維新の際、論者文字を改めて通用に便びんせんと欲ほっし、あるいは平仮名を用いんと云いい、あるいは片仮名を用いんと云い、あるいは洋字に改めんと云い、あるいは新字を作らんと云い、また邦語を廃して英語に改めんと云う者あり。また従前のごとく和漢雑用に従わんと云う者あり。しこうしてこれを問えばおのおのその説あり。しかれども天下のこと、通用便利を欠くときはその用に適せず、その用に適せざるときは教化訓導の術すべを損す。けだし邦語を廃して英語に改めんと云う者はもとより論を待たず。和漢雑用は古来すでに用うるところ、おおいにその用に適すといえども、天下これを読む者幾いく何ばく人にん、はた字書ありというと云えども、草そう行ぎょうの体たいに至りては、また如いか何んせん。かの布告、著述のごとき、傍訓、助語の煩はん労ろうありて、天下これをよく了解する者、また幾いく許ばく人にんぞ。あるいは教授の至らざるなりといえども、もと学習の易やすからざるによる。かつそれ烟キセ管ル・喜世留、硝ガラ子ス・玻璃、莫メリ大ヤ小ス・目利安、不ふじ二さ山ん・冨士山の類たぐい、一いち物ぶつ字を異ことにし、長は谷せ、愛あた宕ご、飛あす鳥か、日くさ下か、不いり入おま斗ず、九つ十く九ものごとく、別に字書を作るにあらざれば知るべからず。日蝕︿︵にちしょく、﹇#改行﹈じっそく︶﹀、香港︿︵かうこう、﹇#改行﹈ほんこん︶﹀、上海︿︵しょうかい、﹇#改行﹈さんはい︶﹀、紫蘇︿︵しそ、﹇#改行﹈ちそ︶﹀、昆布︿︵こんぶ、﹇#改行﹈こぶ︶﹀の類、一物二音。清水︿︵しみづ、きよみづ、﹇#改行﹈せいすい︶﹀、神戸︿︵かうべ、かんべ、﹇#改行﹈かんど、ごうど︶﹀のごとき、一語数訓あり。新あらたに字書を作ると云うといえども、いずれの訓か取とりて充あつべきを知らず。かつ今日のごとく音語、新字陸りく続ぞく更こう出しゅつするときは、多年の苦学にあらざれば通常の書も読むこと能あたわず。しからばすなわち和漢雑用もまた、教化訓導のほか日用便利の器うつわにあらず。また洋字に改むるものは、なお米飯をもって麺パ包ンに代え、味噌をもって酥そら酪くに代かえるがごとし。その滋養は勝まさるるといえども、現にその不便を観みる。しかれども、別に新字を作るものに勝るることあり。 けだしそれ、文字・文章は声音の記号、言語の形状にして、古今を観み、彼ひ此しを通じ、約やく諾だくを記しるし、芸術を弘ひろむる、日用備忘の一大器なり。まことに言語と異なるべからず。いやしくも言語と異なるときは、これを読んで喜怒愛︵ママ︶楽の情、感動することなし。喜怒愛︵ママ︶楽の情、感動することなきときは、教化、訓導の意を失す。かの田いな舎かげ源ん氏じ、自じら来い也や物語、膝ひざ栗くり毛げ、八はっ笑しょ人うじん、義太夫本、浄瑠理︵ママ︶本のごとき、婦女童子もこれを読んでよく感動し、あるいは笑い、あるいは哀かなしむもの、まことに言語・文章の相あい同おなじきゆえんなり。ゆえに欧、米諸州のごとき、みな自国言語と同き文章をもって先務とす。米国のごとき、英と一様の言語なおよく自国の文章を作る。さらに英書翻刻のごとき、自みずから改め編じて自国語脈の文章となす。その関するところ観みるべし。近ごろ聞く、清国、生徒を他邦に学ばしむるに、別に自国言語、文章の先生を附すという。その心を用うる、思うべし。しかりしこうして、我邦ひとりこれを他邦に取るものは何ぞ。けだし慣かん習しゅ癖うへきの自みずから改むべからざると、愛国心のもっとも足らざるとによる。およそ読よみ易やすく、解わかり易く、言語一様の文章を記して、もって天下に藉しき、民の知識を進ましむるものは、もとより学者・教師の任なり。しかるにこれを捨て、その習うところに慣れ、奇字、新語を挿さしはさんでもって誇る者は、おおいにその職を怠おこたる者なり。謹んで顧かえりみずんばあるべからざるなり。また片仮名を知る者もまた天下多しとせず。これをもって余よはただ平仮名を用うることを主張す。およそ平仮名の通常たる、招しょ牌うはい、暖のれ簾ん、稟ひん帖ちょう、稗はい史しの類たぐい、観てみるべし。すなわち余が舎もの密わりののは階しごを訳述して同志に謀はかるゆえんなり。 西村先生、西先生の説を駁ばくして曰いわく、皮、側、川のごとき三字同訓、その混雑を如いか何んせんと。しかれども文章、談話ともに前後照応あり。かならず一語にして止とどまらず。かの電報のごとき簡易の文、約略の語、なおよく通ず、いわんや文章、談話をや。かつ英語も一語数訓のものあり。ここにその例を挙あぐる。Lot 鬮くじ、命、柵、人じん集しゅう、Tin 錫すず、鉄板、貨幣、State 形勢、大臣、国家、Branch 枝し柯か、学派、血統、Arm 腕、力、鎧よろい、Type 活字、記号、病びょ候うこう、Lime 石灰、鳥とり黐もちのごとし。そのほか蘭、仏の語もまた然しかるものありという。しかして彼かれよく誤解することなし。しからばすなわち、我といえども何ぞ誤解するの理あらんや。今、西村先生ここに論及せざるものは、けだしこれを目もく睫しょうに失しっするものならん。およそ人の万物に霊たるは、その思慮考こう按あんのあるゆえんなり。これをもってよく古代の※ちゅ文うぶん﹇#﹁箱﹂の﹁目﹂に代えて﹁留﹂、U+7C55、267-15﹈を読み、磨滅の篆てん字じを解す。いわんや一字数訓といえども、文章、談話の間かんにあるものをや。 あるいは曰いわく、爾なんじこの編を述のぶる、何ぞ平仮名をもってせざる。曰、唯い々い否ひ々ひ、わが平仮名の説のごとき、ただ後進の人に便するのみ。この編のごとき、ひとえに学者に謀るものなり。昔かの漢学者流は、西洋を観て夷いと云い、蛮ばんと云い、国字訳本ありといえども捨すてて省かえりみず、すでにしかして漢訳諸本の航来するに至りてはじめて、その蛮夷にあらざるを知る。ここに至りてようやく其者流に移る者多し。およそ儒者に漢土のことを談ずるときは意を注そそいで聴きき、商しょ估うこに利得のことを話はなしするときは耳を聳そばだてて聴く。農や工や皆然しかり。皆その習うところに癖へきするもの、まことに人情の常なり。これをもって今ここにこの文を述るのみ。平仮名のごとき、すでに書あり。その序、ほぼその意を述のぶべし。