私の家はどういふわけか代々続いて継母の為に内輪がごたくさした。代々と云つても私は自分の生れない以前のことは知らぬが、父の時代が既にさうであつた。父は早く実母に死なれて継母にかゝつた。その継母に幾人もの男の子が出来て、父は我が家にゐるのが面白くなくなつて遂つひに家を飛び出した。父は長男であつたが亡父の遺産を満足に受けつぐことも出来なかつた。それは継母の奸かん策さくの為めであつた。 私も丁度父と同じやうな行き方になつたと云ふのは何と云ふいんねんだらう。私は長男であつた。継母には二人の女の子が出来た。その女の子が私よりは大事がられて育つのを私は平気で見てゐられなかつた。質たちのよくない継母は私のさうした妹に対する嫉しつ妬とて的きな心理を知れば知るほど、私になほさらそれを見せつけた。尤もつとも一年中そんなことばかりはなかつたが、兎とに角かく私は家にゐるのが面白くなかつた。それに父までが継母と同類のやうにさへ私には見え出したのである。一年一年成長して行くだけ私の継母に対する観察は深刻になり、皮肉になり、父に対しては冷笑的になつた。同時に継母の私に対する憎しみもあくどく、そして辛しん辣らつになつた。父もそれに随従した。私の父は少し後妻に巻かれる方であつた。私と云ふ先妻の長男を家庭内で冷遇することが少なからず後妻の気に叶かなふので、父はさかんに私を冷遇して後妻に媚こびる癖があつた。父は自からそれを気づいてゐたかどうかは知らぬが、私はその頃まだ十二三の少年であつたが、父の愚劣さを認めてゐた。 父は私を家庭に置くことさへ後妻に遠慮して私を仕立屋の叔母の家へ弟子入りさせたりした。私は其そ所こでも意地の悪い叔母の亭主に冷遇され、それでも一年以上辛抱したが、病気になつて家へ帰つた。私は叔母の家へゐる間父のことをどんなに気にして考へたか知れなかつた。私は家にゐると父をさほどに思ひはしなかつたが、家を離れると朝夕父のことを思はずにゐられなかつたのだ。父の善良なこと父が曾かつて私を誰れよりも可愛がつてくれたこと、父が一ひと頃ころ親類先の旧ふるい借金に苦しんでゐた当時の心事を私は自分の記憶から呼び起しては父に対する感傷的な涙を味はつた。仕立屋の一年間はさうした悲しい日が多かつた。殊ことに酒好きな父の泥酔がいちばん気になつた。 然しかしそれほど心に思つた父も私が家へ帰つて病気がよくなると、一日も早く仕立屋に行くやうにとすゝめた。私は叔母の亭主といふ人が心から嫌きらひであつた為めに、仕立屋に再び行く程ほどならば何ど処こか他の商店に奉公したいと父に云つた。間もなく或る呉服屋の徒弟にやられた。然し半年とは辛抱しきれなかつた。それなり一年あまり私は家に止とゞまつて家業の手伝ひをしてゐた。その頃私の家は佐賀ステーション前に宿屋を営んでゐたのである。家業柄私は家にゐればいろ〳〵の役に立たぬではなかつた。尤もそれは小僧同様の役ではあつたが、例たとへば客の乗車券を買つて来てやつたり、ステーションまで手荷物を抱かゝへて客を送つたり、夜になると泊り客を届け帳に記入して派出所へ持つて行つたり、その他いろ〳〵の使ひをしなければならなかつた。 然し継母と私との衝突が毎日絶えないので父はどうしても私が家に止まることを許さなかつた。私も強しひて家にゐる気はなかつた。寧むしろ早く何処かへ行きたかつた。然し私は奉公は心から嫌ひであつた。自分は到底奉公に行つても長く勤まる気づかひないと自分でも知つてゐたのである。若もし年齢が許すならばステーションの駅夫か機関車乗りにでもなりたかつた。それなら勤まらぬことはないと思つた。人の家に住み込んで奉公してゐるやうな気づまりな思ひをせずにすみさうであつた。然し其の頃私はまだ十三だつたので、その望みは叶はなかつた。 継母と衝突して父に叱しかられると、それなり私は家を出て三日も四日も帰らないのが例だつた。さすがに父は心配するらしかつた。それがまた私にとつては好い気味であつた。で出来るだけ遠い田ゐな舎かの親類先を訪たづね廻つて日を過ごした。目がふらついて倒れさうなひどい空腹を持ちこたへながら、田たん圃ぼみ道ちの稲田のいきれの強い真夏の暑い日中を辿たどつたり見知らぬ村の子供の群れに交つて小川に水を浴びたりして次から次に親類の家を泊り歩いた。然しかし到る先で直すぐ私の様子を見てそれと嗅かぎつけ、二日とは泊めてくれぬのであつた。 ﹁そんなにして家を出歩いてはいかんがのう、早うお帰り、親に心配させるもんぢやないぞよ。これから来る時は許しを得て来るもの。そすれば何日でもをつて好ええから。﹂と親類先の老人から云ひ聞かされるのが常だつた。そして僅わづかばかりのおこづかひを貰もらつてはそこを追はれるのであつた。 赤の他人でも私の実母のことを多少でも知つてゐる町の人は私の日常を見て気の毒がつてくれた。 ﹁ほんとになあ、お母さんが生きてゐなさつたらどんなにか仕合せぢやつたらうに、およしさんはみめよしで、好い人でなあ、せめてお祖ば母あさんでござらつしやれば……。﹂と、或る所では見も知らぬ老女が私を見て、しみ〴〵さう云つてくれることがあつた。私はそんな時は、嬉うれしさ過ぎてきまりが悪くて顔をそむけた。私の母方の祖母は女ながらに界かい隈わいでは敬はれてゐた人で、町の年若い男女は読み書きの稽けい古こに通つて来てゐたのを、私はおぼろげながら記憶してゐた。私は母の死後六歳時分までその家で育てられた。﹁亜ア細ジ亜ア人種……阿ア弗フ利リ加カ人種……。﹂と生徒達の読本朗読の声を聞き覚えに私は覚おぼ束つかなくも口くち真ま似ねをしたりしてゐた幼ない頃の自分を思ひ出す。教室の柱や壁には生徒達のいたづら書きの痕あとが黒々と染しみ込んでゐた光景を思ひ出す。机を幾つも積み重ねたその頂上に読み書きの覚えの悪い、または行儀のよくない生徒が坐はらされて両手に煙りの立つ線香を持ちながら泣きしやくつてゐるをかしいさまを私はその時分毎日のやうに見た。母の実家は裏町筋から曲つた横町の、田圃寄りのさびれた古寺の前だつた。そのあたりには軒の傾いた貧乏士族の家がひからびたやうに並んでゐた。母の家は小さな塾だつた。祖母の死後私は旅先にゐる父のもとに引きとられた。その時は六つ位で、私は初めて父に逢あつたのである。同時に継母を知つた。父は私を引きとつて間もなく故郷の佐賀に帰つてステーション前で宿屋を始めたのだ。 佐世保の造船所へ行つて職工になる決心をしたのは十三の秋だつた。同じ町から行つてゐた年上の友達が職工になつてゐた。その友達は青服のズボンをはいて黒セルの上うは衣ぎを着込んで、鳥打帽を冠かぶつて久しぶりに佐賀に帰つて来た。或る日手荷物を提さげて汽車から降りて来る姿を一目見て私は直ぐに彼れであることを知つた。ズボンのポケットからズボン締めの帯皮へ時計の鎖をかけ渡したりしてゐる気取つた風が少なからず私の目を引いた。 その頃の職工は決して今日のやうに労働者、若もしくは職工などと頭から賤いやしめる風はまだ一般になかつた。それどころか、機械師とか、西洋鍛か冶ぢなどと云つて到る所で青服姿を珍らしがつて尊敬する風だつた。職工自身でも自分の職業は立派で高かう尚しやうであると云ふ誇りを抱いだいてゐたのだ。それは今日の飛行機や飛行家等が世間にもてはやされるくらゐに彼等はもてたのだ。それはその筈はずである汽車と云ふものが今の飛行機ほどに世人の感動と讃嘆の中心でさへあつたことを思へば機械職工が珍らしがられたのも不思議でないであらう。然し何事も最初の間である。誰れにでも出来るやうになると世間は珍らしがらなくなり、果てはその真の値打をさへ馬鹿にするのだ。馬鹿にされるやうになると遂つひにはされる方自身でも自からを賤しみ侮るやうになるのだ――私のその友達が青服姿で故郷の町へ帰つて来た時分は、職工の値打ももう都会人の目にはそれほどではなかつたが、私の目には珍らしかつた。私は彼が非常に立身して故郷へ帰つて来たのだと思つて見上げた気持で彼に近づいて挨あい拶さつし、それから彼の家まで彼と二人がゝりで手荷物を持つて行つてやつたりした。彼は亡父の供くや養うの為めに帰郷したのであつた。一週間ほど滞在する予定だつた。私はその間、彼の家を毎晩のやうに訪ねて佐世保の造船所の有様を彼に聞かせて貰つた。どんなに重い鉄でも機械でも宙にまき揚げて運搬するグレンと云ふ機械のあること、大きい軍艦でも商船でも鯨のやうに引き揚げて修繕するドックと云ふものや日清戦争で分ぶん捕どりした軍艦や、いろ〳〵の機械が置き場もなく造船所の海岸に転ころがつてゐることなどを彼は話して聞かせた。 ﹁僕等は毎日のやうに軍艦の中に行つて機械の修繕をするんだよ。士官にビスケットやパンを貰ふんで軍艦へ仕事に行くのがいちばん楽しみさ。﹂と友達は語つた。 ﹁ほう、職工になりたいな僕も、軍艦の中はそんなに広いかい。どれくらゐあるの幅は。﹂ ﹁鎮遠なんかは二十間ぐらゐあるよ。それは広いよ。﹂ 私はさうした軍艦に乗り込んで行つて機械を修繕したりする職工はどのやうに偉いであらうと想像した。此この友達は既にそのやうな偉い職工の一人になつてゐると思ふと私はいつまでも自分はぐづ〳〵してゐる時でないと考へた。 ﹁僕のやうな者でも職工になれるだらうか。﹂私は普通の少年と異つてゐる自分の性質上の欠陥や身体の虚弱を顧みながらそれを先づ聞いて見た。 ﹁なれるとも。最初見習職工に志願するんだよ。それから三ヶ月すると一日十銭の日給になるよ。それから三ヶ月目毎ごとに昇給するんだ。﹂ それを聞くと私は一日も早く行きたくなつた。彼と一緒にでも行きたいと思つた。 ﹁僕は是非行くから、その時は世話しておくれなあ。﹂ ﹁あ、するとも。でも君は家にをらんにやなるまいが。長男だらうが。それにひとり息子ぢやないか。﹂ ﹁うんにや、家にをらんでも好ええ、僕がよそへ行けば家では却かへつて都合が好えのさ。﹂ 私は思つた。今佐世保へ行つたら父も少しは私のことを心配するであらうと。自分を余計者扱ひにして妹ばかりを大事に育ててゐる彼等は少しは思ひ知るであらう。と思つた。ならうことなら佐世保よりもつと遠い旅の空へ行つて父を驚かせてやりたいと思つた。さうでもなければ後妻にまかれてゐる父を覚かく醒せいさせ、そして真実の親らしいものを父から呼び起すことは出来ないと思つた。今度家を出たら、生涯家に帰らないやうにしたいとさへ思つたのである。 その年の十月末に私は父に無断で佐世保へ出奔した。佐賀から佐世保まで二十里位であつたがその時分汽車はやつと武雄まで通じてゐた。武雄からまだ十里の道を歩かなければならなかつた。父の知り合の人であちらで商売をしてゐるのを私は多少たよりに思つてゐた。行きさへすればどうかなると云ふ気であつた。 ﹁茂もつちやんだつて屹きつ度と何とかしてくれるに違ひない。﹂と私は曩さきに久しぶりで佐賀へ青服を着て帰つて来た友達をも頼みにしてゐた。 武雄のステーションで汽車を降りると、その駅の運輸部に勤めてゐる叔父に見つかつた。﹁どこへ行くのだ。清六。﹂叔父はさう云つて私をじろりと見た。 ﹁佐世保へ。﹂私は多く答へなかつた。叔父の方でもそれきり何にも問はなかつた。此の叔父は父の異腹の弟で、数年前遺産分配についてごた〳〵を起した以来兄弟同士は前より一層敵視し合つてゐたので、さうした意味合から叔父は私に対しても強しひて冷淡であつた。其の実彼は私を憎んでゐないのであつた。その叔父の心持はよく私には分つてゐた。彼は私の父と仲が悪い上に私の継母にも少なからぬ悪感を持つてゐたのである。そして私が継母の為めに家庭で虐待されてゐるのをひどく憤慨し、私を不ふび憫んに思つてくれてゐることを私はよく知つてゐた、それにもかゝはらず彼が私の姿をプラットホームで見つけて、極きはめて冷淡に唯たゞ一ひと言こと言葉をかけたきりで向ふへ行つてしまつたのは、事務が忙しい為めばかりではなく、﹁あいつは子供ながら俺おれを兄きと仲なか違たがひになつてゐるので、親ぢの味方になつて矢張俺に対して敵意を抱いてゐるかも知れぬ。﹂と叔父は私を見た瞬間その折角の愛情を自から傷きずつけてしまつたらしかつた。私にもその瞬間それに似よつたものが萌きざしたのは事実である。父や継母を呪のろひながらも此この叔父を見ると﹁父の敵﹂と云ふ感じを直ぐ私は感じた。叔父の愛情を解しながら強ひてそれに応じまいとする頑ぐわ迷んめいさが私にあつた。何といふ不幸の一族であらう。 叔父は貨車の傍に立つて仲仕達が荷を下してゐるのを見ながら鉛筆を走らせてゐた。私はそれを一目見返して今一度叔父の横顔を遠く見てステーションの出口を出た。それから人の続いて歩いて行く方へついて、長い国道に出た。私が前夜いろ〳〵と寂しい道中を想像したのとは異つて、晴れやかな秋の日の輝く国道には旅人の姿が賑にぎやかに続いてゐた。附つけ紐ひものひら〳〵と長く垂たれたメリンスの着物にくるんだ赤ん坊を負ぶつた里行きらしいかみさんや、爺ぢいさん婆ばあさんの老人づれ、背負商人、青服を着た職工、お坊さん、田舎娘、さうした姿が黄や赤や青や黒やの点々を国道に作つた。 ﹁お爺さん、一寸お尋ね申します、佐世保の方には此の道を行つて好ええのでせうか。﹂私は直ぐ前に歩いてゐる老人に問きいた。 ﹁好えともな、此の道を行きさへすれや紛れもねえぢや、早はい岐きと云ふ所に着きますぢや、早岐から佐世保までは三里ありますぢや。わしも佐世保へ行きますぢやで、一緒にござらしやれ。﹂と爺さんはやさしく云つてくれた。で私は爺さんについて行くことにした。 ﹁お前さまあ一人で佐世保へ行きなさるのかな。親ご達は佐世保へをんなさるのかな。﹂とつれ合ひの婆さんは云つた。 ﹁いんえ、家は佐賀にあるんですが、私だけ佐世保へ行くんです佐世保へ行つて働くんです。﹂ ﹁それは〳〵、まあいくつになんなさるかな。へえ、十三かな、大おほけえなあ。﹂と婆さんは云つた。 早岐までの八里の道はかなり長かつた。陶器の産地である有田へ着いたのは午ひる頃ごろだつた。谷川のへりの所々に石を搗つき砕く水車小ご舎やの響きが聞えてゐた。河原に棄すて散らされた陶器の破片を私は珍らしく見ながら歩いた。町の家々ではいろ〳〵の形をした陶器が、竈かまへ入れられるばかりに仕上がつて列ならんでゐた。私は老人達と一緒に道ばたの茶店によつて昼飯をとつた。 夕方、もう日が落ちかけてゐる頃早岐へ行き着いた。私はそこで偶然知つた車夫の善作と云ふ人に出逢つた。此人はもと佐賀駅の構内車夫であつた頃、よく私の家の客を送り迎へしてゐたので、私の家の事情をも多少知つてゐた。三年前から妻子をつれて佐世保へ出でか稼せぎに来てゐたのである。私は此の人に出逢つたおかげで、あと三里の道を歩かずにすんだ。その上私は当分此の人の家に厄やく介かいになることにさへなつた。実は父の知り合ひの人をたよりにして来たのであるが、無謀な私は、ろくに其の所番地も知らなかつたので分る筈はなかつた。 ﹁さう云ふことなら早うお父さんに手紙で知らさにや、いかい心配ぢやらう。まあ狭い家ぢやが当分わしの家へ置いてあげざあ。﹂と善作さんは事情を聞いて、いろ〳〵篤く云つてくれた。全く此の人に出逢つたのは私には何より仕合せだつた。善作さんの家は佐世保の街まちはづれの、所々に怪しい小料理屋などのある場末であつた。町の狭い道路のまん中には鉄道用の枕木が縦に二筋敷かれてあつた。これは二里ほどの山奥から海軍貯炭場へ石炭を運び出す車力の軌道であつた。道路には石炭屑くづがいつもこぼれ散らかつてゐた。それを町の貧しい家のかみさんや子供達が入れものを持つては拾ふのであつた。善作さんのかみさんも毎日それをのがさず拾ふのを私は見た。善作さんに二人の男子があつた。私より年上の権八は毎朝造船部へかん〳〵叩たゝき︵鉄の錆さびを叩き落す少年労働者︶に出て二十銭宛づつ儲まうけて帰つた。次の弟はまだ小学校に通つてゐた。私が行つて三四日すると天長節が来て街は賑やかだつた。天長節が過ぎると私も権八について造船部へ仕事に行つて見ることになつた。造船部の門までは町から小一里もあつた。第一の衛門を入つて鎮ちん守じゆ府ふの内を通つて、大きな赤あか煉れん瓦ぐわの倉庫の前や山のやうに積んである貯炭場の横やをぬけたり、ボート納庫のある海岸へ出たり、赤ペンキを塗つたボイラの転がつてゐる広場を通つたりして、やつと造船部の門へ着くのであつた。その門口には私くらゐの年頃の少年が沢山来てゐて、二列に並んでゐた。てんでに汚れた風ふろ呂しき敷づゝ包みの弁当を腰にぶら提げたり、肩から斜めに紐ひもで提げたりしてゐた。私も権八の云ふまゝになつてその端の方に並んだ。その向ふ側には大人の人夫等が大勢列を作つてゐた。やがて伍長の帽子を冠つた目の黒光りに光る人夫係がやつて来て、それら少年の頭数を数へたりして、おとなしさうな、または気のきいた顔つきの少年を片端からよりぬいた。その伍長の目に止まつた少年は運が好いのである。﹁鼻汁を垂れてる者には札をやらんぞ。﹂と伍長が云ふと少年達は一斉に鼻汁をすゝりあげる。すると伍長は一人々々気に入りの顔を見出しては木の札を渡すのだつた。此の木札にありつけばその日の労働が二十銭になるのであつた。私は最初の日から運よくその木の札にありついた。そして権八の仲間達について海岸の仕事場へ行つた。そこには戦利品が沢山置いてあつた。目に入る物の悉こと〴〵くは私の小首をひねらせ、解わからぬながらに驚嘆させる巨大な鉄の器具ばかりであつた。そこには長い大きな二本の鉄管が横たはつてゐた。それは旅順から分捕つた百噸トングレンの柱だと権八は私に説明した。やがてその一端の横穴から少年達は一人一人頭から這はひ込んで行つた。権八の後から私も這ひ込んで行つた。両端は直径二尺位の円筒だが、まん中になるほどふくらんでゐるのであつた。私は時々頭を打ぶつつけながら中なか程ほどまで這つて行つた。 ﹁なるだけ中程の方へ行つた方が広いから身体がらくだよ。﹂と権八は云つた。二十人あまりの少年は長さ三十間ほどの円筒の中にそれ〴〵陣どつて蝋らふ燭そくを輝かせながら、ハンマでコツ〳〵錆さびを叩き始めた。もう何も聞えないのであつた。鉄錆の粉と蝋燭の油煙とで管の内部は朦もう朧ろうとかすんだ。 やがて昼飯時が来て外へ出てほつと一息吐いた。誰れの鼻の穴も鉄錆と油煙をしこたま吸込んでまつ黒であつた。皆は材木や鉄材の上に腰をかけて真昼の太陽の下で海を眺ながめながら弁当を開くのだつた。 私はさうしたひどい仕事を厭いとはず毎日やつた、そのひどい仕事がどれほど健康を害しようとも、遠い故郷の父及び継母に対する反抗心の為めには強ひて忍び得た。私は一日も休まなかつた。 ﹁見ろ、俺は旅の空でかうして働いて生き得るのだぞ。﹂と云ふ誇りを覚えながら、息苦しい鉄管の中で終日ハンマをコン〳〵云はせて仕事を励んだ。 人は無力な弱者である間は何処へ行つても大して境遇の変化はないものだ。私が故郷を棄すてて父や継母に反抗する為めに労働者となり愉快に自立して生きようと思つたのは空想だつた。私が此の土地へ来てからの苦労の量だけを故郷の父のもとにゐて忍ぶことが出来たら父はどのやうに私を頼もしい子としたであらう。私はなまなか旅の空へ飛び出した為めに父や継母に屈従する以上に他人に屈従し迫害され、さまざまの苦労を経験しなければならなかつたのだ。他人の恩義に預ることは自分の家庭で父や継母に冷遇される以上の気苦労を伴ふた。私は車夫の善作さんの家に殆ほとんど小一年厄介になつて毎日造船部のカンカン叩きに通つた。私は毎日働いた賃銀のうちから、その日〳〵の食料を欠かさず支払つてはゐたけれど、遠慮で窮屈だつた。それに私より一つ二つ年上の息子の権八に対しては常に彼の気を損じないやうに心しなければならぬのであつた。権八は最初私が此の土地に来た当分は何かと私に親切だつた。然し彼は私以上に無知で、頑固で怒りつぽかつた。そして彼の気を損ぜぬやうに勤めるだけ、それだけ彼はだんだん不当な忍従を私に求めるやうになつた。全く征服された形で私は彼の云ふまゝになるより仕方がなかつた。然し彼の親達は私が権八の為めにそんな気苦労をしてゐようとは少しも気づかないらしかつた。権八は親達に感づかれぬやうに私をいぢめるからであつた。 彼は私より背せた丈けは低くかつたけれど体格はがつしりして、私よりも力は強さうに見えた。仕事場からの帰りには必ず私が早い時は彼を待つてゐなければ彼は非常に機きげ嫌んが悪かつた。その癖彼は自分が早い時はどん〳〵先に帰つた。其その他いろ〳〵の点で私は彼の専横を忍ばされた。 或ある日の夕方、権八と私は一緒に仕事から帰つた。街を歩きながら彼はいつもの調子で私に知つたかぶりを始めた。 ﹁機関兵と水兵とは何処でお前めえは見分ける。これはお前えには分るまい。﹂権八は私に云つた。彼は三四年も此の佐世保の土地へ居ゐ馴なれてゐるので何かとくはしかつた。唯の水兵と三等兵曹とは服に異ちがひはないとか、服の左腕についてゐる山形は善行証であるとか、一等兵曹の直ぐ上は上等兵曹、それから準士官だとか、さうしたことを知つてゐるのを彼は私に誇つた。 ﹁機関兵と水兵とかい。機関兵は服の左腕に螺鑰が附いてゐるよ。﹂と私は答へた。 ﹁笑じよ談うだん云つてらあ、ねぢまはしが附いてゐなくたつて機関兵は機関兵だよ。ねぢまはしと桜の花が附いてるのは、ありや機関兵の三等下士と云ふんだ。へん、知りもしないくせに――ねぢまはしが、ぶつちがひに附いてゐるのが二等下士だ。なんにも目印の附いてゐない機関兵を見分けることはお前えには駄目だよ。﹂ ﹁そんならどこで君は見分ける。﹂ ﹁俺あ直ぢき見分けらあ。機関兵は痩やせて色が蒼あを白じろいや。水兵はまる〳〵と肥ふとつて色が黒いや。何な故ぜつてよ、機関兵は石炭のこなほこりや、油煙を吸つてばかりゐるから色が蒼白いに定きまつてら。わかつたかい。﹂と権八は鼻を動めかして云つた。 ﹁あゝさうか、矢張君はくはしいな。﹂私も彼の海軍通には感心した。彼は軍艦の形を遠くから見てその軍艦の名を云ひあて得ることや、水雷艇の戦闘任務や、帆ほば檣しらの旗を見分けることや、また造船部内のことなどを知つてゐたのである。 私も彼にばかり知つたかぶりをされるのは窃ひそかに快くなかつたので、彼の知らない範囲で、彼に答へを求めてやらうと考へた。彼はまるきり学校へは行つてゐなかつたので文字を多く知らないのであつた。それに彼は文字が嫌ひだと云つてゐた。私はとある商店の看板に書いてある、彼の知りさうもない文字を指して彼に読ませて見た。﹁極廉価調進﹂と書いてあつたが彼はそれが読めなかつた。更に薬種屋の軒看板に﹁体裁高尚品質優秀値段格好﹂と書いてあつたのを彼に指し示して読ませて見た。それも全部読めなかつた。彼は急に黙り込んで不快な顔色になつた。 ﹁少しぐらゐ字を知つとるちふて鼻にかけるない。﹂彼は怒つた目つきで云つた。 ﹁だつて君も僕の知らないことを訊たづねるんだもの。﹂ ﹁それがどうしたんだ!﹂彼は喧けん嘩くわ腰ごしで私の胸を突いて来た。 ﹁お前えは誰れの家に今厄介になつてるんだ。お前えを初めて仕事場につれてつてやつたのは誰れだと思つとるんだ。生意気云ふとひどいぞ。早く俺が家から出て行つてくれ。お前え見たいな厄介者はありやしねえぞ。おふくろがさう云つてらあ。朝早く起きてよ。ふん。十銭ぽつちの宿賃ぢや損が行かあ。﹂権八はさん〴〵私に云ひたいことを浴びせた。私はさう云はれると一言も返せなかつた。 権八はその翌日私の弱身につけ込んで、仕事場でも他の仲間の前で私をさん〴〵恥かしめた。少年労働者の中でも彼は頑強で気が荒いので幅をきかせでゐた、それ故ゆゑ他の少年等も彼の云ふことには一々尤もつともだと云つてそれに味方した。 ﹁俺の家へ厄介になつてけつかる癖によ。そして俺が此の仕事場にもつれて来てやつたんだ。それに生意気で仕様がねえのさ。ぶんなぐつてやらうと思ふんだが、国の継まゝ母はゝにさん〴〵いぢめられて追ん出されて来やがつたんで俺あ可愛さうだから我慢してゐるんだ。﹂と権八は皆の仲間の前で云つた。 ﹁やつてやるが好ええさ。﹂と一人のおへつらひは云つた。 ﹁お前めんとこへゐるんなら喧嘩しねえが好い。おい清公、お前も生意気をよして権八公と仲よくしねえな。その方が好いぜ。﹂と分ふん別べつらしい顔で一人の少年は仲裁した。 ﹁そりや僕だつて仲よくしたいんだから、云ふまゝになつてるんだが、それでも生意気だと云はれりや仕方がないんだ。﹂ ﹁何だと。もう一度云つて見ろ。﹂権八は私に飛びかゝつて来た。皆は留めた。 ﹁今日の帰りに覚えてゐろ。此のまゝではすまねえから。﹂権八は私に云つた。 夕方の帰りに彼は私を待ち受けてゐた。 ﹁早く逃げねえな。お前えひどい目に逢ふかも知んねえぜ。﹂と仲間が云つてくれた。私はもうすべて覚悟を定めた。相手の思ふ存分にさせてやらうと決心した。権八は案の如ごとく二三人の仲間と一緒に倉庫の並んでゐる人通りのない草原に私を待ち受けてゐた。そして私に近づいて来て、いきなり胸ぐらをつかんだ。 ﹁何をする。﹂私も死力を出して組みついた。傍で見てゐた仲間は私の勢ひに少しくたぢろいだ。私は都合よくそこの草原の掘り返へされた窪くぼ地ちにまで彼をひた押しに押して押し倒した。それから暫しばらく上になり下になりしてから起き上がつて、更にまた組み合つた。此の時私は手から離さず握つてゐた弁当箱にふと気がついたので、ふり上げてがんと一つ権八の横顔に打ぶつつけた。血が彼の横顔いつぱいに流れ出した。私はそれを見て驚いた。権八も自分の血に驚いたらしかつた。 ﹁しまつた。大変だ……。﹂さう思つたが相手が離すまで私は彼の胸ぐらを握つたまゝであつた。此の時通りかゝつた一人の水兵が分けてくれた。権八は仲間にとりまかれて傷の始末をしてゐる間に私はどん〳〵馳はしり出した。一足早く帰つて権八の両親にそのことを云つて詫わびるより他はないと思つたのだ。 ﹁大変なことをした。俺は権八の父にどう云つて詫びよう。こんなことになつてはもうあの家には置いては貰へないのだ。﹂私は家へ向いて馳りながらも気が気でなかつた。 家では権八の母親が夕ゆふ餉げの仕した度くをして私達の帰りを待つてゐた。私が唯たゞならぬ様子をして走り込んだので彼女は怪けげ訝んな目顔で迎へながら尋ねた。私のシャツはぼろ〳〵に裂けてゐたのだ。 ﹁どうしたの。家の権八はまだかい。﹂彼女は此の時私の喧嘩の相手が誰れであるかを知る筈はなかつた。 ﹁権八はどうしたの。﹂かみさんは更に不安げに訊ねた。 ﹁権八さんは後から帰ります。をばさん私は権八さんと喧嘩しました。許して下さい。﹂私はさう云つた。権八の頭に傷を負はせたとは口に出して云へなかつた。そこへ私より一足遅れて権八が一人の仲間に伴つれられて頭を手てぬ拭ぐひで繃はう帯たいしながら帰つて来た。かみさんはそれを見ると忽たちまち色を変へて狂気のやうになつた。 ﹁おや、どうしたのだえ清さん、お前さんは権八の頭に傷をつけたの。え、それはどうしたわけだね。さあわけを聞きませう。さあ……。お前さんは誰の世話に今なつてをるか分つてゐる筈ぢやらうがの。お前はよくも権八の頭に傷をつけた。さあ、どうしてくれる。﹂とかみさんは目を釣り上げてがなり出した。 ﹁すみません。すみません、をばさんゆるして下さい。﹂私はひた詫びに詫びた。 此の時権八は自分の母親が好いあんばいに私をがなりつけるのに力りきんで何い時つの間にか、そこの土間にある下駄を振り上げて私に打つてかかつた。私はそこでは手出しをせずに打たれてやつた。そこへ父親の善作さんが帰つて来た。 ﹁お前さん、まあちよつと御覧よ此の通り権八は頭に傷をつけられて、何ちふ義理知らずものもあつたものでせう、それ、此こ所ゝにゐる。此の厄介者が……。﹂とかみさんは亭主に私の乱暴をあくどく訴へた。善作さんは唯黙つて、私の顔をあまり見ないで、目をぎろつかせたが、いきなり権八をどやしつけた。 ﹁手めえが悪いんだからだぞ。喧嘩なんかしやがつて、てめえのやうな奴は出て去うせろ、打たれて痛いてえくらゐなら何な故ぜ喧嘩なんかしやがるんだ。﹂と善作さんは我が子の権八を続けさまにひつぱたいた。母親はそれを見ると一層我が子に同情して﹁お前さん。そんなに自分の子を打たんでも好ええ。それはあんまり……の。﹂とかみさんは権八を善作さんの手から引きもいだ。 ﹁何、てめえまで。﹂と云ひさま善作さんはかみさんをも続け打ちに打ちのめした。私は善作さんに抱きついた。 ﹁どうぞ許して下さい。私が悪いんですから。権八さんの悪いんではないから、許して下さい。﹂と私は善作さんに詫びついた。近所の人は寄つて来た。さうして、かみさんを引つぱつて伴つれて行つた。やつと事は鎮しづまつた。私はどうしてよいか分らなかつた。然しかし善作さんは私に対して何にも云はなかつた、却かへつてやさしい調子で、 ﹁さあ風呂へでも入つて来るが好い。これから喧嘩をせんやうにの。﹂と云つた。私にはその一言が身に強く響いた。私は屹きつ度とかみさんから怨うらまれるに違ひないと思つて非常にその夜中心配した。然し翌朝は常のやうにかみさんは朝飯の仕度をして私達二人を仕事場に出してくれた。まるで、何事もなかつたやうに、かみさんは私にも常のやうにやさしかつた。そして出しなに云つた。 ﹁仲よくしなさいよ。喧嘩をすればあの通りお父さんがやかましいから、よいかえ。﹂さう云つて二人を送り出してくれた。 ﹁昨日のことは許してくれたまへ権八さん。僕が悪かつたから。﹂私は途みち々〳〵云つた。 ﹁いんや俺が悪いんだ。﹂二人は其の時だけはそれですつかり仲なほりをした。 私は時々故ふる里さとのことを思ひ出さずにゐられなかつた。どうかした日は妙に父のことが案じられた。私は佐世保へ来てから一度父には手紙を出した。善作さんの家に厄介になつてゐることを知らせてやつた。父からはあらためて善作さんに宛あてて何分頼むと云ふ手紙が来た。私にも別封で来た。それには私が無断で家出をしたことについては小言らしいことも書いてなかつた。唯たゞ、奮発して一人前の人間に早くなるやうにと書いてあつた。私は父や継母に対する反抗心で以て労働の苦痛をも押し通して旅の空の心細さも割合に感じなかつたが、以前から父ちゝ想おもひの苦労性であつたので、仕事をしてゐるまにも直ぐ父の面影が私の目の前に浮ぶのであつた。妻に媚こびる愚かなる父の為めに遂には旅の空にやつて来て下等な労働者をしなければならぬ腑ふ甲が斐ひない自分を思ふと歯ぎしりして故郷の空を睨にらみたい気もしたが、その実私の心の中には父に対するほんとの愛情が潜んでゐた。私は父にうんと心配させてやらうと企てて此の佐世保へ家出して来ながら、父を想ふことに於ては他の多くの子供に決して劣りはしなかつた。曾かつて仕立屋の叔母の家に奉公してゐた時分だつて、私はどんなに父を思ひ人の知らぬいろ〳〵のことを案じわづらつたであらう。私は父の善良な性質をよく知つてゐた。父は他人に対しては謙遜であつた。自分から進んで争論一つする人でなかつたが、家業上にいろ〳〵の紛ふん擾ぜうが絶えず起るのであつた。その為に旅にゐる私はどれほど父の上が気づかはれたか知れなかつた。街を通つてゐても、或る店先などに人が大勢立ち塞ふさがつてゐて、其の家で誰れかが争論でもしてゐるのを見ると私は直ぐ国の父の上に思ひを馳はせた。私の家はひと頃よくステーションの構内車夫に種々な手段で家業の妨害をされ、或る時は車夫等は酔つぱらつて父に喧嘩を売りに来たりしたものである。ステーション附近の宿屋同士は激しい競争をやる弊があつて、双方が車夫を利用しては家業を邪魔し合ふのであつた。私の家はステーションの直ぐ間まぎ際はで、場所としては他の宿屋を抜いてゐたので、それ故同業者はどうかして少しでも私の家に吸収される客を奪はうと努めた。それには必らず構内車夫を利用した。彼等車夫に法外の酒代を与へたり、時に酒をふるまつたり、いろ〳〵の懐柔の手段を用ゐた。その為め構内車夫等は私の家の前にいつぱい俥くるまを列ならべて客の寄り勝手を悪くしたり、他よ所そから客を乗せて来る場合は他の宿屋へ送り込んだりした。その代り私の家の客が俥を雇ひたいと云ふ場合には構内以外の俥しや夫ふを呼ぶやうにしたこともあつた。さうした事からます〳〵構内俥夫等と私の家とは面白くなくなつた。尤もつとも構内俥夫の中でも私の家に味方する者も少数はあつたけれど、性質の荒い俥夫は悉こと〴〵く他の宿屋に買収された形であつた。父がそれ等の乱暴な俥夫の横理屈に対して飽あくまで自分を抑おさへて彼等の機嫌を取つてゐるのを私は屡しば々〳〵見た。然しかし私は今に父がこらへかねて何か非常なことをしはしないであらうかといつも気が気でなかつた。私の父は決してさうしたことの出来ない人でないのを知つてゐたからである。私の父は若い時分継母のはからひで勘当同様の姿で家を出され、放浪中は土方の群れにも交つて刃ものの間を潜くゞつて来た人であることは聞いてゐた。それが私の母が来るやうになつてからは一変して生れた町へ帰つて小商売を始めたさうであるが、私の母の死後再び自暴自棄になり、私を祖母の手元に置き去りにして他国へ飛び出し、荒い仲間と一緒に生活してゐたのであつた。然し再び故郷の町へ帰つてステーション前に宿屋を始めてからは家業に忠実であつた。俥夫等がいかに暴あばれ込んで幾度喧嘩を持ちかけても父はおとなしく下から出てゐた。唯たゞ一度或る夜のこと父が抜き身を提げて俥夫等のあばれこむのを待ち受けたことがあつた、然しその時は事なくすんだ。その時ほど私は心配したことはない。私はさうしたことが私のゐない間にも屡々起つてゐはしないであらうかと折々案じずにゐられなかつたのである。その実私は父には少しも手紙を出したくなかつた。父からもあまり来なかつた。 カン〳〵叩きの仕事が一時杜と絶だえて少年労働者が全く不用になつたのはそれから間もなくだつた。私はその日の食費が払へなくなつた。然し国の父に云つてやる気は無論なかつた。今更云つてやれないと思つた。で余儀なく私は大人の労働をも無理にやつて見た。石炭担かつぎや、山こはしの土工の群れにも入つてやつて見た。けれども私の身体では続かなかつた。で私は予かねて聞いてゐる納なや屋ず住み人夫になるより他に方法はないと思つた。納屋住み人夫といふのは造船部の常用人夫で、これはどんなに人夫が不用になつても喰くひはぐれのないものであつた。そして直接工場に入つて職工の手伝ひをするのであるから職工等に知り合ひも出来、職工になる手てづ蔓るを得るにもよいと云ふことであつた。で私は善作さんにそのことを相談した。 ﹁納屋住みをするといろ〳〵悪いことを覚えるちふから、わしがさう云ふ所へ入れたとでも国のお父さんに思はれてはすまぬが、どうしたものか。﹂と善作さんは云つた。然し権八との喧嘩以来、かみさんは私をよく思つてなかつたし、私の窮屈がつてる風を知つて善作さんも強ひては止めなかつた。 私は或る日山の手の谷あひにある納屋に頼みに行つて見た。そこには藁わら屋や根ねの掘ほつ立たて小ご舎やが三みむ棟ねあつた。岩崎組、平野組、山田組と三つに分つてゐたのであつた。私はそのとつ附きの平野組に入つて行つた。人夫達は皆仕事に出払つて一人もゐなかつた。家には親方とかみさんとがゐた。色いろ艶つやのよい愛あい嬌けうのある小肥りの、筒つゝ袖そで絆ばん纏てんを着た若いかみさんが私をあいそよく迎へてくれた。親方も人柄であつた、私が事情を話したのでかみさんも主人も同情してくれた。 ﹁よくまあ親ご達があるのにあんた一人で来なさつたよなあ。親ご達も随分ぢや……。﹂とかみさんはしみ〴〵云つた。 ﹁まあそんなわけなら置いてやるから来るが好い。納屋にはお前さんのやうな小供は入れぬことになつちよるが、まあ置いてやらう。﹂と親方は云つた。私は嬉しかつた。その晩から住み込んだ。その夜十人ばかりの人夫達に一々私はおじぎをして挨拶を云つた。 ﹁おとなしさうな小僧だ。﹂などと口々に云つてくれた。皆やさしいもの堅さうな男達ばかりだつたので私は多少安心した。彼等は丸太をぶつ切りにした木枕を並べて一つの蒲ふと団んの襟えりと襟とに二人宛づつ枕違ひに寝た。障子越しの三畳には一組の夫婦が寝てゐた。私も誰れかの蒲団に入れて貰もらはねばならなかつた。 ﹁わしの蒲団へ入れてやるから来な。﹂と人のよささうな爺ぢいさんが薄暗い壁の方から云つた、私は構はずそこへ入れてもらつた。昨夜まで権八と寝たより気楽にのび〳〵と私は足を伸べて寝た。 ﹁好いからもつと足をお伸べ。遠慮しねえでおのべ。風をひかねえやうにな。﹂と爺さんは頻しきりに云つた。さう云つてゐるうちに爺さんはもう鼾いびきの音をさせてゐるのだつた。 翌朝から皆と一緒に起きて親方について造船部へ行つた。 ﹁今日一名補欠をつれてまゐりやしたから、どうかお願ひ申しやす。﹂と親方は事務所の前に立つてゐる役員に云つてゐた。 ﹁あゝさうか。﹂役員はうなづいた。其そ所こには岩崎組、平野組、山田組の人夫が別々に並んだ。役員は人員の数を調べるとそのまゝ黙つて事務所へ引つ込んだ。それで手数はすんだのである。 私はその日から木工場の手伝にまはされた。これは昨夜一緒の蒲団に寝た爺さんが親方へ頼んでさうしてくれたのであつた。いちばん気楽な仕事であつた。爺さんはもう長い間木工場の手伝人夫をして、何ど処こには何があるとか、何号の小こ舎やには欅けやきの板が何枚あるとか、職工達の誰よりもくはしかつた。木工場のことと来たら此この爺さんに訊たづねさへすれば分ると云ふほど調法な爺さんであつた。爺さんはまるで孫かなどのやうに私を木工場の職工達に紹介した。おかげで私は早く皆の職工達に親しんだ。仕事といふ大した仕事はなかつた。鉋かん屑なくづが溜たまればそれを目めか籠ごに押し込んで外へ捨てに行つたり、職工達が墨を曳ひいた大小の木材を鋸のこ切ぎり場ばへ持つて行つて、挽ひいて貰つたり、昼飯時が来ると、ぐら〳〵沸いてゐる薬やく罐わんの湯を小こを桶けに分けて職工達の食事をする場所々々に持つて行つたりするだけのことであつた。私は爺さんの云ふ通りになつてゐれば間違ひなかつた。鋸ぎり場に行くといろ〳〵の珍らしい機械があつた。板に鉋をかける機械や大きな欅の丸木を荒あら挽びきする機械や上下の車輪に張り渡されて非常な速さで廻転してゐる鋭利なリボン鋸や水車のやうに廻転してゐる車鋸や鋸の歯を一本々々金こん剛がう砂しや砥とで研みがいてゐる人間よりも巧妙なる機械やを私は一つとして感心せないで見ることは出来なかつた。さうした調法な機械が発明された為めに人間の労力と技術がどれほど侮ぶべ蔑つを蒙かうむつてゐるかを私は少しもまだ感ずるだけの頭はなかつたのである。人類の生活を幸福にする為めであらねばならぬ幾多の新式な生産機械が資本家の独占となつて社会生活を不幸ならしめ、多数の人間を虐しひたげつゝあることを私はその時少しもまだ感じ得る頭はなかつた。唯たゞ多くの珍らしい機械の前に立つて子供心に讃嘆するばかりであつた。 木工場では私は皆から可愛がられた。 ﹁お前は職工になりたくはないか。何職工になる積りだい。木工になれよ。﹂或ある日伍長は私にさう云つてくれた。実を云ふと私は大工は好かなかつたのである。毎日木工場の手伝人夫をしながらも大工になる気は少しもなかつた。鉄工などのやうに黒く汚れずに危険も少ないのであるが、私は何な故ぜか鉄工が好きだつた。私は鉄工になつて黒く汚れるほど職工らしいと思つた。第一にハンマを振つて見たいのであつた。何故私は鉄工や機械工が好きであつたかは大したわけもなかつた。国に居る間ステーションの側に生ひ立つたので、毎日のやうに汽関車の運転手の動作や、また機関庫の修理工場へ行つて職工達がエンヂンを組み立てたり、バイスに向つて長いヤスリを威勢よく使つてゐる姿や、斜に構へて長柄の片手ハンマを振つてゐる意気な格かく恰かうを多く見て、さうした仕事を好きになつたのであつた。私には大工と云ふ職業はあまりに平凡に思へた。鉄工や機械工の仕事にはいかにもエキゾチックな感じがあるので、唯々好きだつた。 ﹁私は鉄工か機械工になりたいんです。﹂とその伍長に云つた。 ﹁さうか。大工が嫌ひなら仕方がないなあ。然し大工になる方が好いぞ。大工の仕事は街まちでも出来るし自分の家でも出来る。﹂と伍長は真実に云つてくれた。私はよくその伍長の家に遊びに行つた。夫婦二人きりで小ぢんまりと暮してゐた。子供がないのでおかみさんは私に心切だつた。着物を縫ひ直してくれたりした。私も休みの日はいろ〳〵の使ひをしてやつた。 ﹁私は鉄工になりたいから、木工場の手伝ひをするよりも鉄工場の手伝ひの方へやつて下さい。私は少しでも鉄工を見覚えてから職工に志願したいのです。﹂と納屋の親方に頼んだ。 ﹁そんならさうしてやるから、もう少し辛抱してゐな。﹂と親方は云つた。 ﹁鉄工場の方はあぶねえからおよし。悪いことは云はねえから、それよりも木工場が汚れねえ上に気楽で好ええだ。木工場におとなしくゐさへすれば俺が組長さんにようくお頼み申して、初めから給金が貰へるやうにして、職工見習にしておくんなさるやうに話するだ、もう少しの辛抱だよ清公。伍長さんだつてお前めえを可愛がつてゐなさるだ。なあ、さうしな。それが好えだ。﹂と爺さんは頻しきりにさう云つて私が鉄工になるのを止めた。それでも私は鉄工が好きでたまらなかつた。ハンマを振るやうになつたらどんなに面白いだらうと思つた。石炭の煙を吸ふのがどれほど健康に害であるか、また毎日多くの怪我人が出来るほどの危険の伴ふ仕事に対して、私は殆ど無むと頓んち着やくであつた。全く盲目的であつた。 私は納屋にかれこれ一年あまりゐて爺さんと毎晩同じ寝床に寝た。爺さんは私のことについては非常に心から、何かとさとすやうに云つてくれた。 ﹁お前えは職工なんかになつてどうするだ。自分の霊たま魂せえを台なしにするばかりだ。お前えは今が大事な時だから、よう考へるが好えだ。お前えは何にも分らねえから俺がよう云ふて聞かせるだよ。悪いこと云はねえから、早う国へ帰つて親ごの云ふことを聞いて家にゐるが好えだ。親に虐いぢめられるぐれえ何でもねえだ。あたりめえだ。世の中にはもつと人間を虐めて、すまし込んで俺達のやうな労働者の生血を吸つてる資本家ちふ者がゐるだ。此こ所ゝの造船所はお海軍さまの工場だからまだ〳〵職工は大事にして下さるが、どうせ職工になれや人間扱ひにやされねえだ。なあようく聞きな。好えかよ。船一いつ艘さう造りあげるまでに職工は何人死ぬちふ予算がちやんとしてあるだ。死ねばたつた三百円貰ふきりだ。後に残つた家族が貰ふだ。一つの船を造りあげるまでに平均二十人の職工が死ぬと見てあるちふだ。それも造船費用の中に入つてゐるだ。まるで消耗品と同じだ。死んでしまつて三百円ぽつち貰つてどうしるだ。かけがへのねえたつた一つ命だもの、一艘の船のキールを据すゑる時からちやんと何百人の職工中の誰れかが二十人の死人の仲間になるに定きまつてるだ。お前えは鉄工が好きだと云ふけんど、お前えだつて鉄工になればその二十人の中うちに数へられねえもんでもねえだ。よう考へるが好えだよ。霊たま魂せえを台なしにしねえことよ。好えかい清公。早う国へ帰るが好えだ。﹂爺さんは夜も寝てからこん〳〵と云つてくれるのだつた。私は時々爺さんの仕事着の繕ひをしてやることがあつた。爺さんは針の穴へ糸を通すのに十分も二十分もかゝるのである。そしてまづい繕ひ方をするのであつた。 ﹁お爺さん僕縫つてあげませう。﹂と私が云ふと、 ﹁お前えに出来るものかよ。ぢやお前えがさう云ふなら頼むだ。﹂と云つて爺さんは私にそつくり針ごと渡した。私にはそれくらゐの針仕事は何でもないことだつたのだ。 ﹁お前えはまあどうしてさう器用だ。うめえな〳〵。女つ子も及ばねえだ。﹂と爺さんは感心して云つた。 ﹁僕は仕立屋に三年も弟子奉公したんですよお爺さん、襦じゆ袢ばんでも洋服でも作つて見せませうか。﹂と私が云ふと爺さんは目を丸くして意外さうに私をまじ〳〵見るのだつた。其の後私は爺さんに紀州ネルを買はしてシャツや、股もゝ引ひきをこしらへてやつた。 ﹁何てお前えは好い腕だらう。お前えにこしらへて貰つたものは大事に着るだよ清公。﹂爺さんはほく〳〵喜んだ。 国の継母が私にわざ〳〵逢ひにやつて来たのは家出後三年目の春だつた。私はもうその時は造船部の職工になつてゐたので、とつくに納屋を引き上げて下宿屋住ひをしてゐた。日給も三十銭以上貰つてゐたので、どうにか自立が出来てゐた。然し毎日の仕事は激しかつた。ハンマを持つよりも重い鉄板を取り扱ふのが毎日の作業だつた。造船職工の仕事の多くは工場外の大空の下で為なすのであつて、冬は寒風に吹き晒さらされ、夏は炎天に照りつけられるのがならひであつた。船体の最も狭苦しい所へ入つて鋲びや打ううちのあてばんをさゝれる苦しさ、さうした作業上の忍苦は、国で継母や父に冷遇される時の辛抱の幾層倍であつたらう。 逢あひに来た継母は云つた。 ﹁まあお前は丈夫で勉強してゐたのねえ。もうどのくらゐ月給を取るやうになつたのだえ。しつかり勉強してよくおなり。お父さんもそれを楽しみにしてゐてだよ。妾わたしもお前がよくなるのを楽しみにして待つてゐませう。﹂継母は猫なで声でさも真実の母らしい風を装ふて、いろいろ見えすいたことを云つた。私はそれを聞いてゐると、むづがゆくて堪へられなかつた。然しかしまた俺にだつてこんな母が国にはあるのだぞとさも継母を誇るやうな誇りをも下宿屋の人達に感じないでもなかつた。彼女はなか〳〵盛装してゐたので、ちよと見ては三十代かと思はれるほど若く美しく見えるのであつた。ルビー入の指ゆび環わや、金の丸打などを両の指に嵌はめ込んでゐたし、小さな婦人持の時計までも帯の間にめてゐた。黒くろ縮ちり緬めんの羽織の着こなしと云ひ、丸まる髷まげの似つかはしさと云ひ、何ど処この奥さんであらう、私さへも見それるほどめかしてゐた。﹁継母よ。お前の為めに家出をしてさん〴〵俺は苦労したのに……。﹂と思ひながらも、旅でかうして出逢つて見ればさすがになつかしい、気がせぬでもなかつた。 例へ実の母でなくともかうした美しい身なりをした女と云ふだけでもちよつと悪い気はしなかつた、卑屈な意味ではあつたが肩味が広いやうにも感じた。翌日は工場長に許しを乞こふて、私は継母をつれて工場の中を見物させたりした。油に汚れた作業衣を着た少年が先に立つて、その黒縮緬の丸髷の奥さん風の婦人を案内してゐるのを多くの職工等は目を丸くして見た。中には彼等特有の卑ひわ猥いな声を浴びせるのもあつた。私は少してれたりした。継母はそれには平気で、小こづ褄まをからげて、はでな長襦袢の蹴け出だしを見せながら私の後からついた。 仲間達は私にそんな立派な母があらうとは予想にだもしなかつたのだ。職工にでもなるものは家が貧しくて親もない人間ばかりのやうに思はれてゐる中に、私がさうした貴婦人まがひの継母を伴つれて工場を見物させてゐるのを彼等は意想外に感じたのは無論であつた。私も此の時だけは継母だと云ふいやな感じをなるだけ自から少くした。さう思ふことは私の此の場合の小さな虚栄心を、かうした立派な母のあると云ふ空虚な誇りとの矛盾を感じなければならなかつたからである。 ﹁お母さん、あれが浮き船ドッ渠クです。﹂私は一々さう説明した。彼女が珍らしさうに目を見張つた。 ﹁まあ。﹂彼女は讃嘆するばかりだつた。今しも石いし垣がきの岸から二人の潜水夫が異様な甲かつ冑ちうを頭にすつぽり冠つて、だぶ〳〵の潜水服を着て、便器のやうな形の大きい靴を履はきながら船渠の底へもぐらうとしてゐる所だつた。既に他の潜水夫は水にもぐつて、したゝか息を吹き上げながら作業をしてゐた。鯨形の水雷艇は次第にその浮船渠の為めに持ち上げられた。エーヤポンがどん〳〵吐き出す海水の量だけ船渠は浮き上がつた。春の日光がキラ〳〵海を輝した。 更に私は毎日自分が仕事をやつてゐる造船工場の方へも伴れて行つて見せた。中心のキールにフレムを取り附けた、組立中の最初の船体を私は手短かに説明して聞かせた。それは丁度撃剣士の被かぶるお面のやうな形であつた。その骨フレムの上から鉄板を張つて、職工達は長柄のハンマで鋲つけにするのであつた。 更に私は機械工場の内部をも覗のぞかせた。そこには多くの旋盤やシカル盤や、ボーリングマシンや、シアーピンやの機械が続いて遠く列ならんで、それ〴〵鉄や真しん鍮ちゆうを削つてゐた。リボンのやうな調べ革はシャフトから機械へと雨のやうにはためき流れてゐた。その次の建物では大きな汽船のエンヂンが幾組も組立てられ、油にまみれた青服を着けた仕上工等は長いヤスリを巧みに使つてゐるのであつた。 ﹁まあほんとに珍らしい物を見せて貰もらつたよ。妾達のやうな女は一生のうちに見られないものばかりでしたよ。﹂と継母は見物してしまつてから嬉うれしさうに云つた。 彼女は翌日汽車で帰つて行つた。 継母が私に逢ひに来たその同じ年の秋、父がひよつこりやつて来た。私が工場から帰つて見ると下宿の主人と酒を飲み合つてゐた。私は誰れだらうと思つたほど父の顔は妙に異ちがつて見えた。私は何故か継母に逢つた時よりも父に対してはぶあいそであつた。私はその一瞬間胸に云ひ知れぬ感じがこみあげて来たのであつた。父もさうらしかつた。私は少し涙さへも出さうになつたがそれを我慢した。 ﹁お父さんがいらつしやいました。さあ、あなたも此所へおいでなさらう。﹂と下宿の主人夫婦は私の心も知らずに云つた。 ﹁長崎まで用があつて行つたから、ついでにやつて来たんだよ。お前は達者でやつてゐたねえ。﹂と父は云つた。 ﹁え……。﹂と私はそれ以上云へなかつた。私は強しひて父にぶあいそをする気はなかつたが、下宿の主人の手前私は言葉を控へ目にしたのである。 夜になつて親子は宿を出て街へ行つた。歩きながらぼつ〳〵話した。父は長崎の旅館で泥棒に逢つたことなどを話した。 ﹁帯をやられたよ。然し大抵見当がついてるのでその内に出るぢやらうと警察で云つた。お前にやる積りの懐中時計が無事だつたからよかつたよ。それ、これはお前にやるから持つてゐて好い。﹂と父は歩きながら私に銀側の懐中時計をくれた。私はいらないと云つて突き返したいやうな悲痛なる衝動を感じながらも﹁ありがたうございます。﹂といたゞいて受けた。父からこんな愛情を今更見せられて、それを平気で受けると云ふことは自分の家出以来の苦労を無意義にするやうな感じもした。その実私は逢ひに来てくれた父を心からいとほしくも涙ぐましいほど感謝せずにゐられなかつた。それにだん〳〵話をしてゐる間に私には読めたのであるが、長崎へ行つたのは別に所用があつたのではなく、何事か継母との間に面白くないことがあつて、その気晴しの積りと、且つは私に久しぶりに逢ひたい気持もあつて、何処へ行くとも知らさず、家を出て来たらしい父の様子が、私を一層センチメンタルな心持にした。 私の継母は既に長年の間内証の貯金を肥やすことにのみ努めてゐることは親類中に知れてゐた。それ故ゆゑ父は店の計算の上に合がて点んの行かぬ穴を見出すのが常であつた。それも少々のことは黙過したが、今度のことは我慢がならずにひと悶もん着ちやく起したのらしいが、かしこい継母は巧みに言ひぬけたに違ひないのであつた。 ﹁どうも困つたあまだ。﹂と父は私に云つた。父のさう云ふ訴へは多少私の歓心を得る為めのやうでもあつた。なまなか後妻と妥協して、而しかも絶えずその後妻に裏切られながら、唯ひとりの長男を旅の空で苦労させてゐると云ふことは、いろ〳〵の意味で自身の心を暗くし、寂びしく不安にし、世せけ間んて態いを恥づる気持にまでもならせるに違ひなかつた。 さう思ふと私は父をいたはりたい気持でいつぱいになつた。 ﹁どうだ、お前は何かほしいものがあるなら云ふが好い。これから寒くなるからメリヤスシャツでも二三枚かつてやらう。﹂父は勧くわ商んし場やうばの前まで来るとさう云つた。 ﹁シャツは持つてるからいりません。﹂私は何故か父に買はせたくなかつた。 ﹁どうだらう。お前が今一緒にゐる下宿人達に私から手てぬ拭ぐひか煙たば草こでもやるがよくはないかの。﹂ ﹁そんなことをしなくても好いです。﹂ ﹁まあタオルでもやることにせう。﹂と父はさう云つて、勧商場のある店でタオルを買つた。それからスコッチのメリヤスシャツや、鳥打帽子や、半靴などを自分で勝手に見立て私に買つてくれた。 その勧商場をぬけた所にレストーランがあつた。父は私をそこに伴つれ込んだ。そしていろ〳〵洋食を命じた。父はビールをさかんに飲んだ。一方の室にある球たま突つき台だいが丁度空あいてゐたので、父は私と球を突いて見ようと云ひ出した。私も仕方なしに承知して、親子はしたゝか拙まづいゲームをやつてボーイを笑はせたりした。 翌日は父を伴れて善作さんの家へ出かけた。父はそこで私の世話になつたことについて善作さん一家に厚く礼を云つてくれた。 私にとつて父は矢張真実の愛情を持つてゐる父らしい父であつた。私は幼年時代に記憶してゐるやさしい愛情に満ちた善良な父を久しぶりに見ることが出来た。私の父に対する反抗心は何処へか一時消えてしまつて、やるせない真実の愛慕がそれと入り代つた。私は父と別れるのは何となく悲しかつた。父は二晩泊つて立つた。 ﹁いつまでもお前が旅にゐては俺も気になるから、いづれ家へ帰つて俺の代りをしてくれる考へでをつてくれにやならんて。﹂と父は別れ際に云つた。私はそれには黙つて答へなかつた。 ﹁帰つてなるものか……。﹂さうは思ひながら、また父が気の毒でもあつた。実際私はもう国へ帰つて父の家業を手伝ふと云ふ気にはなれさうもなかつた。それは此の上父を故意に心配させ、困らせたいなどと云ふ気はなかつたけれど、私は既に或る一群の思想ある放浪職工等に親しんで将来の行動を共にすべく堅く誓つてゐたのであつた。それは目ざめたる職工の仲間であつた。私もその一人であつた。もう私には父や故郷を顧み慕ふてゐるひまはなかつたのだ。 其その翌年、私は或る同志に加はる為めに関西へ飛び出した。それからのことは、あらためて他日発表するであらう。 ︵大正八年九月︶