一
それは、広ひろい、さびしい野のは原らでありました。町まちからも、村むらからも、遠とおく離はなれていまして、人にん間げんのめったにゆかないところであります。 ある石いし蔭かげに、とこなつの花はなが咲さいていました。その花はなは、小ちいさかったけれど、いちごの実みのように真まっ紅かでありました。花はなは、目めを開あけてみて、どんなに驚おどろいたでありましょう。 ﹁なんという、さびしい世せか界いだろう。﹂と思おもいました。 どこを見みましても、ただ、草くさが茫ぼう々ぼうとしてしげっているばかりで、目めのとどくかぎりには、友ともだちもいなければ、また、自じぶ分んに向むかって呼よびかけてくれるようなものもありませんでした。すぐ、自じぶ分んのそばにあった、黒くろみがかった石いしは黙だまり込こんでいて、﹁寒さむいか。﹂とも、また﹁さびしいか。﹂とも、声こえをばかけてくれません。 小ちいさな、気きの弱よわいとこなつの花はなは、どうして自じぶ分んから、この気きご心ころのわからない、なんとなく気きむずかしそうに見みえる石いしに向むかって声こえをばかけられましょう。 花はなは、独ひとりでふるえていました。ただ、やさしい眸ひとみで、自じぶ分んをいたわってくれるのは、太たい陽ようばかりでありました。しかし、太たい陽ようは、自じぶ分んひとりだけをいたわってくれるのではありません。この広ひろい野のは原らにあるものは、みんな、そのやさしい光ひかりを受うけていたのです。この石いしも、また、こちらの脊せの高たかい草くさも、その光ひかりを浴あびました。そして、それをありがたいともなんとも思おもっていないように平へい気きな顔かおつきをしていました。しかし、太たい陽ようは、けっしてそれに対たいして気きを悪わるくするようなことがなく、平びょ等うどうに笑えが顔おをもってながめていました。 とこなつの花はなは、自じぶ分んだけが、とくに恵めぐまれたわけではないけれど、太たい陽ように対たいして、いいしれぬなつかしさを感かんじていたのです。そして、どうかして、すこしでも長ながく、太たい陽ようの顔かおをながめていたいものだと願ねがっていました。しかし、この高こう原げんにあっては、それすらかなわない望のぞみでありました。たちまち、白しろい雲くもが渦うずを巻まいて、空そらを低ひくく流ながれてゆきます。それは、すぐに太たい陽ようを隠かくしてしまうばかりでなく、あるときは、まったくそのありかすらわからなくしてしまうのでありました。 花はなは、この雲くもの出でることをいといました。しかし、そばにあった石いしや、あちらの強つよそうな脊せの高たかい草くさは、平へい気きでありました。花はなは、まだ、この雲くもは我がま慢んもできましたけれど、寒さむい風かぜと雨あめと、そして、息いきのつまるような濃こい、冷つめたい、霧きりとを、どんなにおそれたかしれません。 ﹁ああ、あの冷つめたい、身みを切きるような、霧きりの出でないようにはならないものか。﹂と、花はなは、しばしば、空くう想そうしたのであります。 けれど、自しぜ然んの大おおきな掟おきては、この小ちいさい、ほとんど目めに入はいるか入はいらないほどの花はなの叫さけびや、願ねがいでは、どうなるものでもなかった。そして、夜よるとなく、昼ひるとなく、深ふかい谷たに底そこからわき起おこる霧きりは転ころがるように、高たかい山さん脈みゃくの谷たに間まから離はなれて、ふもとの高こう原げんを、あるときは、ゆるゆると、あるときは、駆かけ足あしで、なめつくしてゆくのでした。 その霧きりのかかっている間あいだは、花はなは、うなされつづけていました。毒どくのある針はりでちくちく刺さされるような痛いたみを、柔やわらかな肌はだに感かんじたばかりでなく、息いき苦ぐるしくなって、しまいには酔よったもののように、頭あたまが重おもくなって、足あしもとがふらふらとして起たっていられなくなるのでした。そして、全ぜん身しんに悪おか感んを感かんずるのでありました。 霧きりが去さった後あとは、風かぜに吹ふかれてぼたぼたと滴したたるしずくの音おとが、この広ひろい野のは原らに聞きかれました。しかし、この苦くつ痛うは、この野のは原らに生おい立たつすべての草くさや、石いしや、木きの上うえにかかる運うん命めいでありました。せめても、とこなつの花はなは、そう思おもって、あきらめているのでありました。かたわらの石いしや、あちらの脊せの高たかい草くさは、たとえ風かぜに吹ふかれても、霧きりにぬれても、平へい気きな顔かおつきをしていたのです。花はなは、それをうらやましくも、またのろわしいことにも思おもいました。二
珍めずらしく、空そらの晴はれた日ひでありました。山やまの頂いただきから高こう原げんにかけて、澄すみわたった大おお空ぞらの色いろは、青あおく、青あおく、見みられたのです。 とこなつの花はなは、頭あたまを上あげて、じっと太たい陽ようの光ひかりに見み入いっていました。このとき、青あおい空そらをかすめて、どこからともなく、一羽わの鳥とりが飛とんできました。最さい初しょは、ほんの黒くろい点てんのように見みえたのです。そして、だんだんその姿すがたがはっきりと見みえました。けれど、それは、高たかく、高たかくて、鳴ないている声こえすら、とこなつの花はなのところまでは、かろうじて聞きこえてきたほどであります。 ﹁どこへあの鳥とりは飛とんでゆくのであろう? そして、あんなに自じゆ由うに。﹂と、花はなは、真まっ紅かの花はなびらを、風かぜにふるわせながら独ひとり言ごとをいっていました。 すると、その鳥とりの姿すがたは、ますます、近ちかくなってきたのであります。花はなは、それを見みて不ふ思し議ぎに思おもっていました。どうして、あの旅たびの鳥とりは、こんなにさびしい殺さっ風ぷう景けいな野のは原らに下おりるのだろう? とにかくあの鳥とりは、この野のは原らに下おりようと思おもっているのだと考かんがえました。 小こと鳥りは、はたして、花はなの思おもったように、野のは原らに下おりました。しかも、すぐ花はなの咲さいている石いしの上うえにきて止とまったのであります。 この思おもいがけない、まったく理りか解いされないできごとに、花はなはどんなにか驚おどろいたでありましょう。花はなは、つくづくとはじめて見みる敏びん捷しょうそうな渡わたり鳥どりの、きれいな羽はねの色いろと、黒くろい光ひかった目めと、鋭するどいとがったつめとをながめたのであります。すると、小こと鳥りはくびをかしげて、かえって花はなよりも熱ねっ心しんに花はなを見みつめているのでありました。 ﹁あなたは、なにを探さがしに、この野のは原らへお下おりになったのですか。﹂と、花はなはたずねました。 このとき、無むと頓んち着ゃくな石いしは、黙だまって眠ねむっていました。小こと鳥りは、その石いしの頭あたまで、くちばしを磨みがきました。そして、花はなを見みま守もって、 ﹁私わたしは、あなたを見みつけて、わざわざこの野のは原らに下おりたのであります。﹂と、答こたえました。 花はなは、恥はずかしい気きがして、これをきくと、黙だまってうなだれていました。すると、小こと鳥りは、言こと葉ばをつづけて、 ﹁ほんとうにさびしい原はらであります。どこを見みまわしても、赤あかい花はなの姿すがたを見みないのです。私わたしは、ただ、あなたの姿すがたを見みつけたばかりにここへ下おりてきました。﹂ ﹁私わたしは、あちらから飛とんできた鳥とりです。この青あおい、空そらの下したを、山やまを越こえて旅たびをしてきました。そして空そらの下したに、身みにしみるような悲かなしい、赤あかいあなたの姿すがたを見みつけたのです。どうか、それについての私わたしの話はなしを聞きいてください。﹂ ﹁私わたしは、海うみや、山やまや、町まちの上うえを旅たびして、あてなく空そらのかなたから、かなたの空そらへと飛とんでゆく鳥とりであります。悲かなしいことも、さびしいことも、数かずあまりあるほどのいろいろなめに遇おうてきました。そのなかで、いまでも、この青あおい空そらの色いろを見みるにつけて思おもい出ださるるのは、北きたの海うみの上うえを幾いく日にちも航こう海かいしたときのことであります。あるときは、岸きしの上うえに、あるときは、人ひとの住すまない島しまに、また、あるときは、船ふねのほばしらの上うえに、身みを休やすめたのでありました。そして、くる日ひも、つぎにくる日ひも、見みるものは、青あおい、海うみの色いろばかりでありました。﹂ ﹁そんなときに、遠とおくゆく、船ふねのほばしらの頂いただきに、赤あかい旗はたのなびくのを見みて、私わたしは、どんなに悲かなしく、なつかしく思おもったでしょう。私わたしは、いまあなたの姿すがたを見みて、北ほっ海かいが恋こいしくなりました。あなたの姿すがたは、あの船ふねのほばしらの頂いただきに、潮しお風かぜに吹ふかれて、ひるがえる赤あかい旗はたのように、私わたしの胸むねの血ちし潮おをわかせます。あなたがこのさびしい野のは原らに、こうしてひとりで頼たよりなく咲さいていられるのは、あの旗はたが、荒あら々あらしい、北ほっ海かいの波なみの間あいだにひらめくのと同おなじだと考かんがえられるのです。あなたは、さびしくはありませんか。﹂ かく、小こと鳥りは語かたりました。とこなつの花はなは、いつしか涙なみだぐましいまでに哀かなしさを自みずからの心こころにそそられました。そして、頭あたまをもたげて身みのまわりをながめると、あちらの脊せの高たかい強つよそうな草くさは、無むし神んけ経いに、いつもと変かわらず平へい気きな顔かおつきをしているのでありました。三
とこなつの花はなは、渡わたり鳥どりから、いろいろ世よの中なかの有あり様さまをききました。世よの中なかというものは、かぎりなく広ひろい。そして、こんなさびしい、頼たよりないところばかりが、世よの中なかでないこともきかされたのであります。 小こと鳥りの話はなしによると、よく自じぶ分んの運うん命めいにも似にているといった、船ふねのほばしらの頂いただきの赤あかい旗はたは、潮しお風かぜにさらされたり、雨あめや、風かぜに打うたれて色いろがあせたり、波なみのしぶきによって、黒くろく汚よごれが染しみ出でても、それでも幾いく日にちめか、幾いく月つきめか、海うみの上うえに漂ただよった暁あかつきには、燈とも火しびの美うつくしい、人ひと影かげが動うごく、建たて物ものの櫛しっ比ぴした、にぎやかな港みなとに入はいってきて、しばらくはおちつくことができるのだと知しられました。 それにくらべて、なんという自じぶ分んは不ふこ幸うな境きょ遇うぐうであろう。このまま永えい久きゅうに、この野のは原らにいなければならないのかと考かんがえました。花はなはもうじっとして、それにたえていることができませんでした。そこで、とこなつの花はなは、小こと鳥りに頼たのんだのであります。 ﹁あなたは、わたしをかわいそうとは思おもわれませんか。もし、このままいつまでもここにいたら、わたしは、さびしさと悲かなしさのために気きがふさいで死しんでしまいます。どうか、わたしをにぎやかなところへ連つれていってください。﹂と、花はなはいいました。 鳥とりは、花はなのいうことを聞きいていました。 ﹁小ちいさな赤あかい花はなさん、あなたのお歎なげきは、もっともだと思おもいます。しかし、この世よの中なかはどこへいっても、頼たよりなさと悲かなしいことから、だれでも救すくわれることはないのであります。ここにおちついておいでなさい。私わたしは、またいつかこの空そらを通とおるときに、かならず下おりてあなたをなぐさめてあげましょう。そして、いろいろこの世よの中なかで見みてきたおもしろい話はなしをしてあげます。あなたは、それをお聞ききになれば、見みたと同おなじく感かんじられるでありましょう。もし、また私わたしが、どんなことで、ふたたびここにくることができなくとも、旅たびする鳥とりの中なかで、私わたしとおなじ心こころをもつ鳥とりが、きっと、あなたを見みつけて下おりてくるでありましょう。その鳥とりは、私わたしのように、やさしくいって、あなたをなぐさめるでありましょう。それをたのしみに、あなたは、このさびしいところに、我がま慢んをしなければなりません。﹂と、小こと鳥りは答こたえました。 ﹁小こと鳥りさん、それは無む理りではありませんか。わたしは、この世せか界いじゅうが風かぜの寒さむく、霧きりの深ふかいところと思おもっていました。そして、なぜこんな世よの中なかに生うまれてきたろうとうらんでいました。それを、いまあなたから、にぎやかな街まちや、にぎやかな村むらの話はなしをききました。この世せか界いは、けっしてこれだけでないことを知しりました。どうか、わたしをにぎやかな町まちの方ほうへ連つれていってください。わたしはただ一ひと目めなりと明あかるい、にぎやかな世せか界いを見みましたら、死しんでもいいと思おもいます。﹂と、花はなは、重かさねて頼たのんだのであります。 ﹁なにが、あなたの幸こう福ふくになるか、また、不ふしあわせになるかわかりません。﹂と、鳥とりは、すぐに花はなの願ねがいをばきき入いれませんでした。 ﹁小こと鳥りさん、しかし、霜しもが降ふり、雪ゆきが積つもる前まえに、わたしは死しんでしまわなければならない身みの上うえです。あなたは、わたしが、さびしい荒あれはてた土と地ちで枯かれてしまうのが、あたりまえの運うん命めいであるとお考かんがえなさるのですか? どうか、わたしをにぎやかな町まちへ連つれていってください。あなたのお力ちからで、それができると思おもいます。﹂と、花はなはいいました。 ﹁私わたしは、あなたをにぎやかな町まちへ連つれてゆくことができます。そして、安あん全ぜんなところに、あなたを置おくこともできます。ただ、それが、ほんとうにあなたを、幸こう福ふくにさせるか、不ふしあわせにさせるか知しらないのです。﹂と、小こと鳥りは答こたえました。 小こと鳥りは、とこなつの花はなが無む理りに頼たのむのを断ことわりかねて、ついに承しょ知うちをいたしました。小こと鳥りは鋭するどいくちばしで土つちを掘ほって、花はなをくわえて、地ちから離はなしますと、そのまま高たかく空そらに舞まいい上あがりました。花はなは、目めをまわしていました。小こと鳥りは、長ながい間あいだ飛とんで、その日ひの晩ばん方がた、にぎやかな町まちに着ついて、公こう園えんに下おりると、花はなを花かだ壇んのすみに植うえたのでした。四
小こと鳥りは、おびえた花はなを公こう園えんの花かだ壇んのすみのところに植うえますと、花はなを顧かえりみて、 ﹁さあ、あなたのお望のぞみのところへ連つれてまいりました。ここはちょうど人にん間げんの歩あるくところも見みえれば、また話はなし声ごえもよく聞きこえます。そして、ここにいれば安あん心しんなのです。あなたは、これからいろいろと世よの中なかの不ふ思し議ぎなことを知しることができます。私わたしは、ここへ二度どとあなたをおたずねするか、どうかはわかりません。あなたは幸こう福ふくにお暮くらしなさいまし。﹂と、うす暗くらがりの中なかから、やさしい、悲かなしい声こえで、小こと鳥りはいいました。 公こう園えんの木こだ立ちは、青あお黒ぐろい、夜よの空そらに立たっていました。細こまかな葉はが、かわいらしい、清きよらかな歯はを見みせて笑わらっているように、微びふ風うに揺ゆらいでいました。花はなは、あたりのようすがまったく変かわってしまったのを知しりました。あのさびしい、うす寒さむい高こう原げんから、永えい久きゅうに別わかれてしまったことが疑うたがわれるような、そして、そういうことはあり得えないような、ただなんとなく、おちつきのない気き持もちでいましたから、小こと鳥りに対たいして、十分ぶんのお礼れいや、お別わかれの言こと葉ばすらいうことを忘わすれてしまいました。 ﹁さようなら。﹂と一ひと声こえいい残のこして、小こと鳥りの影かげは、いずこへともなく飛とび去さってしまいました。 花はなは、不ふあ安んな、悩なやましい一夜やを送おくりました。しかし、花はなは、﹁ついに憧あこがれていたところへきた。﹂と考かんがえると、急きゅうに、いきいきとした気き持もちになるのでした。そのうちに、夜よがほのぼのと白しらんで、太たい陽ようが上あがった。このとき、花はなは、どんな光こう景けいをながめたでありましょう。 その日ひから、この花はなの生せい活かつは、一変ぺんしたのでした。花かだ壇んには、赤あかや、黄きや、紫むらさきや、白しろや、さまざまな色しき彩さいの花はなが、いっぱいに咲さいていました。とこなつの花はなは、それらの花はなをいままで見みたことがありません。みんな自じぶ分んよりは、脊せが高たかくて、いい匂においのする美うつくしい花はなばかりでありました。どうして、こんなに、いろいろな花はながここに植うわっているのだろうと怪あやしみました。あるとき、みつばちが飛とんできて、頭あたまの上うえをゆき過すぎようとして、また立たちもどって、とこなつの花はなに止とまりました。 ﹁なんという、いじけた小ちいさい花はなだろう。ろくろくこの花はなには、みつもありゃしまい。いったいおまえさんは、どこからきたのですか?﹂と、みつばちはたずねました。 とこなつの花はなは、みつばちのさげすむようないい方かたに対たいして腹はらをたてたけれど、忍にん耐たいをして、 ﹁わたしは、遠とおい、高こう原げんに生うまれて、そこで、雨あめや、風かぜや、霧きりにさらされて咲さいていました。﹂と答こたえました。 ﹁だれが、おまえさんをここへ連つれてきたのですか、私わたしは、毎まい日にち、この花かだ壇んの上うえを飛とびまわって、ここに咲さいているたくさんな花はなの一つ一つをみまっているのですが、つい、おまえさんのお姿すがたを見みつけなかった。﹂と、みつばちはいいました。 ﹁名なも知しらない旅たびの鳥とりが、わたしをここへ連つれてきてくれました。﹂と、花はなは答こたえました。 とこなつの花はなは、このとき、あの霧きりの深ふかい、うす寒さむい風かぜの吹ふいた、さびしい高こう原げんを思おもい出だしたのです。そして、あの高こう原げんにいたころは、どんなに、この小ちいさな赤あかい、自じぶ分んの姿すがたが、美うつくしく思おもわれたか? 高たかく、青あお空ぞらを飛とびゆく小こと鳥りまでが、自じぶ分んを見みつけてわざわざ下おりてきたのにと考かんがえますと、いま、この花かだ壇んにきて、自じぶ分んのみすぼらしい、いじけた姿すがたが、ほとんど目めに入はいらないほど、きれいな花はなの間あいだに混まじっているのを悲かなしく、恥はずかしく感かんじました。 ﹁ここに咲さいている花はなは、みんなどこからきたのですか。﹂と、とこなつの花はなは、みつばちにたずねました。 ﹁西にしの国くにからも、南みなみの国くにからも、また、海うみのあちらの熱ねっ帯たいの島しまからもきた。種た子ねや、苗なえを船ふねに乗のせて、人ひとが持もってきたのだ。﹂と、みつばちは答こたえました。 とこなつの花はなは、考かんがえに沈しずみました。そして、あの高こう原げんの自じぶ分んのそばにあった黙だまった石いしや、また自じぶ分んのいるところから、あちらにあった脊せの高たかい草くさの姿すがたなどを思おもい浮うかべて、いまはそれすらなつかしく思おもったのです。五
もはや、花はなは冷つめたい霧きりにぬれて、しずくの滴したたる美うつくしい、なやましげな姿すがたを自みずから見みることもなく、また、黄たそ昏がれがた、高たかい山さん脈みゃくのかなたのうす明あかるい雲くも切ぎれのした空そらを憧あこがれる悲かなしい思おもいもなくなって、その高こう原げんに生うまれた花はなは、まったく、平へい凡ぼんな花はなに化かしてしまいました。 ひとり、この花はなばかりでなしに、諸しょ国こくからここに集あつめられた、それらの珍めずらしい花はな々ばなも、みんな特とく色しょくを失うしなって、一様ように街がい頭とうから風かぜに送おくられてくるほこりを頭あたまから浴あびて、葉はの面おもてが白しろくなっていました。 むし暑あつい、夏なつの日ひの午ご後ごの公こう園えんは、草くさや、木きさえが疲つかれて物もの憂うそうに見みられました。そして、赤あかい花はなや、黄きい色ろい花はなや、紫むらさきの花はなが、たがいにからみ合あうようにして、だらけきって咲さいていたのであります。 ちょうど、このとき、一ひと人りのみすぼらしいようすをした男おとこが、公こう園えんの中なかへ入はいってきました。男おとこは、しばらく、ぼんやりとした顔かおつきで、なにか頭あたまの中なかで考かんがえてでもいるように、あたりをぶらぶらと散さん歩ぽしていましたが、しばらくすると、花かだ壇んの前まえにやってきました。 ﹁百ゆ合りの花はなの咲さいているところは、どこだろうか?﹂と、あたりに目めをくばっていいました。 花かだ壇んには、百ゆ合りばかりでも、幾いく種しゅ類るいとなく集あつめられた場ばし所ょがあります。やがて、男おとこは、その前まえへゆきかかると、 ﹁ああ、ここだ。黒くろい百ゆ合りがないだろうか?﹂と、男おとこはいいながら、百ゆ合りの花はなの上うえに目めを向むけて探さがしました。 男おとこは、その中なかから、つぼみの黒くろい一本ぽんの百ゆ合りを探さがし出だしたのであります。 ﹁これは、黒くろい百ゆ合りでないだろうか?﹂と、彼かれは、頭あたまをかしげていました。そして、かたわらの木こか影げにあった、ベンチに腰こしをかけて空くう想そうにふけったのであります。 男おとこには、こんな思おもい出でがあったのでした。――毎まい年ねん、夏なつになると、その小ちいさな町まちに、お祭まつりがあるのです。その町まちというのは、この大おおきな都とか会いにくらべてこそ小ちいさいといわれるけれど、子こど供もの時じぶ分ん、その町まちは、どんなににぎやかなところであったか。また、なんでも欲ほしいものは、この町まちに、ないものがなかった。だから、いちばん開ひらけたところであると、ほんとうに、そう思おもわれたのでありました。そして、お祭まつりというのは、この町まちにある、ある宗しゅうの本ほん山ざんの報ほう恩おん講こうであって、近きん在ざいから男おとこや、女おんなが出でてくるばかりでなく、遠とおいところからもやってきました。ちょうどその人ひとたちが、この町まちに集あつまることによって、町まちじゅうがお祭まつり気きぶ分んになったのです。 見みせ物もの師しは、旅たびからもやってきました。毎まい年ねんその日ひを忘わすれずに、国こっ境きょうを越こえてやってくるのでした。彼かれは、ある日ひのこと、人ひとにもまれながら、寺てらの境けい内だいに入はいりました。すると、犬いぬ芝しば居いや、やまがらの芸げい当とうや、大だい蛇じゃの見みせものや、河かっ童ぱの見みせものや、剣けん舞ぶや、手てじ品なや、娘むす踊めおどりなどというふうに、いろいろなものが並ならんでいました。その中なかに、女おんなの軽かる業わざがありました。この小こ舎やは脊せがいちばん高たかくて、看かん板ばんがすてきにおもしろそうでありましたから、彼かれはついに木きど戸せ銭んを払はらって、奥おくの方ほうに入はいってゆきました。 彼かれは、そこで、どんなものを見みたでしょうか。半はん裸らた体いの若わかい女おんなが、手てにかさを持もって繩なわの上うえを渡わたるのや、はしごの頂いただきで逆さか立だちをするのや、その他たいろいろのものを見みました。しかし、それらは、べつに心こころに深ふかい印いん象しょうをとどめなかったけれど、ただひとつ、忘わすれられないものがあった。それは、やはり若わかい女おんなが――桃ももの実みのように肥ふとった、顔かおにはげるほど濃こく白おし粉ろいを塗ぬって、目めばかり大おおきく黒くろく、髪かみはハイカラに結ゆったのが――堅かたそうに黒くろい腹はら帯おびをしめて、仰あお向むけに一段だん高たかい台だいの上うえにねて、女おんなの腹はらの上うえに、重おもい俵たわらを幾いくつも積つみ重かさねる光こう景けいであります。 彼かれは、その女おんなのいきいきとした顔かおと、赤あかい唇くちびると、黒くろい腹はら帯おびと、太ふとい短みじかい足あしとを、どういうものか忘わすれることができませんでした。 小こ舎やの外そとへ出でてからも、町まちの中なかを歩あるいても、この軽かる業わざ小ご舎やで鳴ならしている、ドンチャン、ドンチャンの音おとが耳みみについたのでした。六
白しろいかもめが、晩ばん方がたになると、北きたの海うみの方ほうへ飛とんでゆく影かげが見みえて、圃はたけには、切きると内な部かの真まっ赤かな、大おおきなすいかがごろごろところげるころになりますと、町まちのお祭まつりは近ちかづいたのです。 ﹁腹はら帯おびが切きれて、南みなみの国くにの町まちで、軽かる業わざの女おんなが死しんだ。﹂といううわさが、だれか、新しん聞ぶんに書かいてあるのを見みたものか、彼かれの耳みみに入はいったときに、彼かれはびっくりしました。 このときまで、まだ目めにありありとあの女おんなの姿すがたが残のこっていたので、その女おんなが死しんだのでないかと思おもうと、心しん臓ぞうの鼓こど動うが高たかくなるのを覚おぼえたのです。南みなみの国くにの町まちというのは、どんな町まちであろうか。彼かれは、明あかるい空そらの下したに、赤あかい旗はた影かげや、白しろい旗はた影かげなどがひらひらとひるがえって、人ひと影かげが、町まちの中なかを往おう来らいする光こう景けいなどを、ぼんやりと目めに描えがいたのでありました。 そのうちに、ほんとうにお祭まつりの日ひがきたのでした。そして、去きょ年ねん集あつまった見みせ物もの師しらは、また方ほう々ぼうから寺てらの境けい内だいに集あつまりました。軽かる業わざの一座ざもやってきました。彼かれは、どんなに心こころの中なかで楽たのしみにして、その日ひを待まっていたでしょう。 一年ねんは、こうしてめぐってきた。圃はたけにも、庭にわにも、去きょ年ねんのそのころに咲さいた花はなが、また黄きに、紫むらさきに咲さいていたのでした。彼かれは、ドンチャン、ドンチャンとあちらで鳴なるにぎやかな音おとを聞ききながら、町まちを、その方ほうに向むかって歩あるいていった。やはり人ひと々びとにもまれながら寺てらの境けい内だいに入はいると、片かた側がわに高たかい軽かる業わざの小こ舎やがあって、昨さく年ねん見みたときのような絵えか看んば板んが懸かかっていました。彼かれは、木きど戸せ銭んを払はらってのぞきました。そして、幾いく人にんもいる肉にく襦じゅ袢ばん一枚まいの若わかい女おんならの群むれから、目めに残のっている女おんなを探さがしました。それらの若わかい女おんならは、ほとんど人にん間げんとは思おもわれないほど、そして、なにかの獣けもののように、ころころとあたりを転ころげまわっているのです。しかし、いつかの女おんなを探さがし出だすことができなかった。彼かれは耳みみにしたうわさを思おもい出だして、ほんとうに、あの女おんなが死しんだのではないかと思おもうと悲かなしくなりました。ちょうど、そのときであった。 ﹁昨さく年ねん、ご当とう地ちで、お目めどおりいたしました娘むすめは、さる地ちほ方うにおいて、俵たわらを積つみ重かさねまする際さいに、腹はら帯おびが切きれて、非ひご業うの最さい期ごを遂とげました。それにつきましても、命いのちがけの芸げい当とうゆえ、無ぶ事じになし終おわせました際さいは、どうぞご喝かっ采さいを願ねがいます。﹂と、出でか方たがいった。出でか方たは、いい終おわると、拍ひょ子うし木ぎをたたいて小こ舎やの奥おくへ入はいりました。 あらわれたのは、脊せのすらりとした女おんなでした。彼かれはどういうものか、去きょ年ねんほどの感かん興きょうを惹ひきませんでした。 ﹁やはり、黒くろい腹はら帯おびが切きれて、あの女おんなは死しんだのだ。﹂ 彼かれは、こう思おもうと、いいしれぬむごたらしさを、かの女おんなたちの身みの上うえについて感かんじたのでした。 この日ひは、町まちは、いつもと異ことなって、いろいろの夜よみ店せが、大だい門もんの付ふき近んから、大おお通どおりにかけて、両りょ側うがわにところ狭せまいまで並ならんでいました。 彼かれは、四よつ角かどのところに、さまざまの草くさ花ばなを、路みちの上うえにひろげている商しょ人うにんを見みました。そこから、広ひろい、大おお通どおりをまっすぐにゆけば、やはりにぎやかだったが、裏うら町まちの方ほうへゆく道みちは、前ぜん後ごとも、火ほか影げが少すくなくなって、暗くらく、溝みぞのくぼみのように、さびしげにさえ見みられました。ダリアの花はなや、カンナの花はなや、百ゆ合りの花はななどが、カンテラの火ひにゆらゆらと浮うき出だしたように照てらされているのが、ちょうど艶えん麗れいな女おんなが、幾いく人にんも立たっている絵えす姿がたを見みるような気きがしました。そして、なかには、朽くちかかった花はなびらがあって、だらりと出だした舌したのように、ながく垂たれているのです。 ﹁この黒くろい花はなは、なんだろう?﹂ 一本ぽんのひょろひょろとした、茎くきの頂いただきに、重おもそうに咲さいているのを指さして、彼かれはたずねた。 ﹁黒くろ百ゆ合りです。﹂と、商しょ人うにんは答こたえました。 彼かれは、黒くろ百ゆ合りの花はなを見みて、魅みせられたような気きがした。ちょうどこのとき、女おんなの黒くろい腹はら帯おびが頭あたまの中なかに思おもい出だされた。しかし、気き味みが悪わるかったので、買かわずに帰かえりました。その後のちになって、黒くろ百ゆ合りは、北ほっ海かい道どう辺へんに、まれにあるということを聞ききました。あまり、縁えん起ぎのよい花はなでないということも聞きいたのです。七
彼かれは、その後のち、いろいろの経けい験けんをし、また苦くろ労うをしました。たまたま、この公こう園えんにきて百ゆ合りの花はなを見みて、昔むかしのことを思おもい出だしたのです。 とこなつの花はなは、いつまでも、男おとこが側そばのベンチから去さらずに、それに腰こしをかけて考かんがえ込こんでいるのを見みました。花はなは、小ちいさなくびをかしげて、男おとこが、﹁黒くろい百ゆ合りの花はなが、咲さいていはしないか?﹂といったのを聞きいて、高こう原げんの景けし色きを思おもい出だしました。とこなつの花はなは、かつてあの高こう原げんにいたけれど、黒くろい百ゆ合りの花はなを見みたことがなかったので、脊せい伸のびをして、その花はなを見みようとしました。けれど、地じめ面んにはっている真まっ紅かの花はなには、あちらの百ゆり合ばた圃けに、たった一本ぽんまじっている、黒くろい百ゆ合りの花はなが見みえなかったのでした。 そのうちに、日ひが暮くれかかった。木き々ぎのこずえが、さやさやと鳴なりはじめて、空そらの色いろは、青あお黒ぐろく見みえ、燈とも火しびの光ひかりがきらめき、草くさの葉はや、木きのこずえに反はん射しゃしているのが見みられたのです。男おとこは、ベンチから起たち上あがりました。 ﹁黒くろい百ゆ合りの花はなが咲さいた時じぶ分んに、またやってこよう。こちらの空そらには、どうして、星ほしの光ひかりが、こう少すくないのか? 故こき郷ょうにいる時じぶ分んは、毎まい夜よ、降ふるように、きらきらと輝かがやく星ほしが見みられたのに……。﹂と、立たち去さるときに男おとこはいいました。 とこなつの花はなは、なるほど、男おとこのいうように、どうしてこっちにきてから星ほしの光ひかりが見みえないかと気きがついて、怪あやしみました。あの高こう原げんにいるころ、暁あかつきの風かぜが、頭あたまの上うえの空そらを渡わたり、葉はず末えに露つゆのしずくの滴したたるとき、星ほしの光ひかりが、無むす数うにきらめいていた。それが、たがいに追おいかけ合あってでもいるように、金きんや、銀ぎんや、青あおや、赤あかの星ほしがきらめいていた。そして、いつともなしに時ときがたつと、みんな影かげを地ちへ平いせ線んのかなたに没ぼっしてゆく。 翌よく日じつは、とこなつの花はなは、朝あさのうちから、空そら模もよ様うがおかしく、暴ぼう風ふうのけはいがするのを身みに感かんじました。 昼ひるごろ、せんだってのみつばちが、どこからともなくやってきて、花はなの上うえに止とまりました。 ﹁どうなさいましたか?﹂と、とこなつの花はなは、みつばちに声こえをかけました。すると、みつばちは、 ﹁今きょ日うは風かぜですよ、なんだか天てん気きがおかしくなりました。こういう日ひは、高たかい脊せの花はなに止とまっているのは危きけ険んです。いくら香こう気きがあっても、またきれいに咲さいていても、風かぜといっしょに吹ふき飛とばされたり、折おれた下したになったりしては、たまりませんからね。今きょ日うは、あなたのところに置おいてくださいまし。あなたは、脊せいが低ひくく、地じめ面んについていますから、ここなら危あぶないことはありません。あの雲くもゆきの早はやいのをごらんなさい。﹂と、花はなに向むかっていいました。 花はなは、頭かしらを上あげて空そらを見みました。 ﹁ほんとうに、そうですね。﹂ ﹁あなたは、黒くろい百ゆ合りの花はなをごらんになりましたか?﹂と、とこなつの花はなは、みつばちにたずねました。 みつばちは、小ちいさな、すきとおるような、美うつくしい羽はねをふるわして、 ﹁黒くろい花はなですって? 私わたしどもは、黒くろい花はなは、人にん間げんの死しが骸いから、生はえたのだといっています。そして、毒どくがあるといって、けっして止とまりはいたしません。めったに、黒くろい花はなはないものです。なんでも黒くろい花はなを、ただ見みただけでも悪わるいといっていますよ。﹂と答こたえました。 とこなつの花はなは、これを聞きくと、くびをすくめました。そして、男おとこのいったことから、脊せい伸のびをして、この近ちかくに咲さいているのを見みようとしたことを思おもい出だして、思おもわずぞっとしました。 ﹁なんで、そんなことをお聞ききなさるのですか?﹂と、みつばちはたずねました。 ﹁いいえ……。﹂と、とこなつの花はなはいって、黙だまってしまいました。 ますます風かぜの吹ふくのが、強つよくなりました。八
﹁今きょ日うは、公こう園えんに、なにかあるのでしょうか。﹂と、花はなは、先さっ刻きから風かぜの中なかを人ひと々びとが、ぞろぞろと花かだ壇んのまわりを歩あるいているので、なんでもこの付ふき近んのできごとなら、知しらないものがないほどくわしいみつばちに向むかって、たずねました。 すると、みつばちは手てあ足しをたがいにこすりあいながら、 ﹁農のう産さん物ぶつの展てん覧らん会かいがあるのですよ。花はなの咲さいている時じぶ分んは、私わたしも広ひろい圃はたけから、圃はたけを渡わたって飛とび歩あるいたものです。なにしろ、二里りも先さきまで、いったのですからね。それが、日ひか数ずがたつにつれて、それらの野やさ菜いは、太ふとい根ねを持もったり、また、まるまると肥こえたり、大おお粒つぶに実みのったりしましたからね。大だい根こんや、ねぎや、豆まめや、芋いもなどを昨きの日うから、近きん在ざいの百姓しょうだちが会かい場じょうに持もち込こんでいますよ。そして、一等とうと二等とうとは、たいした賞しょ品うひんがもらえるということです。﹂と、みつばちは答こたえました。 ほんとうに、公こう園えんはいろいろの人ひとたちでにぎわっていました。あちらから楽がく隊たいの鳴ならしている楽がっ器きの音おとが、風かぜに送おくられて聞きこえてきたり、また、歌うたをうたっている声こえが聞きこえてきたりしました。 この日ひ、白しら髪がのおばあさんが、農のう産さん物ぶつ展てん覧らん会かい場じょうへあらわれました。 おばあさんは、なにも農のう産さん物ぶつに興きょ味うみをもったわけではありません。場ばす末えの町まちに住すんでいるのだけれど、用よう事じがあって、こちらの知しった人ひとのところへやってきますと、その人ひとの家うちで、展てん覧らん会かいのある話はなしを聞ききました。 ﹁大だい根こんでも、なすでも、芋いもでも、なんでもよくできたものには、一等とう、二等とうと礼ふだがついて賞しょうが出でる。﹂ということを聞きくと、ふと、おばあさんは、胸むねに思おもい出だしたことがあります。 ﹁その展てん覧らん会かいは、どこにあるのですか?﹂と、おばあさんはたずねました。 ﹁じき、近ちかくの公こう園えんですよ。まあ、いってごらんなさい。それは、大おおきななすや、みごとなきゅうりや、野やさ菜いも物のはなんでもありますから。大だい根こんなんか、どうしてあんな太ふといのがあるかと思おもわれるほどですよ。﹂と、知しった家うちの人ひとはいいました。 おばあさんは、その話はなしを聞きくと、いそいそとして、その家うちから出でて、公こう園えんへやってきました。公こう園えんのこの展てん覧らん会かい場じょうは、楽がく隊たいで、人ひとを呼よび寄よせていました。そして、そこでは、わずかな日にっ数すうを限かぎって、その間あいだは、野やさ菜いも物のを安やすく売うるのでありました。おばあさんは、内うちへ入はいると、どの出しゅ品っぴ物んぶつにも目めをくれずに、すぐに大だい根こんの並ならべてあるところへいってみました。するとそこには、白しろい、太ふとい、大だい根こんがいろいろと並ならべてあって、その中なかのいちばん太ふといのに、赤あかい紙かみ札ふだがついて、﹁一等とう賞しょう﹂と書かいてありました。 なんでも、一等とう賞しょうは、たいしたほうびがもらえるらしいのであります。それを見みると、おばあさんは目めをまるくしました。 ﹁おや、これが一等とう賞しょうかい?﹂ と、独ひとり言ごとをいいました。 じつは、おばあさんは、今け朝さ、すぐ自じぶ分んの家うちの近ちかくの八や百お屋やで、大おおきな大だい根こんを見みてびっくりしたのです。いままでの、長ながい年とし月つきに、おばあさんは、たくさんの大だい根こんを見みたけれど、いまだにこんな大おおきなのを見みたことがなかったのです。 ﹁まあ、大おおきな大だい根こんだこと。﹂と、そのとき、おばあさんはいいました。 ﹁私わたしも長ながい間あいだ八や百お屋やをしていますが、こんなのを見みたのは、はじめてです。﹂と、八や百お屋やの主しゅ人じんもいいました。 おばあさんは、展てん覧らん会かいにきて、一等とう賞しょうをとった大だい根こんを見みつめて、これよりは八や百お屋やの店みせ頭さきにあったのが大おおきいと思おもいました。 ﹁まだ、あの大だい根こんは売うれずにあるだろうか。あれを持もってきてここへ出だせば、あのほうが一等とう賞しょうだ。﹂と、おばあさんは思おもいました。そして、いそいで、外そとへ出でると、電でん車しゃに乗のってゆきました。 三、四時じか間んの後のち、おばあさんは、大おおきな二本ほんの大だい根こんを持もって、展てん覧らん会かい場じょうに現あらわれました。 係かかりのものは、驚おどろきました。それは、一等とうの出しゅ品っぴ物んぶつよりたしかに大おおきく太ふとかったからであります。 ﹁おばあさん。ほんとうにみごとな大だい根こんですね。﹂と、係かかりのものはいいました。九
﹁おばあさん、圃はたけの土つちは、赤あか土つちですか、黒くろ土つちですか。﹂と、係かかりのものは問といました。 ﹁黒くろ土つちでございます。﹂と、おばあさんは答こたえました。 ﹁種た子ねはどこから取とり寄よせて、何なん月がつの何なん日にちに圃はたけにまいて、いつ肥ひり料ょうを何なん回かいぐらいやったのですか、どうか話はなしてください。﹂と、係かかりのものはいいました。 そんなことを問とわれると、おばあさんは、自じぶ分んが圃はたけに作つくった大だい根こんでないから、ちっともわかりませんでした。ただ、もじもじとしていて、答こたえることができなかったのであります。 ﹁おばあさん、あなたがお作つくりになったのではないでしょう。﹂と、係かかりのものはいいました。 ﹁私わたしは、八や百お屋やにあるのを買かってきました。しかし、これは私わたしのものです。﹂と、おばあさんはいいました。 ﹁それでは、いけません。買かってきたものは、いけません。﹂と、係かかりのものは、頭あたまを振ふりながら答こたえました。 ﹁なぜですか。こんなに大おおきいのが、なぜいけません。私わたしの持もってきた大だい根こんが一等とう賞しょうでございます。﹂と、おばあさんは、白しら髪があ頭たまをふりたてて怒いかり声ごえでいいました。 係かかりのものは、これを聞きくと笑わらいながら、 ﹁たしかに、この大だい根こんは、一等とう賞しょうの資しか格くがあります。けれど、作つくり手てがわからないから、賞しょ品うひんを渡わたすわけにはいきません。﹂といいました。 ﹁作つくり人ひとは、だれでも、私わたしが買かったのだから、この大だい根こんは、私わたしのものでございます。賞しょうは、私わたしがもらいます。﹂と、おばあさんは、それになんの不ふ思し議ぎがあろうかといわぬばかりにがんばりました。 しかし、係かかりのものは、頭あたまを振ふりました。 ﹁いいえ、賞しょ品うひんは、野やさ菜いを作つくった人ひとの手てが柄らをほめてあげるので、その他たの人ひとには、だれにも渡わたさないのです。この大だい根こんを作つくった百姓しょうは、どこのだれという人ひとだか、おばあさんにはわかりますまい。みごとな大だい根こんですから、ここに並ならべておいて、みんなに見みせるのはさしつかえないから、二、三日にち貸かしておいてください。﹂と、係かかりのものはいいました。 おばあさんは白しろ目めを向むけて、係かかりのものを見みながら、 ﹁よく、そんなことがいわれたものだ。これは私わたしのものだから、ほうびをくれないなら、さっさと持もって帰かえりますよ。較くらべて見みれば分わかるものを、賞しょうをくれるのを惜おしんで、ただ貸かしてくれいもないものだ。﹂と、欲よく張ばりのおばあさんは、ぷんぷんと怒おこって、大おおきな二本ほんの大だい根こんを抱かかえて、会かい場じょうの入いり口ぐちから出でました。 黄たそ昏がれ方がたの空そらは、水みずあめのような色いろをしていて、ひどい風かぜが、ヒューヒューと音おとをたてて吹ふいていました。電でん線せんはうなって、公こう園えんの常とき磐わ木ぎや、落らく葉よう樹じゅは、風かぜにたわんで、黒くろい頭あたまが、空そらに波なみのごとく、起きふ伏くしていました。 おばあさんは、二本ほんの葉はのついている大おおきな大だい根こんを抱かかえて、ちょうど、赤あかい旗はたを、監かん督とくが振ふっている電でん車しゃの交こう叉さて点んの方ほうへと歩あるいていきました。 風かぜは、いくたびもおばあさんを吹ふき倒たおそうとしました。おばあさんは、二本ほんの大だい根こんをしっかりと抱だいて、風かぜに吹ふき倒たおされまいと歩あるきました。風かぜは、おばあさんの白しら髪がを波なみ立だたせ、大だい根こんの葉はを吹ふきちぎりそうに、もみにもんだのであります。 そのうちに、ピューッときた風かぜは、とうとうおばあさんを倒たおしてしまいました。おばあさんは、大だい根こんを抱かかえたまま、起おき上あがろうとしましたが、風かぜが強つよくて起おき上あがることができませんでした。そのうちに、通とおる人ひと々びとが、黒くろくなって、そのまわりに集あつまってきました。 ﹁みつばちさん、あちらが、たいそう騒そう々ぞうしいですね。﹂ と、とこなつの花はなは、みつばちにいいました。 ﹁じき、この鉄てっさくのあちらは往おう来らいです。いってみてきましょう。﹂と、みつばちは答こたえて飛とびゆきました。 やがて、みつばちはかえってきて、花はなの上うえに止とまると、 ﹁どこかのおばあさんが転ころんだのを、しんせつに人ひとが起おこしてやると、おばあさんの抱かかえていた一本ぽんの太ふとい大だい根こんが、二つに折おれたといって、おばあさんが怒おこっているのですよ。﹂といいました。十
翌よく日じつになると風かぜは静しずまりました。朝あさ早はやくから、まだ太たい陽ようの上あがらないうちに、みつばちは起おきて飛とぶ用よう意いをしました。 ﹁私わたしは、昨きの日うは一日にちなにも食たべなかった。今きょ日うは腹はらがすいてたまらないから、大おおきな花はなを尋たずねまわって、うんとみつを吸すってこなければなりません。じゃ、さようなら。また、お目めにかかります。﹂といって、とこなつの花はなに別わかれを告つげていこうとしました。 とこなつの花はなは、黙だまっていましたが、いざみつばちが飛とび去さろうとするときに、それを呼よび止とめて、 ﹁みつばちさん、いくら腹はらがすいていても、けっして、黒くろい百ゆ合りの花はななどに忘わすれても止とまってはいけません。お気きをつけなさいまし。﹂といいました。 ﹁ごしんせつに、ありがとうございます。気きをつけます。﹂といって、みつばちは、元げん気きよく、朝あさの空くう気きの中なかを、羽はねを鳴ならして飛とんでゆきました。 その日ひは、昼ひる過すぎから、夜よるにかけて、雨あめが降ふりました。そして、雨あめは、じきにやみました。すると、すがすがしい気きぶ分んが、あたりに漂ただよって、ぬれた木きの葉はや、草くさの葉はが、そこここに立たっている電でん燈とうの光ひかりに照てらされて、きらきらと輝かがやいています。 とこなつの花はなは、みつばちが、夜よるになっても、帰かえってこないので、どこで眠ねむったろうと考かんがえていました。風かぜが、さやかに吹ふきわたると、木き々ぎの露つゆがぽたぽたと地ちじ上ょうに落おちました。いつしか快こころよい気き持もちになって、花はなは眠ねむりますと、ふいに、夜よな中かに、ひやりとなにか身みに感かんじたので、驚おどろいて目めをさましたのであります。 花はなは、おそくなって、みつばちが帰かえってきて、ぬれた体からだを触ふれたのだと思おもいましたが、さしてくる電でん燈とうの光ひかりで見みると、それは、みつばちでなくて、羽はねの黄きい色ろな、小ちいさいとがった形かたちをした蛾がでありました。蛾がの黄きい色ろなすきとおるような羽はねは、気き味みの悪わるいほど、冷つめたく、硫いお黄うの色いろのように見みえたのです。花はなは、高こう原げんにいる時じぶ分んに、たくさんの蛾がをば見みました。しかし、この蛾がと同おなじ感かんじのするような蛾がをば見みなかった。この蛾がは、人にん間げんの目めを見みるように、くるくるとした二つの目めを持もっていました。 花はなは、蛾がに対たいして、なにもいう気きにはなれなかったが、しかし、知しらぬ顔かおをしていることもできなくて、 ﹁黄きい色ろな蛾がさん、いまごろ、あなたは、どこから飛とんできたのですか。私わたしは、まだあなたのような姿すがたの蛾がを見みたことがありません。山やまからですか? 野のは原らからですか? どこから、あなたは飛とんできたのですか。﹂と、たずねました。 蛾がは、ちょうど体からだの色いろにふさわしい、冷つめたい、すきとおる声こえで答こたえました。 ﹁私わたしたちは、戦せん場じょうで産うまれました。たくさんの人にん間げんが死しんだ、その死しが骸いが腐くさっている広ひろい野のは原らの中なかで産うまれました。私わたしたちは、明あかるい日ひの光ひかりや、火ひや、炎ほのおを見みることは大だいきらいです。真まっ暗くらな闇やみが大だい好すきなのです。私わたしたちは風かぜの吹ふく日ひに、暗くらい野のは原らから野のは原らへ、町まちから町まちへ飛とんでゆきます。そして、みんな火ひという火ひを消けしてしまいます。明あかるい街まちを、真まっ暗くらにしてしまうのです。それがために、私わたしたちは、自じし身んの体からだが火ひに焦こげても、また死しんでもいといはいたしません。明あかるいということは、死しよりも恐おそろしいのです。﹂と、蛾がは、くるくるとした二つの目めで花はなを見みま守もりました。 ﹁そんなに、あなたがたは、たくさんいっしょになって、旅たびをなさるのですか。﹂と、花はなは問といました。 ﹁幾いく十万まん、幾いく百万まん、その数すうはわかりません。私わたしたちは、太たい陽ようの輝かがやいている空そらも暗くらくすることができます。また、どんなににぎやかな明あかるい街まちの火ひでも暗くらくすることができます。私わたしたちは、昨ゆう夜べ、海うみの上うえを渡わたって、南みなみの国くにへゆこうとして、風かぜのためにわずかばかりが迷まよって、この方ほう向こうに飛とんできました。いまに、その私わたしたちの仲なか間まが、ここの空そらを過すぎるでありましょう。﹂と、蛾がはいいました。 花はなは、頭あたまをあげて、そばに立たっている、電でん燈とうの光ひかりを見みますと、蛾がが幾いくつも止とまっているのでした。十一
花はなは、たちまちのうちに、無むす数うの黄きい色ろな蛾がが飛とんできたのを見みました。どの木きの葉はにも、またどの草くさの葉はにも、蛾がが止とまっていました。ちょうど花はなびらの降ふりかかったように見みえたのです。 急きゅうに、さわさわという音おとがして、燈とも火しびの光ひかりがうす暗ぐらくなったと思おもって、立たっている電でん燈とうの方ほうを見みると、幾いく百、幾いく千となく蛾がが火ひを目めがけて襲おそったのです。そのために、光ひかりをさえぎったので、中なかには、ガラスに頭あたまを打うちつけて、下したに落おちる蛾がや、火ひのまわりを、すきもあろうかと、羽はばたきをしながらまわるのや、いろいろありました。このとき、あちらに立たっている電でん燈とうを見みても、同おなじような光こう景けいでありました。そして、羽はねの白しろい粉こが、火ひの周しゅ囲ういの空くう間かんを、光ひかったちりのまかれたように散ちっているのでした。花はなは、いま蛾がのいったことを思おもい出だして、蛾がの仲なか間まが、ようやくここへやってきたのだと知しりました。 この都とか会いの火ひを消けすために、蛾がが襲おそってきたのです。とこなつの花はなは、このたくさんな数かぞえきれないほどの黄きい色ろの蛾がが、いずれも二つのくるくるとした、円まるい人にん間げんの目めのような目めを持もち、長ながいひげと大おおきな口くちを持もっているかと思おもうと、ぞっとするほど、恐きょ怖うふを覚おぼえたのです。で、目めを閉とじて、見みまいとしていました。 そのうちに、待まち通どおしかった夜よが明あけかかった。花はなは、うなされながらも、いくらかは眠ねむったような気き持もちもしました。しかし頭あたまは重おもかったのであります。 花はなは、あたりが明あかるくなると、自じぶ分んの体からだの上うえに止とまっていた、黄きい色ろな蛾がが、いないのに気きづきました。そればかりでなく、頭あたまを上あげて、あたりを見みまわしますと、あれほどたくさんに飛とんできた蛾がが、影かげも形かたちもないのに驚おどろいたのであります。 ﹁昨ゆう夜べのは、みんな夢ゆめだったろうか?﹂と、花はなは、怪あやしまざるを得えなかったのでした。 敏びん捷しょうで、自じゅ由うで、怜れい悧りで、なんでもよく知しっているみつばちは、きっと昨ゆう夜べのできごとも知しっているであろう。はやく、みつばちが、やってきてくれないものかと、花はなは、待まっていましたが、その日ひは、みつばちはついにきませんでした。 高こう原げんに生うまれた花はなは、この街まちの中なかにきてから体からだがたいそう弱よわりました。朝あさ晩ばん、冷ひややかな露つゆを吸すわないだけでも、元げん気きをなくした原げん因いんだったのでした。それに、むし暑あつい日ひがつづいたので、頭あたままでがいきいきとせずに重おもくあったのです。 とこなつの花はなは、高こう原げんにいて、あの寒さむい、雪ゆきの積つもる冬ふゆにあうことをおそれましたが、ここにきてから、こんなに早はやく体からだが弱よわってしまっては、秋あきを待またずに枯かれてしまうようにさえ思おもわれました。 ﹁ああ、わたしも、もう先さきが長ながくあるまい。﹂と、花はなは、自みずからも考かんがえました。そして、昼ひる間まも、うつらうつらとした気き持もちで、居いね眠むりをつづけているようになりました。 周しゅ囲ういの常とき磐わ木ぎの葉はに、強つよく照てりつけた太たい陽ようの光ひかりも、このしぼみかかった、哀あわれな花はなの上うえには頼たよりなげに照てらしたのです。ちょうど、この花はなに映うつった太たい陽ようの光ひかりは、燐りんの炎ほのおのように青あお白じろくさえ見みられました。 だれかつぶやいている声こえがしたので、ふと花はなは、目めをさましますと、もう日ひは暮くれていました。そばにあったベンチに腰こしをかけている人にん間げんは、たしかに、せんだって、黒くろい百ゆ合りの花はなを探さがしていた男おとこであります。 ﹁なぜだか、あの笛ふえの音ねを聞きくと、私わたしは、お母かあさんと、あの山やま奥おくの温おん泉せん場ばへいったときのことが目めにうかんでくる。あの時じぶ分んは、お母かあさんは達たっ者しゃで、自じぶ分んは、まだ子こど供もだった。未みか開いな温おん泉せん宿やどでは、夜よるは谷たに川がわの音おとが聞きこえて静しずかだった。行あん燈どんの下したで、毛けずねを出だして、男おとこどもが、あぐらを組くんで、下したを向むいて将しょ棋うぎをさしていた。﹂ 男おとこは、こう独ひとり言ごとをしていました。 もう、空そらは暗くらかったので、花はなには、男おとこの顔かおがわからなかった。ただその声こえに聞きき覚おぼえがあっただけです。公こう園えんの鉄てっさくの外そとを按あん摩まの吹ふいて通とおる笛ふえの音ねが、細ほそく、きれぎれに聞きこえてきました。 その後のちは、ベンチによりかかった男おとこのため息いきばかりが、闇やみの中なかでしたのであります。十二
翌よく日じつの朝あさは、いい天てん気きでした。白しろい雲くもが、静しずかにこずえの頂いただきを離はなれて、空そらに流ながれていました。とこなつの花はなは、ぐったりとしていました。そして、いつになく元げん気きがなかったのです。どこからかみつばちが飛とんできました。
﹁いい天てん気きじゃありませんか。﹂といって、花はなに声こえをかけました。
﹁昨ゆう夜べは、恐おそろしい夢ゆめを見みて、今きょ日うは、頭あたまが重おもくてしかたがありません。﹂と、花はなは答こたえました。
﹁どんな夢ゆめをごらんになりましたか? ほんとうに顔かおの色いろがよくありませんね。あなたは、だいぶん疲つかれておいでのようですから、お大だい事じになさいまし。﹂と、みつばちがいいました。
とこなつの花はなは、一昨さく夜や、黄きい色ろな蛾ががきたことを語かたりました。すると、みつばちは、花はなのいうことを半はん分ぶんも聞きかずに、
﹁なんで夢ゆめのもんですか。みんな事じじ実つですよ。この公こう園えんには、黒くろい百ゆ合りの花はなが咲さいたり、不ふ思し議ぎな毒どく蛾ががきたりしたために、人にん間げんが大おお騒さわぎをしていますよ。あなたは、まだなんにもお知しりになりませんか。﹂と、みつばちはいいました。
とこなつの花はなは、これを聞きくと、
﹁黒くろい百ゆ合りの花はなが咲さいたのですか?﹂とたずねました。
﹁百ゆり合ばた圃けに、一本ぽん咲さいています。それで、今きょ日うあそこへ植しょ物くぶ学つが者くしゃがきて検しらべています。後のちほどここへもあの人ひとたちは、やってくるでしょう。﹂と、みつばちはいいました。
とこなつの花はなは、なんとなく胸むな騒さわぎを感かんじた。
﹁みつばちさん、そんなら、一昨さく夜や、たくさんきた蛾がは、毒どく蛾がなんでしょうか。﹂と問といました。
﹁毒どく蛾がですとも、昨さく夜や、ついこのベンチに腰こしをかけていた男おとこが、あの蛾がに刺さされたのです。そして、病びょ気うきになったというので、やはり学がく者しゃが、今きょ日うこの公こう園えんにきて、蛾がを探さがしています。しかし、あれほどいた蛾がが、不ふ思し議ぎなことに、一匹ぴきも見みつからないですよ。﹂と、みつばちはいいました。
とこなつの花はなは、このそばのベンチに腰こしをかけていた男おとこが、蛾がに刺さされて病びょ気うきになったということを聞きいて、びっくりしました。
﹁なんという、あの人ひとは、不ふしあわせの人ひとなんでしょうね。﹂と、花はなは、あの男おとこが独ひとり言ごとしていたことなどを思おもい出だしながらいいました。
﹁その男おとこは、なんでも昼ひる間ま黒くろい百ゆ合りの花はなを折おろうとしたのです。それを番ばん人にんに見みつかって、しかられたのです。男おとこは、夜よる、ここへやってきました。すると、一昨さく夜や、この都みやこを襲おそった毒どく蛾がが、どこかに残のこっていたとみえて、その男おとこを刺さしたのです。それで男おとこは、毒どくが身から体だにまわって、なんでも死しにそうだといいますが、私わたしは、黒くろい百ゆ合りの花はなに触ふれたのではないかと思おもいます。﹂と、みつばちは答こたえた。
このとき、あちらでは、にぎやかな音おん楽がくの響ひびきが起おこっていました。なにかの催もよおし事ごとがあるとみえるのです。
一方ぽうに悲かなしむものがあれば、また、一方ぽうに楽たのしむものがある。それが、この世よの中なかの有あり様さまでした。このとき、こちらに、ぞろぞろと歩あるいてくる人ひとたちがありました。それは、みつばちが、先せん刻こくいった学がく者しゃたちの一行こうであります。その中うちの白しろい洋よう服ふくを着きて、眼めが鏡ねをかけた一ひと人りは、とこなつの花はなの咲さいている前まえに歩あゆみ寄よりました。
﹁やあ、こんな花はながここに咲さいているのは珍めずらしい。このとこなつは、高たかい山やまにあるとこなつです。﹂と、ほかの人ひと々びとを顧かえりみていった。
﹁どうして、こんなところに咲さいているのでしょう。﹂と、その一ひと人りがたずねました。
﹁まれにあることです。風かぜか、なにかで、種た子ねが飛とんできたのですね。﹂と、白しろい洋よう服ふくの男おとこは答こたえました。そして、手てをさし伸のべて、とこなつの花はなを根ねもとから引ひき抜ぬきました。
鳥とりが、くわえてきて、ここに植うえた、花はなの運うん命めいも、ついに終おわりがきたのであります。みつばちは、それを見みると、いずこへともなく飛とびゆきました。