一
春の長のど閑かな日で、垣根の内には梅が咲いていた。私は、その日も学校から帰ると貸間を探さがしに出かけた。 その日は、小石川の台町のあたりを探がして歩るいた。坂を登って、細い路ろ次じにはいって行った。赤い煉れん瓦がべ塀いについたり、壊れかけた竹垣に添ったりして、右を見、左を見たりして行くと、ふと左側のすぐ道ばたの二階家に、﹁貸間あり﹂の紙札が下っていた。 私は、先まず外から立ってその家の有様を眺めた。古い家で、四角な、そう大きな家でなかった。そして、二階家といっても非常に低くて、背せの伸びをしたら、二階の内部が往来からでも見えそうであった。思うに、その家は、可かなり低地に建っていたものと思われる。何しろ、私が学校に行っている時分のことであって、もうかれこれ二十年近くの昔になるから、はっきりとした、その時の印象が浮んで来ないのに無理はない。しかし、その壊れかけた垣根のうちから、外の方へ差し出た梅の枝には、ぽつらぽつらと白い花が咲いていた。 私は、とにかく入って、その室へやを見ようと思った。そして、入口から声をかけると白しら髪がの爺さんが、庭先に何かしていたが、 ﹁どうぞおはいり下さい。二階ですから﹂と、言った。 私は早速家にはいって二階へ上って見た。畳の汚れた、天井張りの低い六畳の間であった。外から見た時には、南に縁側がついているので、暖かそうに、日がよく当っていて明るそうであったが、室の内にはいって見ると何どうしたことか、陰気で、暗っぽい感じがした。しかも窓が、東の方にも付いていたけれど、どういうものか気持を引立てなかった。 ﹁この室には、はいる気がしない﹂ 私は、ただこんなことが念頭に浮んだ。そして、爺さんが静かだとか、日がよく当るとか、学校にもそう遠くはないと言ったことなどを耳に聞きながらも、私は、しばらく黙って考えていた。 ﹁また、よく考えて来ます﹂ こう言って、私は、その家から出た。そして、他にも、貸間はないかと、方々探がして歩あるいた。他にも、好ましい家はなかった。しかし、私は、思い返して、二たびあの二階家へ行って見る気は、どういうものか起らなかったのであった。 ある時、Bの室で、二三人学友が集った時、貸間の話が出たのであった。やはり、みんなも貸間を探がしていたと見える。 Nが、電燈の下で、眼鏡を光らせながら言った。 ﹁台町になら、一軒二階で貸間があるんだ。まだ、きっと開いているだろう。長くいるものがないのだ。ぼくの友達も、あすこへ行ったのだ。移って行った晩だね、夜中頃に、ふと眼をさますと、女が室の中を歩いているのだそうだ。青い顔をして、俯向いて、隅の方を足音を立てずに歩いているのだそうだ。友達は、自分は、夢を見ているのではないか? と、気をしっかり持った。しかし夢ではなかった。自分は、幻想を見ているのではないか? と考えた。しかし、眼にはっきりとその女が見えた。友達は、恐しくなって蒲団を頭から被った。そして、夜の明けるのを待った。 夜が明けると、もう、一日もこの家に居ることができなかった。それでね、早速荷物を片附けて、前の下宿へ帰ろうと思って、そう断ろうと梯はし子ごだ段んを降りると、爺さんも婆さんもいなくて、十二三の女の子がいた。仕方なく、その女の子に話すと、 ﹃やはり、何か見えましたか?﹄と、女の子が言ったそうだ。 ﹃じゃ、僕ばかりではないのだね、この家へは幽霊が出るのかね﹄と、友達は、聞いた。 女の子は、笑いもせず、じっと友達の顔を見て黙っていたそうだ。 友達は、すぐに、その家から越してしまった﹂ 私は、この話を聞くと、あの二階家が目に浮んだ。 ほんとうに、そんなことが、この世の中にあるのだろうかと思った。 一、二年後であった。私は、其そ処こを通ると二階家が見えなかった。垣根などが新しくなっていた。その家は、壊されたものと思われた。二
私は、この世の中に﹁妖怪﹂の存在を否定する何ものも自みずから有しないかわりに、また、﹁妖怪﹂の存在を肯定するに足る程の実験にも触れて見ないのだ。けれど、﹁妖怪﹂以上の恐怖すべき光景に接することがないではなかった。
この一つも、やはり、学生時代に、貸間をさがした時に見た、光景の一つである。
関口の滝の附近に、黒く塗った壁板には、武者窓が附いている、古くからの家があった。しかし、それが外部から見ても陰気な二階建になっていた。一軒の前に﹁あきま﹂の紙札が貼られていた。
私は、こごんではいらなければならぬ、くぐり戸の外から、﹁ご免下さい﹂と案内を頼むと、﹁なにご用ですか﹂と、つんけんどんな、婆さんの声が内からした。そして、誰も出て来なかった。
私は、最初の印象が、すでによくないと思った。しかし、こちらから案内を頼んだ上は、仕方がなく、
﹁あきまを見たいのですが﹂と、言った。
﹁おあがんなさい﹂と、愛想気のない調子で、おなじ声が答えた。
私は、すべりのよくない障子を開けて、窮屈な土間から框かまちへ上った。すると、奥に頑丈そうな白髪の老婆が、恐しい眼付をして、こちらをじっと睨んでいた。
﹁どの間ですか﹂
私は、もう聞かなくてもいいような気がしたが、やはり行きがかり上から言わなければならなかった。
﹁二階の六畳ですから、ごらんなさい﹂
婆さんは、起たとうともしなかった。
私は、家へはいると、外で見たよりも、一いっ層そう陰気を感じた。そして、急な狭い、暗い梯子段を上った。つきあたりの六畳を、これかと思って覗いた。壁は処とこ々ろどころ壊れていた。新聞紙などが古くから貼られている、色が黄色くなっていた。そして、畳の表は、すでに幾年前に換えられたのか分らなかった。襖でし切ってもう一間あるらしかった。
その室は、どんな室かと思って、私は、廊下つづきに並んでいるので、隣の間を覗いて見る気になった。高窓から、鈍い光線が射し込んでいた。私は、其処を覗くと同時に、苦しそうなうめき声が起った。蒲団を敷いて三畳の間に、女が枕を廊下の方にして、仰向になって臥ねているのであった。もう長いこと臥ていると見えて、黒い髪の色は、つや気がなく縺もつれていた。そして、両方の頬骨が高く突き出て、眼は底の方に落込んでいた。血の気は全く失せて、顔の色は、白い花弁のようであった。女は歯を露むき出して、痩せた体を悶もだえて、肋骨を二重に折るように、うすい蒲団の下で波打たせていた。
﹁あ――っ、あ――っ﹂
病婦は、他人が覗いているということを悟る筈がなかった。こうして、独り苦しんでいた。枕まく許らもとには、啖壺が置かれてあった。
私は、逃げ出すようにして下へ降りた。外へ出るまでに、殆ほとんど発作的に、
﹁あの六畳の間ですか?﹂と、言った。
老婆は、冷淡な顔を上げて、やはり座ったままで、
﹁そのうちには、隣の三畳もあきます﹂と、言った。
私は、無言で外へ出た。そして、茫然として、ある戦せん慄りつを全身に感じた。