春はる風かぜが吹ふくころになると、窓まどのガラスの汚よごれがきわだって目めにつくようになりました。冬ふゆの間あいだは、ほこりのかかるのに委まかしていたのです。裁さい縫ほう室しつの窓まどからは、運うん動どう場じょうの大おおきな桜さくらの木きが見みえました。 ﹁あの枝えだに花はなが咲さくのは、いつのことか。﹂と、ちらちらと雪ゆきの降ふる日ひに、外そとをながめながら思おもったのが、はや、くっきりと枝えだ全ぜん体たいにうす紅べに色いろを帯おびて、さんご樹じゅを見みるような気きがするのです。そして、一つ一つの、つばみがふくらんで、ぷつぷつとして、もうそれが開ひらくのも間まのないことでありました。かよ子こは、このごろ、裁さい縫ほうをしながら、ときどき思おもい出だしたように頭あたまを上あげて、外そとをながめるのが楽たのしみでありました。 ﹁ねえ、みんなで、窓まどのガラスをふきましょうよ。﹂ こういい出だしたのは、かよ子こでありました。 ﹁ええ、ふきましょう。この前まえ、おそうじしたのは、いつだったか。ずいぶんしなかったのね。﹂ ﹁寒さむいんですもの。空そらは暗くらかったし、する気きになれなかったでしょう。﹂ この四月がつ、卒そつ業ぎょうする高こう等とう科かの生せい徒とたちは、なんとなく気き持もちが浮うき浮うきとして、明あかるく元げん気きでした。 ﹁吉よし田ださんは、東とう京きょうへおいきなきるって、ほんとうですか。﹂と、年とし寄とって、もう髪かみに白しら毛がの見みえる先せん生せいが、いわれました。 ﹁叔お母ばさんが、おてつだいをしながら、もうすこし勉べん勉きょうをつづけたらといいますので。﹂と、かよ子こは答こたえました。 ﹁それはけっこうなことです。このお教きょ室うしつでは、あなたのお母かあさんもおけいこをなさったのですよ。お母かあさんは、どの課かも目くもよくおできになったが、お裁さい縫ほうもお好すきでした。いまのお子こさんたちは、どういうものか、お裁さい縫ほうがきらいですが、これからの日にっ本ぽんの婦ふじ人んは、ひととおりのお仕しご事とができなければ、大たい陸りくへもいけないと、校こう長ちょ先うせ生んせいもおっしゃっておいでです。﹂ ﹁それで、私わたし、東とう京きょうへいったら、夜やが学くにでも通かよって、洋よう裁さいを習ならおうかと思おもうのです。﹂ ﹁いいお考かんがえですね。時じせ勢いがこんなですから、衣いふ服くのほうも働はたらきいいように改かい良りょうされましょうし、私わたしなど、こうおばあさんになっては、新あたらしい研けん究きゅうは骨ほねがおれますし、若わかい人ひとにやってもらわなければ。﹂と、先せん生せいは、いわれて、さびしそうに笑わらわれました。 かよ子こは、お母かあさんが、まだ生せい徒との時じだ代いから、この学がっ校こうに教おしえていられる先せん生せいの生せい活かつを考かんがええると、なんとなく尊とうとく頭あたまの下さがるような気きがしました。 しばらく、かよ子こは、うつむいて、だまってお裁さい縫ほうをしていました。 はじめてお母かあさんにつれられて、この学がっ校こうへ上あがったとき、お母かあさんは、あの桜さくらの木きの下したに立たって、自じぶ分んたちが遊ゆう戯ぎをするのを見みていられた。ちょうど桜さくらの花はなが満まん開かいであった。風かぜの吹ふくたびに、ちらちらと花はなが散ちったのを記きお憶くしている。もうすぐに、幾いく年ねんめかで、その季きせ節つがめぐってくるのだ。 また、秋あきの運うん動どう会かいの日ひであった。それは、自じぶ分んが六年ねん生せいのときであったが、徒とほ歩きょ競うそ争うに出でるのをお母かあさんは、やはり、あの桜さくらの木きの下したに立たって見みていられた。桜さくらの幹みきから、校こう舎しゃの窓まどに張はり渡わたしてある綱つなには、無むす数うの日ひの丸まるの旗はたや、満まん洲しゅ国うこくの旗はたや、中ちゅ華うか民みん国こくの旗はたなどが、つるしてあった。夏なつの末すえごろから落おちはじめる桜さくらの木きの葉はは、もはや幾いくらもついていなかったようだ。そして、昼ひる過すぎから、雨あめがぽつぽつと当あたってきたのだったが、お母かあさんは、いつまでも、自じぶ分んの番ばん組ぐみのすむまでは、帰かえろうともされずに立たっていられた。 ﹁ああ、あの桜さくらの木きと、お母かあさん、そして、このお裁さい縫ほう室しつとなつかしい先せん生せい――。﹂ そんなことを考かんがえると、かよ子こは、もうどこへもいきたくなかった。いつまでも自じぶ分んの村むらから離はなれたくないような気きがしたのでありました。 ﹁先せん生せい、私わたし、保ほ姆ぼさんになりたいと思おもいますの。﹂と、一ひと人りの娘むすめが、いいました。 ﹁まあ、西にし村むらさんがどうしてそんなお考かんがえをなさったの。﹂ 先せん生せいは、やせ形がたの背せの高たかい生せい徒との方ほうをごらんになりました。 ﹁私わたし、子こど供もが大だい好すきですし、これから、村むらに人ひと手でが足たりなくて、みんなが働はたらくのに困こまりますから、子こど供もの世せ話わをするものが入いり用ようだと思おもったのです。﹂ ﹁それは感かん心しんですね。このあいだの教きょ員うい会んか議いぎのときに、この学がっ校こうにも託たく児じし所ょを設もうけたらという、先せん生せいがたのご意いけ見んが出でたのですよ。﹂ ﹁西にし村むらさんは、やさしいから、きっといい保ほ姆ぼさんになれると思おもいますわ。﹂ かよ子こは、心こころから、同どう感かんしたように、いいました。 じっさい、自じぶ分んたちが、学がっ校こうを出でた後のち、村むらのためにつくさなければならぬ仕しご事とが、いろいろあるような気きがしました。授じゅ業ぎょうが終おわって、校こう門もんを出でると、たがいに友ともだちと別わかれて、かよ子こは、一ひと人りさびしい道みちを歩あるいていました。 今こと年しは、雪ゆきが少すくなく、暖あたたかな日ひがつづいたので、田たを隔へだてた、あちらの丘おかの梅ばい林りんには、ちらほらと白しろく咲さきかけた花はなが、清きよらかな感かんじを与あたえました。うぐいすが鳴ないています。遠とおくを見みていると、前まえの方ほうから、二ふた人りの小ちいさい子こど供もが、この道みちを駈かけてきました。一ひと人りは姉あねで、後あとからつづくのは弟おとうとでした。 二ふた人りともひじょうにうれしそうで、姉あねのほうが、石いしけりのまねをすると、弟おとうともそのまねをするし、姉あねが飛とび上あがって、なわ飛とびのまねをすると、幼おさない弟おとうとも、それと同おなじかっこうをしたのであります。 そのうちに、チャリンという音おとがしました。弟おとうとのほうが、手てに握にぎっていた銭ぜにを落おとしたとみえて、あわてて、あたりをさがしはじめました。それに気きづかない姉あねは、一ひと人りで、先さきの方ほうへ走はしっていたが、後うし方ろで、弟おとうとの泣なき声ごえがすると、驚おどろいて、振ふり向むき、すぐにもどっていって、自じぶ分んもいっしょになって、落おとした銭ぜにをさがしたのでありました。けれど、ころがった銭ぜには、どこへいったか、見みえぬようなようすでした。 いままでの、二ふた人りのうれしそうな姿すがたが、たちまち悲かなしみの姿すがたに変かわってしまった。 ﹁だから、しっかり握にぎっていればいいのに。﹂ ﹁しっかり持もっていたんだよ。﹂ ﹁そんなら落おとしっこないでしょう。﹂ ちょうど、かよ子こは、そこへ通とおりかかったのでした。 ﹁とみ子こちゃん、どうしたの。﹂ ﹁清せいちゃんがね、風ふう船せん球だまを買かうおあし落おとしてしまったの。﹂ ﹁まあ。﹂ かよ子こは、いっしょになって、銭ぜにをさがしてやりました。田たの縁ふちになった道みちの端はしに、紫むら色さきいろのすみれの花はなが咲さきかけていた。その葉はの蔭かげに、五銭せんの白はく銅どうが鈍にぶい光ひかりを放はなっているのでした。 二ふた人りの子こど供もは、また町まちの方ほうへ向むかって駈かけていきました。 ﹁東とう京きょうって、どんなところかしらん。﹂ かよ子こは、歩あるきながら、まだ見みぬ都とか会いのことを考かんがえていました。これから二、三年ねん勉べん強きょうにいく、そして、朝あさ晩ばんいっしょに暮くらさなければならぬ従いと兄こや、従いと妹このことを――。 だが、四、五日にちの後のちには、彼かの女じょは、南みなみへ南みなみへと走はしっている汽きし車ゃの中なかに、腰こしかけていたのでした。 山やまを一つ越こすと、すでに桜さくらの花はなは満まん開かいでした。ある小ちいさな駅えきにさしかかる前まえ、桜さくらの木きのある土ど手てで四、五人にんの工こう夫ふが、並ならんでつるはしを振ふり上あげて線せん路ろを直なおしていました。すこし離はなれて、監かん督とくらしい役やく人にんが、茶ちゃ色いろの帽ぼう子しを被かぶり、ゲートルを巻まいて、桜さくらの木きの下したに立たって見みま守もっていたのです。その目めから口くちもとへかけて、柔にゅ和うわな顔かおつきが、どこかお父とうさんに似にているように思おもいました。しかも、洋よう服ふくのボタンが一つ取とれて、ひじのあたりが破やぶれている具ぐあ合いまでが、無むと頓んち着ゃくで、直なおしてあげるといってもめんどうくさがる、お父とうさんのようすを彷ほう彿ふつさせて、気きの毒どくのようにも、慕したわしいようにも感かんじられて、 ﹁いまごろ、お父とうさんは、お家うちでなにをしていらっしゃるだろう。﹂と、しぜんと目めに、熱あつい涙なみだがにじむのでした。 昼ひる過すぎには、どの山やま々やまも、うしろに遠とおくなって、故こき郷ょうをはるばると離はなれたという心ここ持ろもちがしました。 ちがった新あたらしい駅えきに、汽きし車ゃが着つくと、そこは入にゅ隊うたいする兵へい士しの見みお送くりで、構こう内ないがにぎわっていました。白しろい上うわ衣ぎに国こく防ぼう婦ふじ人んのたすきをかけた婦ふじ人んたちがたくさん、かよ子この目めに入はいりました。その中なかの、いちばんうしろに、立たっている背せの低ひくい人ひとが、またお母かあさんそっくりでありました。真まっ白しろな足た袋びをはいて、手てに小ちいさな日ひの丸まるの旗はたを持もって、笑わらいながら、じっとこちらを見みていました。見みれば、見みるほど、顔かおかたちからかっこうがお母かあさんそっくりです。 ﹁お母かあさん。﹂と、かよ子こは、もうすこしで呼よぼうとしました。 やがて汽きし車ゃが動うごくと、そのお母かあさんも、いっしょうけんめいに旗はたを振ふっていました。 ﹁万ばん歳ざい、万ばん歳ざい。﹂ かよ子この頭あたまは、ぼんやりとしてしまいました。こうお父とうさんや、お母かあさんに似にた人ひとが、世よの中なかにあるものだろうかと、不ふ思し議ぎでならなかった。はじめて旅たびをして知しったのであるが、世せけ間んというところは、こんなに近ちかしいものどうしの寄より集あつまりだろうか。そう考かんがえると、急きゅうに悲かなしみでふさがっていた胸みねのうちが、だんだん明あかるくなりました。 汽きし車ゃが、ある国こく民みん学がっ校こうのそばを通つう過かしました。広ひろい運うん動どう場じょうでは、子こど供もたちが、ボールを投なげたり、なわ飛とびをしたり、また滑すべり台だいに乗のったりして遊あそんでいました。ここの運うん動どう場じょうにも、桜さくらの木きが、二本ほんも三本ぼんもあって、下したの地じは白しろく、花はなが散ちりはじめていました。 ﹁私わたしの学がっ校こうの桜さくらは、もう咲さいたろうか。﹂ 遊あそんでいる生せい徒とたちの中なかには、西にし村むらさんもいれば、すみ子こさんも、とき子こさんも、仲なかのいいお友ともだちがいるばかりでなく、自じぶ分んもまた、いるような気きがしました。すると、あのお裁さい縫ほう室しつが浮うかんで、先せん生せいのお顔かおが見みえました。 お父とうさん、お母かあさん、先せん生せい、お友ともだちも、桜さくらもどうかみんな元げん気きで、お達たっ者しゃでいてください。私わたしは、いってまいります。修しゅ行ぎょうが終おわって帰かえったら、そのときは、みなさんのために、力ちからいっぱい働はたらきます……と、彼かの女じょは、心こころに誓ちかったのでした。 その学がっ校こうも、運うん動どう場じょうも、たちまち後うし方ろになって、汽きし車ゃは、南みなみへ、南みなみへ、と走はしっていました。