酒さか屋やへきた小こぞ僧うは、どこかの孤こじ児い院んからきたのだということでした。それを見みても、彼かれには、頼たよるものがなかったのです。 ものをいうのにも、人ひとの顔かおをじっと見みました。その目めつきはやさしそうに見みえたけれど、なんとなく、不ふあ安んな影かげが宿やどっていました。 ﹁もしや、自じぶ分んのいったことが、相あい手ての心こころを傷いためて、しかられるようなことはないかしらん？﹂と、思おもったがためです。 世せけ間んの心こころある親おやたちは、そのようすをながめたときに、﹁親おやのない子こは、かわいそうなものだ。﹂といいました。 彼かれは、十二、三になりましたが、年としのわりあいに脊せいが低ひくかった。そればかりでなく、歩あるく時じぶ分ん、二本ほんの短みじかい足あしが内うち輪わに曲まがっているから、ちょうどブルドッグの歩あるくときのような姿すがたを想そう像ぞうさせたのでした。そのことから、いつしかだれいうとなく、﹁酒さか屋やのワン公こう﹂と、呼よぶようになりました。そして、この哀あわれな少しょ年うねんの本ほん名みょうすら知しるものがありません。彼かれは、ついに、いつもこのあだ名なで、ワン公こう、ワン公こうと呼よばれていたのです。 この少しょ年うねんの足あしは、生うまれながらにして、こんなふうに、曲まがっていたのではなかったのでした。不ふこ幸うな境きょ遇うぐうは、やっと、六つか七つぐらいになった時じぶ分んから、赤あかん坊ぼうをおぶわせられて、守もりをしたからです。そして、まだ、柔やわらかな足あしの骨ほねは、体からだに過すぎた重おもみを与あたえたために曲まがったのでした。 彼かれの歩あるきつきを笑わらう、だれがこのことを知しりましょう？ しっとりとした、静しずかな夏なつの夕ゆう暮が方たであります。圃はたけに立たっている、とうもろこしの、大おおきな垂たれさがった葉はに腰こしをかけて、馬うま追おいが、知しっているかぎりの唄うたをうたっていました。 さわやかな風かぜが、中なか空ぞらを吹ふきわたりました。いつ出でたか、まんまるな月つきが、にこやかに、こちらを見みて笑わらっていました。 ﹁たいへんに精せいが出でるな。﹂と、月つきはいいました。馬うま追おいはびっくりして、二本ほんの長ながいまゆ毛げを動うごかして、声こえのした空そらを仰あおぎながら、 ﹁あのやさしい、酒さか屋やの小こぞ僧うさんが、さっきから熱ねっ心しんに聞きいていてくれるものですから……。﹂と、答こたえたのです。 これを聞きくと、月つきは、心しん配ぱいそうに、林はやしの間あいだから頭あたまを振ふりました。ちょうど、それと同どう時じでした。 ﹁ワン公こう、晩ばん方がたのいそがしいのに、こんなところで、なにを油あぶらを売うっているのだ。﹂と、主しゅ人じんのどなり声ごえがすると、つづけさまに、彼かれの頭あたまをなぐる音おとがしました。 酒さか屋やの白しろい犬いぬが子こを産うみました。 ﹁また、こんなやっかいなものを産うみやがった。﹂と、主しゅ人じんはいって、子こど供もをみんな河かわへ流ながしてしまいました。親おや犬いぬは、きちがいのようになって探さがしていました。そこへ、三十あまりの旅たびの女おんなが、三しゃ味みせ線んを抱かかえて門かど口ぐちから入はいろうとすると、白しろい犬いぬは、女おんなの足あしにかみついたのです。この知しらない女おんなが、自じぶ分んの子こど供もを奪うばったとでも思おもったのでありましょう。女おんなは、驚おどろいて救すくいを求もとめました。 主しゅ人じんは、知しらぬ顔かおをして、外そとへは出でませんでしたが、ワン公こうは、すぐ飛とび出だして犬いぬを追おいはらいました。女おんなの足あしからは、血ちが流ながれていたのです。 ﹁ここの犬いぬは、狂きょ犬うけんですか。﹂と、女おんなは、たずねました。彼かれは、白しろ犬いぬが、子こど供もを捨すてられたために、気きが狂くるっているのだということを話はなしますと、 ﹁かわいい子こをとられたのでは、人ひとにかみつくも無む理りはありません。﹂と、女おんなは、怒いからずにいいました。 少しょ年うねんはこの三しゃ味みせ線んひきの女おんなを、やさしい人ひとだと思おもいました。彼かれは、気きの毒どくになって、女おんなの足あしを水みずで洗あらって、自じぶ分んの腰こしにさげている手てぬぐいを裂さいて、傷きず口くちを巻まいてやりました。女おんなは、少しょ年うねんのしんせつを、心こころから、うれしく思おもったのであります。 ワン公こうは、遠えん方ぽうまで用ようたしにやられました。帰かえる途とち中ゅうで、空そらの模もよ様うが変かわって、雷かみなりが鳴なり、ひどい夕ゆう立だちとなりました。彼かれは、小ちいさな御おど堂うのひさしの下したにはいって、すくんでいたのであります。けれど、雨あめは、容よう易いにやみそうもなく、青あおい電いなびかりの光ひかりは、身みのまわりを縫ぬうようにひらめき、すぐ頭あたまの上うえでは、いまにも落おちそうに雷かみなりが鳴なったのです。彼かれは、めったに、こんな怖おそろしいめにあったことはなかったのでした。 ﹁ワン公こう、どうだ。主しゅ人じんににらまれるのと、どっちがこわい？﹂と、暗くらい、御おど堂うの内うちから、声こえがしたような気きがしました。 彼かれは、じっと自じぶ分んをにらむ、意いじ地わ悪るそうな主しゅ人じんの目めを思おもいうかべました。また、自じぶ分んを犬いぬの歩あるきつきに似にている、といってあざ笑わらう近きん所じょの子こど供もたちの顔かおを目めに描えがきました。すると、この自しぜ然んの怖おそろしさは、さすがに公こう平へいであるというような気きがしたのです。なぜなら、自じぶ分んひとりが怖おそろしいのでない。しかし、主しゅ人じんの目めは、ひとり、自じぶ分んにばかり注そそがれているように考かんがえられたからです。彼かれは、公こう平へいな神かみさまに向むかって訴うったえたなら、あるいは、自じぶ分んの願ねがいを聞きいてくだされないことはないという気きがした。 ﹁神かみさま、どうぞ、私わたしをお助たすけくださいまし。﹂と、彼かれは、答こたえるかわりに、暗くらい、御おど堂うの内うちに向むかって手てを合あわせて拝おがんだのです。 いつしか、雨あめは、小こ降ぶりとなり、雷かみなりはだんだん遠とおくへ去さってゆきました。 野のな中かを流ながれている小おが川わには、水みずがいっぱいあふれて橋はしの上うえを越こえていましたから、どこが道みちだかわかりませんでした。このとき、どこからか、青あお々あおとした、田たの上うえを飛とんで、すがすがしい空くう気きに、羽はお音とをたてる一羽わの黒くろい水みず鳥どりがあったかと思おもうと、小おが川わの淵ふちに下おりました。それは、くちばしの黄きい色ろい鷭ばんだったのです。 鷭ばんは、首くびを傾かたむけて考かんがえていましたが、やがて、流ながれをまっすぐにあちらへ横よこ切ぎってゆきました。流ながれには、さんらんとして、さざなみが雨あめの晴はれた夕ゆう空ぞらの下したに生しょうじました。 西にしに沈しずみかけていた、真まっ赤かな太たい陽ようは、 ﹁おお、元げん気きだな。﹂と、鷭ばんに声こえをかけました。 ﹁やさしい、酒さか屋やの小こぞ僧うさんが、途とほ方うにくれていますから、水みず先さき案あん内ないをしてやります。﹂と、鷭ばんは、かわいらしい目めを上あげて太たい陽ようを見みました。 その夜よ、ワン公こうは、着きも物のをぬらして帰かえったといって、酒さか屋やのおかみさんにしかられていたのです。 ﹁こんなに、着きも物のをぬらすなんて、おまえ、ぼんやりだからだよ。﹂ 彼かれは、どんな場ばあ合いにでも、自じぶ分んに、同どう情じょうしてくれるものがないのを悲かなしく感かんじました。 白しら壁かべの蔭かげにたって、ワン公こうは、芋いもの葉はの上うえに止とまった露つゆを見みて、空くう想そうにふけったのです。 ﹁自じぶ分んはあの露つゆだったら、なんの悲かなしいこともないだろう。お月つきさまが、おまえはもうすこし世よの中なかにおれといわれたら、ああして、私わたしは芋いもの葉はの上うえにころがっている。そしてまた、おまえはもう天てん国ごくへきてもいいとお招まねきになったら、喜よろこんでお月つきさまのところへゆく。そこには自じぶ分んがまだ顔かおを知しらない、お母かあさんもお父とうさんも、みんな露つゆになって光ひかっていなさるだろう……。﹂ 彼かれは、月つきを見み上あげて、 ﹁お月つきさま、私わたしは、正しょ直うじきに働はたらいていますけれど、だれも私わたしをかわいそうと思おもってくれるものがありません……。﹂と、訴うったえたのであります。 このとき、ふいに、目めの前まえへ美うつくしい、やさしそうな女おんながあらわれました。少しょ年うねんは、びっくりしました。よく、月つきの明あかりでその顔かおを見みると、どこか見みお覚ぼえのあるような気きがしました。 ﹁わたしが、いいところへつれていってあげます。この世よの中なかには、もっと正ただしいことも、幸こう福ふくなこともたくさんあるのですよ。わたしは、町まちや、村むらや、方ほう々ぼうを歩あるいてきました。そして、どこにしんせつな、よく道どう理りのわかる人にん間げんが住すんでいるかということも知しっています。わたしは、今きょ日うから、あなたのお母かあさんになって世せ話わをしてあげますから……さあ、まいりましょう。﹂ 考かんがえると、いつか犬いぬにかまれた三しゃ味みせ線ん弾ひきの女おんなでした。酒さか屋やのワン公こうは、この人ひとにつれられて遠とおくいってしまいました。