遠とおく、いなかから、出でていらした、おじいさんがめずらしいので、勇ゆう吉きちは、そのそばをはなれませんでした。おじいさんの着きも物のには、北きたの国くにの生せい活かつが、しみこんでいるように感かんじられました。それは畑はたけの枯かれ草くさをぬくもらし、また町まちへつづく、さびしい道みちを照てらした、太たい陽ようのにおいであると思おもうと、かぎりなくなつかしかったのです。 ﹁こちらは、いつも、こんなにいいお天てん気きなのか。﹂と、おじいさんは、聞きかれました。 ﹁はい、このごろは、毎まい日にちこんなです。﹂と、おかあさんが、答こたえました。 ﹁あたたかなところで、くらす人ひとは、うらやましい。﹂ おじいさんは、庭にわのかなたへ、はてしなくひろがる空そらを見みました。風かぜのない、おだやかな日ひで、空そらがむらさきばんでいました。 ﹁おかあさん、さっき、金きん魚ぎょ売うりがきた。﹂ ﹁そうかい、戦せん争そう中ちゅうは、金きん魚ぎょ売うりもこなかったね。﹂ ﹁故く郷には、まだこんなわけにはいかない。﹂と、おじいさんは、なにか考かんがえていられました。 ﹁もうすこし、近ちかければ、ときどきいらっしゃれるんですが。﹂ ﹁こちらへくると、もう、帰かえりたくなくなる。﹂と、おじいさんは笑わらわれました。 勇ゆう吉きちは、おじいさんの顔かおを見みて、 ﹁おじいさん、いなかと、こっちとどちらがいいの。﹂と、聞ききました。 ﹁それは、こっちがいいさ。半はん日にち汽きし車ゃに乗のれば、こうも気きこ候うが、ちがうものかとおどろくよ。﹂ ﹁そんなら、おじいさん、こっちへ越こしていらっしゃい。﹂ ﹁もうちっと、年としでも若わかければ。﹂ ﹁お年としよりですから、なおのこと、そうしてくださればいいんですが。﹂と、おかあさんがいいました。 ﹁ねえ、おじいさん、そうなさいよ。﹂と、勇ゆう吉きちは、おじいさんのからだにすがりつきました。 ﹁まあ、よく考かんがえてみてから。﹂と、おじいさんは、しわのよった、大おおきな手てで、勇ゆう吉きちのいがぐり頭あたまを、くるくるとなでられました。 ﹁おじいさん、お湯ゆへいらっしゃいませんか。勇ゆうちゃん、おともをなさい。﹂と、このとき、おかあさんが、台だい所どころから、出でてきて、いいました。 こう聞きくと、おじいさんも、その気きになられたのでしょう。 ﹁そうしようか、どれ、はおりを出だしておくれ。﹂ 立たちあがって、みなりをなおしました。 ﹁おはおりなんか、きていらっしゃらないほうがいいですよ。﹂ ﹁晩ばんがたになると、冷ひえはしないか。﹂ ﹁そうですか。﹂ やがて、おじいさんと、勇ゆう吉きちの二ふた人りは、家いえを出でました。おじいさんは、はおりをきて、白しろたびをはかれました。途とち中ゅう、近きん所じょの人ひと々びとが、そのうしろすがたを見みお送くっていました。いなかからの、お客きゃくさんだろうと思おもって、見みるにちがいないと、勇ゆう吉きちはなんとなく気きはずかしかったのでした。 道みちの両りょうがわに、家いえが建たっていました。それらの中なかには、店みせ屋やがまじっていました。そして、ところどころあるあき地ちは畑はたけとなって、麦むぎや、ねぎが、青あお々あおとしげっていました。おじいさんは、立たちどまって、それを見みながら、なにか感かん心しんしたように口くちの中なかで、ひとりごとをしていました。それから、すこし歩あるくと、また立たちどまって、たもとをいじっていました。勇ゆう吉きちには、あまり、そのようすが、おかしかったので、 ﹁どうしたの、なにか落おとしたんですか。﹂と、そばへいって聞ききました。 ﹁湯ゆせ銭んをなくすと、たいへんだからな。﹂と、おじいさんは、いいました。 ﹁なあんだ、そんなことなの。﹂ 勇ゆう吉きちは、口くちまで出でたことばをのみこんで、やはり、おじいさんは、いなかものだな、と思おもいました。 ﹁おじいさん、お金かねを落おとしたって、入いれてくれるよ。﹂ ﹁なんで、湯ゆせ銭んなしに、はいれるものか。﹂ おじいさんは、まじめになって、いいました。 ﹁わけをいえば、かしてくれるだろう。﹂ ﹁ばかっ。﹂と、おじいさんは、きゅうにむずかしい顔かおをして、おこりました。なにも、しかられる理りゆ由うは、ないと思おもったけれど、それきり、勇ゆう吉きちは、だまってしまいました。 二ふた人りは、西にし日びのさす、かわいて、白しろくなった往おう来らいをいきました。ほどなく、あちらの水みず色いろの空そらへ、えんとつから、黒くろい煙けむりが、もくら、もくらと、のぼるのが見みえました。 ﹁おじいさん、まだ、お湯ゆ屋やは、あいていませんよ。﹂と、勇ゆう吉きちは、立たちどまりました。 ﹁どうしてか。﹂ おじいさんもいっしょに立たちどまって、そちらを見みたが、とつぜん、 ﹁あれは、なにか。﹂と、さもびっくりしたような、顔かおをしました。道みちの上うえに、手てぬぐいをかぶった、ひげつらの男おとこと、大おおきな洗せん面めん器きをかかえたものと、かたちんばのげたをはいた子こどもなど、ひとりとして、まんぞくのふうをしない、人ひとたちが集あつまっていました。それはちょうど、ルンペンどもが、通つう行こう人にんを待まちぶせしているようにも見みえるからです。おじいさんが、おどろくのも、むりはありませんでした。 ﹁なんでもないんだよ。戸とのあくのを待まっているのだ。﹂と、勇ゆう吉きちは、説せつ明めいしました。しかし、おじいさんには、どうしても、のみこめませんでした。 ﹁勇ゆうぼうや、帰かえろう。おまえは、あとでおかあさんといっしょにおいで。﹂ こういって、おじいさんは、いまきた道みちをもどりかけました。勇ゆう吉きちも、しかたなく、その後あとからしたがいました。 夜よるになると、家いえじゅうのものが、火ひば鉢ちのまわりへよって、たのしく話はなしをしました。 ﹁おじいさんが、こうして、いつも家いえにいられると、にぎやかで、いいんだがなあ。﹂と、おとうさんが、しみじみと、いわれました。 ﹁ほんとうに、そうですよ。﹂と、おかあさんも、いいました。 こう、みんなが、いっても、おじいさんは、そうするとは、いわずに、ただ、笑わらっていられました。 その話はなしのきれたころ、おじいさんは、思おもいだしたように、さっき湯ゆ屋やの前まえに、ものすごい人ひとたちが立たっていた話はなしをなさると、みんなが、笑わらいだしました。 ﹁そうでしょうな、はじめて、ごらんになっては。﹂と、おとうさんは、うなずきました。 ﹁おじいさん、このごろは、風ふう儀ぎがわるくなりまして、着きも物のや、げたや、せっけんまで、とられるので、だれも、いいふうなどして、お湯ゆへいくものは、ございません。﹂と、おかあさんは、わけを話はなしました。 ﹁その話はなしを、勇ゆうぼうからも聞きいたが、なにしろ、おどろいた。﹂と、おじいさんも、大おおきな声こえで、笑わらわれました。 ﹁夏なつ時じぶ分んは、自じぶ分んの家いえから、はだかになって、さるまた一つで、いく人ひとも、あります。﹂ ﹁そんなに、気きをつかうのでは、湯ゆにも、らくらくはいれまいが。﹂ ﹁そうなんです。それに、こみあいますし、まったく、湯ゆにいくのもらくではありません。おじいさん、いなかはどんなですか。﹂と、おとうさんが、聞ききました。 ﹁いなかは、まだそんなでない。昔むかしとちがい、だいぶ暮くらしむきが、きゅうくつにはなったが、湯ゆへいって、着きも物のをぬすまれたということは聞きかない。村むらでも、よくよく困こまったものには、自じぶ分んたちのものを、分わけてやるぐらいの義ぎ理りや、人にん情じょうが残のこっているからな。﹂と、おじいさんは、答こたえました。 子こどもながら、勇ゆう吉きちは、この話はなしに、感かん心しんしました。 ﹁ねえ、おかあさん、おあしを忘わすれていっても、お湯ゆに入いれてくれますね。﹂と、勇ゆう吉きちが、口くちをだしました。 ﹁さあ、このごろは、どうですか。﹂ ﹁なんで、入いれるものか。﹂と、おじいさんは、反はん対たいしました。 ﹁それで、おじいさんは、お金かねを落おとしたら、たいへんと思おもって、たもとをにぎったり、おさえたりしたの。﹂ 勇ゆう吉きちは、さっきのことを思おもうと、おかしかったのでした。おじいさんが子こどものようなまねをした、そのときのことがわかるように、 ﹁は、は、は。﹂と、おとうさんまで笑わらいました。 ﹁よく知しった人ひとなら、入いれるかもしれませんけれど、お湯ゆなどへ、おあしを持もたずに、いく人ひとはありません。﹂と、おかあさんは、おじいさんの意いけ見んに、賛さん成せいでした。 おじいさんは、なにか、ほかのことを考かんがえていたとみえて、 ﹁いなかに、じっとしていれば、心しん配ぱいなしだが、一ひと足あし旅たびへ出でれば、金かねよりたよりになるものはない。万ばん事じが金かねの世よの中なかだけ、金かねのありがたみもわかるが、また、金かねがおそろしくもなる。金かねがなくても、安あん心しんして、暮くらせるみちはないかと思おもうよ。﹂と、おじいさんは、嘆たん息そくしました。 ﹁まったく、おじいさんの、おっしゃるとおりです。金かねが、あるために、貧びん乏ぼう人にんをつくり、また、貧びん乏ぼうが、人にん間げんを卑ひく屈つにするのです。﹂と、おとうさんがいいました。 ﹁お金かねなんか、世よの中なかから、なくしてしまえばいいんだね。﹂と、勇ゆう吉きちがいいました。 ﹁まだ、おまえには、そんなことわかりません。だまって、聞きいていらっしゃい。﹂と、おかあさんは、勇ゆう吉きちをしかりました。 ﹁そうだ、馬うまも牛うしも、にわとりも、私わたしを待まっている。早はやく帰かえらなければ。﹂ こうおじいさんは、ひとりごとをしてから、話はなしは、またお金かねのことにもどりました。 ﹁わしが、はじめて、東とう京きょうへきたとき、夜よるおそく電でん車しゃに乗のったことがある。雨あめの降ふる暗くらい晩ばんで、その車くるまには、あまり人ひとが乗のっていなかった。そのうち、車しゃ掌しょうが、切きっ符ぷを切きりにきて、一ひと人りの男おとこの前まえで、なにかあらあらしくいっていたが、その男おとこを、途とち中ゅうからおろしてしまった。みすぼらしいふうをして、かさも持もっていなかったが、聞きいてみると、一銭せん不ふそ足くのためというのだった。もっとも、あのころだけれど。﹂ ふけると、さすがに冷ひえて、おじいさんが、くしゃみをなさったので話はなしを打うち切きって、みんなも、寝ねることにしました。いつになく、おそくまで、起おきていた、勇ゆう吉きちが、 ﹁おじいさんは、やっぱり、いなかのほうが、いいんでしょう。﹂というと、 ﹁勇ゆうぼうは、いなかへきて、おじいさんの家いえの子こにならんか。﹂と、しわのよった、かたい、大おおきな手てで、頭あたまをなでられました。 勇ゆう吉きちは、かつて、知しらなかった、あたたかな、強つよい力ちからを感かんじました。それがいつまでも、頭あたまに残のこったのでした。