Kケー町まちは、昔むかしから鉄てっ工こう場じょうのあるところとして、知しられていました。町まちには、金かね持もちが、たくさん住すんでいました。西にしの方ほうを見みると、高たかい山やまが重かさなり合あって、その頂いただきを雲くもに没ぼっしていました。そして、よほど、天てん気きのいい日ひでもなければ、連つらなる山やまのすがたを見みつくすことができなかったのであります。 その山やまおくにも、人にん間げんの生せい活かつが、いとなまれていました。ひとりの背せの高たかい、かみのぼうぼうとした、目めばかり光ひかる、色いろの黒くろい男おとこが、夏なつのさかりに、大おおきな炭すみ俵だわらをおって、このけわしい山やま道みちを歩あるいて、町まちへ売うりにきました。じぶんが木きをきり、そしてたいて製せい造ぞうしたものを、売うりに出でて、その金かねで、食たべ物ものや、着きる物ものを買かって、ふたたび山やまへはいるにちがいありません。それは、いくらかせいでも、しれたものです。これだけで、人にん間げんが、一年ねんじゅうの生せい活かつをすると考かんがえると、ひとつの炭すみ俵だわらにも、命いのちがけのしんけんなものがあるはずでありました。 ある夏なつのこと、男おとこは、汗あせをたらして、重おもい炭すみだわらを二つずつおって、山やまをくだり、これを町まちのある素そほ封う家かの倉くらへおさめました。この家いえは、けちんぼということで、町まちでもだれ知しらぬはなかったのです。そのおさめ終おわった日ひに、男おとこは代だい金きんをせいきゅうしますと、おさめた俵たわ数らかずより、二俵ひょう少すくなく、これしかうけとらぬから、それだけの代だい金きんしかはらえないというのでした。 ﹁そんなはずはない、十俵ぴょういれました。﹂と、男おとこは庭にわさきにつったって、いいました。 ﹁八俵ぴょうしか、いれてない。そんないいがかりをつけるなら、倉くらにはいってかぞえてみるがいい。﹂と、主しゅ人じんは、いたけだかになりました。 男おとこは、山やまを五たび下くだって、またのぼったきおくがあります。それで倉くらにいって、数かずをかぞえてみると十いれたものが、八つしかなかった。かれの顔かおは、土つち色いろとなりました。しかたなく、八俵ぴょうの代だい金きんをふるえる手てで、うけとると、おそろしい顔かおをして、このいかめしい門もんのある家いえをみかえって出でていきました。 男おとこは丘おかの上うえに立たって、Kケー町まちを見みおろしながら、 ﹁死しんでも、忘わすれやしねえぞ。﹂といった。 そのとき、少しょ年うねんは、かれのみすぼらしい、いかりにおののいた姿すがたをみたのです。目めの下したに、林はやしのごとく立たった、えんとつからは、黒くろいけむりが、青あおい空そらにのぼっていました。 その後ご、だれの口くちからともなく、うわさにのぼった、金かね持もちが、山やま男おとこの炭すみ代だいをごまかしたというのをきいたとき、少しょ年うねんは、ある日ひ、けっして、男おとこは、気きがくるっていたのではないのを知しりました。そして、この素そほ封う家かの前まえを通とおるたびに、いかめしい門もんをにらんだのであります。 ﹁あのしんだいで、そのうえ、鉄てっ工こう場じょうの、利りえ益きは配いと当うが、たくさんあるのに、なんで、山やま男おとこの炭すみなんかをごまかすような、けちなことをするのか。﹂ こういう、人ひとの話はなしをきくときに、少しょ年うねんには、みすぼらしい、いかりにもえた、山やま男おとこの姿すがたが、目めにみえたのでした。 他たこ国くの寺てらから、大おおきなぼん鐘しょうをこの町まちでひきうけたのは、それからのちのことでありました。 ﹁大おおきなもんだそうだ。他たの工こう場じょうでは、どこでもつくり手てがないというので、この町まちへあつらえにきた。なにしろ寄きし進んの金かねで、できるのだそうだから、この町まちの工こう場じょうでも、職しょ工っこうにいいつけて、念ねんをいれてつくっているということだ。﹂ こんなことばが、少しょ年うねんの耳みみにはいったとき、人ひとのまねることのできない、どんな芸げい術じゅ品つひんがうまれるだろうと、いろいろの美うつくしい、鐘かねの形かたちを、そうぞうにえがきました。 それは、ちょうど、夏なつも、やがていこうとするところであります。 ﹁大おおきな鐘かねが、できあがって、港みなとまで、車くるまに乗のせて、引ひかれていき、そこから船ふねで、あちらへ送おくられるのだ。﹂と伝つたわりました。 ﹁町まちじゅう、たいへんなさわぎだというから、ぜひ、けんぶつにいかなくてはならぬ。﹂と、村むらの人ひとたちもいいました。 その日、少しょ年うねんにとって、昼ひるまえは、いそがしくて出でられませんでした。いまごろ、鐘かねを引ひく行ぎょ列うれつが、町まちを通とおるであろう昼ひるすぎになって、町まちへいこうとした、そのじぶんから、きゅうに天てん気きがあやしくなりました。つめたい風かぜが、ふきだして、木こだ立ちの葉はや、たんぼにうわっている、とうもろこしの葉はうらをかえして、それがなんとなく不ふあ安んに、銀ぎんのごとく白しろくきらめいていたのです。 ﹁降ふるかもしれないが、いってみようかな。﹂ 少しょ年うねんは、ちゅうちょしましたが、ついに、灰はい色いろの雲くものせわしそうに、頭あたまの上うえを走はしる野のは原らをひととびに走はしって、町まちへいきました。さすがに、両りょうがわに、人ひとは黒くろ山やまのごとく集あつまっています。人ひとをおしわけて、 ﹁どんな、大おおきい、みごとな鐘かねか? どんな、形かたちをしているか?﹂ 少しょ年うねんは、のぞいてみようとしました。そして、かれは、なにをみたでしょう? いく十人にんか、かき色いろの着きも物のをきた、囚しゅ人うじんが、列れつをなして、なわにすがり、それを引ひいていたのです。 ﹁あっ……。﹂という、おどろきが、少しょ年うねんの口くちから出でました。もうそれをみる勇ゆう気きもなく、しおしおとして、かれは、さっききた道みちを、村むらへもどりました。 ﹁なんで、囚しゅ人うじんになんか、引ひかせたのだろう?﹂と少しょ年うねんは、晩ばんがた町まちから、見みてきた年としよりにむかって、たずねました。 ﹁賃ちん金ぎんが、やすいからだろうが、あんなことをさせるのは、むじひだ。﹂ 年としよりは、こうかんたんにこたえました。このじぶんから、いよいよ雨あめがふりだした。 鐘かねは、船ふねにうつすさいに、すべって、板いたをころがると海うみのなかに落おちてしまったそうです。その話はなしが夜よるになってから、町まちや村むらを、びっくりさせました。 落おちた鐘かねは、海うみが深ふかく、下したに岩いわが多おおいために、ありかをさぐったけれど、わからず、それきりになってしまったが、ふしぎなことは、とうざ、あらしの日ひに、海うみがあれると、どこからともしれず、海うみのなかから鐘かねの音ねがきこえたことです。 しかし、それも月つき日ひがたつと、鐘かねの音ねも、うわさとともに、きえていきました。 ただ、たねだけは、いつか芽めが生はえ、その芽めはのびるものです。少しょ年うねんは、大おおきくなってから、この町まちの工こう場じょうに働はたらいて、正せい義ぎと自じゆ由うのために、たたかう身みとなりました。そしてつかれると、かれは、丘おかにあがった。すると、みすぼらしいふうをした山やま男おとこが、いかりにおののいて、 ﹁死しんでも、忘わすれやしねえぞ!﹂とさけんだ、姿すがたが目めにみえて、かれをうちのめしました。 また、海かい岸がんに立たって、ぼうぜんとして、ため息いきをつくと、どこからともなく、鐘かねの音ねが、きこえて、すげがさをかぶった、囚しゅ人うじんのむれが、くもの子このごとく、なぎさにうごめくまぼろしがうかびました。 ﹁よし、たたかうぞ! なんで忘わすれるものか。﹂と勇ゆう気きをとりかえして、さけぶと、たちまち、あわれな囚しゅ人うじんたちの姿すがたは、白はく鳥ちょうとなって、夕ゆうやけのする、空そらに舞まいあがり、ようようとして、つばさをかがやかして、とぶのでした。ただ、鐘かねの音ねばかりは、しおの色いろが、くらくなるまで、いつまでも、なりやまなかったのであります。 ――一九三〇・九――