その頃この町の端はずれに一つの教会堂があった。堂の周まわ囲りには紅い蔦つたが絡み付いていた。夕日が淋しき町を照す時に、等しくこの教会堂の紅い蔦の葉に鮮かに射して匂うたのである。堂は、西洋風の尖った高い屋根であって、白壁には大分罅ひびが入っていた。 日曜になっても余り信徒も沢山出入しなかった。 その教会に計けい算さん翁おうと渾あだ名なされた翁おきなが棲んでいた。 計算翁は牧師である。肩幅の広い、ガッシリした六十余歳の、常に鼠色の洋服を着て、半ば白くなった顎あご髭ひげをもじゃもじゃと延のばして、両手でこれを披ひらいている。会堂の両側は硝ガラ子スま窓どである。外の扉ドアを開けて入ると、幾つかの椅子が行儀よく並んでいる。その数は凡およそ五十ばかりもある。正面に高く壇があって、其そ処こに一脚のテーブルが置かれて、背バッ後クは半円形にたわんで喰い込んでいた。壁は凡すべて白く塗ってあった。其処で計算翁は日曜毎にあつまる町の人達に向って説教した。けれど毎週つづけて来るような信者は二人か三人位いで、大たい抵ていは遊び半分に来る人が多い。いつも人の数は二十に満たなかったけれどこの翁は、町の子供等らに慕われていた。翁は冷静な頭を持っている。それで算術が上手であった。町の子供には毎夜六時から八時頃まで、特に日曜の時には午後の二時から六時までという風に算術の稽古を授さずけていた。それで信徒でなくても、町の子供等はこの教会に出入して翁をば算術の先生！ 先生！ と呼んでいた。処からしていつしかこの翁をば誰れ言うとなく計算翁と呼ぶに至った。 翁おうは、半はん白ぱくの髪の延びた頭を抱えて、教壇のテーブルに向って、＋プラス、−、×マルチプライの講義をやる。時にはその物もの憂うそうな皺の寄った顔を上げて、眼の前のベンチに居並んだ子供に対むかって哲学や、神話の講義なども分り易いように物語ることがある。翁の半生を知る人は稀まれであった。旅の人である。この教会の牧師になって来てから、はや三年となった。それ以前に彼の妻たるべき人は死んだと見えて、此こ処こに来た時は一人であった。この蔦の絡んだ教会堂に住んで、別室には家なしの労働者夫婦を同居させて居た。彼が教壇の上に立って、讃美歌を捧げる時のその声は、高い、太い声だけれど、また傷いたましい、悲かなしみを帯おんだ何ど処こやら人に涙を催させるような処があった。――或人は、計算翁をば失恋の人だといった者もある。 翁は決して、饒しゃ舌べる愛あい嬌きょうのある人でない。極ごく沈んだ憂えを帯んだ額に八の字を寄せて、蓬よもぎのように蓬ほう々ほうとした半白の頭を両手でむしるように悶もだえることもあるかと思えば、また快活に語って恰あたかも神々しい天の光を認めたように浮き立つ場合がある。けれど何どっ方ちかといえば無愛想な、構わぬ人であった。或時には冷たく見えたのは事実だ。 日曜日になると説教がある。また午後からになると子供が数学を習いに来る。その時には無た賃だで置かれた家なしの女房は、後うしろの扉ドアを開けて出て来て、ストーブに薪たきぎを投くべて行く。家なしの夫は昼間は働はたらきに出て夜帰って来る。留守に女房が、教会堂の留守を兼かね、翁の世話をしている。とはいえ決して翁はこの女房の世話にならなかった。食たべ物ものから、衣服の事すべて自分のことだけは自分でした。ただストーブに薪を投たり、戸とじ閉まりの注意位この女房に委まかしてあるばかりであった。この女房というのは、二ふた眼めと見ることの出来ない不具者である。頭かみ髪のけは赤くちぢれて、その上眇すがめで、跛ちんばであった。夫というのは懶なま惰けも者のの、酒飲みで普あた通りまえの人間でない。けれど翁は斯こん様な者でも自分の傍に置おいて意とせなかった。翁は人の来ない時でも、独り演壇の上に書物を開いて、両側の色いろ硝ガラ子スに夕日の輝く時分まで熱心に書見に耽ふけっている場合がある。教会堂は町の通とおりから少し奥に入って、物音が聞えずに昼でも静かである。後の扉がギーと開くと、赤目の眇で跛の頭髪のちぢれた女房が薪を小脇にかかえて、妙な歩みつきで出て来ると、じろりと翁の方を盗むように見て、ストーブに薪を投げ入れて、また妙な足つきで奥の方へ入ってしまう。別に礼儀も何も知らない彼等のことだから、翁に対しても言葉一つかけるでもない。翁はまた熱心に下を向いて書物を読んでいて此こち方らを見ようともしないのである。やがて、あたりが静かになると、遠くの遠くで、何やら物売の笛の音が聞える黄たそ昏がれの時刻となる。 この時、翁はやっと頭を上げて、側の色硝子の張ってある高窓の方を見ると、急に張りつめていた胸の力が衰えて、遠い感かんじがして、知らずに眼に熱い涙が湧いて﹁ハーッ。﹂と溜息を洩らすのである。ああ、彼が故郷を思い出すのは、僅わずかにこの一瞬時あるばかりであった。翁は、机の上の書物を伏せて、手を合せて指を組んで、頭の上に当あてて俯うつ向ぶして、神に何をか祈る……翁が初めの五年、六年は斯様風のものであった。 それが或年から、全く翁の身みな形りや、信仰が変ってしまった。 翁は或時、赤目の跛びっこを拳こぶしで擲なぐった。こんなことは今迄の翁に決してなかったことだ。翁は日頃着ていた鼠色の服を脱いで、全く裾の長い真黒の喪服に着換えてしまった。而そして頭髪をも剃り落して、真黒な頭ずき巾んを被った。今迄何処か人懐なつかしそうな柔和であった眼は、険けわしくなって、生徒に対する挙動まで荒々しくなったのである。 翁は今迄、生徒に対して、数学を教えるのにも、ゆったりとした調子で優しく教えたのが、全く口早に何をいうのか分らなくなって折おり々おりは独りで腹を立てて、独り口の中で何かいって室へやの中を歩き廻ることがある。――翁の身形は、全く僧侶になり変ったのだ。この頃の翁は、日曜日になって教壇に立っても、暗黒とか、罪悪とかいうことを口ぎたなく罵るのみであった。 木枯の吹く寒い日に、計算翁は例の如く黒い服を裾長く地じび面たに引ひき摺ずって、黒頭布を被って、手に聖書を持って、町の中を右左に歩き廻った。而して、町まち端はずれの寺などに行って、落葉の降る墓場の中に立って、足あし下もとのその名も知らない冷たな墓石を撫なでて考え込む。 そうかと思うとまた聖書の一節を口早に叫んで、次の墓に行いってまたその冷たな墓石を撫で、何か口の中で言っている。また気を揉むようにその次の墓石に行って、冷ひややかな石の面おもてを撫でて頭を傾げた。こういうように幾つも幾つもの墓石の前に立っては同じことをやっているうちには、いつしか気が静しずまると見えて、また木枯の吹き荒すさぶ町の中を黒い服を地上に引摺って、蔦の絡んだ白壁の教会堂の方へと帰って行くのだ。 町の人々は、いつしか翁を気が狂ったと言い出した。中にはそうでない、翁は神様に祈る真似をするのだといって、翁のすることをすべて見逃していた。けれど翁に数学を習いに来た子供等は、翁がこの頃訳の分らぬことをいうのと時々腹を立てて、顔を真赤にして、手を振り足音を荒げて室内を歩き廻るので、怖しいといって来なくなったものも沢山ある。が、彼かの赤目のちぢれ毛の跛を打ぶったように生徒を擲ぶったことを聞かぬ。或時には癇かん癪しゃくを起おこして持っている石筆をば、ストーブを目がけて投げ付けたことがある。其そん様な時には白い石筆が微みじ塵んに砕けて散って、破片は窓の硝子を打ったり、ベンチの上に飛び散った。 翁が、日に増し気が変って来るにつれて、益ます々ます神とか、死とか、命とか、時とかいうような哲学上の問題を相手が分るにせよ、分らぬにせよ誰れ彼の区別なく顔を見る人に向って説き付けるようになった。――赤目のちぢれ毛の跛ちんばにさえ、偶たま々たまストーブに薪を入れに来るのを呼びとめて、霊魂不滅を説き聞きかせたことがある。赤目のちぢれ毛は遂には翁をば怖しい人だと思って翁がただ独りで教壇に向って、瞑めい想そうしている時などには、たとえストーブが冷かになるということを知っても薪を持ち運ばぬようになった。けれど翁は、赤目のちぢれ毛の、怠なま惰けも者のの夫に向っては神を説き聞かしたことが一度もない。 何となれば翁は、斯様怠惰者の酒飲は到底言っても役に立たぬ、神は決して斯様人をも救い給わぬといって始めから眼中に入れずにいる。……翁は、未だ曾かつてこの大男の顔をしげしげと見たことがない。路上に転がっている石の如く思っていた。 翁は自分の居間で食事をしたり、寝たりするのは赤目のちぢれ毛の跛びっこも決して見たことがないという。食事の時、寝る時共に厚い扉を堅くしめて、総すべて秘密にしている。ただ毎朝早く翁は、町に出て、自分で野菜を買いに行くのが例である。――肉や、パンは先方で車を引いて来て小僧が届けることになっている――が青々とした野菜や、紅い果物を翁は毎日のように買いに出た。或時は風呂敷に包んで来る。或時は、露わに片手に林りん檎ごを握って、片手に青菜を揺ぶら下さげて帰る。 いつの頃からか翁は外国人だという説が持ち上った。いや雑あい種の人こだ。いや全くの日本人だという説がある。けれど全く翁は、何どち方らとも分らぬ程の不思議な人物である。 メソジストの全国教会名簿には、翁の名は何と書かいてあったろう？ 翁に向ってその名を問うと頭くびを振って決して答えない。又親や、兄弟があるかと問うても、ただ﹁無い。﹂といって余よのことは語らなかった。…… 嵐が戸外に吹き荒すさんで物凄い晩であった。赤目のちぢれ髪げの跛がしんとした真夜中頃、扉を細目に開けて、広間を覗くと、冷かな風が隙間を漏れて来る。その大広間の裡うちに一人翁は黒服を身に纏って半白の髭を生はやし、頭に黒頭巾を被って顔色は青ざめて、幽霊のように窶やつれて眤じっと教壇に向って真まっ直すぐに何やら、一定のものを見詰めていた。前の机には書物が伏せてあった。この円い大きなテーブルの中まん央なかには、僅かに一本の蝋ろう燭そくが点ともっているばかりであった。その火影は寒さに凝こって、穂ほさ尖きが細く、心しんが赤くなって、折々自然にゆらゆらと閃ひらめくのが、翁の姿を朧おぼ気ろげに照していた。四方の壁際までにはやっとその光りが泳ぎ着く位で、四囲いは灰色の壁が朦もう朧ろうと浮き出てストーブの火もいつしか消えていた。硝子窓にさらさらと落葉が当って轟ごう々ごうと北風が家を揺ゆすって、その毎たびに、かたんかたんと窓の障子が鳴るのであった。――赤目の女は暫ざん時じ扉の隙から見守っていたが、容易に翁が身動きもせずに熟じっとしているので、その儘まま音を盗んで扉を閉めて、自分等の室に歩みを返して眠ねてしまったという。 一日、空が暗く掻き曇った日にこの町で信者の牛肉屋の娘が死しんだ。――急に病やんで死んだのだ――翁は使つかいをうけて早速出掛けた。――長い黒服を引摺って黒頭巾を被って、手に小形の聖書を持ってその家を訪れた。両親や、親戚やが枕許に取り巻いて泣いている。翁は、早速用意してあった大きな十字架の上に娘を仰向に臥ねさせた。――鍛か冶じ屋やから五寸釘を五本買って来るように命じた。死んだ少おと女めの黒髪は房ふさ々ふさとして、額を掩おおって、両眼はすやすやと眠るように閉じている。顔色は、蝋ろうのように白かった。翁は、自から大きな鉄かな槌づちを取り上げて、少女の両手を拡げさせて、動脈の打つ手てく頭びのあたりへ五寸釘を打ぶち込んで、白木の十字架に打ち附けた。がんがんと釘が真白な、しなやかな手頭を貫いて、下の白木の十字架に打ち立つ時、一同周囲に見守っている親、親戚は等しく見るに見み兼かねて眼を掩うた。中にも父親は歯を喰いしばって顔を背そむけた。母親は、﹁ナゼ基キリ督スト教きょうなどにしたものか。﹂と後悔した。計算翁は其様ことに頓着なく、両手をしかと十字架に打ち止めてしまった。――かくて両足も足あし頭くびのあたりから、がんがんと打ち貫いた。重たらしい陰気なこの鉄槌の音は低い、暗い空に悪強く響くようだ。――最後に、翁は冷あざ笑わらって一本の五寸釘を取り上げて、少女の眉間に打うち込こもうとして、片手に握った鉄槌を振りかざして、片手に持った釘を白百合のような額にあてた刹せつ那なだ。 ﹁コラ何する、お待まちなさい。﹂と翁に跳おどりかかって、その釘にしがみ付いたのは母親である。 ﹁この気きち狂がい！ 私の娘に何をするんだ。可哀想に釘を打ち付けるということがあるもんか。﹂ と狂気の如く叫さけんで、翁の顔に今にも飛びかからん形ぎょ相うそうで睨みつけた。けれど翁は﹁何をするんだ。﹂と落付いて、一声冷かにいって、冷笑ってぴくりとも動かなかった。 ﹁キリスト様もこうやって死なれた。この子も神のために犠ぎせ牲いになるんだ。﹂といって、また額に釘を当てて、打ち込もうと鉄槌を握った太い手てく頭びに力瘤を入れた。――悪にくい悪い日頃から悪んでいる悪魔にでも、この時この一撃で息の音を止めて、恨みを晴はらしてやるというような面つら構がまえできっと青褪めた白百合のような眠っている少女の顔を睨み落した。 何なに故ゆえか、母親ばかりでない、この座に居合せた人達は、とてもこの動かすべからざる偉大な力に伏したように翁のすることを止とどめるものがなかった。母親は声を忍んで翁の手の下もとに泣き砕くずれた。――娘の胸の上に片手を置いて、片手で顔を掩うて泣いた。 ﹁犠いけ牲にえになるんだ。﹂ ﹁止めるな。﹂といい様、がんがんと額の骨を打ち砕いて、無惨にも釘は少女の額から下の白木の十字架に深く打ち貫かれた。――それが済むと翁は、その儘黒い服を引摺て黒い帽を被ったまま其処に立って、一同を冷かに見廻した。四あた辺りは水を打ったように静かであって誰れ一人翁を見上げたものがない。翁は青い榊さかきの枝を取上げて、それで少女の顔を掩うて静かにその家を立去った。 急に、 ﹁悪魔！﹂ ﹁人殺し！﹂というような声が湧き上って、後から人が追って出る気はいがした。 悪わる寒ざむい曇った天気は、夕方から雨になった。 ……………………………………………………………………………………………………… ……………………………………………………………………………………………………… 或夜翁は、忽こつ然ぜんとして悟ったという。……その日は恰あたかも冬で雪の降る日であった。……翁は朝早く、身に附けていた黒の衣も頭巾も脱ぎ捨てて、上かみ下しも共にちょうど外に降る雪のような白装束に着換えたのである。――白い頭巾の結び紐は、背のあたりに垂れ下って、胸に掛けた小さな黄金の十字架が、しんとした空気の裡うちに輝きを放っていた。翁は、説教壇の前に跪ひざまずいて、其処に凍え固ったものの如く、火の気のない教会堂の広間に眤として祈りを捧げたまま身動きもしなかった。外には北風に煽あおられて、銀粉のような雪片が、さらさらと硝子窓を打って飛び舞っていた。 物憂げな薄暗い冬の半日は、吹ふぶ雪きの裡に過ぎてしまった。翁は、外に暴あれ狂う吹雪も知らぬ如く、全く時間と空間の裡から、見捨てられた人のように眤として身動きもせずに跪ずいて神に何事をか祈いのりを捧げていた。 やがて午後になると町の子供等が、いつもの如く数学を習いに来る時刻となった。――けれどこの頃にはもはや一人減り、二人減りして、毎日欠かかさずに来る子供は僅かに一人しかなかった。その子供はこの町の、貧しき家の子であった。翁が報酬を取らずに教えてくれるので、少し位ツライことがあっても、今日まで我慢して熱心にやって来るのである。雨の降る日も――風の吹く日も――はた雪の日も――欠かさずにやって来る。 教会堂の時計は三時を打った。 いつも学校が三時に退ひけると、此処まで来る時間が二十分ばかりかかる。きっとその時刻になるとやって来るのだ。 今日は雪が降って、風が強くて、目めく口ちも開あかぬ程だから、少し、いつもよりは遅れて来るだろう。……時計の刻む音は、火の気のない寂し然んとした広間に響いて、針しん線せんは目に見えぬ位に、しかし用よう捨しゃなく進んだ。 三時二十分は過ぎたけれど、その子供はまだやって来なかった。やがて三時三十分は過ぎたけれどまだ見えなかった。 今時計の長針は三十分と四十分の間にあった。 この時表の扉の外でコトコトと小さな足で雪を落す音がした。……来たのである。 ギーイと重たい扉が開くと、年の頃十二三の子供が雪に塗まみれて、手足を赤くして入って来た。 翁はまだ、死んだ如く、説教壇の前に跪ひざまずいて祈りを捧げている。 子供は怖る怖る翁の傍に近寄って、 ﹁先生。﹂と呼んだのである。 けれど翁には、この声が聞えなかった。再び子供は、 ﹁先生。﹂と呼びかけた。 けれど翁の身しん体たいは、びくとも動かずに跪ずいたまま眤としていた。 ﹁先生！﹂と稍や々や大きく叫んだ。 この時、翁は空想から醒めたもののように、静かに身を起して端然として子供の前に起ち上って、自分の前に寒さと一種の畏敬の念に戦ふるえて立っている子供を見下した――その眼には涙が湛たたえられて、顔には神こう々ごうしい柔和な光りが輝いていた。 子供は、今迄斯様優しい、懐しい、顔を仰いだことがなかった。 ――険しい眼――輝く眸ひとみ――物凄い顔――是これ等らの過去のイメージが全く心の目から取れないのにかかる柔和な、穏かな顔を見ようとは思わなかった。 子供の胸の中は、一時に温かく血潮が廻った。子供の眼にも希望の輝きが閃ひらめいた。 ﹁先生！﹂と呼びかけて、その声が情じょうに震えるのを禁じ得なかった。 ﹁人生とは何なんでしょう。﹂ときっぱりと言い放って、胸の熱血の騒ぐのを堪えられないように身を戦わして、翁の前に近づいた。 ﹁よく聞いた！﹂と翁はいった。この時翁の白い姿は、子供の目に――神秘の金こん色じきの後光の中に包まれて立っているように尊く映じた。 家の裡が薄暗くなるまで、外の吹雪は募った。さらさらといって粉雪の風に煽あおられて、硝子窓に砕ける音がした。時計の刻む音は、冷かな空気に伝わって、死したる天地の胸に刻み込むようだ。 翁は、高く壁に吊された黒板の前に立った。眤と真黒く拭い清められた板を見上て、やがてそれを指ゆびさして子供を顧みた。……黒板の下の溝には白はく墨ぼくが二本置かれてある。 ﹁あれに、私がいう数程点ボチを書くんだ……。﹂といった。 子供は翁に命ぜられたまま黒板の前に進んだ。けれど子供の丈せいは手を伸しても爪つま立だちをしてもその黒板の面おもてまでは届かなかった。 子供は白墨を握って、再三、爪立をしてはその黒板に白墨を付けようと試みた。けれど僅かに手が付くばかりで充分に達しない。 翁は黙って、子供のする様を傍かたわらに立って冷かに見ていた。 子供は、早速考えついて、後うし方ろに居並んでいたベンチを一つ引摺って来て黒板の下に置いて、それを足場としてその上に立って、白墨を握とって用意した。 翁は、ベンチの上に立った子供を見上た。――短い破れた袴はかまには、雪がかかって湿ぬれている。――足には足た袋びを穿はかずに、指は赤く海老のように凍えていた。翁は、儼おごそかに、 ﹁その黒板にはっきりと三万六千の点数をお書きなさい。﹂ と子供に命じた。 子供は黙答して、慄ふるえる指ゆび頭さきで黒板の片隅から、一つ、二つと小声に言いながら書き始めた。 ﹁成なるたけ、はっきりと分るように……。﹂と翁は、いって黒板に書かれた点ボチを睨んで言った。で、自分は足許の椅子に腰を下して、眤と眼を閉つぶって、両手を広い額に当てて瞑想に耽ったのである。白い髭に微かに洩れる鼻息が白く凝こごってかかった。 室内は再び寂せき然ぜんとした。 外には、相変らず吹雪の音がする。時計の針はセコンドの刻きぎんで行く音につれて、目に見えぬけれど動いた。 いつしか四時は鳴った。 子供は、尚なお熱心に口のうちで数をかぞえながら、点てんを書き付けている。翁はやはり教壇の椅子に腰をかけたまま俯向して、両手を額にあてて瞑想に耽っていた。 時計の針は四時三十分を指した。 冬の日は暮れるに早い。この時は全く室の裡は薄暗くなった。――子供はちょうど三万六千点を黒板に書き終えたのである。 ﹁先生書きました。﹂といって、子供は白墨を握ってベンチに立ったまま翁を顧みた。翁は立上って黒板を睨んで、ああ、それでよい。一日じつがこの点の一つだ。而してお前はまだこの他に幾万の点を打つことも出来るし、数のあることも知っているだろう。けれど畢ひっ竟きょう今迄の人間の経験した数は三万に満たないのである。今いった﹁人生﹂というものは無数にある点の中の三万六千に過ぎないものである。――きっとこの点の意味を悟る日が来るのだ――。 その後翁は、飄ひょ然うぜんとしてこの教会堂を去って何いず処くへ行ったか姿を隠してしまった。今でも、この蔦の絡んだ教会堂は、その儘になって建っている。 もう、壁は落ち、瓦は破れて、扉は壊れて修繕するものがない。今では、一人の婆さんが留守居になって住んでいる。落日は今でもその白壁に纏った紅い蔦の葉を鮮かに照すのである。