父ちち親おやは、遠とおい街まちに住すんでいる息むす子こが、どんな暮くらしをしているかと思おもいました。そして、どうか一度どいってみたいものだと思おもっていました。 しかし、年としを取とると、なかなか知しらぬところへ出でかけるのはおっくうなものです。そして、自じぶ分んの長ながらく住すんでいたところがいちばんいいのであります。 ﹁私わたしは、こんなに年としをとったのに、せがれはどんな暮くらしをしているか心しん配ぱいでならない。今こと年しこそはいってみよう。﹂ 父ちち親おやは、遠とおい旅たびをして、息むす子この住すんでいる街まちにやってきました。それは、にぎやかな都とか会いでありました。 静しずかな、夜よるなどは、物もの音おとひとつ聞きこえず、まったくさびしい田いな舎かに住すんでいました人ひとが、停てい車しゃ場ばに降おりると、あたりが明あかるく、夜よるでも昼ひる間まのようであり、馬ばし車ゃや、電でん車しゃや、自じど動うし車ゃが、往おう来らいしているにぎやかな有あり様さまを見みて、びっくりするのは無む理りのないことです。父ちち親おやも、やはりその一ひと人りでした。 ﹁お父とうさん、よくおいでくださいました。﹂といって、息むす子こはどんなに喜よろこんで迎むかえたかしれません。 息むす子こはいまでは、この都みやこでなに不じ自ゆ由うなく暮くらしていられる身みが柄らでありましたから、父ちち親おやに、なんでも珍めずらしそうなものを持もってきて、もてなしました。また、方ほう々ぼうへ見けん物ぶつにもつれていったりいたしました。 父ちち親おやは、はじめのうちは、どこへいってもにぎやかなので驚おどろいていました。また、いままで口くちにいれたことのないようなものを食たべたりして、こうして、人にん間げんが暮くらしてゆかれたら、しあわせなものだとも考かんがえられたのでした。 五いつ日か、六むい日かというふうに同おなじことがつづきますと、そのにぎやかさが、ただそうぞうしいものになり、また、毎まい日にちごちそうを食たべることも、これが人にん間げんの幸こう福ふくであるとは、思おもわれなくなりました。 ﹁お父とうさん、おもしろい芝しば居いが、はじまりましたから、いってごらんになりませんか。﹂ ﹁いいや、見みたくない。﹂ ﹁お父とうさん、これから、なにかうまいものを食たべに出でかけましょう。﹂ ﹁いいや、なにも食たべたくない。﹂ 父ちち親おやは、じっとして、家うちの中なかに、すわっていました。 ﹁どうしたのですか? お父とうさん。﹂と、息むす子こは、なにをいっても、父ちち親おやが気き乗のりをしないので、心しん配ぱいして問とうたのでありました。 ﹁私わたしは、国くにへ帰かえりたくなった。﹂と、父ちち親おやは答こたえました。 息むす子こは、これを聞きくと、目めを円まるくして、 ﹁あんなさびしい山やまの中なかへ帰かえってもしかたがないではありませんか。どうして、あの不ふべ便んなところがいいのですか?﹂と、息むす子こは、父ちち親おやの心こころをはかりかねて、たずねました。 ﹁私わたしは、国くにへ帰かえりたい。﹂と、父ちち親おやは答こたえました。 ﹁お父とうさん、なにかいけないところがあったら、いってください。また私わたしたちが、気きのつかないところがあったら、これから気きをつけるようにしますから、もっと、こちらにいてくださいまし。そのうちに、お父とうさんは、この街まちの生せい活かつにも、おなれでありましょうから……。﹂と、息むす子こは、ひたすら真まご心ころをあらわしていいました。 すると、父ちち親おやは、頭あたまを振ふって、 ﹁いや、私わたしは、かえっておまえが国くにに帰かえるように、つれにきたのだが、おまえは、帰かえらないか?﹂といいました。 ﹁どうして、お父とうさん、私わたしが、帰かえることができましょう?﹂ 息むす子こは、父ちち親おやの顔かおを見みつめて、あきれた顔かおつきをしました。 それから、日ひならずして、老ろう人じんの故こき郷ょうに向むかって旅たび立だってゆく、姿すがたが見みられたのであります。 その日ひは、一日にち、息むす子こは、家うちにいて、父ちち親おやのことを案あんじていました。 ﹁あんなに、お年としをとっていられるから、道どう中ちゅうなにか変かわったことがなければいいが……。﹂ ﹁いまごろ、汽きし車ゃはどのあたりを通とおっているだろうか……。﹂ いろいろと息むす子こは、思おもいました。そして、道みちすがらの景けし色きなどを思おもい出だしては、目めに描えがいていたのであります。 汽きし車ゃは、高たかい山やま々やまのふもとを通とおりました。大おおきな河かわにかかっている鉄てっ橋きょうを渡わたりました。また、黒くろいこんもりとした林はやしに添そって走はしりました。白しら壁かべの土どぞ蔵うがあったり、高たかい火ひの見みやぐらの建たっている村むらをも過すぎました。そして、翌よく日じつの昼ひる過すぎには、故こき郷ょうに近ちかい停てい車しゃ場ばに着つくのでありました。 ﹁いまごろは、お父とうさんは、あの街かい道どうの松まつ並なみ木きの下したを歩あるいていなさるだろう……。﹂と、息むす子こは、都みやこにいて思おもっていました。 それは、広ひろ々びろとした、野のな中かを通とおっている、昔むかしながらの道みち筋すじでありました。年としとった松まつが道みちの両りょ側うがわに生おい立たっていました。野のの面おもてを見みわたすと、だんだん北きたの海うみの方ほうに伸のびるに従したがって、低ひくくなっていました。そして、その方ほうの地ちへ平いせ線んは、夕ゆう暮ぐれ方がたになっても、明あかるくありました。 山やまには、せみやひぐらしが鳴ないていました。老ろう人じんは、もう多たね年んこの山やまの中なかに生せい活かつをしています。道みちすがらの木きも、草くさも、石いしも、またこの山やまにすんでいる小こと鳥りや、せみや、ひぐらしにいたるまで、毎まい日にちのように、この山やま道みちを歩あるく老ろう人じんの咳せきばらいや、足あし音おとや、姿すがたを知しらぬものはありません。 父ちち親おやが、街かい道どうを歩あるいていますと、電でん信しん柱ばしらの付ふき近んに鳴ないているつばめは、﹁いま、お帰かえりですか。﹂と、いうように聞きこえました。 夕ゆう焼やけの空そらは、昔むかしも、今いまも、この赤あかい、悲かなしい色いろに変かわりがありません。父ちち親おやは、夕ゆう焼やけの空そらをながめました。 ﹁よく、自じぶ分んは、せがれの手てを引ひいて、夕ゆう暮ぐれ方がた、町まちから帰かえったものだ。あの時じぶ分んのせがれは、どんなに無むじ邪ゃ気きで、かわいらしかったか。あのせがれがいまでは、りっぱな人にん間げんになったのだ。私わたしが、こんなに年としをとったのも、無む理りはない……。﹂と、考かんがえにふけったのでした。 そして、老ろう人じんは、いよいよ山やま道みちにさしかかりますと、山やまの上うえは、まだ、ふもとよりは、もっと明あかるくて、ちょうが飛とんでいました。 ﹁いま、おじいさんお帰かえりですか?﹂と、いっているように、人ひとなつかしげに、老ろう人じんの身みのまわりを飛とんでいました。せみも、ひぐらしも、このとき、みんな声こえをそろえて鳴なきたてました。 ﹁よう帰かえっておいでなさいました。あなたのお山やまは、いつでも平へい和わです。おじいさん、あなたは、いつまでもこのお山やまにおいでなさい。そして、けっして、ほかへゆくなどと思おもいなさいますな。﹂と、みんなしていっているように聞きこえました。 おじいさんは、にこにこしていました。 ﹁なんで、こんないいところを捨すてて、他たこ国くへなどゆけるものか。﹂ いつまでも、いつまでも、この山やまの中なかの自じぶ分んの家いえに、暮くらそうものと思おもいました。そして、その憐あわれげな、小ちいさな影かげを道みちの上うえに落おとしながら、一歩ぽ、一歩ぽ、登のぼってゆきました。 こうして、父ちち親おやは、また、故こき郷ょうの人ひととなったのであります。 こんどは、息むす子こが、毎まい日にちのように父ちち親おやの身みの上うえを心しん配ぱいしました。 ﹁お父とうさんは、ほんとうに年としをとられた。﹂と、彼かれは父ちち親おやの姿すがたを目めに思おもい浮うかべました。自じぶ分んが子こど供ものとき、父ちち親おやの後あとからついて町まちへゆき、また山やまに帰かえったときは、父ちち親おやは、まだ若わかく、力ちからが強つよく、達たっ者しゃであったのです。そう考かんがえると、なぜ早はやく、この都みやこへ越こしてこられないものかと案あんじていました。 ﹁あのさびしい、不ふべ便んな、田いな舎かがなんでいいことがあろう。ぜひ、今こと年しの中うちに、迎むかえにいってつれてこなければならない。﹂と、息むす子こは毎まい日にちのように思おもっていました。 それに、秋あきから、冬ふゆにかけて、山やまの中なかは、風かぜが寒さむく、吹ふぶ雪きがすさまじいのでありました。息むす子こは、故こき郷ょうにいた時じぶ分んの記きお憶くをけっして、忘わすれることができません。 ﹁雪ゆきの積つもる冬ふゆは、お父とうさんは、どうしてあんなところで暮くらされよう。﹂ 息むす子こは、とうとうお父とうさんを、自じぶ分んの住すんでいるにぎやかな街まちへ迎むかえるために、久ひさしぶりで故こき郷ょうへ帰かえったのであります。 息むす子こは、自じぶ分んの生うまれた、古ふるい家いえの中なかへはいりました。すると、いろいろの思おもい出でが、そのままよみがえってくるのでした。壁かべ板いたに書かいた、子こど供もの時じぶ分んの楽がっ器きが、なおうすく残のこっています。よく鳥とりかごをかけた、戸とぐ口ちの柱はしらの小こが刀たなの削けずり痕あともそのままであります。雨あめの降ふる日ひには、土ど間まで独こ楽まをまわした。そして、よく、かち当あてた敷しき石いしもちゃんとしていました。なにもかも、昔むかしのままであったのであります。 息むす子こは、ぼんやりとした気き持もちで、二、三日にちは過すごしてしまいました。 ﹁お父とうさんは、都みやこへおいでになりませんか。﹂と、息むす子こは、いいました。 ﹁いや、どうして、この長ながく住すみ慣なれた家うちを、捨すててゆけよう。﹂と、父ちち親おやは、頭あたまを振ふりました。 ﹁おまえこそ、ここへ帰かえってきて、いっしょに暮くらしたがいい。﹂と、父ちち親おやは、息むす子こに向むかっていいました。 息むす子こは、都みやこに残のこしてきた、仕しご事とのことを思おもい出だしました。そして、どうしても都みやこに帰かえらなければなりませんでした。 二ふた人りは、たがいに別わかれて暮くらさなければならないのを悲かなしく思おもいました。 ﹁これは、おまえが子こど供もの時じぶ分んに、裏うらの庭にわさきで拾ひろって大だい事じにしていた石いしだ。﹂と、父ちち親おやはいって、床とこの間まの台だいの上うえに乗のせてあった黒くろい石いしを取とりあげて、息むす子こに見みせました。 ﹁私わたしは、おまえが子こど供もの時じぶ分んに、持もっていたおもちゃは、みんな粗そま末つにしないでしまっておく。そして、ときどき出だしてみては、おまえのことを思おもい暮くらすのだ。﹂と、父ちち親おやはいいました。 これを聞きくと、息むす子こは、どんなに父ちち親おやの情なさけをありがたく感かんじたかしれません。そして、その黒くろい石いしを、手てに取とってつくづくとながめますと、やはり、自じぶ分んにも子こど供もの時じぶ分んのことが思おもい出だされたのであります。 ほとんど、幾いく十年ねんの間あいだ、その石いしは、故こき郷ょうのうす暗ぐらい、家いえの床とこの間まに、ほこりを浴あびて置おかれていました。 ﹁お父とうさん、私わたしは、この石いしを持もっていってもようございますか?﹂と、息むす子こは、父ちち親おやにたずねました。 ﹁ああ、いいとも、おまえの持もってゆくぶんにはさしつかえない。なんでもほしいものがあったら持もってゆくといい。﹂と、父ちち親おやは答こたえました。 長ながい、長ながい間あいだ、こうして、じっとしていた石いしが、ここから、どこかへ、まったく知しらぬところへ持もってゆかれることになりました。それは思おもいもよらないことで、変へん化かというものがどんなものの上うえにもくることを、思おもわせたのであります。 石いしは、息むす子このかばんの中なかへ、紙かみに包つつまれてはいりました。 彼かれは、また外そとに出でて、子こど供もの時じぶ分ん、よく遊あそんだ草くさ原はらへやってきました。そこには、いろいろな草くさが、紫むらさきや、青あおや、白しろの花はなを咲さかせていました。その花はなは、このあたりにはたくさんあっても、都みやこではとても見みることができませんでした。彼かれは、その花はなの一つ、一つを昔むかしのお友ともだちにでもあったように、なつかしげにながめました。とんぼが飛とんできて、かがやかしい羽はねを、花はなに止とまって休やすめています。それに、じっと見み入いっていると、そのころ、いっしょに草くさの葉はや、花はなをつんで遊あそんだ近きん所じょの女おんなの子こや、男おとこの子この姿すがたが、ありありと目めさきにちらつくように映うつってくるのでした。 しかし、その女おんなの子こも、男おとこの子こも、もういまではこの土と地ちにはいません。みんな大おと人なになって、女おんなの子こはお母かあさんになり、男おとこの子こはお父とうさんになっているのです。けれど、この草くさ原はらの景けし色きは、昔むかしとすこしの変かわりもありませんでした。草くさに咲さいている花はなの色いろも、またとんぼの羽はねもすこしの変かわりがありませんでした。 息むす子こは考かんがえました。﹁この草くさも都みやこへ持もってゆこう。そして、朝あさ晩ばんながめて、故こき郷ょうのことを思おもい、子こど供もの時じぶ分んのことを考かんがえよう……。﹂と、彼かれは、紫むら色さきいろの花はなの咲さいている草くさを、根ねをつけて掘ほり取とったのであります。 やがて息むす子こは、都みやこに帰かえることになりました。父ちち親おやに、別わかれなければならぬ悲かなしみで、胸むねいっぱいにして旅たび立だちました。 汽きし車ゃは、くるときと同おなじ道みちを通とおって、ついにふたたび故こき郷ょうから遠とおく去さってしまったのであります。 幾いく百里りも、遠とおいところを石いしと草くさとが運はこばれました。石いしや草くさはどうして、こんな遠とおいところへくるなどと思おもってましたでしょう? 息むす子こは、植うえ木き屋やに、草くさといっしょに石いしも鉢はちへ移うつさせました。そして、草くさと石いしとを、ときどき見みようとしたのであります。植うえ木き屋やは、鉢はちの中なかへ、草くさを植うえ、程ほどいいところへ石いしを置おきました。 ﹁これで根ねがつけば、たいしたものです。﹂と、植うえ木き屋やはいいました。 息むす子こは、植うえ木き屋やに向むかって、﹁これをどこに置おいたらいいだろうか。﹂と聞ききました。 ﹁さようです、寒さむいところに生はえる草くさですから、風かぜ当あたりのいい、高たかいところがいいと思おもいます。﹂と、植うえ木き屋やは答こたえました。 息むす子こは、これをバルコニーに出だしておきました。そこからは、都とか会いのいろいろな工こう場じょうから上あがる煙けむりが黒くろくなって見みられました。ちょうど黒くろいへびのはい上あがるように、いつしか青あおい空そらに、煙けむりは吸すい込こまれて消きえているのでありました。 また、いろいろの、巷ちまたから起おこる音おとが聞きこえてきました。風かぜは、いままでは、つねに南みなみから吹ふいていましたが、だんだん北きたから吹ふくほうが多おおくなると、季きせ節つも変かわって、熱あつさは去さっていったのです。 つばめは鳴ないたり、すずめもまれにきて、屋や根ねの上うえなどで鳴なきましたけれど、草くさは、故こき郷ょうの草くさ原はらで聞きいたような、いい小こと鳥りの声こえにはふたたび出であいませんでした。 太たい陽ようは、東ひがしから出でて、西にしに沈しずみました。けれど、あの黒くろい森もり影かげから上あがって、あの高たかい雲くもの光ひかる山やまのかなたに沈しずむのではありませんでした。いつもほこりっぽい建たて物ものの屋や根ねから上あがって、あちらの屋や根ねの間あいだに落おちるのでした。草くさは、夜よ々よ、大おお空ぞらに輝かがやく星ほしの光ひかりを仰あおいで、独ひとりさびしさに泣ないたのです。故こき郷ょうの露つゆ深ぶかい、虫むしの声こえのしげき草くさ原はらが慕したわれたからです。そこにいまもなお花はなの咲さいている姉きょ妹うだいや友ともだちがいるのが、かぎりなく恋こいしかったのです。 ある日ひ、草くさは、下したに黙だまってすわっていた石いしに向むかっていいました。 ﹁あなたも、遠とおくからきなされたのですか。﹂ ﹁ええ、やはり汽きし車ゃに乗のって、あなたといっしょにまいりましたのです。﹂と、石いしは答こたえました。 すると、草くさはさも疲つかれたというようすをして、 ﹁あなたは、体からだがおじょうぶですから、どこにいられてもいいのですけれども、わたしは、もうこんなに弱よわっています。ついここにくるまでは、はかない自じぶ分んの運うん命めいというものに考かんがえつかなかったのです。﹂と、さも後こう悔かいしたように語かたりました。 これを聞きくと、さすがに黙だまっていた石いしも、感かん慨がいに堪たえないふうで、 ﹁私わたしは、長ながい幾いく十年ねんかの間あいだ、無ぶ事じに暮くらしてきました。そして、おそらく、永えい久きゅうにそのように暮くらされるものと思おもっていました。それが、思おもいがけなく、こんな身みの上うえになってしまったのです。これから先さきのことを考かんがえると不ふあ安んでなりません。﹂と、石いしはいいました。 やさしい草くさは、自じぶ分んの身みを忘わすれて、石いしに同どう情じょうしたらしかった。 ﹁けれど、あなたはおじょうぶですから、安あん心しんなさいまし。わたしは、枯かれれば、明あ日すにもあの人ひと通どおりの多おおい道みちの上うえに捨すてられてしまうかもしれません。そうすれば、あの怖おそろしい車くるまや、馬うまにふまれて、わたしの体からだは、跡あと形かたもなく砕くだかれてしまうでしょう。﹂と、草くさはいいました。 ﹁いえ、私わたしだって同おなじことです。﹂と、石いしはいいました。 こうして、草くさと石いしとが相あい慰なぐさめ合あったのも、束つかの間まのことでありました。草くさは、とうとう枯かれてしまったのです。 息むす子こは、草くさの枯かれたのを、どんなに悲かなしんだかしれません。 ﹁そのうちに、なにか、かわりのいい草くさを見みつけてきて植うえてさしあげます。﹂と、植うえ木き屋やはいいました。 ある日ひのこと、植うえ木き屋やは、バルコニーに上あがりました。そして、枯かれた草くさの鉢はちを持もって降おりてきました。なにか、それに代かわりの草くさを植うえようと思おもったからです。 その後のちのことでありました。息むす子こは、夜よる床とこの中なかにはいってから、枯かれた草くさや、持もってきた石いしのことを思おもい出だしました。せめてあの石いしなりと大だい事じにして、記きね念んにしておこうと思おもいました。そして、夜よの明あけるのを待まってバルコニーに出でてみますと、いつのまにか、そこには新あたらしい草くさの植うわった鉢はちが置おいてありました。そして、もとより枯かれた草くさも、石いしも影かげだに見みられませんでした。 ﹁この草くさは、どうしたのだ?﹂といって、家かな内いのものに聞ききますと、 ﹁昨きの日う、植うえ木き屋やが、あなたのお留る守すに持もってきましたのです。﹂と答こたえました。 息むす子こは、枯かれた草くさはしかたがないとしても、石いしは、どこへいったろう。植うえ木き屋やに聞きいてみようと、さっそく、植うえ木き屋やを呼よびにやりました。 ﹁あの、草くさの下したにあった、黒くろい石いしでございますか。つまらない石いしだと思おもって、捨すててしまいました。﹂と、植うえ木き屋やは答こたえました。 息むす子こは、これを聞きくとたいそう驚おどろきました。 ﹁あの石いしは、私わたしの大だい事じな石いしだ。どこへ捨すててしまった?﹂と問といました。 すると、植うえ木き屋やは、しばらく考かんがえていましたが、 ﹁たしか、ここからの帰かえり途みちに、あちらの広ひろい空あき地ちに捨すててしまいました。﹂と答こたえたのであります。 その空あき地ちは、もと建たて物ものがあったのですが、いまはなにもなく草くさが茫ぼう々ぼうとして生はえていました。そして、子こど供もらはその中なかに遊あそび、通つう行こうする人ひとたちは、近ちか道みちするために、その空あき地ちを横よこぎったのであります。 息むす子こは、どんなに、がっかりしたかしれません。どうしても、その石いしを忘わすれることができませんでした。すると、黒くろい石いしが、夜よつ露ゆにしっとりと湿ぬれて、広ひろ場ばの中なかで、月つきの光ひかりに照てらされて輝かがやいている夢ゆめを見みました。 ふと目めをさましますと、外そとは、ちょうどその夢ゆめに見みたようないい月つき夜よで、小ちいさな窓まどが明あかるく月げっ光こうに照てらされていました。彼かれは、さっそく、起おき上あがりました。そして、その広ひろ場ばへ、石いしが落おちていないかと探さがしにゆきました。 すっかり秋あきの景けし色きとなって、こおろぎが鳴ないていました。うすもやが一面めんに降おりて、建たて物ものの間あいだや、林はやしの木きの間あいだや、広ひろ場ばの上うえに渦うず巻まいているようにも見みられました。 息むす子こは、あたりが、すでに眠ねし静ずまった真まよ夜な中かごろ、一ひと人り広ひろ場ばにやってきますと、はたしてさびしい月つきの光ひかりが、草くさの葉はをば照てらしていました。 けれど、黒くろい石いしが、どこにあるか、もとより容よう易いに見み当あてることができませんでした。彼かれはあちらへゆき、こちらへさまよっていますと、うすもやの中なかに、しょんぼりと立たっている人ひと影かげを見みいだしました。 ﹁いまごろ、何なん人びとが立たっているのだろう。﹂と、怪あやしみながら、よく見みつめますと、それは、美うつくしい、若わかい女おんなでありました。彼かれは、好こう奇きし心んから、つい、そのそばに近ちかづいてみる気きになりました。 ﹁いまごろ、あなたは、そこになにをしていられますか?﹂と、彼かれはたずねました。 美うつくしい女おんなは、ぱっちりとした、すずしい目めをこちらに向むけました。そして、彼かれを見みていましたが、にっこりと笑わらって、 ﹁わたしは、かんざしの珠たまをさがしています。もう幾いく十年ねんも前まえのことでありました。わたしは、お嫁よめにゆく前まえに、ちょうどこのあたりであった窓まどから、ある日ひの夕ゆう暮ぐれ方がた、かんざしの珠たまをあやまって落おとしますと、それがころげてどこへいったか見みえなくなったのです。それから、わたしは、いくら探さがしたかしれません。お母かあさんからはしかられました。けれど、どうしても、なくした珠たまは見みつからなかったのです。わたしは、一いっ生しょうそのことを忘わすれませんでした。今こん夜やも、また、わたしは、その珠たまのことを思おもい出だして探さがしにきたのです。﹂と、その若わかい女おんなは、答こたえたのであります。 彼かれは、この話はなしをきくと、なんとなく体からだじゅうが、ぞっとしました。女おんなの姿すがたを見みると、長ながい黒くろい髪かみは結むすばずに、後うしろに垂たれていました。 若わかい、美うつくしい女おんなは、いっしょうけんめいに、足あしもとの草くさを分わけて、珠たまを探さがしていました。彼かれも、また草くさを分わけて、なにかそのあたりに落おちていないかと、熱ねっ心しんにたずねましたけれど、べつになにも見みあたりませんでした。 ﹁どんな色いろの珠たまでしたか?﹂ こういって、彼かれは、顔かおを上あげて、もう一度ど子しさ細いに若わかい女おんなを見みようとしますと、どこにも女おんなの影かげは、見みえなかったのです。 不ふ思し議ぎなことがあれば、あるものだと思おもって、しばらく彼かれは、茫ぼう然ぜんとして、たたずんでいました。 月つきは、西にしに傾かたむきました。そして、思おもいなしか、東ひがしの空そらは白しらんで、どこからか、暁あかつきを告つげるに鶏にわとりの鳴なく声こえが聞きこえてきました。もやは、いつしか晴はれて、空そらは青あおみをまして頭あたまの上うえに垂たれかかっていました。