もっともこの事は、江戸時代の我が国の有様から見て止むを得ないことにはちがいなかったのですが、それにしても既に古い時代に關孝和のようなすぐれた数学者を出したことから見て、それを大いに遺憾に感じないわけにはゆかないのです。
そしてこの点から考えても、いつも本当の学問というものを大いに重んずることの大切であるのがよくわかるでありましょう。