風の寒い世の中へ
小川未明
お嬢(じょう)さんの持(も)っていましたお人(にん)形(ぎょう)は、いい顔(かお)で、めったに、こんなによくできたお人(にん)形(ぎょう)はないのでしたが、手(て)もとれ、足(あし)もこわれて、それは、みるから痛(いた)ましい姿(すがた)になっていました。
けれど、お嬢(じょう)さんは、そのお人(にん)形(ぎょう)に美(うつく)しい着(きも)物(の)をきせて、本(ほん)箱(ばこ)の上(うえ)にのせておきました。かわいらしい顔(かお)つきをしたお人(にん)形(ぎょう)は、いつでもにこやかに笑(わら)っていました。そして、あちらに、かかっている柱(はし)時(らど)計(けい)を小(ちい)さな黒(くろ)い目(め)でじっと見(み)つめていたのです。
お人(にん)形(ぎょう)には、このお嬢(じょう)さんのへやのうちが、広(ひろ)い世(せか)界(い)でありました。まだ、これよりほかの世(よ)の中(なか)を見(み)たことがありません。それでお人(にん)形(ぎょう)は、満(まん)足(ぞく)しなければならなかったのです。なぜなら、このへやは、住(す)みよくて、そして、ここにさえいれば、まことに安(あん)心(しん)であったからでありました。
﹁どうか、いつまでもここに置(お)いてくださればいい……。﹂と、お人(にん)形(ぎょう)は、思(おも)っているようにさえ見(み)えました。
ほんとうに、平(へい)常(ぜい)は、そんな不(ふあ)安(ん)も感(かん)じないほど、このへやの中(なか)は平(へい)和(わ)で、お嬢(じょう)さんの笑(わら)い声(ごえ)などもして、にぎやかであったのです。
ある日(ひ)のこと、お嬢(じょう)さんは、本(ほん)箱(ばこ)の中(なか)をさがして、なにかおもしろそうな書(しょ)物(もつ)はないかと、頭(あたま)をかしげていましたが、そのうちに、気(き)が変(か)わって、お人(にん)形(ぎょう)に目(め)を向(む)けました。
﹁お人(にん)形(ぎょう)の着(きも)物(の)も、だいぶ色(いろ)が褪(さ)めてしまったこと。こんどお母(かあ)さんに、いいお人(にん)形(ぎょう)を買(か)っていただきましょう……。﹂そういいながら、手(て)に取(と)りあげて、お人(にん)形(ぎょう)を見(み)ますと、お人(にん)形(ぎょう)の手(て)はとれ、足(あし)もないので、お嬢(じょう)さんはいい気(き)持(も)ちはしませんでした。
﹁いくらいいお人(にん)形(ぎょう)だって、また、どんなにいい顔(かお)だって、こんな不(かた)具(わ)なものはしかたがないわ。﹂
そういって、お嬢(じょう)さんは、お人(にん)形(ぎょう)を机(つくえ)のそばにおいたくずかごの中(なか)へいれてしまいました。
お人(にん)形(ぎょう)は、くずかごの中(なか)にいれられて、半(はん)日(にち)ほどそのかごの中(なか)にいました。もう、ここでは、いままで毎(まい)日(にち)のように見(み)た時(とけ)計(い)を見(み)ることもできません。くずかごの中(なか)は、うす暗(ぐら)く、それに息(いき)づまるように狭(せま)苦(くる)しくありました。ただ、そこにいる間(あいだ)は、なつかしいお嬢(じょう)さんの唄(うた)の声(こえ)を聞(き)いたのでありましたが、その顔(かお)を見(み)ることはできませんでした。
そのうちに、下(げじ)女(ょ)が、このへやにはいってきて、あたりをそうじしました。そして、最(さい)後(ご)に机(つくえ)のそばにあったくずかごを持(も)って、はしご段(だん)を降(お)りてゆきました。
はしご段(だん)を降(お)りたことは、お人(にん)形(ぎょう)にとって、知(し)らない世(せか)界(い)へいよいよ出(で)ていったことになります。いままで、長(なが)い間(あいだ)住(す)みなれた、平(へい)和(わ)な、にぎやかな、明(あか)るい、変(か)わったことの何(なに)事(ごと)もなかった、このへやに別(わか)れを告(つ)げて、思(おも)いがけもない、まだ見(み)もしない、知(し)りもしない、世(せか)界(い)に出(で)てゆくことになったのでした。そして、そのことは、人(にん)形(ぎょう)ばかりでなく、お嬢(じょう)さんもこれから、いままでかわいがった、自(じぶ)分(ん)のお人(にん)形(ぎょう)がどうなるかということは、考(かんが)えつかなかったことでありました。
下(げじ)女(ょ)は、無(むし)神(んけ)経(い)に、くずかごを外(そと)の大(おお)きなごみ箱(ばこ)のところへ持(も)っていって、すっかりその箱(はこ)の中(なか)へ捨(す)ててしまいました。くずかごの中(なか)に、いったいどんなものがはいっているかということも、そのときは頭(あたま)に考(かんが)えずに、まったくほかのことを思(おも)っていました。そして、下(げじ)女(ょ)は、ふたをしてしまいました。
ごみ箱(ばこ)の中(なか)で、お人(にん)形(ぎょう)は、黄(きい)色(ろ)なみかんの皮(かわ)や、赤(あか)いりんごの皮(かわ)や、また、魚(さかな)の骨(ほね)や、白(しろ)い紙(かみ)くずや、茶(ちゃ)がらなどといっしょにいましたが、もとより箱(はこ)の中(なか)には、光(こう)線(せん)がささないから、真(ま)っ暗(くら)でありました。
こうして、そこにお人(にん)形(ぎょう)は、幾(いく)日(にち)ばかりいましたでしょう。もはや、そこでは、時(とけ)計(い)も見(み)えなければ、また、あのなつかしいお嬢(じょう)さんの唄(うた)の声(こえ)も聞(き)くことができませんでした。
そのうちに、そうじ人(にん)がやってきました。彼(かれ)は、箱(はこ)のふたを開(あ)けると、大(おお)きなざるの中(なか)へ、箱(はこ)の中(なか)のごみをすっかりあけてしまいました。そして、それを車(くるま)の上(うえ)についている大(おお)きな箱(はこ)に移(うつ)してしまいました。お人(にん)形(ぎょう)は、ごみの中(なか)にうずまってしまったのです。
これから、自(じぶ)分(ん)は、どんなところへ持(も)ってゆかれるのか、お人(にん)形(ぎょう)の小(ちい)さな頭(あたま)の中(なか)では、想(そう)像(ぞう)もつかなかったのであります。ただ、そのうちに車(くるま)がゴロゴロと動(うご)きはじめたのを知(し)るばかりでありました。
この車(くるま)が、街(まち)の中(なか)を通(とお)り、街(まち)を出(で)はずれてから、道(みち)のわるい、さびしい村(むら)の方(ほう)へはいっていったことも、もとよりお人(にん)形(ぎょう)にはわかりませんでした。
やがて、この大(おお)きなごみ箱(ばこ)をのせた車(くるま)は、あるさびしい郊(こう)外(がい)のくぼ地(ち)に着(つ)くと、そこのところでとまりました。そして、たくさんのごみといっしょくたに、くぼ地(ち)の中(なか)へあけられました。くぼ地(ち)には、こうして運(はこ)ばれてきたごみが、すでにうずたかく積(つ)まれていましたけれど、まだそのくぼ地(ち)をうずめてしまうまでにはなりませんでした。
そうじ人(にん)は、ごみための箱(はこ)の中(なか)のごみをあけてしまうと、空(あ)き車(ぐるま)を引(ひ)いて、あちらへ帰(かえ)ってゆきました。お人(にん)形(ぎょう)は、くぼ地(ち)の中(なか)へ仰(あお)向(む)けにされて、ほかのごみくずの蔭(かげ)になって捨(す)てられていたのであります。
﹁ああ、ここはどこだろう?﹂と思(おも)って、お人(にん)形(ぎょう)は、あたりを見(み)ますと、さびしい野(のは)原(ら)の中(なか)で、上(うえ)には、青(あお)空(ぞら)が見(み)えたり、隠(かく)れたりしていました。そして、寒(さむ)い風(かぜ)が吹(ふ)いていました。そばに、雑(ぞう)木(きば)林(やし)があって、その葉(は)の落(お)ちた小(こえ)枝(だ)を風(かぜ)が揺(ゆ)すっているのでした。
お人(にん)形(ぎょう)は、寒(さむ)くて、寂(さび)しくて、悲(かな)しくなりました。いままでいたお嬢(じょう)さんのへやが、恋(こい)しくなりました。本(ほん)箱(ばこ)の上(うえ)に、平(へい)和(わ)で、雨(あめ)や、風(かぜ)から遁(のが)れて、まったく安(あん)心(しん)していられた時(じぶ)分(ん)のことを思(おも)い出(だ)して、なつかしくてなりませんでした。そして、どうしたら、ふたたび、お嬢(じょう)さんのそばへゆき、あの住(す)みなれたへやに帰(かえ)られるだろうかと思(おも)っていました。
ある晩(ばん)のことです。お嬢(じょう)さんは、ふと、いままで本(ほん)箱(ばこ)の上(うえ)に置(お)いた、お人(にん)形(ぎょう)のことを思(おも)い出(だ)していました。そして、下(げじ)女(ょ)を呼(よ)んで、
﹁あれから、ごみ屋(や)さんがきて?﹂といって、たずねました。
﹁今(け)朝(さ)きて、すっかり持(も)っていってしまいました。﹂と、下(げじ)女(ょ)は答(こた)えました。
お嬢(じょう)さんは、人(にん)形(ぎょう)の行(ゆく)方(え)を思(おも)ったのでした。しかし、それは、どこへ、どうなってしまったものか、ほとんど想(そう)像(ぞう)のつかないことでした。
﹁つい、二、三日(にち)前(まえ)まで、私(わたし)といっしょにこのへやの中(なか)にいたのに……。﹂と思(おも)うと、お嬢(じょう)さんは、ほんとうにかわいそうなことをしたものと後(こう)悔(かい)したのであります。
捨(す)てられたお人(にん)形(ぎょう)は、一(ひと)晩(ばん)、ものさびしい野(のは)原(ら)の中(なか)で、露(ろじ)宿(ゅく)しました。嵐(あらし)の音(おと)をきいておそれていました。気(きみ)味(わ)悪(る)く光(ひか)る星(ほし)影(かげ)を見(み)ておののいていました。しかし、幸(さいわ)いに、雨(あめ)が降(ふ)らずにいましたから、着(きも)物(の)は霜(しも)で白(しろ)くなりましたけれど、そんなにぬれずにすみました。
夜(よ)が明(あ)けると、雑(ぞう)木(きば)林(やし)のこちらへ差(さ)し出(で)た枝(えだ)に、からすがきて止(と)まって、鳴(な)いていました。これを見(み)ながら、お人(にん)形(ぎょう)は、お嬢(じょう)さんはいま時(じぶ)分(ん)、起(お)きて、学(がっ)校(こう)へゆく支(した)度(く)をなさっているだろう? などと思(おも)っていました。
その日(ひ)の昼(ひる)ごろのことであります。どこからかみすぼらしいふうをした、乞(こじ)食(き)の子(こ)が、このごみためへはいってきました。そして、ごみを分(わ)けて、なにかないかとあさっていました。乞(こじ)食(き)の子(こ)はかん詰(づ)めの空(あ)いたのや、空(あ)きびんなどを撰(よ)っていますうちに、お人(にん)形(ぎょう)を見(み)つけて、手(て)に取(と)りあげました。そして、これを袋(ふくろ)の中(なか)へいれて、街(まち)の方(ほう)へと歩(ある)いてゆきました。
ごみための中(なか)から、去(さ)ったお人(にん)形(ぎょう)は、この後(のち)どうなるだろうと、袋(ふくろ)の中(なか)で思(おも)っていました。
乞(こじ)食(き)の子(こ)は、街(まち)の方(ほう)へ歩(ある)いてゆきました。そして、町(まち)はずれにあった、一軒(けん)の小(ちい)さな家(うち)の前(まえ)へくると、その家(うち)をのぞいて声(こえ)をかけたのです。その家(うち)は、店(みせ)さきに、いろいろの泥(どろ)人(にん)形(ぎょう)を並(なら)べていました。家(うち)の中(なか)から、おじいさんが顔(かお)を出(だ)しました。すると、子(こど)供(も)は、袋(ふくろ)の中(なか)から、拾(ひろ)ってきた人(にん)形(ぎょう)を取(と)りだして、おじいさんに見(み)せました。おじいさんは、手(て)にとって、それをながめますと、
﹁ああ、これはいい人(にん)形(ぎょう)だ。私(わたし)が、手(てあ)足(し)をつけて、ひとつりっぱな人(にん)形(ぎょう)にこしらえてみせよう。﹂といって、子(こど)供(も)に、いくらかの金(かね)をやりました。子(こど)供(も)は、喜(よろこ)んであちらへ去(さ)りました。
お人(にん)形(ぎょう)が、人(ひと)の好(い)いおじいさんの仕(しご)事(と)場(ば)へつれてゆかれました。その仕(しご)事(と)場(ば)には、いろいろ、さるや、犬(いぬ)や、人(ひと)や、また、ねこなどの形(かたち)が造(つく)られていました。これらの粘(ねん)土(どざ)細(い)工(く)は、驚(おどろ)いた顔(かお)つきをして、急(きゅう)に、その仕(しご)事(と)場(ば)へはいってきた派(は)手(で)な着(きも)物(の)を着(き)たお人(にん)形(ぎょう)を見(み)つめているようすでした。
おじいさんは、眼(めが)鏡(ね)をかけて、このお人(にん)形(ぎょう)の手(て)を造(つく)り、足(あし)を造(つく)ってくれました。そうして、その手(て)や、足(あし)を、ちょうど顔(かお)の色(いろ)と同(おな)じように、白(しろ)く塗(ぬ)ってくれました。お人(にん)形(ぎょう)は、これで、どうやら、不(かた)具(わ)でない、満(まん)足(ぞく)の姿(すがた)になったのであります。
﹁ああ、こうなればりっぱなものだ。顔(かお)がきれいなのだから、きっと、だれか目(め)につけるにちがいない……。﹂といって、おじいさんは、この人(にん)形(ぎょう)を自(じぶ)分(ん)の家(うち)の小(ちい)さな店(みせ)さきに、ほかのおもちゃといっしょに並(なら)べておきました。
お人(にん)形(ぎょう)は、お嬢(じょう)さんから着(き)せてもらったままの着(きも)物(の)でありましたが、手(てあ)足(し)ができて、満(まん)足(ぞく)な姿(すがた)になると、いくらか色(いろ)の褪(あ)せた着(きも)物(の)も、なかなかりっぱに見(み)えたのであります。
お人(にん)形(ぎょう)は、この家(うち)の店(みせ)ききに並(なら)べられてからは、あの野(のは)原(ら)のくぼ地(ち)に捨(す)てられたような心(ここ)細(ろぼそ)さは感(かん)じなかったけれど、いつまでも、お嬢(じょう)さんのへやにいた時(じぶ)分(ん)のことを忘(わす)れることはできなかったのです。そして、行(ゆ)く末(すえ)のことなどを考(かんが)えると、希(きぼ)望(う)もひらめきましたが、また心(ここ)細(ろぼそ)くもありました。自(じぶ)分(ん)がこんな満(まん)足(ぞく)な姿(すがた)になったのを、もしや、お嬢(じょう)さんが、この家(うち)の前(まえ)を通(とお)りかかってごらんになったら、ふたたび連(つ)れて帰(かえ)ってくださらないものでもないと、さまざまに思(おも)って、お人(にん)形(ぎょう)は、その日(ひ)、その日(ひ)、家(うち)の前(まえ)を通(とお)る人(ひと)々(びと)をながめていました。
――一九二四・一二――
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