あるところに、いつも遊あそび歩あるいている男おとこがありました。兄にいさんや、妹いもうとは、いくたび彼かれに、仕しご事とをはげむようにいったかしれません。けれど、それには耳みみを傾かたむけず、街まちのカフェーへいって、外がい国こくの酒さけを飲のんだり、紅こう茶ちゃを喫きっしたりして、終いち日んちぼんやりと暮くらすことが多おおかったのでした。 彼かれは、そこで蓄ちく音おん機きの音おん楽がくをきいたり、また、あるときは劇げき場じょうへオペラを見みにいったり、おもしろく暮くらしていたのでありました。 ある日ひのこと、彼かれは、テーブルの上うえに、いくつもコップを並ならべて、いい気き持もちに酔よってしまったのです。そして、コップの中なかにはいった、緑みどり・青あお・赤あか、いろいろの酒さけの色いろに、ぼんやり見みとれていますと、うとうとと居いね眠むりをしたのでした。 もう、いつのまにか、日ひは、とっぷりと暮くれてしまいました。 ﹁ああ、もう帰かえらなければならない。﹂と、彼かれはいって、そのカフェーから外そとに出でたのでした。彼かれの足あしは、ふらふらしていました。そして、まだ、耳みみには、けさしがたまで聞きいていた、いい音おん楽がくのしらべがついているようでありました。 夜よるの空そらは、ぬぐったガラスのように、うるおいを含ふくんでいました。月つきがまんまるく空そらに上あがって、あたりの建たて物ものや、また森もり影かげなどが、浮うき出でたように見みられたのであります。 彼かれは、さびしい、広ひろい往おう来らいを歩あるいてきますと、ふいに、そこへわき出でたように、一ひと人りのおじいさんがあらわれました。そのおじいさんは、白しろいひげをはやしていました。そして、手てに光ひかるつえを持もっていました。そのつえは、銀ぎんで造つくられたように思おもわれます。 おじいさんは、彼かれの歩あるいている行ゆく手てに立たって、道みちをふさぎました。彼かれは、頭あたまを上あげて、おじいさんを黙だまってながめたのです。 おじいさんは、なにか、ものをいいたげな顔かおをしながら、しばらく、口くちをつぐんで彼かれのようすを見みま守もっていました。彼かれは、このおじいさんを見みると、なんとなく体からだじゅうが、ぞっとして、身みの毛けがよだちました。おじいさんの目めは、氷こおりのように冷つめたい光ひかりを放はなって、刺さすように鋭するどかったからであります。 それよりも、彼かれは、このおじいさんを、かつてどこかで見みたことがあるような気きがしました。子こど供もの時じぶ分んにきいたお伽とぎ噺ばなしの中なかに出でてきたおじいさんのようにも、また、なにかの本ほんに描かいてあった絵えの中なかのおじいさんのようにも、また、彼かれが音おん楽がくを聞きいている時じぶ分んに、頭あたまの中なかで空くう想そうしたおじいさんのようにも、……であったかもしれなかったのでありました。 ﹁おまえは、私わしを見みたことがない。けれど、空くう想そうしたことはあったはずだ。おまえは私わしをなんと思おもうのだ。﹂と、おじいさんは、重おも々おもしい口くち調ょうでいいました。 彼かれは、答こたえることを知しらずに、うなだれていました。 ﹁おまえは、私わしが思おもうようにしなければならないだろう……。おまえは、まだ年としが若わかいのに、遊あそぶことしか考かんがえていない。そして、いくら、いましめるものがあっても、おまえは、それに対たいして耳みみをかさなかった。﹂と、おじいさんは、いいました。 彼かれは、力ちからなくうなだれていたのです。 ﹁おまえの命いのちを取とってしまっては役やくにたたない。いま、ほんとうに殺ころすのではない。一時じ、おまえを眠ねむらせるまでだ。なんでもおまえは、私わしのいうことに従したがわなければならない。おまえは、私わしが起おこすときまで、墓はかの中なかにはいって眠ねむれ……。﹂と、おじいさんはいって、光ひかったつえで地じめ面んを強つよくたたきました。彼かれは、そのまま道みちの上うえに倒たおれてしまったのです。 おじいさんの姿すがたは、まもなく、どこかに消きえてしまいました。そして、道みちの上うえに、男おとこは、倒たおれていました。 彼かれの兄あにや、妹いもうとや、また、カフェーのおかみさんたちは、みんな年とし若わかくして死しんだ、彼かれをかわいそうに思おもいました。彼かれの体からだを黒くろい箱はこの中なかに入いれて、墓ぼ地ちへはこんで葬ほうむったのであります。 黒くろい箱はこは、男おとこをいれて地ちの中なかに埋うめられました。それから、春はるの雨あめは、この墓ぼ地ちにも降ふりそそぎました。墓はかの畔ほとりにあった木き々ぎは、幾いくたびも若わか芽めをふきました。そして、秋あきになると、それらの落おち葉ばは、悲かなしい唄うたをうたって、空そらを飛とんだのであります。男おとこは土つちの中なかで、オペラの夢ゆめを見みていました。こちょうのような、少しょ女うじょが舞ぶた台いを飛とんでいます。男おとこは、また、いつものカフェーにいって、テーブルの上うえに、いろいろの色いろをした酒さけの注ついであるコップを並ならべて、それをながめながら飲のんでいる夢ゆめを見みていました。男おとこにとっては、それは、ほんのわずかばかりの間あいだでした。ふいに、彼かれは、揺ゆり起おこされたのであります。 ﹁さあ、私わしについてくるがいい。﹂と、銀ぎんのつえを持もったおじいさんがいいましたので、男おとこは、ついてゆきますと、やがて、彼かれは、さびしい墓はか場ばに出でたのであります。 ﹁おまえの墓はかは、これだった。この下したに、いままでおまえは、眠ねむっていたのだ。﹂と、おじいさんは、一つの墓はか石いしを指さしました。 白しろい大だい理りせ石きの墓はかが建たてられていました。そして、それには、自じぶ分んの名なが刻きざまれていました。兄にいさんが、建たてられたということがすぐわかりました。 また、墓はかのまわりには、美うつくしい花はながたくさん植うえられていました。それは、やさしい自じぶ分んの妹いもうとが植うえてくれたということがわかりました。彼かれは、死しんでからも、自じぶ分んにやさしかった、兄あにや、妹いもうとを思おもうと、なつかしきにたえられなかったのです。早はやく帰かえって、兄あにや、妹いもうとに、あいたいと思おもいました。 ﹁いや、おまえは、自じゆ由うに、どこへもゆくことはできないのだ。ただ、私わしについてくればいい。私わしは、おまえが見みたいという人ひとたちに、あわせてやろう……。﹂と、おじいさんは、冷つめたい目めでじっと見みながらいいました。 ﹁おまえは、兄にいさんを見みたいだろう?﹂と、銀ぎんのつえを持もった、おじいさんは、いいました。 彼かれは、うなずきました。 ﹁つれていってやろう。けれど、声こえをみだりにたててはならない。もし、私わしのいうことをきかないときは、このつえでなぐる。するとおまえの体からだは、微みじ塵んに砕くだけてしまうぞ。﹂と、おじいさんはいいました。 彼かれは、おじいさんのあとについてゆきました。そして、なつかしい我わが家やの前まえに立たつと、だいぶんあたりのようすが変かわっていました。 ﹁どうして、わずかの間あいだに、あたりが変かわったのだろう?﹂と、彼かれは、不ふ思し議ぎに思おもいました。 ﹁あの白しら髪がの働はたらいている人ひとは、だれだろう?﹂と、彼かれは、たずねました。 ﹁おまえの兄にいさんだ。﹂と、おじいさんは、いいました。 彼かれは、びっくりしてしまいました。どうして、なにもかもわずかなうちに変かわってしまったのだろう? ﹁妹いもうとは、どうしたろうか。﹂と、彼かれは、いいました。 ﹁いま、つれていってやる――黙だまって、ついてこい。﹂と、おじいさんは、先さきになって歩あるきました。そして、いろいろの巷まちを通とおって、ある家いえの前まえにきました。 ﹁あすこにすわっているのが、おまえの妹いもうとだ。﹂と、おじいさんは、いいました。 そこには、顔かおに小こじわの寄よった女おんながすわって、針はり仕しご事とをしていました。子こど供もが二ふた人りばかりそばで遊あそんでいました。彼かれは、よく、その女おんなを見みていましたが、まったく、自じぶ分んの妹いもうとの顔かおであると知しりますと、深ふかい、ため息いきをもらしたのです。 ﹁おまえのよくいった、カフェーを見みたいだろう。﹂と、おじいさんはいいました。 彼かれは、うなずきますと、おじいさんは、先さきになって歩あるきました。やがて、見みお覚ぼえのある街まちに出でました。そこには、彼かれのよくいったカフェーがありました。 知しらない男おとこが、酒さけを飲のんだり、ソーダ水すいを飲のんだり、また、蓄ちく音おん機きをかけたりして時じか間んを費ついやしていました。いつか、自じぶ分んがそうであったのだ、彼かれは思おもって見みていました。そのとき、白しろいエプロンをかけた、脊せの低ひくい女おんなが、帳ちょ場うばにあらわれました。その女おんなこそ、彼かれがいった時じぶ分んには、まだ若わかかったこの店みせのおかみさんであったのです。 ﹁ああ。﹂と、彼かれは、ため息いきをもらしました。 おじいさんは、先さきになって、その店みせの前まえを去さり、あちらへ歩あるいてゆきました。彼かれは、黙だまって、その後あとについてゆきますと、いつしか、さびしいところに出でて、橋はしの上うえにきたのであります。 おじいさんは、このとき、彼かれの方ほうを振ふり向むいて、 ﹁おまえは、兄きょ妹うだい、カフェーの人ひとたちに、もう一度どあって、話はなしをしたいと思おもうか。それとも、あの静しずかな墓はかの中なかへ帰かえりたいと思おもうか。﹂とたずねました。 彼かれは、どういって、返へん事じをしたらいいかわかりませんでした。 ﹁どうか、しばらく考かんがえさしてください。﹂と、彼かれは頼たのみました。 ﹁日ひ暮ぐれ方がた、私わしは、また、ここへやってくる。それまでによく考かんがえたがいい。﹂と、おじいさんはいって、どこへか姿すがたを消けしてしまいました。 彼かれは、独ひとり、橋はしの欄らん干かんにもたれて、水みずの流ながれを見みながら考かんがえていました。もう秋あきで、あちらの木こだ立ちは、色いろづいて、吹ふく風かぜに、葉はが散ちっていました。 ふと気きがついて、彼かれは、自じし身んの体からだを見みまわしますと、いつのまに、年としを取とったものか、みすぼらしい老ろう人じんになっていました。昔むか話しばなしに、よくこれに似にたことがあったのをききましたが、彼かれは、いまそれが自じぶ分んの身みの上うえであることに驚おどろき、おそれたのであります。 日ひが暮くれて、月つきが出でました。その光ひかりはさびしく水みずの上うえに輝かがやきました。そのとき彼かれは、おじいさんのついている銀ぎんのつえが月つきの光ひかりに照てらされて青あお白じろく光ひかったのを見みました。おじいさんは彼かれの前まえに立たっていました。 ﹁私わたしは、墓はかへ帰かえります。﹂と、彼かれは、いいました。 おじいさんは先さきに立たって、彼かれはあとについて、だまって歩あるいてゆきました。