一
独り、道を歩きながら、考えるともなく寂しい景色が目の前に浮んで来て胸に痛みを覚えるのが常である。秋の夕暮の杜もりの景色や、冬ふゆ枯がれ野辺の景色や、なんでも沈ちん鬱うつな景色が幻のように見えるかと思うと遽たちまち消えてしまう。 消えてしまった後は、いつも惘ぼっとして考えるのである。なんでこんな景色が目に見えるのであろう。誰のことを自分は思っているのか? 気に留めて考えれば空くう漠ばくとして、悲しくも、喜ばしくもないが、静かに落付ていると胸の底から細い、悲しい、囁ささやきのように、痛むともなく痛みを覚えて、沈鬱な寂じゃ寞くまくたる夕暮の田園の景色などが瞭あり々ありと目の前に浮んで来る。 ああ、自分はなぜこんなに悲しい気になるのであろうか。もうもう彼か女れのことは思い切っているのにと自みずから心を励はげますけれど、熱い涙が知らずにぽたぽたと落ちる。物の哀れはこれよりぞ知るとよく言ったものだ。自分は曾かつて雑司ヶ谷の鬼きし子も母じ神んに参詣して御みく鬮じを引いたこともあったが……やはり行末のことや、はかない恋をそれとも知らなかったからである――この道を行けば、やがて鬼子母神の境けい内だいに出るのだが、もう草は枯れている。圃はたけのものも黄ばんでしまった。なんだか斯こう、彼女の面影が目に見えて来る。そういえばこの道を去る秋、共に通ったことがあったのである。 ああ、もうもう思うまい思うまい、悲しいんだやら、こう気が焦いらだってくるばかりで、やはりこれが悲しいんであろう。涙が知らずに湧いて来る。 どれ、ハーン先生の墓にでも詣まいろう。……二
思えば一おと昨と年し、ちょうど季節は夏の始めである。青葉の杜を見ても、碧へき色しょくの空を見ても何となく、こう恋人にでも待たるるような、苦しいかと思うと悲しいような、又物哀れな慕わしげな気持のする頃であった。 自分は学校の窓から裏うら庭ての羅くさ漢ま松きの芽の新なる緑を熟じっと見みい入って色々の空想に耽ふけっていた。するとベルが鳴ってハーン先生が来たのである。この日初めて先生の顔を見るのだ。 先まず空想に浮んだのはこの人が希ギリ臘シヤに生れ、西にし印イン度ド諸島や、その他諸方を流浪して来たと云うことである。背の低い眇びょ目うもくの、顔かお付つきのどことなくおっとりとした鼠色の服を着ていなさる、幾人の兄けい弟ていや、姉妹があり、父や母は何いず処くにどうして、而そして真面目な恋もあって、それが成就しなかったのではあるまいか。などと種いろ々いろの空想を廻めぐらしていた。やがて講義が終えてから、運動場に出て、羅漢松の木蔭の芝生の上に腰を下して漫まん々まんたる碧空に去来する白雲の影を眺めていると、霊れい動どうする自然界が、自おのずから自我に親しみ来るように思われる。そこいなき円まるい空、寂しそうな白雲、袂たもとにおとずれる風のささやき。雲を踏み、海を渡り、親もなく、兄弟もなき異郷に漂浪する、先生の身が可哀そうになって来る。今も尚なお優しい余韻のある、情熱の籠っている講義の声が律リズ呂ミカ的ルに耳みみ許もとに響いているような。 而して熟つく々づくと穏かな容かお貌つきが慕わしうなり、又自分も到底この先生のようではないけれど、やはり帰きす趨うなき、漂浪児であるという寂しい感かんじになった。 * * * この光栄ある詩人が、遽にわかに永劫の楽園を慕うて沈サイ黙レンスの海に消え、紫色の……さながら夢のような……さながら消えた悲みのような、遠いまた杳はるかな島山蔭の波間に見える、永劫の夏の浄土に憧がれ、漕こいで行ってしまわれた夕暮、我れは悲しみにたえやらず、君の行方なつかしく、美しい茜色の西の大空を、野越え、山越え、森越えて眺めやり、松しょ樹うじゅ影暗く繁る、瘤こぶ寺でらの、湿しめれる墓ぼは畔んに香を焼たいて、縷る々るとして寂じゃ寞くまくの境に立ち上る、細い細い青けぶ烟りの消えゆくを見るも傷ましく、幾たびも幾たびも空おも想いを破る鐘の響ひびきに我れ知らぬ暗涙をたたえたことであった。――思うともなく、その日のことが思いだされて、未だにその時の光あり景さまが瞭あり々ありと目に浮んで来て堪えられぬ。三
この春のことであった。北国のある町を歩いていると立たて琴ごとのようなものを鳴らして乞食が通るのを見た。その男の容貌がいかにも﹁日まわり﹂の一章に読よんだ乞食と似ている。何となく悲しく、鳴らしている立琴の音ねを聞きつつ、空想に耽ふけっているとその男の姿は遠くなって見えなくなった。……ああ、彼も漂さす浪らい人びとかと思うと、つい熱き涙が目の中に湧くのであった。 ハーン先生の文は、この琴の音の人をひく力のようにどこか哀れな寂しい、細い澄んだ響きを伝えていた。――何となく沈痛! 何となく悲哀! の響きがある。 人生には悽せい惨さんの気が浸透している。春花、秋月、山あり、水あり、紅あか、紫と綺き羅らやかに複雑に目も文あやに飾り立てているけれど、帰きする処ところ沈痛悲哀の調べが附つき纏まとうて離れぬ。酔うたる人は醒むる時の来るが如く、楽たのしめる者、驕おごれるもの、悦よろこべるもの、浮かるるもの早晩傷み、嘆き、悔い憂うれうる時の来ることを免まぬかれない。 誰か青春の美酒に酔うては歌わざらん。誰か凋ちょ落うらくの秋に遭おうては酸さん鼻びせざらん。人生酔うては歌い、醒めては泣く、就なか中んずく余は孤こし愁ゅう極きわまりなき、漂浪人の胸中に思い到る毎ごとに堪えがたき哀れを感じて、無限の同情を捧ぐるのである。 さすらい人! いかなれば君独り愁え多きや。飛ぶ雲の影を見れば故郷の山を思い、うららかなる春の日に立つ野山の霞を見る時は、ありし昔の稚おさ子なごの面影を偲しのぶ。里さと川がわの流れ迢ちょ々うちょうたるも目に浮び、何いず処こよりか風のもて来る余韻悲しき、村むら少おと女めの恋の小唄も耳に入いる。……故郷を離るる幾百里、望めば茫ぼう々ぼうとして空や水なる海、山の上にも山ある山国に母を憶おもい、父を憶うて、恋しき弟はら妹からの面影を偲ぶ心如い何かならん。 さすらい人! いかなれば君独り愁え多きや。男子苛いやしくも志を立てて生活の戦場に出いで人生に何等かの貢献を試こころみんと決したる上は、たとえ腸はらわた九たび廻り、血潮の汗に五体は涵ひたるとも野に於いて、市に於いて、鋤すきに、鍬くわに、剣に、筆に奮ふん迅じんの苦闘を敢あえてする腕かいなも、勇気もあるものの、只ただ彼かの浮世の風波に堪え得ぬ花の如き少女、おお、我が恋人は今頃いかに、今こよ宵いをいかに送るならんと空の彼方、見よ月に雲のかかり、忽たちまち勇気の挫くじけて暗やみに落ち行く心地せらる。……煩はん悶もん……懐疑……ああ、いかなればさすらい人! かく君独り愁え多きや。 ラフカディオ・ハーン先生はた一個のさすらい人であると思う。 * * * 見渡せば霞立つ春の海原。波静かなる、風穏かなる、夢にも似たる青き遠山を見るにつけ、黄色なる入江の沙さじ上ょうの舟や、灰色の市街を見るにつけ、子しの文章を思い起すのである。 北国の春の空色、青い青い海の水色、澄みわたった空と水とは藍を溶とかしたように濃淡相映じて相あい連つらなる。望む限り、縹ひょ緲うびょう、地平線に白銀の輝ひかりを放ち、恍こうとして夢を見るが如し。彼の浦島太郎が波間に浮べる、故郷の山影の、夢のような景色を眺めたのも、こうであったろう ﹁夏の日の夢﹂の記を読んで、今、記憶に残っているのは左の一節である。 “Summer days were then as now, ―― all drowsy and tender blue, with only some light, pure white clouds hanging over the mirror of the sea.” 日本海の風に吹かれて、滄そう浪ろうの寄せ来る、空の霞める、雲も見えず、麗うららかなる一日を海辺にさまよい、終ひね日もす空想に耽っていたことがあるが、その時子しの文章と閲歴とを思い出さずにはいられなかった。赤、黄、緑、青、何でも輪郭の顕著なる色彩を用い、悠ゆう々ゆうたる自然や、黙もく静せいの神秘を物もの哀あわれに写す力があったのが彼かの人の特長である。 自分は希臘の海を見ないけれど、我が春の海を見るたびに何となく懐かしく思う。ああ、緑なる空。青き海原を見れば希臘の空を思い、悠々と白き雲の飛ぶ影を見れば、さすらい人を思い、月の光を見ては愁え、貝を拾うては泣き、悲しく吹く風に我が恋人の身の上を思い煩わずらうのである。四
ただ独り、黄ばんだる林の下道を歩いて、青い空の見える淋しい湿しめり勝がちな小道を行くと、涼しい秋の風が身に浸み、何となく痛みを胸に覚ゆるのである。広い圃の中に出ると、小春日に、虚空を赤あか蜻とん蛉ぼが翻ひら々ひらと、かよわく飛んでいるのやら、枯れた足元の草の上に止とまっているのもある。遠く、うす黒き烟けむりの、大空に溶けるように上のぼっているのも見える。けれど何等の響きも聞えない。左に小道を折おるれば、例の墓はか所しょに出るので、誰れ見るともなく、静かな秋はいつとなく暮くれて行くのである。
自分はこの眩まぶしいような空を眺めて、何となく悲しくなった。
ある日、講義の時間に﹁とんぼつり、今日はどこまで行ったやら﹂の句を、
“Catching dragon-flies! ..... I wonder where he has gone to-day!”
詩人の情のこもれる、やさしい声で而しかも物哀れに語られたことがあった。而そしてその時に自分は稚おさ児なごが現うつ世つよならぬ薄青い夢の世の熱い夏の真昼頃、なんでも広い広い桑畑でただ独り、その裡うちをさまよいながら、蜻蛉を取っている姿のありありとして見られたのである。
* * *
不思議なるは人生の行こう路ろ、誰か自分の運命を知るものがあろう。……ふりさけ見れば千万里、海や、雲を隔てて異郷の土に冷ひややかに眠るさすらい人の身を哀れむのである。而してもう、あの柔和な面影は再び見られない。艶えん麗れいな筆も既に霊なきものとなった。
ただ永劫に吹く風の、悲しい余韻を伝えるばかり。
自分は茫ぼうとして人の身の上を思うていたが、やがてまた我が身の上を悲しく感ずるのである。光明の郷に憧がれて、迷う孤雲の如く、幽かすかなる光を放ち、漫々たる西の大空に浮ぶ。暗やみ、愁うれえ何処に果はては落ち行くであろう。……うす紫に匂う、希望の星の光は遠い。……去こ年ぞの秋、この道を歩いた時は、恋しい影が従ついていたものを……今は思いにやつれしさすらい人!
いでやこの涙を捧げものにして詩人の墓を訪とおう。……ああ、おそろしい風! このあたりは落葉で径みちも見えぬ。