鈍にぶい砂さば漠くのあちらに、深しん林りんがありましたが、しめっぽい風かぜの吹ふく五月がつごろのこと、その中なかから、おびただしい白しろい蛾がが発はっ生せいしました。 一時じ、ときならぬ花はなびらの、風かぜに吹ふかれたごとく、木き々ぎの枝えだ葉はに蛾ががとまっていたのです。それは、また、ちょうど、降ふりかかった、冷つめたい雪ゆきのようにも見みられました。 しかし、その深しん林りんは、蛾がにとって、あまり好このましくなかった。夏なつにでもなれば、そこにはいろいろの毒どく草そうや、雑ざっ草そうに花はなが咲さいたであろうけれど、この時じぶ分んには、まだ花はなが少すくなかったからです。 ある日ひのこと、蛾がの仲なか間まが、外そとから林はやしに帰かえってくると、おおぜいに喜よろこばしい知しらせをもたらしたのでした。 ﹁ここから、あちらに見みえる丘おかを越こしてゆくと、いま、りんごの花はな盛ざかりです。それは、いい香においがしています。﹂といいました。 この知しらせは、たちまち、蛾がぜんたいに知しれわたりました。 ﹁それなら、私わたしたちは、この陰いん気きな森もりの中なかから、その明あかるいりんごばたけに、移うつろうじゃありませんか……。﹂ 外そとから、知しらせをもたらした一群ぐんの蛾がが道みち案あん内ないとなりました。そして、そのあとからみんながいっしょにつづいて飛とび立たったのであります。 ﹁さあ、出でかけましょう。﹂ 一群ぐんの蛾がが、花はなびらを振ふりまいたように、空そらを飛とび舞まったのです。つづいて蛾がの大たい群ぐんが大おお空ぞらをかすめて、先さきへ飛とんでいった、蛾がの群むれのあとにつづきました。 しかし、こんなに、みんながこの深しん林りんを見み捨すてて、出しゅ発っぱつした後あとにも、二十や、三十の蛾がは、みんなといっしょにゆかずにあとにとどまりました。 ﹁私わたしたちは、ここで生うまれたのだ。ここで暮くらしましょう。そのうちに、きっとおもしろい、幸こう福ふくなことがあるにちがいない。﹂と、残のこった蛾がたちは、語かたり合あったのでした。 りんごばたけに移うつった蛾がの群むれは、明あかるい日ひを送おくりました。やわらかな、あたたかな風かぜは、白しろいりんごの花はなの上うえを吹ふいて、昼ひるとなく夜よるとなく香におっています。彼かれらには、この美うつくしい殿でん堂どうが、自じぶ分んたちのために造つくられたのではないかと思おもわれたほどでした。 ﹁こんなに、明あかるい、住すみ心ここ地ちのいい場ばし所ょがあるのに、なんで、あの暗くらい林はやしを恋こいしがって、あのひとたちはいっしょにこなかったのだろう。﹂と、あとに残のこった蛾がを笑わらったのでした。 りんごの木きは、びっくりしました。どこからこんな小ちいさな、白しろい羽はむ虫しが飛とんできたろうかと思おもったのです。けれど、べつに、自じぶ分んたちに害がいを加くわえるものでないと知しったときに、花はなは、蛾がたちに向むかって話はなしかけました。 ﹁あなたがたは、どこから、ここへ飛とんできたのですか？﹂ ﹁あちらの暗くらい、深しん林りんの中なかから飛とんできました。もう、あの陰いん気きなところは、いやでたまりません。﹂ ﹁そうじゃありません。いつか、恋こいしくなることがありますから……。﹂と、白しろいりんごの花はなは、静しずかにいいました。 蛾がたちは笑わらいました。こんなにじょうぶな羽はねを持もっているのに、生うまれた林はやしに、いつまでもじっとしている理りゆ由うがわからなかったからです。 ﹁私わたしたちにも故こき郷ょうがあります。それは、遠とおい北ほっ海かいの中なかの島しまです。そこには、どんなにりんごの木きがたくさんあることか。そのほか、いろいろの草くさがあって、香こう気きの高たかい紫むら色さきいろの花はなや、黄きい色ろの花はなが、春はるから、秋あきにかけて絶たえず咲さいています……。﹂ ﹁どうして、こんなに遠とおいところへ、あなたたちはいらしたのですか？﹂と、こんどは、蛾がが花はなに向むかってたずねました。 ﹁人にん間げんが、その島しまから、私わたしたちをつれて、こんなところへ持もってきたのです。人にん間げんは、かってなことをするものです。私わたしたちは、もうどんなことがあっても故こき郷ょうへ帰かえることはできません。﹂と、花はなは、悲かなしそうにいいました。 ﹁そうですね。あなたには、飛とぶ羽はねがありませんものね。﹂と、蛾がが答こたえた。 ﹁もし、私わたしたちに、飛とぶ羽はねがあったら、あなたがたにそっくりで、変かわりがないでしょう。﹂と、りんごの花はなは笑わらいました。 ﹁その島しまは、そんなに美うつくしいのですか？﹂ ﹁その島しまに咲さく、花はなの色いろは、もっと白しろくて雪ゆきのようです。香こう気きはもっと高たかく、空そらの色いろは、もっと青あおく冴さえているし、海うみの色いろは、たとえようもないほど、青あおく、また紫むらさきです。﹂と、花はなは思おもい出だしたように蛾がに向むかっていいました。 りんごの木きが、この話はなしをした後のちのことです。蛾がたちは、ある日ひの晩ばん方がた寄より合あって、みんなで相そう談だんをしました。 ﹁自じぶ分んたちは、ここで一生しょうを送おくったらいいだろうか。﹂ ﹁りんごの花はなは、じきに散ちってしまうだろう。そうしたら、どうするのだ？﹂ ﹁この花はなが散ちってしまったら、また、生うまれた深しん林りんへ帰かえるよりしかたがない。﹂ ﹁帰かえりたいものは、帰かえるがいいが、俺おれたちは、いやだ。どこかへ飛とんでいこう……。﹂ ﹁旅たびをするなら、いっしょにしようじゃないか。いっしょに生うまれた兄きょ弟うだいだもの、いっしょに死しぬのがほんとうだ。﹂ ﹁そうだ。﹂ ﹁それにちがいない。﹂ 蛾がたちは、りんごの花はなから聞きいた、北ほっ海かいの中なかにある美うつくしい島しまに向むかって、大だい旅りょ行こうを企くわだてることを決けつ議ぎしたのでした。そして、そのことを花はなに向むかって話はなしました。 りんごの木きは、最さい初しょは、びっくりしましたが、後のちには、心こころから、その旅りょ行こうを祝しゅくして、その成せい功こうを祈いのったのです。そして、蛾がたちに向むかって、北ほっ海かいを渡わたる時じぶ分んの注ちゅ意ういをして、 ﹁私わたしが、こちらにくるときに見みたことを話はなしますと、人にん間げんのたくさん住すんでいる町まちは、夜よるになると、いろいろのりっぱな花はなが一時じに咲さいたように、燈とも火しびが輝かがやきます。けれど、それを花はなと思おもって飛とんでいっては、いけません。そして、町まちの近きん傍ぼうには、人にん間げんの栽さい培ばいしている花はな園ぞのや、いろいろの果かじ樹ゅえ園んがあるものですから、そこへいってお休やすみなさい。それから、北きたへ、北きたへ、町まちや、野のは原らや、山やまを越こして飛とんでおゆきなさると、いつしか海うみが見みえます。その海うみの岸きしに沿そっていちばん高たかい山やまがあります。山やまの頂いただきにはいつも、雪ゆきがあって光ひかっているから、すぐわかります。その山やまのふもとで、しばらくお休やすみなさい。そこには高こう山ざん植しょ物くぶつの咲さいている野のは原らや、深しん林りんがありますから、ここで、天てん気きを見みはからって、海うみの上うえを渡わたることになさい。そうすると、あちらに、美うつくしい島しまが見みえます。島しまへお着つきになったら、私わたしどものことをみんなに話はなしてください。どんなに驚おどろいて、あなたたちを歓かん迎げいすることでありましょう……。﹂と、りんごの木きはいいました。 蛾がたちは、勇いさみたちました。ある日ひの昼ひるごろ、みんなは、この大だい旅りょ行こうの途とに上のぼったのです。自じぶ分んたちの生うまれた、故こき郷ょうの深しん林りんをふたたびかすめて飛とび、さらに、明あくる日ひは、鈍にぶい砂さば漠くを越こして、遠とおくまでいったのでありました。 空そらをかすめて飛とぶ蛾がの群むれは、たがいにおくれまいとしました。そして、夕ゆう暮ぐれ方がたになると深しん林りんや、花はな園ぞのへ降おりて休やすんだのでした。赤あかい夕ゆう日ひは、彼かれらの目めに悲かなしく映うつりました。 あるときは、百姓しょうらが焚たいている野の火びが、真まっ紅かな花はなの風かぜになびいている姿すがたとなって見みえたりして、その中なかに飛とび込こんで、長ながい旅たびをつづけた末すえに、むなしく死しんでしまった仲なか間まもあります。また、街まちに輝かがやいた火ほか影げに、つい誘ゆう惑わくされて、りんごの花はなの警いましめも忘わすれて、飛とんでいくと、そこにはいい音おん楽がくが聞きこえたり、唄うたの声こえがしたり、ほかに美うつくしい塔とうや、噴ふん水すいや銅どう像ぞうなどがあったり、また花はな園ぞのさえあったりしたので、うかうかと時じか間んを過すごしてしまって、みんなから離はなれてしまったものもあります。 しかし、根こん気きづ強よい蛾がの群むれは、翌よく日じつも、そのまた翌よく日じつも、旅たびをつづけました。そして、広ひろい野のは原らを横よこ切ぎり、あるときは、山やまの頂いただきを越こえて、ついに、夏なつのはじめのころには、はるかに、青あおい、青あおい、北ほっ海かいの見みえる地ちほ方うへ達たっしたのでした。 ﹁とうとう海うみへきた。﹂ ﹁私わたしたちのゆく、美うつくしい島しまは、どこだろうか？﹂と、蛾がたちは、喜よろこんで叫さけびました。 ﹁この海うみを越こえて、島しまに達たっすることは容よう易いのことでない。疲つかれを休やすめて、穏おだやかな、いい天てん気きのつづく日ひを待まとうではないか。﹂ ﹁それがいい。雪ゆきの光ひかる、高たかい山やまのふもとには、高こう山ざん植しょ物くぶつの咲さく野のは原らがあり、みごとな深しん林りんがあるという話はなしだから、そこまでいこう。そして、いい日ひを待まつことにしよう。﹂ みんなは、この最さい後ごの説せつに従したがいました。それから、雪ゆきの光ひかる、高たかい山やまを探たずねて、そのふもとへといったのであります。 その高たかい山やまは、すぐにわかりました。ふもとへいってみると、美うつくしく晴はれた空そらの下したに、高こう山ざん植しょ物くぶつが、盛さかりと咲さいていました。白しろい蛾がの群むれは、思おもい思おもいに、自じぶ分んの好すきな花はなを探さがして飛とびまわったのでありました。 しらかばや、はんや、落らく葉よう松しょうの林はやしの中なかには、くびの赤あかい、小こが形たのつばめがたくさんきて鳴ないていました。その中なかの一羽わのつばめが、高こう山ざん植しょ物くぶつの咲さいている野のは原らへ降おりたときに、火かざ山んが岩んの上うえに止とまって、蛾がと話はなしをしました。 ﹁私わたしたちも、その島しまへ見けん物ぶつにゆくのですよ。それでここへきて、天てん気きを見みはからっているのです。﹂と、つばめはいいました。 蛾がは、いまさら、その島しまが、それほど、美うつくしい、有ゆう名めいなところであるのを知しりました。 ﹁私わたしたちは、遠とおい、南みなみの深しん林りんから旅たびをして、幾いく日にちも、幾いく日にちもかかって、ここまでやってきたのです。いっしょに出しゅ発っぱつしながら、長ながい日ひの間あいだには、おくれたり、また災さい難なんにかかって死しんだりした仲なか間まもありました。しかし、これから、海うみを渡わたることが困こん難なんだと思おもっています。﹂と、蛾がはいいました。 つばめは、体からだをつぼめるようにして、高こう原げんの上うえを吹ふいてくる、風かぜの方ほうに向むかっていましたが、 ﹁私わたしたちも、やはり、南みなみからきたものです。その島しまにいって見けん物ぶつがすんだら、あまり寒さむくならないうちに、故こき郷ょうへ旅たび立だちしなければなりません……。﹂と、答こたえたのです。 蛾がたちは、このつばめの言こと葉ばを聞きいて驚おどろきました。 いま、日ひの光ひかりは強つよく、空そらは、輝かがやいているけれど、やがて、自じぶ分んたちにとって怖おそろしい秋あきがやってくることを、つばめの言こと葉ばによって悟さとられたからでした。 ﹁私わたしたちは、二度どと故こき郷ょうへは帰かえることはできまい。せめて、早はやく、その島しまに着ついて、死しぬまで楽たのしく送おくりたいものだ。﹂と、蛾がは、ため息いきをつきました。 ﹁そんなに歎なげいたものでない。まだ自じぶ分んたちは生うまれてから、いままで生いきてきたほど、この先さきも生いきられるのだから、力ちからを落おとすことはない。﹂と、またほかの蛾ががいいました。 ﹁そんなことは、考かんがえないほうがいい。﹂ 蛾がたちの話はなしを、だまって聞きいていたつばめは、 ﹁ほんとうに、そうですとも。あなたたちの一日にちは、私わたしたちの半はん年としよりも、もっとおもしろく、愉ゆか快いに、暮くらしがいがあるのですから、そんなことを心しん配ぱいすることはありません。まだ、あなたたちは、お若わかいのです……。﹂といいました。 ﹁それで、あなたがたは、いつ、その島しまへお立たちになりますか。﹂と、蛾がは、つばめにたずねた。 つばめは頭あたまをかしげて、空そらを見みながら、 ﹁それは、まだわかりませんが、きまったら、お知しらせいたしましょう。﹂と答こたえた。 ﹁どうぞ、お知しらせください。私わたしたちも、ごいっしょに立たつようになるかもしれませんから。﹂と、蛾がは頼たのみました。 はじめて、海うみの上うえを渡わたる蛾がには、なんとなく心ここ細ろぼそく思おもわれたからです。そして、つばめたちが、いいという日ひは、自じぶ分んたちにも、いい日ひにちがいないと考かんがえたからでした。 二、三日にち後のちの晩ばん方がたでした。先せん日じつ、話はなしをしたつばめが、蛾がたちのいるところへきて、明あ日す、自じぶ分んたちは、島しまに向むかって出しゅ発っぱつすることを知しらせました。 ﹁また、島しまでお目めにかかれるかもしれません。どうぞ、ご機きげ嫌んよう……。﹂と、つばめは、暇いとまごいをして、彼かれらの仲なか間まのいる林はやしの方ほうへ飛とんでいきました。 蛾がたちは、自じぶ分んらも明あ日す立たつかどうかということについて、相そう談だんしました。このとき、かわいらしい淡うす紅べに色いろの高こう山ざん植しょ物くぶつの花はなは顔かおをこちらに向むけて、 ﹁明あ日すは、風かぜになりますよ。﹂と、注ちゅ意ういしたのです。その言こと葉ばは、あまり蛾がたちには顧かえりみられなかった。 高たかい山さん脈みゃくの頂いただきは、明あかるく雲くも切ぎれがして、日ひは暮くれてしまいました。一夜やは無ぶ事じに過すぎて、翌あく朝るあさになると、空そらはいつものごとく青あおく晴はれていました。このとき、蛾がたちは、空そら高たかくつばめの群むれが、林はやしから旅たび立だって、北きたを指さして飛とんでゆく姿すがたをながめたのでした。 ﹁俺おれたちもいこう！﹂ 蛾がの群むれは、つばめたちの後あとを追おって、旅たび立だったのでありました。 その後あとで、高こう山ざん植しょ物くぶつは、しきりに頭あたまを動うごかしていた。はたして、昼ひるごろから、夜よるにかけて、強つよい南みなみから吹ふく嵐あらしと変かわってしまった。 つばめらは、予よ期きしたごとく、嵐あらしを脊せに負おって、安やす々やすと島しまに着ついたけれど、蛾がたちは、ひとたまりもなく、海うみの中なかへ吹ふき落おとされて死しんでしまったのであります。 ――一九二六・三――