︵この童どう話わはとくに大おと人なのものとして書かきました。︶ 昔むかし、京きょ都うとに、利りす助けという陶とう器きを造つくる名めい人じんがありましたが、この人ひとの名なは、あまり伝つたわらなかったのであります。一代だいを通つうじて寡かさ作くでありましたうえに、名みょ利うりというようなことは、すこしも考かんがえなかった人ひとでしたから、べつに交こう際さいをした人ひとも少すくなく、いい作さく品ひんができたときは、ただ自じぶ分んひとりで満まん足ぞくしているというふうでありました。 しかし、世せけ間んというものは、評ひょ判うばんが高たかくなければ、その人ひとの作つくったものを重おもんずるものでありません。一ひと人りや、二ふた人りは、まれに、目めをとめて見みることはあっても、問もん題だいにしなければ、永えい久きゅうに、それだけで忘わすれられてしまうのです。 落おち葉ばにうずもれた、きのこのように、利りす助けの作さく品ひんは、世よに表あらわれませんでした。そしてうす青あおい、遠えん山ざんほどの印いん象しょうすらもその時じだ代いの人ひとたちには残のこさずに、さびしく利りす助けは去さってしまいました。 それから、幾いく十年ねんもの間あいだ、惜おしげもなく、彼かれの作つくった陶とう器きは、心こころない人ひとたちの手てに取とり扱あつかわれたのでありましょう。がらくたの間あいだに混まじっていました。 利りす助けの陶とう器きの特とく徴ちょうは、その繊せん細さいな美びみ妙ょうな感かんじにありました。彼かれは薄うす手でな、純じゅ白んぱくな陶とう器きに藍あいと金きん粉ぷんとで、花かち鳥ょうや、動どう物ぶつを精せい細さいに描えがくのに長ちょうじていたのであります。 瓦かわらのような厚あつい、不ぶさ細い工くな焼やき物ものの間あいだに、この紙かみのようにうすい、しかも高こう貴きな陶とう器きがいっしょになっているということは、なんという心こころないことでありましょう? しかも心こころない人ひとたちは、それをいっしょにして、手てあらく取とり扱あつかったのであります。こうして作さく数すうの少すくなかった利りす助けの作さく品ひんは、時じだ代いをへるとともに、いつしかなくなってゆきました。 空そらに輝かがやく星ほしが、一つ、一つ、消きえ失うせるように、それはさびしいことでした。そして砕くだけた作さく品ひんは、砂され礫きといっしょに、溝みぞや、土つちの上うえに捨すてられて、目めから去さってゆくのでした。 しかし、また、人にん間げんのほんとうの努どり力ょくというものが、けっしてむなしくはならないように、真しんの芸げい術じゅつというものが、永えい久きゅうに、その光ひかりの認みとめられないはずがないのであります。 ひとたび土どち中ゅうにうずもれた金きん塊かいは、かならず、いつか土つちの下したから光ひかりを放はなつときがあるように、利りす助けの作さく品ひんが、また、芸げい術じゅつを愛あい好こうする人ひとたちから騒さわがれるときがきたのでした。 けれど、その時じぶ分んには、少すくない品しな数かずは、ますます少すくなくなって、完かん全ぜんなものとては、だれか、利りす助けの作さく品ひんを愛あいしていたごく少しょ数うすうの人ひとの家かて庭いに残のこされたものか、また、偶ぐう然ぜんのことで戸とだなのすみにほかの陶とう器きと重かさなり合あって、不ふ思し議ぎに、破やぶれずにいたものだけであったのです。 ﹁利りす助けというような名めい人じんがあったのに、どうしていままで知しられなかったろう。﹂と、陶とう器きの愛あい好こう家かの一ひと人りがいいますと、 ﹁ほんとうの名めい人じんというものは、みんな後あとになってからわかるのだ、見けん識しきが高たかかったとでもいうのだろう。﹂と、その話はなしの相あい手てはさながら、名めい人じんが、その時じだ代いでは、不ふぐ遇うであったのを怪あやしまぬように答こたえました。 ﹁私わたしは、利りす助けの作さくがたまらなく好すきだ。まあ、この藍あい色いろの冴さえていてみごとなこと。金きん粉ぷんの色いろもその時じぶ分んとすこしも変かわらない。上じょ等うとうのものを使つかっていたとみえる。﹂ ﹁貧びん乏ぼうな暮くらしをしたということだが、芸げい術じゅつのうえでは、なかなかの貴きぞ族くし主ゅ義ぎだった。﹂ ﹁私わたしは、利りす助けの作つくった完かん全ぜんなさらがあるなら、どれほどの金かねを出だしても、一枚まいほしいものだ。﹂ ﹁その考かんがえは、ぜいたくだろう。なにしろ、あの薄うす手ででは、大だい事じにして、しまっておいても保ほぞ存んは、容よう易いではない。﹂ ﹁なぜ、あんなに、薄うす手でに焼やいたものだろうか。﹂ ﹁あの薄うす手でがいいのだ。あれでなければあの純じゅ白んぱくの色いろは出だせないのだ。﹂ ﹁もっとも、利りす助けほどの天てん才さいは、自じぶ分んのものが長ながく保ほぞ存んされるためとか、どうとかいうような俗ぞくな考かんがえはもたなかったろう。ただ、気きひ品んの高たかいものを作つくり上あげたいと思おもっていたにちがいない。﹂ ﹁そのとおりだ。﹂ 陶とう器きの愛あい好こう家かによって、こんな話はなしがかわされたのは、すでに、利りす助けが死しんでから、百年ねん近ちかくたってから後のちのことであった。 ここに、一ひと人りの陶とう器きの好すきな男おとこがありました。ちょうど江えど戸ま末っ期きのころで、ある日ひ、日にほ本んば橋しへ辺んを歩あるいていまして、ふとかたわらにあった骨こっ董とう店てんに立たち寄よって、いろいろなものを見みているうちに、台だいの上うえに置おいてあったさかずきに目めがとまりました。 男おとこは、それを手てに取とってみますと、思おもいがけない、利りす助けの作つくったさかずきでした。しかも無むき傷ずで藍あいの色いろもよく、また描かいてある絵えの趣おもむきも申もうし分ぶんのないものでありました。 ﹁ほう、めずらしいさかずきだな。﹂ と、彼かれは、心こころで思おもいました。 さだめし高こう価かのものであろうと思おもいながら聞きいてみますと、はたして相そう当とうな値あたいでした。しかし、ほしいと思おもったものは、無む理りをしても手てにいれなければ、気きのすまないのが、こうした好こう事ず家かの常つねであります。男おとこは、それを求もとめて、家うちに帰かえりました。 彼かれは、どんなに、その一つのさかずきを手てに入いれたことを、うれしく思おもったでしょう。 ﹁どうして、このうすいさかずきが、こわれずに、今きょ日うまで残のこっていてくれたろう。そして、ほかの人ひとの目めにとまらずに、俺おれの目めにとまってくれたろう? 不ふ思し議ぎにも、また、ありがたいことだ。きっと、世せけ間んの人ひとは、利りす助けという名めい人じんをまだ知しらないからだろう。これに描かいてあるねずみの絵えはどうだ? この藍あいの冴さえていて、いまにも匂においそうなこと、金きん色いろの――ちょうの翅はねを彩いろどった、ただ一点てんではあるが、――溶とけそうに、赤あかみのある光ひかりを含ふくんでいること、ほんとうに、驚おどろくばかりだ。﹂ 彼かれは、さかずきを手てに取とったまま、ぼんやりとしていました。街まちの暮くれ方がたとなりました。さまざまの物もの売うりの呼よび声ごえがきこえてきたり、また人ひと々びとの往おう来らいの足あし音おとがしげくなって、あたりは一時じはざわめいてきました。こうして、やがては、しっとりとした、静しずかな夜よるにうつるのでした。 彼かれは、この黄たそ昏がれ方がたに、じっとさかずきを手てに取とって、見み入いりながら、利りす助けというような名めい人じんが百年ねん前まえの昔むかし、この世よの中なかに存そん在ざいしていたことについて、とりとめのない空くう想そうから、夢ゆめを見みるような気き持もちがしたのです。 彼かれは、うれしさをとおりこして、あるさびしさをすら感かんじました。そして、夜よる、燈あか火りの下したに膳ぜんを据すえて、毎まい晩ばんのように酌くむ徳とく利りの酒さけを、その夜よは、利りす助けのさかずきに、うつしてみたのです。 ﹁まあ、これを見みい。ねずみが浮ういて、いまにも飛とび出だしそうだ。﹂ 彼かれは、家かな内いのものを呼よんで、利りす助けの作つくったさかずきの中なかをのぞかせました。 みんなは、陶とう器きについて、見み分わけるだけの鑑かん識しきはなかったけれど、そういわれてのぞきますと、さすがに名めい人じんの作さくだという気きが起おこりました。 ﹁ねずみの下したにある、実みのなっています草くさは、なんでございましょうか?﹂と、女にょ房うぼうはきいた。 ﹁これは、やぶこうじだ。なんといいではないか。﹂と、彼かれは、こう答こたえて見みとれました。 ﹁ようございますこと。﹂ ﹁ここが、名めい人じんじゃ、自しぜ然んの趣おもむきが、こんな小ちいさなさかずきの中なかにあふれている感かんじがする。﹂ ﹁しかし、よく、こんなさかずきが、見みつかりましたものでございますこと。﹂ ﹁世よの中なかには、ほんとうの目めあきというものは少すくないのだ。﹂ ﹁いくら、名めい人じんが出でましても、ほんとうにわかる人ひとがなければ、知しられずにしまうのでございましょうね。﹂ ﹁そうだ。﹂ 彼かれは、こんな話はなしをして、当とう座ざは、名めい人じんの作つくったさかずきが、手てにはいったことを喜よろこんでいました。 ﹁このさかずきだけは、わらないようにしてくれ。﹂と、彼かれは、家かな内いのものに、よくいいきかせました。 女にょ房うぼうをはじめ、家かな内いのものは、そのさかずきを取とり扱あつかうことが怖おそろしいような気きがしました。 ﹁どうか、このさかずきは、箱はこにいれて、しまっておいてくださいませんか。わるとたいへんでございますから。﹂と、女にょ房うぼうは、あるとき、彼かれに向むかっていったのでした。 彼かれは、しばらく、黙だまって考かんがえていました。そして、頭あたまを上あげて、おだやかな顔かおつきをして女にょ房うぼうを見みました。 ﹁注ちゅ意ういをして、それでわったときはしかたがない。なるほど、このさかずきもたいせつな品しなには相そう違いないが、人にん間げんは、もっとたいせつなものをどうすることもできないのだ。こうして、このさかずきを愛あい撫ぶする私わたしどもも、いつまでもこの世よの中なかに生いきてはいられるのでない。さかずきも大だい事じだが、だれの力ちからでもそれより大だい事じな自じぶ分んの命いのちをどうすることもできないのだ。そのことを思おもえば、なにものにも万ばん全ぜんを期きすることはかなわないだろう。﹂と、彼かれはいいました。 長ながい間あいだの江えど戸じ時だ代いの泰たい平へいの夢ゆめも破やぶれるときがきました。江え戸どの街まち々まちが戦せん乱らんの巷ちまたとなりましたときに、この一家かの人ひと々びとも、ずっと遠とおい、田いな舎かの方ほうへ逃のがれてきました。そして、そこで、余よせ生いを送おくったのであります。 江え戸どから、田いな舎かへのがれてくる時じぶ分んに、みんないろいろなものを捨すてて、着きの身み着きのままで逃にげなければなりませんでした。女おんなは、平ふだ常んたいせつにしていた、くしとか、笄こうがいとか、荷にも物つにならぬものだけを持もち、男おとこは、羽はお織り、はかまというように、ほかのものを持もっては、長ながい道どう中ちゅうはできなかったのです。 しかし、彼かれは、利りす助けのさかずきを持もってゆくことを忘わすれませんでした。田いな舎かの人ひととなりましてからも、彼かれは、利りす助けのさかずきを取とり出だしてながめることによって、さびしさをなぐさめられたのであります。 こうして、彼かれは、晩ばん年ねんを送おくりました。そして、高こう齢れいでこの世よの中なかから去さったのであります。彼かれが、なくなっても、そのさかずきだけは、完かん全ぜんの姿すがたで後のちまで残のこりました。 彼かれの女にょ房うぼうは、いまおばあさんとなりました。そして、彼かの女じょが、生いきながらえている間あいだは、毎まい晩ばんのように、利りす助けのさかずきに酒さけをついで、これを亡ぼう父ふの御みた霊まの祭まつってある仏ぶつ壇だんの前まえに供そなえました。 ﹁お父とうさんは、このさかずきがお好すきで、毎まい晩ばんこのさかずきでお酒さけをめしあがられたのだ。﹂と、彼かの女じょは、いいながら、線せん香こうを立たてて、かねをたたきました。 そのそばで、老ろう母ぼのするのを見みていた子こど供もらは、 ﹁そのさかずきは、いいさかずきなんですか。﹂と、ききました。 ﹁ああ、なんでもいいさかずきだと、お父とうさんはいっていられた。これをわらないように大だい事じになさいよ。これだけが、この家うちの宝たからだと、いってもいいんだから。﹂と、老ろう母ぼはいいました。 子こど供もらは、うなずきました。そして、そのさかずきを大だい事じにしました。 やがて女にょ房うぼうも、この世よから去さるときがきました。子こど供もらは、母ははの御みた霊まをも亡ぼう父ふのそれといっしょに仏ぶつ壇だんの中なかに祭まつったのであります。そして、母ははが生せい前ぜん、毎まい晩ばんのように、酒さけをさかずきについであげたのを見みていて、母ははの亡なき後のちも、やはり仏ぶつ壇だんに酒さけをさかずきについであげました。 あるときは、仏ぶつ壇だんに、赤あかくなった南なん天てんの実みが徳とく利りにさされて上あがっていることもありました。そして、その青あおい葉はと赤あかい実みのささった下したに利りす助けのさかずきは、なみなみとこはく色いろの酒さけをたたえて供そなえられていました。 あるときは、清きよらかな、響ひびきの澄すんだ、磬かねの音おとが、ちょうどさかずきの酒さけの上うえを渡わたって、その酒さけの池いけがひじょうに広ひろいもののように感かんじられることもありました。そして、ろうそくの火ほか影げがちらちらとさかずきの縁ふちや、酒さけの上うえに映うつるのを見みて、そこには、この現げん実じつとはちがった世せか界いがあり、いまその世せか界いが、夕ゆう焼やけの中なかにまどろむごとく思おもわれたこともありました。 子こど供もらは﹁仏ほとけさまのさかずき﹂だといって、そのさかずきをたいせつにしていました。そのさかずきをみだりに手てに取とってみることも、汚けがれるからといってはばかりました。 さかずきは、仏ぶつ壇だんのひきだしの中なかに、いつもていねいにしまわれてありました。そして、晩ばん方がたになると取とり出だされて酒さけをついで上あげられました。やがて、ろうそくの火ひがともりつくした時じぶ分んに、磬かねをたたいて、さかずきの酒さけは、別べつのさかずきの中なかに移うつされました。 ﹁おじいさんのめしあがった後あとの酒さけは、味あじがうすくなった。﹂といって、息むす子こは、その酒さけを自じぶ分んめで飲のみました。 大だい事じなさかずきだからというので、息むす子こが、そのさかずきに酒さけをついで上あげたり、また、下おろさなかったときは、彼かれの女にょ房うぼうがいたしました。女にょ房うぼうは、真しんの父ちち、母ははの子こど供もではなかったけれど、もっともよく息むす子この心ここ持ろもちを理りか解いしていたからです。そして、いつしか、彼かれと同おなじように、先せん祖ぞの霊れいに対たいして、それをなぐさむることを怠おこたらなかったからです。 しかし、たとえ、いかように、心こころづくしをしても、もう、死しんでしまった人ひとは、永えい久きゅうにものをいわなければ、こたえもしない。仏ぶつ壇だんに、ささげられたさかずきの酒さけは、ほんとうに一滴てきも減げんじはしなかったのです。 ﹁好すきな酒さけを上あげても、お父とうさんは、めしあがらなければ、お菓か子しを上あげても、お母かあさんは、お好すきだったのに、めしあがりはなさらない。﹂と、息むす子こは、あるときは、仏ぶつ壇だんの前まえに立たって、涙なみだぐんでしみじみといったことがありました。 田いな舎かは、変へん化かが乏とぼしいうちに月つき日ひはたちました。冬ふゆの寒さむい朝あさ、仏ぶつ壇だんに、燈あか火りがついているときに、外そとの方ほうでは、子こど供もらが、雪ゆきの上うえで凧たこを揚あげている、籐とうのうなり声ごえがきこえてくることがありました。雪ゆきが凍こおって、子こど供もらは、自じゆ由うに、あちらこちら飛とんで歩あるきました。 それと、仏ぶつ壇だんの燈あか火りとは、なんの縁えんがないようなものの、やはり燈あか火りはかすかな輝かがやきを放はなって、その輝かがやきの一ひと筋すじに、凧たこのうなっている、青あおい大おお空ぞらの果はてと、相あい通つうずるところがあることを思おもわせたのです。夜よるは、暗くらい外そとに、木こ枯がらしがすさまじく叫さけんでいました。そんなとき、たたく仏ぶつ壇だんの磬かねの音ねは、この家いえからはなれて、いつまでも頼たよりなく、荒こう野やの中なかをさまよっていました。 いつしか、孫まごの時じだ代いとなりました。 彼かれは、古ふるびた、朱しゅ塗ぬりの仏ぶつ壇だんの前まえに立たっても、なんのことも感かんじなくなりました。 ある日ひ、仏ぶつ壇だんのひきだしを開あけてみますと、小ちいさな箱はこの中なかに利りす助けのさかずきがはいっていました。彼かれは、これを取とり出だしてみましたけれど、それがいいさかずきであるか、そうでないかということは、彼かれにはわかりませんでした。 けれど、孫まごは、先せん祖ぞから大だい事じにしていたさかずきであるということだけは知しっていましたので、これをだれかに、鑑かん定ていしてもらいたいと思おもいました。 近きん所じょに、一ひと人りのおじいさんがありました。この人ひとは、なんでも、いまどきのものより、昔むかしのものがいいときめていました。書しょ物もつに書かいてあることも、昔むかしのほうのが、義ぎが固かたくていいといっていました。暦こよみも、新しん暦れきよりは、旧きゅ暦うれきのほうが季きせ節つの移うつり変かわりによく合あっているといっていました。それで、時とけ計いすら、数すう字じの刻きざんであるものよりは、日ひど時け計いのほうが、正せい確かくだといって、船ふねの形かたちをした、日ひど時け計いを日ひ当あたりに出だして、帆ほば柱しらのような、まっすぐな棒ぼうから落おちる黒くろい影かげによって時じこ刻くをはかるのでした。 孫まごは、そのおじいさんのところへ、さかずきを持もってまいりました。 ﹁おじいさん。どうか、このさかずきを見みてくださいまし。﹂と、彼かれは頼たのみました。 きれい好ずきな、おとこやもめのおじいさんは、家いえの内うちをちりひとつないように清きよめていました。おじいさんは、なにをたずねられても、知しらぬといったことはありません。で、村むらでの物もの知しりでありました。さっそく、大おおきな眼めが鏡ねをかけて、 ﹁どれ、そのさかずきかい。﹂といって、手てに取とって子しさ細いにながめました。 ﹁たぬきかな? いや、ねずみかな、そうだ、ねずみらしい。絵えは、あまりうまくないな。けれどこの藍あいの色いろがなかなかいい。いまどきのものに、こうした、藍あいの冴さえた色いろは見みられないな。まあ、いい品しなだろう。﹂といいました。 ﹁だれが、造つくったのでしょうか。﹂と、孫まごはたずねました。 おじいさんは、また、さかずきを手てに取とりあげて、ながめました。 ﹁そうだ、利りす助けと書かいてある。聞きいたことのない名なだな。﹂ 結けっ局きょく、たいした品しなではないが、まあ古ふるいさかずきだから、いまどきのものとくらべると悪わるいことはないというのでした。孫まごは、家いえへ帰かえりました。彼かれは、さかずきをまた紙かみに包つつんで、仏ぶつ壇だんのひきだしにいれておきました。 寒さむい、雪ゆきの降ふる国くにに、孫まごはいたくはありませんでした。彼かれは、いつからともなくにぎやかな東とう京きょうの街まちに憧あこがれていました。そして、いつかは、東とう京きょうに出でて、なにか仕しご事とをして、かたわら、勉べん強きょうでもしようという望のぞみを抱いだいていました。 とうとう、彼かれは、家いえのことを姉あねや、弟おとうととに頼たのんで、自じぶ分んは東とう京きょうへ出でることになりました。そのとき、彼かれは、昔むかしから家いえにあった掛かけ物ものや、金きん銀ぎんの小ちいさな細さい工くも物のや、また、長ながく仏ほとけさまに酒さけを上あげるさかずきになっていた、ひきだしの中なかにしまってあった利りす助けのさかずきなどをひとまとめにして、それを荷にも物つの中なかにいれました。彼かれは、東とう京きょうへ出でてから、なにかたしになるであろうと、思おもったのでした。 彼かれは、東とう京きょうへきてから、ある素しろ人うと家やの二階かいに間ま借がりをしました。そして、昼ひる間まは役やく所しょへつとめて、夜よるは、夜やが学くに通かよったのであります。あるとき、彼かれは、書しょ物もつを買かうのに、すこし余よぶ分んの金かねが入にゅ用うようでありました。そのとき、ふと、国くにを出でる時じぶ分んに、荷にも物つの中なかへ入いれて持もってきた金きん銀ぎんの細さい工くも物のとさかずきのまだ、売うらずにあったことを思おもいつきました。 ﹁どうせ、あのたばこ入いれの飾かざりや、帯おび止どめの銀ぎんの金かな具ぐは、たいした値ねにもならないだろうが、もしあのさかずきが、いいさかずきであったなら、値ねになるかもしれない。しかし、いつかおじいさんに見みせたら、あまりほめていなかった。それでも、みんな一ひとまとめにして売うったら、いくらかの金かねになるだろう。﹂と、彼かれは思おもいました。 孫まごは、東とう京きょうへ出でると、じきに掛かけ物ものは売うってしまったのです。 ﹁いくら、本ほん物ものでも、作さくのできがよくなければ、値ねになるものではありません。これは、作さくのできがよくありません。このほうは、汚よごれていますからだめです。これですか、こいつは、私わたしに、鑑かん定ていがつきません……。﹂ そんなふうに、骨こっ董とう屋やから、まことしやかにいわれて、掛かけ物ものは、安やすい値ねで手てば放なしてしまいました。 それで、彼かれは、こんどは、正しょ直うじきな人にん間げんに売うらなければならぬと思おもいました。 ﹁りっぱな店みせを張はっている骨こっ董とう屋やのほうが、かえって、人ひと柄がらがよくないかもしれない。だれか正しょ直うじきそうな古ふる道どう具ぐ屋やを呼よんできて見みせよう。﹂ 彼かれは、そう思おもいました。 彼かれは、出でかけてゆきました。そして、耳みみのすこし遠とおい、声こえのすこし鼻はなにかかる、脊せの曲まがった男おとこを連つれてきました。男おとこは、無むぞ造う作さに、毎まい日にち、ぼろくずや、古ふる鉄てつなどをいじっている荒あらくれた手てで、彼かれの出だした、金きん銀ぎん細ざい工くの飾かざりとさかずきとを、かわるがわる取とってながめていました。 ﹁こちらの飾かざりだけを×××××でいただきましょう。このさかずきは、どうでもよろしゅうございます。﹂と、古ふる道どう具ぐ屋やはいいました。 彼かれには、このとき、ふたたび田いな舎かにいる時じぶ分ん、近きん所じょの物もの知しりのおじいさんが、﹁これは、たいしたものではない、ただ古ふるいからいいのだ。﹂といった、その言こと葉ばが思おもい出だされたのです。 文ぶん明めいのこの社しゃ会かいに生うまれながら、昔むかしのものなぞをありがたがるのは、じつにくだらないことだと、彼かれは簡かん単たんに考かんがえたのであります。 ﹁このさかずきも、つけてやろう。﹂と、彼かれはいってしまいました。 古ふる道どう具ぐ屋やは、それを格かく別べつ、ありがたいとも思おもわぬようすで、金きん銀ぎん細ざい工くの飾かざりといっしょに持もってゆきました。 このさかずきのことが忘わすれられた時じぶ分ん、彼かれは、ある日ひなにかの書しょ物もつで、利りす助けという、あまり人ひとに知しられなかった陶とう工こうの名めい人じんが、昔むかし、京きょ都うとにあったということを読よみました。そして、強つよく胸むねを突つかれました。なぜなら、彼かれの家いえに昔むかしからあった、あのさかずきには、たしかに利りす助けという名ながはいっていたからです。 ﹁そうだ、あのさかずきには、利りす助けと名ながしるしてあった。また、本ほんには、ねずみや、花はなや、鳥とりの絵えなどをよく描かいたとあるが、たしかに、あのさかずきの絵えはねずみであった。﹂と、彼かれは思おもったのでした。 彼かれは、ほんとうに、とりかえしのつかないことをしたと知しったのです。それにつけて、近きん所じょの物もの知しりのおじいさんが、そのじつ、なにも知しっていないのを、知しるもののごとく信しんじていたのをうらめしく、愚おろかしく思おもいました。 ﹁なぜ、村むらの人ひとたちは、あのおじいさんのいったことを信しんじたろう。そうでなかったら、自じぶ分んも信しんずるのでなかったのだ。﹂と、後こう悔かいをしました。 また、﹁なぜ、自じぶ分んは、さかずきを、あんなもののよくわからない、古ふる道どう具ぐ屋やなどに見みせたろう? もっといい骨こっ董とう屋やにいって見みせたら、あるいは、利りす助けという名めい工こうを知しっていたかもしれない。﹂と、彼かれはそのときとは、まったく反はん対たいのことを考かんがえました。 彼かれは、こうなっては、だれを憎にくむこともできなく、自みずからを憎にくみました。 彼かれは、また、﹁自じぶ分んの祖そ父ふは、よほど、趣しゅ味みの深ふかい、目めききであった。﹂と思おもいました。そして、彼かれは、そう思おもうと、いままで感かんじなかった、なつかしさを、祖そ父ふに対たいして感かんずるようになったのです。 世よにも、その数かずの少すくない利りす助けの作さくを、祖そ父ふが手てにいれて、それを愛あいしたこと、そのさかずきは長ながい間あいだ、我わが家やの古ふるびた仏ぶつ壇だんのひきだしの中なかに入いれてあったのを、自じぶ分んが、むざむざ持もち出だして捨すてるように、この東とう京きょうのつまらない古ふる道どう具ぐ屋やにやってしまったと考かんがえると、彼かれはなんとなくすまないような、またとりかえしのつかないようなくやしさを感かんじたのです。そして、どうかして、それを探さがし出ださなければならないと思おもいました。 孫まごは、さっそく、いつか自じぶ分んの宿やどに呼よんできた古ふる道どう具ぐ屋やへたずねてゆきました。そして、二、三か月げつ前まえにやった、さかずきは、まだ店みせに置おいてないかと、あたりに古ふる道どう具ぐがならべてあるのを見みまわしてからききました。 ﹁あれは、すぐ売うれてしまいました。﹂と、耳みみの遠とおい、脊せの曲まがった男おとこは、とがった顔かおつきをして答こたえました。 ﹁だれが、買かっていったか、わからないでしょうか?﹂と、彼かれは、なんとなく、あきらめかねるので聞ききました。 ﹁あなた、この広ひろい東とう京きょうですもの……。﹂といって、男おとこは、きつねのような顔かおつきをして、皮ひに肉くな笑わらい方かたをしたのです。 彼かれは、それに対たいして、このときだけは、怒おこる勇ゆう気きすらありませんでした。 ﹁なるほどそうだ。﹂と思おもいました。 東とう京きょうの街まちは、広ひろいのでした。大たい海かいに、石いしを投なげたようなものです。小ちいさな、一つのさかずきはこの繁はん華かな、わくがように、どよめきの起おこる都とか会いのどこにいったかしれたものではありません。 そう考かんがえると、彼かれは、絶ぜつ望ぼうを感かんずるより、ほかにはないのでした。 しかし、また、それは、どこかに存そん在ざいしなければならぬものでした。 そのさかずきを、買かった人ひとは、日にほ本んば橋しの裏うら通どおりに住すんでいる骨こっ董とう屋やでありました。その人ひとは、まことに思おもいがけない掘ほり出だし物ものをしたと喜よろこびました。そして、店みせに帰かえってから、そのさかずきを他たの細こまかな美びじ術ゅつ品ひんといっしょに、ガラス張ばりのたなの中なかに収おさめて陳ちん列れつしました。 江えど戸じ時だ代いのあの時じぶ分んから、東とう京きょうのこの時じだ代いに至いたるまで、また、幾いく十年ねんをたちましたでしょう。 さかずきは、それでも、無ぶ事じに、ふたたび江えど戸じ時だ代いと変かわらない、東とう京きょ湾うわんに近ちかい、空そらの色いろを、街まちの中なかからながめたのであります。そして、またここで、日ひか影げのうすい、一日にちをまどろむのでした。 さかずきにとって、田いな舎かへいったこと、仏ぶつ壇だんに酒さけをついで上あげられたこと、毎まい日にち、毎まい日にち、女にょ房うぼうが磬かねをたたいたこと、箱はこに収おさめられてから、暗くらい、ひきだしの中なかにあったこと、それらは、ただいっぺんの夢ゆめにしか過すぎませんでした。 さかずきには、家いえの前まえをかごが通とおったことも、いま人じん力りき車しゃが通とおり、自じど動うし車ゃが通とおることも、たいした相そう違いがないのだから、無むか関んし心んでした。 ただ、ある日ひのこと、太たい鼓この音おとと、笛ふえの音ねと、御みこ輿しをかつぐ若わか衆しゅうの掛かけ声ごえをききましたので、しばらく遠とおく聞きかなかった、なつかしい声こえをふたたび聞きくものだと思おもいました。 そして、自じぶ分んは、またどうして、同おなじ所ところへ帰かえってきたろうかと疑うたがいました。 はかない、薄うす手でのさかずきが、こんなに完かん全ぜんに保ほぞ存んされたのに、その間あいだに、この街まちでも、この世よの中なかでも、幾いくたびか時じだ代いの変へん遷せんがありました。あるものは、生うまれました。またあるものは、死しんで墓はかにゆきました。 それが、さかずきにとって、芸げい術じゅつの力ちからでなくて、偶ぐう然ぜんな存そん在ざいだと、なんでいうことができましょう。 この街まちでは、ちょうど昔むかしからの氏うじ神がみさまの祭さい日じつに当あたるのでした。そして、いつも、昔むかしと変かわらない催もよおしをするのでした。 おりも、おり、例れいの孫まごは、この日ひこの街まちを通とおりかかりました。そして、華はなやかな、祭まつりの光こう景けいを見みて、自じぶ分んの家いえも祖そ父ふまでは、この東とう京きょうに住すんでいたのだなと思おもいました。 御みこ輿しの通とおる前ぜん後ごに、いろいろな飾かざり物ものが通とおりました。そのうちに、この土と地ちの若わかい芸げい妓ぎれ連んに引ひかれて、山だ車しが通とおりました。山だ車しの上うえには、顔かおを真まっ赤かにしたおじいさんが、独ひとり他たの人じん物ぶつの間あいだに立たって、この街まちの中なかを見み下おろしていました。 彼かれは、この山だ車しの上うえの、顔かおを赤あかくした、人ひとのよさそうなおじいさんを見みているうちに、自じぶ分んのお祖じ父いさんのことなどを思おもいました。自じぶ分んは、そのお祖じ父いさんの顔かおを知しらなかったけれど、たいへんに酒さけの好すきな人ひとで、いつも赤あかい顔かおをしていたということを聞きいていました。また趣しゅ味みの深ふかかった人ひとでもありました。利りす助けのさかずきは、そのお祖じ父いさんの愛あい用ようしたものだと思おもい出だすにつけて、彼かれは、なんとなくお祖じ父いさんをかぎりなくなつかしく思おもいました。 ﹁きっと、お祖じ父いさんも、あの山だ車しの上うえに立たっているようなおじいさんであったろう。﹂と、彼かれは思おもいながら、街まちを過すぎる山だ車しをながめていました。 若わかい、派は手でやかな装よそおいをした女おんなたちが、なまめかしいはやし声ごえで山だ車しを引ひくと、山だ車しの上うえの自じぶ分んのおじいさんは、ゆらゆらと赤あかい顔かおをして揺ゆられました。 おじいさんは、にこやかに、街まちの中なかのようすを笑わらいながらながめていました。そして、山だ車しの下したを通とおる車くるまや、仰あお向むいてゆく人ひと々びとに、いちいち会えし釈ゃくをするように、くびを振ふっていました。 山だ車しの上うえのおじいさんは、両りょ側うがわの店みせをのぞくように、そして、その繁はん昌じょうを祝いわうように、にこにこして見み下おろしました。やがて、山だ車しは一軒けんの骨こっ董とう店てんの前まえを通とおりました。その店みせにはガラスだなの中なかに、利りす助けのさかずきが、他たの珍めずらしい物ぶっ品ぴんといっしょに陳ちん列れつされているのでした。 山だ車しの上うえのおじいさんは、その前まえにくると、一段だん、くびを前ぜん後ごに振ふりましたが、やがて、若わかい女おんなのはやし声ごえとともに、その前まえをも空むなしく通とおり越こしてしまいました。 後あとには、ただ、永えい久きゅうに、青あおい空そらの色いろが澄すんでいました。そして、たなの中なかには、ねずみを描かいた、金きん粉ぷんの光ひかりの淡あわい利りす助けのさかずきが、どんよりとした光こう線せんの中なかにまどろんでいるのでした。 こうして、たがいに遇おうたものは、また永えい久きゅうに別わかれてしまいました。いつまた、おじいさんと利りす助けのさかずきと孫まごとが、相あい見みるときがあるでありましょうか。