長ちょ吉うきちは学がっ校こうの課かも目くの中うちで、いちばん算さん術じゅつの成せい績せきが悪わるかったので、この時じか間んにはよく先せん生せいからしかられました。先せん生せいというのはもう四十五、六の、頭あたまのはげかかった脊せいの低ひくい人ひとでありました。長ちょ吉うきちは朝あさ学がっ校こうへゆきます前まえに時じか間ん割わりを見みまして、自じぶ分んの好すきな作さく文ぶんや、歴れき史しの時じか間んなどがあって、算さん術じゅつの時じか間んがない日ひには、なんとなく学がっ校こうへゆくのが楽たのしみで、またうれしくて勇いさんで家いえから出でてゆくのでありましたが、もしその日ひに算さん術じゅつの時じか間んがあったときは、なんとなく気き持もちが重おもくて、おもしろくなくて、ゆくのがいやでたまらなかったのです。 彼かれは学がっ校こうの先せん生せいからも、また両りょ親うしんからも、 ﹁おまえは算さん術じゅつができないから、よく勉べん強きょうしなくちゃいけません。それでないと学がく年ねん試しけ験んには落らく第だいします。﹂ といわれるので、長ちょ吉うきちも落らく第だいしてはならないと思おもって、家うちへ帰かえってからも、その日ひ学がっ校こうで習ならってきた算さん術じゅつはかならず復ふく習しゅういたしました。しかし、よくよく性しょ分うぶんから算さん術じゅつがきらいとみえて、まったく覚おぼえこみもせず、すぐに忘わすれてしまって、なにがなんであったかわからなくなってしまいました。 彼かれは独ひとりで、ほかの友ともだちらは、みなそうとうに算さん術じゅつができるのに、なぜ自じぶ分んばかりはこうできないのかと情なさけなくなって、机つくえに向むかって涙なみだをこぼしましたこともありました。けれど、作さく文ぶんや歴れき史しなどは好すきなものですから、だれよりもいちばんよくできたのでありました。 もうじきに冬ふゆの体やすみがくるのでした。そろそろ学がっ校こうでは試しけ験んが始はじまりました。算さん術じゅつは平へい常じょうの点てん数すうが試しけ験んに関かん係けいしますので、みないっしょうけんめいに勉べん強きょうをいたしました。家いえの外そとには雪ゆきが二、三尺じゃくも積つもっていました。そして子こど供もらは、学がっ校こうから帰かえると外そとに出でて雪ゆき投なげをして遊あそんだり、角すも力うを取とったりした。雪ゆきだるまなどをこしらえて遊あそんだりして、夜よるになると燈あか火りの下したで机つくえに向むかって、明あくる日ひの学がっ校こうの課かも目くを勉べん強きょうしたのであります。今きょ日うも長ちょ吉うきちは学がっ校こうから帰かえると、自じぶ分んのへやに入はいって机つくえの前まえにすわって物もの思おもいに沈しずんでいました。外そとは雪ゆきが晴はれていて、子こど供もらがみんなさもうれしそうにして遊あそんでいる、その声こえが聞きこえてきます。また凧たこを上あげている籐とうのうなり声ごえなどが聞きこえてきました。長ちょ吉うきちは自じぶ分んも外そとに出でて、友ともだちの仲なか間まに入はいって遊あそびたいのでありますが、明あ日すは算さん術じゅつの宿しゅ題くだいがある日ひなので、まだそれがしてないので、どうしても外そとに出でて遊あそぶ気きになれなかったのであります。 すると友ともだちが門かど口ぐちへ迎むかえにやってきて、 ﹁長ちょうさん、遊あそびませんか？﹂ と、つづけざまに呼よんでいます。 ﹁長ちょ吉うきちや、お友ともだちが呼よんでいらっしゃるから、すこし外そとへ出でて遊あそんできて、また勉べん強きょうをしなさい。﹂ と、母ははがいいました。 長ちょ吉うきちは思おもいきって外そとへ出でてゆきました。けれど、みんなといつものようにいっしょになって、愉ゆか快いに遊あそぶ気き持もちになれませんでした。彼かれは独ひとり雪ゆき路みちの上うえに立たって、茫ぼん然やりとして友ともだちらが角すも力うを取とったり、雪ゆきを投なげ合あっているのを見みていたばかりです。 ﹁長ちょうさん、角すも力うを取とらないか。﹂ と、一ひと人りが彼かれに向むかっていいました。 ﹁いやだ。﹂ と、彼かれはくびを振ふりました。 ﹁どこか気きぶ分んが悪わるいのかい。﹂ と、ほかの一ひと人りが、さも心しん配ぱいそうな顔かおつきをして彼かれの顔かおをのぞきこみました。彼かれは黙だまっていました。ほかの子こど供もらは長ちょ吉うきちが気きぶ分んが悪わるいのだと思おもって、ふたたび彼かれに角すも力うを取とる仲なか間まに入はいれと誘さそわなかったばっかりでなく、あまり気きぶ分んの悪わるい友ともの前まえで大おおきな声こえを出だして騒さわぐのはよくないと思おもって、みんなは遠えん慮りょをして遊あそんだのでありました。 冬ふゆの日ひはじきに暮くれかかって、かなたの黒くろいすぎ林ばやしの頭あたまに寒さむい西にし北きたの風かぜが吹ふいて、動うごいているのを見みていますと、またちらちらと雪ゆきが落おちてきました。いままで、家うちに帰かえるのを忘わすれて手てあ足しの指ゆび頭さきを真まっ赤かにして遊あそんでいた子こど供もらは、いつしかちりぢりに別わかれて各めい自めいの家うちへ帰かえってしまいました。そして、外そとはまったく人ひと影かげも消きえて、静しずかになってしまいました。 長ちょ吉うきちはその夜よも机つくえに向むかって算さん術じゅつの宿しゅ題くだいを勉べん強きょういたしましたけれど、どうしても答こたえができなくて考かんがえていますうちに眠ねむくなって、ついに寝ねてしまいました。明あくる日ひ学がっ校こうへいってからも算さん術じゅつの時じか間んになるのが気きにかかって控ひかえ場じょうにみんなが遊あそんでいるときでも、長ちょ吉うきちは独ひとりふさいでいました。午ごぜ前んには体たい操そうや、地ち理りや、習しゅ字うじの時じか間んがあって、午こ後ごからはいよいよ算さん術じゅつの時じか間んがあるのでした。 彼かれは今きょ日うはどうか自じぶ分んにあたらなければいいがと心こころのうちでそればかり祈いのっていました。やがてその算さん術じゅつの時じか間んとなりました。教きょ師うしは手てに白チョ墨ークと平へい素そて点んを記きに入ゅうする手てち帳ょうとを持もって教きょ室うしつに入はいってきました。いままでがやがやといっていました教きょ室うしつの中なかは、急きゅうに火ひの消きえたように寂ひっ然そりとなりました。やがて級きゅ長うちょうが礼れいをかけてみんながおじぎをしますと、先せん生せいは、じろりと壇だんの上うえに立たってこっちを見みまわしました。みんなの胸むねの中なかはどきどきしたのです。 ﹁宮みや川がわさん、出でて、宿しゅ題くだいの一番ばんめをお書かきなさい。﹂ と、先せん生せいは大おおきな声こえでいいました。呼よばれた生せい徒とは頭あたまをかきかき出でていって、黒こく板ばんにそれを書かきました。 ﹁みなさん、これでよろしいですか。﹂ と、先せん生せいは、はげかかった頭あたまを光ひからして、眼めが鏡ねごしにこっちを見みました。 ﹁よろしゅうございます。﹂ と、みんながいいました。 ﹁さよう、これでよろしい。﹂ と、先せん生せいはいって、宮みや川がわの姓せいが書かいてあるところへ手てち帳ょうに点てん数すうを書かき入いれました。 ﹁今こん度どは……。﹂ と、先せん生せいはいって、また一同どうをじろじろと見みまわしました。長ちょ吉うきちは心こころのうちでどうか自じぶ分んはのがれてくれればいいがと、くびをすくめていました。 ﹁吉よし田ださん、出でて、第だい二番ばんめをお書かきなさい。﹂ と、先せん生せいはいいました。長ちょ吉うきちはやっと自じぶ分んでなかったので安あん心しんしましたが、吉よし田だと呼よばれた生せい徒とと自じぶ分んとはわずかに二、三人にん間あいだを隔へだてているくらいでありましたから、なんとなく脱のがれがたいような気きがして胸むねがどきどきいたしました。吉よし田だはぐずぐずしてすぐに出でていかなかったので、いっそう長ちょ吉うきちは気きがいらいらして、もし自じぶ分んにあたったらどうしよう、このまえのときも自じぶ分んはできなかったのだから、きっとしかられるに違ちがいがないと気きをもんでいました。それでもついに吉よし田だは出でてゆきました。そして黒こく板ばんに答こたえを書かきました。それは滞とどこおりなくできていたので、吉よし田だの顔かおは華はなやいでうれしそうでありました。 ﹁今こん度どは……第だい三番ばんめを、中なか村むらさん、出でてお書かきなさい。﹂ と、俄がぜ然ん、先せん生せいの命めい令れいは、長ちょ吉うきちの頭あたまの上うえに落おちたのであります。彼かれの耳みみは焼やけるように熱あつくなって、急きゅうに血ちが上のぼって顔かおは赫かく々かくとなりました。彼かれは出でても書かけなかったから、いつまでもぐずぐずしていました。すると、 ﹁さあ、早はやくおいでなさい。あなたは、してこなかったのでしょう。このまえのときもしなかったじゃありませんか。﹂ と、先せん生せいは、かんしゃくを起おこしていいました。けれど長ちょ吉うきちは下したを向むいて、黙だまっていてついに出でなかったのです。 ﹁よろしい。今きょ日うは帰かえってはいけませんよ。後あとにお残のこんなさい。﹂ と、先せん生せいは怒おこった声こえでいいつけて手てち帳ょうになにか書かき入いれました。 長ちょ吉うきちは、もうしかたがなかったのです。心こころのうちで祈いのったことがなんの役やくにも立たたなかったのです。そしてその日ひは、ほかの生せい徒とらが勇いさんで帰かえってしまったにかかわらず、独ひとり教きょ室うしつに残のこっていたのです。広ひろい教きょ場うじょうの中なかに、ただ自じぶ分んひとりぎりになると急きゅうに四あた辺りが寒さむく、わびしくなって見みえました。いままでそこには知しった顔かおがあったのが、まったく空くう漠ばくとなって机つくえだけがならんでいるばかりです。そしてうす濁にごったように曇くもったガラス窓まどをとおして外そとを見みますと、灰はい色いろの寒さむそうな空そらが低ひくく垂たれ下さがっていて、一面めんに下したには雪ゆきが積つもっているのでした。 だんだん時ときがたつに従したがって、長ちょ吉うきちは心ここ細ろぼそくなってきました。そして、いまごろお母かあさんは自じぶ分んの帰かえりが遅おそいからどんなに心しん配ぱいしていなさるだろうと思おもいますと、かえって自じぶ分んは気きが気きでなかったのです。そのとき、寒さむい風かぜに吹ふかれてどこからともなく、からすが一羽わ飛とんできて、窓まどぎわに立たっていたかきの木きの枯かれ枝えだに止とまりました。そして小こくびをかしげてこちらをのぞいて、 ﹁あほう、あほう。﹂ とあざけるようにないて、またいずこへとなく飛とび去さってしまいました。長ちょ吉うきちはもはや胸むねの中うちが悲かなしみでいっぱいでしたから、これに対たいして怒おこる気きにもなれませんでした。彼かれはただ母はは親おやがどう思おもって心しん配ぱいなさっているだろうかと、そればかり考かんがえていたのです。 からすが飛とび去さった後のち、まもなくすずめが二、三羽ばやはり同おなじ枝えだにきて止とまって、窓まどの内うち側がわをのぞくようにしてないていました。しかしそれは、なんとなく哀あわれな長ちょ吉うきちの心こころのうちを知しって、それに対たいして同どう情じょうしているように思おもわれましたので、長ちょ吉うきちは窓まどのきわへいって、すずめのほうに顔かおを寄よせて、 ﹁お母かあさんのところへいって、私わたしは今きょ日う算さん術じゅつができなくて残のこされたからといっておくれ。﹂ と、小こご声えで切せつに頼たのんだのでありました。すずめはさながらこの依たの頼みを聞きき分わけたように、やがて小こご声えにないて、いずこへか飛とび去さってしまいました。するとほどなく先せん生せいがこの教きょ場うじょうに入はいってきました。長ちょ吉うきちは先せん生せいの前まえへ呼よび出だされた。 ﹁あなたは勉べん強きょうしないんでしょう。勉べん強きょうをしてわからない道どう理りがない。﹂ と、先せん生せいはいいました。長ちょ吉うきちは、いったいだれがこの算さん術じゅつの法ほう則そくを考かんがえ出だして作つくったものか、よほどその人ひとは偉えらい人ひとであると同どう時じに迷めい惑わくなことを考かんがえたものだ。それがために自じぶ分んは、こんなに苦くるしまなければならぬのだと思おもいました。 ﹁先せん生せい、あなたが算さん術じゅつというものをお作つくりになったのですか。﹂ と、長ちょ吉うきちは突とつ然ぜん、先せん生せいに問といました。先せん生せいは驚おどろいたというふうで、 ﹁いいや、私わたしが作つくったのではない、前まえからできていたのだ。﹂ と、低ひくい体からだを動うごかしながらいいました。 ﹁先せん生せい、なんでもうすこし容たや易すく道どう理りがわかるように、その人ひとは算さん術じゅつを作つくらなかったのでしょうか。私わたしには、むやみに暗あん誦しょうしたり、法ほう則そくを覚おぼえてしまうことができないのです。﹂ と長ちょ吉うきちは、先せん生せいに向むかって訴うったえるごとくいいました。 ﹁おまえばかりではない、みんながそれを覚おぼえて、りっぱにできるじゃないか。それをできないのは、やはりおまえが勉べん強きょうせんからなんだ。﹂ と、先せん生せいはかえって長ちょ吉うきちをしかりました。 長ちょ吉うきちはやっと免ゆるされてその日ひの暮くれ方がた学がっ校こうの門もんを出でたのでありました。彼かれは路みちを歩あるきながら、算さん術じゅつや、暗あん誦しょうなどのない、すずめの世せか界いやからすの世せか界いがつくづく恋こいしくうらやましかったのであります。そして、なんで自じぶ分んはすずめに生うまれてこなかったろうかと思おもいました。彼かれは先さっ刻き、学がっ校こうの窓まどのところですずめに向むかって、お母かあさんに伝こと言づけをしてくれるようにと切せつに頼たのんだが、なにかいってくれたかしらと思おもいながら家いえに帰かえってきました。すると、母はは親おやは、たいへんに長ちょ吉うきちの帰かえりが遅おそいので心しん配ぱいして門かど口ぐちの雪ゆきの上うえに立たって待まっていました。そして我わが子この顔かおを見みると、 ﹁まあ、どうしてこんなに遅おそくなったのだ、日ひが暮くれるじゃないか。﹂ と、飛とび立たつように聞ききました。長ちょ吉うきちは、心こころの中うちで、そんならあれほど頼たのんだのに、すずめはなんにも、きてお母かあさんに告つげてくれなかったのかと思おもい、つくづく鳥とりなどというものは真しんにつまらないものだ。やはり人にん間げんばかりがいちばん偉えらいのだということを感かんじたのであります。