あるところに、あまり性せい質しつのよくない男おとこが住すんでいました。この男おとこは平へい気きで、うそをつきました。また、どうしてもそれがほしいと思おもえば他たに人んのものでも、だまってそれを持もって帰かえりました。 こういう人にん間げんをば、世せけ間んは、いつまでも知しらぬ顔かおをしておきませんでした。みんなは、だんだんその男おとこをきらいました。その男おとこと交こう際さいすることを避さけました。けれど、そんなことで、この男おとこは、反はん省せいするような人にん間げんではなかったのであります。 とうとう男おとこは、悪わるいことをしたために、捕とらえられて牢ろう屋やへいれられてしまいました。いままで、自じゆ由うに、大おお空ぞらの下したを歩あるいていたものを狭せま苦くるしい牢ろう屋やの中なかで送おくらなければならなかったのでした。 ﹁あの男おとこも、ついに牢ろう屋やへいれられてしまった。こんどは、すこしは、目めがさめるだろう。そして、真まに人んげ間んになって、出でてきてくれればいいが……。﹂と、みんなはうわさをしていました。 牢ろう屋やへいれられた男おとこは赤あかい舌したを出だしていました。 ﹁おれが魔まほ法うつ使かいのことを知しらないか、ばかどもめが……。﹂といって、冷れい笑しょうしていました。 この男おとこは、いつ、その牢ろう屋やから逃にげたものか、わずかのまに、そこにいなくなってしまいました。 牢ろう屋やの番ばん人にんは、たまげてしまいました。まったく影かげのごとくに消きえてしまったこの男おとこを、普ふつ通うのものとは思おもわれなかったのです。 男おとこを知しっているものは、そんなうわさをしているやさきに、男おとこが、目めの前まえへ姿すがたをあらわしたものですから、びっくりして、 ﹁はや、おまえは、牢ろうから出でたのか？﹂と、いうものもあれば、 ﹁いつ、そんなからだになったのか……。﹂と聞きいて、あまり、その許ゆるされようの早はやいのにあきれたものもありました。 男おとこは、ずるそうな目めつきをして、みんなの顔かおを見みまわしながら、にやにやと笑わらって、 ﹁なんで、こんなに早はやく許ゆるされるものかな、おれは、逃にげてきたのさ。しかし、おれを捕とらえておくなどということは、無む理りだよ。おれは魔まほ法うつ使かいだからな。﹂と答こたえました。 みんなは、腹はらの中なかで、ほんとうに、この男おとこは、魔まほ法うを使つかうのだろうか？ なんにしても、また困こまったことができたものだと思おもったのであります。 男おとこは、さかんに悪わるいことをしました。しかし、世せけ間んは、それを許ゆるすものではありませんから、じきにまた捕とらえられてしまいました。こんどは、手てきびしくされて、ふたたび逃にげられないように、牢ろう屋やの中なかへいれられてしまいました。 ﹁こんどは、ゆだんをして、この男おとこを逃にがすようなことがあってはならないぞ。﹂と、番ばん人にんは、目めう上えの役やく人にんから注ちゅ意ういをされました。 番ばん人にんは、またと、そんなような手て落おちがあっては、自じぶ分んの生せい活かつに関かん係けいすると、不ふあ安んに感かんじましたから、日にち夜や怠おこたりなく、この男おとこを注ちゅ意ういしたのであります。 ﹁こんどは、あの男おとこも、逃にげ出だしてくるようなことがあるまいから、まあ安あん心しんしていてもさしつかえない。﹂と、彼かれを知しって、迷めい惑わくを受うけたことのある人ひとたちは話はなしをしていました。 ちょうど、このとき、男おとこは、牢ろう屋やの中なかで、このまえのように大だい胆たんにも、赤あかい舌したを出だして、 ﹁おれを知しらないのか。いまに見みろ、魔まほ法うを使つかって、この牢ろう屋やから逃にげ出だしてやるから。﹂といっていました。 その男おとこは、まったく人にん間げんとも思おもわれなかった早はや業わざの名めい人じんで、また、さるのように、すばしこく木きの上うえへ登のぼることもできれば、また風かぜのように、すこしのすきまがあれば、そこからはい出だすことができたのであります。 あるあらしの晩ばんに、この男おとこは、ふたたび牢ろう屋やから、姿すがたを消けしてしまいました。牢ろう屋やの扉とびらにかかっている錠じょうもそのままであれば、なにひとつあたりに、かわったこともなかったのに、男おとこばかりは、いなくなったのであります。 こうなると、この男おとこのうわさは、世せけ間んにひろまりました。そして、平へい生ぜい、男おとこを知しっている人ひと々びとは、安あん心しんして家うちにいることができませんでした。また、取とり締しまる役やく人にんたちは、このままに捨すててはおかれないので、こんどは、どういうようにしたらいいかということを協きょ議うぎしたのであります。 広ひろい世せけ間んは、だれ一ひと人りとして、この男おとこを悪わる者ものだといって憎にくみ、おそれ、きらわないものがありません。こうなると、男おとこは、思おもうように牢ろう屋やを逃にげ出だしたけれど、自じぶ分んの身みを置おくところがなかったのでした。 あちらに隠かくれ、こちらに隠かくれしていましたが、捜そう索さくが厳げん重じゅうであったために、また捕とらえられてしまいました。 ﹁おまえは、魔まほ法うを使つかうというが、こんどばかりは、逃にげ出だされないぞ。﹂と、役やく人にんはいって、男おとこを、鉄てつでつくった、狭せまい牢ろうの中なかにいれてしまいました。 男おとこは、その鉄てつの牢ろうの中なかでは、自じゆ由うに歩あるくことすらできませんでした。また、指ゆびを出だすにも出だされないように、外がい部ぶは、金かな網あみで張はられていたのでした。 もう、こうなっては、赤あかい舌したを出だして笑わらうどころでありません。男おとこは、ただじっとしていました。どんなに寒さむくても、また、どんなに暑あつくても、ただ、じっとしていなければならなかったので、さすがに男おとこはいまは後こう悔かいしたのでありました。 ﹁神かみさま、私わたしは、人にん間げんに生うまれてきたばかりに、つい、みんなよりも楽らくをし、またおもしろいめをしようとする気きになりました。それで、うそをついたり、他たに人んのものを盗ぬすんだりしたのです。私わたしは人にん間げんになりたいとは思おもいません。ほんとうに一ぴきの虫むしでもいいから、この強ごう欲よくな心こころと不ふせ正いの考かんがえを、私わたしからうばってください。そして、私わたしを虫むしにしてください。私わたしは、虫むしとなって、神かみさまのおぼしめしに従したがって、自じゆ由うに生せい活かつをしたいと思おもいます。神かみさま、どうぞ、私わたしを虫むしにしてください！﹂と、いっしんに、牢ろうの中なかで祈いのったのであります。 ある朝あさのこと、男おとこは、そこに見みえませんでした。番ばん人にんは、夢ゆめかとばかりにびっくりしました。 ﹁あの男おとこは、どこへいったろう？ ねずみでさえこの金かな網あみの目めはくぐれないはずだ。ふしぎなこともあればあるものだ。﹂といって、さわぎたてました。 役やく人にんたちは、集あつまってまいりました。そして、みんなは、頸くびをかしげました。 ﹁この世よの中なかに、魔まほ法うを使つかうというようなことが、はたしてあるものだろうか？﹂ 錠じょうのかかっているのを役やく人にんたちははずして、狭せまい牢ろうの扉とびらを開ひらいて中なかへはいり、くまなく、あたりを調しらべてみました。 このとき、一ぴきのおけらが、入いり口ぐちから出でて、だれも、それに気きのつかなかったまに、町まちの方ほうを指さして、大だい地ちをはっていったのであります。 もう、すでに世せか界いは、夏なつから秋あきにうつりかけていました。空そらの色いろは青あおく晴はれて、長ながくつづく道みちは、白しろく乾かわいていたのであります。 おけらは、あちらの青あおい空そらの下したに見みえる街まちの建たて物ものを望のぞんで、自じぶ分んのすむところをその近ちかくに定さだめようと思おもったのです。とんぼや、はちは、美うつくしい羽はねを輝かがやかしながら、頭あたまの上うえの空そらを自じゆ由うに飛とんでゆきました。おけらは、なぜ自じぶ分んには、あのような自じゆ由うに飛とべる美うつくしい羽はねがないのかと怪あやしみました。そして、途とち中ゅうで水みずのたまったところに出でて、自じぶ分んの姿すがたを、その水すい面めんに映うつして見みたときにびっくりしたのです。 ﹁なんという私わたしは、みにくい虫むしに生うまれてきたのだろう……。﹂ おけらは、恥はずかしくなりました。しかし、神かみさまは、これがために、この虫むしに、反はん抗こう心しんを起おこさせるようにはしなかった。そのかわりに、つつましやかな謙けん遜そんの心こころを与あたえられた。おけらは、どこか、野やさ菜いば畑たけか、果かじ樹ゅえ園んのすみに、あまり世せけ間んに知しられずにすむ、自じぶ分んの小ちいさな穴あなを掘ほってはいるために、乾かわいた道みちを急いそいでゆきました。――人にん間げんが一夜やにして、おけらになったというようなことは、ひとり神かみだけが知しり、またこうした奇きせ蹟きは、神かみだけがよくなし得うることでした。神かみは、自じぶ分んの創そう造ぞうしたおけらが、いま道みちを歩あるいてゆくのを、じっと青あおい空そらからながめていたのです。 ちょうど、このとき、美うつくしい花はな嫁よめを乗のせた自じど動うし車ゃが通とおりました。花はな嫁よめは、金きん銀ぎん・宝ほう石せきで、頭あたまや、手てや胸むねを飾かざっていました。そして、はなやかな空くう想そうにふけっていました。その自じど動うし車ゃは、町まちの方ほうから、同おなじ道みちをこちらに向むかって走はしってきたのです。 神かみさまが、はっと思おもうまもなく、自じど動うし車ゃは、おけらを轢ひきつぶして過すぎていってしまいました。このことは自じど動うし車ゃの上うえに乗のっている花はな嫁よめも知しらなければ、ただ神かみさまよりほかにはだれも知しらなかったことです。 神かみさまは自じぶ分んが悪わるかったと感かんじられました。そして、罪つみもない、おけらの一生しょうとしては、あまりに、みじめであったと思おもわれました。 ﹁やはり、人にん間げんにしてやったほうがいい。﹂と、考かんがえられて、おけらは、特とく別べつのおぼしめしで、人にん間げんにされたのであります。 男おとこは、ふと目めをさましました。すると、自じぶ分んはよくないことをして、捕とらわれて、牢ろう屋やの中なかにおりましたが、鉄てつの牢ろうにもいなければ、また実じっ際さい、自じぶ分んが魔まほ法うを使つかって、牢ろう屋やの中なかから消きえるなどということはあり得えなかったことでした。 あるとき、自じぶ分んは、そんなことを空くう想そうしたことがあります。そして、前ぜん夜や、ふしぎにも、虫むしになった夢ゆめを見みたのでした。 彼かれは、いまさら、口くちもきかなければ、したいと思おもうこともできない虫むしもあるのに、口くちもきければ、したいと思おもうこともできる、すべての生いき物ものの中なかでいちばん自じゆ由うに生せい活かつされる人にん間げんに生うまれてきて、心ここ柄ろがらから、みずから苦くるしまなければならぬ愚おろかしさを悟さとりました。彼かれの性せい質しつは、このときから、だんだん善ぜん良りょうに変かわってまいりました。 それほどの悪わるいことをしたのでもなかったから、男おとこはじきに自じゆ由うの体からだとなったが、その後のちは、約やく束そくは守まもり、うそはつかず、また悪わるいことをしなかったので、人ひと々びとから信しん用ようされるようになったのであります。 ――一九二六・八――