もう春もいつしか過ぎて夏の初めとなって、木々の青葉がそよそよと吹く風に揺れて、何とのう恍うっ惚とりとする日である。人里を離れて独りで柴を刈っていると、二郎は体中汗ばんで来た。少し休もうと思って、林から脱け出て四あた辺りを見廻すとすぐ目の下に大きな池がある。二郎は何の気なしにその池の畔ほとりへ出た。 すると青々とした水の面おもてがぎらぎらする日の光りに照うつって一ひと本もとの大きな合ね歓むの木が池の上に垂れかかっていた。 ﹁この池の名は何というだろう?﹂ 二郎はその合歓の木蔭に来て鎌や、鉈なたを投ほうり出して、芝生の上に横になって何を考うるともなく熟じっと池の上を見下している。爽やかな風がそよそよと池を渡って合歓の木の葉が揺れると寂ひっ然そりとしている池の彼あな岸たで鶺せき鴒れいが鳴いている。うす緑色の木の葉も見えれば、真まっ蒼さおな常とき盤わ木ぎの色も見えている……しかし人影は見えなくて静かな初夏の真昼である。 二郎は種いろ々いろな空想を浮べていた……合歓の木の下に繁しげっている蔦つた葛かずらの裡なかで、虫が鳴いている。二郎は虫の音に暫しば時し聞ききとれていたが、思わず立上って蔦葛の裡をそっと覗き込んで見たが、姿は見えなかった。またもとの芝生の上に横よこたわって池の方を見ていると又虫の音が聞こえてくる……若もし捕まえたら、彼あの竹籠の中へ入れて、籠の中へ草を入れて、霧を吹いて、庭の南天の枝に掛けて置こう。そうするときっとこのように好い声を出して泣くだろう……。されど身動きもせんで、熟と眸ひとみを青葉の上に落して、滅入るような日の光りを見つめていた。 すると池の上で先さ刻きがたの鶺鴒が一声啼ないて向うの岸に飛んで行くのである。二郎は、その鶺鴒の下りた林の方に目を移して又考え込んでしまう。 ﹁ああ、姉さんは死んでしまったのか。﹂ と、この時遽にわかに独ひと言りごとのように溜息を吐ついて目から涙が溢こぼれる。しかし誰たれも見ているのでないから、落つるままにしておくと、涙が頬を伝うてぽたぽたと膝の上に落ちた。 この時、何を思い立ったか、二郎は仰いで合歓の木を見上げたのである。
﹁大きな合歓の木だな、幾百年経ったろう……早く花が咲けば好いが、花が咲く時分になると村のお祭が何い時つでもあるんだ……しかし姉さんがいないから、寂しくてならん……盆になると姉さんは踊ったっけ……姉さんを村の者は美しいと言う。その噂を聞くと姉さんはいつも赤い顔をしたっけ……。ああ、つまらんつまらん姉さんは死んでしまったんだ。﹂
思い出すともなく、いつしか姉のことを思い出して二郎は泣いたり、又何か思うて笑ったりしているのである。
白いすき透るような雲が、ふわふわと高く飛んで池の上を渡ると影が水の上に映って、赫かっ々かくと照っていた日の光りが少し蔭ると、天地が仄ほんのりと暗くなって、何いず処くともなく冷たい、香かんばしい風が吹いて来る。何だか寂しいような、うら悲しいような気持になった。すると又不思議なことには、それはそれは……今迄聞いたことのない、美びみ妙ょうの音楽の音が響いて来て、初めは何でも遠くの方に聞こえたと思うと漸だん々だん近ちかく、しまいには何でも池の中から湧き出て来るように思われた。
而そして時々は姉の声も交って、歌うている歌の声が聞こえて来るかと思うと、つい眠くなって二郎は其そ処この芝生に倒れたまま、好い気持でうとうとと眠ってしまった。
さだめし二郎は面白い夢を見ていたのであろう。冷たい風が顔を嘗なめるように身に浸みて、ふと目を醒まして見ると驚いた。
星の光りがちらちらと見え、全く日は暮れていたのである。池の面は黒ずんで、合歓に渡る風が一きわ高く、静かな山やま中なかの夜は物凄い程に寂ひっ然そりとしている。……耳を澄ますと虫の音が聞こえて来る。叢くさむらの中でかさかさとするのは何かの小鳥が巣を探たずねているのであろう。手で地上を探って鎌や、鉈を腰に挟んで、一歩一歩池の畔に出た時に心覚えのあるだらだら坂を登って、やっと昼前に柴を刈っていた場所まで来て見たが、それから先さきは一いっ向こう覚えがない。たとえ覚えはあったにしても、夜のことで、とても小道を探し出すことは出来なかった。
帰ろうと思っても、帰ることが出来ず、家では親達が心配しているだろうと思うと一刻も茫ぼん然やりしてはいられず、だんだん心細くなって来て泣き出した。……ややしばらくして泣き止んで切り捨ててあった、青々とした柴の上に腰を下して、空の星をさびしげに眺めていた。
すると何処ともなく天てん外がいになつかしい声が聞えて、さわさわと木の葉が揺れるかと思うと、日頃恋い慕っていた姉が、繁みの裡なかから出てきたのである。
﹁姉さん!﹂
と、余りの嬉しさに一声叫んで飛び付いた。……しかし死んだ人がどうして来たろうと思うと空怖ろしいような、物凄い気持がしたけれど、見れば見る程まさしく自分の姉であり、而して今自分の心細く思っている矢先であったから、そんなことを考える間ひまがなかった。
﹁姉さん、姉さん! 僕は嬉しかった。﹂
姉は物も言わんで、微ほほ笑えんで、彼あのうるんだ愛なさけの籠る眸ひとみで、二郎を打うち眺ながめている。二郎は姉の袂たもとにしかと縋すがり付いたまま、もうもう決して決して、放さないと決心したのである。
﹁さあ、二郎ちゃん行こう。妾わたしが道を案内して上あげるから、いつかは、日いつ常も妾の帰りが遅いと迎いに来てお呉くれだったのね、今日は妾が途みちを教えて上げよう。﹂
二郎は心のうちで、どうして姉が
この時姉は始めて
﹁この道を真直に行くと、直じきに彼あの大きな原に出る、すると向うに家が見える。泣かんで早くお帰り! ちょうど月も出たから……妾は此こ処こで見送っていますよ。﹂
「じゃ姉さんは、やっぱり帰らないの……。僕は姉さんと一しょに行きたいから連れて行って頂戴! 僕は独りで帰るのは厭だ。」
姉は流さす石がに躊ため躇らっていたように見えた。さも哀しげに渓たに間まの月影を見下して、果ては二人してさめざめと泣くのである。小ちさき弟の胸には張り裂けんばかりに悲かなしみの充ちて、さも心配らしう姉の顔を眺めている。
﹁そんなら、また明日彼の池の畔へ来ておくれ! きっと妾が待っていますから、而して楽しく話をしましょうね。﹂
﹁じゃ姉さんは明日も、来てくれるなら僕はきっと彼の池の畔へ行って待っていよう。﹂
﹁ああ、ほんとうに妾が待っててよ。﹂
﹁うんにゃ、僕の方が先に行って待っているんだ。﹂
﹁ほほほ可お笑かしいことね。﹂
と、さびしげに姉は打うち笑えんだ。
﹁また明日にしてよ、今日はこれでお帰りよ。﹂
二郎は首うな肯ずいたまま、泣く泣く坂を下りて行ってしまう。姉は爪先だてて見送っている。二人は幾度も幾度も見返えりつ、見送りつ、月の光にほんのりと姿は霞むが如く見えずなるまでも……
しかし二郎の両ふた親おやはいつになく我が子の遅く帰ったのに心配して、種いろ々いろと二郎に仔細を問うた。始めのうちこそは何とも言わなかったけれど、問い詰められて隠しきれず、つい一部始終を物語ったのである。而してどうか姉を家へ連れて来たいと両親に請ねだ願ると両親は驚いて、顔の色を変えて、
「二郎や、それは魔物がお前を見込んでいるのだ。もうもう決してその池の畔 へ行くことはならんぞ。」
と、堅く言い聞かせた。
その翌日のこと、二郎はいつもの山へ出掛けはしたが、偶ふ然と昨日、両親から言われたことを思い出して、池の畔りへは行かなかったのである。
やがてその日の昼頃となって、もう大分仕事に疲れてきて、休もうかと思っていると、遠くで自分の名を呼ぶ声が聞こえる。二郎は握っていた青々とした小枝を地ちび上たに落して、耳を傾けていると又呼ぶ声が聞こえるのである。確かに姉の声に相ちが違いがない。
二郎は空怖しくなって、林の中に慄すくんでいると、その声は漸々と近づく。……突如として自分の前に立ち塞ふさがったものは、顔色の青あお晒ざめている女の姿! ぎょっとして見上げると頭かみ髪のけは顔に乱れていて、物も言いわんで、自分を捕えたまま冷ひややかにけらけらと笑い、またさも嬉しそうに、我が顔を覗き込んだ。
﹁行こう行こう、二郎ちゃん! 妾は先さっ刻きから大分待っていてよ。﹂
と無理にその場を押し立てて、何いず処くともなく連れ去ってしまった。
……二郎は何ど処こへ行ったであろう、その晩はとうとう帰って来なかった。両親は非常に心配して、今日山へやらなければよかったと後悔をしていると、日暮方から鳴なり出だした雷は益ます々ますすさまじくなって、一いっ天てん墨を流したようで、篠しの突つく大雨、ぴかりぴかりと電いなずまが目の眩くらむばかり障子に映うつって、その毎たびに天地も覆くつがえるように雷いかずちが鳴り渡る、その夜は両親は心配に泣き明した。明くる朝を待って池の畔へ行って見ると、可哀そうに二郎の被っていた菅すげ笠がさが池の水に漂うていた。父親は其そ処こに泣き倒れた。而して一ひと先まず村へ帰って人々の助けを借りて、再び池の中を捜索したけれど、その苦心の効かいもなく、とうとう死骸を見付ることが出来なかった。
其処で村の人達は相あい会かいして、これには何か不思議な仔細があるのであろうと議ぎけ結つをして小やし祠ろを大きな合歓の木の下に建こん立りつして、どうかこの村に何事の祟たたりもないように、どうか旱かん魃ばつの時にはこの村の田畑に水の枯れぬように、どうか小供の水難を救われるようにと祈きと祷うをして、さてこの池をば稚ち子ごが淵ふちの明みょ神うじんと名づけたのである。
毎年初夏の頃になると、薄うす紅くれない色の合歓の花が咲く。その頃になるとこの祠やしろの祭があるので、村祭同様に村中の者が家業を休む。その時にはこのさびしい山中にも太鼓の音がひびき、笛の音も冴える、而して春、夏、秋、冬、この池の水は青々として黒ずんで、静かな山や、林や、杜もりの影を映している。青葉の夏も、紅葉の秋も、いつもなつかしい慕わしい眺めである。