汽きて笛きが鳴なって、工こう場じょうの門もんをでるころには、日ひは西にしの山やまへ入はいるのでありました。ふと、達たつ夫おは歩あるきながら、 ﹁僕ぼくのお父とうさんは、もう帰かえってこないのだ。﹂と、頭あたまにこんなことが思おもい浮うかぶと、いつしかみんなからおくれて、自じぶ分んは、ひとりぼんやりと、橋はしの上うえに立たっていました。 もはや通とおる人ひともありません。水みずは海うみの方ほうへ向むかって流ながれています。広こう告こく燈とうの赤あかい光ひかりが、川かわ水みずのおもてに映うつっていました。 ﹁いつか、お父とうさんに海うみへつれていってもらった。帰かえりは、暗くらくなった。そして、電でん車しゃの窓まどから、あの広こう告こく燈とうが見みえたっけ、あのときは楽たのしかったなあ。﹂ 学がく生せい服ふくを着きた少しょ年うねんの目めから、熱あつい涙なみだがながれました。つねに彼かれはほがらかだったのです。お父とうさんは、お国くにのために戦たたかって、死しんだのだ。そして英えい霊れいは永えい久きゅうに生いきていて、自じぶ分んたちを見みま守もっていてくださるのだ。だからさびしくないと信しんじていたのでした。しかるに、どうしたのか、今きょ日うは、ばかにお父とうさんのことが思おもい出だされてなつかしかったのです。 ﹁もし、生いきていらして、あの小こや山まくんのお父とうさんみたいに、凱がい旋せんなさったらなあ。﹂と、考かんがえると、思おもっただけで、飛とびたつような気きがしました。 ちょうど、このとき、灰はい色いろの影かげが、銃じゅうをかついで、あちらから橋はしを渡わたって、足あし音おとをたてずに、きかかりました。 ﹁あっ、お父とうさんでないか。﹂ 達たつ夫おは、目めをみはりました。たとい、幽ゆう霊れいでも、お父とうさんだったら抱だきつこうと待まっていると、それは、釣つりざおをかついで、どこかの人ひとがつかれた足あしを引ひきずりながらくるのでした。 ﹁駅えきへは、まだ遠とおうございますか。﹂と、その人ひとが、たずねました。 ﹁この町まちをまっすぐにいって、つき当あたるとじきです。﹂と、達たつ夫おは、おしえました。 ぶどう色いろに空そらは暮くれて、ボーウと、サイレンが鳴なりひびきました。これから、工こう場じょうでは、夜やぎ業ょうがはじまるのです。 ﹁非ひじ常ょう時じのことで、仕しご事とが忙いそがしくなりました。体からだが強きょ健うけんで、希きぼ望うの方かたは、奮ふるって居いの残こってもらいたい。﹂と工こう場じょ長うちょうのいった言こと葉ばが、達たつ夫おの耳みみに、はっきりとよみがえりました。 同どう時じに、彼かれは、戦せん時じ日にっ本ぽんの勇ゆう敢かんな少しょ年うね工んこうであったのです。急きゅうに、彼かれの足あしには力ちからが入はいったし、両りょ方うほうの腕うでは、堅かたくなりました。町まちへ入はいると、ラジオの愛あい馬ばし進んぐ軍ん歌かがきこえてきました。彼かれは、いつものごとくほがらかで、口くち笛ぶえをそれに合あわして、家いえに帰かえるべく駅えきの方ほうへ歩あるいていました。 ﹁ああ、おそくなった。﹂ 電でん車しゃに乗のって、腰こしを下おろすと、ひとり言ごとをしました。外そとは暗くらくなって、ただ町まちの燈あか火りが星ほしのように、きらきらしているばかりです。彼かれは、いつも帰かえる時じぶ分んに、晴はれた空そらにくっきりと浮うかび出でた、国こっ境きょうの山やま々やまの姿すがたを見みるのが、なによりの楽たのしみだったのです。人ひとのめったにいかない清せい浄じょうな山やまの頂いただきや、そこに生はえて、風かぜに吹ふかれている林はやしの景けし色きなどを考かんがえるだけでも、一日にちの疲つかれを忘わすれるような気きがしました。そして、お父とうさんの霊れい魂こんは、きっとあんなような清きよらかなところに住すんでいらっしゃるのだろうと思おもったのでした。それが、もうおそくなって、山やまが見みえないのは残ざん念ねんです。 じっと、燈あか火りを見みているうちに、家うちで自じぶ分んの帰かえるのを待まっているお母かあさんの姿すがたが浮うかびました。 ﹁そうだ、僕ぼくは強つよくなるのだ。そして、お母かあさんの力ちからにならなければ。﹂ 彼かれは、きっとして、頭あたまを上あげました。 その翌よく日じつの晩ばんのことです。 お母かあさんは、夕ゆう飯めしの用よう意いをして、おなかをすかして帰かえってくる息むす子こを待まっていられました。自じぶ分んにはなくても、子こど供もには、べつに滋じよ養うになりそうなお肴さかながついています。 ﹁どうしたんでしょうね。いつも、いまごろは帰かえってくるのに。﹂と、お母かあさんは、時とけ計いを見み上あげていられました。どうしたのか、達たつ夫おは、いつになく帰かえりがおそかったのです。 ﹁お母かあさん。おそくなっても、心しん配ぱいしなくていいよ。﹂と、出でがけにいった、わが子この言こと葉ばが思おもい出だされました。けれど、帰かえる時じこ刻くのきまっているのに、こうおそいはずがない。なにかまちがいがあったのでなければいいがと、お母かあさんは心しん配ぱいしました。 ﹁機きか械いにふれて、けがをしたのではないかしらん。﹂ あれほど、気きをつけるようにと、日ひごろいっているけれど、どんなことで、あやまちがないともかぎらない。会かい社しゃへ電でん話わをかけてみようか、電でん話わの番ばん号ごうをよくきいておけばよかったと、お母かあさんは、気きをもんでいられました。 そのうちにも、時とけ計いの針はりはこくこくとたっていったのです。いつも帰かえる時じか間んより一時じか間ん、二時じか間ん、二時じか間んは半んと過すぎてしまったのです。 ﹁あの子こにかぎって、だまって、ほかへ遊あそびにいくようなことはない。﹂ そう思おもうと、お母かあさんは、こうして、じっとしていることができませんでした。 暗くらい道みちを、お母かあさんは、停てい車しゃ場じょうの方ほうへ向むかって歩あるいていました。おそらく、途とち中ゅうで息むす子こに出であうであろうと思おもわれたので、あちらから、足あし音おとがすると、立たち止どまって、その人ひとの近ちかづくのを待まっていました。見みると、ちがっています。またすこしいくと、こちらへくるくつ音おとがしました。 ﹁あの足あし音おとこそ、たしかに達たつ夫おのようだ。﹂ お母かあさんは、闇やみをすかして、見みのがすまいとしました。ちょうど、年としごろから、脊せいの高たかさまで、そっくり同おなじかったので、 ﹁達たつ夫おじゃない?﹂と、お母かあさんは、声こえをかけました。しかし、ちがっていたとみえて、その少しょ年うねんは、だまっていってしまいました。道みちの曲まがり角かどに、肉にく屋やがあって、燈あか火りが明あかるく往おう来らいへさしています。お母かあさんは、しばらくそこに立たっていました。あとから、あとから、勤つとめから帰かえるらしい人ひと影かげが、前まえをすぎていきました。 ﹁まだ、こうして、みなさんが、お帰かえりなさるのだもの、そんなに心しん配ぱいすることはない。﹂お母かあさんは、みずから、気き持もちを休やすめようとしました。けれども、こうしてみなさんが家うちへ急いそいで帰かえられるのに、いつも早はやく帰かえる我わが子こが、どこにどうしているだろうと思おもうと、またしても気きをもまずにはいられなかったのであります。お母かあさんは、とうとう、駅えきの前まえまできてしまいました。 ゴウ、ゴウ、と、ひびきをたて、電でん車しゃがホームへ入はいると、まもなく、どやどやと階かい段だんを降おりて、人ひと々びとが先さきを争あらそって、改かい札さつ口ぐちから外そとへ出でてきました。中なかには、大おと人なにまじって、達たつ夫おぐらいの少しょ年うねんもありました。片かた手てに弁べん当とう箱ばこと書しょ物もつを抱かかえ、片かた手てにこうもりを握にぎっていました。お母かあさんは、そのようすつきを見みると、我わが子この姿すがたを思おもい出だして、なんとなくいじらしくなって、あつい涙なみだがしらずにわいてくるのです。 まだ、自じぶ分んの子こだけが、帰かえってきませんでした。お母かあさんの胸むねは、早はや鐘がねを打うつように、どきどきとしました。そして、改かい札さつ口ぐちのところまできて、階かい段だんを見み上あげて、いまか、いまかと待まっていました。もう勤つとめから帰かえる人ひとは、たいてい帰かえったとみえて、その姿すがたは絶たえてしまいました。そして、電でん車しゃの着つくたびに降おりるものは、活かつ動どうを見みた帰かえりのものか、盛さかり場ばで酒さけを飲のんできて、酔よっぱらっているような人ひとたちでありました。その人ひとたちの数かずもだんだん少すくなくなって、お母かあさんは、悲かなしくなってきました。 ﹁きょう、電でん車しゃに、なにか故こし障ょうでもなかったでしょうか。﹂と、たまらなくなって、お母かあさんは駅えき員いんにたずねました。 ﹁さあ、べつになかったようですが。﹂と、駅えき員いんは簡かん単たんに答こたえました。 やがて時とけ計いが、十一時じは半んになろうとしたときです。ゴウ、ゴウといって新あらたに電でん車しゃがつくと、まもなく人ひと々びとが、ばらばらと階かい段だんへ降おりてきました。そのなかに、肩かたをそびやかして、胸むねを張はり、元げん気きな歩あるきつきで、階かい段だんを下おりるとまっすぐに改かい札さつ口ぐちへ向むかってきたのは、達たつ夫おでありました。お母かあさんは見みると走はしり寄よりました。 ﹁達たつ夫お、どうして、こんなにおそかったのだい。﹂ ﹁おそくとも、心しん配ぱいしなくていいといったのに。﹂ ﹁でも、もう十一時じ過すぎじゃないか。﹂ ﹁お母かあさん、僕ぼく、夜やぎ業ょうをしてきたんだよ。﹂ ﹁まあ、夜よるまで働はたらいては、おまえの体からだにさわるでしょう。﹂ 母ははと子こは、話はなしながら、とっくに店みせを閉しめてしまって、暗くらくなった、町まちの通とおりを歩あるいていきました。 ﹁お母かあさんは、おまえ一ひと人りが、頼たよりなんだよ。おまえのからだは、大だい事じなんだからね。﹂ ﹁だいじょうぶですよ、お母かあさん。そう心しん配ぱいするなら、明あし日たから早はやく帰かえります。﹂ ﹁ああ、どうか、そうしておくれ。﹂ お母かあさんは、くらがりで、息むす子こに気きづかれないように、そっと涙なみだをふきました。