透明人間
ハーバート・ジョージ・ウエルズ
海野十三訳
怪(かい)物(ぶつ)!
そうだ、怪物にちがいない。
怪(かい)物(ぶつ)でなくて、なんだろう? 科(かが)学(く)が発(はっ)達(たつ)した、いまの世の中に、東(とう)洋(よう)の忍(にん)術(じゅ)使(つつか)いじゃあるまいし、姿(すがた)がみえない人(にん)間(げん)がいるなんて、これは、たしかに変(へん)だ。奇(きか)怪(い)だ!
しかし、それは、ほんとうの話だった。怪(かい)物(ぶつ)ははじめに、ものさびしい田(いな)舎(か)にあらわれた。それからまもなく、あちこちの町にも出(しゅ)没(つぼつ)するようになったのである。たいへんな騒(さわ)ぎになったことは、いうまでもない。
その怪(かい)物(ぶつ)の姿(すがた)は、まるっきり見(み)えないのである。すきとおっていて、ガラス、いや空(くう)気(き)のように透(とう)明(めい)なのだ。諸(しょ)君(くん)は、そんなことがあるもんか――と、いうだろう。だが、待ちたまえ!
怪(かい)物(ぶつ)が、はじめて田(いな)舎(か)のその村にやってきたのは、たしか二月もおわりに近い、ある寒(さむ)い朝のことだった。身(み)をきるような風(かぜ)がふいて、朝から粉(こな)雪(ゆき)がちらちら舞(ま)っていた。こんな寒い日は、土地のものだって外を出あるいたりはしない。
その男は、丘(おか)をこえて、ブランブルハースト駅(えき)から歩(ある)いてきたとみえ、あつい手(てぶ)袋(くろ)をはめた手に、黒いちいさな皮(かわ)かばんをさげていた。からだじゅうを、オーバーとえりまきでしっかり包(つつ)んで、ぼうしのつばをぐっとまぶかにおろし、空(くう)気(き)にふれているところといったら、寒(さむ)さで赤くなっている鼻(はな)さきだけであった。なんともいいようのない、ぞっとするようなふんいきを、あたりにただよわせながら、黒(くろ)馬(うま)旅(りょ)館(かん)のドアをおしひらいてはいってきたのである。
﹁こう寒(さむ)くちゃあやりきれない。火だ! さっそくへやに、火をおこしてもらいたいな﹂
酒(さか)場(ば)へ、ずかずかとはいってくるなり、ぶるるんと、からだをゆさぶって雪(ゆき)をはらいおとし、黒馬旅館の女あるじに向かって、そう言った。
いまどき、めずらしい客(きゃく)である。こんな冬の季(きせ)節(つ)に、しかもこんなへんぴな土地に、旅(たび)の商(しょ)人(うにん)だってめったにきたことはないのだ。おかみさんは、びっくりもし、なげだされた二枚の金(きん)貨(か)をみると、すっかりよろこんでしまった。
﹁とうぶん、とめてもらうから﹂
客(きゃく)をへやに案(あん)内(ない)すると、暖(だん)炉(ろ)に火をもやしてたきぎをくべ、台(だい)所(どころ)でお手伝いにてつだわせて、おかみさんはせっせと食(しょ)事(くじ)のしたくをした。
スープ皿(さら)、コップなどを客(きゃ)室(くしつ)にはこんで、食(しょ)卓(くたく)のよういをととのえた。暖(だん)炉(ろ)の火はさかんにもえて、ぱちぱちと音をたてている。
ところが、火にあたっている客(きゃく)はこちらに背(せ)をむけたまま、ぼうしもオーバーもぬごうとはしないで、つっ立っている。中(なか)庭(にわ)にふりつもる雪をみつめながら、なにか考えているようだった。オーバーの雪がとけて、しずくが床(ゆか)のじゅうたんの上にしたたり落ちていた。
﹁もし、あのう、おぼうしとオーバーを、おぬぎになりましたら? 台(だい)所(どころ)でかわかしてまいりますわ﹂
と、おかみさんが声をかけた。
﹁いいんだ﹂
ふりむきもしないで、客が、ぶっきらぼうに言った。おかみさんはあわてて、残りの皿をとりに台所へもどった。
料(りょ)理(うり)をはこんで、もういちど客(きゃ)室(くしつ)にきてみると、客はまだ、さっきとおなじ姿(しせ)勢(い)で窓(まど)のほうをむいていた。
﹁お食(しょ)事(くじ)のよういができました﹂
﹁ありがとう﹂
へんじはしたが、うごこうともしなかった。おかみさんがでていくと、男は、さっと食(しょ)卓(くたく)に近づいた。そして、スープをせっかちにすすり、パンやベーコンをがつがつと食べはじめた。
つぎに、おかみさんがハム・エッグを皿(さら)にのせて、軽(かる)くドアをたたいて客(きゃ)室(くしつ)にはいっていくと、とたんに、男はナプキンを食(しょ)卓(くたく)の下になげ、それをひろうようなかっこうをして、身をかがめて口におしあてた。
︵おやっ?︶
と、おかみさんは思った。
ぼうしとオーバーはやっとぬいで、暖(だん)炉(ろ)のまえのいすにおいてある。長ぐつは、炉(ろ)のかこいの金(かな)具(ぐ)のうえにおいてあった。
﹁これはあたしが、かわかしてまいりましょう﹂
金具がさびちゃあこまる、とおもって、長ぐつを取りあげながら、おかみさんが言った。
﹁ぼうしは、いじらんでおいてくれ﹂
陰(いん)にこもったふくみ声で、客(きゃく)はぴしりと言った。おかみさんはおどろいて、客のほうを見た。客はかの女をにらんでいる。
おかみさんは、ぎくっとして、その場にたちすくんでしまった。なんという顔をしているのか……。男の口から下はナプキンにかくれて見えないが、青いめがねをかけたその顔は、頭から顔じゅうをほうたいでぐるぐる巻(ま)き、ほうたいの白い中から鼻(はな)だけが赤くのぞいていて、そのぶきみさは、全(ぜん)身(しん)の毛がそうけ立つほどだった。
﹁あっ﹂
と、あやうく声をたてるところだった。男は茶色のびろうどの服のえりを立てて、顔をうずめている。
﹁いいかい、そのぼうしにはさわらんでくれ!﹂
もういちど、男が、こんどははっきりと言った。
﹁もうしわけありません﹂
おかみさんはぼうしだけ残して、オーバーなどをかかえこむと、にげるように客(きゃ)室(くしつ)をとびだして台(だい)所(どころ)にもどった。
ひとりきりになると、男は窓(まど)ぎわにいって、まだ昼(ひる)間(ま)だというのに、カーテンをひいた。へやのなかが、きゅうに、うす暗くなった。
男は、じつによく食べた。
カーテンをひいて、へやがうす暗くなると、それで安(あん)心(しん)したのか、食(しょ)卓(くたく)につくと、まるで三日も四日もたべずにいたかのように、皿(さら)のなかの物をかたっぱしからたいらげていった。
黒(くろ)馬(うま)旅(りょ)館(かん)のおかみさんは、なんとも気もちのわるい客(きゃく)をとめたもんだと、考えこんでいたが、この男がまさか怪(かい)物(ぶつ)であろうとは気がつかない。ぶっきらぼうで、ぶあいそうな客だとはおもうが、なにしろ先(さき)払(ばら)いで宿(やど)料(りょう)に二枚の金(きん)貨(か)をわたしている。わるい気もちはしなかった。
︵あの人はかわいそうな人なんだよ、きっと! ひどいけがをしてるらしいよ。どこで、どんなけがをしたか知(し)らないが、かわいそうに……。だけど、ほうたいだらけのまっ白(しろ)なあの顔(かお)には、ぞっとするわ。まるで化(ば)けものみたいだもの︶
おかみさんは台(だい)所(どころ)の暖(だん)炉(ろ)の火で、客(きゃく)のオーバーや長ぐつをかわかしながら、そんなことを考えていた。
︵ナプキンで口をかくしているところをみると、口のまわりに、大けがをしたんだよ。ぞっとしたりしては、気のどくだわ︶
しばらくして、おかみさんが食(しょ)事(くじ)のあと片づけに客(きゃ)室(くしつ)にはいっていくと、客はパイプでたばこをくゆらしていた。顔の下(した)半(はん)分(ぶん)にはマフラーをまきつけて、パイプを口にさしこむのに、マフラーをゆるめようとはしないで、口もとをかくすようにしてパイプを吸(す)っていた。
暖(だん)炉(ろ)の火が青めがねにうつって、赤(あか)々(あか)とゆらいでいるが、どんな目をしてこちらを見ているか、とおもうと、やはり、ぶきみさが先に感じられてくるのだった。
めずらしく、客のほうからしゃべった。
﹁ブランブルハースト駅(えき)に、荷(にも)物(つ)をおいてきたんだが、どうやったら取りよせられるね?﹂
﹁おや、それはおこまりでしょう。さあ、この雪(ゆき)では……それに、こんな田(いな)舎(か)ですからね。たのむといって、すぐに、人手がいいあんばいにございませんわね﹂
男はほうたいだらけの頭で、うなずいていたが、
﹁こまるなあ。どうしても、きょうじゃあだめかね?﹂
と言った。
﹁きょうじゅうには、むりでございますよ﹂
﹁あすになるか? なんとか早く、とどけさせる方法はないものかな? 馬(ばし)車(ゃ)ならいってこられそうなものだが……﹂
がっかりしたようすで、なおもつづけた。
おかみさんは、この雪ではとてもだめだろうと、客のようすを探(さぐ)るようにながめながら、説(せつ)明(めい)した。
﹁それがむりなんですよ。このうら山には、とてもけわしい場所がありますんでね、馬(ばし)車(ゃ)なんか通れやしませんよ。去(きょ)年(ねん)でしたか、馬(ばし)車(ゃ)がひっくりかえりましてね、お客さんと馬(ばし)車(ゃ)屋(や)が死(し)にました。とんだ災(さい)難(なん)で、まあ、こんな日には、おやめになったほうがようござんすね﹂
﹁なるほど、災難って、そういったもんかね﹂
男はそれいじょう、たってたのもうとは言わなかった。
﹁マッチをとってくれんか﹂
パイプをマフラーのあいだから口にさしこんで、おかみさんからマッチをうけ取った。そしておかみさんに背(せ)をむけると、窓(まど)ぎわにいって、カーテンのすきまから中(なか)庭(にわ)の雪(ゆき)をながめたまま、ひとことも口をきこうとはしない。おかみさんは、はっとして、へやをでていった。
ふしぎな男は、夕がたまで、へやにとじこもっていた。
ふるびた時(とけ)計(い)が四時をうった。あたりはいつのまにか、うす暗(ぐら)くなっていた。
宿(やど)のおかみさんは、さっきから、もうなん度も時(とけ)計(い)をながめてはためらっていた。
︵四時だわ、どうしてもあのお客(きゃく)さまのところにいって、お茶のご用をきいてこなくては………だけど、どうしたのかしら、わたしはどうもあのお客(きゃく)さまの前にゆくのが、気がすすまないんだけど……︶
おかみさんは、また一、二分考えていたが、きゅうに勇(ゆう)気(き)をふるい起こして、さっと立ちあがった。そのとき、いきおいよく戸をあけて、
﹁おお! おかみさん、えらく降(ふ)りだしたじゃねえか。いやになるねえ、いつまでも寒くて、この大(おお)雪(ゆき)じゃ、わしのぼろ靴(ぐつ)で歩くのはこたえまさあね﹂
と、大声でいいながら、戸(とぐ)口(ち)でぶるぶるっと雪をはらって、時(とけ)計(い)屋(や)のテッディ・ヘンフリイが寒(さむ)そうにはいってきた。
外では、まだ雪(ゆき)がやすみなく降(ふり)りつづいている。
﹁ああ、テッディさん! まったく、こう寒(さむ)くてはやりきれないわね﹂
おかみさんは、こう言いながら、時(とけ)計(い)屋(や)が片(かた)手(て)にぶらぶらとぶらさげている修(しゅ)理(うり)道(どう)具(ぐ)のはいったふくろを見(み)た、とたん、いいことを思(おも)いついた。それは、
︵テッディといっしょにあの客(きゃく)のところへゆく︶
ということだった。そこで、
﹁テッディさん、いいところへきてくださったわ、ちょうど、お客(きゃ)部(くべ)屋(や)の時(とけ)計(い)を見てもらいたいと思っていたのよ。あのへやの時(とけ)計(い)ときたら、動くのは、ちゃんとまちがいなく動くし、時(じか)間(ん)だって、元(げん)気(き)よく打つんだけど、針(はり)だけがいつも六時を指したきりなのよ。どうしたのかしら?﹂
﹁へんだねえ、ちょっくら、見てみましょう﹂
テッディは首(くび)をかしげながら言った。おかみさんは、かれをつれて、れいのふしぎな客(きゃく)の部(へ)屋(や)のドアをかるくたたいた。
へんじはなかった。が、おかみさんはさっさとドアをひらいて、部屋へはいりこんだ。
﹁眠(ねむ)っておいでらしいわ﹂
おかみさんは、ひとり言のようにひくくつぶやいた。
男は、暖(だん)炉(ろ)の前のひじかけいすに、ふかぶかと体(からだ)をうずめて、ほうたいだらけの頭をかしげ、うとうとと、いねむりをしているらしかった。
灯(ひ)のついていない部(へ)屋(や)は暗(くら)かった。ただ赤(あか)々(あか)とさかんに燃(も)えている暖(だん)炉(ろ)の火が、あたりをぼんやりと照らしだしていた。
男は、うつぶせになったまま、身(みう)動(ご)きもしない。
﹁まあ、なんて暗(くら)いんだろう。灯(ひ)をつけないから、なんにも見えやしない﹂
いままで、明るい台(だい)所(どころ)にいたおかみさんには、なにもかもが、ぼんやりと見えた。
﹁もし、だんなさま﹂
声をかけて、ひと足、男のほうに近づいた。と、つぎの瞬(しゅ)間(んかん)、
﹁あっ!﹂
おかみさんは、ぶっ倒(たお)れるかと思うほどおどろいてしまった。ひょいと見た男の顔が、なんと怪(かい)物(ぶつ)そのままの不(ぶ)気(き)味(み)な顔をしているではないか!
暖(だん)炉(ろ)の火をうつして、赤く光る色(いろ)眼(めが)鏡(ね)、顔いちめんにぐるぐるまきにしたほうたい、そしてなによりおそろしく思えたのは、ぽっかりと深いあなのように開いている大きな口だった。まるで顔の下(した)半(はん)分(ぶん)が、すっかり口にかわったのではないかと思うほどだった。
﹁う、うーん﹂
おかみさんのびっくりした声に目をさましたのか、男は、ゆらりと体(からだ)を動かし、眠(ねむ)そうにいすから立ちあがった。
﹁あっ﹂
男は、目の前にたまげた顔で立ちすくんでいるおかみさんを見ると、あわてて、襟(えり)巻(まき)のはしで口のあたりをかくそうとあせった。
その間に、おかみさんは、やっとの思いで、気をとりなおし、
﹁だんなさま、時(とけ)計(い)屋(や)が時計をなおしにまいりましたので、ちょっと……﹂
﹁時計をなおすのかい? いいだろう――﹂
男は、とりつくろったようすで、重(おも)々(おも)しくこたえた。
﹁では、テッディさん、ちょっと、待っててください。すぐランプをとってきますからね﹂
おかみさんは、逃(に)げるようにへやからでてきた。時計屋も、怪(あや)しげな客(きゃく)の姿(すがた)を見て、どぎもをぬかれ、部(へ)屋(や)にはいらずに、おかみさんが引っかえしてくるのをじっと待(ま)っていた。
﹁お待ちどおさま!﹂
と言って、おかみさんは、ランプを片(かた)手(て)にもち、時(とけ)計(い)屋(や)をうながすような目をして、もういちど部屋にはいっていった。時計屋があとにつづいた。
男は、部屋のまん中につっ立っていた。時計屋は、おずおずと、
﹁おじゃまではございませんか? お客(きゃく)さま﹂
と言うと、男はちらりと色(いろ)眼(めが)鏡(ね)をきらめかして、
﹁いや、かまわんとも﹂
と、ごうまんな態(たい)度(ど)でこたえた。時(とけ)計(い)屋(や)は、なにやら、ぞっと背(せ)すじが冷(つめ)たくなるような、いやな感じをうけた。できることなら、時計の修(しゅ)理(うり)などはほうりだして、この部(へ)屋(や)からでていきたくなった。
と、男は、こんどはおかみさんにむかい、
﹁おかみさん! ぼくのほかにはだれも、この部(へ)屋(や)にはいらせない約(やく)束(そく)だったね﹂
と、つめたい声で不(ふま)満(ん)そうに言った。おかみさんは、たじたじと後(うし)ろにさがり、
﹁ですけど、時(とけ)計(い)だけは――﹂
なおしておかなくては、あなたがおこまりになるでしょうと、言うつもりだったが、おそろしさのために、そのあとの声がつづかなかった。
﹁むろん、時(とけ)計(い)は正(せい)確(かく)でなくてはいけないよ。だが、ぼくは、この部(へ)屋(や)にいつでもひとりで静(しず)かにいたいのだ。だれもはいってこないように気をつけてもらいたいね﹂
ぶきみな男にどなりつけられると、時(とけ)計(い)屋(や)は逃(に)げだしたくなった。もじもじ、手足を動かした。それをみると、男は、すぐに、
﹁だけど、時(とけ)計(い)をなおしてくれるのに文(もん)句(く)をいうつもりはないよ。けっこうだよ。なおしてもらおう。きみ、さっそく、やってくれたまえ﹂
時(とけ)計(い)屋(や)のヘンフリイは、すくわれたように大いそぎで時計にとびつき、修(しゅ)理(うり)にかかった。
男は暖(だん)炉(ろ)をうしろにして、両手を背(せな)中(か)でくみあわせ、また、おかみさんにむかって、
﹁おかみさん、時計がなおってからでいいから、お茶をいれてくれたまえ﹂
おかみさんは、
﹁ただいま、すぐ持ってまいりますわ﹂
と、いうより早く、出ていこうとした。男は、
﹁おっと、待ってくれたまえ、ブランブルハースト駅(えき)にある、ぼくの荷(にも)物(つ)をとりよせるようにたのんでくれたかね﹂
﹁配(はい)達(たつ)屋(や)にたのんでおきましたから、あすの朝早くとどきます﹂
﹁あすの朝……こん夜のうちに、とってくるわけにはゆかないかね﹂
﹁ええ、だめでございますよ﹂
おかみさんは、むかっ腹(ぱら)をたてていた。と、みると男は、にわかにものやわらかいようすになり、
﹁じつはね、おかみさん。ぼくは科(かが)学(くし)者(ゃ)なんだよ。いままではこのひどい寒(さむ)さがこたえて、気(きぶ)分(ん)がすぐれなかったうえに、疲れきっていたので、なにをやる元気もでなかったが、ここで休(やす)んでいるうちにやっと元気がでたんだよ。となると、もうじっとしていられないんだ。すぐにも実(じっ)験(けん)にとりかかりたくてね……これがぼくの性(しょ)分(うぶん)なんでね﹂
人のいいおかみさんは、これを聞くと、たちまち、この男を怪(あや)しんだり、いやがったりしたことを後(こう)悔(かい)して、
﹁さようでございましょうとも、で、駅(えき)にございますお荷(にも)物(つ)の中に、実(じっ)験(けん)道(どう)具(ぐ)をおいれになっていらっしゃるのでございますか?﹂
﹁そうなんだ。全(ぜん)部(ぶ)はいっているんだ﹂
男は、おかみさんがじぶんを信(しん)用(よう)しはじめたと見て、また話しつづけた。
﹁ぼくがこの片(かた)田(いな)舎(か)のアイピング村へやってきたのは、だれにもじゃまされないで、思うように研(けん)究(きゅう)をやりたいからなんだよ。実(じっ)験(けん)をやってる最(さい)中(ちゅう)にさまたげられると、たまらないからね。それに、ぼくは、ちょっとけがをしてね﹂
︵やっぱりそうだったんだわ。この方は怪(あや)しい人じゃなかったのよ。お気のどくに……ずいぶんひどいけがをなさったらしいわ︶
おかみさんは、心のなかでそう思った。男は、よわよわしい調(ちょ)子(うし)で、
﹁そのうえ、けがのために視(しり)力(ょく)がすっかりよわってしまってね。ときどき痛(いた)みだすと、何時間も暗(くら)がりの中で、じっとしていなければならないんだ。痛(いた)みの起こったときのつらさときたら、まったくたえられないほどなんだよ。そんなときに、だれかに部(へ)屋(や)にはいってこられると、とてもいやなんでね。だから、きみもよく心えていてもらって、ぼくの部屋へ他(たに)人(ん)をいれないでくれたまえ。しずかに休んでいたいんだからね﹂
﹁わかりました。よく気をつけますわ。そんなひどいおけがを、どうしてなさいましたの?﹂
おかみさんは同(どう)情(じょう)のこもった声で、やさしくたずねた。すると男は、
﹁話はそれだけだ﹂
うってかわった冷(つめ)たさで言い、おかみさんが二度と口をひらかないように横をむいた。
おかみさんがでてゆくと、男はヘンフリイが時(とけ)計(い)の修(しゅ)理(うり)をやっているのを、じっと見つめはじめた。
ヘンフリイは、さっきからだまりこんで、せっせと手を動かしている。
針(はり)をぬき、文(もじ)字(ば)盤(ん)をはずし、なかの機(きか)械(い)をひっぱりだした。
かれはねんいりに機(きか)械(い)をしらべた。男がじっとながめているので、かれはなんとなく気(き)味(み)がわるくて、仕(しご)事(と)をしている手が思うように動かなかった。
十五分ほどたつと、時(とけ)計(い)はすっかりなおったが、ヘンフリイは、いつまでもぐずぐずと機(きか)械(い)をいじっている。時(とき)がたつにつれて恐(おそ)ろしさがうすらいでくると、かれは、
︵この奇(きみ)妙(ょう)な男の正(しょ)体(うたい)を見きわめてやれ!︶
と、いう気になっていた。どうにかして、男と話すおりをつかみたいと思ったが、だめだった。
男は、口をきかないばかりか、身(みう)動(ご)きひとつしないで、じっとつっ立っていた。
眼(めが)鏡(ね)のレンズが、青白く光ってヘンフリイを見つめている。
ヘンフリイは、たまらなくいらいらしてきた。
︵ちえっ、なんていやなやつだろう。ぞっとするよ。まるで化(ばけ)物(もの)とむきあってるような気もちだよ。人(にん)間(げん)なら人間らしく、きょうはひどく寒(さむ)いねぐらいのことは、言ったらよさそうなもんだよ。ぶあいそうなやろうだ。が、こういつまでもだまってても、らちがあかねえや。ひとつこちらから先に、声をかけてやろう︶
かれは決(けっ)心(しん)して、男の顔を見あげ、
﹁この天気は――﹂
とたんに、するどい声がとんできた。
﹁さっさと仕(しご)事(と)を片づけて、でていったらどうだ?﹂
男は、どなりたいのをやっとがまんしているらしく、ふるえる声で言った。ヘンフリイはまっさおになった。男は、かさねて、
﹁短(たん)針(しん)をじくにはめれば、すむんじゃないか。さっきから見ていると、やらないでもいいことばかりやってるみたいだぞ﹂
ヘンフリイは、ぎょっとした。男はなにもかも見すかしているのだ。
恐(おそ)ろしさで体(からだ)が、がたがたふるえてきた。大あわてで仕(しご)事(と)をすませ、道(どう)具(ぐ)を片づけると、あたふたと部(へ)屋(や)をでていった。
台(だい)所(どころ)にくると、ヘンフリイは、いそがしそうに働(はたら)いているおかみさんに、
﹁さようなら﹂
と、ふきげんなみじかいあいさつを残(のこ)して、さっさと、雪(ゆき)がふる外へとびだした。
道にはすっかり雪がつもっていた。
﹁ちくしょうめっ! なにが科学者だい。学者ってものは、もうすこし上(じょ)品(うひん)なもんだよ。大きなつらをしやがって……あいつは悪(あく)魔(ま)かもしれねえぞ﹂
時(とけ)計(い)屋(や)は、道(みち)々(みち)、思いつくかぎりの男のわる口をつぶやいた。それでも、やはりむしゃくしゃしていた。
時(とけ)計(い)屋(や)がどんどん歩いて、グリーソン屋(やし)敷(き)のかどまできたとき、のんきな顔で馬(ばし)車(ゃ)を走らせてくるホールにばったりと出あった。
﹁よう! どうしたい、ヘンフリイ! 浮かねえ顔で、やけにいそいでるじゃねえか﹂
ホールがくったくのない声をはりあげた。
ホールは、怪(あや)しい男が泊(と)まった黒(くろ)馬(うま)旅(りょ)館(かん)のあるじなのだ。かれはみるからに人の好いのんき者で、ホール夫人に気にいるように、てきぱき働(はたら)くことなど、ぜったいにできない男だった。
ホールの仕(しご)事(と)といえば、ときどき、シッダーブリッジ駅(えき)まで馬(ばし)車(ゃ)を走らせ、荷(にも)物(つ)をはこんでくるのが、せいぜいだった。
いまも、駅(えき)からのかえり道で、いつもとおなじようにホールは途(とち)中(ゅう)で、さんざん世(せけ)間(んば)話(なし)に油(あぶら)を売ってきたところである。
ヘンフリイは、ホールに声をかけられると、いんきな声で、
﹁ホール、おめえのとこには、へんな客(きゃく)がとまっているな﹂
﹁なんだって?﹂
お人よしのホールは、すぐに馬(ばし)車(ゃ)をとめて、時(とけ)計(い)屋(や)のほうへのりだしてきた。
﹁おめえ、知らねえのかい? あのみょうちきりんな顔の客(きゃく)のことを……﹂
ホールは首(くび)をふった。ヘンフリイは、
﹁おれもおどろいたぜ。おかみさんが客(きゃ)間(くま)の時(とけ)計(い)をなおしてくれっていうんで、いっしょに客間にはいったらさ、顔じゅうほうたいだらけの、色(いろ)眼(めが)鏡(ね)をかけて、おっそろしく口の大きな、へんな顔の客がいるじゃねえか。おどろいたの、なんのって……おったまげたよ﹂
ホールはおどろいて、口をぽかんとあけてきいていた。それをみると、ヘンフリイはますます熱(ねっ)心(しん)に、客のようすをしゃべりたてた。
﹁あれはおめえ、よくねえやつかもしれねえぞ。じぶんでは科(かが)学(くし)者(ゃ)だなんて言ってるが……どうだか、わかったものじゃねえ。あいつは、変(へん)装(そう)してるのかもしれないぜ。どこかで悪(あく)事(じ)を働(はたら)いて、それをかくすために、ああいうかっこうをして、なるべく人を近よせないでおくつもりかもしれないね﹂
﹁うちのやつは知ってるのかね?﹂
ホールが、心ぼそそうな声をだした。
﹁もちろんだよ。おかみさんもおかみさんだよ。なんだって、あんな男をとめる気になったんだろう? おれが宿(やど)屋(や)のあるじなら、相手の顔をよくよくながめ、名まえをたしかめてから、泊(と)めるか、泊めないか決めるね。女ってものは、よそものっていうと、とかく信(しん)用(よう)しがちなものさね。まして科(かが)学(くし)者(ゃ)なんていうと、なおさら信(しん)用(よう)するがね。部(へ)屋(や)をかりて、名まえを言わねえような男は、ろくな人(にん)間(げん)じゃねえやね﹂
人がいいばかりで、頭の働(はたら)きのにぶいホールは、ぼんやりと、
﹁そう言うもんかね﹂
﹁あたりまえだよ。しかし、おかみさんは、一週(しゅ)間(うかん)のけい約(やく)をむすんでしまったんだ。いまさら、あいつがどんな悪(わる)者(もの)だったとしても、一週間のあいだは追いだすことはできないんだ。あすになると、あいつのいう実(じっ)験(けん)道(どう)具(ぐ)とやらが、どっさりはこびこまれるらしいぜ。なんの実(じっ)験(けん)をするつもりだかわからないがね﹂
﹁ふうん﹂
ホールは、心(しん)配(ぱい)そうに考えこんでしまった。ヘンフリイは、なおもくどくどと、
﹁用(よう)心(じん)したほうがいいぜ。おれのおばさんもね、ヘイスティングズでやはり宿(やど)屋(や)をやっているがね。見なれぬ客がえらく大きなりっぱなかばんをさげてきたのをみて、すっかり信用してしまったのさ。ところがそのかばんは中がからっぼで、それに気づいたときは、たくさんの宿(やど)料(りょう)をふみたおされて、逃(に)げられたあとだったんだ。おめえたちも、怪(あや)しい客(きゃく)には、よくよく気をつけたほうがいいぜ﹂
﹁ありがとう、ヘンフリイ。こいつはどうも、うちのやつにちょっくら、言ってきかせなくてはなるまい。これから大いそぎで帰ろう﹂
すっかり不安になった黒(くろ)馬(うま)旅(りょ)館(かん)の主(しゅ)人(じん)ホールは、馬にひとむちあてると、いちもくさんに家へむかって走った。
いきおいこんだホールが家にとびこむと、
﹁おまえさん! いつまで外をうろうろしてたんだい? また油(あぶら)を売ってたね。そうでなくて、こんなにながく時間がかかるはずがないじゃないの!﹂
ホール夫(ふじ)人(ん)のがみがみとどなりつける声がとんできた。
﹁なに……それが、あの……その﹂
と、いままでの元気はどこへやら、ホールは叱(しか)られた猫(ねこ)のようにいくじなくちぢまって、しばらくたってから、やっとこさで、
﹁おまえ、新しいお客(きゃく)があったってね。いったいどんな方だい?﹂
と、おずおずしながら聞いた。
﹁だれに聞いたの? ヘンフリイがおしゃべりしたのね。どんな方って……りっぱな方よ。あなたになんか、あの方のことを話したってわかりゃしないわ。科(かが)学(くし)者(ゃ)なんですって﹂
それからあとは、いくらホールが聞いても、気のないへんじをしてごまかしてしまった。
︵ちえっ、あいつ、おれにかくしだてをする気だな。いいよ。おれはじぶんの目で、そのへんな客(きゃく)ってやつを見てやるから――︶
ホールは、おかみさんにいくら聞いても、それいじょうは話さないとわかると、だまって決(けっ)心(しん)をした。
九時半になった。怪(あや)しい客(きゃく)も眠(ねむ)りこんだらしく、黒(くろ)馬(うま)旅(りょ)館(かん)は物(もの)音(おと)ひとつしなくなった。
﹁やつも眠(ねむ)ったらしいね。どれ、ひとつ、どんなやつだかしらべてこよう﹂
ホールは立ちあがり、足(あし)音(おと)をしのばせると、むこう見ずにも、客(きゃ)間(くま)にそろそろとしのびこんでいった。思ったとおり、客(きゃく)は、ふかぶかとベッドにもぐりこんで眠(ねむ)っていた。
ホールは、きょろきょろとあたりを見まわし、机(つくえ)のうえいっぱいに、むずかしそうなこまかい数(すう)字(じ)をかきこんだ紙(かみ)が散(ち)らばっているのをみると、ばかにしたようすで、
﹁ふふうん!﹂
と、鼻(はな)のさきでせせら笑って、ひきあげた。
お人よしのホールは数(すう)字(じ)をかきこんだ紙を見ただけで、このへんな客(きゃく)が、おかみさんの言うとおり、学(がく)者(しゃ)なのだと思いこみ、すっかり安心してしまったのである。
一方、おかみさんは、主(しゅ)人(じん)にむかっては、きっぱりと強がりを言ったものの、内(ない)心(しん)はやはり、客(きゃく)のことが気になってしかたがなかった。
ベッドにはいってからも、夜っぴて大きなかぶらのようにまっ白な、ぶきみな顔に追いかけられる夢(ゆめ)をみて、うなされつづけた。
﹁おはようございます。荷(にも)物(つ)を持ってあがりました﹂
馬(ばし)車(ゃ)屋(や)のフィアレンサイドが、つぎの朝はやく元気のいい声をひびかせて、馬(ばし)車(ゃ)をひき、黒(くろ)馬(うま)旅(りょ)館(かん)にやってきた。
寝(ね)ぶそくらしく、はれぼったい目をしたおかみさんが、主(しゅ)人(じん)のホールといっしょにでてきた。
﹁ごくろうさま﹂
﹁きょうは、きのうの雪(ゆき)のために、道がひどいぬかるみになっていて、えらい難(なん)儀(ぎ)でしたよ﹂
フィアレンサイドが、二人の顔をみるなりこぼした。が、二人は、かれの言(こと)葉(ば)などまるで耳にはいらぬようすで、馬(ばし)車(ゃ)につまれている、ふうがわりな荷(にも)物(つ)に見とれていた。
ふつうの人(にん)間(げん)の持(もち)物(もの)らしいのは、トランクだけだった。トランクは二個あった。そのほかの荷(にも)物(つ)ときたら、何(なん)ともいえずふうがわりなのだ。なにをつめてあるのか、中の物がこわれぬように麦(むぎ)わらをぎゅうぎゅう間(あいだ)につめこんだ籠(かご)が十二、三個(こ)。それにぶあつな本をおしこんだ箱(はこ)が数えきれないほど、そのほかにもえたいのしれぬ荷(にも)物(つ)が山とつまれている。
ホールは馬(ばし)車(ゃ)に近より、籠(かご)の中に手をつっこみ、詰(つめ)物(もの)の麦(むぎ)わらをかきわけてさぐった。
中は、ガラスびんらしい。おかみさんは、客をよびにいった。
﹁荷(にも)物(つ)がきたんだって?﹂
男はうれしそうに、声をあげてとんできた。みるとおどろいたことに、男は、へや着(ぎ)のうえから、オーバーを着、帽(ぼう)子(し)をかぶり、手ぶくろをはめ、ごていねいにえりまきまでしっかりと身につけていた。
フィアレンサイドもホールも、男の身じたくが、あんまりものものしいのに、あっけにとられて、ぼんやりとかれの顔を見ていた。男は、せきこんで、
﹁ずいぶん待たされたよ。さっそく運(はこ)びこんでくれたまえ﹂
言いながら、待(ま)ちきれないように、荷(にば)馬(し)車(ゃ)のうしろにまわり、籠(かご)のひとつに手をかけようとした。
そのとき、フィアレンサイドがつれてきていた犬(いぬ)が、とつぜん、かれの姿(すがた)をみて、毛をさかだて、ものすごいうなり声をあげた。
男は、気にもせず、
﹁いいかい、どれもだいじなものだから、気をつけて運んでくれたまえよ﹂
と、いいつけ、玄(げん)関(かん)の石(いし)段(だん)をあがりかけた。とたんに、犬(いぬ)はひときわ高くうなり声をあげ、ぱっと男の手にかみついた。
﹁うわっ!﹂
男は、大声をあげた。びっくりしたホールとフィアレンサイドは、
﹁こらっ、こいつめ! なにをするのだっ﹂
と、あわててどなりつけ、フィアレンサイドは犬(いぬ)をぶちのめそうと、むちをふりまわした。
そのとき、男は、目にもとまらぬす早さで、ぱっと力まかせに犬(いぬ)をけとばした。
ふいをくらった犬(いぬ)は、よろよろとよろめいたが、こんどは、猛(もう)然(ぜん)とうなり声(ごえ)をあげ、もう一度男におそいかかったとみるや、その足に、がぶりっとかみついた。
びりびりと、ズボンがさける音がした。
﹁ひゃあっ!﹂
とびあがったフィアレンサイドが、
﹁こんちくしょうめ、こんちくしょうめ﹂
と、さけびながら、こんどこそ、したたか犬(いぬ)をたたきのめした。
きゃんきゃんと犬(いぬ)は悲(ひめ)鳴(い)をあげ、車の輪(わ)のあいだに逃(に)げこみ、小さくなった。
すべてが、あっという間のできごとだった。
気まずい空(くう)気(き)がみんなのあいだに流(なが)れた。男は、かみさかれた手(てぶ)袋(くろ)とズボンのすそを、しゃがみこんでしらべていたが、そのままくるりとむきをかえ、いちもくさんに旅(りょ)館(かん)の中にかけこみ、足(あし)音(おと)もあらく、じぶんの部(へ)屋(や)にはいってしまった。
フィアレンサイドは、やっと我(われ)にかえった顔つきで、
﹁でてこい! わるいやつだ。とんだいたずらをしくさって。お客(きゃく)さまのズボンをかみやぶったではねえか……﹂
そして車の輪(わ)のあいだから、おく病(びょう)そうにこちらをうかがっている犬に、むちをふりまわしてみせた。
ホールは、まだ、ぼんやりとつっ立っていた。フィアレンサイドが浮(う)かぬ顔で、
﹁ホール、あのお客(きゃく)さまにけがはなかっただろうかね?﹂
﹁ひどくかみつかれなさったようだったけど、おれ、ちょっと、部(へ)屋(や)へいって、ようすをうかがってこよう﹂
ホールは、あたふたとかけだした。廊(ろう)下(か)までくると、これも浮(う)かない顔で歩いてくるおかみさんにばったりとあった。
﹁フィアレンサイドの犬(いぬ)が、お客(きゃく)さまの手と足にかみついたんだ﹂
ホールはせきこんで、眉(まゆ)をしかめながら言った。が、おかみさんは、ちょっと、うなずいたきり、足もとめないですれちがってしまった。
客(きゃく)の部(へ)屋(や)のドアは、ひらいたままだった。
﹁お客さま、おけがはありませんでしたか?﹂
ホールは、声をかけ、なにげなく部(へ)屋(や)にはいろうとした。
窓のカーテンはすっかりおろされ、部屋の中はうす暗(ぐら)かった。その中に手(てく)首(び)からさきのない腕(うで)が、にゅっとかれのほうにつきだされ、のっぺらぼうのまっ白な大きな顔が、うす青い三つの深(ふか)い穴(あな)をあけて、空(くう)中(ちゅう)に浮(う)いていた。
あっと思うひまもなく、ホールは、なにものともしれぬ強(つよ)い力に、どんと胸(むね)をつかれ、ひとおしに廊(ろう)下(か)につきだされてしまった。
﹁うわあっ!﹂
よろめきながら、ホールがさけぶと、その目のまえに、ドアがばたんと音をたててしまった。
ホールは、しばらく、ドアを見つめて、ぼんやり考えこんでいた。
﹁これは、いったい、どうしたってことなんだ。どこのどいつがおれの胸(むね)をついて、廊(ろう)下(か)にほうりだしやがったというのだ……﹂
さっぱりわけがわからない。
いっぽう、宿(やど)屋(や)のまえは、ものめずらしげにあつまってきた村の人びとで、黒(くろ)山(やま)の人だかりになっている。
フィアレンサイドは、その人たちを相(あい)手(て)に、さっきのできごとを、くりかえしくりかえし話していた。
﹁おれがとめるひまもないほどのすばやさで、こいつは、がぶりとお客(きゃく)さまの足にかみついたんだ。へいぜいおとなしいやつだのに、どうしてあんならんぼうなことをやったのか、さっぱりわからねえ﹂
フィアレンサイドは頭をふりふり、いく度(たび)も言った。
﹁だけどさ、ふしぎじゃないかねえ。ただ立っているだけの人に、なんだってかみついたのかしら?﹂
話をきいていたおかみさんのひとりが、口をはさんだ。雑(ざっ)貨(か)屋(や)のハクスターがもっともらしいようすで、
﹁そうだよ、われわれがここに立っていても、こいつはかみつかないのにさ﹂
﹁だけど、もとはって言えば、フィアレンサイドがこんなろくでなしの犬(いぬ)をかっているのが、大さわぎをおこすもとなんだよ﹂
また、ほかのひとりがいった。
ひとりがだまれば、ひとりがしゃべり、旅(りょ)館(かん)のまえはたいへんなさわぎだった。
このさわぎの中に、ホールは魂(たましい)をなくした人(にん)間(げん)のように、ぼうっとしていた。
目ざとく見つけたおかみさんは、
﹁おまえさん、どうしたの? なにかあったのかい?﹂
﹁いいや、なんでもねえ﹂
ホールはうつろな目(め)で、集(あつ)まってきた人たちを見ていた。
おしゃべりに夢(むち)中(ゅう)になっていた村人たちは、その男がいつのまにか、その部(へ)屋(や)から玄(げん)関(かん)にでてきていたのに、いっこうに気づかなかった。
﹁う、うう、わんわん!﹂
車のかげに小さくなっていたフィアレンサイドの犬が、きゅうにはげしくほえたてた。
﹁あっ!﹂
思わずふりかえった人びとは、玄(げん)関(かん)に不(ぶ)気(き)味(み)な人かげをみて、ぎょっと顔(かお)色(いろ)をかえた。
そのとたん、
﹁馬(ばし)車(ゃ)屋(や)、なにをぐずぐずしているんだ! はやく荷(にも)物(つ)をはこべ!﹂
すご味(み)のあるどなり声が、あたりをふるわせてひびいた。
フィアレンサイドが、びくっと飛(と)びあがり、ホール夫(ふじ)人(ん)は棒(ぼう)立(だ)ちになった。
村人は、くものこをちらすように、後もみずにちっていった。
馬(ばし)車(ゃ)屋(や)は、しばらくためらっていたが、勇(ゆう)気(き)をふるって男に近より、
﹁だんなさま。あいすみませんことで……おけがはありませんですか? なんとも、はや、申しわけありません﹂
ぺこぺことわびた。男は、じろりと馬(ばし)車(ゃ)屋(や)をにらみ、
﹁けがなんかせんよ。かすり傷(きず)ひとつしてないんだ。それより早く荷(にも)物(つ)をはこべ﹂
と、おうへいな態(たい)度(ど)で言った。
馬(ばし)車(ゃ)屋(や)とホールの手で、荷(にも)物(つ)は男の部(へ)屋(や)にはこびこまれた。
男はすぐさま荷物をほどきにかかった。じれったそうに、間(あいだ)につめた麦(むぎ)わらをほうりだし、中のガラスびんをひとつずつ、だいじそうにとりだした。どのびんにも液(えき)体(たい)や粉(ふん)末(まつ)がつまっている。
男は、おびただしい数(かず)のガラスびんをとりだすと、こんどは試(しけ)験(んか)管(ん)をとりだした。
つぎに、はかり、そのつぎは、えたいのしれぬ機(きか)械(い)だった。
﹁やれやれ、これですっかりとりだしたぞ。ぶじに荷(にも)物(つ)がとどいてなによりだ。うすのろの馬(ばし)車(ゃ)屋(や)め、おれのだいじな荷(にも)物(つ)をだいなしにしないかと、はらはらしたよ﹂
男は、ほっとしたようにつぶやき、麦(むぎ)わらや空(あき)籠(かご)、空(あき)箱(ばこ)で、すっかり部(へ)屋(や)が汚(よご)れてしまったのも、気かつかぬようだった。
﹁さあ、さっそく、とりかかろう﹂
男は、息(いき)をつくひまもなく、窓(まど)のちかくに機(きか)械(い)をならべ、実(じっ)験(けん)にとりかかった。
いつのまにやら、暖(だん)炉(ろ)の火はきえ、底(そこ)びえのする寒(さむ)さがしんしんとせまっていた。
しかし、男は暖(だん)炉(ろ)の火が消えたことなど、これっぽっちも気にしていなかった。
試(しけ)験(んか)管(ん)をならべ、毒(どく)薬(やく)とかかれた茶(ちゃ)色(いろ)のびんをとりあげると、試験管の中に、たらたらと、三、四滴(てき)の液(えき)をたらしこんだ。
こんどは、それを火にかけ、また、ほかの薬(やく)品(ひん)のふたをとった。
男は、ながい間、こうしてなにもかもわすれ、ただ実(じっ)験(けん)にねっちゅうしていた。
時はすぎ、いつのまにか、昼(ひる)がきていた。ドアをたたく、かるい音がひびいた。
男はすこしも気づかない。おかみさんが、昼の食(しょ)事(くじ)をはこんできたのだった。
ドアをたたく音は、しばらくつづいていた。男は、むちゅうで試(しけ)験(んか)管(ん)をふっていた。
たまりかねたおかみさんは、とうとう、だまってはいってきた。
﹁まあ! これは……﹂
ひと足ふみこんだおかみさんは、たちまちしかめっ面(つら)になって、ふきげんな声をはりあげた。
部(へ)屋(や)がだいなしになっている。わらくずがちらかり、古(ふる)トランクがなげだされ、空(あき)籠(かご)がほうりだされてある。
おかみさんはいきなり、腹(はら)だちまぎれに、テーブルの上の麦わらを手荒くほうりだした。
がしゃんと、食(しょ)事(くじ)の皿(そら)をその上に、音をたててなげだした。
男は、はじめて、﹁おやっ?﹂と、いうように顔をあげた。
﹁お食(しょ)事(くじ)をもってまいりましたわ﹂
おかみさんは男をにらんで、つっけんどんに言った。
男はへんじもせず、うつむいたままで、テーブルの上においてある眼(めが)鏡(ね)を大いそぎでとりあげてかけると、やっと、ゆっくりとおかみさんのほうにむきなおった。
男の動(どう)作(さ)はすばやかった。しかしおかみさんは、その間(ま)に目(めだ)玉(ま)がぬけ落ちて、ぽかりと二つの深(ふか)い穴があいているような男の顔に気づいていた。が、なにくわぬ顔でつっ立っていた。男はいたけだかに、
﹁この部(へ)屋(や)に用があったら、ノックをしてからはいってもらいたいね﹂
﹁ノックはいたしましたわ。なんどもなんども。でも、だんなさまが、お気づきにならなかったんですよ﹂
﹁それはしたかもしれんさ。しかしだね。この実(じっ)験(けん)は一分(ぷん)もはやく完(かん)成(せい)させなくてはならんのだ。じゃまがはいるとひどくめいわくするんだ。ドアがあく音がするだけでも気がちってこまる。いちど言ったことは、かならず守(まも)ってもらいたいね﹂
おかみさんはぷんぷんして、
﹁わかりました。それでしたら、お部(へ)屋(や)に鍵(かぎ)をおかけになったらいかがですか?﹂
﹁なるほど、そうだったな。では、これからは鍵をかけることにしよう﹂
男は、落ちつきはらってこたえた。おかみさんはなおさらいまいましそうに、
﹁よろしかったら、この麦(むぎ)わらを片づけましょうか? ひどくよごれて……﹂
男はぎろりとおかみさんをにらみ、きっぱりと、
﹁ふれんでもらいたいね。この麦わらであなたにひどくめいわくがかかるというのなら、その分だけ金(かね)をとってくれたまえ。えんりょなしに勘(かん)定(じょ)書(うがき)につけておいてくれればいいよ﹂
これを聞(き)くと、いままでぷりぷり腹をたてていたおかみさんが、急(きゅう)にねこなで声で、
﹁それはおそれいります。どのくらいお掃(そう)除(じだ)代(い)をいただけましょうか?﹂
﹁一シリングでいいだろう?﹂
﹁けっこうですわ﹂
﹁では一シリングとつけておきなさい。勘(かん)定(じょう)をするときにいっしょに払(はら)うから﹂
﹁ありがとうございます。ではどうぞ、お食(しょ)事(くじ)をなさってくださいませ﹂
おかみさんは礼(れい)をいい、テーブルかけをひろげて、食(しょ)事(くじ)のしたくをととのえ、逃(に)げるように部(へ)屋(や)をでていった。台(だい)所(どころ)へもどりながら、
﹁なんておかしな人だろう。でも、掃(そう)除(じだ)代(い)が一シリングならわるくないわ﹂
と、つぶやいた。
黒(くろ)馬(うま)旅(りょ)館(かん)に平(へい)和(わ)はなくなってしまった。このいなかの旅(りょ)館(かん)は、いつもひっそりと静(しず)かで、一(いち)番(ばん)客(きゃく)のたてこむ夏の間でさえ、たいして変(か)わったことがあるわけでなく、おだやかな毎日がくりかえされていた。
ところが、奇(きみ)妙(ょう)な男がやってきてからというものは、おかみさんも主(しゅ)人(じん)のホールもすっかり落(お)ちつきをなくしてしまい、ともすれば暗(くら)い気もちにおそわれるのだった。
男の部(へ)屋(や)からひきとってきたおかみさんは、くるくると忙(いそが)しげに働(はたら)きつづけていたが、心の中では、ずっと男のことを考えつづけていた。
客(きゃく)の部屋は、一日中ひっそりと静かだった。
夕方、とつぜん、れいの客の部屋から、ものすごい音がひびいてきた。
がちゃーん、がちゃがちゃがちゃ!
ガラスびんや試(しけ)験(んか)管(ん)がぶつかりあったらしい、はげしい音だった。
﹁たいへんだ!﹂
おかみさんはひと声さけぶと、手にしていた鍋(なべ)をほうりだし、台(だい)所(どころ)からよこっとびにとびだしていった。
どん、どんどん……。
はげしく客(きゃく)の部(へ)屋(や)の戸(と)をノックした。なんのこたえもない。
どーんと体(からだ)ごとぶつかってみた。しかし、ドアは内(うち)がわから、しっかりと錠(じょう)がかかっている。
こんどは、ドアにぴったりとくっつくと、じっときき耳(みみ)をたてた。
部(へ)屋(や)の中からは、男のわめく声が聞こえてきた。
﹁だめだ、また失(しっ)敗(ぱい)だ。どうもうまくいかんぞ。三十万かな、いや、四十万かな、なにしろたいした数(かず)だ。おれはだまされたのかな? こんなことをやっていたら、一生かかってもできあがらないぞ、こまったなあ﹂
怒(いか)りと悲(かな)しみにしずんだ声だった。
それっきり、しばらく声はとぎれていたが、また、気をとりなおしたのか、
﹁やっぱりがまんしてつづけよう。ここで投(な)げだしては、いままでの苦(くし)心(ん)も水の泡(あわ)だ。それにしても、こんど、あいつに会ったら、ただではすまさんぞ﹂
おかみさんには、なんのことかわからなかったが、いかにも意(い)味(み)ありげな言(こと)葉(ば)だった。
おかみさんは、全(ぜん)身(しん)を耳(みみ)にして、男の声を聞いていた。
そのとき、
﹁こんにちは、おかみさん。いっぱいのませておくんなせえ﹂
大(おお)声(ごえ)をあげて、入(いり)口(ぐち)の酒(さか)場(ば)に客(きゃく)がはいってきた。
﹁ああ、もうすこし聞いていれば、なんのことだかわかるかもしれないのに……﹂
おかみさんは舌(した)うちをしながら、酒(さか)場(ば)にでていった。
部(へ)屋(や)のさわぎはおさまったらしく、それっきり二度とさわぎはおこらなかった。ときどき、いすがきしむかすかな音と、びんがふれあうひびきが、かすかにきこえるだけだった。
いっぽう、馬(ばし)車(ゃ)屋(や)のフィアレンサイドは、黒(くろ)馬(うま)旅(りょ)館(かん)にきみょうな客(きゃく)の荷(にも)物(つ)を運(はこ)んだ日の夜おそく、アイピング村のはずれのちいさなビヤホールで、一杯(ぱい)かたむけながら、いつまでもいきおいこんでしゃべりつづけていた。
あいては、時計屋のテッディ・ヘンフリイともうひとりの村の男だった。
﹁おれはこの年になるまで、あんな変(へん)なやろうは見たことがねえよ。おれの犬(いぬ)が、あいつの足をがぶりとやったとき、おれはたしかに見たんだよ。あの男の足はまっ黒なんだ﹂
﹁ほんとうかい? 人(にん)間(げん)の足がまっ黒(くろ)だなんてことがあるものかなあ﹂
﹁おれの言うことをうたぐるのかい? おれはちゃんと見たんだぜ。ズボンのさけ目と手(てぶ)袋(くろ)のやぶれたところから、はっきり黒(くろ)ん坊(ぼう)のようにまっ黒な肌(はだ)がみえたんだ。おめえなんか、どう思っていたかしらねえがね﹂
フィアレンサイドは、酔(よ)いのまわってきたビールのいきおいもあって、テーブルをたたきながら、がんとして言いはった。ヘンフリイはまだ半(はん)信(しん)半(はん)疑(ぎ)で、
﹁だとすると、おかしいじゃないか? あいつの鼻(はな)はちゃんと白いんだぞ﹂
﹁そうだよ。おめえの言うとおり、やつの鼻は白いんだ。だからさ、おれが考えるのに、たぶんあいつの体(からだ)はあちこち色がちがうんだろう。白いところと黒いところがあってさ。まだらになってるだろうよ。だもんで、やつは恥(は)ずかしがって、あんなにえり巻(まき)やオーバーをしっかり身につけて、かくしてるんだよ﹂
﹁まるでシマ馬(うま)みたいじゃないか。白と黒のまだらだなんて、はっはっは﹂
﹁はっはっはっはっ﹂
三人は声をあわせて笑(わら)いころげた。いつまでたっても、かれらの話(はなし)はつきそうもなかった。
馬(ばし)車(ゃ)屋(や)のフィアレンサイドと時(とけ)計(い)屋(や)のヘンフリイの口から、黒(くろ)馬(うま)旅(りょ)館(かん)にとまったきみょうな客(きゃく)のことは、たちまちのうちにアイピング村にひろまっていった。
うわさはうわさを生んで、村人たちはよるとさわると男の話でもちきりだった。
しかし、村人たちはかれの姿(すがた)を見かけることは、ほとんどなかった。男はたいてい部(へ)屋(や)にこもりきりで、いっしんに実(じっ)験(けん)をつづけていたからだ。日(にち)曜(よう)日(び)に、村の人たちがみんなそろってでかける教(きょ)会(うかい)へもこないし、日曜だからといって、ゆっくりやすむということもなかった。
ふるくからの習(しゅ)慣(うかん)をまもって、平和に暮(く)らしている村の人たちは、この男のやることが気まぐれで、ひどく変わっているように思えた。
﹁黒(くろ)馬(うま)旅(りょ)館(かん)では、よくあんな変(か)わった客(きゃく)をとまらせておくねえ。どんな考えでいるんだろう﹂
村人は、ホールやおかみさんのホール夫人に聞こえぬところでは、よくこんなことをささやきあった。ホールは、こんなかげ口を耳にはさむと、
﹁おい、どうかして、あの客(きゃく)をことわるわけにはゆかないのかい?﹂
と、いやな顔をしながらホール夫人に言った。かれはその客(きゃく)がきらいだった。廊(ろう)下(か)でばったり顔をあわせるようなことがあっても、わざとよこをむいて、虫(むし)が好(す)かないことをあからさまにしめしたりした。
おかみさんは、主(しゅ)人(じん)が客(きゃく)のことを言いだすと、できるだけひややかな態(たい)度(ど)をとり、いかにもりこうぶった口ぶりで、
﹁ただ虫(むし)がすかないからって、あんなに金(かね)ばなれのいいお客(きゃく)さんをことわる人があるものですか。夏になって絵かきさんたちが避(ひし)暑(ょ)にくるまでは、気むずかしくても、きちんきちんとお勘(かん)定(じょう)を払(はら)ってくれるお客を、だいじにしなくてはね﹂
こういわれると、ホールはだまりこんでしまった。
ところが、金(かね)ばなれのいいはずの男も、四月にはいると、そろそろふところがさびしくなってきたようすだった。それまでは、たびたびおかみさんの顔をしかめさすようなことをしでかしても、そのたびに、さっさとよぶんのお金をはらって、ホール夫人に叱(こご)言(と)をいわせるようなことはなかったが、四月になってからは、目にみえて金ばらいがわるくなってきた。
こうなると、さすがのおかみさんも、ときにはいやな顔を見せるようになってきた。
その日も、ホールとホール夫(ふじ)人(ん)がおそい昼(ちゅ)食(うしょく)をとっていると、その部(へ)屋(や)からいらいらと歩きまわる客(きゃく)の足(あし)音(おと)がひびき、そのうちにはげしい怒(いか)り声(こえ)とともに、壁(かべ)になにかをぶつけるけたたましい音がきこえてきた。
﹁おい、またはじまったじゃないか。いまにあの部(へ)屋(や)はめちゃめちゃになって使いものにならなくなるぞ。おれがいったように、あんなえたいのしれないやつは、早く追いだしてしまったほうがよかったんだ﹂
ホールがおかみさんにむかって言った。
﹁うるさいねえ。なにかって言えば、つべこべとうるさいことばかり﹂
おかみさんは高びしゃに言った。しかし、ホールも負けてはいなかった。
﹁なんだい、あんなへんな客(きゃく)を泊(と)めるくらいなら、いっそ化(ばけ)物(もの)でもとめたほうが気がきいてるよ。まだ夜もあけないうちから起きだして、いそがしそうに動きまわるかと思うと、昼(ひる)すぎてやっとベッドをはなれて、ゆっくりたばこをすいながら、なん時間ものこのこと部屋を歩きまわっている。ときによると一日(にち)中(じゅう)なんにもしないで、暖(だん)炉(ろ)のまえでいねむりばかりしているときもあるじゃないか。ことに、このごろのいらいらしてるようすときたら、ただじゃないよ。とんでもないことをしでかさないうちに、でていってもらったほうがいいぜ﹂
二人のあらそいはいつまでたってもおわりそうもなかった。ことに客(きゃく)の金(かね)ばらいがわるくなってからは、よけいにホールが、おかみさんにしつこくいや味(み)をいいはじめた。
さわぎは黒(くろ)馬(うま)旅(りょ)館(かん)の中だけではなかった。このごろアイピング村では、日が暮れるがはやいか人びとは、しっかりと戸(とぐ)口(ち)の錠(じょう)をかけ、いつまでも寝(ね)ないでいる子どもにむかって、
﹁いつまでも寝ないでいると、黒(くろ)馬(うま)旅(りょ)館(かん)のこわい男がやってくるぞ﹂
というのだった。村(むら)人(びと)たちは夕ぐれ時、頭から手の先まですっかりつつみこんだかっこうで、人(ひと)通(どお)りの少ないうら道とか、木のしげりあった暗(くら)いじめじめした場所を散(さん)歩(ぽ)しているれいの男にでくわすと、子どもだけでなく大(おと)人(な)でさえ、ひやっと背(せ)すじにつめたい水を浴(あ)びせかけられたような気(きぶ)分(ん)になった。
四月になった、とある日、とうとうたいへんな事(じけ)件(ん)が持ちあがってしまった。
事(じけ)件(ん)というのは、牧(ぼく)師(しか)館(ん)に気(き)味(み)のわるいどろぼうがはいったことなのだ。
夜あけもまぢかな、人の寝(ね)しずまったしずかな時(じか)間(ん)だった。
﹁おやっ?﹂
牧(ぼく)師(し)の夫(ふじ)人(ん)は、そっとベッドに起きあがり、耳をすませた。じぶんのねむっている部(へ)屋(や)のドアが一度あいて、またしまる音を聞いたような気がしたのである。
しかし部(へ)屋(や)には、なんのかわりもない。気のまよいかなと、夫(ふじ)人(ん)がよこになりかけると、となりの部(へ)屋(や)から、ぱたぱたと、はだしで歩く足(あし)音(おと)がはっきりときこえた。
﹁あなた﹂
夫(ふじ)人(ん)は、ふるえながら牧(ぼく)師(し)をゆり起こした。
﹁どろぼうよ。ほら足(あし)音(おと)が……ね、階段をおりていったでしょう﹂
牧(ぼく)師(し)は、夫(ふじ)人(ん)の言うとおりに、はっきり足音がしているのをきくと、さっとガウンをはおりスリッパをつっかけて部(へ)屋(や)をでた。
下のへやから、ごとごとと机(つくえ)のひきだしをあける音がする。
﹁ほら﹂
つづいてでてきた夫(ふじ)人(ん)が、そっとひじをつついた。
﹁よし﹂
牧(ぼく)師(し)は、大またに寝(しん)室(しつ)へひっかえすと、やにわに、すみっこにおいてあった火(ひ)かき棒(ぼう)をにぎりしめ、足音をしのばせて、音のするほうへとおりていった。
階(かい)段(だん)の中(なか)ほどまでおりたとき、
﹁くっしゃん!﹂
と、大きなくしゃみの音が、あたりのしずけさをやぶってひびいた。びくっと、牧(ぼく)師(し)はたちどまった。それっきり音はやんだ。牧(ぼく)師(し)は、またそろそろとおりていった。
﹁書(しょ)斎(さい)だな﹂
牧(ぼく)師(し)は、かたくくちびるをかみしめて、机(つくえ)をかきまわすひくい音のきこえている書斎へ、ひと足ずつ近づいていった。
書(しょ)斎(さい)のドアは、ほんのすこしひらいている。まっさおな顔でついてきた夫(ふじ)人(ん)をうしろにかばいながら、牧(ぼく)師(し)は、そっとのぞきこんだ。
﹁ちくしょうめ! どこへしまってやがるんだろう﹂
口ぎたなくののしる声といっしょに、ぼーっとマッチのもえる音がして、黄(きい)色(ろ)なろうそくの光がゆらいだ。
﹁おお、ここだ! こんなところへかくしていたんだな﹂
どろぼうは喜(よろこ)びの声をあげ、金(きん)貨(か)をちゃらちゃらとならした。
﹁うぬっ!﹂
牧(ぼく)師(し)は、火(ひ)かき棒(ぼう)をにぎりしめた。
どろぼうのやつは、とうとう牧(ぼく)師(し)がだいじにためていた金(きん)貨(か)を見つけたらしい。
﹁あれを盗(ぬす)まれてはたまるものか。わしがながい間かかって、やっと二ポンド十シリングためたんだぞ﹂
もう、ためらうひまはない。牧(ぼく)師(し)は、
﹁このやろう!﹂
どなるといっしょに、ドアをけとばして、おどりこんだ。
﹁あっ!﹂
いると思ったどろぼうの姿(すがた)は、どこにも見えない。どこへもぐったというのだろう。ただ机(つくえ)の上にともされたろうそくの灯(ひ)が、ゆらゆらとゆれているばかりだった。
二人は、ぽかんと顔を見あわせた。
﹁たしかにここにいましたよ﹂
夫(ふじ)人(ん)が言った。牧(ぼく)師(し)は机(つくえ)の下をのぞきこんだ。夫人はカーテンのかげをさがした。
そのとき、かすかに部(へ)屋(や)の空(くう)気(き)がゆれて、だれかが部(へ)屋(や)をでてゆくけはいがした。
が、やはりだれもいないのだ。
﹁金(きん)貨(か)はなくなっていますよ﹂
夫(ふじ)人(ん)がさけんだ。
﹁うん、ろうそくだってともっている。だれかがこの部屋にいたことはたしかだよ﹂
﹁こんなおかしなことって、あるものでしょうか?﹂
夫人は歯(は)をがちがちいわせて、ふるえていた。
と、またもや、廊(ろう)下(か)で大きなくしゃみがきこえた。
﹁いるぞ﹂
牧(ぼく)師(し)は、はじかれたように廊(ろう)下(か)にとびだした。あらあらしい足(あし)音(おと)は廊(ろう)下(か)をかけぬけ、台(だい)所(どころ)のうら口のかんぬきを、らんぼうにひきあけているらしい。
牧師が台(だい)所(どころ)にとびこんだしゅんかん、戸はあけられ、かすかな人のけはいが外へむかってかけだしたようだった。しかし、牧師の目には、やはりなにも見えなかった。
牧(ぼく)師(し)と夫(ふじ)人(ん)は、まっさおな顔を見あわしたまま、いつまでもいつまでも、じっと立っていた。
姿(すがた)のないどろぼうが牧(ぼく)師(しか)館(ん)におしいったといううわさは、その日のうちに、アイピング村じゅうにひろまっていった。
牧(ぼく)師(しか)館(ん)が姿(すがた)のないどろぼうにひっかきまわされていたころ、黒(くろ)馬(うま)旅(りょ)館(かん)の女あるじホール夫(ふじ)人(ん)は、
﹁おまえさん、起きてくださいよ。ぐずぐずしていてはこまりますよ﹂
さかんに亭(てい)主(しゅ)のホールをたたき起こしていた。二人は、お手伝いのミリーよりも早く起きて、いつものように穴(あな)蔵(ぐら)にしこんだビールにサルサ根(こん)からとった液(えき)をまぜ、いちだんと味(あじ)をよくしようというのだ。
おかみさんは、まだ寝ぼけまなこをこすっているホールをひったてて、穴(あな)蔵(ぐら)におりていったが、
﹁おや、サルサ根(こん)の液(えき)のはいったびんを持ってくるのをわすれたよ。ちょいとおまえさん、大いそぎでとってきておくれよ﹂
﹁よしきた﹂
ホールは気がるにひきうけ、じぶんの部(へ)屋(や)からいいつかったびんをとりだし、穴(あな)蔵(ぐら)へゆく階(かい)段(だん)をかけおりようとした。
﹁おやっ! 玄(げん)関(かん)のとびらのかんぬきがはずれているぞ﹂
ホールはびんを片(かた)手(て)に、ぽかんとドアの前につったって、ゆうべたしかに玄(げん)関(かん)のドアはしめたはずだ、と思った。
﹁そうだ。おれがろうそくをもって、うちのやつが家じゅうの戸じまりをしてまわったんだから、まちがいないな。それに、はて、あの客(きゃく)の部(へ)屋(や)の戸(と)もあいてたようだったぞ﹂
ホールはそのまま、おくへひっかえして、客部屋のドアをおしてみた。案(あん)のとおり、ドアは苦(く)もなくひらいた。
客(きゃく)の姿(すがた)はどこにもみえない。ベッドの中はもぬけのからで、ぬぎちらした服(ふく)があたりにちらばっている。ホールは、おかみさんのところにかけおりていった。
﹁おいおい、ジャニイや、ヘンフリイが言ったとおり、あの客は大(だい)悪(あく)党(とう)らしいぜ﹂
おかみさんは、それをきくとかんしゃくをおこしてどなった。
﹁なにをねぼけたことを言ってるのさ。しっかりおしよ﹂
﹁ねぼけてなんかいねえよ。客(きゃく)は部(へ)屋(や)にいねえし、玄(げん)関(かん)のかんぬきははずれているんだ。が、やつの服(ふく)は部(へ)屋(や)にほうりだしてあるんだが。とすると、はだかででかけたのかな?﹂
﹁おまえさん、それはほんとの話かい?﹂
﹁ほんとうとも……信(しん)じないなら、おまえ、じぶんの目でみてみな﹂
おかみさんは顔いろをかえ、とっとっと階(かい)段(だん)をのぼっていった。ホールはあとにつづいた。
穴(あな)蔵(ぐら)の階(かい)段(だん)をのぼって一階にでたときだった。大きなくしゃみが、近くできこえた。
おかみさんはホールのくしゃみだと思い、ホールはおかみさんのだと考えて、おたがいに気にとめなかった。
﹁あら、ほんとにいないわ。へんだねえ、どうしたってんだろう﹂
おかみさんは、さっさと部(へ)屋(や)にはいりこんで、ベッドにさわりながらさけんだ。
そのとたん、すぐうしろで、くすんくすん鼻(はな)をすする音がした。おかみさんはすこしも気づかなかった。
﹁おまえさん、ちょっときてごらんよ。まだ夜あけ前だってのに、このベッドは起きてから一時間もたってるように、すっかりつめたくなってるんだよ﹂
﹁どれどれ﹂
ホールも、おくればせに近よってきた。
このときだった。世にもふしぎな、だれに言っても信(しん)じてもらえそうもないことが、とつぜんに起こりはじめた。
まずさいしょは、ふとんがくるくるとまかれ、ぱっとベッドの外にとびだした。つぎには柱(はしら)にかかっていた帽(ぼう)子(し)が、きりきりとちゅうに舞(ま)って、二、三回(かい)転(てん)したかと思うと、矢のようにおかみさんの顔めがけてぶつかってきた。
﹁ああっ!﹂
おかみさんが帽(ぼう)子(し)をさけようと、右にむいたとたん、こんどは洗(せん)面(めん)台(だい)のスポンジがとんできた。つぎはズボン、そのつぎは服(ふく)、恐(きょ)怖(うふ)に顔をひきつらして、かの女が部(へ)屋(や)をうろうろと逃(に)げまどうと、どこからともなく、からからとあざ笑(わら)うつめたい声がきこえてきた。
さいごに、いすがすうっと宙(ちゅう)にうかんだ。とみるまに、おかみさんめがけて、すごいいきおいで飛んできた。
﹁たすけてっ!﹂
おかみさんは悲(ひめ)鳴(い)をあげて、にげまどった。いすはおかみさんの背(せな)中(か)にぴたっとくっついた。
﹁あれっ! たすけて、だれかきて!﹂
なきさけぶおかみさんを、いすはぐいぐいとおし、部(へ)屋(や)の外につきだした。ホールは這(は)うようにして、いっしょに外にころがりでた。
ばたんと、二人のうしろでドアがいきおいよくしまった。
二人が命(いのち)からがら、台(だい)所(どころ)まで逃(に)げのびると、お手伝いのミリーがかけつけてきた。
やっとこさでじぶんの部(へ)屋(や)におちついたとき、ホール夫(ふじ)人(ん)は、うわ言のように、
﹁ゆうれいだわ、きっとそうだ。そうでなければ、いすやズボンが、まるで生き物のようにとび歩くはずがないわ。ホール、すぐに玄(げん)関(かん)のかぎをかけてちょうだい。あの男が帰ってきても中へ入れないように、早く、早く﹂
﹁ジャニイ、気をしずめなさい。ほら、これをぐっとひと口のんでごらん。ずっと気(きぶ)分(ん)がしずまるから﹂
ホールがうろうろしながら、気つけ薬(ぐすり)をおかみさんの口におしあてた。
﹁へんだ、へんだと思っていたんだけど……やっぱりあの男はわるい魔(まほ)法(う)をつかうんだわ。おっかさんの代(だい)からのだいじな家(か)具(ぐ)に、悪(あく)霊(りょう)をふきこんだんだわ。でなければ、いつもおっかさんが腰(こし)かけていた、あのなつかしいいすが、わたしに飛びかかってくるはずがないわ﹂
﹁さあ、ジャニイ、もうひと口飲みなよ。おまえはえらくこうふんしてるよ﹂
ホールが一心(しん)になだめた。
やがて夜がすっかり明けはなれ、明るい太(たい)陽(よう)の光がまばゆくかがやきはじめると、黒(くろ)馬(うま)旅(りょ)館(かん)には、鍛(か)冶(じ)屋(や)のウォッジャーズ、雑(ざっ)貨(か)屋(や)のハクスターがよび集められた。
しかし、だれひとり、この奇(きか)怪(い)な話をきいて、これからどうすればいいか、はっきりと言える者はいなかった。
相(そう)談(だん)はおなじところをめぐって、いつまでたってもらちがあかない。
ついに、ウォッジャーズがホールにむかって、
﹁これはやはり、おまえが客(きゃ)人(くじん)の部(へ)屋(や)にいって、どういうわけでこんな奇(きか)怪(い)なことが起こったのか、よくよくわけをきかしてもらってくるのが、いちばんいい方(ほう)法(ほう)じゃないかね﹂
と言いだした。これには、すぐにみんながさんせいして、お人よしのホールは、のこのこと客(きゃく)の部(へ)屋(や)にでかけていった。
﹁お客さま、ちょっとうかがわせておもらい申(もう)してえだが――﹂
ホールがまのびした声をかけた、とたん、
﹁うるさい、でてゆけ!﹂
すさまじい声といっしょに、ホールは胸(むね)ぐらをどーんとつかれて、ばったりたおれた。
り、りりりーん! もうれつな勢(いきお)いでベルがなった。
これで三度(ど)目(め)だ。あの化けものの客(きゃ)部(くべ)屋(や)からである。
﹁なんどでもならすがいいわ。だれがいってやるもんか。あんな男は悪(あく)魔(ま)に食われて死んでしまえばいいんだ﹂
おかみさんは、長いすによこになったきり、にくにくしそうに言って、起きあがろうともしない。
あれっきり客(きゃく)の部(へ)屋(や)にはよりつく人もない。おかみさんは朝(ちょ)食(うしょく)をもってゆかなかった。きっと客は、腹(はら)をすかせて弱(よわ)りきっているのだろう。
昼(ひる)ちかくになると、おかみさんはいいにおいをたてて、じゅうじゅうと肉(にく)をやきはじめた。
たまりかねた男は、台(だい)所(どころ)の戸(とぐ)口(ち)にたって、
﹁おかみさんはいないかね? すぐに、へやへきてくれ﹂
はや口に言って、姿(すがた)をけした。
﹁ふん、お呼びかね﹂
おかみさんはうしろ姿(すがた)に毒(どく)づきながら、ちょっと考えて、勘(かん)定(じょ)書(うがき)をひょいと盆(ぼん)の上にのせ、客(きゃく)のへやにはいっていった。
﹁お勘(かん)定(じょう)でございますか?﹂
盆(ぼん)をつきつけながら、おかみさんはすまして言った。
﹁なにを言ってるんだ。だれが勘定だといった。ぼくはまだ朝食もくってないんだぜ。なぜ、ぼくの食(しょ)事(くじ)の支(した)度(く)をしてくれないんだ。ベルをならしても知らんぷりだ。ぼくは仙(せん)人(にん)じゃないぞ。飯(めし)もくわずに生きていられるか﹂
﹁おやおや、お食(しょ)事(くじ)のさいそくでございますか? では、わたくしにもさいそくさせてくださいませ。お勘(かん)定(じょう)をしていただきたいんです﹂
﹁三日まえに言っただろう。まだ金(かね)を送ってこないんだよ﹂
﹁あたしは二日まえに、ちゃんと申(もう)したはずですわ。これいじょうお金を送ってくるのなんか待(ま)っていられないんです。あなたさまは朝の食事がほんのすこしおくれたからって、がみがみとお叱(しか)りになりますが、あたしどもはもう、五日もお勘(かん)定(じょう)をまっておりますよ﹂
﹁な、なにを言うんだ。人をぺこぺこの空(す)きっ腹(ぱら)にさせておいて……け、けしからん。じつにけしからん﹂
﹁けしからんのは、そちらですよ。食事のさいそくをなさるくらいなら、さっさとお勘(かん)定(じょう)をはらってからにしていただきたいですね。わたしのほうが、よっぽどさいそくしたいですよ﹂
この言(こと)葉(ば)は、さすがに男の心にぐさりとつきささったらしい。男はにわかにおとなしくなり、
﹁まあ、そう腹をたてないでくれたまえ。じつは、ないと思った金が、おもいがけなくポケットの中にすこしばかり残っていたんだ﹂
﹁ええっ!﹂
とたんにおかみさんの頭に、さっき村の人がかけこんで話したばかりの牧(ぼく)師(しか)館(ん)のどろぼうのことが、さっと頭にひらめいた。なんとなく思いあたるものがあった。
そこで、ずばりとたずねた。
﹁お金があったんですって? いったい、どこで手にお入れになったのかしら……﹂
みるみる男のようすがおちつきを失(うしな)い、はげしい怒(いか)りにぶるぶるふるえ、じだんだをふんでどなった。
﹁なにをぬかす。失(しつ)礼(れい)なやつめ!﹂
おかみさんはすこしもひるまず、
﹁ちっとも失礼じゃございませんわ。お勘(かん)定(じょう)をいただくにしろ、朝の食(しょ)事(くじ)を用(よう)意(い)しますにしろ、そのまえにぜひともはっきりうかがっておきたいことがございます。お客(きゃく)さまは、いったいどうやって、いすに魔(まほ)法(う)をかけてあやつり、いつのまに部(へ)屋(や)からぬけだし、また、いつお帰(かえ)りになったのですか? なんのことわりもなく、空(くう)気(き)のように、かって気ままに出入りなさってはめいわくでございますよ。それに――﹂
男は、
﹁うるさい、やめろ、やめろ!﹂
ものすごいけんまくでどなりちらし、足をふみならした。
﹁ようし、きさまたちがそんな料(りょう)けんなら考えがあるぞ。おれがどんな人(にん)間(げん)か、おまえらにわかるはずはないんだ。が、知りたければ知らせてやろう。見ておくがいい!﹂
怒(いか)りくるった男は、ついにじぶんから正(しょ)体(うたい)をあらわしたのだった。
﹁見よ!﹂
男は手(てぶ)袋(くろ)をはめた手をふりまわし、
﹁おれがどんな人(にん)間(げん)か知りたければしらせてやろう。よく見ておけ!﹂
そのすさまじさに、おかみさんはちぢみあがってしまった。
男は、ぱっと手をひろげると、つるりとひとなで顔(かお)をなでおろした。
すると、顔のまん中に、ぽかりと穴(あな)があいた。
﹁さあ﹂
男は手ににぎったものを、おかみさんの手のなかにおしつけた。
みるまに変わってしまった男の顔に、どぎもをぬかれてしまったおかみさんは、男のわたすものを、ひょいとうけとった。
が、ひと目みるなり、かなきり声をあげてほうりだしてしまった。
鼻(はな)だ! たったいままで男の顔にくっついていた鼻なのである。
ピンク色に光った鼻は、ごろごろと床(ゆか)をころがっていった。
﹁だれかきて!﹂
おかみさんの必(ひっ)死(し)のさけびに、ホールや酒(さか)場(ば)にいた男の連(れん)中(ちゅう)がどやどやとかけつけてきた。
男は、その連中のまえで、ゆうゆうと眼(めが)鏡(ね)をはずし、帽(ぼう)子(し)をとった。
かけつけた連中は、立ちすくんで息(いき)をのみ、男のやることをながめているばかりだった。
こんどは、ほうたいをぐるぐるほどきはじめた。
人びとは、ほうたいの下から、どんなおそろしい顔があらわれるのか、と考えただけでも、おそろしさにぞっとして、じっとしていられなくなった。うき足だったひとりが、
﹁こいつあたいへんだ!﹂
大声をあげると、わっとばかり、ひとりのこらず逃(に)げだしてしまった。
ホール夫人だけは、足がすくんで、その場にとりのこされていた。
男の顔から、ほうたいがつぎつぎととられてゆくにつれて、どうしたというのだろう?――
そのあとには、なにもなくなってしまったのである。考えていたような恐ろしい顔も、みにくい顔もあらわれてはこずに、男の顔はかき消え、首(くび)なしの怪(かい)人(じん)がそこにつっ立っていた。
首なしの化(ば)けものは、そのまま、玄(げん)関(かん)にかけだしていった。
入口の酒(さか)場(ば)により集まって、がやがやとさわいでいた村の連中に、ホール、それからお手(てつ)伝(だ)いのミリーがけたたましい悲(ひめ)鳴(い)をあげて、玄(げん)関(かん)のとびらをおしあけて、こぼれ落(お)ちるようにわっと外へとびだした。
それからあとのさわぎは、お話するまでもなかった。
人びとは遠(とお)まきに黒(くろ)馬(うま)旅(りょ)館(かん)をとりかこんで、
﹁頭がねえそうだよ。ほんとにねえんだ。帽(ぼう)子(し)をとって、ほうたいをはずしたら、その下にあるはずの頭がなかったってんだ﹂
﹁ばかを言え。そんなことがあるはずがねえよ﹂
﹁ほんとだってば、おや、巡(じゅ)査(んさ)のジャッファーズがきたよ。化(ば)けものをつかまえにきたんだ﹂
旅(りょ)館(かん)をとりかこんでいた人びとは、わっと巡査をとりかこんで、おもい思いにしゃべりたてた。巡(じゅ)査(んさ)は、いばって、
﹁頭があろうがなかろうが、わしはやつをつかまえなければならん﹂
﹁そうです、そうです。お巡(まわ)りさん、さあ、つかめえてくだせえ﹂
ホールは、まっすぐに玄(げん)関(かん)にすすみ、入口のドアをいきおいよくあけた。
ジャッファーズは、えらい元気でとびこんでいった。
旅(りょ)館(かん)のうす暗(くら)い台(だい)所(どころ)のすみに、首のない人(にん)間(げん)が、片手にかじりかけのパン、片手にチーズの大きな切れをもってたっている。
﹁あれですっ!﹂
ホールがさけんだ。
﹁なんだ、きさまたち! なにしにはいってきやがった﹂
首(くび)なしの化(ばけ)物(もの)の、首(くび)のあたりと思われるあたりから、怒(おこ)った声がきこえてきた。
﹁ほほう、ずいぶん変わったやつだな。しかし首があろうがなかろうが、わしは逮(たい)捕(ほじ)状(ょう)をもってきてるんだから、からだだけでもつかまえていくぞ﹂
巡(じゅ)査(んさ)は、ぱっと男めがけてとびかかった。男はさっとうしろにとびさがり、パンとチーズを巡(じゅ)査(んさ)めがけてなげつけた。
﹁こんちくしょう! てむかう気か……﹂
巡(じゅ)査(んさ)はまっかになって怒(おこ)った。ホールはせいいっぱい気をきかせて机(つくえ)の上のナイフをとり、ちょうど応(おう)援(えん)にかけつけた鍛(か)冶(じ)屋(や)のウォッジャーズにわたした。
男はさわぎが大きくなったので、かんかんに腹(はら)をたてたらしく、いきなり巡査の顔をいやと言うほどなぐりつけた。
﹁あっ!﹂
ふいをうたれた巡(じゅ)査(んさ)は、一(いっ)瞬(しゅん)たじろいだが、猛(もう)然(ぜん)と男にくみついていった。
けとばす、つきとばす、すごい格(かく)闘(とう)がはじまった。
巡(じゅ)査(んさ)は、苦(くし)心(ん)のすえに相手の首(くび)をしめあげた。もちろん、見えない首をしめあげるのだから、ずいぶんおかしなものだったが、巡査は一生けんめいだった。
男は苦しがって、巡査のむこうずねをけとばした。
﹁足をつかまえてくれ!﹂
巡(じゅ)査(んさ)は、痛(いた)さをこらえてさけんだ。ホールが足をおさえにきたが、まごまごするうちに、あばら骨(ほね)のあたりを音がするくらいけとばされて、胸(むね)をおさえてしゃがみこんでしまった。
男はふいに、
﹁うむ!﹂
とさけぶと、ばか力をだして巡(じゅ)査(んさ)をなげとばし、あべこべに巡査を下にくみしいてしまった。
﹁こいつはいけねえ﹂
巡(じゅ)査(んさ)のはた色が悪いとみたウォッジャーズは、おく病(びょ)風(うかぜ)にふかれて、戸(とぐ)口(ち)のほうへ逃(に)げだした。そこへ、
﹁おーい、たすけにきたぞ!﹂
と、ハクスターと馬(ばし)車(ゃ)屋(や)がかけこんできた。
巡(じゅ)査(んさ)とウォッジャーズが、ほっとしたとたん、戸(とだ)棚(な)から、がらがらとガラスびんが三つ四つころがりおち、鼻(はな)をつくいやなにおいが部屋いっぱいにひろがった。
﹁こうさんするよ﹂
なにを思ったのか、巡(じゅ)査(んさ)をおさえつけていた手をはなして、首(くび)なし男は立ちあがった。
みれば、頭ばかりか、右手も左手もなくなっている。手(てぶ)袋(くろ)がぬげてしまったからだ。
巡(じゅ)査(んさ)は、すばやく起きなおり、威(いげ)厳(ん)をつくろいながら、男に手(てじ)錠(ょう)をはめようとして、なさけない声を出した。
﹁こいつはいかん、どこへ手(てじ)錠(ょう)をはめればいいんだ、見(けん)当(とう)がつかんぞ﹂
みんなは、ぎくっとして顔を見あわせた。
﹁ああっ! やつは靴(くつ)をぬいだぞ、靴(くつ)下(した)もぬいだ。あれっ! 足がない﹂
ホールが、とんきょうな声をあげた。
怪しい男は、うずくまって靴(くつ)下(した)をぬいだと思うと、こんどは上(うわ)着(ぎ)をぬぎ、チョッキのボタンをはずしはじめた。
それは世(よ)にもふしぎな光(こう)景(けい)だった。
服(ふく)だけが宙(ちゅう)に浮かび、そして、まるで生(せい)命(めい)のあるもののように動いて、一枚一枚ぬぎすてられていくのだ。
人びとはあっけにとられて手も足もでず、ぼんやりとながめるばかりだった。
男は、さっさとボタンをはずし、チョッキをぽいとぬぎすてた。シャツだけになった。
そのとき、巡(じゅ)査(んさ)があわてて大声でさけんだ。
﹁やめさせろ! 服をみんなぬがさせると、たいへんなことになるぞ! すっかり見えなくなって、つかまえられなくなるんだ﹂
﹁そうだ、そうだ、いまのうちにつかまえてしまえ!﹂
しかし、すでに男は、手ばやくなにもかもぬぎすてていたので、いまとなっては、あちこち動きまわっている白いシャツだけが、怪(あや)しい男のありかをしめしているだけになった。
シャツの袖(そで)がひるがえると、ホールの顔にものすごいげんこつがとんできた。
巡(じゅ)査(んさ)がシャツめがけてとびついていく。ヘンフリイはうしろからせまっていったが、したたか耳たぶのあたりをなぐりつけられて、悲(ひめ)鳴(い)をあげた。
そのうち、シャツがくねくねと気(き)味(み)わるく動き、人(にん)間(げん)がぬぎすてるようにまるまったと思うと、ぽんと窓(まど)ぎわになげすてられて、怪(あや)しい男は完(かん)全(ぜん)にその姿(すがた)を消(け)してしまった。
かれをつかまえる手がかりは、なんにもなくなったのである。
﹁気をつけろ、ドアをしめろ。外へださないようにして、なんでもいいから、手にさわったものはみんなつかまえて、なぐりつけろ!﹂
﹁ほら、いた!﹂
﹁いや、こっちだ!﹂
だれもかれもむやみに空(くう)間(かん)をなぐりつけるばかりで、なんのたしにもならなかった。
﹁おい、おれをなぐるとはけしからんぞ!﹂
﹁おまえをなぐったんじゃないんだよ。あいつはふわふわ浮いてたんでなぐりつけたんだが、やつめ、うまくかわしやがったらしいな。そのはずみでおまえさんをかすったんだ﹂
人びとは、むやみにさわぎ、へとへとにつかれてきた。
そのとき、巡(じゅ)査(んさ)はかれとハクスターの間に動く、いようなけはいを感(かん)じた。
﹁やつだ!﹂
かれは、見当をつけてとびついた。手ごたえがあり、男のがっちりとした体(からだ)をつかまえたとたんに、首(くび)をぐいとしめあげられた。
﹁つかまえたぞ!﹂
巡(じゅ)査(んさ)は、首(くび)をしめられて紫(むら)色(さきいろ)になりながら、一生けんめいにさけんだ。
男は、ひどい力で巡査をしめつけながら、しだいに玄(げん)関(かん)のほうにでてきた。それにつれて人びとも右に左によろめきながら外へおしだされていった。
男と巡査がもつれるように玄(げん)関(かん)のふみ段(だん)まできたとき、巡査はもう息(いき)もたえだえになっていた。
﹁えーい!﹂
男は、かけ声といっしょに、巡(じゅ)査(んさ)をぶるんとふりまわして、地面になげとばした。巡査は、ひと声うめき声をあげると、その場にばったりと倒(たお)れたまま、動かなくなってしまった。
﹁わあっ、化(ば)けものがきたぞ! 巡(じゅ)査(んさ)がたおされた! やられないうちに逃(に)げろ!﹂
村びとは後もみずに、つきあたったりつまずいたりしながら、右へ左へ、くもの子をちらすように逃(に)げていった。
人っこひとりいなくなった道に、巡(じゅ)査(んさ)のジャッファーズだけが、気をうしなってよこたわっていた。
アイピング村から二キロほどへだたったところにある丘(おか)の中(ちゅ)腹(うふく)に、ひとりのこじきがすわっていた。
名をトーマス・マーヴェルという男で、お人よしですこしばかり頭の働(はたら)きがにぶく、ぶくぶくふとったしまりのない顔をして、頭にはおそろしく時代がかったシルクハットをちょこんとのっけていた。
かれはさっきから目のまえの草のうえに、二足(あし)の長(なが)靴(ぐつ)をきちんとならべて、つくづくと見いっていた。
片(かた)方(ほう)はいままではいていた長(なが)靴(ぐつ)で、片方はさっきもらったばかりの長靴だ。
いままでの分は、足にぴったりとしてはき心(ごこ)地(ち)はよかったが、ひどい古(ふる)靴(ぐつ)で、雨がふると、じくじくと水がしみこんできた。
もらったばかりのほうは、古くてもなかなかりっぱな品(しな)だったが、かれの足にはすこし大きすぎた。
﹁どっちをはいたらいいのかな? 水のしみこむのはいやだし、だぶだぶのやつをはくのもいやだし﹂
トーマスは、さんさんとかがやく太(たい)陽(よう)の下で、いつまでも、どちらをはくか迷(まよ)いつづけて、ぼんやりと靴(くつ)をみながらすわっていた。
﹁どちらも長(なが)靴(ぐつ)だが、古(ふる)ぼけてるな﹂
トーマスのうしろでふいに人の声がした。トーマスは、ふりかえりもせずに、
﹁そうなんですよ。どっちもいただきものですがね。いままでのやつは水がはいるんです。あっしは、いつも靴はこのへんでいただいておるんですよ。このあたりの人たちは、おうようで情(なさけ)ぶかいですよ﹂
﹁ばかを言え、このへんのやつらはみんないやなやつらばかりだ!﹂
﹁そうですかね。だが、わたしはそう思いませんね。この靴だっていただきましたしね﹂
トーマスは、こう言ってふりかえった。
ところが、どうしたわけだろう。いまのいままでしゃべっていた男が、どこにも見あたらないのだ。
﹁だんな、いったいどこにいらっしゃるんで?﹂
かれは、きょろきょろと見まわした。
風で木の枝(えだ)がゆれているばかりで、だれひとりいない。
﹁おやおや、おや? おれはよっぱらったのかな? それとも……﹂
﹁こわがらなくてもいいよ。おれはちゃんといるんだから﹂
﹁ひゃあ! だんな、どこにいらっしゃるんですか、こわがるなって言われたって、こわくなりますよ﹂
﹁こわがらなくてもいいと言ってるじゃないか、おちつけよ。おまえにおれの姿(すがた)がみえなくても、いることは、ちゃんとここにいるんだから﹂
トーマスは、あわてて丘(おか)の上をぐるぐる見まわした。どこを見ても人っこひとりいなかった。生きているものは、あたりのこずえを飛びまわっている小(こと)鳥(り)だけだ。
﹁助けてくれ! おれはどうかしてしまったよ。空から声がふってくるなんて、ただごとじゃねえや﹂
﹁おちつけ、おれは化(ば)けものじゃないよ。それに、おまえが気がちがったんでもない。おれのいうことを信(しん)用(よう)しろ。でないと、石をぶつけるぞ﹂
﹁だって、だんな、どこにおいでなんです?﹂
トーマスの声がおわるかおわらないかに、小石がひょいと地面から舞(ま)いあがったと思うと、びゅっと風をきってかれの肩をめがけてとんできた。
﹁ひゃあ!﹂
トーマスがわめいて逃(に)げだそうとしたとたん、目に見えないなにかに、どすんと力いっぱいおしとばされて、ひっくりかえってしまった。
﹁さあ、これでもおれのいうことを信(しん)じないか?﹂
トーマスは、やっとこさで起きあがると、草の上にすわりこんで、ふてくされてこたえた。
﹁どうでもしろ、おれにはなんのことやら、さっぱりわからねえや。ひとりでにとんでくる石だの、空(くう)中(ちゅう)からふってくる声だの……気(き)味(み)のわるいことはやめにしてもらいたいね﹂
すると、空中の声はやさしくなり、トーマスをなだめるように、
﹁おれの姿(すがた)がおまえに見えないからって、おれは怪(あや)しい人(にん)間(げん)ではないんだ。ただわけがあっておれの姿は空(くう)気(き)とおなじで、すきとおっていてだれにも見えないんだ﹂
﹁えっ、おれのことをからかわないでくだせえよ。いくらおれがこじきだからって、ばかにしてもらいますまい。すきとおって姿のない人間なんて、いるわけがありませんよ﹂
﹁ところがいるんだよ。いま、おれの体(からだ)にさわらせてやるからな﹂
あっけにとられているトーマスの手が、だれかの手につよくにぎられた。
トーマスは、おずおずしながら手さぐりであたりをなでまわすと、なるほど、たくましい男の体(からだ)が、はっきりと手ざわりでさぐれた。
﹁こいつはおもしれえや、だんなはほんとにいたんですね。だが体(からだ)がすきとおってしまったなんて、ずいぶんふしぎですねえ。だんなの腹の中には、なにもはいってないんですか? パンだのチーズだの食べれば、腹の中に見えるでしょう﹂
﹁それはそうだよ、消(しょ)化(うか)してしまうまでは見えてるよ﹂
﹁なるほど、しかし、どうしてそんなふしぎな体になりなさったのですかね?﹂
﹁それにはながい話(はなし)があるんだ。しかし、そんなことをおまえに話してきかせたって、わかりはしないよ。それよりおれがこうしておまえのあとをつけてきたのは、話したいことがあるからなんだよ﹂
﹁おれにたのみたいことですって……いったい、それはなんですね?﹂
トーマスは、目をくりくりさせてきいた。
﹁じつは、おれははだかなので、いろいろのことでこまりきっているんだ。大いそぎで着る物を手にいれてもらいたいんだよ。それから寝(ね)る所(ところ)とな――ほかにもいろいろやってもらいたいことはあるが、とりあえずそれだけを、おまえの力でぜひなんとかしてくれ﹂
﹁着る物を手にいれろとおっしゃるんですか、なんだか、あっしは頭がぐらぐらしてきたようだ。すこし落ちついて、ゆっくりと考えさせてくだせえ。だれひとりいない丘(おか)からいきなり声がして、なんにも見えねえのに、さぐればたしかにだんながいらっしゃる。体(からだ)がすきとおっているんだそうだが……そしてこんどは着(きも)物(の)とねる所を手にいれろとおっしゃる。あっしは、すっかりめんくらってしまいましたよ﹂
﹁いまさら、ぐずぐず言うな。透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)のわしが、おまえをえらんだんだ。おれのために働(はたら)いてくれ。そうすればお礼(れい)はたっぷりやるよ。わかったな﹂
そして透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、大きなくしゃみをした。
﹁そのかおり、おまえがおれをうらぎってみろ、どんなことになるか、おもい知らせてやるからな﹂
男は、言いおわってぽんとトーマスの肩(かた)をたたいた。トーマスは、きゃっと恐(きょ)怖(うふ)のさけび声(ごえ)をあげ、
﹁と、とんでもねえ。うらぎったりするものですか……心(しん)配(ぱい)しねえでも大(だい)丈(じょ)夫(うぶ)ですよ。あっしにできることなら、なんでもいたしますよ――なんなりと言いつけてくだせえ﹂
トーマスは、気のどくなほど、はげしくふるえながら言った。
その日は復(ふっ)活(かつ)祭(さい)だった。
アイピング村では、朝はやくから村じゅうの年よりも若いものも晴(はれ)着(ぎ)を着(き)かざって、うきうきしていた。
黒(くろ)馬(うま)旅(りょ)館(かん)では、亭(てい)主(しゅ)のホールと雑(ざっ)貨(か)屋(や)のハクスターは、とりとめのないばか話をだらだらとつづけていた。そこへ、あらあらしくドアをおして、ひとりの男がはいってきた。
古(ふる)びたシルクハットを頭にのせた、ずんぐりとした小がらの男で、ひどく、しんけんな顔つきで、わきめもふらず酒(さか)場(ば)にはいってくると、つかつかととおりぬけて、おくの客(きゃ)部(くべ)屋(や)のほうへ歩いていった。浮(ふろ)浪(うし)者(ゃ)のトーマスだ。
そのすばやさときたら、はっと気づいたときには、もう男はおくの客(きゃ)部(くべ)屋(や)のドアをあけていた。
﹁おっと、お客(きゃく)さん、お客さん、そこはいまではお客さん用に使っていないんですよ。もどってきてくだせえ﹂
ホールが、まのびのした調(ちょ)子(うし)でどなった。
男はへんじもしなかったが、まもなく、むっつりした顔でもどってくると、酒(さか)場(ば)にきて、ききとれないほどひくい声で、酒を注(ちゅ)文(うもん)して飲みはじめた。
﹁おい、かわったやつじゃねえか。気をつけたほうがいいぜ﹂
ハクスターがホールにささやいた。
男は、ぐいぐいと流(なが)しこむようにたてつづけていく杯(はい)ものみ、口のはたをてのひらでぬぐうと立ちあがって、中(なか)庭(にわ)にぶらりとでていった。
たばこに火をつけ、ぶらぶらと庭(にわ)を歩きまわっている。いかにも、ものうそうだった。
が、ハクスターは、男がときどき、ちらりと客(きゃ)部(くべ)屋(や)の窓(まど)にするどい視(しせ)線(ん)を送っているのを見のがさなかった。
どさり!
重い物が窓(まど)からおちる音がした。男は身をかがめて、落ちてきたテーブルクロスに包(つつ)んだ大きな包みと、三冊(さつ)のノートを、小わきにかかえこむとみると、うさぎのようなすばやさで木(き)戸(ど)から大(おお)通(どお)りへ走りでた。
﹁どろぼう!﹂
さっととびあがったハクスターは、いちもくさんにかれのあとを追った。
﹁どろぼうだっ! つかまえてくれ!﹂
ホールも、ハクスターのあとを追ってかけだした。
外には、あかるい日の光がさんさんとふりこぼれ、着かざった人びとがのどかにゆききしていた。
シルクハットをかぶり、大きな包(つつ)みをかかえたおかしな人かげは、風のように街(がい)路(ろ)をかけぬけ、街(まち)かどをまがって丘(おか)へむかって走っていった。
﹁どろぼうだ! つかまえてくれ﹂
ホールとハクスターは声をかぎりにわめいた。しかし、往(おう)来(らい)の人びとは、あっけにとられて、ただ見送っているばかりだった。
とある街(まち)かどまできたとき、やっとこさで男に追いついた。
﹁こんちくしょうめっ! もう逃(に)がさんぞ、つかまえたぞ!﹂
おどりかかったと思ったそのとき、ハクスターは、目に見えないなにものかに、むこうずねを力(ちから)いっぱいけとばされた。
﹁わっ!﹂
ふいをうたれたハクスターはもんどりうって道にたおれ、それっきり気を失ってしまった。
つづいて同じようにおどりかかっていったホールも、ものの見(みご)事(と)に投(な)げとばされ、腰(こし)の骨(ほね)をしたたかうって起きあがれなくなった。
シルクハットの男は、そのまま、すごいいきおいで丘(おか)のほうへ姿(すがた)を消していった。
夕ぐれがせまってきた。
シルクハットをかぶったれいの男が、ぶなの並(なみ)木(き)をぬうようにして、ブランブルハースト街(かい)道(どう)をいそぎ足で歩いていた。
テーブルクロスの包(つつ)みとノートは、やはりだいじそうに小わきにかかえている。
いつのまにか、トーマスの足どりがしだいにおそくなり、のろのろと悲しげな顔つきで考えこみながら歩いていると、空(くう)中(ちゅう)からせかせかした声がひびいてきた。
﹁おい、さっさと歩け。なにを考えてるんだ。また、さっきのようにおれをまいて逃(に)げようというのかい? こんど逃(に)げてみろ、ただではおかないからな﹂
﹁逃(に)げようなんて、そんなことは考えてませんよ。あっ、そんなに肩(かた)をつっつかねえでくだせえ。おいら、いまに傷(きず)だらけになってしまいますぜ﹂
トーマスは、しおしおとこたえた。空(くう)中(ちゅう)の声はなおも意(い)地(じ)わるく、
﹁いいか、こんど逃(に)げようとしたら、殺(ころ)してやるからな﹂
﹁とんでもねえ。おいら、あんたをまいて逃(に)げようなどとは、これっぽっちだって考えていませんよ。ただ、どこでまがったらいいかわからなくて、あのまがり角へはいりこんじまったんですよ。あっしはこのへんの道はちっとも知らねえんです。そんなおそろしいことを言わねえでくだせえ﹂
浮(ふろ)浪(うし)者(ゃ)のトーマスは、いまにも泣(な)きだしそうだった。目にみえて元気を失(うしな)い、あきらめきったようすで、とぼとぼと歩きつづけた。
空(くう)中(ちゅう)の声は、もちろん言わずとしれた透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)である。
かれは黒(くろ)馬(うま)旅(りょ)館(かん)でうばってきた衣(いる)類(い)と、研(けん)究(きゅう)ノートの包(つつ)みをトーマスにもたせ、どこへゆこうとしているのか、しきりに先をいそいでいた。
﹁なあ、トーマス、アイピング村のばか者どもが、考えなしの大さわぎをおっぱじめやがったおかげで、おれの姿(すがた)が透(とう)明(めい)で着(きも)物(の)を身につけさえしなければ、だれにも姿をみられなくなるってことを、みんなに知られてしまったんだ。いまいましいじゃないか。そこで問(もん)題(だい)はこれから先どうするかってことだ。どうせ、やつらはおれを追いまわすにきまってるだろうし……なにかいい考えはないか﹂
﹁だんな、あっしにいい考えなんてあるはずがないですよ﹂
しばらく二人は、だまって道をいそいだ。しだいに夕やみがあたりをつつんで、遠くの家の灯(ひ)がちらほらと見えてきた。
トーマスは疲(つか)れきっていた。小わきにかかえた包(つつ)みが、しだいに下にずり落ちていった。
﹁おい、ぼやぼやするな。しっかりと荷(にも)物(つ)をかかえて歩(ある)け。そのノートはだいじなんだ。なくすんじゃないぞ、しっかり持ってろ!﹂
いきなりするどい声がして、トーマスの肩(かた)をぐいと透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)がついた。トーマスはあわてて、ずるずると包(つつ)みをひきあげ、しっかりとかかえなおしてから、泣き声をあげ、
﹁だんな、だんなはあっしをなんに使おうとおっしゃるんで……はじめは旅(りょ)館(かん)からだんなの荷(にも)物(つ)をもちだす手伝いをしてくれとおっしゃった。それがすむと、あっしの役(やく)目(め)はおわったはずなのに、やはりあっしをはなしてはくださらねえで、こうして荷物をかかえてだんなのいくほうへつれてゆきなさる。いったい、どういうお気もちなんでごぜえますか?﹂
﹁つべこべいうな、おまえみたいなやつでもおれにはいり用なんだ。それに、いまにわしが仕(しご)事(と)をやりはじめれば、どうしてもおまえの手伝いがいるようになるのだ﹂
﹁なにをおやりなさるのかしらねえが、あっしはとても、だんなの役には立ちましねえ。だいいち、じまんではねえが、力はないし、そのうえ、心(しん)臓(ぞう)もよわいんです。せいぜい、さっきぐらいのことしかやれねえですよ。度(どき)胸(ょう)はねえし、びくびくしながら手伝ったところで、あんまり役にもたたねえでしょう﹂
﹁力がないのはこまるな、見かけだおしなのか……まあいいさ、それに、なにもびくびくすることはないんだ。おれはだいそれたことをたくらんでいるわけじゃないし、おれがいつもくっついててやるから、おれのいうとおりにやればいいんだ﹂
トーマスは首(くび)をすくめ、ちょっと考えていたが、思いきって、
﹁だんながいくらこわがらなくてもいいとおっしゃっても、あっしはうす気(き)味(み)わるくて死にてえくらいでさあ。いってえ、どんなことをあっしにしろとおっしゃるんで……あっしだって、いやならいやとおことわりできる権(けん)利(り)があるんですがね﹂
﹁だまれ! だまれ、だまれ。だまっておれのいいつけどおりにしていればいいんだ。おまえは利(りこ)口(う)な人(にん)間(げん)じゃないし、あまり役に立ちそうもないが、おれのいいつけどおりにやりさえすれば、おれはいつもおまえを守(まも)っていてやろう﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、強い力でぐっとトーマスの手首をつかんで、しかりとばした。
﹁わかってますよ。どうせ、あなたがあっしをはなしてくれないぐらいのことは、知ってまさあね﹂
トーマスは、シルクハットをかぶった頭をたれ、しずみきって歩いていった。
村をすぎていったじぶんには、あたりはとっぷりと日がくれ、美しい星(ほし)がきらきらと空にかがやきはじめていた。
よく朝の十時ごろ、トーマスはポート・ストウ村にたどりついた。
旅(たび)のほこりをあび、つかれた顔をして村はずれの宿(やど)屋(や)のまえのベンチにすわりこんでいた。
ベンチの上にはれいのノートが三冊(さつ)、革(かわ)ひもでしばっておいてある。テーブルクロスの包(つつ)みのほうは、とちゅうで透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)の気がかわり、ブランブルハーストをでたところの松(まつ)林(ばやし)ですててしまったのである。
トーマスのようすはひどくへんだった。せかせかとあたりを見まわし、なんども、なんどもポケットに手をつっこんでは、しきりになにかをさがしているようすだった。
一時(じか)間(ん)あまりもトーマスはベンチにすわって、こんな奇(きみ)妙(ょう)なことをくりかえしてやっていた。
﹁やあ、いいお天気じゃありませんか﹂
ほがらかな声がひびいて、船(せん)員(いん)ふうの気さくそうな男が、新(しん)聞(ぶん)を片(かた)手(て)にトーマスに近づき、ベンチに腰かけた。
﹁そうですね﹂
トーマスはぎくっとしてふりかえり、気ののらないようすでこたえた。しかし、男はトーマスのようすに気をわるくするでもなく、ひどくあいそうよく、
﹁暑(あつ)くもなし寒(さむ)くもなし、じつに気もちのいい朝だ。あなたは、どちらからおいでなさったね﹂
﹁遠くからですよ﹂
﹁ははあ、おやっ、そこにおいていなさるのは本ですかい?﹂
本と聞かれてトーマスは、はっとして大あわてにノートをひざの上にのせた。そのひょうしにかれのポケットで、ちゃらちゃらと金(きん)貨(か)の音がした。
男は、目をまるくして、しげしげとトーマスを見つめた。ほこりで汚(よご)れきったトーマスの服(ふく)装(そう)に、金貨の音はどう考えても似(に)つかわしくなかったからだ。しかし、その船(せん)員(いん)は、すぐに前とおなじあけっぴろげな態(たい)度(ど)になって、
﹁おれは、本なんてものはなん年(ねん)間(かん)も読んだことがねえが、ずいぶんめずらしいことを書いたのがあるそうだね。その本にもかわったことが書いてあるかね﹂
﹁そりゃあそうでさ﹂
トーマスは、気がかりらしく、ちらっと相(あい)手(て)の顔を見て、つづいてあたりを見まわした。
﹁しかし、けさの新(しん)聞(ぶん)には、本にまけないほどめずらしいことがのってるぜ﹂
﹁そうですかね﹂
﹁なんだ、おめえ、まだ新聞を読んでいないのかい? 姿(すがた)の見えねえ人間ってのが、あらわれたそうで、でかでかと書きまくってあるよ﹂
とたんにトーマスは、おちつかなくなってしまった。口をもぐもぐと動かし、むやみにほっぺたをひっかいてから、きこえないほどのほそい声で、
﹁透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)ですって、いったいどこにそいつがあらわれたんですね。オーストラリアか、アメリカですかい?﹂
﹁ばかを言いたまえ、そんな遠くの話ではないんだ。この土地にあらわれたんだ﹂
﹁えっ!﹂
トーマスは、ぐるぐるっと心(しん)配(ぱい)そうにあたりを見まわした。
﹁はっはっは、この辺(へん)といってもこのベンチのまわりじゃねえよ。この近くの村にだよ﹂
﹁ああ、そうですか、で、その透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)はなにをしようってんですかね?﹂
﹁あばれたいだけあばれたってことだ。なにしろ体(からだ)が見えねえんだから、どんなことだってやれるさ。だれもつかまえることも、とめることもできないからね。昔(むかし)、おとぎ話にあったのが、ほんとのことになったんだね﹂
﹁そうですか、あっしはこの四日間、新聞ってやつを見たことがねえんでしてね﹂
﹁透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)がはじめて暴(あば)れだしたのは、アイピング村がはじまりだそうだ﹂
﹁それで……﹂
﹁その人間はどういう男なのか、アイピング村にくるまではどこに住(す)んでいたのか、どんなことをしていたのか、さっぱりわかっていないそうだ。ほら、この新聞をみてみたまえ、アイピング村の怪(かい)事(じけ)件(ん)って書いてあるだろう﹂
﹁なるほど、それではやはり、ほんとうの話なんですね。信じられねえようだが……﹂
﹁そいつは、はじめ黒(くろ)馬(うま)旅(りょ)館(かん)にとまっていたんだそうだ。頭にほうたいをまいて服(ふく)をきこんでいたから、だれひとり透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)だなんて気づかなかったそうだ﹂
トーマスは、そっとあたりを見まわしてからうなずいた。
﹁だが、ついに化(ば)けの皮(かわ)のはがれるときがきたんだ。アイピング村の連(れん)中(ちゅう)は、そいつが透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)とわかったので、大(だい)格(かく)闘(とう)をやってつかまえようとしたが、なにしろ相(あい)手(て)の姿(すがた)はみえないんだ。いたずらにさわぎまわるばかりで、とうとう逃(に)げられたということだ。﹂
﹁へえ、ふしぎな話ですな。で、アイピング村であばれてから、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)はどこへいったのでしょうね﹂
﹁さあ、たしかなことではないらしいが、ポート・ストウ方(ほう)面(めん)へむかったようすだって書いてあるぜ。おれたちのいるこの村へ、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)なんていうおかしなやつにやってこられるのは、ありかたくないね﹂
﹁まったくですよ。なにしろ姿(すがた)がみえないんですからね﹂
トーマスは船(せん)員(いん)の話をききながらも、まわりの物(もの)音(おと)に気をくばっていた。かすかな風の動きでも、ききのがさないようにしていた。
そして、あたりにかれの主(しゅ)人(じん)の透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)の姿がなさそうだと見きわめをつけると、
﹁あっしはぐうぜんなことから、あなたのいまおっしゃった透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)を知っているんですよ﹂
﹁えっ? おまえが知ってるというのかい?﹂
﹁へえ、そうなんですよ。わしがやっと知りあったときのことを聞いてくだせえ。が、びっくらしねえでくだせえよ。たいへんかわったことなんだから﹂
﹁そりゃあそうだろうよ。いいよ、びっくりしねえから話してきかせなよ﹂
﹁あっしは、透明人間のようにおそろしいやつに、いままで会(あ)った……﹂
言いかけてトーマスはふいに、
﹁いててて、おおいてえ!﹂
苦しそうにさけび、片手で耳をおさえ、片手で本をつかんで、体(からだ)をまげておかしな腰(こし)つきでベンチから立ちあがった。
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、いつのまにか、トーマスのところに帰ってきていたのだ。
トーマスが、見しらぬ船員にかれのことをしゃべりそうになると、ぐいぐいとトーマスの耳をつまみあげた。
トーマスは、透明人間が帰(かえ)ってきていたと知ると、おそろしさでふるえあがってしまった。
もう、かれのことを船(せん)員(いん)にしゃべるどころではない。透明人間に耳をひっぱられ、ずるずるとくっついていくだけだった。
しかし、そんなこととは夢(ゆめ)にも知らない船(せん)員(いん)は、びっくりしてトーマスをのぞきこみ、
﹁おいおい、どうかしたのかい? どこが痛(いた)いのだ?﹂
と心(しん)配(ぱい)そうにたずねた。トーマスはじりじりとベンチから遠(とお)ざかってゆきながら、
﹁歯(は)が痛(いた)いんだよ。急にいたみだしたんで、おおいてえ、いてえ﹂
しかし、トーマスのようすはどこか変(へん)だった。歯が痛いと言いながら、片(かた)手(て)で耳をおさえて、片(かた)手(て)でノートをしっかりとつかんでいる。船員は、うさんくさそうにトーマスをじろじろと見て、
﹁おい、どうしたんだい? 透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)のことを話すと言ったじゃないか?﹂
﹁うそでさ。いっぱいかついだだけですよ﹂
トーマスが苦(くる)しそうにこたえると、船(せん)員(いん)はむかっ腹(ぱら)をたてたらしく、
﹁新聞にだってのっているんだ。透明人間はたしかにいるんだ。なんだ、透明人間を知ってるなんて言って、人をかつぐ気だったのか? しかし、きさまがやつのことをしらなくても、透明人間はいるんだぞ﹂
﹁新(しん)聞(ぶん)だって、でたらめを書くこともありますよ。あっしは、このうそをつきはじめたやつを知ってるんですよ。やつの口から透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)なんていうでたらめが話されて、ほうぼうへひろまっていったんですよ﹂
船員は、半(はん)信(しん)半(はん)疑(ぎ)でトーマスの顔をじっと見つめた。
﹁だが、新聞にのっているし……りっぱな人たちが証(しょ)人(うにん)になってるしな﹂
﹁うそですよ。うそですよ。だれがなんと言ったってうそにきまってますよ。ばかばかしい、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)なんてものが、いまの世の中にいるはずがないじゃありませんか﹂
トーマスは必(ひっ)死(し)になって、がんこに言いはった。船員はおもしろくない顔をして、
﹁それほどはっきりうそとわかっているなら、なんだってはじめにうそだと言わねえんだ﹂
﹁なにっ!﹂
二人は、ぐっとにらみあった。いまにもどちらからか、げんこのつぶてが飛んできそうなあんばいだった。
﹁トーマス、ぐずぐずするな、おれといっしょにくるんだ﹂
とつぜん、空(くう)中(ちゅう)から声がした。
トーマスは、はっとしたようで、そのまま、おかしな腰(こし)つきでひょこひょこ歩きだした。
﹁逃(に)げるのか﹂
船員がうしろからどなった。
﹁逃げるもんか﹂
トーマスはくるりとむきなおろうとしたが、あべこべにつきとばされるように、前へとんとんとつんのめった。
そして、それっきり後(あと)もみずに船(せん)員(いん)から遠ざかっていった。
だれかと言いあらそいでもしているようなつぶやきが、いつまでも聞こえていた。
船員は、大またをひろげ腰(こし)に両手をあてがって、遠ざかっていく相手をにらみつけ、
﹁あいつは新(しん)聞(ぶん)が読めねえんだよ。なにがうそだい。目を大きくあけて新聞をみろ、ちゃんとくわしく書いてあるから、まぬけめ!﹂
声のつづくかぎり、どなりまくっていた。
このことがあって二日ほどたったとき、またまた船(せん)員(いん)は、世にもふしぎなできごとにであった。
船員は、じぶんの部(じぶ)屋(ん)でゆっくりとコーヒーをすすっていた。
たっぷり砂(さと)糖(う)をほうりこんだ、濃(こ)いコーヒーをうまそうに飲みながら、かたわらの新聞をながめていると、
﹁おおい、あにき、あにきいるかい﹂
と、われるように戸をたたく者がいる。
﹁だれだい? しずかにしろ、戸がこわれるじゃないか。戸をたたくのをやめて入ってこい﹂
ころがりこんできたのは、かれのなかまのわかい船(ふな)のりだった。
﹁なんだい、ひどくあわてて……どんな大(だい)事(じけ)件(ん)が起こったっていうのかい? えっ、おまえ、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)にでもぶつかったというのかね?﹂
船員はなかまの顔を、にやにや笑って見ながら声をかけた。
﹁いいや、透明人間じゃない。だが、おなじようにへんなふしぎなことなんだ﹂
﹁ふしぎなこと? まあいいから落ちつきなよ。コーヒーをごちそうするから、ゆっくり話したらどうだい﹂
やがて、熱(あつ)いコーヒーがはこぼれ、わかい船(ふな)のりはひと息(いき)つくと、まだこうふんのさめないようすで話しだした。
﹁おどろいたの、なんのって、きょうのようにおどろいたことは、いままで一度だってありはしねえよ、あにきだってその場にいあわせたら、きっと目の玉がひっくりかえるほどおどろくにちがいないよ﹂
﹁おれがおどろくか、おどろかないか、そんなことはいいけど、その話というのはどんなことなんだい? おまえはかんじんのことはちっとも話してねえぜ﹂
﹁うん、それだよ。おれが朝はやくセント・マイクル小(こう)路(じ)を歩いていたんだ。まだ時間が早かったので、街(まち)はしいんとしていて、通っている人は、おれのずっと先を歩いている年よりきりで、ほかに人かげは前にも後(あと)にも見えなかった。おれはこんど乗っていく船や、ゆく先の港(みなと)のことを考(かんが)えて歩いていた。その時、どういうきっかけだったかわからないが、ひょいとよこの壁(かべ)に目をやった﹂
﹁うん、それで……﹂
﹁そのとたんに、おどろいたねえ。ひとにぎりの金(きん)貨(か)が、壁(かべ)にそって空(くう)中(ちゅう)をふわふわととんでいるんだ。それを見たときのびっくりしたこと……おれは思わずなんども目をこすったよ。が、なん度見なおしても、ほんものの金貨だ。かなりの早さで飛(と)んでいくんだ。じっと見つめているうちに、すこしおどろきがおさまると、欲(よく)がむらむらっと起こったんだ﹂
﹁その金(きん)貨(か)を、じぶんのものにしようとしたのかい?﹂
船(ふな)のりはいつのまにか、わかいなかまのふしぎな話にひきずりこまれて、熱(ねっ)心(しん)にきいていた。
﹁おはずかしいが、そうなんだ。あたりに人はいない、金(きん)貨(か)は持(もち)主(ぬし)がいるようではなし、ちょうど手のとどくところをとんでいるんだ。おれは、一枚や二枚ちょうだいしたって、たいして悪くはあるまいと考えたので、ひょいと手をのばして、その金(きん)貨(か)をつかもうとした﹂
﹁うまくつかめたのか?﹂
﹁いいや、手をのばしたとたん、いきなり強い力でなぐり倒(たお)されて、その場にばったりとたおれてしまった。ひどく腰(こし)をうってのびてしまったが、かろうじて痛(いた)みをこらえて立ちあがったときには、金(きん)貨(か)はちょうちょうが舞(ま)うように、ふわふわとマイクル小(こう)路(じ)のかどを消えていったんだ﹂
﹁おまえ、夢(ゆめ)でも見ていたのじゃないか? ゆうべ、ぐっすり眠(ねむ)ったのかい?﹂
船(ふな)のりが疑(うた)ぐりぶかい調(ちょ)子(うし)でいうと、わかいなかまは、不(ふへ)平(い)そうにほおをふくらし、
﹁いやになるなあ、あにきまでがそんなことを言うのですかい? おれの腰(こし)は、その時すごい力でなぐり倒(たお)されて、いやっというほど地面にうちつけたので、いまでもずきんずきん痛(いた)んでますよ。おれだってさっきまで、金(きん)貨(か)が空(くう)中(ちゅう)をふわふわ飛(と)ぶなんてことがあるとは思ってませんでしたよ。だけど、はっきりじぶんの目でみたんです。これよりたしかなことはありませんよ。おれは金(きん)貨(か)がマイクル小(こう)路(じ)のかどに消(き)えてゆくまで、じっと見ていて、その足であにきのところへかけつけてきたんだよ﹂
﹁そうか、では、まんざらうそでもなさそうだし、おまえが寝(ね)ぼけていたわけでもないんだね。とすると、ずいぶんふしぎな気(き)味(み)のわるい話じゃないか﹂
﹁そうなんだよ。おれも金(きん)貨(か)が見えてる間は無(む)我(が)むちゅうだったが、金貨が消えてしまったとたん、ぞっとしたね。がたがたとふるえてきて、どうしてもとまらねえんだ。このごろは変(へん)なことばかり続(つづ)くじゃないか。透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)だなんて恐(おそ)ろしいやつのことを、新聞がでかでか書きたてたと思うと、金貨が空(くう)中(ちゅう)をとびまわる。おれはなんとなくおそろしくてしかたがないよ﹂
船(ふな)のりは、その時、なぜともなく宿(やど)屋(や)の前で会ったシルクハットをかぶったみょうな男のことと、そのとき空(くう)中(ちゅう)からきこえた声のことをふっと思いだした。
︵おれも頭がどうかしているのかな。あのときふいに空(くう)中(ちゅう)から声がきこえてきたような気がしたが……そら耳だと思っていたが、もしかすると、ほんとに空中からきこえたのかもしれないぞ。金貨が空中を飛(と)ぶなら、空中から声がきこえてもふしぎではないかもしれん︶
ひとりで考えこんでしまった。わかいなかまもだまりこんで、やけにたばこばかりすっていた。
金(きん)貨(か)が空(くう)中(ちゅう)を飛(と)ぶということは、事(じじ)実(つ)だったらしい。
その証(しょ)拠(うこ)にポート・ストウ村では、一日じゅう、ほうぼうの物かげやへいのそばを、金(きん)貨(か)がふわふわと飛んでいた。
そのようすを見たという人はいく人もあった。
﹁ええ、そうですよ。人もいなければ動物もいません。ただ金(きん)貨(か)だけがふわふわとかなりの速(はや)さで飛(と)んでるんですよ。わたしが近づいたとたんに、どこへともなく消えてしまったんです﹂
かれらは口をそろえて言った。
﹁そしておどろくじゃありませんか。その金(きん)貨(か)は、どうも、ほうぼうの金庫やぜに箱(ばこ)からとびだしてきたものらしいんですよ。村の銀(ぎん)行(こう)の金(きん)庫(こ)からも、ちょうど片(かた)手(て)でつかめるほどの金(きん)貨(か)と、紙できちんと巻(ま)いた貨(かへ)幣(い)とが、ふいに空(くう)中(ちゅう)に舞(ま)いあがり、おどろく行(こう)員(いん)をしり目(め)に、ふわふわと飛(と)んで銀(ぎん)行(こう)をでてゆき、表(おも)通(てどお)りにとびだすと、そのまま見えなくなってしまったそうだ﹂
ふしぎなことのあったのは、銀(ぎん)行(こう)だけではなかった。
食(しょ)料(くり)品(ょうひん)をうっているこじんまりした店では、客(きゃく)につり銭(せん)をわたすために主(しゅ)人(じん)が銭(ぜに)箱(ばこ)のふたをあけた。そのとたん、主(しゅ)人(じん)はすぐ身(みぢ)近(か)に人のけはいがせまるような感じをうけた。
﹁おやっ?﹂
主(しゅ)人(じん)は、あたりを見まわしたが、もちろん、店さきでまだ卵(たまご)を熱(ねっ)心(しん)に見くらべている客よりほかに、だれもいなかった。
主(しゅ)人(じん)が銭(ぜに)箱(ばこ)からつり銭(せん)をつまみだそうとすると、さっと銭箱の中のひとつかみの金貨が空中へ舞(ま)いあがった。
﹁きゃっ!﹂
主(しゅ)人(じん)は悲(ひめ)鳴(い)をあげて、舞(ま)いあがった金貨のゆくえを見まもるばかりだった。主人の悲鳴におどろいた客も、空(くう)中(ちゅう)をとびながら店をでて大通りへ金貨が逃げていくのを見ると、すっかりたまげて、つり銭もうけとらず、いちもくさんにわが家へ逃げていった。
ポート・ストウ村は、ひっくりかえるようなさわぎになってしまった。
ほうぼうの店や宿(やど)屋(や)から、手につかめるほどずつの金(きん)貨(か)が空(くう)中(ちゅう)をとんで消(き)えていった。
あちらの通りや、こちらの街(まち)かどで、人びとは金(きん)貨(か)の飛(と)んでいるのを見かけたが、人が近づくとふしぎなことに、金貨はさっと身をひるがえすようにかき消えてしまった。
こうして、ほうぼうの金(きん)庫(こ)や銭(ぜひ)箱(ばこ)から舞(ま)いあがってきた金貨のゆくえを知ったら、村の人たちは、いまよりもっとおどろいたにちがいない。
金(きん)貨(か)は人目をさけて、街(まち)の通りを飛びつづけて村はずれまでやってくると、そこの小さな宿(やど)屋(や)のまえで、おどおどとあたりを見まわして心(しん)配(ぱい)そうに立っている、古(ふる)びたシルクハットをかぶった男のポケットに、吸いこまれるようにはいっていった。
バードック町は、うしろになだらかな丘がある。丘のふもとのバスの停(てい)留(りゅ)所(うじょ)のすぐ前の酒(さか)場(ば)﹃銀(ぎん)ねこ﹄では、さっきからまるまるとふとったおやじが、むちゆうになって、ひとりの客(きゃく)をあいてに、さかんに、競(けい)馬(ば)の話をまくしたてていた。
あいての男は、おやじとはまるっきりはんたいの、やせてひょろひょろした顔いろのわるい男で、商(しょ)売(うばい)は馬(ばし)車(ゃ)屋(や)だ。
おやじの言(こと)葉(ば)に、ときどきあいづちをうちながら、ビスケットにチーズで、ちびちびと酒(さけ)を飲んでいた。
﹁なんだい? 表(おもて)のほうがだいぶさわがしいようじゃないか﹂
とめどのないおやじの話をうちきるように馬車屋が言って、立ちあがると、うす汚(ぎた)ないカーテンのすきまから、丘(おか)のほうをのぞいてみた。
﹁おい、なんだか、おおぜいの人が駈(か)けていくぜ﹂
﹁どれどれ、ほんとうだ。火事かもしれねえな﹂
酒(さか)場(ば)のおやじが気のない調(ちょ)子(うし)で言ったとたん、ばたばたと足音が近づき、ドアをさっとひらいて、あの浮(ふろ)浪(うし)者(ゃ)のトーマスがとびこんできた。
髪(かみ)をふりみだし、息(いき)をはずませて、上(うわ)着(ぎ)のえりもはだけてしまっている。れいの古(ふる)びたシルクハットは、とっくにどこかへすっとんだらしく、頭へのっかっていなかった。
飛(と)びこんでくるなり、トーマスは恐(きょ)怖(うふ)におののきながら、大声でさけんだ。
﹁やつが追ってくるんだ。あっしのあとを追って……助けてくだせえ。透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)に追われているんです﹂
﹁透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)がくるって……そいつはたいへんだ。おいっ! ドアを閉(し)めろ、ドアを閉めろ!﹂
酒(さか)場(ば)じゅうの者(もの)が色を失(うしな)ってさわぎたてた。ちょうどきあわせていた警(けい)官(かん)は、さすがにほかの者たちよりは落ちついており、すぐに表(おもて)のドアをしっかりとしめてやった。
おやじも台所のほうへすっ飛(と)んでいくと、うら口のドアを力いっぱい、ひっぱってしめた。
﹁さあ、もう大(だい)丈(じょ)夫(うぶ)だよ﹂
警(けい)官(かん)が言ったが、トーマスは泣(な)きださんばかりの声をふりしぼって、
﹁あっしをかくしてくだせえ。どこかおくのほうの鍵(かぎ)のかかる部(へ)屋(や)にかくしてもらいてえんです。やつがあっしを追っかけてくるんです。あいつはどんなところへでもはいってきますよ。あっしのことを殺(ころ)そうと思っているんです﹂
﹁どんなやつかしらないが、ここまでくれば大(だい)丈(じょ)夫(うぶ)だよ。ドアはしめたし、そちらに警(けい)官(かん)もいらっしゃるんだ﹂
すみっこで、ひとりで酒(さけ)をのんでいた、黒いひげをはやしたアメリカなまりの男が言った。
と、そのとき、ドアがはげしくたたかれた。
﹁透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)だ! はやくどこかへかくしてくだせえ。こんどみつかれば、きっと殺(ころ)されてしまうんだ。おお、神さま!﹂
﹁この中へはいったらいいだろう﹂
おやじが、カウンターのはね板をあげた。トーマスはあわててとびこんだ。
その間じゅう、ドアをたたく音はひっきりなしにつづいた。
﹁だれだ?﹂
警(けい)官(かん)がどなりながらドアに近づいた。トーマスは、それをみると泣き声をふりしぼって、
﹁戸をあけねえでくだせえ。たのむからあけねえでくだせえ﹂
黒ひげの男が、
﹁外で戸をたたいているのが、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)だというのか。どんなやつか、見たいものだな﹂
その言(こと)葉(ば)がおわるかおわらないうちに、すさまじい音をたてて、表通りのほうの窓ガラスがわれた。
﹁きゃっ!﹂
トーマスがふるえあがって絶(ぜっ)叫(きょう)した。
﹁さあ、こちらへ来(こ)い﹂
おやじは気をきかせてトーマスをおくまった部(へ)屋(や)にかくし、鍵(かぎ)をかけてやってから、もとのところへもどってきた。
外では、かけまわるたくさんの人の足音とさけび声がいりみだれて、たいへんなさわぎだった。
警(けい)官(かん)はドアに近より鍵(かぎ)穴(あな)から外をのぞき見しながら、
﹁ほんとに透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)らしいな。警(けい)棒(ぼう)をもってくればよかった﹂
黒ひげの男も警官のあとにつづき、
﹁ねえ、かまわないから、かんぬきをぬいてドアをおあけなさい。やつがはいってきたら、ぼくがこいつに物を言わせましょう﹂
そして、手にしたピストルを警(けい)官(かん)の目のまえに、にゅっとつきだしてみせた。
ピストルをみると警(けい)官(かん)は、あわてて手をふり、
﹁とんでもない、そいつはこまるよ、きみ。そんなものをふりまわして、相手が運わるく死んでみたまえ、殺(さつ)人(じん)罪(ざい)になってしまうよ﹂
﹁へっへっへ、そんなことは心えていますよ。やつを殺(ころ)してしまうようなへまはやりませんよ。足をねらいますよ。おれは足をねらう名(めい)人(じん)なんだよ。さあ、かんぬきをはずしなさい﹂
カーテンのすきまから外のようすをうかがっていたおやじは、あわててうしろをふりかえり、
﹁わたしをうたんでくださいよ﹂
と、どなった。
﹁さあ、こい!﹂
黒ひげの男は身がまえ、さっとピストルを背(せ)にかくした。
警(けい)官(かん)は、ちょっと思(しあ)案(ん)していたが、いきなりかんぬきを、さっとひきぬいた。
しかし、ドアはしまったままで、人がはいってくるけはいはさらにない。
二分たち、三分たった。やはり、なんのかわったこともなかった。
三人が息(いき)をころしてドアを見つめていると、奥(おく)の部(へ)屋(や)から、ひょいとトーマスが頭をだし、
﹁家(いえ)じゅうのドアは、みんなしめてありますかい? 透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)のやつは、きっとぐるっとまわって、開(ひら)いてるドアをさがしてみますぜ。悪(あく)魔(ま)のように、ぬけめのねえやつですからね﹂
﹁そいつはたいへんだ。うち口のドアはあけたまんまだ。ちょっとわたしはいってくる。こちらはおまえさんたちにたのみますぜ﹂
ふとったおやじは、ころがるようにかけだした。トーマスは顔をひっこめ、ばたんとドアをしめ、鍵(かぎ)をしっかりとかけた。
やがて、かけもどってきたおやじは、手に大きな肉(にく)切(きり)包(ぼう)丁(ちょう)をぶらさげ、心(しん)配(ぱい)そうに、
﹁庭(にわ)の木(き)戸(ど)も通(つう)用(よう)口(ぐち)のドアも、みんなしめるのをわすれていたんだ。そのうえ、庭の木戸はあけっぱなしになっていたんだが……﹂
﹁透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)が、そこからはいりこんだんじゃないか?﹂
気の早い馬(ばし)車(ゃ)屋(や)が、おやじが話しおわらないうちに、こわそうにさけんだ。
﹁調(ちょ)理(うり)場(ば)にお手伝いが二人いたが、だれもはいってきたけはいはなかったそうだ﹂
﹁しかし、ゆだんはならないぞ!﹂
警(けい)官(かん)はあたりを、ぐるぐると見まわしながらいった。黒ひげの男は、ぐっとピストルをにぎりなおして、調(ちょ)理(うり)場(ば)のほうをにらんだ。
そのとき、ぎ、ぎぎいっーと、おくの部(へ)屋(や)のドアが、はげしくきしむ音がしたと思うと、あっと思うまもなく、ぱっと大きくあけはなされた。
トーマスのかなきり声がひびいた。それはちょうど蛇(へび)にみこまれた小鳥の、悲(かな)しいさけび声に似ていた。
﹁それっ!﹂
三人はカウンターをとびこえて、かけつけた。黒ひげの男のピストルがなった。
と、同時に、おくの部(へ)屋(や)の鏡(かがみ)が音をたててくだけ落ちた。
﹁助けてくれ! だれかきてくれ!﹂
トーマスは、目に見えぬ人にひきずられながら、じたばたともがいている。
三人は顔を見あわせてためらった。敵(てき)の姿(すがた)は、ぜんぜん見えないのだ。どうやってトーマスをかれの手からうばい返(かえ)して助けてやればいいのか、さっぱりわからなかった。
そのひまにトーマスは、ずるずるとひきずられて、おくの部(へ)屋(や)から調(ちょ)理(うり)場(ば)へひきずりこまれていった。棚(たな)からフライパンや鍋(なべ)が、けたたましい音をたててころがり落ちた。
﹁どけろ! どけろ!﹂
警(けい)官(かん)はおやじをおしのけ、トーマスの首(くび)すじをおさえている手があると思われるあたりに、ぎゅっとしがみついた。
﹁ええい! じゃまするな﹂
恐(いか)りにもえた声がして、警(けい)官(かん)はものの見(みご)事(と)に、その場になぐりたおされた。
トーマスは必(ひっ)死(し)になって、ドアのとっ手にしがみついたが、なんのかいもなく、みるまにひきずられていった。後(あと)からとびこんできた馬(ばし)車(ゃ)屋(や)とおやじは、めちゃくちゃに手足をふりまわしているうちに、とうとう、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)の体(からだ)のどこかをつかまえた。
﹁つかまえたぞ! みんなこい! ここにやつがいるぞ!﹂
﹁いたぞ! 透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)がいたぞ﹂
二人は、つかまえたが最(さい)後(ご)、どんなことがあってもはなすものかと、むしゃぶりついてあばれまわっている。
さすがの透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)も、トーマスをつかまえていて、二人を相(あい)手(て)では、戦(たたか)えるわけがない。
﹁ちくしょうめ!﹂
いまいましげに舌(した)うちして、トーマスをはなした。二人がむやみにあばれて、げんこつをぶんぶんふりまわすので、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)もいささかもてあましてきたらしい。
﹁うん、なんだって、じゃまをしやがるんだ。おまえらの知ったことじゃないんだ﹂
透明人間と二人は、はげしく取っ組みあってあばれた。
そのうち、やっと起きあがった警(けい)官(かん)も加(かせ)勢(い)にかけつけ、両(りょう)うでを水(みず)車(ぐるま)のようにふりまわして、目に見えぬ敵(てき)におどりかかっていった。
トーマスは、あばれまわっている人たちの足もとを這(は)いまわりながら、必(ひっ)死(し)で逃げだす道をさがしている。
調(ちょ)理(うり)場(ば)での大(だい)乱(らん)闘(とう)が二十分もつづいたころ、
﹁おや、おかしいぞ。やつはどこへいっちまったんだ。外へ逃げたのか?﹂
黒ひげの男が、ふいに、きょろきょろとあたりを見まわしてさけんだ。
﹁中(なか)庭(にわ)へ逃げたんだ。敵(てき)は中庭だ﹂
警(けい)官(かん)がまっさきにたって、中庭にとびだそうとした一瞬(しゅん)……。
ぴゅうっ――と風をきって屋(や)根(ね)がわらが、かれの頭をかすめて飛んできた。
調理台の皿(さら)小(こば)鉢(ち)が音をたてて、みじんにくだけ散(ち)る。
﹁ようし、おれがひきうけた﹂
黒ひげの男は、ひと声たかくさけんで、警官の肩(かた)ごしにピストルをつきだし、つづけざまに五発、透明人間のいるらしい方(ほう)向(こう)にむけてぶっぱなした。弾(たま)はうなりを生(しょう)じて飛(と)んでいった。ピストルの音がしずまると、庭(にわ)はしいんとしずまりかえった。
かわったことは、なにも起こらなかった。
﹁五発うったぞ。こいつが一番ききめがあったろう。もう、だいじょうぶだ。透明人間の死がいを探(さが)そうじゃないか﹂
その日の夕方、ケンプ博(はく)士(し)は、こじんまりしたかれの書(しょ)斎(さい)で、書きものをしていた。
博(はく)士(し)の家は町をみおろす、丘(おか)のうえに建っている。そこからは、丘のふもとの﹃銀(ぎん)ねこ﹄酒(さか)場(ば)や、バスの停(てい)留(りゅ)所(うじょ)が、ひと目でみることができた。おだやかな静かな町で、これといって騒がしい事件がおこらない平和な町であった。
博(はく)士(し)のへやの書(しょ)だなには、ぎっしりと本がつまっている。自(しぜ)然(んか)科(が)学(く)、薬(やく)理(りが)学(く)の本がおもで、窓(まど)ぎわの机(つくえ)には、けんび鏡(きょう)、スライド、培(ばい)養(よう)えき、くすりのびんなどが、いちめんにならべてあった。
とつぜん、ピストルの音がした。ピストルの音は一発(ぱつ)だけではなかった。つづけざまに、五発の銃(じゅ)声(うせい)が夕(ゆう)空(ぞら)にこだまして、街(まち)の静(せい)寂(じゃく)をやぶった。
博(はく)士(し)は気がかりになってきた。
この平和な街(まち)にピストルの音がひびくのは、きっとなにか起こったにちがいない。
﹁なんだろう?﹂
博(はく)士(し)は南がわの窓(まど)をおしひらいて街(まち)を見おろした。
いつもとかわらぬしずかな景(けし)色(き)だったが、しばらく耳をすませていると、ちょうど、﹃銀(ぎん)ねこ﹄酒(さか)場(ば)のあたりで、がやがやとさわぐただならない人(ひと)声(ごえ)が、風にのってきこえてきた。
﹁酒(さか)場(ば)のあたりだな﹂
博(はく)士(し)はつぶやいて、なおもじっと、夕方の街(まち)を見おろしていた。
夕(ゆう)空(ぞら)はしだいにくら闇(やみ)のいろにつつまれ、ほそい新(しん)月(げつ)が夢(ゆめ)のような姿(すがた)をみせ、星(ほし)もふたつみっつ数をましていった。
港(みなと)にとまっている汽(きせ)船(ん)に、あかりがつき、きらきらと宝(ほう)石(せき)のようにきらめいているのが、とりわけ美しく思われた。
博(はく)士(し)は、いつかピストルの音のしたことなどわすれてしまっていた。
さわぐ声もきこえなくなっていた。
博(はく)士(し)は窓(まど)をしめ、もう一度(ど)、机(つくえ)のまえにすわった。一時間ほどたったとき、玄(げん)関(かん)のベルがはげしくなった。応(おう)対(たい)にでていくお手伝いの足音がした。
しかし、それっきり、なんの音さたもなかった。
﹁おかしいな? だれか訪(たず)ねてきたのではなかったのかな?﹂
博(はく)士(し)は、ふと気になった。大いそぎでお手伝いをよび、
﹁いまのベルは、郵(ゆう)便(びん)配(はい)達(たつ)だったのかね?﹂
﹁いいえ、だんなさま。それがおかしいのでございますよ。ベルはたしかになりましたのに、玄(げん)関(かん)にはだれもいないのです。おおかた、子どものいたずらでございましょう﹂
﹁子どものいたずらか﹂
お手伝いがひきとっていくと、博(はく)士(し)はスタンドを手もとにひきよせ、一生けんめいに書き物をはじめた。
部(へ)屋(や)の中はしずかで、時をきざむ時(とけ)計(い)の音だけがきこえている。夜の二時になった。
博(はく)士(し)は書きかけの書(しょ)類(るい)から頭をあげると、
﹁もう二時か、そろそろ眠くなってきたな、疲(つか)れもしたし、こん夜はこれでおしまいにしよう﹂
大きくのびをして、灯(あかり)をけすと、階(かい)下(か)の寝(しん)室(しつ)へおりていった。
博(はく)士(し)はひどく疲(つか)れていた。頭がおもい。
こんな時、博(はく)士(し)はいつも愛(あい)用(よう)のウィスキーを少し飲んで、ぐっすり眠(ねむ)ることにしていた。
﹁こん夜もすこし飲んで眠(ねむ)ろう﹂
博(はく)士(し)はひとり言をいって、上(うわ)着(ぎ)とチョッキをぬいだままの姿(すがた)で台(だい)所(どころ)におりていった。
ウィスキーのびんをさげて、ひっかえしてきたとき、階(かい)段(だん)の下にしかれているマットに、ひと所、黒いしみができているのが目についた。
﹁だれだろう? こんなところにしみをつけて……﹂
博(はく)士(し)はぶつぶつ言いながら、ひょいと身をかがめて、そのしみをながめた。しみは、ちょうどかわきかけた血のように見えた。
﹁おかしいな、血かな?﹂
博(はく)士(し)は指(ゆび)さきで、そっとさわった。思ったとおりだった。
﹁だれがこんなところに血をおとしたのかな?﹂
にわかに胸(むな)さわぎがして、暗(くら)い予(よか)感(ん)がしてきた。
博(はく)士(し)は、考えながら寝(しん)室(しつ)にやってきた。
と、そこでもまたかれは、おそろしいことに出(で)会(あ)ってしまった。
なにげなく手をかけようとしたドアのハンドルが、血でまっかにそまっているのだ。
これはただごとではない。
博(はく)士(し)の全(ぜん)身(しん)の血(ち)が、さっとひいていくようだった。かれの頭には、その時、夕方書(しょ)斎(さい)できいたピストルの音が、ありありと浮(う)かんでいた。
おそろしいことが起こりつつあるのではなかろうか?
博(はく)士(し)はきっとした表(ひょ)情(うじょう)になり、ゆだんなくあたりを見ながら、しずかに部(へ)屋(や)にはいっていった。
しかし博(はく)士(し)が考えたように、警(けい)官(かん)のピストルで傷(きず)ついたギャングはいなかった。
ギャングはもちろん、ねこの子(こ)一ぴきすら部(へ)屋(や)にはみえない。
ただ、ベッドの上のふとんが乱(らん)暴(ぼう)にめくられ、血でよごされ、そのうえ、シーツがびりびりにひきさかれていた。
ギャングは、警(けい)官(かん)に追われて、この家に逃げこみ、ついさっきまでこの寝(しん)室(しつ)にしのびこんでいたにちがいない。
﹁そうだ。きっとそうにちがいない。なによりの証(しょ)拠(うこ)に、ベッドにいままで人が腰(こし)かけていたらしいくぼみができているじゃないか﹂
博(はく)士(し)は血(ち)ですっかりよごれたベッドのまわりを、念(ねん)いりにしらべた。
﹁いつのまにしのびこんだのかな?﹂
博(はく)士(し)がふしぎそうにつぶやいた、そのとき、
﹁やあ、しばらくだったじゃないか、ケンプ!﹂
いかにもなつかしそうによびかける声が、耳のはたでひびいた。
﹁あっ!﹂
ふいをうたれてかれは、けげんそうに部(へ)屋(や)じゅうをぐるぐる見まわした。
どこにも声の主(ぬし)の姿(すがた)はない。
﹁だれだね?﹂
博(はく)士(し)の声はうわずっていた。しかし、こんどは返(へん)事(じ)がなかった。
ただ部(へ)屋(や)をよこぎって歩く足音がして、洗(せん)面(めん)所(じょ)のカーテンが、生き物のように動き、するするとひらいたと思うと、すぐにもとのようにしまった。
博(はく)士(し)は声をのみ、ぶきみに動くカーテンをみつめて棒(ぼう)立(だ)ちになっていた。
それから五分もたったであろうか……。
博(はく)士(し)には、ながい時間がたったようにも思われた。
もう一度カーテンがゆれ動き、なかから、ぼんやりと、血(ち)のにじんだほうたいでぐるぐる巻きにした頭があらわれてきた。
頭だけだ。空(くう)中(ちゅう)にぼんやり浮(う)かびあがったほうたいまきの頭は、目もなければ鼻(はな)もない。いや頭ぜんたいがないのだ。ほうたいだけが、しっかりとまきつけられている。
もちろん手も足もありはしない。
たいていの者なら、ひと目みただけで気(きぜ)絶(つ)してしまうところだ。
が、気(きじ)丈(ょう)な博士はまっさおになりながら、じっとそのふしぎなものを見つめていた。
﹁ケンプ!﹂
ふしぎなものは博士をよんだ。
﹁え?﹂
﹁おどろいてるな。ぼくはグリッフィンなんだよ。ほら大(だい)学(がく)で同(どう)級(きゅう)だったグリッフィンだよ。おぼえてるだろう﹂
﹁グリッフィンだって……なにをばかなことを……この化(ば)けものめ!﹂
博(はく)士(し)はいきなり、ほうたいのほうへ手をのばした。と、どうだろう……。
人の体(からだ)にふれたではないか!
ぎょっとして手をひっこめ、まじまじと空(くう)中(ちゅう)にうかぶおかしなものをみた。
﹁おちついてくれよ、ケンプ。おれはまちがいなくグリッフィンなんだ。ただおれはふとしたことで体(からだ)がすきとおってしまい、人の目に見えなくなってしまったんだ。世(せけ)間(ん)のやつらが透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)だとさわいでいるだろう﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は目に見えぬ手で、しっかりと博(はく)士(し)の手をにぎりしめて、いっしんに話した。
しかし、博(はく)士(し)は、その手をふりほどき、めちゃめちゃに手をふりまわして、透明人間にぶつかってきた。
﹁しずかにしろ! ケンプ、話せばわかることなんだ、話をきいてくれ﹂
﹁なにを、このやろう、このばけものめ。話(はなし)もなにもあるものか、ふんづかまえてやるぞ﹂
﹁だまれ、おれがおまえなんかにつかまるものか……﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、むかっ腹(ぱら)をたてたらしく、とうとう、博(はく)士(し)の足をえいっとすくい、ベッドの上にほうりだし、大声をあげて助けをよびそうにしている口の中へ、シーツのはしをぐっとねじこんだ。博(はく)士(し)は、こうなっては手足をばたばたさせて、もがくばかりだった。
﹁しずかにしてくれたまえよ、ケンプ。きみをおどしたり、きみに害(がい)をくわえるつもりできたんではないんだ。ぼくはいまこまっているんだ。きみの助けがほしくてやってきたんだよ﹂
博(はく)士(し)は、このうえ手むかってもむだだと考えたのか、おとなしくなった。透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、口におしこんだシーツをとりのぞき、
﹁ねえ、きみ、どうかぼくの言うことを信(しん)じてくれたまえ。ぼくは大(だい)学(がく)にいたときと同じグリッフィンなんだ。ただ、あることで姿(すがた)が見えなくなったが、人さまの目に見えないだけで、ぼく自(じし)身(ん)は、なんにも変(か)わったことはないんだ。心(こころ)も体(からだ)も昔(むかし)のままのグリッフィンなんだよ﹂
博(はく)士(し)は物わかりのいい人だったし、頭の慟きのするどい人だったので、姿(すがた)の見えないほうたいの化(ばけ)ものの言(こと)葉(ば)に真(しん)実(じつ)のあることを見ぬき、
﹁ずいぶんきばつな話だが、話をきけばあるいはわかるかもしれん。話してみたまえ。それにきみの言うように、わしの目には、きみの姿(すがた)は見えないが、たしかに体(からだ)はあるらしいな。わしの手がたしかにさわったし、きみの腕(うで)がわしをなげとばしたからな﹂
﹁そうなんだ、そうなんだ。たしかにぼくは頭もある手足もあるんだ……。おそろしい化(ば)けものなんぞじゃないんだ。ただ研(けん)究(きゅう)の結(けっ)果(か)でこんなことになってしまったんだ﹂
﹁研(けん)究(きゅう)の結(けっ)果(か)だって? 研究の結果できみが透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)になったというのかい?﹂
﹁そうだよ﹂
﹁信(しん)じられないね。だいいち、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)がグリッフィンだと言ったところで、たしかにかれだという証(しょ)拠(うこ)はないわけだ。顔をみることもできんし……もっとも声はグリッフィンらしいが﹂
﹁きみ、まだそんなことを言うのかい……ぼくはまちがいなくグリッフィンだよ。ゆっくり話せば疑(うたが)いははれるよ。信じてくれたまえ、ケンプ!﹂
﹁では、話してみたまえ﹂
﹁話そう、が、そのまえにすまないがウィスキーと食(しょ)事(くじ)と着(き)る物(もの)がほしいんだよ。じつはけがをしているので、傷(きず)はいたむし疲れきっているんだよ﹂
﹁食(た)べ物(もの)に着(きも)物(の)だって……すこし待(ま)ちたまえ、なにかあるだろう。が、家のものをさわがしたくないから、まにあわせだよ﹂
博士は、落(お)ちつきをとりもどしていた。科(かが)学(くし)者(ゃ)らしく、ちみつに頭を働かし、このふしぎな透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)の秘(ひみ)密(つ)をできるかぎり探(さぐ)りだしてやろうと考えていた。
﹁なんでもけっこうだよ。死ぬほどつかれているんだ。なにか食べてゆっくりと眠(ねむ)りたいだけなんだ﹂
博士は衣(いし)裳(ょう)戸(とだ)棚(な)から、古くなったガウンをとりだして、
﹁これでまにあうかね?﹂
﹁けっこうだよ。それにズボン下とくつした、そしてスリッパがあれば申し分ないが……﹂
空(くう)中(ちゅう)の声がへんじをするといっしょに、博(はく)士(し)の手からガウンがとりあげられ、空(くう)中(ちゅう)でばたばたとゆれていたが、そのうち、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)が着(き)こんだらしく、しゃんと立ってボタンがひとつずつかけられていった。
﹁やれやれ、これで身じたくがととのったよ。あとはウィスキーに食べ物があればいいんだ。裸(はだか)で腹(はら)をすかせているのは、まったくつらいよ。まだ夜になると裸ではこおりつきそうに寒いし、腹(はら)がすいてたおれそうになるし、まったくつらかったよ﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、服(ふく)をきてしまうと、ゆっくりといすに腰(こし)をおろした。
﹁ねえ、ケンプ。早くウィスキーを飲(の)ませてくれないか﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、せかせかとさいそくした。
﹁いま持(も)ってくるよ。だが、こんなきちがいじみたことにであうのは、生まれてはじめてだよ。ぼくは催(さい)眠(みん)術(じゅつ)にかかっているのかな?﹂
﹁ばかなことを言いたまえ、ぼくは催眠術なんぞやらないよ﹂
博士は、足音をしのばせて台所におりてゆくと、冷(ひ)えたカツレツとパンを手にしてもどってきた。
﹁ウィスキーはここにある。さあ食べたまえ﹂
博(はく)士(し)はサイドテーブルにそれらをならべると、ほうたいとナイト・ガウンの化(ば)けものに声をかけた。ウィスキーをグラスについでやると、ナイト・ガウンの袖(そで)が動いて、すっとグラスを持ちあげた。グラスを持ちあげたというより、グラスがひとりで空(くう)中(ちゅう)に浮かびあがっていったような感じだった。
口のあたりと思われるところでグラスがかたむくと、みるまにウィスキーは飲みほされた。
﹁ああ、うまい﹂
つぎに、カツレツが空(くう)中(ちゅう)に舞(ま)いあがった。つづいてパンも……。
﹁なるほど、見えないよ。で、傷(きず)をしているといったが、どこを傷つけられたんだね﹂
﹁傷(きず)はたいしたことはないんだ﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)はがつがつと口いっぱいにほおばって、むさぼるように食べながら言った。
見るまにウィスキーも食べものも、へっていった。
﹁ああ、うまい、それにしてもぼくがほうたいをさがしてまよいこんだのが、きみの家だったとはふしぎだな。ぼくは運(うん)がよかったよ。こん夜は泊(と)めてもらいたいね。ひさしぶりにゆっくり眠(ねむ)りたいんだ。ベッドを血(ち)でよごしてすまなかったね。体(からだ)は透(とう)明(めい)になっていても、血だけはかたまると見えてくるんだよ……。そのためにさっきも、あやうくつかまるところを、きみの所ににげこんでたすかったんだ﹂
﹁また、どうしてピストルでうちあいなんかやったんだね﹂
﹁ばかなやつが、ぼくの金(かね)を盗(ぬす)もうとしたんだ。そいつはぼくがなかまにしようと思ってた男だのに……﹂
﹁そいつも透(とう)明(めい)なのかい?﹂
﹁いいや、かれはふつうの人(にん)間(げん)だよ。あいつはぼくを恐(おそ)れてびくびくしていたくせに、ぼくをうらぎろうとしたんだ。あいつめ、こんど会(あ)ったらぶち殺(ころ)してやる。ちくしょうめ!﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、はげしく体(からだ)をふるわして怒(おこ)りだした。ナイト・ガウンがそれにつれてぶるぶるとふるえた。
博(はく)士(し)は、グリッフィンが大学生のころから、ひどくおこりっぽい感情のはげしい男だったのを思いだして、一生けんめいになだめた。透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、ようやく怒(いか)りをしずめ、
﹁ぼくは武(ぶ)器(き)をつかったりなんかしなかったんだ。それだのに、やつらはおれにむかって、つづけざまにピストルをうつんだ。たいていのやつらはぼくをこわがって、ぼくを追(お)っぱらおうとして乱(らん)暴(ぼう)するんだよ﹂
﹁なるほど、が、きみがそんな体(からだ)になったいきさつを、話してきかせてほしいな﹂
﹁それはゆっくり話すよ。そのまえに、たばこがほしいんだが﹂
博(はく)士(し)はいわれるままに、たばこを透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)にあたえた。ところが、見るからに奇(きか)怪(い)なことが起こった。それは透明人間が、うまそうにたばこを吸(す)いはじめると、たばこの煙(けむり)が流れるにしたがって、口(くち)からのど、そして鼻(はな)と、そのかたちがぼんやりとうきあがってきたのだ。
﹁ありがたい。きみのおかげで、寒(さむ)さからも空(くう)腹(ふく)からものがれることができたよ。そのうえ、おちついてたばこをすうことまでできたんだ。まったく感(かん)謝(しゃ)するよ。しかし、ケンプ、きみは学(がく)生(せい)時(じだ)代(い)と、ちっとも変わっていないな。きみのようにどんなときでも落ちつきはらって、てきぱきと物ごとをかたづけてゆける人間こそたよりになるんだ。これからどうか、ぼくをたすけてくれたまえ﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)が言った。博士は、じぶんもちびちびとウィスキーをのみながら、
﹁いったいきみはぼくに、なにをやれというのだね。ぼくは人をたすけるどころか、ぼく自身どうしたらいいかと思いまよっているんだよ﹂
と、博(はく)士(し)はくらい表(ひょ)情(うじょう)でこたえた。そのうち透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、にわかにうめき声をあげ、体(からだ)をえびのようにまげ、頭をかかえこんだ。
熱(ねつ)がでてきて、傷(きず)がいたみはじめたのだ。
﹁きみ、この部(へ)屋(や)で朝までゆっくり眠(ねむ)りたまえ。そうすればきっと、あすの朝は気(きぶ)分(ん)もさわやかになるだろうから……﹂
博士は親(しん)切(せつ)にすすめた。ところが透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、苦(くる)しそうにうなり声をたてながら、どうしても眠(ねむ)ろうとしなかった。
﹁きみ、えんりょしないで眠りたまえ。そうすれば気分もよくなるし……﹂
透明人間は、なにを思ったのか、しばらくだまって博士をじっと見つめていたが、
﹁ぼくは、心をゆるした人間につかまるのはいやだね﹂
と言った。博(はく)士(し)はぎくりとした。
なにもかも見すかしたような透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)のことばは、博(はく)士(し)の心をぐさりと突(つ)きさした。
﹁ぼくがきみを警(けい)官(かん)の手にわたすなんて、そんなばかなことがあるものか……ぼくを信(しん)じてゆっくりとやすみたまえ﹂
しかし、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)はどこまでも用(よう)心(じん)ぶかかった。部(へ)屋(や)のなかをねんいりに見わたしてから、ふたつの窓(まど)をしらべ、そしてドアの鍵(かぎ)をあらため、警(けい)官(かん)がまんいちかれをおそうことがあっても、逃げだす道があることをたしかめてから、やっと、よこになった。
﹁おやすみ﹂
博士が透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)に言って、ドアをしめようとすると、急(きゅう)にナイト・ガウンがすーっと近(ちか)づいてきて、
﹁だいじょうぶだろうね、ケンプ。ぼくをゆっくりねむらしてくれるね。警(けい)官(かん)にわたしはしないだろうね﹂
博(はく)士(し)は顔いろをかえ、
﹁わすれたのかい。たったいま、やくそくしたじゃないか。よけいな心(しん)配(ぱい)をしないで、ぐっすりやすみたまえ﹂
ドアをしめると、すぐに中から鍵(かぎ)をかける音がした。
博(はく)士(し)は、
﹁やれやれ、とうとうじぶんの寝(しん)室(しつ)から追いだされてしまった。まるっきり、夢(ゆめ)をみているのか、気がちがっているのか……わけがわからない﹂
なんども頭をふりながら、廊(ろう)下(か)をゆっくりと歩いて書(しょ)斎(さい)にはいった。
博(はく)士(し)は、ぐったりといすに身をなげだして、もの思いにしずんでいたが、
﹁そうだ、新(しん)聞(ぶん)を見れば、なにか手がかりがつかめるかもしれんぞ﹂
ぽつりとひとり言(ごと)をもらし、いくとおりもの新(しん)聞(ぶん)をかきあつめ、机(つくえ)の上にひろげて、むさぼるように読みはじめた。
どの新(しん)聞(ぶん)も、アイピング村でのさわぎが、大げさに書きたてられている。
﹁ふうん、村人をなぐりたおしてあばれまわったというのか……なんて乱(らん)暴(ぼう)なことをするのだ。えっ、なに、巡(じゅ)査(んさ)はなぐられて気(き)ぜつしたっていうのか。そして宿(やど)屋(や)の女(おん)主(なし)人(ゅじん)はおそろしさのために、寝こんでしまったのか。なんというおそろしいことをやる男だ﹂
博(はく)士(し)は、ぼんやりと前(ぜん)方(ぽう)を見つめて、考えこんでいたが、ぽとりと新聞を手から落としてしまった。いくら考(かんが)えても、この奇(きか)怪(い)な事(じけ)件(ん)ははっきりしない。
博(はく)士(し)は、長いすによりかかって眠(ねむ)ろうとしたが、目がさえて、寝(ね)つかれそうもなかった。
やがて、窓(まど)から、しらじらと朝のひかりが流(なが)れこんできたが、博士はまだふいに飛(と)びこんできたやっかいな透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)を、どうしようかと思いなやんでいた。
﹁やれやれ、これでやつが起(お)きだしてくれば、また、服(ふく)だけの化(ば)けものと、しかつめらしい顔をして話し、なんにもないところへ、たべものがつぎつぎと消えていくのを見ていなくてはならないのか。どうかして、この災(さい)難(なん)からのがれるすべはないかな﹂
へいぜいは頭のするどさをほこり、どんなことでもあざやかにかたづけてしまう博(はく)士(し)も、思ってもみなかった透明人間には、すっかり手をやいたらしかった。
夜がすっかりあけはなたれると、お手伝いが朝の新聞をかかえてやってきた。
博士は、お手伝いにむかい、
﹁いいか、朝(ちょ)食(うしょく)を二人まえ用(よう)意(い)して、ここまでもってきなさい。そしてわしが呼(よ)ぶまで、二階(かい)へかってにくることはならんよ。わかったな﹂
﹁はい﹂
お手伝いは、博士が研究であたまをつかいすぎて、気が変になったのではないかと、心配しはじめた。
博(はく)士(し)は、お手伝いがはこんできた熱(あつ)いコーヒーをすすると、いくらか気(きぶ)分(ん)がはっきりした。
朝の新(しん)聞(ぶん)をひろげ、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)のことが書かれているところを、ねんいりに読んだ。
﹁新聞には、透明人間は狂(きょ)人(うじん)になったにちがいないと書いてあるぞ。じっさいやつは、気がくるっているにちがいない。なにをやりだすか、わかったもんじゃない。しかも空(くう)気(き)のように自(じゆ)由(う)な身だ。悪(あく)事(じ)をやりだせば、こんなおそろしい敵(てき)はない。そいつがおれの家(いえ)にまいこんできたんだ。それにやつは、昔(むかし)の友だちのグリッフィンだというのだから……﹂
博士は机(つくえ)のまえに、どっかりと腰(こし)をおろすと、ながい間、頭をかかえて考えこんでいた。
﹁おお、どうしてそんなことができよう――友(とも)だちの信(しん)らいをうらぎるなんて……。だが……たとえ友だちであっても――﹂
博(はく)士(し)は、思いまよったすえ、ひきだしから便(びん)せんをとりだすと、ペンを走らせだした。
書いてはすて、書いてはすて、博士はなんども書きなおして、やっと一通(つう)の手(てが)紙(み)をかきあげると、封(ふう)をして、宛(あて)名(な)をしたためた。
それには肉(にく)太(ぶと)の博(はく)士(し)のいつもの字で、
﹃ポート・バードック署(しょ) アダイ警(けい)部(ぶ)どの﹄――と書かれてあった。
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は起きあがるやいなや、あばれはじめた。けさはひどく、きげんがわるいらしい。
いすをなげとばし、洗(せん)面(めん)所(じょ)のコップをたたきわった。
もの音で博(はく)士(し)が、あわててかけつけてきた。
﹁どうしたのだ? なにか気にいらないことでもあるのかい?﹂
﹁なに、頭の傷(きず)がすこしばかりいたみだしたので、気(きぶ)分(ん)がすぐれないんだ。いやな気もちがするんだ﹂
博(はく)士(し)はだまって、ちらばっているガラスのかけらをひろいあつめ、
﹁きみのことが、すっかり新聞にのっているよ。世(せけ)間(ん)は透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)のうわさでもちきりらしい。ただ、ぼくの家にきみがしのびこんでいることは知らないがね﹂
﹁うるさいやつらだ! なぜぼくを、しずかにしておいてはくれないんだろう﹂
﹁それはむりだよ。世の中は、物わかりのいいやつばかりでできてやしないんだ。そいつらは、どこまでもきみをつかまえようとさわぐだろうね。そこで、これからどうするかね? むろん、ぼくはできるかぎりの手(てつ)伝(だ)いはするよ。だが、きみはいったい、どうしたいと思ってるのかね﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は考えこんでいるらしく、ベッドのはしにすわりこんだまま、だまっている。
ケンプ博(はく)士(し)は、しばらくしてから、さりげなく、
﹁書(しょ)斎(さい)に朝(ちょ)食(うしょく)のよういをさせてあるよ﹂
と、さそった。透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)はすなおに立ちあがり、博(はく)士(し)のあとについて書(しょ)斎(さい)にはいってきた。
ゆうべとおなじように、ナイト・ガウンだけが、すーっと食(しょ)卓(くたく)のまえにすわりこんで、手も口もなんにも見えないのに、どんどん食べはじめた。
はじめて見たときほどおどろかなかったが、やはりへんな光(こう)景(けい)だった。
食(しょ)事(くじ)がおわりかけたころ、ケンプ博(はく)士(し)は、
﹁これから先(さき)のことを相(そう)談(だん)するまえに、なぜきみがそんな体(からだ)になったか、くわしく話してもらいたいね﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、ナプキンをとりあげ、ゆっくりと口のあたりと思われるところをふき、
﹁かんたんなことなんだ。きみだって説(せつ)明(めい)をきけば、なーんだ、と思うよ。奇(きせ)跡(き)がおこったのでも、なんでもないさ﹂
﹁きみには、かんたんかもしれないが、ほかの者にとっては、奇(きせ)跡(き)とおなじくらいふしぎなことだよ﹂
﹁はっはっは﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、ケンプ博(はく)士(し)に会ってからはじめて、ゆかいそうに笑(わら)った。
﹁さて、それではなにから話そうかな。ぼくが、はじめ医(いが)学(く)を勉(べん)強(きょう)していたことは、きみも知っているとおりだ。その後(あと)、ふとしたことから医学を研(けん)究(きゅう)することをよして、物(ぶつ)理(りが)学(く)にうつったんだ。ことに光(ひかり)の反(はん)射(しゃ)とか屈(くっ)折(せつ)とかが、ぼくの興(きょ)味(うみ)をとらえてしまったんだ﹂
﹁昔(むかし)からきみは、そういうことを研(けん)究(きゅう)するのがすきだったじゃないか﹂
﹁そうだよ。しかも、この研(けん)究(きゅう)は人があまりやっていないので、いくらでも研究することが残(のこ)されているのが、若いぼくには、たまらない魅(みり)力(ょく)だったのだ。まだ二十二才のわかい科(かが)学(くし)者(ゃ)だったぼくには、これに一生(しょう)をささげて、いつかは世(せけ)間(ん)のやつどもを、あっといわせるような研(けん)究(きゅう)をやりとげようと決(けっ)心(しん)したんだ﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、いつもの、いんきくさい世(よ)をのろったような声とはまるでちがう、わかい張(は)りのある声で話しつづけた。
﹁それからのぼくの頭には、研(けん)究(きゅう)のことよりほかは、なにもなかったね。寝(ね)てもさめても考えるのは、研(けん)究(きゅう)のことばかり――六ヵ月ほどたったとき、はっと思いついたことがあったのだ﹂
﹁どんなことだ﹂
﹁きみも知っているとおり、物が見えるということは、光が物にあたったとき反(はん)射(しゃ)するか、そのまま吸(きゅ)収(うしゅう)されてしまうか、または光がおれまがる具(ぐあ)合(い)によって、いろいろな色とか、形とかが、それぞれの姿(すがた)をもって目にみえるので――光のこの三つの働(はたら)きがなかったら、われわれは物をみることができないわけだ﹂
﹁そうだ﹂
﹁たとえば、われわれが赤い布(ぬの)をみるとするね。赤くみえるのは、太(たい)陽(よう)の光(こう)線(せん)のなかで赤い色のところだけを布(ぬの)が反(はん)射(しゃ)して、あとの色はみんな吸(す)いこんでしまうからなんだ。また光をぜんぶ反(はん)射(しゃ)してしまえば、白くきらきらとかがやいてみえるだろう。そしてふつうのうすいガラスが、光のすくないうす暗いところなどでは見にくいわけは、光をほとんど吸(きゅ)収(うしゅう)しないし、はねかえすことも、おれまがる度(どあ)合(い)もすくないからなんだ﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)はむちゅうで、しゃべりまくっている。ケンプ博(はく)士(し)はあきれ顔をして、じっと相(あい)手(て)の声をきいていた。
﹁そのガラスをこなごなにして、水のなかに入れてみたまえ。たちまち見えなくなってしまうだろう。これは水とガラスは、光がおなじような具(ぐあ)合(い)におれまがるからなんだ。これから考えをすすめてゆけば、なにもガラスを水(すい)中(ちゅう)に入れなくても、水の中に入れたとおなじように見えなくすることができるはずだろう﹂
﹁そうだ。しかし、人(にん)間(げん)はガラスとちがうからな!﹂
﹁そんなことはない。人間はガラスとおなじように透(とう)明(めい)だよ﹂
﹁そんなむちゃな話はないよ﹂
﹁むちゃな話ではないんだ。りっぱにすじみちのとおっている話だよ。人間だって血(けつ)液(えき)の赤い色と毛(もう)髪(はつ)の色などをとりのぞけば、体(からだ)じゅうが無(むし)色(ょく)で透(とう)明(めい)になってしまうんだ。ガラスとたいしてちがわないよ﹂
ケンプ博(はく)士(し)は透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)のきばつな考えに、ただうなずくばかりだった。透明人間のことばはますます熱(ねつ)をおびてきた。
﹁ぼくがこれを考えついたのは、ロンドンを去ってチェジルストウにいたときだ。今から六年ほど前のことになるがね。その時のぼくの先(せん)生(せい)のオリバー教(きょ)授(うじゅ)というのは、じつに根(こん)性(じょう)のまがった男で、学(がく)者(しゃ)のくせに学(がく)問(もん)や実(じっ)験(けん)に身を入れないで、世(せけ)間(ん)のひょうばんや名(めい)声(せい)ばかりに気をとられているのだ。だから、ぼくはだれにも秘(ひみ)密(つ)で、研(けん)究(きゅう)をすすめていくことにしたのだ﹂
﹁だれの手もかりないで、きみひとりでかい?﹂
﹁そうだ。ぼくは研(けん)究(きゅう)が完(かん)成(せい)したそのとき、ぱっと世(せけ)間(ん)に発(はっ)表(ぴょう)して、一夜で天(てん)下(か)に名をとどろかせてやろうと考えたんだ。研究はおもうとおりに進んだ。そのうち、思いもかけない大発見をしたのだ。これはぼくの手がらではないんだ。ぐうぜんなことで、おもいがけないたまものが、さずかったというわけだ﹂
﹁ずいぶん大げさなんだね。いったい、どんな大発見なんだい?﹂
﹁きみ、おどろいてはいけないよ。ぼくは血(ち)を無(むし)色(ょく)にすることができるということを見つけたんだよ。血(ち)を無(むし)色(ょく)にすることができれば、人間を透(とう)明(めい)にすることができる、というわけだ。人間の体(からだ)の血(けつ)液(えき)を透(とう)明(めい)にしてしまえば、体じゅうが透明になるわけだからな。そうなれば、ぼく自(じし)身(ん)、透明になることはわけないというわけさ。もちろん、そのために体(からだ)に害(がい)があってはなんにもならないが、その点(てん)は自(じし)信(ん)があったのだ﹂
﹁な、なんだって……なんということを考えだしたのだ。おそろしい人だね、きみは﹂
﹁おどろくのもむりはないよ。それを発見したぼく自身、しばらくの間は、ぼうぜんとしていたくらいだからね。ぼくはその夜のことを、いまでも、はっきりとおぼえているよ――。研(けん)究(きゅ)室(うしつ)にいるのはぼくひとりで、ひっそりとしずまりかえっていた。ぼくはじぶんのこの発見にすっかり興(こう)奮(ふん)してしまい、じっとしていられなくなった。窓(まど)をおしひらいて、夜(よぞ)空(ら)にしずかにまたたいている星をみあげ、いくどか、おれも透(とう)明(めい)になれるんだぞと、くりかえしてつぶやいた。それでいくらか落ちつきをとりもどしたんだよ﹂
﹁そうだろうね。その気もちは、ぼくにもわかるようだが……﹂
﹁ねえ、きみ、考えてみたまえ。すがたを消(け)して思いのままをやるのは、人間の昔(むかし)からのあこがれだったじゃないか。おとぎ話のなかの魔(まほ)法(うつ)使(か)いとおなじになれるんだ。こんなすてきなことがあるだろうか。それをぼくがやりとげたんだ﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、いきおいこんで話しつづけた。せきをきった水のように、とまることをしらぬようにさえ思われた。ケンプ博(はく)士(し)はしずんだようすで、かれの話に耳をかたむけていた。
﹁これで、ながい間、ばかな主(しゅ)任(にん)教(きょ)授(うじゅ)に見はられながら、苦(くし)心(ん)したかいがあったと思ったね。田(いな)舎(か)の大学で頭のさえない学生をあいてに心にそまない授(じゅ)業(ぎょう)をして、毎日をみじめにすごしてきたぼくが、これはどの成(せい)功(こう)をしようとは、だれも考えなかったろう。しかし、この研究をかんぜんなものにするために、それからさらに三年の年月、むがむちゅうで研(けん)究(きゅう)をつづけたんだ。ところが三年たってみると、この研(けん)究(きゅう)を完(かん)成(せい)させるには、どうしても金(かね)がたりないということに気づいたんだ﹂
﹁金(かね)が……﹂
﹁そうだ﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は吐(は)きすてるように言って、だまりこんでしまった。
ケンプ博(はく)士(し)もだまりこんで、じっとナイト・ガウンだけの人(にん)間(げん)を見つめていた。
ながい間、なんの物音もしなかった。
ふと、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)が口をひらいた。
﹁金がなければ、ぼくの研(けん)究(きゅう)をつづけることはできない。やむをえず、おやじの金(かね)を盗(ぬす)んでしまったんだ……﹂
﹁おとうさんの金を盗んだって……きみが?﹂
﹁うん、ところがそのお金は、おやじのものではなかったんだ――。そして……おやじはそのために自(じさ)殺(つ)をしてしまったんだ﹂
ケンプ博士は、くらい目つきで、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)をみつめた。
﹁ぼくのそのころ、チェジルストウの家をひきはらって、ロンドンのポートランド街(がい)にもどっていた。部(へ)屋(や)をかりてすんでいたんだ。おやじの金をぬすんで、いろいろな実(じっ)験(けん)にいるものを買いととのえたので、ぼくの研(けん)究(きゅう)は気もちがいいほど具合よくすすんでいったんだ﹂
ケンプ博士はうなずいた。そして心のなかで、
︵なんというつめたい男だろう。やつは研究の鬼(おに)になってしまったんだ。やつの心には、もうあたたかい人間の血(ち)が通っていないのかもしれない。おそろしいことだ︶
と考えていた。が、透明人間は博(はく)士(し)の心のなかのことなどは気にもかけず、
﹁おやじの葬(そう)式(しき)は風のつめたい、さむい寒い日だったよ。ぼくはおやじがさびしい丘(おか)の中(ちゅ)腹(うふく)にほうむられるのをみても、考えるのはただ研(けん)究(きゅう)のことばかりで、さびしいとも悲(かな)しいとも思わなかったんだ。葬(そう)式(しき)をすませてじぶんの部(へ)屋(や)にかえってきたときには、はじめて生きているかいがあると思ったよ。ぼくはむちゅうになって研(けん)究(きゅう)にとりかかった﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、ふと口をつむぐと、くらい顔ですわりこんでいる博(はく)士(し)に、
﹁きみ、つかれたのかい? 顔いろがさえないようだ﹂
﹁いや、なんでもない。さあ、つづけたまえ。それからどうなったんだ﹂
﹁そのときすでに研(けん)究(きゅう)は、九分(ぶ)どおりできあがっていたんだ。その大(だい)体(たい)のことは、浮(ふろ)浪(うし)者(ゃ)がもち逃(に)げしたノートに、暗(あん)号(ごう)をつかって書いてある。あいつめ、おれのノートを取りやがって……どんなことをしてもとりかえしてやるぞ。うらぎったやつには、思いしらせてやる!﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)はあの浮(ふろ)浪(うし)者(ゃ)のことを思いだし、研究の話をするのもわすれて、さんざんにののしりはじめた。すると、博(はく)士(し)が、
﹁研(けん)究(きゅう)のほうのことをきかせてくれたまえ。そしてどうなったんだい?﹂
﹁ついに待ちのぞんでいた日がきたんだ。その日の実(じっ)験(けん)には白い羊(よう)毛(もう)を使ってみたんだ。実(じっ)験(けん)はうまくいって、白い羊毛がじっと息(いき)をころしてみつめているぼくの目のまえで、けむりのように色がしだいにうすくなり、やがて、すーっと消(き)えていってしまったんだ。その光(こう)景(けい)は、なんともいいようのないくらい、ぶきみなものだったよ﹂
﹁それで……﹂
﹁白い羊(よう)毛(もう)がすっかり消(き)えて、ぼくの目に見えなくなったときには、まるで信(しん)じられない気がしたよ。ぼくはそっと、羊(よう)毛(もう)をおいたあたりをさわってみた。すると、どうだ! やはり羊(よう)毛(もう)はまえとおなじ場所に、ちゃんとあるんだ。そのときのぼくの気もちといったら、うれしいような、気(き)味(み)のわるいような、変(へん)な気もちだったよ﹂
ケンプ博(はく)士(し)は口のなかで、そっとつぶやいた。
﹁信(しん)じられん話だが………うそではなさそうだ﹂
そして透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)に、ひとやすみしないかと言(い)い、ポケットからたばこをとりだした。
透明人間は一本ぬきとると、火をつけて口にくわえた。と言っても、やはり空(くう)中(ちゅう)にたばこがういているように見えるだけである。
﹁つぎの研究には、ねこをつかったんだ﹂
﹁生きてるねこをかい?﹂
﹁もちろんさ。そのねこは階(かい)下(か)にすむ、ひとり者(もの)の老(ろう)婆(ば)のかわいがっているねこなんだ。ぼくは血(ち)のいろをうすめる薬(くすり)やらそのほかの薬やらを、苦(くし)心(ん)してそのねこにのませたんだ。そして薬(くすり)で、ねこを眠(ねむ)らせておいた。ねこがつぎに目をさましたときには、羊毛とおなじように、けむりのようにきえていたんだ﹂
﹁ねこが透(とう)明(めい)になってしまったって……?﹂
﹁そうだ。もっともすこし失(しっ)敗(ぱい)したところもあって、うまく消(き)えうせてはしまわなかったがね。うまくいかなかったところは、ひとみと爪(つめ)だ。ねこは薬(くすり)をのませると同(どう)時(じ)に、ひもでしばって逃(に)げださぬようにしておいたんだ。そのうちに気をとりもどして、起きあがったときには、からだはかんぜんに消(き)え、ふたつのほそい目と爪(つめ)だけが、部屋のなかにゆうれいのように浮(う)いていたんだ﹂
﹁ぶきみな話だ! それに、ねこがかわいそうじゃないか﹂
ケンプ博(はく)士(し)は、とがめるように言った。
﹁持(もち)主(ぬし)の老(ろう)婆(ば)が、ねこを探(さが)しにきて、﹃わたしのねこが、こちらにきているでしょう。たしかになき声がしていましたよ﹄と、がなりたて、部(へ)屋(や)の中をじろじろとのぞきこんだが、ねこはクロロフォルムでねむらせてあったので、見つかるはずはない。うさんくさそうになんどもながめまわしてから、やっとひきあげていったよ。おかしかったねえ﹂
﹁透(とう)明(めい)になってしまったねこは、その後(ご)、どうしたんだね﹂
﹁さあ、どうしたかね。透(とう)明(めい)になると、ひどくあつかいにくくてね。つかまえようとしてもつかまえることができない。そして、にゃあにゃあ、なきつづけているので、とうとう、うるさくなって、窓(まど)をあけてそとへ追いだしてやったよ﹂
﹁すると透(とう)明(めい)ねこは、いまでもどこかをさまよっているというわけだね﹂
﹁生(い)きていればね。だが、おそらく死(し)んでいるだろう。目に見えないねこに、えさをやる人もいないだろうからね﹂
﹁そうか、かわいそうに……﹂
博(はく)士(し)は、なんにもないところに、ねこの丸(まる)いひとみがふたつ、みどり色にひかり、かなしそうに食べ物をもとめてなく声だけがきこえる光(こう)景(けい)を、ありありと思いうかべて身ぶるいした。
﹁ぶきみなことだ!﹂
つぎに透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)が話しだしたのは、いよいよかれ自(じし)身(ん)の体(からだ)が、どのようにして透明にかわっていったか、ということだった。
﹁一月のことだったよ。雪(ゆき)のふる前の日で、おそろしくさむい日だった。ながい研(けん)究(きゅう)のつかれがでたのか、気(きぶ)分(ん)はすぐれず、いつものように実(じっ)験(けん)をつづける元(げん)気(き)もなかったんだ﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)はつかれたようすもなく、また話しはじめた。
﹁四年の間、あけてもくれても、ただ研(けん)究(きゅう)を完(かん)成(せい)させることだけを考えてくらしていたが、もともとわずかばかりしかなかった金は、ほとんど使いはたしてしまい、体(からだ)もくたくたにつかれきると、なにをするのもいやになってしまった。ぼんやりと丘(おか)にのぼって子どもたちがあそんでいるのをながめていたが、そのうち、ぼくの体(からだ)が透(とう)明(めい)になって人目につかなくなったら、こんなみじめな境(きょ)遇(うぐう)からぬけだし、いろいろときばつな、ゆかいなことができるのではないかと、考えたんだ﹂
﹁それできみは、体(からだ)を透(とう)明(めい)にするおそろしい仕事にとりかかったのかね?﹂
﹁そうなんだ。ぼくは下(げし)宿(ゅく)にかえると、さっそく薬(くすり)の調(ちょ)合(うごう)にかかったんだ。そこへ前からぼくのことをうさんくさい目でみていた下(げし)宿(ゅく)のおやじが、文(もん)句(く)を言いにきたんだ。おやじは部屋じゅうをじろじろながめまわして、﹃あんたはいったいこの部(へ)屋(や)で、どんな仕事をしているんですかね、へんなにおいがしたり、夜っぴてガス・エンジンがうなったり……おかげで下(げし)宿(ゅく)じゅうの人(にん)間(げん)が、おちおち暮(く)らすこともできないではありませんか。人には言えねえ怪(あや)しげな研(けん)究(きゅう)でもやっているんじゃありませんか……とんだめいわくをかけられたら、たまったものじゃありませんからな﹄と、くどくどといつまでもいいつづけるので、ぼくはとうとうかんしゃくを起こして、﹃うるさい! でていけっ!﹄と、どなってやったんだ﹂
﹁らんぼうだね!﹂
﹁しかたがないさ。おやじは、ぼくにどなられると、かんかんになっておこりだした。ぼくはついにがまんしきれなくなって、おやじのえり首(くび)をつかむと、ドアのそとへ力(ちから)いっぱいなげだしてやったよ。これでぼくは、この下(げし)宿(ゅく)からもでてゆかねばならないことになってしまったんだ﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)の着(き)ているナイト・ガウンが、はげしくぶるぶるとふるえた。そのときのことを思いだして、もういちど腹(はら)をたてているらしかった。
﹁こんなわからずやのおやじがいては、とてもじぶんの研(けん)究(きゅう)をこのままぶじにつづけることはできない、とわかったので、ぼくはすぐにつぎの手(しゅ)段(だん)を考えだした。大いそぎで薬(やく)品(ひん)の調(ちょ)合(うごう)にとりかかり、それができあがると、夕(ゆう)方(がた)から夜にかけて、ぼくは体(からだ)を透(とう)明(めい)にするその薬(くすり)をのみつづけたんだ――﹂
ケンプ博(はく)士(し)は、そのとき口をもぐもぐさせて、なにか言いかけたが、そのまま、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)の話をだまってききつづけた。
﹁夜ふけになったとき、薬(くすり)のために、ぼくはたまらないほど気もちがわるくなってしまった。いすにぼんやりと腰(こし)かけていると、だれかがドアを力いっぱいたたくんだ。ぼくは動く気がしないので、ながいあいだ放(ほう)っておいたが、どうしてもノックをやめないんだ。たまりかねてドアをあけると、下宿のおやじが立っていて、なまいきな態(たい)度(ど)で一枚の紙きれをさしだしたが、ひょいとぼくの顔をみると、目(めだ)玉(ま)がとびでるほどおどろいて、紙(かみ)きれをその場にほうりだして、ころがるように逃げていったよ﹂
﹁どうしたというのだい? そのおやじは……﹂
﹁ぼくも鏡(かがみ)をみるまでは、わけがわからなかったんだ。が、おやじが逃(に)げだしてから、鏡をみて、やっと、やつのふるえあがったわけがわかったよ。ぼくの顔がまっ白にかわっていたんだ。すきとおるほど白くね﹂
﹁白く?………﹂
﹁そうだ。予(よ)期(き)したようにね。それから夜あけまでの苦(くる)しみは、ぼくも予期しなかったことなんだ。皮(ひ)膚(ふ)はもえるように熱(あつ)くなり、体(からだ)じゅうが、かっかっとほてって、その苦しさときたら、いまにも気(きぜ)絶(つ)して、それっきり死んでしまうかと、たびたび思ったほどだった。歯(は)をくいしばってがまんしたが、うめき声はひとりでに高くなり、ついにぼくは気(きぜ)絶(つ)してしまったんだ﹂
ケンプ博(はく)士(し)は、おそろしさに身ぶるいしながら、心のなかで、
︵やつの魂(たましい)は悪(あく)魔(ま)にみいられているにちがいない。でなければ、ふつうの人(にん)間(げん)に、そんなおそろしいことがたえきれるはずがないんだ︶
と、思っていた。透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、じぶんの話にすっかりむちゅうになって、博(はく)士(し)のことなどわすれてしまっているようだった。
﹁こんど気がついたときは夜あけだったよ。はげしい苦(くる)しみはやんでいたが、ひどい疲(つか)れでくたくたになっていた。明けがたの光が窓(まど)からさしこんだとき、ぼくはじぶんの手をみて、おどろきとよろこびといっしょになった、言いようのない声をあげたんだ。なぜって――両手がくもりガラスのような色になってたんだ。そして、じっと見つめているうちに、両手はどんどん透きとおって、夜がすっかり明けきったころには、まったく透(とう)明(めい)になってしまったんだ﹂
﹁両(りょ)手(うて)といっしょに、体(からだ)じゅうも透(とう)明(めい)になったのかい?﹂
﹁もちろんだ。一番さいごまで色が残っていたのは爪(つめ)だったね。じぶんで決(けっ)心(しん)してやったことだが、こうして成(せい)功(こう)して全(ぜん)身(しん)が透(とう)明(めい)になってしまうと、さすがのぼくも、たいへんなことをやったなと、心おだやかでなかった。もう一度ベッドにもぐりこんで、昼(ひる)ちかくまでゆっくり眠(ねむ)って元(げん)気(き)をとりもどすと、研(けん)究(きゅう)に使った機(きか)械(い)や道(どう)具(ぐ)を二度ともとにできないように、めちゃめちゃにしておき、ここからでていくじゅんびに取りかかった。﹂
﹁なぜ機(きか)械(い)をこわしたんだい?﹂
﹁ほかの者に、ぼくの研究をかぎつけられないためさ。そこへまた夜のあけるのをまちかねた下(げし)宿(ゅく)のおやじが、くっ強(きょう)な若(わか)者(もの)を二人もつれて、﹃化(ば)けものやろうめ、きょうこそは、なにがなんでも追いだしてやるからな。腕(うで)づくでも追っぱらう気なんだ﹄といきまきながら、ドアをおしやぶってはいってきた。ぼくは、入れちがいにそとへでていったよ。もちろん、やつらはすこしも気づかなかった。部(へ)屋(や)のなかにぼくの姿(すがた)がみえないので大さわぎをしていたよ﹂
そこで透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)はおかしそうに、くっくっくっとふくみ笑(わら)いをして、また話しだした。
﹁やつらがぼくの部(へ)屋(や)をひっかきまわしてさわいでる間に、ぼくは、おやじの部(へ)屋(や)にもぐりこんでようすを見ていたんだ。さわぎはだんだん大きくなって、下(げし)宿(ゅく)の人(にん)間(げん)はひとり残(のこ)らず、そのうえ出(で)入(い)りの商(しょ)人(うにん)たちまでがぼくの部(へ)屋(や)にはいりこんで、実(じっ)験(けん)の機(きか)械(い)や薬(やく)品(ひん)をいじりはじめたんだ﹂
﹁それで……﹂
﹁ぼくはそのようすを見ながら、ふと、﹃こいつらのように無(むが)学(く)なやつどもがさわいでいる間はよいが、そのうちに学(がく)問(もん)のあるやつがこれを見にきて、ぼくの研(けん)究(きゅう)をかぎつけるようなことになるかもしれない﹄と考えたんだ﹂
﹁だってきみは、機(きか)械(い)をこわしておいたんだろう?﹂
﹁そうだ。だが、それで安心はしていられないよ。そこで永(えい)久(きゅう)にぼくの研(けん)究(きゅう)を秘(ひみ)密(つ)にしておく方法を考えだしたんだ﹂
﹁どんな方法だい? そんなことができるのかい……﹂
﹁完(かん)全(ぜん)な方(ほう)法(ほう)だよ。ぼくは、ぼくの部(へ)屋(や)でさわいでいた連(れん)中(ちゅう)がすっかりひきあげると、そっと、おやじの部屋から、ぼくの部屋にひきかえして、そのへんにある書(しょ)類(るい)や紙(かみ)くずを山とつみあげ、マッチをすって、火をつけてやった。燃(も)えあがるのをみて、その上にふとんやいすをつみかさね、さいごにゴム管(かん)をひっぱって、ガスをふきださせたんだ。ガスはすぐに燃(も)えあがり、たちまち、ふとんもいすもめらめらと火(ひ)をふきだした。ぼくは、そこまで見とどけると、そっと玄(げん)関(かん)から、街(まち)へしのびでていったよ。いやな下(げし)宿(ゅく)におさらばしてね﹂
﹁それじゃあ、きみは、放(ほう)火(き)してきたというのかい?﹂
﹁そうさ。それよりほかに、ぼくの研(けん)究(きゅう)を永(えい)久(きゅう)に秘(ひみ)密(つ)にしておける方法があるかね? ないだろう﹂
博(はく)士(し)には、そのときの透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)の声が、地(じご)獄(く)のそこからきこえてくる悪(あく)魔(ま)の声のようにおもえた。
﹁街(まち)へふみだしてみて、ぼくははじめて透(とう)明(めい)になったことをゆかいに思ったよ。ぼくがうしろから、通(つう)行(こう)人(にん)の帽(ぼう)子(し)をはじきとばしたり、肩(かた)をぽんとたたいたら、そいつはどんなにおどろいた顔をするだろうかと思うと、まったく考えただけで、ふきだすほどうきうきしてきたんだ。ぼくは街(まち)をあちこちと気ままに歩いていった。ところが、夕(ゆう)方(がた)ちかくなると、ぼくはすっかり弱(よわ)ってしまった。よくはれたあたたかい日だったが、一月になったばかりだもの、まっぱだかではたまったものではないよ。ぼくは歩きながら、がたがたふるえどおしだった﹂
﹁はっはっはっ、いくら透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)になっても、人間はやはり人間だよ。ま冬(ふゆ)にはだかでいられるものか﹂
ケンプ博(はく)士(し)は、はじめて気(き)味(み)よさそうに笑い声をたてた。
﹁笑(わら)いごとじゃないよ。日がかたむきかけてくるにつれて、寒(さむ)さはいっそうひどくなった。ちょうどブルームズベリイ広(ひろ)場(ば)をぬけようとしていたときだ。ぼくは大きなくしゃみをひとつした。まわりにいた人たちが、いっせいにふしぎそうにあたりを見まわした。とたんに、近よってきた白い犬(いぬ)が、ぼくをかぎつけたのか、わんわんとほえたててとびかかってきたんだ﹂
﹁透(とう)明(めい)になっていても、犬にはわかったのだろうか?﹂
﹁犬にはわかるらしいね。かぎつけるんだ。いまいましい話だが、それからぼくはラッセル広(ひろ)場(ば)まで犬に追われて、力のかぎり走りつづけたよ。ラッセル広場には、まだ人だかりがしていた。犬からのがれてほっとしたのもつかのま、また、つぎの災(さい)難(なん)がふりかかってきたんだ﹂
﹁つぎの災難っていうのは、どんなことだったのだい?﹂
﹁こんどは子どもに見つけられたんだ。もちろんぼくの姿(すがた)を見つけるはずはない。ぼくはつかれはてていたので、ひと休(やす)みしようと思って、博(はく)物(ぶつ)館(かん)のまっ白な階(かい)段(だん)をのぼっていったんだ。その近くで子どもたちが幾(いく)人(にん)も遊んでいたよ。そのひとりがふいに大声でさけんだんだ。
﹃あっ、みてごらん! おばけの足あとだよ。ほらほら、はだしの足あとが階(かい)段(だん)につぎつぎとついてるよ。おかしいなあ――だあれも登(のぼ)っていってないのに、足あとだけがくっついているよ﹄この声をきいた時には、ぼくはぎょっとして、どうしていいか、わからなくなってしまったね。進めば足あとがつくし、立ちどまっていれば、だれかがつかまえにあがってくるだろう。このときのぼくの気もちをさっしてくれたまえ﹂
﹁それで、どうした?﹂
﹁そのうち、子どもの声で、やじ馬(うま)がぞろぞろと集まってきだした。こうなっては逃げるよりほかはない。足あとがつこうが、そんなことにかまっていられなくなって、ぼくは、すぐそばでまごまごしている若い男をつきとばすと、いちもくさんにかけだした。やじ馬たちはわけもわからず、ただ足あとをたよりにわいわいと追っかけてきたんだ﹂
﹁とんだ災(さい)難(なん)にあったものだな﹂
﹁まったくだ。なんども街(まち)かどをまがって、めくらめっぽう逃(に)げていくうちに、足のうらのぬれていたのが乾(かわ)いてきて、足あとがはっきりつかなくなってきた。しめたと思って、物かげにかくれ、足のどろをすっかりはらい落として、ゆっくりと休(やす)み場(ばし)所(ょ)をさがして歩きだしたんだ。追っかけてきたやつらは、うすくなって、ついに消えてしまった足あとをさがして、その辺(へん)をうろうろしていたよ﹂
﹁やれやれ、透(とう)明(めい)になっても、いいことばかりじゃないね﹂
﹁それはそうだ。だが、もちろん、すてきなことだってあるからね。かけまわっているうちに体はぽかぽかあたたまってきたが、すっかり風(か)邪(ぜ)をひいたらしく、しきりにくしゃみがでるのには閉(へい)口(こう)したよ。落ちついてみると、ぼくの下(げし)宿(ゅく)のある街(まち)にきてたんだ﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、ケンプ博(はく)士(し)になにもかも話してしまうつもりらしく、いっしんに話しつづけている。博士は、なにか、落ちつかないようすだが、それでも、じっとかれの話をきいていた。
﹁そのうち往(おう)来(らい)の人たちが、きゅうに、なにかさけびながら、いっさんにかけだしていった。人(にん)数(ずう)はつぎつぎにふえてゆき、やがて火事だとわかったときには、どうもぼくの下(げし)宿(ゅく)のあたりと思われる方(ほう)向(こう)から、もくもくとまっ黒な煙(けむり)がすごいいきおいで、電(でん)話(わせ)線(ん)とかさなりあった家のむこうに見えてきたんだ。それをみて、ぼくは、ほっとしたね。これでぼくの秘(ひみ)密(つ)は安(あん)全(ぜん)だ――そう考えると同時に、なにか新しい勇(ゆう)気(き)がわいてくるような気がしたんだ﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、一気にここまでしゃべってきたが、なにを思ったか、いすにふかぶかと身をしずめて、だまって考えこんだ。
ケンプ博(はく)士(し)は、ちらりと窓(まど)のそとに、すばやい一べつをなげ、だまってすわっていた。
﹁透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)になるということは、はじめぼくが考えたほど、すばらしい、ゆかいなものではなかったんだ。寒(さむ)いからといって服(ふく)をきれば、透明人間でいることができなくなる。透明人間でいようと思えば、寒くても服(ふく)をきることができなくなるばかりか、もっとこまることが起こってきたんだ﹂
しばらくだまっていた透明人間は、ゆっくりと話しだした。
﹁はだかでいるより、もっとこまることというと、どんなことだい?﹂
ケンプ博士は、つかれてしまっていたので、気のりのしない調(ちょ)子(うし)できいた。
﹁おそらく、きみには想(そう)像(ぞう)もつかないことだろう。透(とう)明(めい)でいるために服をきないでいると、食べ物を口に入れることができないんだ。なぜって、考えてみたまえ……ぼくがはだかのままでパンをたべるとするね。パンはぼくの口にはいったときから、のどをとおり、胃(い)にとどき消(しょ)化(うか)してしまうまで、人の目にさらされてしまうのだ。体(からだ)の中にはいった食べ物がそのまま空(くう)中(ちゅう)に浮(う)いてみえるなんて、考えただけでもぞっとすることだろう。ぼくはそんなことになるのはいやだ。が、そうすれば、ぼくはいくら腹(はら)がすいていても、パンひとかけ口にすることができなくなるんだ﹂
﹁なるほど、そこまではぼくも考えつかなかったよ。そうすると、透(とう)明(めい)になるのも考えものだね﹂
﹁もちろん、こまることもあればいいこともある。けれども新しい生(せい)活(かつ)にふみだしたいじょうは、いやでもやりぬくほかはないんだ。いまとなっては身(み)をよせる家もなければ、たよりにする人もない。働(はたら)いて金(かね)をもうけ、その金で楽しくくらすなどということは、夢(ゆめ)にも思えない身の上になってしまったんだ﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)の声は、しみじみとさびしそうだった。
ケンプ博(はく)士(し)も、さすがにかれの変わった境(きょ)遇(うぐう)に同(どう)情(じょう)して、
﹁それできみは、それからどうしたんだい?﹂
﹁どうするといって、ぼくは道のまん中につっ立ったまま、どうしていいかわからなくなってしまったんだよ。雪(ゆき)ははげしく降(ふ)りだし、寒さと空(くう)腹(ふく)はたまらなくぼくをせめたてるんだ。ぼくはただ雪の中からのがれて、屋(や)根(ね)の下でゆっくりとやすんで、腹(はら)いっぱい食べたいと、そればかり考えていたよ﹂
﹁そうだろうね。で、それから……﹂
﹁そのうえ、これこそ思いもかけなかったことだが、雪の中にじっとしていると、体(からだ)に雪がつもって、たちまち、ぼくの体のりんかくがぼーっと浮かびあがってくるんだ。これにはまったくへいこうしたね。ぼくは身をきるような北(きた)風(かぜ)が、雪といっしょに吹きつけてくる道を、あてどもなくさまよいつづけたんだ﹂
﹁なぜどこかの家の物おきへでも、もぐりこんで、雪の中を歩きまわることからだけでもまぬがれなかったんだ。食べ物にありつくことはできなくても、寒(さむ)さだけはいくらかしのぎやすいのではないか?﹂
﹁ぼくだって、それは考えたんだ。ところがロンドンじゅうの家という家は一(いっ)軒(けん)のこらずドアをしめ、鍵(かぎ)をかけているので、いくらぼくが透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)でも、もぐりこむすきさえなかったんだ。だがぼくはそのとき、ふいにすばらしいことを考えついたんだよ﹂
透明人間は、そのときのことを思いだしたのか、いきいきとした声になって、
﹁デパートのなかにもぐりこめば、ぼくのほしい物はなんでも手にはいる。それにデパートならはいるにもでるにも、なんの苦(くろ)労(う)もないし、どうして早くこのことに気がつかなかったかと思ったね。ぼくはすぐ、ぞろぞろとひっきりなしに客(きゃく)が出入りしているデパートにもぐりこみ、閉(へい)店(てん)するのをまっていたんだ。やがて店がしまって店(てん)員(いん)たちがでていってしまった。店の品(しな)物(もの)はすっかり片づけられ、灯(ひ)はけされて、あれほどにぎわっていたデパートも、しーんとなってしまった。ぼくはうす暗(ぐら)くなった店の中をわがもの顔(がお)で歩きまわって、下(した)着(ぎ)やくつ下などの売(うり)場(ば)から、ふかふかしてあたたかそうな下着やくつ下をとりだして身につけた﹂
﹁ほっとしたろう﹂
﹁きみの言うとおりだよ。服(ふく)装(そう)をすっかりととのえおわり、体(からだ)があたたまってくると、こんどは地(ちか)下(し)室(つ)の食(しょ)堂(くどう)におりていって、そこに残っていた肉(にく)やパンやチーズを、いやというほどつめこんだんだ。おまけにおいしい果(くだ)物(もの)や菓(か)子(し)まで食べられるのだから、まるで天(てん)国(ごく)のようだったよ。体(からだ)もあたたまり、腹(はら)ごしらえもできると、にわかに眠(ねむ)くなったんだ。さっそくふとんの売(うり)場(ば)のふかふかした羽(は)根(ね)ぶとんの山の上によこになり、めずらしくのびのびとした気分でねむりに落ちていったのだ﹂
﹁まるでおとぎ話にでもでてきそうな話じゃないか……﹂
﹁ここまではよかったんだ。だが、朝になるとおもしろくないことがもちあがったんだ。目がさめたときには、すっかり夜があけ、明るい太(たい)陽(よう)がさしこんでいて、出(しゅ)勤(っきん)してきた店(てん)員(いん)の話し声や掃(そう)除(じ)をする音がきこえていた。あわててしまったぼくは羽(は)根(ね)ぶとんの山をすべりおりて、どこから逃げたらいいかと、あたりを見まわしたとたん、羽根ぶとんの山が音をたててくずれおちたんだ。あっと思ったぼくは、思わず横っとびにかけだすと、目ざとい店(てん)員(いん)のひとりが、大声で、﹃あっ、首(くび)のない人(にん)間(げん)がいるぞ! あやしいやつだっ!﹄とさけんだんだ﹂
﹁そりゃあ、きみ、店員だって、さぞやびっくりしたろうさ﹂
ケンプ博(はく)士(し)は、ものかげから走りだした首(くび)のない人間を見つけた店(てん)員(いん)たちのようすを思いうかべて、デパートじゅうがひっくりかえるさわぎになったろうと考えていた。
﹁ここでつかまってはたいへんだと思ったので、死にものぐるいで逃げまわったんだ。逃げるにつれて、きれいにかざられてあった花びんがぶつかりあってくずれ落ちる、電気スタンドがころがる、おもちゃの山がくずれる、さいごに食(しょ)堂(くどう)をかけぬけて、ベッドの売(うり)場(ば)から洋(よう)服(ふく)ダンスのならんでいるところへ逃げこんで、そのかげで、着ているものをすっかりぬぎすてて、もとの透(とう)明(めい)な姿(すがた)になって、追(おっ)手(て)につかまるのをまぬがれたんだ﹂
﹁やれやれ、苦労をするではないか……﹂
﹁こんなわけで、せっかく手にいれた服はすっかりぬぎすててしまったので、ぼくはもとのはだかで、ふたたび雪のふる街(まち)へさまよいでなくてはならなくなってしまった。ぼくはデパートをそっとしのびでると、むやみに腹(はら)がたってたまらなかった。
しかし腹をたててみても、どうにもなるものではなし、ぼくはまえと同じように寒(さむ)さとうえになやまされだしたのだ﹂
﹁けっきょく、うえをしのいで、たっぷり眠(ねむ)れたというだけだったのだね。それでもいいではないか……﹂
﹁ちっともよくないよ。ぼくが一番のぞんでいるのは、服を手にいれることなんだ。服を身につけ、帽(ぼう)子(し)をかぶり、マスクでもつければ、どうやら人(ひと)前(まえ)をごまかして、暮(く)らしていけるのではないかと思ったんだ。ぼくはついにロンドンのはずれのうすぎたない横(よこ)町(ちょう)にある古(ふる)着(ぎ)屋(や)にしのびこんで、ほしい物を手に入れ、できればお金(かね)もついでに手にいれることにしたんだ﹂
﹁金も手に入れるというのか?﹂
﹁そうだ。この古(ふる)着(ぎ)屋(や)でも、いくども見つかりそうになって、ひやひやしたよ。おやじというのは、かわった男で、おそろしく耳がするどくて、ぼくのかすかな足音をききつけ、﹃どうもおかしい、だれかこの家にしのびこんでるにちがいない﹄と、ひとり言(ごと)をいうと、ピストルを片(かた)手(て)に家(いえ)中(じゅう)をぐるぐるまわりはじめたんだ。おかげでぼくは古(ふる)着(ぎ)の山を目のまえにみながら、どうすることもできなかったのだ﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、その男のことを思いだしたのか、急(きゅう)にいらいらした口ぶりになって、
﹁いやな男だったよ。うたがい深(ぶか)くておく病(びょう)で、しまいには家じゅうのドアにも窓(まど)にも、かぎをかけはじめたんだ。ぼくがどこからも逃(に)げることができないようにしておいて、ピストルで射(う)ちとろうとしたんだ。ぼくはそれを知ると、かっとなってしまった。こんなやつに射(う)たれてたまるものか、ぼくは階(かい)段(だん)をおりかけていたおやじのうしろにせまると、いきなり、古いすをふりあげて、やつの頭をちからまかせになぐりつけてやった﹂
﹁頭をなぐったって! なんてらんぼうなことをするんだ。古(ふる)着(ぎ)屋(や)はきみになぐられるようなことをなにもしていないよ……考えてみたまえ﹂
﹁らんぼうする気はなかったんだ。ただ、ぼくはその古(ふる)着(ぎ)屋(や)で服をきて、すがたをととのえなくては、こまるんだ。それだのにおやじは、ぼくを追(お)いまわして、ピストルで射(う)つつもりなんだから……。ぼくは追いつめられて、心ならずも乱(らん)暴(ぼう)をはたらいたというわけなんだ。おやじは物もいわずに、その場にたおれたので、手もとにあった古(ふる)着(ぎ)でぐるぐるまきにしばりあげ、さるぐつわをかませた。そして、ぼくは手ばやく服を身につけ、だいどころにいって、たらふくパンとチーズをたべ、コーヒーをのんでから、帽(ぼう)子(し)をまぶかにかぶり、マスクをつけた。ちょっと見たぐらいでは、透明人間だと気づかれないように身じたくをととのえて、ゆうゆうとその古着屋をでてきた﹂
﹁で、きみはおやじをそのまま、ほうりっぱなしにしてかい?﹂
博(はく)士(し)は顔いろをかえてさけんだ。透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)はおちつきはらって、
﹁もちろんだよ。あとでやつは、さんざん苦(くし)心(ん)して自(じゆ)由(う)の体(からだ)になっただろう。そうとうきつくしばってやったからな﹂
博(はく)士(し)はしばらく思いなやんでいるようすで、青ざめた顔をうつむけて考えこんでいたが、
﹁それできみは、やっと人なみの生(せい)活(かつ)ができるようになったのだね﹂
と、ほそい声でいった。
﹁いや、人目の多いロンドンでは、やはりうまくいかなかったよ。食事をしようと思えば、どうしても透(とう)明(めい)なぼくの顔を給(きゅ)仕(うじ)人(にん)や、客(きゃく)の目にさらさないかぎり、肉のひときれも口にいれられないんだ。透明人間なんて、ほんとうに情(なさけ)ないものだよ。人目をおそれて、いつもびくびくしながら暮(く)らさなくてはならないんだからね﹂
﹁で、アイピング村へは、どうしていったのだい?﹂
﹁研(けん)究(きゅう)をつづけたくていったんだよ﹂
﹁研究をつづけるためにだって? だってきみの研究は完(かん)成(せい)して、望(のぞ)みどおり透(とう)明(めい)になったじゃないか……﹂
﹁しかし、きみ、考えてくれたまえ。体(からだ)が透(とう)明(めい)になったおかげで、ぼくはほかの人(にん)間(げん)が持つことのできない力をもつことができるようになった。だが、そのかわり、ぼくは何もかも失(うしな)ってしまったんだ。科(かが)学(くし)者(ゃ)として名をあげてみても、ぼくの姿(すがた)がみえないのでは、どうにもしようがないだろう。あたたかい家(かて)庭(い)をつくって楽しく暮らすことも、友だちとゆかいに話しあうことも、永(えい)久(きゅう)にできなくなったのだ。ぼくはたったひとりぽっちで暮らすほかはなくなったのだ。ただ、たったひとつの望(のぞ)みは、もとの体(からだ)にかえることができる薬(くすり)を発(はっ)見(けん)したいということなんだ。その研(けん)究(きゅう)のために、しずかなアイピング村へいったわけだよ﹂
﹁なるほど、そんなわけだったのか……﹂
博(はく)士(し)は、ナイト・ガウンの化(ば)けもののような透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)をみつめた。そこに友人のグリッフィンがいる。かれはながい間、胸にたまっていた思いをケンプ博(はく)士(し)にうちあけて、ほっとしたのか、ゆったりといすに腰かけて、たばこに火をつけた。
﹁ところで、きみはこれから、どうするつもりだい? なんのために、このバードック町にやってきたんだ?﹂
はじめに下(げし)宿(ゅく)で放(ほう)火(か)、つぎに、古(ふる)着(ぎ)屋(や)でおそろしい殺(さつ)人(じん)をやりかけている。よくもわずかの間に、とんでもないことを仕(し)出(で)かしたものだと、むかしの友人のかわりはてた異(いよ)様(う)なすがたをながめながら、ケンプ博(はく)士(し)がたずねた。
﹁うん。ぼくがここにきたのは、国(こく)外(がい)にのがれたかったからさ。はだかで暮らすのには、イギリスはまだ、寒(さむ)すぎるよ。洋(よう)服(ふく)をきればすぐ人にあやしまれて、追いまわされるし、ぼくは、もっと暖(あたた)かい地方へいってしまいたいと思って、この港(みな)町(とまち)へきたのだ﹂
﹁それで?﹂
﹁ここからは、フランス行きの便(びん)船(せん)がでる。フランスへわたり、汽(きし)車(ゃ)でスペインへいって、そこからアフリカのアルジェリアへいくつもりだ。アルジェリアなら、姿(すがた)をけしてはだかで暮らしても、いっこう寒(さむ)くはないだろうからね﹂
﹁アフリカにいくのか?﹂
﹁そうだ。ぼくの秘(ひみ)密(つ)がしれてしまったからには、もう、どうしようもない……。ところが、それには、ぼくひとりではやれないのだ。ぼくが荷(にも)物(つ)をもって歩くわけにはいかない。そうすると、このまえの金(きん)貨(か)が空(くう)中(ちゅう)をとぶような騒(さわ)ぎになって、すぐ、大さわぎになってしまうんだ。そこで、あの浮(ふろ)浪(うし)者(ゃ)をやとったんだが、だいじな研(けん)究(きゅう)ノートと金(かね)をもって、にげてしまった﹂
﹁浮浪者は警(けい)察(さつ)にいるよ﹂
﹁えっ、あいつが……﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)が、すっくと立ちあがった。
そのとき、玄(げん)関(かん)のベルがなった。
ベルの音をききつけると、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)はケンプ博(はく)士(し)から二、三歩とびさって、
﹁あれは、なんだ?﹂
と、するどく言いはなった。
﹁なにも聞こえないが……﹂
﹁いや、二階へあがってくる足音だ﹂
﹁気のせいだよ﹂
警(けい)官(かん)がきたことを、あいてにさとられまいとして、ケンプ博(はく)士(し)は、おだやかに言った。
﹁ちょっと見てくる﹂
博士がとめようとしたが、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)はドアに近づいていった。
すると、博士がドアを背にして、その前に立ちふさがった。
﹁なんだ、きみは! じゃまをするのか﹂
入口に近づけまいとする博(はく)士(し)から、ぱっと跳(と)びのいて、透明人間は身(み)がまえた。
﹁おれをだましたな!﹂
その声は、怒(いか)りにふるえていた。
﹁警(けい)官(かん)をよびやがって、よくも裏(うら)切(ぎ)ったな……裏切り者め!﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)はガウンの前をひらくと、すばやく、下に着ているものを脱(ぬ)ぎはじめた。
この男を、この部(へ)屋(や)から外に出してはならない。博士はドアを後(うし)ろ手(で)に開いて廊(ろう)下(か)にとびだし、バタンと閉(し)めた。カギがない。透明人間が内(うち)側(がわ)から開けようとして、博士がにぎる把(とっ)手(て)をひねった。その力は、ものすごく強かった。博士はドアを開けさせまいとして、奮(ふん)闘(とう)した。ドアのすき間(ま)からガウンの腕(うで)がのびた。博士はのどを絞(し)めつけられ、把手をはなした。博士はガウンの怪(かい)物(ぶつ)に突きとばされた。
博(はく)士(し)からの手紙で、いそいで駆(か)けつけた、バードックの警(けい)察(さつ)署(しょ)長(ちょう)アダイ警(けい)部(ぶ)は、玄(げん)関(かん)からホールを通って階(かい)段(だん)をのぼりかけたところで、目に見えない怪物と戦っている博士を見て、立ちすくんでしまった。
﹁なんだ?﹂
怪(かい)物(ぶつ)と戦う博(はく)士(し)は、倒されたり起きあがったりしながら、二階の廊(ろう)下(か)から階(かい)段(だん)のおどり場へのがれてきた。怪物のガウンが宙を飛んできて、博士におそいかかって倒した。目の前のできごとに、びっくりしている署(しょ)長(ちょう)を、ガウンの化(ば)けものがなぐり倒した。
起きあがろうとする署(しょ)長(ちょう)を、怪(かい)物(ぶつ)は階(かい)段(だん)から下にけり落として、動けなくしてしまった。階(かい)下(か)には応(おう)援(えん)の警(けい)官(かん)が二人いた。二人はあわてて、宙(ちゅう)を飛ぶガウンを追いまわした。追いまわすうち、ガウンは一階のホールの天(てん)井(じょう)へパッと舞(ま)いあがったかと思うと、落ちてきて、そのまま、へなへなっと動かなくなった。
玄(げん)関(かん)のドアが、人(ひと)影(かげ)もないのに開いて、バタンと閉(し)まった。
署(しょ)長(ちょう)は起きあがったが、顔をしかめて、また、へなへなとすわった。そこへ、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)との格(かく)闘(とう)で傷(きず)だからけの顔となった博(はく)士(し)が、ふらふらになって階(かい)段(だん)を降りてきて、くやしそうに言った。
﹁しくじった。にげてしまった﹂
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)があばれまわるのを見ただけでなく、したたかになぐられ、階(かい)段(だん)からけり落とされて動けなくなるほどの目にあいながら、アダイ署(しょ)長(ちょう)は、なおも信じられないという顔をしていた。
そんな顔の署(しょ)長(ちょう)に、血(ち)だらけの腫(は)れあがった顔のケンプ博(はく)士(し)が、ぐずぐずしてはいられないと、せきこんで言った。
﹁あいつは気がくるっている。このまま逃がしておいたら、どんなひどいことをしでかすか、わかりませんよ。けさも、これまでにやってきたことを、得(とく)意(い)になって話すんですからね。あきれたもんです。署長! あの男はもう、かなりたくさんの人を傷(きず)つけています。これからもっと暴(あば)れまわって、町や村のひとたちを恐れさせてやるんだと話していました﹂
﹁かならず逮(たい)捕(ほ)してみせます﹂
署(しょ)長(ちょう)がこたえた。
﹁大(だい)至(しき)急(ゅう)、警(けい)官(かん)の非(ひじ)常(ょう)召(しょ)集(うしゅう)をおこなって、この町から透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)がにげだせないようにすることです﹂
﹁こころえています。さっそく召集して、道という道に見はりを立てて、あの怪(かい)物(ぶつ)がにげられないようにしましょう﹂
﹁汽(きし)車(ゃ)や船(ふね)に乗って、逃げられないように、駅(えき)や港(みなと)にも見はりをつけてほしいですな。あの男は、かけがえのない物と考えているノートを取りもどすまでは、この町をはなれないと思います。その浮(ふろ)浪(うし)者(ゃ)のトーマスは、警(けい)察(さつ)に保(ほ)護(ご)してあるんでしょうな﹂
﹁ぬかりはありませんよ、博(はく)士(し)! そのノートのことも﹂
﹁透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)をつかまえるには、食(しょ)物(くもつ)をあたえないことです。ねむらせないことです。この二つのことを実(じっ)行(こう)することです﹂
﹁なるほど﹂
署(しょ)長(ちょう)がうで組(ぐみ)してうなずいた。
﹁たべものは手のとどかないところにしまっておき、透明人間が家の中にはいれないように、町じゅうの家が、戸(と)や窓(まど)にカギをかけておくことです﹂
﹁さっそく署(しょ)へもどって、作戦を立てるとしましょう﹂
署長は立ちあがって、博士といっしょに歩きながら話をきいた。
﹁やつは食(しょ)物(くもつ)をのみおろすと、消(しょ)化(うか)するまでは体の中のものが見えるので、しばらくは、どこかに隠(かく)れてやすまねばならんのです。ここが、こちらのねらいです。それと、犬をですな……犬を、できるだけたくさん、かり集めることです﹂
﹁ほほオ、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は犬には見えますかな﹂
﹁見えないことは、われわれ人間とおなじですが、犬はにおいで嗅(か)ぎつけるんです。これは透明人間が、犬にかみつかれて弱ったと、じぶんで話してたことですから、まちがいありません﹂
﹁名(めい)案(あん)ですな。ハルステッド刑(けい)務(むし)所(ょ)の看(かん)守(しゅ)たちが知ってる男に、警(けい)察(さつ)犬(けん)を飼(か)っておる男がいるそうですから、さっそく手(ては)配(い)しましょう﹂
こうしている間に、博(はく)士(し)の屋(やし)敷(き)からにげだした透明人間が、なにをしでかすか知れないと思うと、ケンプ博士は気が気でなかった。
﹁透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)のもう一つの弱いところは、凶(きょ)器(うき)を持ってあるけないことです。鉄(てつ)棒(ぼう)とかナイフとか、太いステッキのような物は、手ごろの武(ぶ)器(き)……つまり凶器になりますが、あの男がこれらの物を手にして歩くと、鉄棒やナイフが宙(ちゅう)を浮いてうごくことになるので、すぐ気づかれてしまいます。ですから、やつが凶器を持ってあるく心(しん)配(ぱい)はありませんが、凶器につかわれそうな物は、どの家でも、かくしておくように知らせてもらいたいのです﹂
﹁ごもっともな意(いけ)見(ん)です。その方(ほう)針(しん)で、かならず逮(たい)捕(ほ)してみせます﹂
アダイ署(しょ)長(ちょう)はこたえた。
﹁もう一つ、だいじなことがあります﹂
﹁なんです?﹂
﹁ガラスの破(はへ)片(ん)を道(どう)路(ろ)にまきちらすのです。透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、はだかで、はだしで歩いていますから、これは効(き)きめがありますよ。すこし残(ざん)酷(こく)なやりかたですが、そんなことは言っておられませんので﹂
﹁スポーツマンシップに欠(か)けるようですが、お考えどおり、ガラスの破(はへ)片(ん)をよういさせましょう。目に見えない怪(かい)物(ぶつ)に、あばれられては大(たい)変(へん)ですからな﹂
﹁あの男は、むかしのグリッフィンとは人が変わってしまった。けだものになって、気がくるっているのです﹂
博(はく)士(し)はアダイ署(しょ)長(ちょう)がよんだ辻(つじ)馬(ばし)車(ゃ)に乗って、署長といっしょにバードックの警(けい)察(さつ)署(しょ)にいそいだ。
ケンプ博(はく)士(し)の家をとびだしてからの透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)のゆくえは、どこに行ってしまったのか、さっぱりわからなかった。
港(みな)町(とまち)ポート・バードックの人びとは、その日の朝のうちは透明人間の話もうわさにすぎなかったものが、午後になると、ほんものの怪(かい)物(ぶつ)が町にあらわれたと知って、大さわぎになった。
なにしろ人の目に、その姿かたちが見えないのである。道をあるいていて、いきなりなぐられても防(ふせ)ぎようがない、というのだ。音もなく家に忍びこまれても、これまた、見えないのだから、どうしようもない。町の人は不安にかられていた。げんにその朝、道で遊んでいた子どもの一人が、いきなり何者ともしれないものに突きとばされて、ケガをしている。その場にいあわせた子どもたちは、友だちを突きとばしたものを、だれも見ていないのだ。
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)の危(きが)害(い)から町の人を守るには、怪(かい)物(ぶつ)を捕(とら)えることである。そのための警(けい)察(さつ)の手(ては)配(い)は着(ちゃ)々(くちゃく)とすすみ、おもったよりはやく、町のこれぞと思うところに、警官が動(どう)員(いん)されていた。
騎(きば)馬(じゅ)巡(ん)査(さ)が町をねり歩いては、戸(とじ)締(ま)りをげんじゅうにするよう、家々によびかけた。小学校は午後三時には授(じゅ)業(ぎょう)をうち切って、児(じど)童(う)を帰(きた)宅(く)させた。町の人は、三人四人と組んで自(じけ)警(いだ)団(ん)をつくり、鉄(てっ)砲(ぽう)やこん棒(ぼう)をもって警(けい)戒(かい)にあたった。港(みなと)の船(ふな)着(つき)場(ば)、汽(きし)車(ゃ)の停(てい)車(しゃ)場(ば)、おもだった道の出入り口。バードックの町を中心にして三〇キロの半(はん)径(けい)の円にはいる地(ちい)域(き)の町や村が、透明人間の出(しゅ)没(つぼつ)にそなえたのである。
透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)にたいする注(ちゅ)意(うき)書(がき)が、ケンプ博(はく)士(し)とアダイ署(しょ)長(ちょう)の名をそえて、町のいたるところに貼(は)りだされた。食(しょ)物(くもつ)をとらせないこと、眠る場所をあたえないことなどが、書かれてあった。警(けい)戒(かい)は万(ばん)全(ぜん)であった。
ところが、透明人間のゆくえは、どうなったのか。その日の朝、遊んでいる子どもを突きとばして、ケガをさせたのは、たしかに透明人間のしわざにちがいないが、それから先、どこへ行ったのか、音さたないのである。
ポート・バードックの町のうしろは、高(こう)原(げん)になっている。その遠くまでつづく高原には森もある。透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)はおそらく、その森で、ひと休みしているのではないかと、ケンプ博(はく)士(し)も署(しょ)長(ちょう)も、そのように考えていた。
ケンプ博(はく)士(し)は、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)はかならず町にもどってくると思っていた。食(しょ)物(くもつ)をもとめてのためか。それだけではない。博士に裏(うら)切(ぎ)られたことへ、仕(しか)返(え)しをするために、夜になったら、きっと、博士の家にあらわれるものと信じていた。
夕方になった。透明人間のゆくえがわからないまま、遠くへにげられたのではないかと、みんないらいらしているところへ、町から一六キロはなれたところで起こった、殺(さつ)人(じん)のニュースがとどいた。むろん、その事(じけ)件(ん)を調べたその土地の警(けい)察(さつ)からである。奇(きみ)妙(ょう)な事件であった。
そこはバードック卿(きょう)の荘(しょ)園(うえん)のある高(こう)原(げん)の静かな土地で、荘園ではたらく執(しつ)事(じ)が、じぶんの住(すま)居(い)に昼の食事にかえるとちゅう、殺(ころ)されたのである。
もうながいことバードック卿の荘園で執事をつとめるウィックスティード氏は、おだやかな人(ひと)柄(がら)で、ひとににくまれたり、けんかをしたりするような人でなかった。昼になると、荘園の木戸から一五〇メートルほどはなれたところにある住(すま)居(い)にもどって、食事をするのが日(にっ)課(か)となっており、草(そう)原(げん)をとぼとぼ横切る執(しつ)事(じ)を、その日も近所の女の子が見ていた。
﹁おじさーん﹂
いつものように声をかけると、いつもならすぐ、にこにこした執事の笑(えが)顔(お)と、おどけた返事がかえってくるのに、おじさんはステッキをふりまわして、女の子には見向きもしないで、通りすぎたというのだ。
﹁おじさん、なにしてるの?﹂
女の子は、太った執(しつ)事(じ)のあとを追った。おじさんは、おかしなことをしていた。見ると、一本の鉄(てつ)の棒(ぼう)が、執事があるく前に浮かんで、ふらふらとゆれているではないか。女の子は、びっくりした。世にもふしぎな宙(ちゅう)に浮く鉄(てつ)棒(ぼう)を追って、おじさんはステッキでその鉄棒を、たたき落とそうとした。
すーっと、鉄棒がにげた。
﹁この化(ば)けものやろう!﹂
口にしたこともないきたないことばを、おとなしい執(しつ)事(じ)が、めずらしく吐(は)きすてた。つづいて、このやろう……このやろう、と夢(むち)中(ゅう)で鉄(てつ)棒(ぼう)にステッキで、なぐりかかっていった。
宙(ちゅう)に浮いた鉄棒と執(しつ)事(じ)とのたたかいは、ブナ林をぬけて、なおもつづいた。おじさんは汗(あせ)をかいて、へとへとになり、それでもあきらめずに、なんとかして鉄棒の化けものをたたき落として正(しょ)体(うたい)を見(みや)破(ぶ)ろうと、追いつづけ、ついにその鉄棒を石(いし)切(きり)場(ば)といらくさの茂(しげ)みのあいだに追いつめたのである。
そこで執(しつ)事(じ)ウィックスティード氏は、鉄棒の化けものの猛(もう)反(はん)撃(げき)をくった。ただ、残(ざん)酷(こく)としか言いようのない、無(むざ)残(ん)な殺(ころ)されようであった。頭はたたき割(わ)られ、腕(うで)はへし折られて、これがあの温(おん)厚(こう)な人の姿であるか、と憤(いきどお)りを感じさせるほどに、ひどいものだった。
﹁あいつのやったことです。透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)のしわざです﹂
ケンプ博(はく)士(し)がニュースを聞いて、署(しょ)長(ちょう)にいった。
﹁かならず逮(たい)捕(ほ)してみせます。この町にはいってきたら、こんどこそ逃がしはしない﹂
アダイ署(しょ)長(ちょう)は博(はく)士(し)と、これからの打合わせをした。
﹁ぼくは家に帰って、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)があらわれるのを待つことにします﹂
博士が警(けい)察(さつ)署(しょ)をでると、外には夕(ゆう)闇(やみ)がせまり、夜になろうとしていた。街(まち)角(かど)には警(けい)備(び)のひとが立ち、三人四人と隊を組んだ見張りの者が、町の通りをあるきまわっていた。
きんちょうのうちに一夜があけたが、なにごともなかった。町に透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)があらわれた話はなく、ケンプ博(はく)士(し)の屋(やし)敷(き)にも、透明人間は近づいてこなかった。
その朝もぶじに過ぎて、おそい昼の食事を博士がしていたときである。一通(つう)の手紙が舞(ま)いこんできた。切(きっ)手(て)を貼(は)らないので、郵(ゆう)税(ぜい)二ペンスの不(ふそ)足(く)となっている。透明人間からのものだ。消(けし)印(ん)はヒントンディーン局(きょく)。どこかで紙を盗(ぬす)んで書いて、ポストに投げこんだものとみえる。
――よくも裏(うら)切(ぎ)って、おれを苦しめたな。こんどは、かならず、きさまを殺(ころ)してやる!
差(さし)出(だし)人(にん)の名は書いてないが、透明人間、すなわちグリッフィンからの手紙にちがいなかった。
消印のヒントンディーン局のある町からここまで、一時間あれば、やってこられる道のりである。博(はく)士(し)は食事をやめて、窓(まど)ぎわに寄って外を見た。それから家(かせ)政(い)婦(ふ)にいいつけて、家じゅうの窓や戸のカギを調べさせた。どこにも手落ちはなく、透明人間が忍(しの)びこむすきは、どこにもない。そこへ警(けい)察(さつ)署(しょ)長(ちょう)が、しんぱいしてやってきた。玄(げん)関(かん)のドアを開くのも、人ひとりがやっと通れるくらいの細(ほそ)目(め)にして、署長を入れる用心ぶかさで、博士は署長を中にいれると、透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)からの手紙をわたして見せた。
﹁あなたをねらって、ここへ……﹂
﹁かならずきますよ。もう、そのへんをうろついてるかも知れません﹂
博(はく)士(し)がそう言ったとき、ガチャーンと、ガラスが砕(くだ)ける音が、二階のどこかでした。
﹁二階の窓(まど)だ!﹂
ポケットにかくしておいた銀色の小(こが)型(た)ピストルをにぎって、博士は二階にかけあがった。署長がそのあとにつづいた。書(しょ)斎(さい)にかけこむと、庭に面(めん)した三つの窓のうち二つが、めちゃくちゃにガラスをたたき割(わ)られていて、床(ゆか)いちめんに、ガラスの破(はへ)片(ん)がちらばっていた。
ケンプ博(はく)士(し)は、まだ破(やぶ)られていない三つ目の窓(まど)に目をはしらせると、ピストルをぶっ放(ぱな)した。ガラスはたまに撃(う)ちぬかれてひび割れ、三角(かく)状(じょう)の破(はへ)片(ん)となって内側へ落ちた。
﹁やつがいましたか﹂
署(しょ)長(ちょう)が目を大きくしてきいた。
﹁いや、ここまでは登(のぼ)ってこられませんよ。ねんのために、ぶっ放(ぱな)したのです﹂
ドスン……と階(かい)下(か)で破(はめ)目(い)板(た)をたたき破(やぶ)る音がした。つづいて、窓(まど)ガラスがやぶられた。しかし、一階の窓には、のこらず鎧(よろ)戸(いど)がつけてある。かんたんには侵(しん)入(にゅう)できないだろう。
﹁警(けい)察(さつ)犬(けん)をつれてきましょう。用意してあるんです。十分とかかりません﹂
署(しょ)長(ちょう)はケンプ博(はく)士(し)からピストルを借(か)りて、外にでた。ところが、アダイ署長が芝(しば)生(ふ)の上を門に近づいて、中ほどにきたときである。目に見えない怪(かい)物(ぶつ)が、署長を襲(おそ)った。
はじめ、いきなりなぐり倒された。署長がピストルで応(おう)戦(せん)した。起きあがったが、けり倒されてピストルを奪(うば)われ、手をあげて家のほうへ歩きだしたが、ピストルを取り返そうとして射ち倒されてしまった。ピストルは透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)の手にわたったのである。二人の警(けい)官(かん)が、かけつけてきた。博(はく)士(し)は用心ぶかく二人をなかにいれた。そのときはもう、裏(うら)にまわった透明人間が、物(もの)置(おき)から探(さが)しだした手(てお)斧(の)で、ガンガン、台(だい)所(どころ)のドアを叩(たた)きこわしてるところだった。
﹁あれは?﹂
﹁透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)だ。ピストルを持っている。残りのたまは二発……署(しょ)長(ちょう)は射(う)たれた﹂
おどろく警(けい)官(かん)に説(せつ)明(めい)して、博(はく)士(し)は火かき棒(ぼう)を手にして、台所に向かった。それに二人の警官も火かき棒を持って、あとにつづいた。
ガンガン………バリバリッと、がんじょうなドアは叩(たた)きやぶられ、見えない手が突きだしたピストルが、博士めがけて、二度、火を噴(ふ)いた。博士と警官二人は広いホールに逃げて、ホールに入ってくる透明人間を包(ほう)囲(い)するように身(み)がまえ、火かき棒を前に突きだして敵を待った。
そこへ、手(てお)斧(の)が頭上の高さに回(かい)転(てん)しながら、ホールに飛びこんできた。大(だい)乱(らん)闘(とう)となった。
﹁ケンプ! きさまと勝(しょ)負(うぶ)だ﹂
怒(いか)りにふるえる声がした。警(けい)官(かん)のひとりが、くるいまわる手斧を、火かき棒でたたき落とした。もう一人の警官は見えない足で、け倒(たお)された。そのあいだにケンプ博(はく)士(し)は、窓(まど)から庭へとび降り、町に向かって走った。それに気がついた透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)は、警(けい)官(かん)をなぐり倒すと、ちくしょう! とさけんで、ケンプ博士のあとを追った。別(べっ)荘(そう)がつづく高(たか)台(だい)をかけ抜けると、町へ下るながい坂になっている。町へにげれば、追ってくる透明人間を、そこで捕(とら)えることができると博士は考えていた。はだしの足音が、すぐうしろに追っている。
博士は走って走って、まっ青になって走った。砂(じゃ)利(り)や石ころが、ごろごろしている道をえらんで走った。透明人間との間が少しはなれた。やっと、町の入口に走りついた。
﹁透明人間がきたぞーっ﹂
さけびながら博士は、町の大通りを、鉄(てつ)道(どう)馬(ばし)車(ゃ)の駅(えき)のほうへ走った。駅の前に広場がある。その広場には砂利の山があり、シャベルを持った工(こう)夫(ふ)がはたらいていた。
﹁透(とう)明(めい)人(にん)間(げん)だ、にがすな﹂
手に手に棒をにぎりしめた町の人が、わっと飛びだしてきて、博士のゆくての道をふさいだ。
﹁裏(うら)切(ぎ)りやがったな!﹂
透明人間がま近にきたな、と感じた瞬(しゅ)間(んかん)、ケンプ博士は、したたかに顎(あご)に一撃(げき)をくらった。倒れたところを脾(ひば)腹(ら)をけられ、つづいて胸を重いものがおさえつけ、のどをしめつけられた。
工(こう)夫(ふ)の一人が、博(はく)士(し)の上になっている透明人間のせなかを、シャベルでなぐりつけた。手ごたえがあった。また、なぐった。すると、こんどは博士が上になり、警(けい)官(かん)もくわわって、透明人間の手や足をおさえつけた。姿(すがた)を見せない透明人間が、ぐったりとなった。博士のあいずで、みんな手をひいて立ちあがった。
﹁あっ?﹂
群(ぐん)衆(しゅう)に囲まれた広場の、博(はく)士(し)の足もとの地上に、はじめはかすかに、それから少しずつ……半(はん)透(とう)明(めい)の人の形をした物が姿をあらわし、まもなく、若い男の裸(はだか)の傷(きず)だらけの体(からだ)がよこたわっているのが、見えてきた。透明人間グリッフィンの最(さい)期(ご)である。
︵おわり︶
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