古事記 上の卷
序文がついています序文
――古事記の成立の前提として、本文に記されている過去のことについて、まずわれわれが、傳えごとによつて過去のことを知ることを述べ、續いて歴代の天皇がこれによつて徳教を正したことを述べる。太の安萬侶によつて代表される古人が、古事記の内容をどのように考えていたかがあきらかにされる。古事記成立の思想的根據である。――
わたくし安やす萬ま侶ろが申しあげます。
宇宙のはじめに當つては、すべてのはじめの物がまずできましたが、その氣性はまだ十分でございませんでしたので、名まえもなく動きもなく、誰もその形を知るものはございません。それからして天と地とがはじめて別になつて、アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神が、すべてを作り出す最初の神となり、そこで男女の兩性がはつきりして、イザナギの神、イザナミの神が、萬物を生み出す親となりました。そこでイザナギの命は、地下の世界を訪れ、またこの國に歸つて、禊みそぎをして日の神と月の神とが目を洗う時に現われ、海水に浮き沈みして身を洗う時に、さまざまの神が出ました。それ故に最古の時代は、くらくはるかのあちらですけれども、前々からの教によつて國土を生み成した時のことを知り、先の世の物しり人によつて神を生み人間を成り立たせた世のことがわかります。
ほんとにそうです。神々が賢さか木きの枝に玉をかけ、スサノヲの命が玉を噛んで吐いたことがあつてから、代々の天皇が續き、天照らす大神が劒をお噛みになり、スサノヲの命が大蛇を斬つたことがあつてから、多くの神々が繁殖しました。神々が天のヤスの川の川原で會議をなされて、天下を平定し、タケミカヅチノヲの命が、出雲の國のイザサの小濱で大國主の神に領土を讓るようにと談判されてから國内をしずかにされました。これによつてニニギの命が、はじめてタカチホの峯にお下りになり、神武天皇がヤマトの國におでましになりました。この天皇のおでましに當つては、ばけものの熊が川から飛び出し、天からはタカクラジによつて劒をお授けになり、尾のある人が路をさえぎつたり、大きなカラスが吉野へ御案内したりしました。人々が共に舞い、合圖の歌を聞いて敵を討ちました。そこで崇神天皇は、夢で御承知になつて神樣を御崇敬になつたので、賢明な天皇と申しあげますし、仁徳天皇は、民の家の煙の少いのを見て人民を愛撫されましたので、今でも道に達した天皇と申しあげます。成務天皇は近江の高穴穗の宮で、國や郡の境を定め、地方を開發され、允恭天皇は、大和の飛鳥の宮で、氏々の系統をお正しになりました。それぞれ保守的であると進歩的であるとの相違があり、華やかなのと質素なのとの違いはありますけれども、いつの時代にあつても、古いことをしらべて、現代を指導し、これによつて衰えた道徳を正し、絶えようとする徳教を補強しないということはありませんでした。
――前半は天武天皇の御事蹟と徳行について述べる。後半、古來の傳えごとに關心をもたれ、これをもつて國家經營の基本であるとなし、これを正して稗田の阿禮をして誦み習わしめられたが、まだ書物とするに至らなかつたことを記す。――
飛あす鳥かの清きよ原みはらの大宮において天下をお治めになつた天武天皇の御世に至つては、まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。しかしながら時がまだ熟しませんでしたので吉野山に入つて衣服を變えてお隱れになり、人と事と共に得て伊勢の國において堂々たる行動をなさいました。お乘物が急におでましになつて山や川をおし渡り、軍隊は雷のように威を振い部隊は電光のように進みました。武器が威勢を現わして強い將士がたくさん立ちあがり、赤い旗のもとに武器を光らせて敵兵は瓦のように破れました。まだ十二日にならないうちに、惡氣が自然にしずまりました。そこで軍に使つた牛馬を休ませ、なごやかな心になつて大和の國に歸り、旗を卷き武器を納めて、歌い舞つて都におとどまりになりました。そうして酉の年の二月に、清原の大宮において、天皇の位におつきになりました。その道徳は黄帝以上であり、周の文王よりもまさつていました。神器を手にして天下を統一し、正しい系統を得て四方八方を併合されました。陰と陽との二つの氣性の正しいのに乘じ、木火土金水の五つの性質の順序を整理し、貴い道理を用意して世間の人々を指導し、すぐれた道徳を施して國家を大きくされました。そればかりではなく、知識の海はひろびろとして古代の事を深くお探りになり、心の鏡はぴかぴかとして前の時代の事をあきらかに御覽になりました。
ここにおいて天武天皇の仰せられましたことは﹁わたしが聞いていることは、諸家で持ち傳えている帝紀と本辭とが、既に眞實と違い多くの僞りを加えているということだ。今の時代においてその間違いを正さなかつたら、幾年もたたないうちに、その本旨が無くなるだろう。これは國家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。そこで帝紀を記し定め、本辭をしらべて後世に傳えようと思う﹂と仰せられました。その時に稗田の阿禮という奉仕の人がありました。年は二十八でしたが、人がらが賢く、目で見たものは口で讀み傳え、耳で聞いたものはよく記憶しました。そこで阿禮に仰せ下されて、帝紀と本辭とを讀み習わしめられました。しかしながら時勢が移り世が變わつて、まだ記し定めることをなさいませんでした。
――はじめに元明天皇の徳をたたえ、その命令によつて稗田の阿禮の誦み習つたものを記したことを述べる。特に文章を書くにあたつての苦心が述べられている。そうして記事の範圍、およびこれを三卷に分けたことを述べて終る。――
謹んで思いまするに、今上天皇陛下︵元明天皇︶は、帝位におつきになつて堂々とましまし、天地人の萬物に通じて人民を正しくお育てになります。皇居にいまして道徳をみちびくことは、陸地水上のはてにも及んでいます。太陽は中天に昇つて光を増し、雲は散つて晴れわたります。二つの枝が一つになり、一本の莖から二本の穗が出るようなめでたいしるしは、書記が書く手を休めません。國境を越えて知らない國から奉ります物は、お倉にからになる月がありません。お名まえは夏の禹うお王うよりも高く聞え御徳は殷いんの湯とう王おうよりもまさつているというべきであります。そこで本辭の違つているのを惜しみ、帝紀の誤つているのを正そうとして、和銅四年九月十八日を以つて、わたくし安萬侶に仰せられまして、稗田の阿禮が讀むところの天武天皇の仰せの本辭を記し定めて獻上せよと仰せられましたので、謹んで仰せの主旨に從つて、こまかに採録いたしました。
しかしながら古代にありましては、言葉も内容も共に素朴でありまして、文章に作り、句を組織しようと致しましても、文字に書き現わすことが困難であります。文字を訓で讀むように書けば、その言葉が思いつきませんでしようし、そうかと言つて字音で讀むように書けばたいへん長くなります。そこで今、一句の中に音讀訓讀の文字を交えて使い、時によつては一つの事を記すのに全く訓讀の文字ばかりで書きもしました。言葉やわけのわかりにくいのは註を加えてはつきりさせ、意味のとり易いのは別に註を加えません。またクサカという姓に日下と書き、タラシという名まえに帶の字を使うなど、こういう類は、もとのままにして改めません。大體書きました事は、天地のはじめから推古天皇の御代まででございます。そこでアメノミナカヌシの神からヒコナギサウガヤフキアヘズの命までを上卷とし、神武天皇から應神天皇までを中卷とし、仁徳天皇から推古天皇までを下卷としまして、合わせて三卷を記して、謹んで獻上いたします。わたくし安萬侶、謹みかしこまつて申しあげます。
和銅五年正月二十八日
正五位の上勳五等 太の朝臣安萬侶
一、イザナギの命とイザナミの命
――世界のはじめにまず神々の出現したことを説く。これらの神名には、それぞれ意味があつて、その順次に出現することによつて世界ができてゆくことを述べる。特に最初の三神は、抽象的概念の表現として重視される。日本の神話のうちもつとも思想的な部分である。――
昔、この世界の一番始めの時に、天で御出現になつた神樣は、お名をアメノミナカヌシの神といいました。次の神樣はタカミムスビの神、次の神樣はカムムスビの神、この御お三方かたは皆お獨で御出現になつて、やがて形をお隱しなさいました。次に國ができたてで水に浮いた脂のようであり、水くら母げのようにふわふわ漂つている時に、泥の中から葦あしが芽めを出して來るような勢いの物によつて御出現になつた神樣は、ウマシアシカビヒコヂの神といい、次にアメノトコタチの神といいました。この方かた々がたも皆お獨で御出現になつて形をお隱しになりました。
以上の五神は、特別の天の神樣です。
それから次々に現われ出た神樣は、クニノトコタチの神、トヨクモノの神、ウヒヂニの神、スヒヂニの女神、ツノグヒの神、イクグヒの女神、オホトノヂの神、オホトノベの女神、オモダルの神、アヤカシコネの女神、それからイザナギの神とイザナミの女神とでした。このクニノトコタチの神からイザナミの神までを神代七代と申します。そのうち始めの御おふ二たか方たはお獨ひと立りだちであり、ウヒヂニの神から以下は御二方で一代でありました。
――神が生み出す形で國土の起原を語る。――
そこで天の神樣方の仰せで、イザナギの命みこと・イザナミの命みこと御おふ二たか方たに、﹁この漂つている國を整えてしつかりと作り固めよ﹂とて、りつぱな矛ほこをお授けになつて仰せつけられました。それでこの御おふ二たか方たの神樣は天からの階段にお立ちになつて、その矛ほこをさしおろして下の世界をかきされ、海水を音を立ててかきして引きあげられた時に、矛の先から滴したゝる海水が、積つて島となりました。これがオノゴロ島です。その島にお降くだりになつて、大きな柱を立て、大きな御ごて殿んをお建たてになりました。
そこでイザナギの命が、イザナミの女神に﹁あなたのからだは、どんなふうにできていますか﹂と、お尋ねになりましたので、﹁わたくしのからだは、できあがつて、でききらない所が一か所あります﹂とお答えになりました。そこでイザナギの命の仰せられるには﹁わたしのからだは、できあがつて、でき過ぎた所が一か所ある。だからわたしのでき過ぎた所をあなたのでききらない所にさして國を生み出そうと思うがどうだろう﹂と仰せられたので、イザナミの命が﹁それがいいでしよう﹂とお答えになりました。そこでイザナギの命が﹁そんならわたしとあなたが、この太い柱をりあつて、結婚をしよう﹂と仰せられてこのように約束して仰せられるには﹁あなたは右からおりなさい。わたしは左からつてあいましよう﹂と約束しておりになる時に、イザナミの命が先に﹁ほんとうにりつぱな青年ですね﹂といわれ、その後あとでイザナギの命が﹁ほんとうに美うつくしいお孃じようさんですね﹂といわれました。それぞれ言い終つてから、その女神に﹁女が先に言つたのはよくない﹂とおつしやいましたが、しかし結婚をして、これによつて御み子こ水ひ蛭る子こをお生うみになりました。この子はアシの船に乘せて流してしまいました。次に淡あわ島しまをお生みになりました。これも御み子この數にははいりません。
かくて御二方で御相談になつて、﹁今わたしたちの生うんだ子こがよくない。これは天の神樣のところへ行つて申しあげよう﹂と仰せられて、御ごい一つし緒よに天に上のぼつて天の神樣の仰せをお受けになりました。そこで天の神樣の御命令で鹿の肩の骨をやく占うらない方かたで占いをして仰せられるには、﹁それは女の方ほうが先さきに物を言つたので良くなかつたのです。歸り降くだつて改めて言い直したがよい﹂と仰せられました。そういうわけで、また降つておいでになつて、またあの柱を前のようにおりになりました。今度はイザナギの命みことがまず﹁ほんとうに美うつくしいお孃さんですね﹂とおつしやつて、後にイザナミの命が﹁ほんとうにりつぱな青年ですね﹂と仰せられました。かように言い終つて結婚をなさつて御子の淡あわ路じのホノサワケの島をお生みになりました。次に伊い豫よの二ふた名なの島︵四國︶をお生うみになりました。この島は身み一つに顏かおが四つあります。その顏ごとに名があります。伊い豫よの國をエ姫ひめといい、讚さぬ岐きの國をイヒヨリ彦ひこといい、阿あ波わの國をオホケツ姫といい、土と佐さの國をタケヨリワケといいます。次に隱お岐きの三みつ子ごの島をお生みなさいました。この島はまたの名をアメノオシコロワケといいます。次に筑つく紫しの島︵九州︶をお生うみになりました。やはり身み一つに顏が四つあります。顏ごとに名がついております。それで筑つく紫しの國をシラヒワケといい、豐とよの國をトヨヒワケといい、肥ひの國をタケヒムカヒトヨクジヒネワケといい、熊くま曾その國をタケヒワケといいます。次に壹い岐きの島をお生みになりました。この島はまたの名を天あめ一ひとつ柱はしらといいます。次に對つし馬まをお生みになりました。またの名をアメノサデヨリ姫といいます。次に佐さ渡どの島をお生みになりました。次に大おお倭やま豐とと秋よあ津きつ島しま︵本州︶をお生みになりました。またの名をアマツミソラトヨアキツネワケといいます。この八つの島がまず生まれたので大おお八やし島まぐ國にというのです。それからお還かえりになつた時に吉き備びの兒こじ島まをお生みになりました。またの名なをタケヒガタワケといいます。次に小あず豆きじ島まをお生みになりました。またの名をオホノデ姫ひめといいます。次に大島をお生うみになりました。またの名をオホタマルワケといいます。次に女ひめ島じまをお生みになりました。またの名を天あめ一つ根といいます。次にチカの島をお生みになりました。またの名をアメノオシヲといいます。次に兩ふた兒ごの島をお生みになりました。またの名をアメフタヤといいます。吉備の兒島からフタヤの島まで合わせて六島です。
――前と同じ形で萬物の起原を語る。火の神を生んでから水の神などの出現する部分は鎭火祭の思想による。――
このように國々を生み終つて、更さらに神々をお生みになりました。そのお生み遊ばされた神樣の御おん名はまずオホコトオシヲの神、次にイハツチ彦の神、次にイハス姫の神、次にオホトヒワケの神、次にアメノフキヲの神、次にオホヤ彦の神、次にカザモツワケノオシヲの神をお生みになりました。次に海の神のオホワタツミの神をお生みになり、次に水戸の神のハヤアキツ彦の神とハヤアキツ姫の神とをお生みになりました。オホコトオシヲの神からアキツ姫の神まで合わせて十神です。このハヤアキツ彦とハヤアキツ姫の御二方が河と海とでそれぞれに分けてお生みになつた神の名は、アワナギの神・アワナミの神・ツラナギの神・ツラナミの神・アメノミクマリの神・クニノミクマリの神・アメノクヒザモチの神・クニノクヒザモチの神であります。アワナギの神からクニノクヒザモチの神まで合わせて八神です。次に風の神のシナツ彦の神、木の神のククノチの神、山の神のオホヤマツミの神、野の神のカヤノ姫の神、またの名をノヅチの神という神をお生みになりました。シナツ彦の神からノヅチまで合わせて四神です。このオホヤマツミの神とノヅチの神とが山と野とに分けてお生みになつた神の名は、アメノサヅチの神・クニノサヅチの神・アメノサギリの神・クニノサギリの神・アメノクラドの神・クニノクラドの神・オホトマドヒコの神・オホトマドヒメの神であります。アメノサヅチの神からオホトマドヒメの神まで合わせて八神です。
次にお生みになつた神の名はトリノイハクスブネの神、この神はまたの名を天あめの鳥とり船ふねといいます。次にオホゲツ姫の神をお生みになり、次にホノヤギハヤヲの神、またの名をホノカガ彦の神、またの名をホノカグツチの神といいます。この子こをお生みになつたためにイザナミの命は御みほ陰とが燒かれて御病氣になりました。その嘔へ吐どでできた神の名はカナヤマ彦の神とカナヤマ姫の神、屎くそでできた神の名はハニヤス彦の神とハニヤス姫の神、小便でできた神の名はミツハノメの神とワクムスビの神です。この神の子はトヨウケ姫の神といいます。かような次第でイザナミの命は火の神をお生みになつたために遂ついにお隱かくれになりました。天の鳥船からトヨウケ姫の神まで合わせて八神です。
すべてイザナギ・イザナミのお二方の神が、共にお生みになつた島の數は十四、神は三十五神であります。これはイザナミの神がまだお隱れになりませんでした前にお生みになりました。ただオノゴロ島はお生みになつたのではありません。また水ひ蛭る子こと淡島とは子の中に入れません。
――地下にくらい世界があつて、魔物がいると考えられている。これは異郷説話の一つである。火の神を斬る部分は鎭火祭の思想により、黄泉の國から逃げてくる部分は、道饗祭の思想による。黄泉の部分は、主として出雲系統の傳來である。――
そこでイザナギの命の仰せられるには、﹁わたしの最愛の妻を一人の子に代えたのは殘念だ﹂と仰せられて、イザナミの命の枕の方や足の方に這はい臥ふしてお泣なきになつた時に、涙で出現した神は香具山の麓の小高い處の木の下においでになる泣なき澤さわ女めの神です。このお隱れになつたイザナミの命は出いず雲もの國と伯ほう耆きの國との境にある比ひ婆ばの山にお葬り申し上げました。
ここにイザナギの命は、お佩はきになつていた長い劒を拔いて御み子このカグツチの神の頸くびをお斬りになりました。その劒の先についた血が清らかな巖いわおに走りついて出現した神の名は、イハサクの神、次にネサクの神、次にイハヅツノヲの神であります。次にその劒のもとの方についた血も、巖に走りついて出現した神の名は、ミカハヤビの神、次にヒハヤビの神、次にタケミカヅチノヲの神、またの名をタケフツの神、またの名をトヨフツの神という神です。次に劒の柄に集まる血が手のまたからこぼれ出して出現した神の名はクラオカミの神、次にクラミツハの神であります。以上イハサクの神からクラミツハの神まで合わせて八神は、御劒によつて出現した神です。
殺されなさいましたカグツチの神の、頭に出現した神の名はマサカヤマツミの神、胸に出現した神の名はオトヤマツミの神、腹に出現した神の名はオクヤマツミの神、御みほ陰とに出現した神の名はクラヤマツミの神、左の手に出現した神の名はシギヤマツミの神、右の手に出現した神の名はハヤマツミの神、左の足に出現した神の名はハラヤマツミの神、右の足に出現した神の名はトヤマツミの神であります。マサカヤマツミの神からトヤマツミの神まで合わせて八神です。そこでお斬りになつた劒の名はアメノヲハバリといい、またの名はイツノヲハバリともいいます。
イザナギの命はお隱れになつた女めが神みにもう一度會いたいと思われて、後あとを追つて黄よ泉みの國に行かれました。そこで女神が御殿の組んである戸から出てお出迎えになつた時に、イザナギの命みことは、﹁最愛のわたしの妻よ、あなたと共に作つた國はまだ作り終らないから還つていらつしやい﹂と仰せられました。しかるにイザナミの命みことがお答えになるには、﹁それは殘念なことを致しました。早くいらつしやらないのでわたくしは黄よ泉みの國の食物を食たべてしまいました。しかしあなた樣さまがわざわざおいで下さつたのですから、何なんとかして還りたいと思います。黄よ泉みの國の神樣に相談をして參りましよう。その間わたくしを御覽になつてはいけません﹂とお答えになつて、御ごて殿んのうちにお入りになりましたが、なかなか出ておいでになりません。あまり待ち遠だつたので左の耳のあたりにつかねた髮に插さしていた清らかな櫛の太い齒を一本闕かいて一本ぽん火びを燭とぼして入つて御覽になると蛆うじが湧わいてごろごろと鳴つており、頭には大きな雷が居、胸には火の雷が居、腹には黒い雷が居、陰にはさかんな雷が居、左の手には若い雷が居、右の手には土の雷が居、左の足には鳴る雷が居、右の足にはねている雷が居て、合わせて十種の雷が出現していました。そこでイザナギの命が驚いて逃げてお還りになる時にイザナミの命は﹁わたしに辱はじをお見せになつた﹂と言つて黄よ泉みの國の魔女を遣やつて追おわせました。よつてイザナギの命が御髮につけていた黒い木の蔓つるの輪を取つてお投げになつたので野のぶ葡ど萄うが生はえてなりました。それを取つてたべている間に逃げておいでになるのをまた追いかけましたから、今度は右の耳の邊につかねた髮に插しておいでになつた清らかな櫛の齒はを闕かいてお投げになると筍たけのこが生はえました。それを拔いてたべている間にお逃げになりました。後のちにはあの女神の身から體だじ中ゆうに生じた雷の神たちに澤山の黄よ泉みの國の魔軍を副えて追おわしめました。そこでさげておいでになる長い劒を拔いて後の方に振りながら逃げておいでになるのを、なお追つて、黄よも泉つひ比ら良さ坂かの坂さか本もとまで來た時に、その坂本にあつた桃の實みを三つとつてお撃ちになつたから皆逃げて行きました。そこでイザナギの命はその桃の實に、﹁お前がわたしを助けたように、この葦あし原はらの中の國に生活している多くの人間たちが苦しい目にあつて苦しむ時に助けてくれ﹂と仰せになつてオホカムヅミの命という名を下さいました。最後には女めが神みイザナミの命が御自身で追つておいでになつたので、大きな巖石をその黄よも泉つひ比ら良さ坂かに塞ふさいでその石を中に置いて兩方で對むかい合つて離りべ別つの言葉を交かわした時に、イザナミの命が仰せられるには、﹁あなたがこんなことをなされるなら、わたしはあなたの國の人間を一日に千人も殺してしまいます﹂といわれました。そこでイザナギの命は﹁あんたがそうなされるなら、わたしは一日に千五百も産うぶ屋やを立てて見せる﹂と仰せられました。こういう次第で一日にかならず千人死に、一日にかならず千五百人生まれるのです。かくしてそのイザナミの命を黄よも泉つお津お大か神みと申します。またその追いかけたので、道ち及しきの大神とも申すということです。その黄泉の坂に塞ふさがつている巖石は塞いでおいでになる黄よ泉みの入口の大神と申します。その黄よも泉つひ比ら良さ坂かというのは、今の出いず雲もの國のイブヤ坂ざかという坂です。
――みそぎの意義を語る。人生の災禍がこれによつて拂われるとする。――
イザナギの命は黄よ泉みの國からお還りになつて、﹁わたしは隨分厭いやな穢きたない國に行つたことだつた。わたしは禊みそぎをしようと思う﹂と仰せられて、筑つく紫しの日ひむ向かの橘たちばなの小お門どのアハギ原はらにおいでになつて禊みそぎをなさいました。その投げ棄てる杖によつてあらわれた神は衝つき立たつフナドの神、投げ棄てる帶であらわれた神は道のナガチハの神、投げ棄てる袋であらわれた神はトキハカシの神、投げ棄てる衣ころもであらわれた神は煩わず累らいの大う人しの神、投げ棄てる褌はかまであらわれた神はチマタの神、投げ棄てる冠であらわれた神はアキグヒの大人の神、投げ棄てる左の手につけた腕卷であらわれた神はオキザカルの神とオキツナギサビコの神とオキツカヒベラの神、投げ棄てる右の手につけた腕卷であらわれた神はヘザカルの神とヘツナギサビコの神とヘツカヒベラの神とであります。以上フナドの神からヘツカヒベラの神まで十二神は、おからだにつけてあつた物を投げ棄てられたのであらわれた神です。そこで、﹁上流の方は瀬が速い、下かり流ゆうの方は瀬が弱い﹂と仰せられて、眞中の瀬に下りて水中に身をお洗いになつた時にあらわれた神は、ヤソマガツヒの神とオホマガツヒの神とでした。この二神は、あの穢い國においでになつた時の汚けが垢れによつてあらわれた神です。次にその禍わざわいを直なおそうとしてあらわれた神は、カムナホビの神とオホナホビの神とイヅノメです。次に水底でお洗いになつた時にあらわれた神はソコツワタツミの神とソコヅツノヲの命、海中でお洗いになつた時にあらわれた神はナカツワタツミの神とナカヅツノヲの命、水面でお洗いになつた時にあらわれた神はウハツワタツミの神とウハヅツノヲの命です。このうち御おさ三んか方たのワタツミの神は安あず曇みう氏じの祖そせ先んじ神んです。よつて安曇の連むらじたちは、そのワタツミの神の子、ウツシヒガナサクの命の子孫です。また、ソコヅツノヲの命・ナカヅツノヲの命・ウハヅツノヲの命御おさ三んか方たは住すみ吉よし神じん社じやの三座の神樣であります。かくてイザナギの命が左の目をお洗いになつた時に御ごし出ゆつ現げんになつた神は天あま照てらす大おお神みかみ、右の目をお洗いになつた時に御出現になつた神は月つく讀よみの命、鼻をお洗いになつた時に御出現になつた神はタケハヤスサノヲの命でありました。
以上ヤソマガツヒの神からハヤスサノヲの命まで十神は、おからだをお洗いになつたのであらわれた神樣です。
イザナギの命はたいへんにお喜びになつて、﹁わたしは隨ずい分ぶん澤たく山さんの子こを生うんだが、一番ばんしまいに三人の貴い御み子こを得た﹂と仰せられて、頸くびに掛けておいでになつた玉の緒おをゆらゆらと搖ゆらがして天あま照てらす大神にお授けになつて、﹁あなたは天をお治めなさい﹂と仰せられました。この御おく頸びに掛かけた珠たまの名をミクラタナの神と申します。次に月つく讀よみの命に、﹁あなたは夜の世界をお治めなさい﹂と仰せになり、スサノヲの命には、﹁海上をお治めなさい﹂と仰せになりました。それでそれぞれ命ぜられたままに治められる中に、スサノヲの命だけは命ぜられた國をお治めなさらないで、長い鬚ひげが胸に垂れさがる年頃になつてもただ泣きわめいておりました。その泣く有樣は青山が枯山になるまで泣き枯らし、海や河は泣く勢いで泣きほしてしまいました。そういう次第ですから亂暴な神の物音は夏の蠅が騷ぐようにいつぱいになり、あらゆる物の妖わざわいが悉く起りました。そこでイザナギの命がスサノヲの命に仰せられるには、﹁どういうわけであなたは命ぜられた國を治めないで泣きわめいているのか﹂といわれたので、スサノヲの命は、﹁わたくしは母上のおいでになる黄よ泉みの國に行きたいと思うので泣いております﹂と申されました。そこでイザナギの命が大變お怒りになつて、﹁それならあなたはこの國には住んではならない﹂と仰せられて追いはらつてしまいました。このイザナギの命は、淡路の多た賀がの社やしろにお鎭しずまりになつておいでになります。
二、天照らす大神とスサノヲの命
――暴風の神であり出雲系の英雄でもあるスサノヲの命が、高天の原に進出し、その主神である天照らす大神との間に、誓約の行われることを語る。誓約の方法は、神祕に書かれているが、これは心を清めるための行事である。結末においてさまざまの異系統の祖先神が出現するのは、それらの諸民族が同系統であることを語るものである。――
そこでスサノヲの命が仰せになるには、﹁それなら天照らす大おお神みかみに申しあげて黄よ泉みの國に行きましよう﹂と仰せられて天にお上りになる時に、山や川が悉く鳴り騷ぎ國土が皆振動しました。それですから天照らす大神が驚かれて、﹁わたしの弟おとうとが天に上つて來られるわけは立派な心で來るのではありますまい。わたしの國を奪おうと思つておられるのかも知れない﹂と仰せられて、髮をお解きになり、左右に分けて耳のところに輪にお纏まきになり、その左右の髮の輪にも、頭に戴かれる鬘かずらにも、左右の御手にも、皆大きな勾まが玉たまの澤山ついている玉の緒を纏まき持たれて、背せには矢が千本も入る靱ゆぎを負われ、胸にも五百本入りの靱をつけ、また威勢のよい音を立てる鞆ともをお帶びになり、弓を振り立てて力強く大庭をお踏みつけになり、泡あわ雪ゆきのように大地を蹴散らかして勢いよく叫びの聲をお擧げになつて待ち問われるのには、﹁どういうわけで上のぼつて來こられたか﹂とお尋ねになりました。そこでスサノヲの命の申されるには、﹁わたくしは穢きたない心はございません。ただ父上の仰せでわたくしが哭きわめいていることをお尋ねになりましたから、わたくしは母上の國に行きたいと思つて泣いておりますと申しましたところ、父上はそれではこの國に住んではならないと仰せられて追い拂いましたのでお暇乞いに參りました。變つた心は持つておりません﹂と申されました。そこで天照らす大神は、﹁それならあなたの心の正しいことはどうしたらわかるでしよう﹂と仰せになつたので、スサノヲの命は、﹁誓ちか約いを立てて子を生みましよう﹂と申されました。よつて天のヤスの河を中に置いて誓ちか約いを立てる時に、天照らす大神はまずスサノヲの命の佩はいている長い劒をお取りになつて三段に打うち折つて、音もさらさらと天の眞ま名な井いの水で滌そそいで囓かみに囓かんで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神の名はタギリヒメの命またの名はオキツシマ姫の命でした。次にイチキシマヒメの命またの名はサヨリビメの命、次にタギツヒメの命のお三方でした。次にスサノヲの命が天照らす大神の左の御髮に纏まいておいでになつた大きな勾まが玉たまの澤山ついている玉の緒おをお請うけになつて、音もさらさらと天の眞名井の水に滌そそいで囓かみに囓かんで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はマサカアカツカチハヤビアメノオシホミミの命、次に右の御髮の輪に纏まかれていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はアメノホヒの命、次に鬘かずらに纏いておいでになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はアマツヒコネの命、次に左の御手にお纏きになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はイクツヒコネの命、次に右の御手に纏いておいでになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はクマノクスビの命、合わせて五いつ方かたの男神が御出現になりました。ここに天照らす大神はスサノヲの命に仰せになつて、﹁この後あとから生まれた五人の男神はわたしの身につけた珠によつてあらわれた神ですから自然わたしの子です。先に生まれた三人の姫ひめ御み子こはあなたの身につけたものによつてあらわれたのですから、やはりあなたの子です﹂と仰せられました。その先にお生まれになつた神のうちタギリヒメの命は、九州の※むな形かた﹇#﹁匈/︵胃−田︶﹂、U+80F7、213-14﹈の沖つ宮においでになります。次にイチキシマヒメの命は※﹇#﹁匈/︵胃−田︶﹂、U+80F7、213-15﹈形の中つ宮においでになります。次にタギツヒメの命は※﹇#﹁匈/︵胃−田︶﹂、U+80F7、213-16﹈形の邊へつ宮においでになります。この三人の神は、※﹇#﹁匈/︵胃−田︶﹂、U+80F7、213-16﹈形の君たちが大切にお祭りする神樣であります。そこでこの後でお生まれになつた五人の子の中に、アメノホヒの命の子のタケヒラドリの命、これは出雲の國の造みやつこ・ムザシの國の造・カミツウナカミの國の造・シモツウナカミの國の造・イジムの國の造・津島の縣あがたの直あたえ・遠とお江とおみの國の造たちの祖先です。次にアマツヒコネの命は、凡おお川しこ内うちの國の造・額ぬか田た部の湯ゆ坐えの連・木の國の造・倭やまとの田中の直あたえ・山やま代しろの國の造・ウマクタの國の造・道ノシリキベの國の造・スハの國の造・倭のアムチの造・高たけ市ちの縣主・蒲かも生うの稻いな寸き・三さき枝くさ部べの造たちの祖先です。
――祓 によつて暴風の神を放逐することを語る。はじめのスサノヲの命の暴行は、暴風の災害である。――
そこでスサノヲの命は、天照らす大神に申されるには﹁わたくしの心が清らかだつたので、わたくしの生うんだ子が女だつたのです。これに依よつて言えば當然わたくしが勝つたのです﹂といつて、勝つた勢いに任せて亂暴を働きました。天照らす大神が田を作つておられたその田の畔あぜを毀こわしたり溝みぞを埋うめたりし、また食事をなさる御殿に屎くそをし散らしました。このようなことをなさいましたけれども天照らす大神はお咎とがめにならないで、仰せになるには、﹁屎くそのようなのは酒に醉つて吐はき散ちらすとてこんなになつたのでしよう。それから田の畔を毀し溝を埋めたのは地面を惜しまれてこのようになされたのです﹂と善いようにと仰せられましたけれども、その亂暴なしわざは止やみませんでした。天照らす大神が清らかな機はた織おり場ばにおいでになつて神樣の御おめ衣しも服のを織らせておいでになる時に、その機織場の屋根に穴をあけて斑まだ駒らごまの皮をむいて墮おとし入れたので、機はた織おり女めが驚いて機織りに使う板で陰ほとをついて死んでしまいました。そこで天照らす大神もこれを嫌つて、天あめの岩いわ屋や戸とをあけて中にお隱れになりました。それですから天がまつくらになり、下の世界もことごとく闇くらくなりました。永久に夜が續いて行つたのです。そこで多くの神々の騷ぐ聲は夏の蠅のようにいつぱいになり、あらゆる妖わざわいがすべて起りました。
こういう次第で多くの神樣たちが天の世界の天あめのヤスの河の河原にお集まりになつてタカミムスビの神の子のオモヒガネの神という神に考えさせてまず海外の國から渡つて來た長なが鳴なき鳥どりを集めて鳴かせました。次に天のヤスの河の河上にある堅い巖いわおを取つて來、また天の金かな山やまの鐵を取つて鍛か冶じ屋やのアマツマラという人を尋ね求め、イシコリドメの命に命じて鏡を作らしめ、タマノオヤの命に命じて大きな勾まが玉たまが澤山ついている玉の緒の珠を作らしめ、アメノコヤネの命とフトダマの命とを呼んで天のカグ山の男おじ鹿かの肩骨をそつくり拔いて來て、天のカグ山のハハカの木を取つてその鹿しかの肩骨を燒やいて占うらなわしめました。次に天のカグ山の茂しげつた賢さか木きを根ね掘こぎにこいで、上うえの枝に大きな勾まが玉たまの澤山の玉の緒を懸け、中の枝には大きな鏡を懸け、下の枝には麻だの楮こうぞの皮の晒さらしたのなどをさげて、フトダマの命がこれをささげ持ち、アメノコヤネの命が莊そう重ちような祝のり詞とを唱となえ、アメノタヂカラヲの神が岩いわ戸との陰かげに隱れて立つており、アメノウズメの命が天のカグ山の日ひか影げか蔓ずらを手たす襁きに懸かけ、眞まさ拆きの蔓かずらを鬘かずらとして、天のカグ山の小さ竹さの葉を束たばねて手に持ち、天照らす大神のお隱れになつた岩戸の前に桶おけを覆ふせて踏み鳴らし神かみ懸がかりして裳の紐を陰ほとに垂らしましたので、天の世界が鳴りひびいて、たくさんの神が、いつしよに笑いました。そこで天照らす大神は怪しいとお思いになつて、天の岩戸を細目にあけて内から仰せになるには、﹁わたしが隱れているので天の世界は自然に闇く、下の世界も皆みな闇くらいでしようと思うのに、どうしてアメノウズメは舞い遊び、また多くの神は笑つているのですか﹂と仰せられました。そこでアメノウズメの命が、﹁あなた樣に勝まさつて尊い神樣がおいでになりますので樂しく遊んでおります﹂と申しました。かように申す間にアメノコヤネの命とフトダマの命とが、かの鏡をさし出して天照らす大神にお見せ申し上げる時に天照らす大神はいよいよ不思議にお思いになつて、少し戸からお出かけになる所を、隱れて立つておられたタヂカラヲの神がその御手を取つて引き出し申し上げました。そこでフトダマの命がそのうしろに標しめ繩なわを引き渡して、﹁これから内にはお還り入り遊ばしますな﹂と申しました。かくて天照らす大神がお出ましになつた時に、天も下の世界も自然と照り明るくなりました。ここで神樣たちが相談をしてスサノヲの命に澤山の品物を出して罪を償つぐなわしめ、また鬚ひげと手てあ足しの爪とを切つて逐いはらいました。
三、スサノヲの命
――穀物などの起原を説く插入説話である。日本書紀では、月の神が保食 の神を殺す形になつている。――
スサノヲの命は、かようにして天の世界から逐おわれて、下げか界いへ下くだつておいでになり、まず食物をオホゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオホゲツ姫が鼻や口また尻しりから色々の御馳走を出して色々お料理をしてさし上げました。この時にスサノヲの命はそのしわざをのぞいて見て穢きたないことをして食べさせるとお思いになつて、そのオホゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身體に色々の物ができました。頭あたまに蠶かいこができ、二つの目に稻いね種だねができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股またの間あいだにムギができ、尻にマメが出來ました。カムムスビの命が、これをお取りになつて種となさいました。
――スサノヲの命は、高天の原系統では暴風の神であり、亂暴な神とされているが、出雲系統では、反對に、功績のある神とされ、農業開發の神とされている。これは次の大國主の神の説話と共に、出雲系統の神話である。――
かくてスサノヲの命は逐い拂われて出雲の國の肥ひの河上、トリカミという所にお下りになりました。この時に箸はしがその河から流れて來ました。それで河上に人が住んでいるとお思いになつて尋ねて上のぼつておいでになりますと、老翁と老女と二人があつて少女を中において泣いております。そこで﹁あなたは誰だれですか﹂とお尋ねになつたので、その老翁が、﹁わたくしはこの國の神のオホヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます﹂と申しました。また﹁あなたの泣くわけはどういう次第ですか﹂とお尋ねになつたので﹁わたくしの女むすめはもとは八人ありました。それをコシの八やま俣たの大蛇が毎年來て食たべてしまいます。今またそれの來る時期ですから泣いています﹂と申しました。﹁その八俣の大蛇というのはどういう形をしているのですか﹂とお尋ねになつたところ、﹁その目めは丹たん波ばほ酸おず漿きのように眞まつ赤かで、身體一つに頭が八つ、尾が八つあります。またその身から體だには蘿こけだの檜ひのき・杉の類が生え、その長さは谷たに八やつ峰みね八やつをわたつて、その腹を見ればいつも血ちが垂れて爛ただれております﹂と申しました。そこでスサノヲの命がその老翁に﹁これがあなたの女むすめさんならばわたしにくれませんか﹂と仰せになつたところ、﹁恐れ多いことですけれども、あなたはどなた樣ですか﹂と申しましたから、﹁わたしは天照らす大神の弟です。今天から下つて來た所です﹂とお答えになりました。それでアシナヅチ・テナヅチの神が﹁そうでしたら恐れ多いことです。女むすめをさし上げましよう﹂と申しました。依つてスサノヲの命はその孃おと子めを櫛くしの形かたちに變えて御おぐ髮しにお刺さしになり、そのアシナヅチ・テナヅチの神に仰せられるには、﹁あなたたち、ごく濃い酒を釀かもし、また垣を作りして八つの入口を作り、入口毎に八つの物を置く臺を作り、その臺毎に酒の槽おけをおいて、その濃い酒をいつぱい入れて待つていらつしやい﹂と仰せになりました。そこで仰せられたままにかように設けて待つている時に、かの八俣の大蛇がほんとうに言つた通りに來ました。そこで酒さか槽おけ毎にそれぞれ首を乘り入れて酒を飮みました。そうして醉つぱらつてとどまり臥して寢てしまいました。そこでスサノヲの命がお佩きになつていた長い劒を拔いてその大蛇をお斬り散らしになつたので、肥の河が血になつて流れました。その大蛇の中の尾をお割きになる時に劒の刃がすこし毀かけました。これは怪しいとお思いになつて劒の先で割いて御覽になりましたら、鋭い大刀がありました。この大刀をお取りになつて不思議のものだとお思いになつて天照らす大神に獻上なさいました。これが草薙の劒でございます。
かくしてスサノヲの命は、宮を造るべき處を出雲の國でお求めになりました。そうしてスガの處ところにおいでになつて仰せられるには、﹁わたしは此こ處こに來て心もちが清すが々すがしい﹂と仰せになつて、其そ處こに宮殿をお造りになりました。それで其處をば今でもスガというのです。この神が、はじめスガの宮をお造りになつた時に、其處から雲が立ちのぼりました。依つて歌をお詠みになりましたが、その歌は、
雲の叢むらがり起たつ出いず雲もの國の宮殿。
妻と住むために宮殿をつくるのだ。
その宮殿よ。
というのです。そこでかのアシナヅチ・テナヅチの神をお
――スサノヲの命の系譜を説き、大國主の神に結びつけている。このうち、オホトシの神とウカノミタマとは穀物の神で、二三〇頁[#「二三〇頁」は「大國主の神」]に出る系譜に連絡する。――
そこでそのクシナダ姫と婚姻してお生みになつた神樣は、ヤシマジヌミの神です。またオホヤマツミの神の女のカムオホチ姫と結婚をして生んだ子は、オホトシの神、次にウカノミタマです。兄のヤシマジヌミの神はオホヤマツミの神の女の木この花はな散ちる姫と結婚して生んだ子は、フハノモヂクヌスヌの神です。この神がオカミの神の女のヒカハ姫と結婚して生んだ子がフカブチノミヅヤレハナの神です。この神がアメノツドヘチネの神と結婚して生んだ子がオミヅヌの神です。この神がフノヅノの神の女のフテミミの神と結婚して生んだ子がアメノフユギヌの神です。この神がサシクニオホの神の女のサシクニワカ姫と結婚して生んだ子が大おお國くに主ぬしの神です。この大國主の神はまたの名をオホアナムチの神ともアシハラシコヲの神ともヤチホコの神ともウツシクニダマの神とも申します。合わせてお名前が五つありました。
四、大國主の命
――これから出雲系の英雄大國主の神の神話になる。さまざまの神話を、一神の名のもとに寄せたものの如くである。――
この大國主の命の兄弟は、澤山おいでになりました。しかし國は皆大國主の命にお讓り申しました。お讓り申し上げたわけは、その大勢の神が皆みな因いな幡ばのヤガミ姫ひめと結婚しようという心があつて、一緒に因いな幡ばに行きました。時に大國主の命に袋を負わせ從者として連れて行きました。そしてケタの埼に行きました時に裸になつた兎が伏しておりました。大勢の神がその兎に言いましたには、﹁お前はこの海水を浴びて風の吹くのに當つて高山の尾おの上えに寢ているとよい﹂と言いました。それでこの兎が大勢の神の教えた通りにして寢ておりました。ところがその海水の乾かわくままに身の皮が悉く風に吹き拆さかれたから痛んで泣き伏しておりますと、最後に來た大國主の命がその兎を見て、﹁何なんだつて泣き伏しているのですか﹂とお尋ねになつたので、兎が申しますよう、﹁わたくしは隱お岐きの島にいてこの國に渡りたいと思つていましたけれども渡るすべがございませんでしたから、海の鰐わにを欺あざむいて言いましたのは、わたしはあなたとどちらが一族ぞくが多いか競くらべて見ましよう。あなたは一族を悉く連れて來てこの島からケタの埼さきまで皆竝んで伏していらつしやい。わたしはその上を蹈んで走りながら勘定をして、わたしの一族とどちらが多いかということを知りましようと言いましたから、欺かれて竝んで伏している時に、わたくしはその上を蹈んで渡つて來て、今土におりようとする時に、お前はわたしに欺だまされたと言うか言わない時に、一番端はしに伏していた鰐わにがわたくしを捕つかまえてすつかり着きも物のを剥はいでしまいました。それで困こまつて泣いて悲しんでおりましたところ、先においでになつた大勢の神樣が、海水を浴びて風に當つて寢ておれとお教えになりましたからその教えの通りにしましたところすつかり身から體だをこわしました﹂と申しました。そこで大國主の命は、その兎にお教え遊ばされるには、﹁いそいであの水門に往つて、水で身體を洗つてその水門の蒲がまの花粉を取つて、敷き散らしてその上に輾ころがりつたなら、お前の身はもとの膚はだのようにきつと治るだろう﹂とお教えになりました。依つて教えた通りにしましたから、その身はもとの通りになりました。これが因いな幡ばの白兎というものです。今では兎神といつております。そこで兎が喜んで大國主の命に申しましたことには、﹁あの大勢の神はきつとヤガミ姫を得られないでしよう。袋を背負つておられても、きつとあなたが得るでしよう﹂と申しました。
――前の兎と鰐の話と共に、古代醫療の方法について語つている説話である。――
兎の言つた通り、ヤガミ姫は大勢の神に答えて﹁わたくしはあなたたちの言う事は聞きません。大國主の命と結婚しようと思います﹂と言いました。そこで大勢の神が怒つて、大國主の命を殺そうと相談して伯ほう耆きの國のテマの山本に行つて言いますには、﹁この山には赤い猪いのししがいる。わたしたちが追い下くだすからお前が待ちうけて捕えろ。もしそうしないと、きつとお前を殺してしまう﹂と言つて、猪いのししに似ている大きな石を火で燒いて轉ころがし落しました。そこで追い下して取ろうとする時に、その石に燒きつかれて死んでしまいました。そこで母の神が泣き悲しんで、天に上つて行つてカムムスビの神のもとに參りましたので、赤あか貝がい姫ひめと蛤はま貝ぐり姫ひめとを遣やつて生き還らしめなさいました。それで赤貝姫が汁しるを搾しぼり集あつめ、蛤貝姫がこれを受けて母の乳汁として塗りましたから、りつぱな男になつて出であ歩るくようになりました。
――これも異郷説話の一つで、王子の求婚説話の形を採つている。姫の父親から難題を課せられるが、姫の助力を得て解決する。――
これをまた大勢の神が見て欺あざむいて山に連れて行つて、大きな樹を切り伏せて楔くさ子びを打つておいて、その中に大國主の命をはいらせて、楔くさ子びを打つて放つて打ち殺してしまいました。そこでまた母の神が泣きながら搜したので、見つけ出してその木を拆さいて取り出して生いかして、その子に仰せられるには、﹁お前がここにいるとしまいには大勢の神に殺ころされるだろう﹂と仰せられて、紀伊の國のオホヤ彦の神のもとに逃がしてやりました。そこで大勢の神が求めて追つて來て、矢をつがえて乞う時に、木の俣またからぬけて逃げて行きました。
そこで母の神が﹁これは、スサノヲの命のおいでになる黄泉の國に行つたなら、きつとよい謀はかりごとをして下さるでしよう﹂と仰せられました。そこでお言葉のままに、スサノヲの命の御おん所もとに參りましたから、その御おん女むすめのスセリ姫ひめが出て見ておあいになつて、それから還つて父君に申しますには、﹁大變りつぱな神樣がおいでになりました﹂と申されました。そこでその大神が出て見て、﹁これはアシハラシコヲの命だ﹂とおつしやつて、呼よび入れて蛇のいる室むろに寢させました。そこでスセリ姫の命が蛇の領ひ巾れをその夫に與えて言われたことは、﹁その蛇が食おうとしたなら、この領ひ巾れを三度振つて打ち撥はらいなさい﹂と言いました。それで大國主の命は、教えられた通りにしましたから、蛇が自然に靜まつたので安らかに寢てお出になりました。また次の日の夜は呉むか公でと蜂はちとの室むろにお入れになりましたのを、また呉公と蜂の領巾を與えて前のようにお教えになりましたから安らかに寢てお出になりました。次には鏑かぶ矢らやを大野原の中に射て入れて、その矢を採とらしめ、その野におはいりになつた時に火をもつてその野を燒き圍みました。そこで出る所を知らないで困つている時に、鼠が來て言いますには、﹁内うちはほらほら、外そとはすぶすぶ﹂と言いました。こう言いましたからそこを踏んで落ちて隱れておりました間に、火は燒けて過ぎました。そこでその鼠がその鏑矢を食わえ出して來て奉りました。その矢の羽はねは鼠の子どもが皆食べてしまいました。
かくてお妃きさきのスセリ姫ひめは葬式の道具を持つて泣きながらおいでになり、その父の大神はもう死んだとお思いになつてその野においでになると、大國主の命はその矢を持つて奉りましたので、家に連れて行つて大きな室に呼び入れて、頭の虱しらみを取らせました。そこでその頭を見ると呉むか公でがいつぱいおります。この時にお妃が椋むくの木の實と赤土とを夫君に與えましたから、その木の實を咋くい破やぶり赤土を口に含んで吐き出されると、その大神は呉公を咋くい破つて吐き出すとお思いになつて、御心に感心にお思いになつて寢ておしまいになりました。そこでその大神の髮を握とつてその室の屋根のたる木ごとに結いつけて、大きな巖をその室の戸口に塞いで、お妃のスセリ姫を背せ負おつて、その大神の寶物の大た刀ち弓ゆみ矢や、また美しい琴を持つて逃げておいでになる時に、その琴が樹にさわつて音を立てました。そこで寢ておいでになつた大神が聞いてお驚きになつてその室を引き仆してしまいました。しかしたる木に結びつけてある髮を解いておいでになる間に遠く逃げてしまいました。そこで黄よも泉つひ比ら良さ坂かまで追つておいでになつて、遠くに見て大國主の命を呼んで仰せになつたには、﹁そのお前の持つている大刀や弓矢を以つて、大勢の神をば坂の上に追い伏せ河の瀬せに追い撥はらつて、自分で大國主の命となつてそのわたしの女むすめのスセリ姫を正妻として、ウカの山の山本に大だい磐ばん石じやくの上に宮柱を太く立て、大空に高く棟むな木ぎを上げて住めよ、この奴やつめ﹂と仰せられました。そこでその大刀弓を持つてかの大勢の神を追い撥はらう時に、坂の上毎に追い伏せ河の瀬毎に追い撥はらつて國を作り始めなさいました。
かのヤガミ姫ひめは前の約束通りに婚姻なさいました。そのヤガミ姫を連つれておいでになりましたけれども、お妃きさきのスセリ姫を恐れて生んだ子を木の俣またにさし挾んでお歸りになりました。ですからその子の名を木の俣の神と申します。またの名は御み井いの神とも申します。
――長い歌の贈答を中心とした物語で、もと歌曲として歌い傳えられたもの。――
ヤチホコの神樣は、
方々の國で妻を求めかねて、
遠い遠い越こしの國に
賢かしこい女がいると聞き
美しい女がいると聞いて
結婚にお出でましになり
結婚にお通かよいになり、
大た刀ちの緒おもまだ解かず
羽はお織りをもまだ脱ぬがずに、
娘さんの眠つておられる板戸を
押しゆすぶり立つていると
引き試みて立つていると、
青い山ではヌエが鳴いている。
野の鳥の雉きじは叫んでいる。
庭先でニワトリも鳴いている。
腹が立つさまに鳴く鳥だな
こんな鳥はやつつけてしまえ。
下におります走り使をする者の
事ことの語かたり傳つたえはかようでございます。
そこで、そのヌナカハ姫が、まだ戸を開あけないで、家の内で歌いました歌は、
ヤチホコの神樣、
萎 れた草のような女のことですから
わたくしの心は漂う水鳥、
今 こそわたくし鳥 でも
後 にはあなたの鳥になりましよう。
命 長 くお生 き遊 ばしませ。
わたくしの心は漂う水鳥、
下におります走り使をする者の
事 の語 り傳 えはかようでございます。
青い山やまに日ひが隱かくれたら
眞まつ暗くらな夜よになりましよう。
朝のお日ひさ樣まのようににこやかに來て
コウゾの綱のような白い腕、
泡雪のような若々しい胸を
そつと叩いて手をとりかわし
玉のような手をまわして
足を伸のばしてお休みなさいましようもの。
そんなにわびしい思おもいをなさいますな。
ヤチホコの神かみ樣さま。
事ことの語かたり傳つたえは、かようでございます。
それで、その夜はお會あいにならないで、翌晩お會あいなさいました。
またその神のお妃きさきスセリ姫の命は、大たい變へん嫉しつ妬とぶ深かい方かたでございました。それを夫おつとの君は心憂うく思つて、出雲から大和の國にお上りになろうとして、お支度遊ばされました時に、片手は馬の鞍に懸け、片足はその鐙あぶみに蹈み入れて、お歌うたい遊ばされた歌は、
カラスオウギ色いろの黒い御おめ衣しも服のを
十分に身につけて、
水鳥のように胸を見る時、
羽はた敲たきも似合わしくない、
波うち寄せるそこに脱ぎ棄て、
翡ひす翠いい色ろの青い御おめ衣しも服のを
十分に身につけて
水鳥のように胸を見る時、
羽はた敲たきもこれも似合わしくない、
波うち寄せるそこに脱ぎ棄て、
山やま畑はたに蒔まいた茜あか草ねぐさを舂ついて
染料の木の汁で染めた衣服を
十分に身につけて、
水鳥のように胸を見る時、
羽はた敲たきもこれはよろしい。
睦むつましのわが妻よ、
鳥の群むれのようにわたしが群れて行つたら、
引いて行ゆく鳥のようにわたしが引いて行つたら、
泣かないとあなたは云つても、
山やま地ぢに立つ一いつ本ぽん薄すすきのように、
うなだれてあなたはお泣きになつて、
朝の雨の霧に立つようだろう。
若草のようなわが妻よ。
事ことの語かたり傳つたえは、かようでございます。
そこで、そのお妃きさきが、酒さか盃ずきをお取りになり、立ち寄り捧げて、お歌いになつた歌、
ヤチホコの神かみ樣さま、
わたくしの大おお國くに主ぬし樣さま。
あなたこそ男ですから
つている岬みさ々きみさきに
つている埼さきごとに
若草のような方をお持ちになりましよう。
わたくしは女おんなのことですから
あなた以外に男は無く
あなた以外に夫おつとはございません。
ふわりと垂たれた織おり物ものの下で、
暖あたたかい衾ふすまの柔やわらかい下したで、
白しろい衾ふすまのさやさやと鳴なる下したで、
泡あわ雪ゆきのような若々しい胸を
コウゾの綱のような白い腕で、
そつと叩いて手をさしかわし
玉のような手をして
足をのばしてお休み遊ばせ。
おいしいお酒さけをお上あがり遊あそばせ。
そこで
――出雲系の、ある豪族の家系を語るもののようである。――
この大國主の神が、※むな形かた﹇#﹁匈/︵胃−田︶﹂、U+80F7、230-14﹈の沖つ宮においでになるタギリ姫の命と結婚して生んだ子はアヂスキタカヒコネの神、次にタカ姫の命、またの名はシタテル姫の命であります。このアヂスキタカヒコネの神は、今カモの大御神と申す神樣であります。
大國主の神が、またカムヤタテ姫の命と結婚して生んだ子は、コトシロヌシの神です。またヤシマムチの神の女むすめのトリトリの神と結婚して生んだ子は、トリナルミの神です。この神がヒナテリヌカダビチヲイコチニの神と結婚して生んだ子は、クニオシトミの神です。この神がアシナダカの神、またの名はヤガハエ姫と結婚して生んだ子は、ツラミカノタケサハヤヂヌミの神です。この神がアメノミカヌシの神の女のサキタマ姫と結婚して生んだ子は、ミカヌシ彦の神です。この神がオカミの神の女のヒナラシ姫と結婚して生んだ子は、タヒリキシマミの神です。この神がヒヒラギのソノハナマヅミの神の女のイクタマサキタマ姫の神と結婚して生んだ子は、ミロナミの神です。この神がシキヤマヌシの神の女のアヲヌマヌオシ姫と結婚して生んだ子は、ヌノオシトミトリナルミの神です。この神がワカヒルメの神と結婚して生んだ子は、アメノヒバラオホシナドミの神です。この神がアメノサギリの神の女のトホツマチネの神と結婚して生んだ子は、トホツヤマザキタラシの神です。
以上ヤシマジヌミの神からトホツヤマザキタラシの神までを十七代の神と申します。
――オホアナムチの命としばしば竝んで語られるスクナビコナの神は、農民の間に語り傳えられた神で、ここでは蔓芋の種の擬人化として語られている。――
そこで大國主の命が出いず雲もの御み大ほの御みさ埼きにおいでになつた時に、波なみの上うえを蔓つる芋いものさやを割わつて船にして蛾がの皮をそつくり剥はいで著きも物のにして寄よつて來る神樣があります。その名を聞きましたけれども答えません。また御お從と者もの神たちにお尋ねになつたけれども皆知りませんでした。ところがひきがえるが言いうことには、﹁これはクエ彦がきつと知つているでしよう﹂と申しましたから、そのクエ彦を呼んでお尋ねになると、﹁これはカムムスビの神の御み子こでスクナビコナの神です﹂と申しました。依つてカムムスビの神に申し上げたところ、﹁ほんとにわたしの子だ。子どもの中でもわたしの手の股またからこぼれて落ちた子どもです。あなたアシハラシコヲの命と兄弟となつてこの國を作り堅めなさい﹂と仰せられました。それでそれから大國主とスクナビコナとお二人が竝んでこの國を作り堅めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡つて行つてしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田の案か山か子しのことです。この神は足は歩あるきませんが、天下のことをすつかり知つている神樣です。
――大和の三輪山にある大神 神社の鎭坐の縁起である。――
そこで大國主の命が心憂く思つて仰せられたことは、﹁わたしはひとりではどのようにしてこの國を作り得ましよう。どの神樣と一緒にわたしはこの國を作りましようか﹂と仰せられました。この時に海上を照らして寄つて來る神樣があります。その神の仰せられることには、﹁わたしに對してよくお祭をしたら、わたしが一緒になつて國を作りましよう。そうしなければ國はできにくいでしよう﹂と仰せられました。そこで大國主の命が申されたことには、﹁それならどのようにしてお祭を致しましよう﹂と申されましたら、﹁わたしを大和の國の青々と取り圍んでいる東の山の上にお祭りなさい﹂と仰せられました。これは御みも諸ろの山においでになる神樣です。
――前に出たスサノヲの命の系譜の中の大年の神の系譜で、一年中の耕作の經過を系譜化したものである。耕作に關する祭の詞から拔け出したものと見られる。――
オホトシの神が、カムイクスビの神の女のイノ姫と結婚して生んだ子は、オホクニミタマの神、次にカラの神、次にソホリの神、次にシラヒの神、次にヒジリの神の五神です。またカグヨ姫と結婚して生んだ子は、オホカグヤマトミの神、次にミトシの神の二神です。またアメシルカルミヅ姫と結婚して生んだ子はオキツ彦の神、次にオキツ姫の命、またの名はオホヘ姫の神です。これは皆樣の祭つている竈かまどの神であります。次にオホヤマクヒの神、またの名はスヱノオホヌシの神です。これは近江の國の比ひえ叡いざ山んにおいでになり、またカヅノの松の尾においでになる鏑かぶ矢らやをお持ちになつている神樣であります。次にニハツヒの神、次にアスハの神、次にハヒキの神、次にカグヤマトミの神、次にハヤマトの神、次にニハノタカツヒの神、次にオホツチの神、またの名はツチノミオヤの神の九神です。
以上オホトシの神の子のオホクニミタマの神からオホツチの神まで合わせて十六神です。
さてハヤマトの神が、オホゲツ姫の神と結婚して生んだ子は、ワカヤマクヒの神、次にワカトシの神、次に女神のワカサナメの神、次にミヅマキの神、次にナツノタカツヒの神、またの名はナツノメの神、次にアキ姫の神、次にククトシの神、次にククキワカムロツナネの神です。
以上ハヤマトの神の子のワカヤマクヒの神からワカムロツナネの神まで合わせて八神です。
五、天照らす大神と大國主の命
――天若日子に關する部分は、語部などによつて語られた物語の插入。――
天照らす大神のお言葉で、﹁葦あし原はらの水みず穗ほの國くには我わが御み子このマサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミの命のお治め遊あそばすべき國である﹂と仰せられて、天からお降くだしになりました。そこでオシホミミの命が天からの階段にお立ちになつて御ごら覽んになり、﹁葦原の水穗の國はひどくさわいでいる﹂と仰せられて、またお還りになつて天照らす大神に申されました。そこでタカミムスビの神、天照らす大神の御命令で天のヤスの河の河原に多くの神をお集めになつて、オモヒガネの神に思わしめて仰せになつたことには、﹁この葦原の中心の國はわたしの御み子この治むべき國と定めた國である。それだのにこの國に暴威を振う亂暴な土どち著やくの神が多くあると思われるが、どの神を遣つかわしてこれを平定すべきであろうか﹂と仰せになりました。そこでオモヒガネの神及び多くの神たちが相談して、﹁ホヒの神を遣やつたらよろしいでございましよう﹂と申しました。そこでホヒの神を遣つかわしたところ、この神は大國主の命に諂へつらい著ついて三年たつても御返事申し上げませんでした。このような次第でタカミムスビの神天照らす大神がまた多くの神たちにお尋ねになつて、﹁葦原の中心の國に遣つかわしたホヒの神が久しく返事をしないが、またどの神を遣つたらよいだろうか﹂と仰せられました。そこでオモヒガネの神が申されるには、﹁アマツクニダマの神の子の天あめ若わか日ひ子こを遣やりましよう﹂と申しました。そこでりつぱな弓ゆみ矢やを天あめ若わか日ひ子こに賜わつて遣つかわしました。しかるに天若日子はその國に降りついて大國主の命の女むすめの下した照てる姫ひめを妻とし、またその國を獲ようと思つて、八年たつても御返事申し上げませんでした。
そこで天照らす大神、タカミムスビの神が大勢の神にお尋ねになつたのには、﹁天若日子が久しく返事をしないが、どの神を遣して天若日子の留まつている仔細を尋ねさせようか﹂とお尋ねになりました。そこで大勢の神たちまたオモヒガネの神が申しますには、﹁キジの名なな鳴き女めを遣やりましよう﹂と申しました。そこでそのキジに、﹁お前が行いつて天若日子に尋ねるには、あなたを葦原の中心の國に遣したわけはその國の亂暴な神たちを平定せよというためです。何故に八年たつても御返事申し上げないのかと問え﹂と仰せられました。そこでキジの鳴なき女めが天から降つて來て、天若日子の門にある貴い桂かつらの木の上にいて詳しく天の神の仰せの通りに言いました。ここに天の探さぐ女めという女がいて、このキジの言うことを聞いて天若日子に﹁この鳥は鳴く聲がよくありませんから射殺しておしまいなさい﹂と勸めましたから、天若日子は天の神の下さつたりつぱな弓矢をもつてそのキジを射殺しました。ところがその矢がキジの胸から通りぬけて逆樣に射上げられて天のヤスの河の河原においでになる天照らす大神高たか木ぎの神の御おん許もとに到りました。この高木の神というのはタカミムスビの神の別の名です。その高木の神が弓矢を取つて御覽になると矢の羽に血がついております。そこで高木の神が﹁この矢は天若日子に與えた矢である﹂と仰せになつて、多くの神たちに見せて仰せられるには、﹁もし天若日子が命令通りに亂暴な神を射た矢が來たのなら、天若日子に當ることなかれ。そうでなくてもし不ふと屆どきな心があるなら天若日子はこの矢で死んでしまえ﹂と仰せられて、その矢をお取りになつて、その矢の飛んで來た穴から衝き返してお下しになりましたら、天若日子が朝あさ床どこに寢ている胸の上に當つて死にました。かくしてキジは還つて參りませんから、今でも諺ことわざに﹁行いつたきりのキジのお使﹂というのです。それで天若日子の妻、下した照てる姫のお泣きになる聲が風のまにまに響いて天に聞えました。そこで天にいた天若日子の父のアマツクニダマの神、また天若日子のもとの妻子たちが聞いて、下りて來て泣き悲しんで、そこに葬式の家を作つて、ガンを死人の食物を持つ役とし、サギを箒ほうきを持つ役とし、カワセミを御料理人とし、スズメを碓うすを舂つく女とし、キジを泣く役の女として、かように定めて八日八夜というもの遊んでさわぎました。
この時アヂシキタカヒコネの神がおいでになつて、天若日子の亡なくなつたのを弔問される時に、天から降つて來た天若日子の父や妻が皆泣いて、﹁わたしの子は死ななかつた﹂﹁わたしの夫おつとは死ななかつたのだ﹂と言つて手足に取りすがつて泣き悲しみました。かように間違えた次第はこの御二方の神のお姿が非常によく似ていたからです。それで間違えたのでした。ここにアヂシキタカヒコネの神が非常に怒つて言われるには、﹁わたしは親友だから弔問に來たのだ。何だつてわたしを穢きたない死人に比くらべるのか﹂と言つて、お佩はきになつている長い劒を拔いてその葬式の家を切り伏せ、足で蹴飛とばしてしまいました。それは美濃の國のアヰミ河の河上の喪もや山まという山になりました。その持つて切きつた大た刀ちの名はオホバカリといい、またカンドの劒ともいいます。そこでアヂシキタカヒコネの神が怒つて飛び去つた時に、その妹の下照る姫が兄君のお名前を顯そうと思つて歌つた歌は、
天の世界の若わかい織おり姫ひめの
首くびに懸けている珠たまの飾かざり、
その珠の飾りの大きい珠のような方、
谷たに二ふたつ一度にお渡りになる
アヂシキタカヒコネの神でございます。
と歌いました。この歌は夷ひな振ぶりです。
――出雲の神が、託宣によつて國を讓つたことを語る。出雲大社の鎭坐縁起を、政治的に解釋したものと考えられる。――
かように天若日子もだめだつたので、天照らす大神の仰せになるには、﹁またどの神を遣したらよかろう﹂と仰せになりました。そこでオモヒガネの神また多くの神たちの申されるには、﹁天のヤス河の河上の天の石いわ屋やにおいでになるアメノヲハバリの神がよろしいでしよう。もしこの神でなくば、その神の子のタケミカヅチの神を遣すべきでしよう。ヲハバリの神はヤスの河の水を逆さか樣さまに塞せきあげて道を塞いでおりますから、他の神では行かれますまい。特にアメノカクの神を遣してヲハバリの神に尋ねさせなければなりますまい﹂と申しました。依つてカクの神を遣して尋ねた時に、﹁謹しんでお仕え申しましよう。しかしわたくしの子のタケミカヅチの神を遣しましよう﹂と申して奉りました。そこでアメノトリフネの神をタケミカヅチの神に副えて遣されました。
そこでこのお二方の神が出雲の國のイザサの小おは濱まに降りついて、長い劒を拔いて波の上に逆樣に刺さし立てて、その劒のきつさきに安あぐ座らをかいて大國主の命にお尋ねになるには、﹁天照らす大神、高木の神の仰せ言で問の使に來ました。あなたの領している葦原の中心の國は我が御子の治むべき國であると御命令がありました。あなたの心はどうですか﹂とお尋ねになりましたから、答えて申しますには﹁わたくしは何とも申しません。わたくしの子のコトシロヌシの神が御返事申し上ぐべきですが、鳥や魚の獵をしにミホの埼さきに行いつておつてまだ還つて參りません﹂と申しました。依つてアメノトリフネの神を遣してコトシロヌシの神を呼んで來てお尋ねになつた時に、その父の神樣に﹁この國は謹しんで天の神の御子に獻上なさいませ﹂と言つて、その船を踏み傾けて、逆さか樣さまに手をうつて青々とした神ひも籬ろぎを作り成してその中に隱れてお鎭まりになりました。
そこで大國主の命にお尋ねになつたのは、﹁今あなたの子のコトシロヌシの神はかように申しました。また申すべき子がありますか﹂と問われました。そこで大國主の命は﹁またわたくしの子にタケミナカタの神があります。これ以外にはございません﹂と申される時に、タケミナカタの神が大きな石を手の上にさし上げて來て、﹁誰だ、わしの國に來て内緒話をしているのは。さあ、力くらべをしよう。わしが先にその手を掴つかむぞ﹂と言いました。そこでその手を取らせますと、立つている氷のようであり、劒の刃のようでありました。そこで恐れて退いております。今度はタケミナカタの神の手を取ろうと言つてこれを取ると、若いアシを掴むように掴みひしいで、投げうたれたので逃げて行きました。それを追つて信濃の國の諏す訪わの湖みずうみに追い攻めて、殺そうとなさつた時に、タケミナカタの神の申されますには、﹁恐れ多いことです。わたくしをお殺しなさいますな。この地以外には他の土地には參りますまい。またわたくしの父大國主の命の言葉に背きますまい。この葦原の中心の國は天の神の御み子この仰せにまかせて獻上致しましよう﹂と申しました。
そこで更に還つて來てその大國主の命に問われたことには、﹁あなたの子どもコトシロヌシの神・タケミナカタの神お二方は、天の神の御子の仰せに背そむきませんと申しました。あなたの心はどうですか﹂と問いました。そこでお答え申しますには、﹁わたくしの子ども二人の申した通りにわたくしも違いません。この葦原の中心の國は仰せの通り獻上致しましよう。ただわたくしの住所を天の御み子この帝位にお登りになる壯大な御殿の通りに、大磐石に柱を太く立て大空に棟むな木ぎを高くあげてお作り下さるならば、わたくしは所々の隅に隱れておりましよう。またわたくしの子どもの多くの神はコトシロヌシの神を導みちびきとしてお仕え申しましたなら、背そむく神はございますまい﹂と、かように申して出雲の國のタギシの小おは濱まにりつぱな宮殿を造つて、水みな戸との神の子孫のクシヤタマの神を料理役として御馳走をさし上げた時に、咒言を唱えてクシヤタマの神が鵜うになつて海底に入つて、底の埴はに土つちを咋くわえ出て澤山の神聖なお皿を作つて、また海草の幹みきを刈り取つて來て燧ひう臼ちうすと燧ひう杵ちきねを作つて、これを擦すつて火をつくり出して唱とな言えごとを申したことは、﹁今わたくしの作る火は大空高くカムムスビの命の富み榮える新しい宮居の煤すすの長く垂たれ下さがるように燒たき上あげ、地の下は底の巖に堅く燒き固まらして、コウゾの長い綱を延ばして釣をする海あ人まの釣り上げた大きな鱸すずきをさらさらと引き寄せあげて、机つくえもたわむまでにりつぱなお料理を獻上致しましよう﹂と申しました。かくしてタケミカヅチの神が天に還つて上つて葦原の中心の國を平定した有樣を申し上げました。
六、ニニギの命
――本來は、祭の庭に神の降下することを説くものと解せられるが、政治的に解釋されており、諸氏の傳來の複合した形になつている。――
そこで天照らす大神、高木の神のお言葉で、太子オシホミミの命に仰せになるには、﹁今葦原の中心の國は平定し終つたと申すことである。それ故、申しつけた通りに降つて行つてお治めなされるがよい﹂と仰おおせになりました。そこで太子オシホミミの命が仰せになるには、﹁わたくしは降おりようとして支した度くをしております間あいだに子が生まれました。名はアメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギの命と申します。この子を降したいと思います﹂と申しました。この御み子こはオシホミミの命が高木の神の女むすめヨロヅハタトヨアキツシ姫の命と結婚されてお生うみになつた子がアメノホアカリの命・ヒコホノニニギの命のお二方なのでした。かようなわけで申されたままにヒコホノニニギの命に仰せ言があつて、﹁この葦原の水穗の國はあなたの治むべき國であると命令するのである。依よつて命令の通りにお降りなさい﹂と仰せられました。
ここにヒコホノニニギの命が天からお降くだりになろうとする時に、道の眞まん中なかにいて上は天を照てらし、下したは葦原の中心の國を照らす神がおります。そこで天照らす大神・高木の神の御命令で、アメノウズメの神に仰せられるには、﹁あなたは女ではあるが出會つた神に向き合つて勝つ神である。だからあなたが往つて尋ねることは、我が御み子このお降くだりなろうとする道をかようにしているのは誰であるかと問え﹂と仰せになりました。そこで問われる時に答え申されるには、﹁わたくしは國の神でサルタ彦の神という者です。天の神の御み子こがお降りになると聞きましたので、御みま前えにお仕え申そうとして出迎えております﹂と申しました。
かくてアメノコヤネの命・フトダマの命・アメノウズメの命・イシコリドメの命・タマノオヤの命、合わせて五部族の神を副えて天から降らせ申しました。この時に先さきに天あめの石いわ戸との前で天照らす大神をお迎えした大きな勾まが玉たま、鏡また草くさ薙なぎの劒、及びオモヒガネの神・タヂカラヲの神・アメノイハトワケの神をお副そえになつて仰せになるには、﹁この鏡こそはもつぱらわたしの魂たましいとして、わたしの前を祭るようにお祭り申し上げよ。次つぎにオモヒガネの神はわたしの御み子この治められる種いろ々いろのことを取り扱つてお仕え申せ﹂と仰せられました。この二神は伊勢神宮にお祭り申し上げております。なお伊勢神宮の外げく宮うにはトヨウケの神を祭つてあります。次にアメノイハトワケの神はまたの名はクシイハマドの神、またトヨイハマドの神といい、この神は御門の神です。タヂカラヲの神はサナの地においでになります。このアメノコヤネの命は中なか臣とみの連むら等じらの祖先、フトダマの命は忌いみ部べの首おび等とらの祖先、ウズメの命は猿さる女めの君きみ等らの祖先、イシコリドメの命は鏡かが作みつくりの連等の祖先、タマノオヤの命は玉たま祖のおやの連等の祖先であります。
――前にあつたウズメの命がサルタ彦の神を見顯す神話に接續するものである。猿女の君の系統の傳來で、もと遊離していたものを取り入れたのであろう。――
そこでアマツヒコホノニニギの命に仰せになつて、天上の御座を離れ、八や重え立つ雲を押し分けて勢いよく道を押し分け、天からの階段によつて、下の世界に浮うき洲すがあり、それにお立たちになつて、遂ついに筑つく紫しの東とう方ほうなる高たか千ち穗ほの尊い峰にお降くだり申さしめました。ここにアメノオシヒの命とアマツクメの命と二人が石の靫ゆきを負い、頭あたまが瘤こぶになつている大た刀ちを佩はいて、強い弓を持ち立派な矢を挾んで、御みま前えに立つてお仕え申しました。このアメノオシヒの命は大おお伴ともの連むら等じらの祖先、アマツクメの命は久く米めの直あた等えらの祖先であります。
ここに仰せになるには﹁この處は海外に向つて、カササの御みさ埼きに行ゆき通つて、朝日の照り輝かがやく國、夕日の輝かがやく國である。此處こそはたいへん吉い處ところである﹂と仰せられて、地の下したの石いわ根ねに宮柱を壯そう大だいに立て、天上に千ち木ぎを高く上げて宮殿を御造營遊ばされました。
ここにアメノウズメの命に仰せられるには、﹁この御前に立つてお仕え申し上げたサルタ彦の大神を、顯し申し上げたあなたがお送り申せ。またその神のお名前はあなたが受けてお仕え申せ﹂と仰せられました。この故に猿さる女めの君等はそのサルタ彦の男神の名を繼いで女を猿女の君というのです。そのサルタ彦の神はアザカにおいでになつた時に、漁すなどりをしてヒラブ貝に手を咋くい合わされて海水に溺れました。その海底に沈んでおられる時の名を底につく御みた魂まと申し、海水につぶつぶと泡が立つ時の名を粒つぶ立たつ御魂と申し、水面に出て泡が開く時の名を泡あわ咲さく御魂と申します。
ウズメの命はサルタ彦の神を送つてから還つて來て、悉く大小樣々の魚どもを集めて、﹁お前たちは天の神の御子にお仕え申し上げるか、どうですか﹂と問う時に、魚どもは皆﹁お仕え申しましよう﹂と申しました中に、海なま鼠こだけが申しませんでした。そこでウズメの命が海鼠に言うには、﹁この口は返事をしない口か﹂と言つて小かた刀なでその口を裂さきました。それで今でも海鼠の口は裂けております。かようの次第で、御み世よごとに志し摩まの國から魚類の貢みつ物ぎものを獻たてまつる時に猿女の君等に下くだされるのです。
――人名に對する信仰が語られ、また古代の婚姻の風習から生じ易い疑惑の解決法が語られる。――
さてヒコホノニニギの命は、カササの御みさ埼きで美しい孃おと子めにお遇いになつて、﹁どなたの女むす子めごですか﹂とお尋ねになりました。そこで﹁わたくしはオホヤマツミの神の女むすめの木この花の咲さくや姫です﹂と申しました。また﹁兄弟がありますか﹂とお尋ねになつたところ、﹁姉に石いわ長なが姫ひめがあります﹂と申し上げました。依つて仰せられるには、﹁あなたと結けつ婚こんをしたいと思うが、どうですか﹂と仰せられますと、﹁わたくしは何とも申し上げられません。父のオホヤマツミの神が申し上げるでしよう﹂と申しました。依つてその父オホヤマツミの神にお求めになると、非常に喜んで姉の石いわ長なが姫ひめを副えて、澤山の獻上物を持たせて奉たてまつりました。ところがその姉は大變醜かつたので恐れて返し送つて、妹の木の花の咲くや姫だけを留とめて一夜お寢やすみになりました。しかるにオホヤマツミの神は石長姫をお返し遊ばされたのによつて、非常に恥じて申し送られたことは、﹁わたくしが二人を竝べて奉つたわけは、石長姫をお使いになると、天の神の御み子この御壽命は雪が降り風が吹いても永久に石のように堅實においでになるであろう。また木の花の咲くや姫をお使いになれば、木の花の榮えるように榮えるであろうと誓言をたてて奉りました。しかるに今石長姫を返して木の花の咲くや姫を一人お留めなすつたから、天の神の御子の御壽命は、木の花のようにもろくおいでなさることでしよう﹂と申しました。こういう次第で、今日に至るまで天皇の御壽命が長くないのです。
かくして後に木の花の咲くや姫が參り出て申すには、﹁わたくしは姙にん娠しんしまして、今子を産む時になりました。これは天の神の御子ですから、勝手にお生み申し上あぐべきではございません。そこでこの事を申し上げます﹂と申されました。そこで命が仰せになつて言うには、﹁咲くや姫よ、一夜で姙はらんだと言うが、國の神の子ではないか﹂と仰せになつたから、﹁わたくしの姙んでいる子が國の神の子ならば、生む時に無事でないでしよう。もし天の神の御子でありましたら、無事でありましよう﹂と申して、戸口の無い大きな家を作つてその家の中におはいりになり、粘ねば土つちですつかり塗りふさいで、お生みになる時に當つてその家に火をつけてお生みになりました。その火が眞まつ盛さかりに燃える時にお生まれになつた御子はホデリの命で、これは隼はや人と等らの祖先です。次にお生まれになつた御子はホスセリの命、次にお生まれになつた御子はホヲリの命、またの名はアマツヒコヒコホホデミの命でございます。
七、ヒコホホデミの命
――西方の海岸地帶に傳わつた海神の宮訪問の神話で、異郷説話の一つである。政治的な意味として隼人の服從が語られている。――
ニニギの命の御子のうち、ホデリの命は海うみ幸さち彦びことして、海のさまざまの魚をお取りになり、ホヲリの命は山幸彦として山に住む鳥獸の類をお取りになりました。ところでホヲリの命が兄君ホデリの命に、﹁お互に道えも具のを取り易かえて使つて見よう﹂と言つて、三度乞われたけれども承知しませんでした。しかし最後にようやく取り易えることを承諾しました。そこでホヲリの命が釣道具を持つて魚をお釣りになるのに、遂に一つも得られません。その鉤はりまでも海に失つてしまいました。ここにその兄のホデリの命がその鉤を乞うて、﹁山やま幸さちも自分の幸さちだ。海うみ幸さちも自分の幸さちだ。やはりお互に幸さちを返そう﹂と言う時に、弟のホヲリの命が仰せられるには、﹁あなたの鉤は魚を釣りましたが、一つも得られないで遂に海でなくしてしまいました﹂と仰せられますけれども、なおしいて乞い徴はたりました。そこで弟がお佩びになつている長い劒を破つて、五百の鉤を作つて償つぐなわれるけれども取りません。また千の鉤を作つて償われるけれども受けないで、﹁やはりもとの鉤をよこせ﹂と言いました。
そこでその弟が海邊に出て泣き患うれえておられた時に、シホツチの神が來て尋ねるには、﹁貴い御みこ子さ樣まの御心配なすつていらつしやるのはどういうわけですか﹂と問いますと、答えられるには、﹁わたしは兄と鉤を易えて鉤をなくしました。しかるに鉤を求めますから多くの鉤を償つぐないましたけれども受けないで、もとの鉤をよこせと言います。それで泣き悲しむのです﹂と仰せられました。そこでシホツチの神が﹁わたくしが今あなたのために謀はかりごとをらしましよう﹂と言つて、隙すき間まの無い籠の小船を造つて、その船にお乘せ申し上げて教えて言うには、﹁わたしがその船を押し流しますから、すこしいらつしやい。道みちがありますから、その道の通りにおいでになると、魚の鱗うろこのように造つてある宮があります。それが海神の宮です。その御ごも門んの處においでになると、傍そばの井の上にりつぱな桂の木がありましよう。その木の上においでになると、海神の女が見て何とか致しましよう﹂と、お教え申し上げました。
依よつて教えた通り、すこしおいでになりましたところ、すべて言つた通りでしたから、その桂の木に登つておいでになりました。ここに海神の女むすめのトヨタマ姫の侍女が玉の器を持つて、水を汲くもうとする時に、井に光がさしました。仰いで見るとりつぱな男がおります。不思議に思つていますと、ホヲリの命が、その侍女に、﹁水を下さい﹂と言われました。侍女がそこで水を汲くんで器に入れてあげました。しかるに水をお飮みにならないで、頸くびにお繋けになつていた珠をお解きになつて口に含んでその器にお吐き入れなさいました。しかるにその珠が器について、女が珠を離すことが出來ませんでしたので、ついたままにトヨタマ姫にさし上げました。そこでトヨタマ姫が珠を見て、女に﹁門の外に人がいますか﹂と尋ねられましたから、﹁井の上の桂の上に人がおいでになります。それは大變りつぱな男でいらつしやいます。王樣にも勝まさつて尊いお方です。その人が水を求めましたので、さし上げましたところ、水をお飮みにならないで、この珠を吐き入れましたが、離せませんので入れたままに持つて來てさし上げたのです﹂と申しました。そこでトヨタマ姫が不思議にお思いになつて、出て見て感心して、そこで顏を見合つて、父に﹁門の前にりつぱな方がおります﹂と申しました。そこで海神が自分で出て見て、﹁これは貴い御子樣だ﹂と言つて、内にお連れ申し上げて、海あじ驢かの皮八枚を敷き、その上に絹きぬの敷物を八枚敷いて、御案内申し上げ、澤山の獻上物を具えて御馳走して、やがてその女トヨタマ姫を差し上げました。そこで三年になるまで、その國に留まりました。
ここにホヲリの命は初めの事をお思いになつて大きな溜息をなさいました。そこでトヨタマ姫がこれをお聞きになつてその父に申しますには、﹁あの方は三年お住みになつていますが、いつもお歎きになることもありませんですのに、今夜大きな溜息を一つなさいましたのは何か仔細がありましようか﹂と申しましたから、その父の神樣が聟の君に問われるには、﹁今朝わたくしの女の語るのを聞けば、三年おいでになるけれどもいつもお歎きになることも無かつたのに、今夜大きな溜息を一つなさいましたと申しました。何かわけがありますか。また此處においでになつた仔細はどういう事ですか﹂とお尋ね申しました。依つてその大神に詳しく、兄が無くなつた鉤はりを請求する有樣を語りました。そこで海の神が海中の魚を大小となく悉く集めて、﹁もしこの鉤を取つた魚があるか﹂と問いました。ところがその多くの魚どもが申しますには、﹁この頃鯛たいが喉のどに骨をたてて物が食えないと言つております。きつとこれが取つたのでしよう﹂と申しました。そこで鯛の喉を探りましたところ、鉤があります。そこで取り出して洗つてホヲリの命に獻りました時に、海神がお教え申し上げて言うのに、﹁この鉤を兄樣にあげる時には、この鉤は貧びん乏ぼう鉤ばりの悲しみ鉤ばりだと言つて、うしろ向きにおあげなさい。そして兄樣が高い所に田を作つたら、あなたは低い所に田をお作りなさい。兄樣が低い所に田を作つたら、あなたは高い所に田をお作りなさい。そうなすつたらわたくしが水を掌つかさどつておりますから、三年の間にきつと兄樣が貧しくなるでしよう。もしこのようなことを恨んで攻め戰つたら、潮しおの滿みちる珠を出して溺らせ、もし大變にあやまつて來たら、潮しおの乾ひる珠を出して生かし、こうしてお苦しめなさい﹂と申して、潮の滿ちる珠潮の乾る珠、合わせて二つをお授け申し上げて、悉く鰐わにどもを呼び集め尋ねて言うには、﹁今天の神の御子の日ひの御みこ子さ樣まが上の國においでになろうとするのだが、お前たちは幾日にお送り申し上げて御返事するか﹂と尋ねました。そこでそれぞれに自分の身の長さのままに日數を限つて申す中に、一丈の鰐わにが﹁わたくしが一日にお送り申し上げて還つて參りましよう﹂と申しました。依つてその一丈の鰐に﹁それならばお前がお送り申し上げよ。海中を渡る時にこわがらせ申すな﹂と言つて、その鰐の頸にお乘せ申し上げて送り出しました。はたして約束通り一日にお送り申し上げました。その鰐が還ろうとした時に、紐の附いている小刀をお解きになつて、その鰐の頸につけてお返しになりました。そこでその一丈の鰐をば、今でもサヒモチの神と言つております。
かくして悉く海神の教えた通りにして鉤を返されました。そこでこれよりいよいよ貧しくなつて更に荒い心を起して攻めて來ます。攻めようとする時は潮の盈ちる珠を出して溺らせ、あやまつてくる時は潮の乾る珠を出して救い、苦しめました時に、おじぎをして言うには、﹁わたくしは今から後、あなた樣の晝夜の護衞兵となつてお仕え申し上げましよう﹂と申しました。そこで今に至るまで隼はや人とはその溺れた時のしわざを演じてお仕え申し上げるのです。
――前の説話の續きで、男が禁止を破ることによつて、別離になることを語る。この種の説話の常型である。――
ここに海神の女、トヨタマ姫の命が御自身で出ておいでになつて申しますには、﹁わたくしは以前から姙にん娠しんしておりますが、今御子を産むべき時になりました。これを思うに天の神の御子を海中でお生うみ申し上ぐべきではございませんから出て參りました﹂と申し上げました。そこでその海邊の波なぎ際さに鵜うの羽を屋根にして産室を造りましたが、その産室がまだ葺き終らないのに、御子が生まれそうになりましたから、産室におはいりになりました。その時夫の君に申されて言うには﹁すべて他國の者は子を産む時になれば、その本國の形になつて産むのです。それでわたくしももとの身になつて産もうと思いますが、わたくしを御覽遊ばしますな﹂と申されました。ところがその言葉を不思議に思われて、今盛んに子をお産みになる最さい中ちゆうに覗のぞいて御覽になると、八丈もある長い鰐になつて匐はいのたくつておりました。そこで畏れ驚いて遁げ退きなさいました。しかるにトヨタマ姫の命は窺のぞ見きみなさつた事をお知りになつて、恥かしい事にお思いになつて御子を産み置いて﹁わたくしは常に海の道を通つて通かよおうと思つておりましたが、わたくしの形を覗のぞいて御覽になつたのは恥かしいことです﹂と申して、海の道をふさいで歸つておしまいになりました。そこでお産うまれになつた御子の名をアマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命と申し上げます。しかしながら後には窺のぞ見きみなさつた御心を恨みながらも戀しさにお堪えなさらないで、その御子を御養育申し上げるために、その妹のタマヨリ姫を差しあげ、それに附けて歌を差しあげました。その歌は、
赤い玉は緒おまでも光りますが、
白玉のような君のお姿は
貴たつといことです。
そこでその夫の君がお答えなさいました歌は、
水みず鳥とりの鴨かもが降おり著つく島で
契ちぎりを結んだ私の妻は忘れられない。
世の終りまでも。
このヒコホホデミの命は高千穗の宮に五百八十年おいでなさいました。御ごり陵ようはその高千穗の山の西にあります。
アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命は、叔母のタマヨリ姫と結婚してお生みになつた御子の名は、イツセの命・イナヒの命・ミケヌの命・ワカミケヌの命、またの名はトヨミケヌの命、またの名はカムヤマトイハレ彦の命の四人です。ミケヌの命は波の高みを蹈んで海外の國へとお渡りになり、イナヒの命は母の國として海原におはいりになりました。
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古事記 中の卷
一、神武天皇
――日向から發して大和にはいろうとして失敗することを語る。速吸の門の物語の位置が地理の實際と合わないのは、諸氏の傳來の合併だからである。――
カムヤマトイハレ彦の命︵神武天皇︶、兄君のイツセの命とお二方、筑紫の高千穗の宮においでになつて御相談なさいますには、﹁何處の地におつたならば天下を泰平にすることができるであろうか。やはりもつと東に行こうと思う﹂と仰せられて、日向の國からお出になつて九州の北方においでになりました。そこで豐ぶん後ごのウサにおいでになりました時に、その國の人のウサツ彦・ウサツ姫という二人が足一つ騰あがりの宮を作つて、御馳走を致しました。其處からお遷りになつて、筑前の岡田の宮に一年おいでになり、また其處からお上りになつて安藝のタケリの宮に七年おいでになりました。またその國からお遷りになつて、備びん後ごの高島の宮に八年おいでになりました。
その國から上のぼつておいでになる時に、龜の甲こうに乘つて釣をしながら勢いよく身から體だを振ふつて來る人に速はや吸すいの海かい峽きようで遇いました。そこで呼び寄せて、﹁お前は誰か﹂とお尋ねになりますと、﹁わたくしはこの土地にいる神です﹂と申しました。また﹁お前は海の道を知つているか﹂とお尋ねになりますと﹁よく知つております﹂と申しました。また﹁供をして來るか﹂と問いましたところ、﹁お仕え致しましよう﹂と申しました。そこで棹さおをさし渡して御船に引き入れて、サヲネツ彦という名を下さいました。
その國から上つておいでになる時に、難なに波わの灣わんを經て河内の白肩の津に船をお泊とめになりました。この時に、大和の國のトミに住んでいるナガスネ彦が軍を起して待ち向つて戰いましたから、御船に入れてある楯を取つて下り立たれました。そこでその土地を名づけて楯津と言います。今でも日くさ下かの蓼たで津つと言いつております。かくてナガスネ彦と戰われた時に、イツセの命が御手にナガスネ彦の矢の傷をお負いになりました。そこで仰せられるのには﹁自分は日の神の御子として、日に向つて戰うのはよろしくない。そこで賤しい奴の傷を負つたのだ。今からつて行つて日を背中にして撃とう﹂と仰せられて、南の方からつておいでになる時に、和いず泉みの國のチヌの海に至つてその御手の血をお洗いになりました。そこでチヌの海とは言うのです。其處からつておいでになつて、紀き伊いの國のヲの水みな門とにおいでになつて仰せられるには、﹁賤しい奴のために手傷を負つて死ぬのは殘念である﹂と叫ばれてお隱れになりました。それで其處をヲの水みな門とと言います。御陵は紀伊の國の竈かま山やまにあります。
――神話の要素の多い部分で、神話の成立過程も窺われる。――
カムヤマトイハレ彦の命は、その土地からつておいでになつて、熊野においでになつた時に、大きな熊がぼうつと現れて、消えてしまいました。ここにカムヤマトイハレ彦の命は俄に氣を失われ、兵士どもも皆氣を失つて仆れてしまいました。この時熊野のタカクラジという者が一つの大刀をもつて天の神の御子の臥しておいでになる處に來て奉る時に、お寤さめになつて、﹁隨分寢たことだつた﹂と仰せられました。その大刀をお受け取りなさいました時に、熊野の山の惡い神たちが自然に皆切り仆されて、かの正氣を失つた軍隊が悉く寤さめました。そこで天の神の御子がその大刀を獲た仔細をお尋ねになりましたから、タカクラジがお答え申し上げるには、﹁わたくしの夢に、天照らす大神と高木の神のお二方の御命令で、タケミカヅチの神を召して、葦原の中心の國はひどく騷いでいる。わたしの御み子こたちは困つていらつしやるらしい。あの葦原の中心の國はもつぱらあなたが平定した國である。だからお前タケミカヅチの神、降つて行けと仰せになりました。そこでタケミカヅチの神がお答え申し上げるには、わたくしが降りませんでも、その時に國を平定した大刀がありますから、これを降しましよう。この大刀を降す方法は、タカクラジの倉の屋根に穴をあけて其處から墮し入れましようと申しました。そこでわたくしに、お前は朝目が寤さめたら、この大刀を取つて天の神の御子に奉れとお教えなさいました。そこで夢の教えのままに、朝早く倉を見ますとほんとうに大刀がありました。依つてこの大刀を奉るのです﹂と申しました。この大刀の名はサジフツの神、またの名はミカフツの神、またの名はフツノミタマと言います。今石いそ上のかみ神宮にあります。
ここにまた高木の神の御命令でお教えになるには、﹁天の神の御子よ、これより奧にはおはいりなさいますな。惡い神が澤山おります。今天から八やた咫がら烏すをよこしましよう。その八咫烏が導きするでしようから、その後よりおいでなさい﹂とお教え申しました。はたして、その御教えの通り八咫烏の後からおいでになりますと、吉野河の下流に到りました。時に河に筌うえを入いれて魚を取る人があります。そこで天の神の御子が﹁お前は誰ですか﹂とお尋ねになると、﹁わたくしはこの土地にいる神で、ニヘモツノコであります﹂と申しました。これは阿陀の鵜飼の祖先です。それからおいでになると、尾のある人が井から出て來ました。その井は光つております。﹁お前は誰ですか﹂とお尋ねになりますと、﹁わたくしはこの土地にいる神、名はヰヒカと申します﹂と申しました。これは吉野の首おび等とらの祖先です。そこでその山におはいりになりますと、また尾のある人に遇いました。この人は巖を押し分けて出てきます。﹁お前は誰ですか﹂とお尋ねになりますと、﹁わたくしはこの土地にいる神で、イハオシワクであります。今天の神の御子がおいでになりますと聞きましたから、參り出て來ました﹂と申しました。これは吉野の國く栖ずの祖先です。それから山坂を蹈み穿うがつて越えてウダにおいでになりました。依つて宇う陀だのウガチと言います。
――幾首かの久米歌に結びついている物語である。――
この時に宇う陀だにエウカシ・オトウカシという二ふた人りがあります。依つてまず八やた咫がら烏すを遣つて、﹁今天の神の御子がおいでになりました。お前方はお仕え申し上げるか﹂と問わしめました。しかるにエウカシは鏑かぶ矢らやを以つてその使を射返しました。その鏑矢の落ちた處をカブラ埼さきと言います。﹁待つて撃とう﹂と言つて軍を集めましたが、集め得ませんでしたから、﹁お仕え申しましよう﹂と僞つて、大殿を作つてその殿の内に仕掛を作つて待ちました時に、オトウカシがまず出て來て、拜して、﹁わたくしの兄のエウカシは、天の神の御子のお使を射返し、待ち攻めようとして兵士を集めましたが集め得ませんので、御殿を作りその内に仕掛を作つて待ち取ろうとしております。それで出て參りましてこのことを申し上げます﹂と申しました。そこで大おお伴ともの連むら等じらの祖そせ先んのミチノオミの命、久く米めの直あた等えらの祖先のオホクメの命二人がエウカシを呼んで罵ののしつて言うには、﹁貴樣が作つてお仕え申し上げる御殿の内には、自分が先に入つてお仕え申そうとする樣をあきらかにせよ﹂と言つて、刀の柄つかを掴つかみ矛ほこをさしあて矢をつがえて追い入れる時に、自分の張つて置いた仕掛に打たれて死にました。そこで引き出して、斬り散らしました。その土地を宇う陀だの血ちは原らと言います。そうしてそのオトウカシが獻上した御馳走を悉く軍隊に賜わりました。その時に歌をお詠みになりました。それは、
宇陀の高たか臺だいでシギの網あみを張る。
わたしが待まつているシギは懸からないで
思いも寄らないタカが懸かつた。
古ふる妻づまが食物を乞うたら
ソバノキの實のように少しばかりを削つてやれ。
新しい妻が食物を乞うたら
イチサカキの實のように澤山に削つてやれ。
ええやつつけるぞ。ああよい氣き味みだ。
そのオトウカシは宇陀の水もひ取とり等の祖先です。
次に、忍おさ坂かの大おお室むろにおいでになつた時に、尾のある穴居の人八十人の武士がその室にあつて威い張ばつております。そこで天の神の御子の御命令でお料理を賜わり、八十人の武士に當てて八十人の料理人を用意して、その人毎に大刀を佩はかして、その料理人どもに﹁歌を聞いたならば一緒に立つて武士を斬れ﹂とお教えなさいました。その穴居の人を撃とうとすることを示した歌は、
忍おさ坂かの大きな土つち室むろに
大勢の人が入り込んだ。
よしや大勢の人がはいつていても
威勢のよい久く米めの人々が
瘤こぶ大た刀ちの石いし大た刀ちでもつて
やつつけてしまうぞ。
威勢のよい久米の人々が
瘤大刀の石大刀でもつて
そら今撃つがよいぞ。
かように歌つて、刀を拔いて一時に打ち殺してしまいました。
その後、ナガスネ彦をお撃ちになろうとした時に、お歌いになつた歌は、
威勢のよい久米の人々の
アワの畑はたけには臭いニラが一本ぽん生はえている。
その根ねのもとに、その芽めをくつつけて
やつつけてしまうぞ。
また、
威勢のよい久米の人々の
垣かき本もとに植えたサンシヨウ、
口がひりひりして恨みを忘れかねる。
やつつけてしまうぞ。
また、
神かみ風かぜの吹く伊勢の海の
大きな石に這いつている
細した螺だみのように這いつて
やつつけてしまうぞ。
また、エシキ、オトシキをお撃ちになりました時に、御軍の兵士たちが、少し疲れました。そこでお歌い遊ばされたお歌、
楯たてを竝ならべて射いる、そのイナサの山の
樹この間まから行き見守つて
戰いく爭さをすると腹が減へつた。
島しまにいる鵜うを養かう人々よ
すぐ助けに來てください。
最後にトミのナガスネ彦をお撃うちになりました。時にニギハヤビの命が天の神の御子のもとに參つて申し上げるには、﹁天の神の御子が天からお降りになつたと聞きましたから、後を追つて降つて參りました﹂と申し上げて、天から持つて來た寶物を捧げてお仕え申しました。このニギハヤビの命がナガスネ彦の妹トミヤ姫と結婚して生んだ子がウマシマヂの命で、これが物もの部のべの連・穗積の臣・采うね女めの臣等の祖先です。そこでかようにして亂暴な神たちを平定し、服從しない人どもを追い撥はらつて、畝うね傍びの橿かし原はらの宮において天下をお治めになりました。
――英雄や佳人などを、神が通つて生ませた子だとすることは、崇神天皇の卷にもあり、廣く信じられていたところである。――
はじめ日ひう向がの國においでになつた時に、阿あ多たの小おば椅しの君の妹のアヒラ姫という方と結婚して、タギシミミの命・キスミミの命とお二方の御子がありました。しかし更に皇后となさるべき孃おと子めをお求めになつた時に、オホクメの命の申しますには、﹁神の御子と傳える孃子があります。そのわけは三みし嶋まのミゾクヒの娘むすめのセヤダタラ姫という方が非常に美しかつたので、三み輪わのオホモノヌシの神がこれを見て、その孃子が厠かわやにいる時に、赤く塗つた矢になつてその河を流れて來ました。その孃子が驚いてその矢を持つて來て床の邊ほとりに置きましたところ、たちまちに美しい男になつて、その孃子と結婚して生んだ子がホトタタライススキ姫であります。後にこの方は名をヒメタタライスケヨリ姫と改めました。これはそのホトという事を嫌つて、後に改めたのです。そういう次第で、神の御子と申すのです﹂と申し上げました。
ある時七人の孃子が大和のタカサジ野で遊んでいる時に、このイスケヨリ姫も混まじつていました。そこでオホクメの命が、そのイスケヨリ姫を見て、歌で天皇に申し上げるには、
大和の國のタカサジ野のを
七人行く孃おと子めたち、
その中の誰をお召しになります。
このイスケヨリ姫は、その時に孃子たちの前さきに立つておりました。天皇はその孃子たちを御覽になつて、御心にイスケヨリ姫が一番前さきに立つていることを知られて、お歌でお答えになりますには、
まあまあ一番先に立つている娘こを妻にしましようよ。
ここにオホクメの命が、天皇の仰せをそのイスケヨリ姫に傳えました時に、姫はオホクメの命の眼の裂さけ目めに黥いれずみをしているのを見て不思議に思つて、
天てん地ちか間んの千人にん勝まさりの勇ゆう士しだというに、どうして目めに黥いれずみをしているのです。
と歌いましたから、オホクメの命が答えて歌うには、
お孃さんにすぐに逢おうと思つて目に黥いれずみをしております。
と歌いました。かくてその孃子は﹁お仕え申しあげましよう﹂と申しました。
そのイスケヨリ姫のお家はサヰ河のほとりにありました。この姫のもとにおいでになつて一夜お寢やすみになりました。その河をサヰ河というわけは、河のほとりに山やま百ゆ合り草が澤山ありましたから、その名を取つて名づけたのです。山百合草のもとの名はサヰと言つたのです。後にその姫が宮中に參上した時に、天皇のお詠みになつた歌は、
アシ原のアシの繁つた小屋に
スゲの蓆むしろを清らかに敷いて、
二ふた人りで寢たことだつたね。
かくしてお生まれになつた御子は、ヒコヤヰの命・カムヤヰミミの命・カムヌナカハミミの命のお三方です。
――自分の家の祖先は、天皇の兄に當るのだが、なぜ臣下となつたかということを語る説話。前にも隼人の話はそれであり、後にも例が多い。カムヤヰミミの命の子孫というオホの臣が、古事記の撰者の太の安萬侶の家であることに注意。――
天皇がお隱れになつてから、その庶まま兄あにのタギシミミの命が、皇后のイスケヨリ姫と結婚した時に、三人の弟たちを殺ころそうとして謀はかつたので、母はは君ぎみのイスケヨリ姫が御心配になつて、歌でこの事を御子たちにお知らせになりました。その歌は、
サヰ河の方から雲が立ち起つて、
畝うね傍び山の樹の葉が騷いでいる。
風が吹き出しますよ。
畝傍山は晝は雲が動き、
夕暮になれば風が吹き出そうとして
樹の葉が騷いでいる。
そこで御子たちがお聞きになつて、驚いてタギシミミを殺そうとなさいました時に、カムヌナカハミミの命が、兄君のカムヤヰミミの命に、﹁あなたは武器を持つてはいつてタギシミミをお殺しなさいませ﹂と申しました。そこで武器を持つて殺そうとされた時に、手足が震えて殺すことができませんでした。そこで弟のカムヌナカハミミの命が兄君の持つておられる武器を乞い取つて、はいつてタギシミミを殺しました。そこでまた御み名なを讚たたえてタケヌナカハミミの命と申し上げます。
かくてカムヤヰミミの命が弟のタケヌナカハミミの命に國を讓つて申されるには、﹁わたしは仇を殺すことができません。それをあなたが殺しておしまいになりました。ですからわたしは兄であつても、上にいることはできません。あなたが天皇になつて天下をお治め遊ばせ。わたしはあなたを助けて祭をする人としてお仕え申しましよう﹂と申しました。そこでそのヒコヤヰの命は、茨うま田らたの連むらじ・手島の連の祖先です。カムヤヰミミの命は、意お富おの臣おみ・小ちい子さこ部べの連・坂合部の連・火の君・大おお分きたの君・阿あ蘇その君・筑紫の三みや家けの連・雀さざ部きべの臣・雀部の造みやつこ・小おは長つ谷せの造・都つ祁げの直あたえ・伊い余よの國の造・科しな野のの國の造・道の奧の石いわ城きの國の造・常ひた道ちの仲の國の造・長なが狹さの國の造・伊勢の船ふな木きの直・尾張の丹に羽わの臣・島田の臣等の祖先です。カムヌナカハミミの命は、天下をお治めになりました。すべてこのカムヤマトイハレ彦の天皇は、御おと歳し百三十七歳、御陵は畝傍山の北の方の白か檮しの尾おの上えにあります。
二、綏すい靖せい天皇以後八代
――以下八代は、帝紀の部分だけで、本辭を含んでいない。この項など、帝紀の典型的な例と見られる。――
カムヌナカハミミの命︵綏すい靖せい天てん皇のう︶、大和の國の葛かず城らきの高岡の宮においでになつて天下をお治め遊ばされました。この天皇、シキの縣あが主たぬしの祖先のカハマタ姫と結婚してお生みになつた御子はシキツ彦タマデミの命お一方です。天皇は御年四十五歳、御陵は衝つき田だの岡にあります。
シキツ彦タマデミの命︵安寧天皇︶、大和の片かた鹽しおの浮うき穴あなの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はカハマタ姫の兄の縣あが主たぬしハエの女のアクト姫と結婚してお生みになつた御子は、トコネツ彦イロネの命・オホヤマト彦スキトモの命・シキツ彦の命のお三方です。この天皇の御子たち合わせてお三方の中、オホヤマト彦スキトモの命は、天下をお治めになりました。次にシキツ彦の命の御子がお二方あつて、お一方の子孫は、伊賀の須知の稻いな置き・那な婆は理りの稻置・三野の稻置の祖先です。お一方の御子ワチツミの命は淡路の御み井いの宮においでになり、姫宮がお二方おありになりました。その姉あね君ぎみはハヘイロネ、またの名はオホヤマトクニアレ姫の命、妹君はハヘイロドです。この天皇の御年四十九歳、御陵は畝傍山のミホトにあります。
オホヤマト彦スキトモの命︵懿徳天皇︶、大和の輕かるの境さか岡いおかの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はシキの縣あが主たぬしの祖先フトマワカ姫の命、またの名はイヒヒ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、ミマツ彦カヱシネの命とタギシ彦の命とお二方です。このミマツ彦カヱシネの命は天下をお治めなさいました。次にタギシ彦の命は、血ち沼ぬの別わけ・多た遲じ麻まの竹の別・葦あし井いの稻いな置きの祖先です。天皇は御年四十五歳、御陵は畝傍山のマナゴ谷の上にあります。
ミマツ彦カヱシネの命︵孝昭天皇︶、大和の葛城の掖わき上がみの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は尾おわ張りの連の祖先のオキツヨソの妹ヨソタホ姫の命と結婚してお生みになつた御子はアメオシタラシ彦の命とオホヤマトタラシ彦クニオシビトの命とお二方です。このオホヤマトタラシ彦クニオシビトの命は天下をお治めなさいました。兄のアメオシタラシ彦の命は・﹇#﹁・﹂はママ﹈春日の臣・大おお宅やけの臣・粟田の臣・小野の臣・柿本の臣・壹いち比ひ韋いの臣・大坂の臣・阿那の臣・多た紀きの臣・羽栗の臣・知多の臣・牟む耶ざの臣・都つ怒の山の臣・伊勢の飯高の君・壹師の君・近つ淡海の國の造の祖先です。天皇は御年九十三歳、御陵は掖上の博はか多た山の上にあります。
オホヤマトタラシ彦クニオシビトの命(孝安天皇)、大和の葛城の室の秋津島の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は
オホヤマトネコ彦フトニの命︵孝靈天皇︶、大和の黒田の廬いお戸との宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、トヲチの縣主の祖先のオホメの女のクハシ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、オホヤマトネコ彦クニクルの命お一方です。また春かす日がのチチハヤマワカ姫と結婚してお生みになつた御子は、チチハヤ姫の命お一方です。オホヤマトクニアレ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、ヤマトトモモソ姫の命・ヒコサシカタワケの命・ヒコイサセリ彦の命、またの名はオホキビツ彦の命・ヤマトトビハヤワカヤ姫のお四方です。またそのアレ姫の命の妹ハヘイロドと結婚してお生みになつた御子は、ヒコサメマの命とワカヒコタケキビツ彦の命とお二方です。この天皇の御み子こは合わせて八人にんおいでになりました。男王五人、女王三人です。
そこでオホヤマトネコ彦クニクルの命は天下をお治めなさいました。オホキビツ彦の命とワカタケキビツ彦の命とは、お二方で播はり磨まの氷ひの河かわの埼さきに忌いわ瓮いべを据すえて神かみを祭まつり、播磨からはいつて吉き備びの國を平定されました。このオホキビツ彦の命は、吉備の上の道の臣の祖先です。次にワカヒコタケキビツ彦の命は、吉備の下の道の臣・笠の臣の祖先です。次にヒコサメマの命は、播磨の牛うし鹿かの臣の祖先です。次にヒコサシカタワケの命は、高こ志しの利とな波みの臣・豐國の國前さきの臣・五百原の君・角鹿の濟わたりの直の祖先です。天皇は御年百六歳、御陵は片岡の馬うま坂さかの上にあります。
――タケシウチの宿禰の諸子をあげているのは豪族の祖先だからである。――
オホヤマトネコ彦クニクルの命︵孝元天皇︶、大和の輕の堺さか原いはらの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は穗ほず積みの臣等の祖先のウツシコヲの命の妹のウツシコメの命と結婚してお生みになつた御子は大おお彦びこの命・スクナヒコタケヰココロの命・ワカヤマトネコ彦オホビビの命のお三方です。またウツシコヲの命の女のイカガシコメの命と結婚してお生みになつた御子はヒコフツオシノマコトの命お一方です。また河内のアヲタマの女のハニヤス姫と結婚してお生みになつた御子はタケハニヤス彦の命お一方です。この天皇の御子たち合わせてお五いつ方かたおいでになります。このうちワカヤマトネコ彦オホビビの命は天下をお治めなさいました。その兄、大彦の命の子タケヌナカハワケの命は阿部の臣等の祖先です。次にヒコイナコジワケの命は膳かしわでの臣の祖先です。ヒコフツオシノマコトの命が、尾おわ張りの連の祖先のオホナビの妹の葛かず城らきのタカチナ姫と結婚して生んだ子はウマシウチの宿すく禰ね、これは山やま代しろの内の臣の祖先です。また木の國くにの造みやつこの祖先のウヅ彦の妹のヤマシタカゲ姫と結婚して生んだ子はタケシウチの宿禰です。このタケシウチの宿禰の子は合わせて九人にんあります。男七人女二人です。そのハタノヤシロの宿禰は波多の臣・林の臣・波美の臣・星川の臣・淡海の臣・長谷部の君の祖先です。コセノヲカラの宿禰は許勢の臣・雀部の臣・輕部の臣の祖先です。ソガノイシカハの宿禰は蘇我の臣・川邊の臣・田中の臣・高たか向むくの臣・小おは治り田だの臣・櫻井の臣・岸田の臣等の祖先です。ヘグリノツクの宿すく禰ねは、平群の臣・佐和良の臣・馬の御みくの連等の祖先です。キノツノの宿すく禰ねは、木の臣・都奴の臣・坂本の臣の祖先です。次にクメノマイト姫・ノノイロ姫です。葛かず城らきの長なが江えのソツ彦は、玉手の臣・的いくはの臣・生江の臣・阿あ藝き那なの臣等の祖先です。次に若わく子ごの宿すく禰ねは、江野の財の臣の祖先です。この天皇は御年五十七歳、御ごり陵ようは劒の池の中の岡の上にあります。
ワカヤマトネコ彦オホビビの命︵開化天皇︶、大和の春日のイザ河の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は、丹たん波ばの大おお縣あが主たぬしユゴリの女のタカノ姫と結婚してお生みになつた御子はヒコユムスミの命お一方です。またイカガシコメの命と結婚してお生みになつた御子はミマキイリ彦イニヱの命とミマツ姫の命とのお二方です。また丸わ邇にの臣の祖先のヒコクニオケツの命の妹のオケツ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヒコイマスの王みこお一方です。また葛かず城らきのタルミの宿禰の女のワシ姫と結婚してお生みになつた御子はタケトヨハツラワケの王お一方です。合わせて五人おいでになりました。このうちミマキイリ彦イニヱの命は天下をお治めなさいました。その兄ヒコユムスミの王の御子は、オホツツキタリネの王とサヌキタリネの王とお二方で、この二王の女は五人ありました。次にヒコイマスの王が山やま代しろのエナツ姫、またの名はカリハタトベと結婚して生んだ子はオホマタの王とヲマタの王とシブミの宿禰の王とお三方です。またこの王が春日のタケクニカツトメの女のサホのオホクラミトメと結婚して生んだ子がサホ彦の王・ヲザホの王・サホ姫の命・ムロビコの王のお四方です。サホ姫の命はまたの名はサハヂ姫で、この方はイクメ天皇の皇后樣におなりになりました。また近江の國の御みか上み山の神職がお祭するアメノミカゲの神の女オキナガノミヅヨリ姫と結婚して生んだ子は丹波ノヒコタタスミチノウシの王・ミヅホノマワカの王・カムオホネの王、またの名はヤツリのイリビコの王・ミヅホノイホヨリ姫・ミヰツ姫の五人です。また母の妹オケツ姫と結婚して生んだ子は山代のオホツツキのマワカの王・ヒコオスの王・イリネの王の三人です。すべてヒコイマスの王の御子は合わせて十五人ありました。兄のオホマタの王の子はアケタツの王・ウナガミの王の二人です。このアケタツの王は、伊勢の品ほん遲じ部べ・伊勢の佐那の造の祖先です。ウナガミの王は、比賣陀の君の祖先です。次にヲマタの王は當たぎ麻まの勾まがりの君の祖先です。次にシブミの宿禰の王は佐佐の君の祖先です。次にサホ彦の王は日くさ下か部べの連・甲斐の國の造の祖先です。次にヲザホの王は葛かず野のの別・近つ淡海の蚊か野やの別の祖先です。次にムロビコの王は若狹の耳の別の祖先です。そのミチノウシの王が丹波の河上のマスの郎いら女つめと結婚して生んだ子はヒバス姫の命・マトノ姫の命・オト姫の命・ミカドワケの王の四人です。このミカドワケの王は、三川の穗の別の祖先です。このミチノウシの王の弟ミヅホノマワカの王は近つ淡海の安の直の祖先です。次にカムオホネの王は三野の國の造・本もと巣すの國の造・長なが幡はた部べの連の祖先です。その山やま代しろのオホツツキマワカの王は弟君イリネの王の女の丹たん波ばのアヂサハ姫と結婚して生んだ御子は、カニメイカヅチの王です。この王が丹たん波ばの遠津の臣の女のタカキ姫と結婚して生んだ御子はオキナガの宿禰の王です。この王が葛城のタカヌカ姫と結婚して生んだ御子がオキナガタラシ姫の命・ソラツ姫の命・オキナガ彦の王の三人です。このオキナガ彦の王は、吉備の品ほむ遲じの君・播磨の阿宗の君の祖先です。またオキナガの宿禰の王が、カハマタノイナヨリ姫と結婚して生んだ子がオホタムサカの王で、この方は但たじ馬まの國の造の祖先です。上に出たタケトヨハヅラワケの王は、道守の臣・忍海部の造・御名部の造・稻羽の忍海部・丹波の竹野の別・依よさ網みの阿毘古等の祖先です。この天皇は御年六十三歳、御陵はイザ河の坂の上にあります。
三、崇神天皇
――帝紀の前半と見られる部分である。――
この天皇は、木の國の造のアラカハトベの女のトホツアユメマクハシ姫と結婚してお生みになつた御子はトヨキイリ彦の命とトヨスキイリ姫の命お二方です。また尾張の連の祖先のオホアマ姫と結婚してお生みになつた御子は、オホイリキの命・ヤサカノイリ彦の命・ヌナキノイリ姫の命・トホチノイリ姫の命のお四方です。また
――三輪山説話として神婚説話の典型的な一つで神 氏、鴨氏等の祖先の物語。――
この天皇の御世に、流行病が盛んに起つて、人民がほとんど盡きようとしました。ここに天皇は、御憂慮遊ばされて、神を祭つてお寢やすみになつた晩に、オホモノヌシの大神が御夢に顯れて仰せになるには、﹁かように病氣がはやるのはわたしの心である。これはオホタタネコをもつてわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起らずに國も平和になるだろう﹂と仰せられました。そこで急使を四方に出してオホタタネコという人を求めた時に、河内の國のミノの村でその人を探し出して奉りました。そこで天皇は﹁お前は誰の子であるか﹂とお尋ねになりましたから、答えて言いますには﹁オホモノヌシの神がスヱツミミの命の女のイクタマヨリ姫と結婚して生んだ子はクシミカタの命です。その子がイヒカタスミの命、その子がタケミカヅチの命、その子がわたくしオホタタネコでございます﹂と申しました。そこで天皇が非常にお歡よろこびになつて仰せられるには、﹁天下が平ぎ人民が榮えるであろう﹂と仰せられて、このオホタタネコを神かん主ぬしとしてミモロ山でオホモノヌシの神をお祭り申し上げました。イカガシコヲの命に命じて祭に使う皿を澤山作り、天地の神々の社をお定め申しました。また宇う陀だの墨すみ坂さかの神に赤い色の楯たて矛ほこを獻り、大坂の神に墨の色の楯矛を獻り、また坂の上の神や河の瀬の神に至るまでに悉く殘るところなく幣へい帛はくを獻りました。これによつて疫えき病びようが止んで國家が平安になりました。
このオホタタネコを神の子と知つた次第は、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形かた姿ち威い儀ぎ竝ならびなき一人の男が夜中にたちまち來ました。そこで互に愛めでて結婚して住んでいるうちに、何程もないのにその孃おと子めが姙はらみました。そこで父母が姙にん娠しんしたことを怪しんで、その女に、﹁お前は自しぜ然んに姙にん娠しんした。夫が無いのにどうして姙娠したのか﹂と尋ねましたから、答えて言うには﹁名も知らないりつぱな男が夜毎に來て住むほどに、自しぜ然んに姙はらみました﹂と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思つて、その女に教えましたのは、﹁赤土を床のほとりに散らし麻絲を針に貫いてその着きも物のの裾に刺せ﹂と教えました。依つて教えた通りにして、朝になつて見れば、針をつけた麻は戸の鉤かぎ穴あなから貫け通つて、殘つた麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知つて絲をたよりに尋ねて行きましたら、三輪山に行つて神の社に留まりました。そこで神の御子であるとは知つたのです。その麻の三輪殘つたのによつて其處を三輪と言うのです。このオホタタネコの命は、神みわの君・鴨の君の祖先です。
――いわゆる四道將軍の派遣の物語。但しヒコイマスの王を、日本書紀では、その子丹波のミチヌシの命とし、またキビツ彦を西の道に遣したとある。――
またこの御世に大彦の命をば越こしの道に遣し、その子のタケヌナカハワケの命を東方の諸國に遣して從わない人々を平定せしめ、またヒコイマスの王を丹波の國に遣してクガミミのミカサという人を討たしめました。その大彦の命が越の國においでになる時に、裳もを穿はいた女が山やま城しろのヘラ坂に立つて歌つて言うには、
御眞木入日子さまは、
御自分の命を人知れず殺そうと、
背うし後ろの入口から行き違ちがい
前の入口から行き違い
窺のぞいているのも知らないで、
御眞木入日子さまは。
と歌いました。そこで大彦の命が怪しいことを言うと思つて、馬を返してその孃子に、﹁あなたの言うことはどういうことですか﹂と尋ねましたら、﹁わたくしは何も申しません。ただ歌を歌つただけです﹂と答えて、行く方も見せずに消えてしまいました。依つて大彦の命は更に還つて天皇に申し上げた時に、仰せられるには、﹁これは思うに、山城の國に赴任したタケハニヤスの王が惡い心を起したしるしでありましよう。伯父上、軍を興して行つていらつしやい﹂と仰せになつて、丸わ邇にの臣の祖先のヒコクニブクの命を副えてお遣しになりました、その時に丸わに邇さ坂かに清淨な瓶を据えてお祭をして行きました。
さて山城のワカラ河に行きました時に、果してタケハニヤスの王が軍を興して待つており、互に河を挾んで對むかい立つて挑いどみ合いました。それで其處の名をイドミというのです。今ではイヅミと言つております。ここにヒコクニブクの命が﹁まず、そちらから清め矢を放て﹂と言いますと、タケハニヤスの王が射ましたけれども、中あてることができませんでした。しかるにヒコクニブクの命の放つた矢はタケハニヤスの王に射い中あてて死にましたので、その軍が悉く破れて逃げ散りました。依つて逃げる軍を追い攻めて、クスバの渡しに行きました時に、皆攻め苦しめられたので屎くそが出て褌はかまにかかりました。そこで其處の名をクソバカマというのですが、今はクスバと言つております。またその逃げる軍を待ち受けて斬りましたから、鵜うのように河に浮きました。依つてその河を鵜うが河わといいます。またその兵士を斬り屠ほおりましたから、其處の名をハフリゾノといいます。かように平定し終つて、朝廷に參つて御返事申し上げました。
かくて大彦の命は前の命令通りに越の國にまいりました。ここに東の方から遣わされたタケヌナカハワケの命は、その父の大彦の命と會あい津ずで行き遇いましたから、其處を會あい津ずというのです。ここにおいて、それぞれに遣わされた國の政を終えて御返事申し上げました。かくして天下が平かになり、人民は富み榮えました。ここにはじめて男の弓矢で得た獲物や女の手藝の品々を貢たてまつらしめました。そこでその御世を讚たたえて初めての國をお治めになつたミマキの天皇と申し上げます。またこの御世に依よさ網みの池を作り、また輕かるの酒さか折おりの池を作りました。天皇は御年百六十八歳、戊つち寅のえとらの年の十二月にお隱れになりました。御陵は山の邊の道の勾まがりの岡の上にあります。
四、垂仁天皇
イクメイリ彦イサチの命︵垂仁天皇︶、大和の師し木きの玉垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、サホ彦の命の妹のサハヂ姫の命と結婚してお生うみになつた御み子こはホムツワケの命お一方です。また丹たん波ばのヒコタタスミチノウシの王の女のヒバス姫の命と結婚してお生みになつた御子はイニシキノイリ彦の命・オホタラシ彦オシロワケの命・オホナカツ彦の命・ヤマト姫の命・ワカキノイリ彦の命のお五方です。またそのヒバス姫の命の妹、ヌバタノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヌタラシワケの命・イガタラシ彦の命のお二方です。またそのヌバタノイリ姫の命の妹のアザミノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子はイコバヤワケの命・アザミツ姫の命のお二方です。またオホツツキタリネの王の女のカグヤ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヲナベの王お一方です。また山やま代しろの大おお國くにのフチの女のカリバタトベと結婚してお生みになつた御子はオチワケの王・イカタラシ彦の王・イトシワケの王のお三方です。またその大國のフチの女のオトカリバタトベと結婚して、お生みになつた御子は、イハツクワケの王・イハツク姫の命またの名はフタヂノイリ姫の命のお二方です。すべてこの天皇の皇子たちは十六王おいでになりました。男王十三人、女王三人です。
その中でオホタラシ彦オシロワケの命は、天下をお治めなさいました。御お身みの長さ一丈二寸、御おん脛はぎの長さ四尺一寸ございました。次にイニシキノイリ彦の命は、血ち沼ぬの池・狹さや山まの池を作り、また日くさ下かの高たか津つの池をお作りになりました。また鳥とと取りの河かわ上かみの宮においでになつて大刀一千振ふりをお作りになつて、これを石いそ上のかみの神じん宮ぐうにお納おさめなさいました。そこでその宮においでになつて河上部をお定めになりました。次にオホナカツ彦の命は、山邊の別・三さき枝くさの別・稻木の別・阿太の別・尾張の國の三野の別・吉備の石いわ无なしの別・許こ呂ろ母もの別・高たか巣す鹿かの別・飛鳥の君・牟禮の別等の祖先です。次にヤマト姫の命は伊勢の大神宮をお祭りなさいました。次にイコバヤワケの王は、沙本の穴あな本ほ部べの別の祖先です。次にアザミツ姫の命は、イナセ彦の王に嫁ぎました。次にオチワケの王は、小お目めの山の君・三川の衣の君の祖先です。次にイカタラシ彦の王は、春日の山の君・高こ志しの池の君・春日部の君の祖先です。次にイトシワケの王は、子がありませんでしたので、子の代りとして伊登志部を定めました。次にイハツクワケの王は羽はく咋いの君・三尾の君の祖先です。次にフタヂノイリ姫の命はヤマトタケルの命の妃きさきになりました。
――サホ彦は天皇を弑殺しようとした叛逆者であるが、その子孫は、日下部の連、甲斐の國の造等として榮えている。要するに一の物語であつて、それが天皇の記に結びついたものと見るべきである。後に出る大山守の命の物語も同樣である。――
この天皇、サホ姫を皇后になさいました時に、サホ姫の命の兄のサホ彦の王が妹に向つて﹁夫と兄とはどちらが大事であるか﹂と問いましたから、﹁兄が大事です﹂とお答えになりました。そこでサホ彦の王が謀をたくらんで、﹁あなたがほんとうにわたしを大事にお思いになるなら、あなたとわたしとで天下を治めよう﹂と言つて、色濃く染めた紐のついている小刀を作つて、その妹に授けて、﹁この刀で天皇の眠つておいでになるところをお刺し申せ﹂と言いました。しかるに天皇はその謀をお知り遊ばされず、皇后の膝を枕としてお寢やすみになりました。そこでその皇后は紐のついた小刀をもつて天皇のお頸くびをお刺ししようとして、三度振りましたけれども、哀かなしい情に堪えないでお頸をお刺し申さないで、お泣きになる涙が天皇のお顏の上に落ち流れました。そこで天皇が驚いてお起ちになつて、皇后にお尋ねになるには、﹁わたしは不思議な夢を見た。サホの方から俄雨が降つて來て、急に顏を沾ぬらした。また錦にし色きいろの小蛇がわたしの頸くびに纏まといついた。こういう夢は何のあらわれだろうか﹂とお尋ねになりました。そこでその皇后が隱しきれないと思つて天皇に申し上げるには、﹁わたくしの兄のサホ彦の王がわたくしに、夫と兄とはどちらが大事かと尋ねました。目の前で尋ねましたので、仕しか方たがなくて、兄が大事ですと答えましたところ、わたくしに註文して、自分とお前とで天下を治めるから、天皇をお殺し申せと言つて、色濃く染めた紐をつけた小刀を作つてわたくしに渡しました。そこでお頸をお刺し申そうとして三度振りましたけれども、哀かなしみの情がたちまちに起つてお刺し申すことができないで、泣きました涙がお顏を沾ぬらしました。きつとこのあらわれでございましよう﹂と申しました。
そこで天皇は﹁わたしはあぶなく欺あざむかれるところだつた﹂と仰せになつて、軍を起してサホ彦の王をお撃ちになる時、その王が稻の城を作つて待つて戰いました。この時、サホ姫の命は堪え得ないで、後の門から逃げてその城におはいりになりました。
この時にその皇后は姙にん娠しんしておいでになり、またお愛し遊ばされていることがもう三年も經つていたので、軍を返して、俄にお攻めになりませんでした。かように延びている間に御子がお生まれになりました。そこでその御子を出して城の外において、天皇に申し上げますには、﹁もしこの御子をば天皇の御子と思しめすならばお育て遊ばせ﹂と申さしめました。ここで天皇は﹁兄には恨みがあるが、皇后に對する愛は變らない﹂と仰せられて、皇后を得られようとする御心がありました。そこで軍隊の中から敏捷な人を選り集めて仰せになるには、﹁その御子を取る時にその母君をも奪い取れ。御髮でも御手でも掴まえ次第に掴んで引き出し申せ﹂と仰せられました。しかるに皇后はあらかじめ天皇の御心の程をお知りになつて、悉く髮をお剃りになり、その髮でお頭を覆おおい、また玉の緒を腐らせて御手に三重お纏きになり、また酒でお召物を腐らせて、完全なお召物のようにして著ておいでになりました。かように準備をして御子をお抱きになつて城の外にお出になりました。そこで力士たちがその御子をお取り申し上げて、その母君をもお取り申そうとして、御髮を取れば御髮がぬけ落ち、御手を握れば玉の緒が絶え、お召物を握ればお召物が破れました。こういう次第で御子を取ることはできましたが、母君を取ることができませんでした。その兵士たちが還つて來て申しましたには、﹁御髮が自然に落ち、お召物は破れ易く、御手に纏いておいでになる玉の緒も切れましたので、母君をばお取り申しません。御子は取つて參りました﹂と申しました。そこで天皇は非常に殘念がつて、玉を作つた人たちをお憎しみになつて、その領地を皆お奪とりになりました。それで諺ことわざに、﹁處ところを得ない玉たま作つくりだ﹂というのです。
また天皇がその皇后に仰せられるには、﹁すべて子この名は母が附けるものであるが、この御子の名前を何としたらよかろうか﹂と仰せられました。そこでお答え申し上げるには、﹁今稻の城を燒く時に炎の中でお生まれになりましたから、その御子のお名前はホムチワケの御子とお附け申しましよう﹂と申しました。また﹁どのようにしてお育て申そうか﹂と仰せられましたところ、﹁乳母を定め御養育掛りをきめて御養育申し上げましよう﹂と申しました。依つてその皇后の申されたようにお育て申しました。またその皇后に﹁あなたの結び堅めた衣の紐は誰が解くべきであるか﹂とお尋ねになりましたから、﹁丹波のヒコタタスミチノウシの王の女の兄えひ姫め・弟おと姫ひめという二人の女王は、淨らかな民でありますからお使い遊ばしませ﹂と申しました。かくて遂にそのサホ彦の王を討たれた時に、皇后も共にお隱れになりました。
――種々の要素の結合している物語であるが、出雲の神のたたりが中心となつている。ヒナガ姫の部分は、特に結びつけたものの感が深い。――
かくてその御子をお連れ申し上げて遊ぶ有樣は、尾張の相津にあつた二ふた俣またの杉をもつて二俣の小舟を作つて、持ち上つて來て、大和の市いち師しの池、輕かるの池に浮べて遊びました。この御子は、長い鬢が胸の前に至るまでも物をしかと仰せられません。ただ大空を鶴が鳴き渡つたのをお聞きになつて始めて﹁あぎ﹂と言われました。そこで山やま邊べのオホタカという人を遣つて、その鳥を取らせました。ここにその人が鳥を追い尋ねて紀の國から播磨の國に至り、追つて因いな幡ばの國に越えて行き、丹波の國・但馬の國に行き、東の方に追いつて近江の國に至り、美濃の國に越え、尾張の國から傳わつて信濃の國に追い、遂に越こしの國に行つて、ワナミの水みな門とで罠わなを張つてその鳥を取つて持つて來て獻りました。そこでその水みな門とをワナミの水門とはいうのです。さてその鳥を御覽になつて、物を言おうとお思いになるが、思い通りに言われることはありませんでした。
そこで天皇が御心配遊ばされてお寢やすみになつている時に、御夢に神のおさとしをお得になりました。それは﹁わたしの御殿を天皇の宮殿のように造つたなら、御子がきつと物を言うだろう﹂と、かように夢に御覽になつて、そこで太ふと卜まにの法で占いをして、これはどの神の御心であろうかと求めたところ、その祟たたりは出雲の大神の御心でした。依つてその御子をしてその大神の宮を拜ましめにお遣りになろうとする時に、誰を副えたらよかろうかと占いましたら、アケタツの王が占いに合いました。依つてアケタツの王に仰せて誓言を申さしめなさいました。﹁この大神を拜むことによつて誠にその驗があるならば、この鷺の巣の池の樹に住んでいる鷺が我が誓によつて落ちよ﹂かように仰せられた時にその鷺が池に落ちて死にました。また﹁活きよ﹂と誓をお立てになりましたら活きました。またアマカシの埼さきの廣葉のりつぱなカシの木を誓を立てて枯らしたり活かしたりしました。それでアケタツの王に、﹁大和は師し木き、登と美みの豐とよ朝あさ倉くらのアケタツの王﹂という名前を下さいました。かようにしてアケタツの王とウナガミの王とお二方をその御子に副えてお遣しになる時に、奈良の道から行つたならば、跛ちんばだの盲めくらだのに遇うだろう。二ふた上かみ山の大阪の道から行つても跛や盲に遇うだろう。ただ紀き伊いの道こそは幸さい先さきのよい道であると占うらなつて出ておいでになつた時に、到る處毎に品ほむ遲じ部べの人民をお定めになりました。
かくて出雲の國においでになつて、出雲の大神を拜み終つて還り上つておいでになる時に、肥ひの河の中に黒木の橋を作り、假の御殿を造つてお迎えしました。ここに出雲の臣の祖先のキヒサツミという者が、青葉の作り物を飾り立ててその河下にも立てて御食物を獻ろうとした時に、その御子が仰せられるには、﹁この河の下に青葉が山の姿をしているのは、山かと見れば山ではないようだ。これは出雲の石いわ※くま﹇#﹁石+炯のつくり﹂、U+2544E、282-5﹈の曾その宮にお鎭まりになつているアシハラシコヲの大神をお祭り申し上げる神主の祭壇であるか﹂と仰せられました。そこでお伴に遣された王たちが聞いて歡び、見て喜んで、御子を檳あじ榔まさの長なが穗ほの宮に御案内して、急使を奉つて天皇に奏上致しました。
そこでその御子が一夜ヒナガ姫と結婚なさいました。その時に孃子を伺のぞいて御覽になると大蛇でした。そこで見て畏れて遁げました。ここにそのヒナガ姫は心憂く思つて、海上を光らして船に乘つて追つて來るのでいよいよ畏れられて、山の峠とうげから御船を引き越させて逃げて上つておいでになりました。そこで御返事申し上げることには、﹁出雲の大神を拜みましたによつて、大御子が物を仰せになりますから上京して參りました﹂と申し上げました。そこで天皇がお歡びになつて、ウナガミの王を返して神宮を造らしめました。そこで天皇は、その御子のために鳥取部・鳥とり甘かい・品ほむ遲じ部べ・大おお湯ゆ坐え・若湯坐をお定めになりました。
――丹波地方に傳わつた説話が取りあげられたものであろう。――
天皇はまたその皇后サホ姫の申し上げたままに、ミチノウシの王の娘たちのヒバス姫の命・弟おと姫の命・ウタコリ姫の命・マトノ姫の命の四人をお召しになりました。しかるにヒバス姫の命・弟姫の命のお二ふた方かたはお留めになりましたが、妹のお二方は醜かつたので、故郷に返し送られました。そこでマトノ姫が耻はじて、﹁同じ姉妹の中で顏が醜いによつて返されることは、近所に聞えても耻はずかしい﹂と言つて、山城の國の相さが樂らかに行きました時に木の枝に懸かつて死のうとなさいました。そこで其處の名を懸さが木りきと言いましたのを今は相さが樂らかと言うのです。また弟おと國くにに行きました時に遂に峻けわしい淵に墮ちて死にました。そこでその地の名を墮おち國くにと言いましたが、今では弟おと國くにと言うのです。
――タヂマモリの子孫の家に傳えられた説話。――
また天皇、三宅の連等の祖先のタヂマモリを常とこ世よの國に遣して、時じくの香かぐの木の實を求めさせなさいました。依つてタヂマモリが遂にその國に到つてその木を採つて、蔓つるの形になつているもの八本、矛ほこの形になつているもの八本を持つて參りましたところ、天皇はすでにお隱れになつておりました。そこでタヂマモリは蔓つる四本矛ほこ四本を分けて皇后樣に獻り、蔓四本矛四本を天皇の御陵のほとりに獻つて、それを捧げて叫び泣いて、﹁常世の國の時じくの香かぐの木の實を持つて參上致しました﹂と申して、遂に叫び死にました。その時じくの香の木の實というのは、今のタチバナのことです。この天皇は御年百五十三歳、御陵は菅原の御みた立ち野のの中にあります。
またその皇后ヒバス姫の命の時に、石棺作りをお定めになり、また土はに師し部べをお定めになりました。この皇后は狹さ木きの寺てら間まの陵にお葬り申しあげました。
五、景行天皇・成務天皇
オホタラシ彦オシロワケの天皇︵景行天皇︶、大和の纏まき向むくの日ひし代ろの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、吉き備びの臣等の祖先のワカタケキビツ彦の女の播はり磨まのイナビの大おお郎いら女つめと結婚してお生みになつた御子は、クシツノワケの王・オホウスの命・ヲウスの命またの名はヤマトヲグナの命・ヤマトネコの命・カムクシの王の五王です。ヤサカノイリ彦の命の女むすめヤサカノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、ワカタラシ彦の命・イホキノイリ彦の命・オシワケの命・イホキノイリ姫の命です。またの妾の御子は、トヨトワケの王・ヌナシロの郎女、またの妾の御子は、ヌナキの郎女・カグヨリ姫の命・ワカキノイリ彦の王・キビノエ彦の王・タカギ姫の命・オト姫の命です。また日向のミハカシ姫と結婚してお生みになつた御子は、トヨクニワケの王です。またイナビの大郎女の妹、イナビの若郎女と結婚してお生みになつた御子は、マワカの王・ヒコヒトノオホエの王です。またヤマトタケルの命の曾孫のスメイロオホナカツ彦の王の女のカグロ姫と結婚してお生みになつた御子は、オホエの王です。すべて天皇の御子たちは、記したのは二十一王、記さないのは五十九王、合わせて八十の御み子こがおいでになりました中に、ワカタラシ彦の命とヤマトタケルの命とイホキノイリ彦の命と、このお三方は、皇太子と申す御名を負われ、他の七十七王は悉く諸國の國の造みやつこ・別わけ・稻いな置き・縣あが主たぬし等としてお分け遊ばされました。そこでワカタラシ彦の命は天下をお治めなさいました。ヲウスの命は東西の亂暴な神、また服從しない人たちを平定遊ばされました。次にクシツノワケの王は、茨田の下の連等の祖先です。次にオホウスの命は、守の君・太田の君・島田の君の祖先です。次にカムクシの王は木の國の酒部の阿比古・宇陀の酒部の祖先です。次にトヨクニワケの王は、日向の國の造の祖先です。
ここに天皇は、三野の國の造の祖先のオホネの王の女の兄えひ姫め弟おと姫ひめの二人の孃子が美しいということをお聞きになつて、その御子のオホウスの命を遣わして、お召しになりました。しかるにその遣わされたオホウスの命が召しあげないで、自分がその二人の孃子と結婚して、更に別の女を求めて、その孃子だと僞つて獻りました。そこで天皇は、それが別の女であることをお知りになつて、いつも見守らせるだけで、結婚をしないで苦しめられました。それでそのオホウスの命が兄姫と結婚して生んだ子がオシクロのエ彦の王で、これは三野の宇う泥ね須すの別の祖先です。また弟姫と結婚して生んだ子は、オシクロのオト彦の王で、これは牟む宜げ都つの君等の祖先です。この御世に田部をお定めになり、また東國の安房の水みな門とをお定めになり、また膳かしわでの大伴部をお定めになり、また大和の役所をお定めになり、また坂手の池を作つてその堤に竹を植えさせなさいました。
――英雄ヤマトタケルの命の物語ははじまる。劇的な構成に注意。――
天皇がヲウスの命に仰せられるには﹁お前の兄はどうして朝夕の御食事に出て來ないのだ。お前が引き受けて教え申せ﹂と仰せられました。かように仰せられて五日たつてもやはり出て來ませんでした。そこで、天皇がヲウスの命にお尋ねになるには﹁どうしてお前の兄が永い間出て來ないのだ。もしやまだ教えないのか﹂とお尋ねになつたので、お答えしていうには﹁もう教えました﹂と申しました。また﹁どのように教えたのか﹂と仰せられましたので、お答えして﹁朝早く厠かわやにおはいりになつた時に、待つていてつかまえてつかみひしいで、手足を折つて薦こもにつつんで投げすてました﹂と申しました。
そこで天皇は、その御子の亂暴な心を恐れて仰せられるには﹁西の方にクマソタケル二人がある。これが服從しない無禮の人たちだ。だからその人たちを殺せ﹂と仰せられました。この時に、その御髮を額で結つておいでになりました。そこでヲウスの命は、叔母樣のヤマト姫の命のお衣裳をいただき、劒を懷にいれておいでになりました。そこでクマソタケルの家に行つて御覽になりますと、その家のあたりに、軍隊が三重に圍んで守り、室むろを作つて居ました。そこで新築の祝をしようと言い騷いで、食物を準備しました。依つてその近所を歩いて宴會をする日を待つておいでになりました。いよいよ宴會の日になつて、結つておいでになる髮を孃子の髮のように梳けずり下げ、叔母樣のお衣裳をお著つけになつて孃子の姿になつて女どもの中にまじり立つて、その室の中におはいりになりました。ここにクマソタケルの兄弟二人が、その孃子を見て感心して、自分たちの中にいさせて盛んに遊んでおりました。その宴の盛んになつた時に、命は懷から劒を出し、クマソタケルの衣の襟を取つて劒をもつてその胸からお刺し通し遊ばされる時に、その弟のタケルが見て畏れて逃げ出しました。そこでその室の階段のもとに追つて行つて、背の皮をつかんでうしろから劒で刺し通しました。ここにそのクマソタケルが申しますには、﹁そのお刀をお動かし遊ばしますな。申し上げることがございます﹂と言いました。そこでしばらく押し伏せておいでになりました。﹁あなた樣さまはどなたでいらつしやいますか﹂と申しましたから、﹁わたしは纏まき向むくの日ひし代ろの宮においで遊ばされて天下をお治めなされるオホタラシ彦オシロワケの天皇の御子のヤマトヲグナの王という者だ。お前たちクマソタケル二人が服從しないで無禮だとお聞きなされて、征伐せよと仰せになつて、お遣わしになつたのだ﹂と仰せられました。そこでそのクマソタケルが、﹁ほんとうにそうでございましよう。西の方に我々二人を除いては武勇の人間はありません。しかるに大和の國には我々にまさつた強い方がおいでになつたのです。それではお名前を獻上致しましよう。今からはヤマトタケルの御子と申されるがよい﹂と申しました。かように申し終つて、熟した瓜を裂くように裂き殺しておしまいになりました。その時からお名前をヤマトタケルの命と申し上げるのです。そうして還つておいでになつた時に、山の神・河の神、また海峽の神を皆平定して都にお上りになりました。
――日本書紀では、全然ヤマトタケルの命と關係のない物語になつている。種々の物語がこの英雄の事として結びついてゆく。――
そこで出雲の國におはいりになつて、そのイヅモタケルを撃うとうとお思いになつて、おいでになつて、交りをお結びになりました。まずひそかに赤いち檮いのきで刀の形を作つてこれをお佩びになり、イヅモタケルとともに肥ひの河に水浴をなさいました。そこでヤマトタケルの命が河からまずお上りになつて、イヅモタケルが解いておいた大刀をお佩きになつて、﹁大刀を換かえよう﹂と仰せられました。そこで後からイヅモタケルが河から上つて、ヤマトタケルの命の大刀を佩きました。ここでヤマトタケルの命が、﹁さあ大刀を合わせよう﹂と挑いどまれましたので、おのおの大刀を拔く時に、イヅモタケルは大刀を拔き得ず、ヤマトタケルの命は大刀を拔いてイヅモタケルを打ち殺されました。そこでお詠みになつた歌、
雲くもの叢むらがり立つ出いづ雲ものタケルが腰にした大刀は、
蔓つるを澤山卷いて刀の身が無くて、きのどくだ。
かように平定して、朝廷に還つて御返事申し上げました。
――諸氏の物語が結合したと見えるが、よくまとまつて、美しい物語になつている。――
ここに天皇は、また續いてヤマトタケルの命に、﹁東の方の諸國の惡い神や從わない人たちを平定せよ﹂と仰せになつて、吉き備びの臣等の祖先のミスキトモミミタケ彦という人を副えてお遣わしになつた時に、柊ひいらぎの長い矛ほこを賜わりました。依つて御命令を受けておいでになつた時に、伊勢の神宮に參拜して、其處に奉仕しておいでになつた叔母樣のヤマト姫の命に申されるには、﹁父上はわたくしを死ねと思つていらつしやるのでしようか、どうして西の方の從わない人たちを征伐にお遣わしになつて、還つてまいりましてまだ間も無いのに、軍卒も下さらないで、更に東方諸國の惡い人たちを征伐するためにお遣わしになるのでしよう。こういうことによつて思えば、やはりわたくしを早く死ねと思つておいでになるのです﹂と申して、心憂く思つて泣いてお出ましになる時に、ヤマト姫の命が、草薙の劒をお授けになり、また嚢ふくろをお授けになつて、﹁もし急の事があつたなら、この嚢の口をおあけなさい﹂と仰せられました。
かくて尾張の國においでになつて、尾張の國の造みやつこの祖先のミヤズ姫の家へおはいりになりました。そこで結婚なされようとお思いになりましたけれども、また還つて來た時にしようとお思いになつて、約束をなさつて東の國においでになつて、山や河の亂暴な神たちまたは從わない人たちを悉く平定遊ばされました。ここに相摸の國においで遊ばされた時に、その國の造が詐いつわつて言いますには、﹁この野の中に大きな沼があります。その沼の中に住んでいる神はひどく亂暴な神です﹂と申しました。依つてその神を御覽になりに、その野においでになりましたら、國の造が野に火をつけました。そこで欺かれたとお知りになつて、叔母樣のヤマト姫の命のお授けになつた嚢の口を解いてあけて御覽になりましたところ、その中に火ひう打ちがありました。そこでまず御刀をもつて草を苅り撥はらい、その火打をもつて火を打ち出して、こちらからも火をつけて燒き退けて還つておいでになる時に、その國の造どもを皆切り滅し、火をつけてお燒きなさいました。そこで今でも燒やい津ずといつております。
其處からおいでになつて、走はし水りみずの海をお渡りになつた時にその渡わたりの神が波を立てて御船がただよつて進むことができませんでした。その時にお妃のオトタチバナ姫の命が申されますには、﹁わたくしが御子に代つて海にはいりましよう。御子は命ぜられた任務をはたして御返事を申し上げ遊ばせ﹂と申して海におはいりになろうとする時に、スゲの疊八枚、皮の疊八枚、絹の疊八枚を波の上に敷いて、その上におおり遊ばされました。そこでその荒い波が自然に凪ないで、御船が進むことができました。そこでその妃のお歌いになつた歌は、
高い山の立つ相さが摸みの國の野原で、
燃え立つ火の、その火の中に立つて
わたくしをお尋ねになつたわが君。
かくして七日過ぎての後に、そのお妃のお櫛が海濱に寄りました。その櫛を取つて、御墓を作つて收めておきました。
それからはいつておいでになつて、悉く惡い蝦え夷ぞどもを平らげ、また山河の惡い神たちを平定して、還つてお上りになる時に、足あし柄がらの坂本に到つて食物をおあがりになる時に、その坂の神が白い鹿になつて參りました。そこで召し上り殘りのヒルの片かた端はしをもつてお打ちになりましたところ、その目にあたつて打ち殺されました。かくてその坂にお登りになつて非常にお歎きになつて、﹁わたしの妻はなあ﹂と仰せられました。それからこの國を吾あず妻まとはいうのです。
その國から越えて甲斐に出て、酒さか折おりの宮においでになつた時に、お歌いなされるには、
常陸の新にい治はり・筑つく波ばを過すぎて幾いく夜よ寢ねたか。
ここにその火ひを燒たいている老人が續いて、
日ひか數ず重かさねて、夜よは九ここ夜のよで日ひは十とお日かでございます。
と歌いました。そこでその老人を譽めて、吾あず妻まの國の造になさいました。
かくてその國から信濃の國にお越えになつて、そこで信濃の坂の神を平らげ、尾張の國に還つておいでになつて、先に約束しておかれたミヤズ姫のもとにおはいりになりました。ここで御馳走を獻る時に、ミヤズ姫がお酒盃を捧げて獻りました。しかるにミヤズ姫の打うち掛かけの裾に月の物がついておりました。それを御覽になつてお詠み遊ばされた歌は、
仰あおぎ見る天あめの香かぐ具や山ま
鋭するどい鎌のように横ぎる白はく鳥ちよう。
そのようなたおやかな弱よわ腕うでを
抱だこうとはわたしはするが、
寢ねようとはわたしは思うが、
あなたの著きている打うち掛かけの裾に
月つきが出ているよ。
そこでミヤズ姫が、お歌にお答えしてお歌いなさいました。
照り輝く日のような御み子こ樣
御威光すぐれたわたしの大君樣。
新しい年が來て過ぎて行けば、
新しい月は來て過ぎて行きます。
ほんとうにまああなた樣をお待ちいたしかねて
わたくしのきております打掛の裾に
月も出るでございましようよ。
そこで御結婚遊ばされて、その佩びておいでになつた草薙の劒をミヤズ姫のもとに置いて、イブキの山の神を撃ちにおいでになりました。
――クニシノヒ歌の歌曲を中心として、英雄の悲壯な最後を語る。――
そこで﹁この山の神は空から手てで取つて見せる﹂と仰せになつて、その山にお登りになつた時に、山のほとりで白い猪に逢あいました。その大きさは牛ほどもありました。そこで大言して、﹁この白い猪になつたものは神の從者だろう。今殺さないでも還る時に殺して還ろう﹂と仰せられて、お登りになりました。そこで山の神が大だい氷ひよ雨ううを降らしてヤマトタケルの命を打ち惑わしました。この白い猪に化けたものは、この神の從者ではなくして、正體であつたのですが、命が大言されたので惑わされたのです。かくて還つておいでになつて、玉たま倉くら部べの清水に到つてお休みになつた時に、御心がややすこしお寤さめになりました。そこでその清水を居いさ寤めの清水と言うのです。
其處からお立ちになつて當た藝ぎの野の上においでになつた時に仰せられますには、﹁わたしの心はいつも空を飛んで行くと思つていたが、今は歩くことができなくなつて、足がぎくぎくする﹂と仰せられました。依つて其處を當た藝ぎといいます。其處からなお少しおいでになりますのに、非常にお疲れなさいましたので、杖をおつきになつてゆるゆるとお歩きになりました。そこでその地を杖つえ衝つき坂といいます。尾お津つの埼の一本松のもとにおいでになりましたところ、先に食事をなさつた時に其處にお忘れになつた大刀が無くならないでありました。そこでお詠み遊ばされたお歌、
尾張の國に眞まつ直すぐに向かつている
尾津の埼の
一本松よ。お前。
一本松が人だつたら
大刀を佩はかせようもの、着物を著せようもの、
一本松よ。お前。
其處からおいでになつて、三み重えの村においでになつた時に、また﹁わたしの足は、三重に曲つた餅のようになつて非常に疲れた﹂と仰せられました。そこでその地を三重といいます。
其處からおいでになつて、能の煩ぼ野のに行かれました時に、故郷をお思いになつてお歌いになりましたお歌、
大和は國の中の國だ。
重かさなり合つている青い垣、
山に圍まれている大和は美しいなあ。
命が無事だつた人は、
大和の國の平へぐ群りの山の
りつぱなカシの木の葉を
頭かん插ざしにお插しなさい。お前たち。
とお歌いになりました。この歌は思くに國しの歌びうたという名の歌です。またお歌い遊ばされました。
なつかしのわが家やの方ほうから雲が立ち昇つて來るわい。
これは片かた歌うたでございます。この時に、御病氣が非常に重くなりました。そこで、御みう歌たを、
孃おと子めの床とこのほとりに
わたしの置いて來た良よく切れる大た刀ち、
あの大た刀ちはなあ。
と歌い終つて、お隱れになりました。そこで急使を上せて朝廷に申し上げました。
――大葬に歌われる歌曲を中心としている。白鳥には、神靈を感じている。――
周まわりの田の稻の莖くきに、
稻の莖に、
這い繞めぐつているツルイモの蔓つるです。
しかるに其處から大きな白鳥になつて天に飛んで、濱に向いて飛んでおいでになりましたから、そのお妃たちや御子たちは、其處の篠しの竹だけの苅かり株くいに御足が切り破れるけれども、痛いのも忘れて泣く泣く追つておいでになりました。その時の御歌は、
小こざ篠さが原を行き惱なやむ、
空中からは行かずに、歩あるいて行くのです。
また、海水にはいつて、海水の中を骨を折つておいでになつた時の御歌、
海うみの方ほうから行ゆけば行き惱なやむ。
大おお河かは原らの草のように、
海や河かわをさまよい行く。
また飛んで、其處の磯においで遊ばされた時の御歌、
濱の千鳥、濱からは行かずに磯傳いをする。
この四首の歌は皆そのお葬式に歌いました。それで今でもその歌は天皇の御葬式に歌うのです。そこでその國から飛び翔たつておいでになつて、河内の志し幾きにお留まりなさいました。そこで其處に御墓を作つて、お鎭まり遊ばされました。しかしながら、また其處から更に空を飛んでおいでになりました。すべてこのヤマトタケルの命が諸國を平定するためにつておいでになつた時に、久米の直あたえの祖先のナナツカハギという者がいつもお料理人としてお仕え申しました。
――實際あり得ない關係も記されている。――
このヤマトタケルの命が、垂仁天皇の女、フタヂノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、タラシナカツ彦の命お一方です。またかの海におはいりになつたオトタチバナ姫の命と結婚してお生みになつた御子はワカタケルの王お一方です。また近江のヤスの國の造の祖先のオホタムワケの女のフタヂ姫と結婚してお生みになつた御子はイナヨリワケの王お一方です。また吉備の臣タケ彦の妹の大吉備のタケ姫と結婚してお生みになつた御子は、タケカヒコの王お一方です。また山やま代しろのククマモリ姫と結婚してお生みになつた御子はアシカガミワケの王お一方です。またある妻の子は、オキナガタワケの王です。すべてこのヤマトタケルの命の御子たちは合わせて六人ありました。
それでタラシナカツ彦の命は天下をお治めなさいました。次にイナヨリワケの王は、犬上の君・建部の君等の祖先です。次にタケカヒコの王は、讚岐の綾の君・伊勢の別・登と袁おの別・麻佐の首おびと・宮の首の別等の祖先です。アシカガミワケの王は、鎌倉の別・小津の石いわ代しろの別・漁すな田きだの別の祖先です。次にオキナガタワケの王の子、クヒマタナガ彦の王、この王の子、イヒノノマクロ姫の命・オキナガマワカナカツ姫・弟姫のお三方です。そこで上に出たワカタケルの王が、イヒノノマクロ姫と結婚して生んだ子はスメイロオホナカツ彦の王、この王が、近江のシバノイリキの女のシバノ姫と結婚して生んだ子はカグロ姫の命です。オホタラシ彦の天皇がこのカグロ姫の命と結婚してお生みになつた御子はオホエの王のお一方です。この王が庶妹シロガネの王と結婚して生んだ子はオホナガタの王とオホナカツ姫のお二方です。そこでこのオホナカツ姫の命は、カゴサカの王・オシクマの王の母君です。
このオホタラシ彦の天皇の御年百三十七歳、御陵は山の邊の道の上にあります。
――國縣の堺を定め、國の造、縣主を定め、地方行政の基礎が定められた。――
ワカタラシ彦の天皇︵成務天皇︶、近江の國の志し賀がの高穴穗の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は穗ほづ積みの臣の祖先、タケオシヤマタリネの女のオトタカラの郎いら女つめと結婚してお生みになつた御子はワカヌケの王お一方です。そこでタケシウチの宿禰を大臣となされ、大小國々の國の造をお定めになり、また國々の堺、また大小の縣の縣あが主たぬしをお定めになりました。天皇は御年九十五歳、乙卯の年の三月十五日にお隱れになりました。御陵は沙さ紀きの多た他た那な美みにあります。
六、仲哀天皇
タラシナカツ彦の天皇︵仲哀天皇︶、穴あな門との豐とよ浦らの宮また筑つく紫しの香かし椎いの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、オホエの王の女のオホナカツ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、カゴサカの王とオシクマの王お二方です。またオキナガタラシ姫の命と結婚なさいました。この皇后のお生みになつた御子はホムヤワケの命・オホトモワケの命、またの名はホムダワケの命とお二方です。この皇太子の御名をオホトモワケの命と申しあげるわけは、初めお生まれになつた時に腕に鞆ともの形をした肉がありましたから、この御名前をおつけ申しました。そこで腹の中においでになつて天下をお治めなさいました。この御世に淡路の役所を定めました。
――御母はシラギ人天の日矛の系統で、シラギのことを知つておられたのだろうという。――
皇后のオキナガタラシ姫の命︵神功皇后︶は神かみ懸がかりをなさつた方でありました。天皇が筑紫の香椎の宮においでになつて熊曾の國を撃とうとなさいます時に、天皇が琴をお彈ひきになり、タケシウチの宿禰が祭の庭にいて神の仰せを伺いました。ここに皇后に神懸りして神樣がお教えなさいましたことは、﹁西の方に國があります。金銀をはじめ目の輝く澤山の寶物がその國に多くあるが、わたしが今その國をお授け申そう﹂と仰せられました。しかるに天皇がお答え申されるには、﹁高い處に登つて西の方を見ても、國が見えないで、ただ大海のみだ﹂と言われて、詐いつわりをする神だとお思いになつて、お琴を押し退けてお彈きにならず默つておいでになりました。そこで神樣がたいへんお怒りになつて﹁すべてこの國はあなたの治むべき國ではないのだ。あなたは一本道にお進みなさい﹂と仰せられました。そこでタケシウチの宿禰が申しますには、﹁おそれ多いことです。陛下、やはりそのお琴をお彈き遊ばせ﹂と申しました。そこで少しその琴をお寄せになつて生なま々なまにお彈きになつておいでになつたところ、間も無く琴の音が聞えなくなりました。そこで火を點ともして見ますと、既にお隱かくれになつていました。
そこで驚き恐きよ懼うくして御大葬の宮殿にお遷し申し上げて、更にその國内から幣へい帛はくを取つて、生いけ剥はぎ・逆さか剥はぎ・畦あは離なち・溝みぞ埋うめ・屎くそ戸へ・不倫の結婚の罪の類を求めて大おお祓ばらえしてこれを清め、またタケシウチの宿禰が祭の庭にいて神の仰せを願いました。そこで神のお教えになることは悉く前の通りで、﹁すべてこの國は皇后樣のお腹においでになる御子の治むべき國である﹂とお教えになりました。
そこでタケシウチの宿禰が、﹁神樣、おそれ多いことですが、その皇后樣のお腹はらにおいでになる御子は何の御子でございますか と﹇#﹁ございますか と﹂はママ﹈申しましたところ、﹁男の御子だ﹂と仰せられました。そこで更にお願い申し上げたことは、﹁今かようにお教えになる神樣は何という神樣ですか﹂と申しましたところ、お答え遊ばされるには﹁これは天照らす大神の御心だ。またソコツツノヲ・ナカツツノヲ・ウハツツノヲの三神だ。今まことにあの國を求めようと思われるなら、天地の神たち、また山の神、海河の神たちに悉く幣へい帛はくを奉り、わたしの御みた魂まを御みふ船ねの上にお祭り申し上げ、木の灰を瓠ひさごに入れ、また箸はしと皿とを澤山に作つて、悉く大海に散ちらし浮うかべてお渡わたりなさるがよい﹂と仰せなさいました。
そこで悉く神の教えた通りにして軍隊を整え、多くの船を竝べて海をお渡りになりました時に、海中の魚どもは大小となくすべて出て、御船を背負つて渡りました。順風が盛んに吹いて御船は波のまにまに行きました。その御船の波が新しら羅ぎの國に押し上つて國の半にまで到りました。依つてその國王が畏おじ恐れて、﹁今から後は天皇の御命令のままに馬うま飼かいとして、毎年多くの船の腹を乾かわかさず、柁かじを乾かわかさずに、天地のあらんかぎり、止まずにお仕え申し上げましよう﹂と申しました。かような次第で新羅の國をば馬うま飼かいとお定め遊ばされ、百くだ濟らの國をば船ふな渡わたりの役所とお定めになりました。そこで御杖を新羅の國主の門におつき立て遊ばされ、住吉の大神の荒い御魂を、國をお守りになる神として祭つてお還り遊ばされました。
かような事がまだ終りませんうちに、お腹の中の御子がお生まれになろうとしました。そこでお腹をお鎭めなされるために石をお取りになつて裳の腰におつけになり、筑紫の國にお渡りになつてからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ばされました處をウミと名づけました。またその裳につけておいでになつた石は筑紫の國のイトの村にあります。
また筑紫の松まつ浦らが縣たの玉島の里においでになつて、その河の邊ほとりで食物をおあがりになつた時に、四月の上旬の頃でしたから、その河中の磯においでになり、裳の絲を拔き取つて飯めし粒つぶを餌えさにしてその河のアユをお釣りになりました。その河の名は小おが河わといい、その磯の名はカツト姫といいます。今でも四月の上旬になると、女たちが裳の絲を拔いて飯粒を餌にしてアユを釣ることが絶えません。
――ある戰亂の武勇譚が、歌を插入して誇張されてゆく。――
オキナガタラシ姫の命は、大和に還りお上りになる時に、人の心が疑わしいので喪もの船を一つ作つて、御子をその喪の船にお乘せ申し上げて、まず御子は既にお隱れになりましたと言い觸らさしめました。かようにして上つておいでになる時に、カゴサカの王、オシクマの王が聞いて待ち取ろうと思つて、トガ野に進み出て誓を立てて狩をなさいました。その時にカゴサカの王はクヌギに登つて御覽になると、大きな怒り猪じしが出てそのクヌギを掘つてカゴサカの王を咋くいました。しかるにその弟のオシクマの王は、誓の狩にかような惡い事があらわれたのを畏れつつしまないで、軍を起して皇后の軍を待ち迎えられます時に、喪の船に向かつてからの船をお攻めになろうとしました。そこでその喪の船から軍隊を下して戰いました。
この時にオシクマの王は、難なに波わの吉き師し部べの祖先のイサヒの宿すく禰ねを將軍とし、太子の方では丸わ邇にの臣の祖先の難なに波わネコタケフルクマの命を將軍となさいました。かくて追い退けて山城に到りました時に、還り立つて雙方退かないで戰いました。そこでタケフルクマの命は謀つて、皇后樣は既にお隱れになりましたからもはや戰うべきことはないと言わしめて、弓の弦を絶つて詐いつわつて降服しました。そこで敵の將軍はその詐りを信じて弓をはずし兵器を藏しまいました。その時に頭髮の中から豫備の弓弦を取り出して、更に張つて追い撃ちました。かくて逢おお坂さかに逃げ退いて、向かい立つてまた戰いましたが、遂に追い迫せまり敗つて近江のササナミに出て悉くその軍を斬りました。そこでそのオシクマの王がイサヒの宿禰と共に追い迫せめられて、湖上に浮んで歌いました歌、
さあ君きみよ、
フルクマのために負ふし傷ようするよりは、
カイツブリのいる琵琶の湖水に
潛り入ろうものを。
と歌つて海にはいつて死にました。
――敦賀市の氣比神宮の神の名の由來。――
かくてタケシウチの宿禰がその太子をおつれ申し上げて禊みそぎをしようとして近江また若わか狹さの國を經た時に、越前の敦つる賀がに假宮を造つてお住ませ申し上げました。その時にその土地においでになるイザサワケの大神が夜の夢にあらわれて、﹁わたしの名を御子の名と取りかえたいと思う﹂と仰せられました。そこで﹁それは恐れ多いことですから、仰せの通りおかえ致しましよう﹂と申しました。またその神が仰せられるには﹁明日の朝、濱においでになるがよい。名をかえた贈物を獻上致しましよう﹂と仰せられました。依つて翌朝濱においでになつた時に、鼻の毀やぶれたイルカが或る浦に寄つておりました。そこで御子が神に申されますには、﹁わたくしに御食膳の魚を下さいました﹂と申さしめました。それでこの神の御名を稱えて御み食けつ大神と申し上げます。その神は今でも氣比の大神と申し上げます。またそのイルカの鼻の血が臭うございました。それでその浦を血ちう浦らと言いましたが、今では敦つる賀がと言います。
――酒宴の席に演奏される歌曲の説明。――
このお酒はわたくしのお酒ではございません。
お神み酒きの長官、常とこ世よの國においでになる
岩になつて立つていらつしやるスクナビコナ樣が
祝つて祝つて祝い狂くるわせ
祝つて祝つて祝いつて
獻上して來たお酒なのですよ。
盃をかわかさずに召しあがれ。
かようにお歌いになつてお酒を獻りました。その時にタケシウチの宿禰が御子のためにお答え申し上げた歌は、
このお酒を釀造した人は、
その太鼓を臼うすに使つて、
歌いながら作つた故か、
舞いながら作つた故か、
このお酒の
不思議に樂しいことでございます。
これは酒さか樂くらの歌でございます。
すべてタラシナカツ彦の天皇の御年は五十二歳、壬みず戌のえいぬの年の六月十一日にお隱れになりました。御陵は河内の惠え賀がの長江にあります。皇后樣は御年百歳でお隱かくれになりました。狹さ城きの楯たた列なみの御陵にお葬り申し上げました。
七、應神天皇
ホムダワケの命︵應神天皇︶、大和の輕かる島しまの明あきらの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はホムダノマワカの王の女王お三方と結婚されました。お一方は、タカギノイリ姫の命、次は中姫の命、次は弟姫の命であります。この女王たちの御父、ホムダノマワカの王はイホキノイリ彦の命が、尾張の直の祖先のタケイナダの宿禰の女のシリツキトメと結婚して生んだ子であります。そこでタカギノイリ姫の生んだ御み子こは、ヌカダノオホナカツヒコの命・オホヤマモリの命・イザノマワカの命・オホハラの郎いら女つめ・タカモクの郎いら女つめの御おん五方かたです。中姫の命の生んだ御み子こは、キノアラタの郎いら女つめ・オホサザキの命・ネトリの命のお三方です。弟姫の命の御子は、阿あ部べの郎女・アハヂノミハラの郎女・キノウノの郎女・ミノの郎女のお五方です。また天皇、ワニノヒフレのオホミの女のミヤヌシヤガハエ姫と結婚してお生うみになつた御み子こは、ウヂの若わき郎いら子つこ・ヤタの若わき郎いら女つめ・メトリの王のお三方です。またそのヤガハエ姫の妹ヲナベの郎女と結婚してお生みになつた御子は、ウヂの若郎女お一方です。またクヒマタナガ彦の王の女のオキナガマワカナカツ姫と結婚してお生みになつた御子はワカヌケフタマタの王お一方です。また櫻井の田た部べの連の祖そせ先んのシマタリネの女のイトヰ姫と結婚してお生みになつた御子はハヤブサワケの命お一方です。また日向のイヅミノナガ姫と結婚してお生みになつた御子はオホハエの王・ヲハエの王・ハタビの若郎女のお三方です。またカグロ姫と結婚してお生みになつた御子はカハラダの郎女・タマの郎女・オシサカノオホナカツ姫・トホシの郎女・カタヂの王の御五方です。またカヅラキノノノイロメと結婚してお生みになつた御子は、イザノマワカの王お一方です。すべてこの天皇の御子たちは合わせて二十六王おいで遊あそばされました。男王十一人女王十五人です。この中でオホサザキの命は天下をお治めになりました。
――天皇が、兄弟の御子に對してテストをされる。その結果弟が帝位を繼承することになる。これもきまつた型で、兄の系統ではあるが、臣下となつたという説明の物語である。これはあとに後續の説話がある。――
ここに天皇がオホヤマモリの命とオホサザキの命とに﹁あなたたちは兄である子と弟である子とは、どちらがかわいいか﹂とお尋ねなさいました。天皇がかようにお尋ねになつたわけは、ウヂの若郎子に天下をお授けになろうとする御心がおありになつたからであります。しかるにオホヤマモリの命は、﹁上の子の方がかわゆく思われます﹂と申しました。次にオホサザキの命は天皇のお尋ね遊ばされる御心をお知りになつて申されますには、﹁大きい方の子は既に人となつておりますから案ずることもございませんが、小さい子はまだ若いのですから愛らしく思われます﹂と申しました。そこで天皇の仰せになりますには、﹁オホサザキよ、あなたの言うのはわたしの思う通りです﹂と仰せになつて、そこでそれぞれに詔みことのりを下されて、﹁オホヤマモリの命は海や山のことを管理なさい。オホサザキの命は天下の政治を執つて天皇に奏上なさい。ウヂの若郎子は帝位におつきなさい﹂とお分わけになりました。依つてオホサザキの命は父君の御命令に背きませんでした。
――國ほめの歌曲の一つ。――
或る時、天皇が近江の國へ越えてお出ましになりました時に、宇治野の上にお立ちになつて葛かず野のを御覽になつてお詠みになりました御歌、
葉の茂しげつた葛かず野のを見れば、
幾千も富み榮えた家居が見える、
國の中での良い處が見える。
――蟹と鹿とは、古代の主要な食料であつた。その蟹を材料とした歌曲の物語である。ここではワニ氏の女が關係するが、ワニ氏は後に春日氏ともいい、しばしば皇室に女を奉り、歌物語を多く傳えた家である。――
かくて木こば幡たの村においでになつた時に、その道で美しい孃子にお遇いになりました。そこで天皇がその孃子に、﹁あなたは誰の子か﹂とお尋ねになりましたから、お答え申し上げるには、﹁ワニノヒフレのオホミの女のミヤヌシヤガハエ姫でございます﹂と申しました。天皇がその孃子に﹁わたしが明日還る時にあなたの家にはいりましよう﹂と仰せられました。そこでヤガハエ姫がその父に詳しくお話しました。依つて父の言いますには、﹁これは天皇陛下でおいでになります。恐れ多いことですから、わが子よ、お仕え申し上げなさい﹂と言つて、その家をりつぱに飾り立て、待つておりましたところ、あくる日においでになりました。そこで御馳走を奉る時に、そのヤガハエ姫にお酒さか盞ずきを取らせて獻りました。そこで天皇がその酒盞をお取りになりながらお詠み遊ばされた歌、
この蟹かにはどこの蟹だ。
遠くの方の敦つる賀がの蟹です。
横よこ歩あるきをして何處へ行くのだ。
イチヂ島・ミ島について、
カイツブリのように水に潛くぐつて息いきをついて、
高低のあるササナミへの道を
まつすぐにわたしが行ゆきますと、
木こば幡たの道で出逢つた孃おと子め、
後うし姿ろすがたは楯のようだ。
齒竝びは椎しいの子みや菱ひしの實のようだ。
櫟いち井いの丸わに邇さ坂かの土つちを
上うえの土つちはお色いろが赤い、
底の土は眞まつ黒くろゆえ
眞まん中なかのその中の土を
かぶりつく直じか火びには當てずに
畫かき眉まゆを濃く畫いて
お逢あいになつた御婦人、
このようにもとわたしの見たお孃さん、
あのようにもとわたしの見たお孃さんに、
思いのほかにも向かつていることです。
添つていることです。
かくて御結婚なすつてお
――酒宴で孃子を贈り、また孃子を得た喜びの歌曲。古く諸縣舞 という舞があつたが、關係があるかもしれない。――
また天皇が、日向の國の諸むら縣がたの君の女むすめの髮かみ長なが姫ひめが美しいとお聞きになつて、お使い遊ばそうとして、お召めし上げなさいます時に、太子のオホサザキの命がその孃子の難波津に船つきしているのを御覽になつて、その容姿のりつぱなのに感心なさいまして、タケシウチの宿すく禰ねにお頼みになるには﹁この日向からお召し上げになつた髮長姫を、陛下の御もとにお願いしてわたしに賜わるようにしてくれ﹂と仰せられました。依つてタケシウチの宿禰の大臣が天皇の仰せを願いましたから、天皇が髮長姫をその御子にお授けになりました。お授けになる樣は、天皇が御酒宴を遊ばされた日に、髮長姫にお酒を注ぐ柏かし葉わを取らしめて、その太子に賜わりました。そこで天皇のお詠み遊ばされた歌は、
さあお前まえたち、野のび蒜る摘つみに
蒜ひる摘つみにわたしの行く道の
香こうばしい花はな橘たちばなの樹、
上の枝は鳥がいて枯らし
下の枝は人が取つて枯らし、
三みつ栗ぐりのような眞まん中なかの枝の
目立つて見える紅顏のお孃さんを
さあ手に入れたら宜いでしよう。
また、
水のたまつている依よさ網みの池の
堰せき杙くいを打うつてあつたのを知しらずに
ジュンサイを手た繰ぐつて手の延びていたのを知しらずに
氣のつかない事をして殘念だつた。
かようにお歌いになつて賜わりました。その孃子を賜わつてから後に太子のお詠みになつた歌、
遠い國の古こ波は陀だのお孃さんを、
雷かみ鳴なりのように音高く聞いていたが、
わたしの妻つまとしたことだつた。
また、
遠い國の古こ波は陀だのお孃さんが、
爭わずにわたしの妻となつたのは、
かわいい事さね。
――吉野山中の土民の歌曲。――
天子樣の日の御子である
オホサザキ樣、
オホサザキ樣のお佩はきになつている大刀は、
本は鋭く、切きつ先さきは魂あり、
冬木のすがれの下の木のように
さやさやと鳴り渡る。
また吉野のカシの木のほとりに臼を作つて、その臼でお酒を造つて、その酒を獻つた時に、口鼓を撃ち演技をして歌つた歌、
カシの木の原に横の廣い臼を作り
その臼に釀かもしたお酒、
おいしそうに召し上がりませ、
わたしの父とうさん。
この歌は、クズどもが土地の産物を獻る時に、常に今でも歌う歌であります。
――大陸の文化の渡來した記憶がまとめて語られる。多くは朝鮮を通して、また直接にも。――
この御世に、海あま部べ・山部・山守部・伊勢部をお定めになりました。劒の池を作りました。また新しら羅ぎび人とが渡つて來ましたので、タケシウチの宿禰がこれを率ひきいて堤の池に渡つて百くだ濟らの池を作りました。
また百くだ濟らの國王照しよ古うこ王おうが牡おう馬ま一疋・牝めう馬ま一疋をアチキシに付けて貢たてまつりました。このアチキシは阿あ直ちの史ふみ等ひとの祖先です。また大刀と大鏡とを貢りました。また百濟の國に、もし賢人があれば貢れと仰せられましたから、命を受けて貢つた人はワニキシといい、論語十卷・千字じも文ん一卷、合わせて十一卷をこの人に付けて貢りました。また工人の鍛か冶じ屋や卓たく素そという者、また機はたを織る西さい素その二人をも貢りました。秦はたの造みやつこ、漢あやの直あたえの祖先、それから酒を造ることを知しつているニホ、またの名なをススコリという者等も渡つて參りました。このススコリはお酒を造つて獻りました。天皇がこの獻つたお酒に浮かれてお詠みになつた歌は、
ススコリの釀かもしたお酒にわたしは醉いましたよ。
平へい和わなお酒、樂しいお酒にわたしは醉いましたよ。
かようにお歌いになつておいでになつた時に、御杖で大坂の道の中にある大石をお打ちになつたから、その石が逃げ走りました。それで諺ことわざに﹁堅い石でも醉よつ人ぱらいに遇うと逃げる﹂というのです。
――オホヤマモリの命を始祖と稱する山部の人々の傳えた物語。――
かくして天皇がお崩かくれになつてから、オホサザキの命は天皇の仰せのままに天下をウヂの若郎子に讓りました。しかるにオホヤマモリの命は天皇の命に背いてやはり天下を獲えようとして、その弟の御子を殺そうとする心があつて、竊に兵士を備えて攻めようとしました。そこでオホサザキの命はその兄が軍をお備えになることをお聞きになつて、使を遣つてウヂの若郎子に告げさせました。依つてお驚きになつて、兵士を河のほとりに隱し、またその山の上にテントを張り、幕を立てて、詐つて召使を王樣として椅子にいさせ、百官が敬禮し往來する樣はあたかも王のおいでになるような有樣にして、また兄の王の河をお渡りになる時の用意に、船ふねを具え飾り、さな葛かずらという蔓草の根を臼でついて、その汁の滑なめを取り、その船の中の竹すの簀こに塗つて、蹈めば滑すべつて仆れるように作り、御子はみずから布の衣裝を著て、賤しい者の形になつて棹を取つて立ちました。ここにその兄の王が兵士を隱し、鎧よろいを衣の中に著せて、河のほとりに到つて船にお乘りになろうとする時に、そのいかめしく飾つた處を見遣つて、弟の王がその椅子においでになるとお思いになつて、棹を取つて船に立つておいでになることを知らないで、その棹を取つている者にお尋ねになるには、﹁この山には怒つた大猪があると傳え聞いている。わしがその猪を取ろうと思うが取れるだろうか﹂とお尋ねになりましたから、棹を取つた者は﹁それは取れますまい﹂と申しました。また﹁どうしてか﹂とお尋ねになつたので、﹁たびたび取ろうとする者があつたが取れませんでした。それだからお取りになれますまいと申すのです﹂と申しました。さて、渡つて河中に到りました時に、その船を傾けさせて水の中に落し入れました。そこで浮き出て水のまにまに流れ下りました。流れながら歌いました歌は、
流れの早い宇治川の渡場に
棹を取るに早い人はわたしのなかまに來てくれ。
そこで河の邊に隱れた兵士が、あちこちから一時に起つて矢をつがえて攻めて川を流れさせました。そこでカワラの埼さきに到つて沈みました。それで鉤かぎをもつて沈んだ處を探りましたら、衣の中の鎧にかかつてカワラと鳴りました。依つて其處の名をカワラの埼というのです。その屍體を掛け出した時に歌つた弟の王の御歌、
流れの早い宇治川の渡場に
渡場に立つている梓弓とマユミの木、
切ろうと心には思うが
取ろうと心には思うが、
本の方では君を思い出し
末の方では妻を思い出し
いらだたしく其處で思い出し
かわいそうに其處で思い出し、
切らないで來た梓弓とマユミの木。
そのオホヤマモリの命の屍體をば奈良山に葬りました。このオホヤマモリの命は、土ひじ形かたの君・幣へ岐きの君・榛はり原はらの君等の祖先です。
かくてオホサザキの命とウヂの若郎子とお二方、おのおの天下をお讓りになる時に、海あ人まが貢物を獻りました。依つて兄の王はこれを拒んで弟の王に獻らしめ、弟の王はまた兄の王に獻らしめて、互にお讓りになる間にあまたの日を經ました。かようにお讓り遊ばされることは一度二度でありませんでしたから、海人は往來に疲れて泣きました。それで諺に、﹁海人だから自分の物ゆえに泣くのだ﹂というのです。しかるにウヂの若郎子は早くお隱れになりましたから、オホサザキの命が天下をお治めなさいました。
――異類婚姻説話の一つ、朝鮮系統のものである。終りに出石神社の由來がある。但馬の國の語部が傳えたのだろう。――
また新しら羅ぎの國王の子の天あめの日ひほ矛こという者がありました。この人が渡つて參りました。その渡つて來た故は、新羅の國に一つの沼がありまして、アグ沼といいます。この沼の邊で或る賤の女が晝寢をしました。其處に日の光が虹のようにその女にさしましたのを、或る賤の男がその有樣を怪しいと思つて、その女の状を伺いました。しかるにその女はその晝寢をした時から姙んで、赤い玉を生みました。
その伺つていた賤の男がその玉を乞い取つて、常に包つつんで腰につけておりました。この人は山谷の間で田を作つておりましたから、耕作する人たちの飮食物を牛に負わせて山谷の中にはいりましたところ、國王の子の天の日矛が遇いました。そこでその男に言うには、﹁お前はなぜ飮食物を牛に背負わせて山谷にはいるのか。きつとこの牛を殺して食うのだろう﹂と言つて、その男を捕えて牢に入れようとしましたから、その男が答えて言うには、﹁わたくしは牛を殺そうとは致しません。ただ農夫の食物を送るのです﹂と言いました。それでも赦しませんでしたから、腰につけていた玉を解いてその國王の子に贈りました。依つてその男を赦して、玉を持つて來て床の邊に置きましたら、美しい孃子になり、遂に婚姻して本妻としました。その孃子は、常に種々の珍味を作つて、いつもその夫に進めました。しかるにその國王の子が心奢おごりして妻を詈ののしりましたから、その女が﹁大體わたくしはあなたの妻になるべき女ではございません。母上のいる國に行きましよう﹂と言つて、竊に小船に乘つて逃げ渡つて來て難波に留まりました。これは難波のヒメゴソの社においでになるアカル姫という神です。
そこで天の日矛がその妻の逃げたことを聞いて、追い渡つて來て難波にはいろうとする時に、その海上の神が、塞いで入れませんでした。依つて更に還つて、但たじ馬まの國に船泊はてをし、その國に留まつて、但馬のマタヲの女のマヘツミと結婚して生うんだ子はタヂマモロスクです。その子がタヂマヒネ、その子がタヂマヒナラキ、その子は、タヂマモリ・タヂマヒタカ・キヨ彦の三人です。このキヨ彦がタギマノメヒと結婚して生うんだ子がスガノモロヲとスガカマユラドミです。上に擧げたタヂマヒタカがその姪めいのユラドミと結婚して生んだ子が葛城のタカヌカ姫の命で、これがオキナガタラシ姫の命︵神功皇后︶の母君です。
この天の日矛の持つて渡つて來た寶物は、玉つ寶という玉の緒に貫いたもの二本、また浪振る領ひ巾れ・浪切る領巾・風振る領巾・風切る領巾・奧つ鏡・邊つ鏡、合わせて八種です。これらはイヅシの社やしろに祭まつつてある八神です。
――同じく異類婚姻説話であるが、前の物語に比してずつと日本ふうになつている。海幸山幸物語との類似點に注意。――
ここに神の女むすめ、イヅシ孃子という神がありました。多くの神がこのイヅシ孃子を得ようとしましたが得られませんでした。ここに秋山の下した氷ひお壯と夫こ・春山の霞かす壯みお夫とこという兄弟の神があります。その兄が弟に言いますには、﹁わたしはイヅシ孃子を得ようと思いますけれども得られません。お前はこの孃子を得られるか﹂と言いましたから、﹁たやすいことです﹂と言いました。そこでその兄の言いますには、﹁もしお前がこの孃子を得たなら、上下の衣服をゆずり、身の丈たけほどに甕かめに酒を造り、また山河の産物を悉く備えて御馳走をしよう﹂と言いました。そこでその弟が兄の言つた通りに詳しく母親に申しましたから、その母親が藤の蔓を取つて、一夜のほどに衣ころも・褌はかま・襪くつした・沓くつまで織り縫い、また弓矢を作つて、衣裝を著せその弓矢を持たせて、その孃子の家に遣りましたら、その衣裝も弓矢も悉く藤の花になりました。そこでその春山の霞壯夫が弓ゆみ矢やを孃子の厠に懸けましたのを、イヅシ孃子がその花を不思議に思つて、持つて來る時に、その孃子のうしろに立つて、その部屋にはいつて結婚をして、一人の子を生みました。
そこでその兄に﹁わたしはイヅシ孃子を得ました﹂と言う。しかるに兄は弟の結婚したことを憤つて、その賭けた物を償いませんでした。依つてその母に訴えました。母親が言うには、﹁わたしたちの世の事は、すべて神の仕業に習うものです。それだのにこの世の人の仕業に習つてか、その物を償わない﹂と言つて、その兄の子を恨んで、イヅシ河の河島の節のある竹を取つて、大きな目の荒い籠を作り、その河の石を取つて、鹽にまぜて竹の葉に包んで、詛のろ言いごとを言つて、﹁この竹の葉の青いように、この竹の葉の萎しおれるように、青くなつて萎れよ。またこの鹽の盈みちたり乾ひたりするように盈ち乾よ。またこの石の沈むように沈み伏せ﹂と、このように詛のろつて、竈かまどの上に置かしめました。それでその兄が八年もの間、乾かわき萎しおれ病やみ伏ふしました。そこでその兄が、泣なき悲しんで願いましたから、その詛のろいの物をもとに返しました。そこでその身がもとの通りに安らかになりました。
――允恭天皇の皇后の出る系譜であり、後に繼體天皇が、この系統から出る。――
このホムダの天皇の御子のワカノケフタマタの王が、その母の妹のモモシキイロベ、またの名はオトヒメマワカ姫の命と結婚して生んだ子は、大郎子、またの名はオホホドの王・オサカノオホナカツ姫の命・タヰノナカツ姫・タミヤノナカツ姫・フヂハラノコトフシの郎女・トリメの王・サネの王の七人です。そこでオホホドの王は、三國の君・波多の君・息おき長ながの君・筑紫の米多の君・長坂の君・酒人の君・山道の君・布勢の君の祖先です。またネトリの王が庶妹ミハラの郎女と結婚して生んだ子は、ナカツ彦の王、イワシマの王のお二方です。またカタシハの王の子はクヌの王です。すべてこのホムダの天皇は御年百三十歳、甲午の九月九日にお隱れになりました。御陵は河内の惠え賀がの裳もふ伏しの岡にあります。
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古事記 下の卷
一、仁徳天皇
オホサザキの命︵仁徳天皇︶、難なに波わの高たか津つの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、葛城のソツ彦の女の石いわの姫ひめの命︵皇后︶と結婚してお生みになつた御子は、オホエノイザホワケの命・スミノエノナカツの王・タヂヒノミヅハワケの命・ヲアサヅマワクゴノスクネの命のお四方です。また上にあげたヒムカノムラガタの君ウシモロの女の髮長姫と結婚してお生みになつた御み子こはハタビの大郎子、またの名はオホクサカの王・ハタビの若郎女、またの名はナガメ姫の命、またの名はワカクサカベの命のお二方です。また庶妹ヤタの若郎女と結婚し、また庶妹ウヂの若郎女と結婚しました。このお二方は御子がありません。すべてこの天皇の御子たち合わせて六王ありました。男王五人女王一人です。この中、イザホワケの命は天下をお治めなさいました。次にタヂヒノミヅハワケの命も天下をお治めなさいました。次にヲアサヅマワクゴノスクネの命も天下をお治めなさいました。この天皇の御世に皇后石いわの姫ひめの命の御名の記念として葛城部をお定めになり、皇太子イザホワケの命の御名の記念として壬生部をお定めになり、またミヅハワケの命の御名の記念として蝮たじ部ひべをお定めになり、またオホクサカの王の御名の記念として大おお日くさ下か部べをお定めになり、ワカクサカベの王の御名の記念として若日下部をお定めになりました。
――撫民厚生の御事蹟を取りあつめている。聖の御世というのは、外來思想で、文字による文化が行われていたことを語る。――
この御世に大陸から來た秦はた人びとを使つて、茨うま田らだの堤、茨田の御倉をお作りになり、また丸わ邇にの池、依よさ網みの池をお作りになり、また難波の堀江を掘つて海に通わし、また小おば椅しの江を掘り、墨すみ江のえの舟つきをお定めになりました。
或る時、天皇、高山にお登りになつて、四方を御覽になつて仰せられますには、﹁國内に烟が立つていない。これは國がすべて貧しいからである。それで今から三年の間人民の租税勞役をすべて免せ﹂と仰せられました。この故に宮殿が破壞して雨が漏りますけれども修繕なさいません。樋ひを掛けて漏る雨を受けて、漏らない處にお遷り遊ばされました。後に國中を御覽になりますと、國に烟が滿ちております。そこで人民が富んだとお思いになつて、始めて租税勞役を命ぜられました。それですから人民が榮えて、勞役に出るのに苦くるしみませんでした。それでこの御世を稱えて聖ひじりの御世と申します。
――吉備氏の榮えるに至つた由來の物語。――
皇后石の姫の命は非常に嫉妬なさいました。それで天皇のお使いになつた女たちは宮の中にも入りません。事が起ると足あし擦ずりしてお妬みなさいました。しかるに天皇、吉き備びの海あま部べの直あたえの女、黒くろ姫ひめという者が美しいとお聞き遊ばされて、喚めし上げてお使いなさいました。しかしながら皇后樣のお妬みになるのを畏れて本國に逃げ下りました。天皇は高殿においで遊ばされて、黒姫の船出するのを御覽になつて、お歌い遊ばされた御歌、
沖おきの方ほうには小おぶ舟ねが續いている。
あれは愛いとしのあの子こが
國へ歸るのだ。
皇后樣はこの歌をお聞きになつて非常にお怒りになつて、船出の場所に人を遣つて、船から黒姫を追い下して歩かせて追いはらいました。
ここに天皇は黒姫をお慕い遊ばされて、皇后樣に欺いつわつて、淡路島を御覽になると言われて、淡路島においでになつて遙にお眺めになつてお歌いになつた御歌、
海の照り輝く難波の埼から
立ち出でて國々を見やれば、
アハ島やオノゴロ島
アヂマサの島も見える。
サケツ島も見える。
そこでその島から傳つて吉備の國においでになりました。そこで黒姫がその國の山の御園に御案内申し上げて、御食物を獻りました。そこで羮あつものを獻ろうとして青菜を採つんでいる時に、天皇がその孃子の青菜を採む處においでになつて、お歌いになりました歌は、
山の畑に蒔いた青菜も
吉備の人と一緒に摘むと
樂しいことだな。
天皇が京に上つておいでになります時に、黒姫の獻つた歌は、
大和の方へ西風が吹き上げて
雲が離れるように離れていても
忘れは致しません。
また、
大和の方へ行くのは誰どな方たさ樣までしよう。
地の下の水のように、心の底で物思いをして
行くのは誰どな方たさ樣までしよう。
――靜歌の歌い返しと稱する歌曲にまつわる物語。それに鳥山の歌が插入されている。――
これより後に皇后樣が御宴をお開きになろうとして、柏かしわの葉を採りに紀伊の國においでになつた時に、天皇がヤタの若郎女と結婚なさいました。ここに皇后樣が柏の葉を御船にいつぱいに積んでお還りになる時に、水取の役所に使われる吉備の國の兒島郡の仕しち丁ようが自分の國に歸ろうとして、難波の大おお渡わたりで遲れた雜ぞう仕しお女んなの船に遇いました。そこで語りますには﹁天皇はこのごろヤタの若郎女と結婚なすつて、夜晝戲れておいでになります。皇后樣はこの事をお聞き遊ばさないので、しずかに遊んでおいでになるのでしよう﹂と語りました。そこでその女がこの語つた言葉を聞いて、御船に追いついて、その仕丁の言いました通りに有樣を申しました。
そこで皇后樣が非常に恨み、お怒りになつて、御船に載せた柏かしわの葉を悉く海に投げ棄てられました。それで其處を御み津つの埼と言うのです。そうして皇居におはいりにならないで、船を曲げて堀江に溯らせて、河のままに山城に上つておいでになりました。この時にお歌いになつた歌は、
山また山の山城川を
上流へとわたしが溯れば、
河のほとりに生い立つているサシブの木、
そのサシブの木の
その下に生い立つている
葉の廣い椿の大樹、
その椿の花のように輝いており
その椿の葉のように廣らかにおいでになる
わが陛下です。
それから山城からつて、奈良の山口においでになつてお歌いになつた歌、
山また山の山城川を
御殿の方へとわたしが溯れば、
うるわしの奈良山を過ぎ
青山の圍んでいる大和を過ぎ
わたしの見たいと思う處は、
葛かず城らきの高臺の御殿、
故郷の家のあたりです。
かように歌つてお還りになつて、しばらく筒つつ木きの韓人のヌリノミの家におはいりになりました。天皇は皇后樣が山城を通つて上つておいでになつたとお聞き遊ばされて、トリヤマという舍とね人りをお遣りになつて歌をお送りなさいました。その御歌は、
山やま城しろに追おい附つけ、トリヤマよ。
追い附け、追い附け。最愛の我が妻に追い附いて逢えるだろう。
續つづいて丸わ邇にの臣おみクチコを遣して、御歌をお送りになりました。
ミモロ山の高たか臺だいにある
オホヰコの原。
その名のような大おお豚ぶたの腹にある
向き合つている臟き腑も、せめて心だけなりと
思わないで居られようか。
またお歌い遊ばされました御歌、
山やままた山やまの山城の女が
木の柄のついた鍬くわで掘つた大根、
その眞まつ白しろな白い腕を
交かわさずに來たなら、知らないとも云えようが。
このクチコの臣がこの御歌を申すおりしも雨が非常に降つておりました。しかるにその雨をも避けず、御殿の前の方に參り伏せば入れ違つて後うしろの方においでになり、御殿の後の方に參り伏せば入れ違つて前の方においでになりました。それで匐はつて庭の中に跪ひざまずいている時に、雨水がたまつて腰につきました。その臣は紅い紐をつけた藍あい染ぞめの衣を著ておりましたから、水みず潦たまりが赤い紐に觸れて青が皆赤くなりました。そのクチコの臣の妹のクチ姫は皇后樣にお仕えしておりましたので、このクチ姫が歌いました歌、
山やま城しろの筒つつ木きの宮みやで
申し上げている兄上を見ると、
涙ぐまれて參ります。
そこで皇后樣がそのわけをお尋ねになる時に、﹁あれはわたくしの兄のクチコの臣でございます﹂と申し上げました。
そこでクチコの臣、その妹のクチ姫、またヌリノミが三人して相談して天皇に申し上げましたことは、﹁皇后樣のおいで遊ばされたわけは、ヌリノミの飼つている蟲が、一度は這はう蟲になり、一度は殼からになり、一度は飛ぶ鳥になつて、三色に變るめずらしい蟲があります。この蟲を御覽になるためにおはいりなされたのでございます。別に變つたお心はございません﹂とかように申しました時に、天皇は﹁それではわたしも不思議に思うから見に行こう﹂と仰せられて、大宮から上つておいでになつて、ヌリノミの家におはいりになつた時に、ヌリノミが自分の飼つている三色に變る蟲を皇后樣に獻りました。そこで天皇がその皇后樣のおいでになる御殿の戸にお立ちになつて、お歌い遊ばされた御歌、
山また山の山城の女が
木の柄のついた鍬で掘つた大根、
そのようにざわざわとあなたが云うので、
見渡される樹の茂みのように
賑にぎやかにやつて來たのです。
この天皇と皇后樣とお歌いになつた六首の歌は、靜歌の歌い返しでございます。
――八田部の人々の傳承であろう。――
ヤタの一本菅は、
子を持たずに荒れてしまうだろうが、
惜しい菅原だ。
言葉でこそ菅原というが、
惜しい清らかな女だ。
ヤタの若郎女のお返しの御歌は、
八や田たの一いつ本ぽん菅すげはひとりで居りましても、
陛下が良いと仰せになるなら、ひとりでおりましても。
――もと鳥のハヤブサとサザキとが女鳥を爭う形で、劇的に構成されている。――
メトリの女王の織つていらつしやる機はたは、
誰の料でしようかね。
メトリの王の御返事の歌、
大おお空ぞら高たかく飛とぶハヤブサワケの王のお羽織の料です。
それで天皇はその心を御承知になつて、宮にお還りになりました。この後にハヤブサワケの王が來ました時に、メトリの王のお歌いになつた歌は、
雲雀は天に飛び翔ります。
大空高く飛ぶハヤブサワケの王樣、
サザキをお取り遊ばせ。
天皇はこの歌をお聞きになつて、兵士を遣わしてお殺しになろうとしました。そこでハヤブサワケの王とメトリの王と、共に逃げ去つて、クラハシ山に登りました。そこでハヤブサワケの王が歌いました歌、
梯はし子ごを立てたような、クラハシ山が嶮けわしいので、
岩に取り附きかねて、わたしの手をお取りになる。
また、
梯はし子ごを立てたようなクラハシ山は嶮しいけれど、
わが妻と登れば嶮しいとも思いません。
それから逃げて、宇う陀だのソニという處に行き到りました時に、兵士が追つて來て殺してしまいました。
その時に將軍山部の大おお楯だてが、メトリの王の御手に纏まいておいでになつた玉の腕飾を取つて、自分の妻に與えました。その後に御宴が開かれようとした時に、氏々の女どもが皆朝廷に參りました。その時大楯の妻はかのメトリの王の玉の腕飾を自分の手に纏いて參りました。そこで皇后石いわの姫の命が、お手ずから御み酒きの柏かしわの葉をお取りになつて、氏々の女どもに與えられました。皇后樣はその腕飾を見知つておいでになつて、大楯の妻には御酒の柏の葉をお授けにならないでお引きになつて、夫の大楯を召し出して仰せられましたことは、﹁あのメトリの王たちは無禮でしたから、お退けになつたので、別の事ではありません。しかるにその奴やつは自分の君の御手に纏いておいでになつた玉の腕飾を、膚はだも温あたたかいうちに剥ぎ取つて持つて來て、自分の妻に與えたのです﹂と仰せられて、死刑に行われました。
――御世の榮えを祝う歌曲。――
また或る時、天皇が御宴をお開きになろうとして、姫ひめ島じまにおいでになつた時に、その島に雁が卵を生みました。依つてタケシウチの宿禰を召して、歌をもつて雁の卵を生んだ樣をお尋ねになりました。その御歌は、
わが大臣よ、
あなたは世にも長壽の人だ。
この日本の國に
雁が子を生んだのを聞いたことがあるか。
ここにタケシウチの宿禰は歌をもつて語りました。
高く光り輝く日の御子樣、
よくこそお尋ねくださいました。
まことにもお尋ねくださいました。
わたくしこそはこの世の長壽の人間ですが、
この日本の國に
雁が子を生んだとはまだ聞いておりません。
かように申して、お琴を戴いて續けて歌いました。
陛へい下かが初はじめてお聞き遊ばしますために
雁は子を生むのでございましよう。
これは
――琴の歌。――
この御世にウキ河の西の方に高い樹がありました。その樹の影は、朝日に當れば淡路島に到り、夕日に當れば河内の高安山を越えました。そこでこの樹を切つて船に作りましたところ、非常に早はやく行く船でした。その船の名はカラノといいました。それでこの船で、朝夕に淡路島の清水を汲んで御料の水と致しました。この船が壞こわれましてから、鹽を燒き、その燒け殘つた木を取つて琴に作りましたところ、その音が七郷に聞えました。それで歌に、
船ふねのカラノで鹽を燒いて、
その餘りを琴に作つて、
彈きなせば、鳴るユラの海峽の
海中の岩に觸れて立つている
海の木のようにさやさやと鳴なり響く。
と歌いました。これは靜しず歌うたの歌うたい返かえしです。
この天皇は御年八十三歳、丁ひの卯とうの年の八月十五日にお隱れなさいました。御陵は毛も受ずの耳原にあります。
二、履中天皇・反正天皇
――大和の漢 氏、多治比部などの傳承の物語。――
御子のイザホワケの王︵履中天皇︶、大和のイハレの若わか櫻ざくらの宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇、葛かず城らきのソツ彦の子このアシダの宿禰の女の黒くろ姫ひめの命と結婚してお生うみになつた御み子こは、市いちの邊べのオシハの王・ミマの王・アヲミの郎いら女つめ、又の名はイヒトヨの郎女のお三方かたです。
はじめ難波の宮においでになつた時に、大嘗の祭を遊ばされて、御み酒きにお浮かれになつて、お寢やすみなさいました。ここにスミノエノナカツ王が惡い心を起して、大殿に火をつけました。この時に大和の漢あやの直あたえの祖先のアチの直あたえが、天皇をひそかに盜み出して、お馬にお乘せ申し上げて大和にお連れ申し上げました。そこで河内のタヂヒ野においでになつて、目がお寤さめになつて﹁此處は何處だ﹂と仰せられましたから、アチの直が申しますには、﹁スミノエノナカツ王が大殿に火をつけましたのでお連れ申して大和に逃げて行くのです﹂と申しました。そこで天皇がお歌いになつた御歌、
タヂヒ野で寢ようと知つたなら
屏風をも持つて來たものを。
寢ようと知つたなら。
ハニフ坂においでになつて、難波の宮を遠望なさいましたところ、火がまだ燃えておりました。そこでお歌いになつた御歌、
ハニフ坂にわたしが立つて見れば、
盛んに燃える家々は
妻が家のあたりだ。
かくて二ふた上かみ山やまの大坂の山口においでになりました時に、一人の女が來ました。その女の申しますには、﹁武器を持つた人たちが大勢この山を塞いでおります。當たぎ麻ま路じからつて、越えておいでなさいませ﹂と申し上げました。依つて天皇の歌われました御歌は、
大坂で逢あつた孃おと子め。
道を問えば眞まつ直すぐにとはいわないで
當たぎ麻ま路じを教えた。
それから上つておいでになつて、石いその上かみの神宮においで遊ばされました。
ここに皇弟ミヅハワケの命が天皇の御おん許もとにおいでになりました。天皇が臣下に言わしめられますには、﹁わたしはあなたがスミノエノナカツ王と同じ心であろうかと思うので、物を言うまい﹂と仰せられたから、﹁わたくしは穢きたない心はございません。スミノエノナカツ王と同じ心でもございません﹂とお答え申し上げました。また言わしめられますには、﹁それなら今還つて行つて、スミノエノナカツ王を殺して上つておいでなさい。その時にはきつとお話をしよう﹂と仰せられました。依つて難波に還つておいでになりました。スミノエノナカツ王に近く仕えているソバカリという隼はや人とを欺あざむいて、﹁もしお前がわたしの言うことをきいたら、わたしが天皇となり、お前を大臣にして、天下を治めようと思うが、どうだ﹂と仰せられました。ソバカリは﹁仰せのとおりに致しましよう﹂と申しました。依つてその隼人に澤山物をやつて、﹁それならお前の王をお殺し申せ﹂と仰せられました。ここにソバカリは、自分の王が厠にはいつておられるのを伺つて、矛ほこで刺し殺しました。それでソバカリを連れて大和に上つておいでになる時に、大坂の山口においでになつてお考えになるには、ソバカリは自分のためには大きな功績があるが、自分の君を殺したのは不義である。しかしその功績に報じないでは信を失うであろう。しかも約束のとおりに行つたら、かえつてその心が恐しい。依つてその功績には報じてもその本人を殺してしまおうとお思いになりました。かくてソバカリに仰せられますには、﹁今日は此處に留まつて、まずお前に大臣の位を賜わつて、明日大和に上ることにしよう﹂と仰せられて、その山口に留まつて假宮を造つて急に酒宴をして、その隼人に大臣の位を賜わつて百官をしてこれを拜ましめたので、隼人が喜んで志成つたと思つていました。そこでその隼人に﹁今日は大臣と共に一つ酒盞の酒を飮もう﹂と仰せられて、共にお飮みになる時に、顏を隱す大きな椀にその進める酒を盛りました。そこで王子がまずお飮みになつて、隼人が後に飮みます。その隼人の飮む時に大きな椀が顏を覆いました。そこで座の下にお置きになつた大刀を取り出して、その隼人の首をお斬りなさいました。かようにして明くる日に上つておいでになりました。依つて其處を近つ飛あす鳥かと名づけます。大和に上つておいでになつて仰せられますには、﹁今日は此處に留まつて禊はら祓いをして、明日出て神宮に參拜しましよう﹂と仰せられました。それで其處を遠つ飛鳥と名づけました。かくて石いその上かみの神宮に參つて、天皇に﹁すべて平定し終つて參りました﹂と奏上致しました。依つて召し入れて語られました。
ここにおいて、天皇がアチの直あたえを大藏の役人になされ、また領地をも賜わりました。またこの御世に若櫻部の臣等に若櫻部という名を賜わり、比ひ賣め陀だの君等に比賣陀の君という稱號を賜わりました。また伊波禮部をお定めなさいました。天皇は御年六十四歳、壬みず申のえさるの年の正月三日にお隱れになりました。御陵はモズにあります。
弟のミヅハワケの命︵反正天皇︶、河内の多た治じ比ひの柴しば垣がきの宮においでになつて天下をお治めなさいました。天皇は御身のたけが九尺二寸半、御齒の長さが一寸、廣さ二分、上下同じように齊そろつて珠をつらぬいたようでございました。
天皇はワニのコゴトの臣の女のツノの郎女と結婚してお生みになつた御子は、カヒの郎女・ツブラの郎女のお二方です。また同じ臣の女の弟姫と結婚してお生みになつた御子はタカラの王・タカベの郎女で合わせて四王おいでになります。天皇は御年六十歳、丁ひの丑とうしの年の七月にお隱れになりました。御陵はモズ野にあるということです。
三、允恭天皇
弟のヲアサヅマワクゴノスクネの王︵允恭天皇︶、大和の遠つ飛鳥の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、オホホドの王の妹のオサカノオホナカツ姫の命と結婚してお生みになつた御み子こは、キナシノカルの王・ヲサダの大郎女・サカヒノクロヒコの王・アナホの命・カルの大郎女・ヤツリノシロヒコの王・オホハツセの命・タチバナの大郎女・サカミの郎女の九王です。男王五人女王四人です。このうちアナホの命は天下をお治めなさいました。次にオホハツセの命も天下をお治めなさいました。カルの大郎女はまたの名を衣そと通おしの郎女と申しますのは、その御身の光が衣を通して出ましたからでございます。
――氏はその家の稱號であり、姓はその家の階級、種別であつてそれが社會組織の基本となつていた。長い間にはこれを僞るものもできたので、これをまとめて整理したのである。朝廷の勢力が強大でなくてはできない。――
初はじめ天てん皇のう、帝位にお即つきになろうとしました時に御辭退遊ばされて﹁わたしは長い病氣があるから帝位に即つくことができない﹂と仰せられました。しかし皇后樣をはじめ臣下たちも堅くお願い申しましたので、天下をお治めなさいました。この時に新羅の國主が御みつ調ぎも物のの船八十一艘を獻りました。その御調の大使は名なを金こみ波ぱち鎭にか漢に紀き武むと言いました。この人が藥の處方をよく知つておりましたので、天皇の御病氣をお癒し申し上げました。
ここに天皇が天下の氏々の人々の、氏うじ姓かばねの誤あやまつているのをお歎きになつて、大和のウマカシの言こと八やそ十ま禍が津つ日ひの埼さきにクカ瓮べを据えて、天下の臣民たちの氏姓をお定めになりました。またキナシノカルの太子の御名の記念として輕部をお定めになり、皇后樣の御名の記念として刑おさ部かべをお定めになり、皇后樣の妹のタヰノナカツ姫の御名の記念として河部をお定めになりました。天皇御年七十八歳、甲きの午えうまの年の正月十五日にお隱れになりました。御陵は河内の惠え賀がの長枝にあります。
――幾章かの歌曲によつて構成されている物語。輕部などの傳承であろう。――
山田を作つて、
山が高いので地の下に樋ひを通わせ、
そのように心の中でわたしの問い寄る妻、
心の中でわたしの泣いている妻を、
昨夜こそは我が手に入れたのだ。
これは志しら良げ宜う歌たです。また、
笹ささの葉はに霰あられが音おとを立たてる。
そのようにしつかりと共に寢た上は、
よしや君きみは別わかれても。
いとしの妻と寢たならば、
刈り取つた薦こも草くさのように亂れるなら亂れてもよい。
寢てからはどうともなれ。
これは夷ひな振ぶりの上あげ歌うたです。
そこで官吏を始めとして天下の人たち、カルの太子に背いてアナホの御子に心を寄せました。依つてカルの太子が畏れて大おお前まえ小おま前えの宿禰の大臣の家へ逃げ入つて、兵器を作り備えました。その時に作つた矢はその矢の筒を銅にしました。その矢をカル箭やといいます。アナホの御子も兵器をお作りになりました。その王のお作りになつた矢は今の矢です。これをアナホ箭やといいます。ここにアナホの御子が軍を起して大前小前の宿禰の家を圍みました。そしてその門に到りました時に大雨が降りました。そこで歌われました歌、
大前小前宿禰の家の門のかげに
お立ち寄りなさい。
雨をやませて行きましよう。
ここにその大前小前の宿禰が、手を擧げ膝を打つて舞い奏かなで、歌つて參ります。その歌は、
宮人の足に附けた小鈴が
落ちてしまつたと騷いでおります。
里さと人びともそんなに騷がないでください。
この歌は宮みや人びと曲ぶりです。かように歌いながらやつて來て申しますには、﹁わたしの御子樣、そのようにお攻めなされますな。もしお攻めになると人が笑うでしよう。わたくしが捕えて獻りましよう﹂と申しました。そこで軍を罷やめて去りました。かくて大前小前の宿禰がカルの太子を捕えて出て參りました。その太子が捕われて歌われた歌は、
空そら飛とぶ雁かり、そのカルのお孃さん。
あんまり泣くと人が氣づくでしよう。
それでハサの山の鳩のように
忍び泣きに泣いています。
また歌われた歌は、
空飛ぶ雁かり、そのカルのお孃さん、
しつかりと寄つて寢ていらつしやい
カルのお孃さん。
かくてそのカルの太子を伊い豫よの國の温泉に流しました。その流されようとする時に歌われた歌は、
空を飛ぶ鳥も使です。
鶴の聲が聞えるおりは、
わたしの事をお尋ねなさい。
この三首の歌は天あま田だぶ振りです。また歌われた歌は、
わたしを島に放ほう逐ちくしたら
船の片隅に乘つて歸つて來よう。
わたしの座席はしつかりと護つていてくれ。
言葉でこそ座席とはいうのだが、
わたしの妻を護つていてくれというのだ。
この歌は夷ひな振ぶりの片かた下おろしです。その時に衣通しの王が歌を獻りました。その歌は、
夏の草は萎なえます。そのあいねの濱の
蠣かきの貝殼に足をお蹈みなさいますな。
夜が明けてからいらつしやい。
後に戀しさに堪えかねて追つておいでになつてお歌いになりました歌、
おいで遊ばしてから日數が多くなりました。
ニワトコの木のように、お迎えに參りましよう。
お待ちしてはおりますまい。
かくて追つておいでになりました時に、太子がお待ちになつて歌われた歌、
隱れ國の泊瀬の山の
大きい高みには旗をおし立て
小さい高みには旗をおし立て、
おおよそにあなたの思い定めている
心盡しの妻こそは、ああ。
あの槻つき弓のように伏すにしても
梓あずさの弓のように立つにしても
後も出會う心盡しの妻は、ああ。
またお歌い遊ばされた歌は、
隱れ國の泊瀬の川の
上流の瀬には清らかな柱を立て
下流の瀬にはりつぱな柱を立て、
清らかな柱には鏡を懸け
りつぱな柱には玉を懸け、
玉のようにわたしの思つている女、
鏡のようにわたしの思つている妻、
その人がいると言うのなら
家にも行きましよう、故郷をも慕いましよう。
かように歌つて、ともにお隱れになりました。それでこの二つの歌は讀よみ歌うたでございます。
四、安康天皇
御子のアナホの御子︵安康天皇︶、石いその上かみの穴穗の宮においでになつて天下をお治めなさいました。天皇は、弟のオホハツセの王子のために、坂本の臣たちの祖先のネの臣を、オホクサカの王のもとに遣わして、仰せられましたことは﹁あなたの妹のワカクサカの王を、オホハツセの王と結婚させようと思うからさしあげるように﹂と仰せられました。そこでオホクサカの王は、四度拜禮して﹁おそらくはこのような御命令もあろうかと思いまして、それで外にも出さないでおきました。まことに恐れ多いことです。御命令の通りさしあげましよう﹂と申しました。しかし言葉で申すのは無禮だと思つて、その妹の贈物として、大きな木の玉の飾りを持たせて獻りました。ネの臣はその贈物の玉の飾りを盜み取つて、オホクサカの王を讒言していうには、﹁オホクサカの王は御命令を受けないで、自分の妹は同じほどの一族の敷物になろうかと言つて、大刀の柄つかをにぎつて怒りました﹂と申しました。それで天皇は非常にお怒りになつて、オホクサカの王を殺して、その王の正妻のナガタの大郎女を取つて皇后になさいました。
それから後に、天皇が神を祭つて晝お寢やすみになりました。ここにその皇后に物語をして﹁あなたは思うことがありますか﹂と仰せられましたので、﹁陛下のあついお惠みをいただきまして何の思うことがございましよう﹂とお答えなさいました。ここにその皇后樣の先の御子のマヨワの王が今年七歳でしたが、この王が、その時にその御殿の下で遊んでおりました。そこで天皇は、その子が御殿の下で遊んでいることを御承知なさらないで、皇后樣に仰せられるには﹁わたしはいつも思うことがある。それは何かというと、あなたの子のマヨワの王が成長した時に、わたしがその父の王を殺したことを知つたら、わるい心を起すだろう﹂と仰せられました。そこでその御殿の下で遊んでいたマヨワの王が、このお言葉を聞き取つて、ひそかに天皇のお寢やすみになつているのを伺つて、そばにあつた大刀を取つて、天皇のお頸くびをお斬り申してツブラオホミの家に逃げてはいりました。天皇は御年五十六歳、御陵は菅原の伏見の岡にあります。
ここにオホハツセの王は、その時少年でおいでになりましたが、この事をお聞きになつて、腹を立ててお怒りになつて、その兄のクロヒコの王のもとに行つて、﹁人が天皇を殺しました。どうしましよう﹂と言いました。しかしそのクロヒコの王は驚かないで、なおざりに思つていました。そこでオホハツセの王が、その兄を罵つて﹁一方では天皇でおいでになり、一方では兄弟でおいでになるのに、どうしてたのもしい心もなくその兄の殺されたことを聞きながら驚きもしないでぼんやりしていらつしやる﹂と言つて、着物の襟をつかんで引き出して刀を拔いて殺してしまいました。またその兄のシロヒコの王のところに行つて、樣子をお話なさいましたが、前のようになおざりにお思いになつておりましたから、クロヒコの王のように、その着物の襟をつかんで、引きつれて小おは治り田だに來て穴を掘つて立つたままに埋めましたから、腰を埋める時になつて、兩眼が飛び出して死んでしまいました。
また軍を起してツブラオホミの家をお圍みになりました。そこで軍を起して待ち戰つて、射出した矢が葦のように飛んで來ました。ここにオホハツセの王は、矛ほこを杖として、その内をのぞいて仰せられますには﹁わたしが話をした孃子は、もしやこの家にいるか﹂と仰せられました。そこでツブラオホミが、この仰せを聞いて、自分で出て來て、帶びていた武器を解いて、八度も禮拜して申しましたことは﹁先にお尋ねにあずかりました女むすめのカラ姫はさしあげましよう。また五か處のお倉をつけて獻りましよう。しかしわたくし自身の參りませんわけは、昔から今まで、臣下が王の御殿に隱れたことは聞きますけれども、王子が臣下の家にお隱れになつたことは、まだ聞いたことがありません。そこで思いますに、わたくしオホミは、力を盡して戰つても、決してお勝ち申すことはできますまい。しかしわたくしを頼んで、いやしい家におはいりになつた王子は、死んでもお棄て申しません﹂と、このように申して、またその武器を取つて、還りはいつて戰いました。そうして力窮まり矢も盡きましたので、その王子に申しますには﹁わたくしは負傷いたしました。矢も無くなりました。もう戰うことができません。どうしましよう﹂と申しましたから、その王子が、お答えになつて、﹁それならもう致し方がない。わたしを殺してください﹂と仰せられました。そこで刀で王子をさし殺して、自分の頸を切つて死にました。
――播磨の國のシジムの家に隱れていた二少年が見出されて、遂に帝位につく物語の前提である。物語は三六六ページ[#「三六六ページ」は「清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇」の「シジムの新築祝い」]に續く。――
それから後に、近江の佐さ々さ紀きの山の君の祖先のカラフクロが申しますには、﹁近江のクタワタのカヤ野に鹿が澤山おります。その立つている足は薄すす原きはらのようであり、頂いている角は枯かれ松まつのようでございます﹂と申しました。この時にイチノベノオシハの王を伴なつて近江においでになり、その野においでになつたので、それぞれ別に假宮を作つて、お宿りになりました。翌朝まだ日も出ない時に、オシハの王が何心なくお馬にお乘りになつて、オホハツセの王の假宮の傍にお立ちになつて、オホハツセの王のお伴の人に仰せられますには、﹁まだお目寤ざめになりませんか。早く申し上げるがよい。夜はもう明けました。獵場においでなさいませ﹂と仰せられて、馬を進めておいでになりました。そこでそのオホハツセの王のお側の人たちが、﹁變つた事をいう御子ですから、お氣をつけ遊ばせ。御おん身みをもお堅めになるがよいでしよう﹂と申しました。それでお召物の中に甲よろいをおつけになり、弓矢をお佩おびになつて、馬に乘つておいでになつて、たちまちの間に馬上でお竝びになつて、矢を拔いてそのオシハの王を射殺して、またその身を切つて、馬の桶に入れて土と共に埋めました。それでそのオシハの王の子のオケの王・ヲケの王のお二人は、この騷ぎをお聞きになつて逃げておいでになりました。かくて山城のカリハヰにおいでになつて、乾ほし飯いをおあがりになる時に、顏に黥いれずみをした老人が來てその乾飯を奪い取りました。その時にお二人の王子が、﹁乾飯は惜しくもないが、お前は誰だ﹂と仰せになると、﹁わたしは山城の豚ぶた飼かいです﹂と申しました。かくてクスバの河を逃げ渡つて、播はり磨まの國においでになり、その國の人民のシジムという者の家におはいりになつて、身を隱して馬うま飼かい牛うし飼かいとして使われておいでになりました。
五、雄略天皇
オホハツセノワカタケの命︵雄略天皇︶、大和の長はつ谷せの朝倉の宮においでになつて天下をお治めなさいました。天皇はオホクサカの王の妹のワカクサカベの王と結婚しました。御子はございません。またツブラオホミの女のカラ姫と結婚してお生みになつた御子は、シラガの命・ワカタラシの命お二方です。そこでシラガの太子の御名の記念として白しら髮が部べをお定めになり、また長はつ谷せ部べの舍人、河瀬の舍人をお定めになりました。この御世に大陸から呉くれ人びとが渡つて參りました。その呉人を置きましたので呉くれ原はらというのです。
――以下、多くは歌を中心とした短篇の物語が、この天皇の御事蹟として語り傳えられている。長はつ谷せの天皇として、傳説上の英雄となつておいでになつたのである。――
初め皇后樣が河内の日くさ下かにおいでになつた時に、天皇が日下の直ただ越ごえの道を通つて河内においでになりました。依つて山の上にお登りになつて國内を御覽になりますと、屋根の上に高く飾り木をあげて作つた家があります。天皇が、お尋ねになりますには﹁あの高く木をあげて作つた家は誰の家か﹂と仰せられましたから、お伴の人が﹁シキの村長の家でございます﹂と申しました。そこで天皇が仰せになるには、﹁あの奴やつは自分の家を天皇の宮殿に似せて造つている﹂と仰せられて、人を遣わしてその家をお燒かせになります時に、村長が畏れ入つて拜禮して申しますには、﹁奴のことでありますので、分を知らずに過つて作りました。畏れ入りました﹂と申しました。そこで獻上物を致しました。白い犬に布を※か﹇#﹁執/糸﹂、U+7E36、353-17﹈けて鈴をつけて、一族のコシハキという人に犬の繩を取らせて獻上しました。依つてその火をつけることをおやめなさいました。そこでそのワカクサカベの王の御おん許もとにおいでになつて、その犬をお贈りになつて仰せられますには、﹁この物は今日道で得ためずらしい物だ。贈物としてあげましよう﹂と言つて、くださいました。この時にワカクサカベの王が申し上げますには、﹁日を背中にしておいでになることは畏れ多いことでございます。依つてわたくしが參上してお仕え申しましよう﹂と申しました。かくして皇居にお還りになる時に、その山の坂の上にお立ちになつて、お歌いになりました御歌、
この日くさ下か部べの山と
向うの平へぐ群りの山との
あちこちの山のあいだに
繁つている廣葉のりつぱなカシの樹、
その樹の根もとには繁つた竹が生え、
末の方にはしつかりした竹が生え、
その繁つた竹のように繁くも寢ず
しつかりした竹のようにしかとも寢ず
後にも寢ようと思う心づくしの妻は、ああ。
この歌をその姫の許に持たせてお遣りになりました。
――三輪山のほとりで語り傳えられた物語。――
また或る時、三輪河にお遊びにおいでになりました時に、河のほとりに衣を洗う孃子がおりました。美しい人でしたので、天皇がその孃子に﹁あなたは誰ですか﹂とお尋ねになりましたから、﹁わたくしは引ひけ田た部べの赤あか猪い子こと申します﹂と申しました。そこで仰せられますには、﹁あなたは嫁に行かないでおれ。お召しになるぞ﹂と仰せられて、宮にお還りになりました。そこでその赤猪子が天皇の仰せをお待ちして八十年經ました。ここに赤猪子が思いますには、﹁仰せ言を仰ぎ待つていた間に多くの年月を經て容貌もやせ衰えたから、もはや恃むところがありません。しかし待つておりました心を顯しませんでは心憂くていられない﹂と思つて、澤山の獻上物を持たせて參り出て獻りました。しかるに天皇は先に仰せになつたことをとくにお忘れになつて、その赤猪子に仰せられますには、﹁お前は何處のお婆さんか。どういうわけで出て參つたか﹂とお尋ねになりましたから、赤猪子が申しますには﹁昔、何年何月に天皇の仰せを被つて、今日まで御命令をお待ちして、八十年を經ました。今、もう衰えて更に恃むところがございません。しかしわたくしの志を顯し申し上げようとして參り出たのでございます﹂と申しました。そこで天皇が非常にお驚きになつて、﹁わたしはとくに先の事を忘れてしまつた。それだのにお前が志を變えずに命令を待つて、むだに盛んな年を過したことは氣の毒だ﹂と仰せられて、お召しになりたくはお思いになりましたけれども、非常に年寄つているのをおくやみになつて、お召しになり得ずに歌をくださいました。その御歌は、
御みも諸ろ山の御神木のカシの樹のもと、
そのカシのもとのように憚られるなあ、
カシ原はらのお孃さん。
またお歌いになりました御歌は、
引ひけ田たの若い栗の木の原のように
若いうちに結婚したらよかつた。
年を取つてしまつたなあ。
かくて赤猪子の泣く涙に、著ておりました赤く染めた袖がすつかり濡れました。そうして天皇の御歌にお答え申し上げた歌、
御諸山に玉垣を築いて、
築き殘して誰に頼みましよう。
お社の神主さん。
また歌いました歌、
日くさ下か江えの入江に蓮はすが生えています。
その蓮の花のような若盛りの方は
うらやましいことでございます。
そこでその老女に物を澤山に賜わつて、お歸しになりました。この四首の歌は
――吉野での物語二篇。――
天皇が吉野の宮においでになりました時に、吉野川のほとりに美しい孃子がおりました。そこでこの孃子を召して宮にお還りになりました。後に更に吉野においでになりました時に、その孃子に遇いました處にお留まりになつて、其處にお椅子を立てて、そのお椅子においでになつて琴をお彈きになり、その孃子に舞まわしめられました。その孃子は好く舞いましたので、歌をお詠みになりました。その御歌は、
椅子にいる神樣が御み手てずから
彈かれる琴に舞を舞う女は
永久にいてほしいことだな。
それから吉野のアキヅ野においでになつて獵をなさいます時に、天皇がお椅子においでになると、虻あぶが御腕を咋くいましたのを、蜻とん蛉ぼが來てその虻を咋つて飛んで行きました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、
吉野のヲムロが嶽たけに
猪ししがいると
陛下に申し上げたのは誰か。
天下を知ろしめす天皇は
猪を待つと椅子に御ぎよ座ざ遊ばされ
白い織物のお袖で裝うておられる
御手の肉に虻が取りつき
その虻を蜻とん蛉ぼがはやく食い、
かようにして名を持とうと、
この大和の國を
蜻あき蛉づし島まというのだ。
その時からして、その野をアキヅ野というのです。
――葛城山に關する物語二篇。――
また或る時、天皇が葛城山の上にお登りになりました。ところが大きい猪が出ました。天皇が鏑かぶ矢らやをもつてその猪をお射になります時に、猪が怒つて大きな口をあけて寄つて來ます。天皇は、そのくいつきそうなのを畏れて、ハンの木の上にお登りになりました。そこでお歌いになりました御歌、
天下を知ろしめす天皇の
お射になりました猪の
手負い猪のくいつくのを恐れて
わたしの逃げ登つた
岡の上のハンの木の枝よ。
また或る時、天皇が葛城山に登つておいでになる時に、百官の人々は悉く紅い紐をつけた青あお摺ずりの衣を給わつて著ておりました。その時に向うの山の尾根づたいに登る人があります。ちようど天皇の御行列のようであり、その裝束の樣もまた人たちもよく似てわけられません。そこで天皇が御覽遊ばされてお尋ねになるには、﹁この日本の國に、わたしを除いては君主はないのであるが、かような形で行くのは誰であるか﹂と問わしめられましたから、答え申す状もまた天皇の仰せの通りでありました。そこで天皇が非常にお怒りになつて弓に矢を番つがえ、百官の人々も悉く矢を番えましたから、向うの人たちも皆矢を番えました。そこで天皇がまたお尋ねになるには、﹁それなら名を名のれ。おのおの名を名のつて矢を放とう﹂と仰せられました。そこでお答え申しますには、﹁わたしは先に問われたから先に名のりをしよう。わたしは惡い事も一言、よい事も一言、言い分ける神である葛城の一ひと言こと主ぬしの大神だ﹂と仰せられました。そこで天皇が畏かしこまつて仰せられますには、﹁畏れ多い事です。わが大神よ。かように現實の形をお持ちになろうとは思いませんでした﹂と申されて、御大刀また弓矢を始めて、百官の人どもの著ております衣服を脱がしめて、拜んで獻りました。そこでその一言主の大神も手を打つてその贈物を受けられました。かくて天皇のお還りになる時に、その大神は山の末に集まつて、長はつ谷せの山口までお送り申し上げました。この一言主の大神はその時に御出現になつたのです。
――三重の采女の物語を中に插んで前後に春日のヲド姫の物語がある。春日氏については、中卷の蟹の歌の條參照。三重の采女の歌は、別の歌曲である。――
また天皇、丸わ邇にのサツキの臣の女のヲド姫と結婚をしに春日においでになりました時に、その孃子が道で逢つて、おでましを見て岡邊に逃げ隱れました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、
お孃さんの隱れる岡を
じようぶなが澤山あつたらよいなあ、
鋤すき撥はらつてしまうものを。
そこでその岡を金かなの岡と名づけました。
また天皇が長谷の槻の大樹の下においでになつて御酒宴を遊ばされました時に、伊勢の國の三重から出た采うね女めが酒さか盃ずきを捧げて獻りました。然るにその槻の大樹の葉が落ちて酒盃に浮びました。采女は落葉が酒盃に浮んだのを知らないで大おお御み酒きを獻りましたところ、天皇はその酒盃に浮んでいる葉を御覽になつて、その采女を打ち伏せ御刀をその頸に刺し當ててお斬り遊ばそうとする時に、その采女が天皇に申し上げますには﹁わたくしをお殺しなさいますな。申すべき事がございます﹂と言つて、歌いました歌、
纏まき向むくの日ひし代ろの宮は
朝日の照り渡る宮、
夕日の光のさす宮、
竹の根のみちている宮、
木の根の廣がつている宮です。
多くの土を築き堅めた宮で、
りつぱな材木の檜ひのきの御殿です。
その新酒をおあがりになる御殿に生い立つている
一杯に繁つた槻の樹の枝は、
上の枝は天を背おつています。
中の枝は東國を背おつています。
下の枝は田いな舍かを背おつています。
その上の枝の枝先の葉は
中の枝に落ちて觸れ合い、
中の枝の枝先の葉は
下の枝に落ちて觸れ合い、
下の枝の枝先の葉は、
衣服を三重に著る、その三重から來た子の
捧げているりつぱな酒さか盃ずきに
浮いた脂あぶらのように落ち漬つかつて、
水音もころころと、
これは誠に恐れ多いことでございます。
尊い日の御子樣。
事の語り傳えはかようでございます。
この歌を獻りましたから、その罪をお赦しになりました。そこで皇后樣のお歌いになりました御歌は、
大和の國のこの高町で
小高くある市の高臺の、
新酒をおあがりになる御殿に生い立つている
廣葉の清らかな椿の樹、
その葉のように廣らかにおいで遊ばされ
その花のように輝いておいで遊ばされる
尊い日の御子樣に
御酒をさしあげなさい。
事の語り傳えはかようでございます。
天皇のお歌いになりました御歌は、
宮廷に仕える人々は、
鶉うずらのように頭ひ巾れを懸けて、
鶺せき鴒れいのように尾を振り合つて
雀のように前に進んでいて
今日もまた酒宴をしているもようだ。
りつぱな宮廷の人々。
事の語り傳えはかようでございます。
この三首の歌は天あま語がた歌りうたです。その御酒宴に三重の采女を譽めて、物を澤山にくださいました。
この御酒宴の日に、また春日のヲド姫が御酒を獻りました時に、天皇のお歌いになりました歌は、
水みずのしたたるようなそのお孃さんが、
銚ちよ子うしを持つていらつしやる。
銚子を持つならしつかり持つていらつしやい。
力ちからを入れてしつかりと持つていらつしやい。
銚子を持つていらつしやるお孃さん。
これは宇うき岐う歌たです。ここにヲド姫の獻りました歌は、
天下を知ろしめす天皇の
朝戸にはお倚より立ち遊ばされ
夕ゆう戸どにはお倚り立ち遊ばされる
脇きよ息うそくの下の
板にでもなりたいものです。あなた。
これは志しず都う歌たです。
天皇は御年百二十四歳、己つち巳のとみの年の八月九日にお隱れになりました。御陵は河内の多た治じ比ひの高たかにあります。
六、清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇
御子のシラガノオホヤマトネコの命︵清寧天皇︶、大和の磐いわ余れの甕みか栗くりの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は皇后がおありでなく、御子もございませんでした。それで御名の記念として白髮部をお定めになりました。そこで天皇がお隱かくれになりました後に、天下をお治めなさるべき御子がありませんので、帝位につくべき御子を尋ねて、イチノベノオシハワケの王の妹のオシヌミの郎女、またの名はイヒトヨの王が、葛かず城らきのオシヌミの高たか木ぎのツノサシの宮においでになりました。
――前に出たイチノベノオシハの王の物語の續きで山部氏によつて傳承したと考えられる。この條は、特殊の文字使用法を有しており、古事記の編纂の當時、既に書かれた資料があつたようである。――
ここに山やま部べの連小おだ楯てが播磨の國の長官に任命されました時に、この國の人民のシジムの家の新築祝いに參りました。そこで盛んに遊んで、酒酣たけなわな時に順次に皆舞いました。その時に火ひ焚たきの少年が二人竈かまどの傍におりました。依つてその少年たちに舞わしめますに、一人の少年が﹁兄上、まずお舞まいなさい﹂というと、兄も﹁お前がまず舞まいなさい﹂と言いました。かように讓り合つているので、その集まつている人たちが讓り合う有樣を笑いました。遂に兄がまず舞い、次に弟が舞おうとする時に詠じました言葉は、
武士であるわが君のお佩きになつている大刀の柄つかに、赤い模樣を畫き、その大刀の緒には赤い織物を裁たつて附け、立つて見やれば、向うに隱れる山の尾の上の竹を刈り取つて、その竹の末を押し靡なびかせるように、八絃の琴を調べたように、天下をお治めなされたイザホワケの天皇の皇子のイチノベノオシハの王の御み子こです。わたくしは。
と述べましたから、小楯が聞いて驚いて座席から落ちころんで、その家にいる人たちを追い出して、そのお二人の御子を左右の膝の上にお据え申し上げ、泣き悲しんで民どもを集めて假宮を作つて、その假宮にお住ませ申し上げて急使を奉りました。そこでその伯母樣のイヒトヨの王がお喜びになつて、宮に上らしめなさいました。
――日本書紀では、武烈天皇の太子時代のこととし、歌も多く相違している。ある王子とシビという貴公子の物語として傳承されたのが原形であろう。――
そこで天下をお治めなされようとしたほどに、平へぐ群りの臣の祖先のシビの臣が、歌垣の場で、そのヲケの命の結婚なされようとする孃子の手を取りました。その孃子は菟う田だの長の女のオホヲという者です。そこでヲケの命も歌垣にお立ちになりました。ここにシビが歌いますには、
御殿のちいさい方の出張りは、隅が曲つている。
かく歌つて、その歌の末句を乞う時に、ヲケの命のお歌いになりますには、
大工が下へ手ただつたので隅が曲つているのだ。
シビがまた歌いますには、
王子樣の御心がのんびりしていて、
臣下の幾重にも圍つた柴垣に
入り立たずにおられます。
ここに王子がまた歌いますには、
潮の寄る瀬の浪の碎けるところを見れば
遊んでいるシビ魚の傍に
妻が立つているのが見える。
シビがいよいよ怒いかつて歌いますには、
王子樣の作つた柴垣は、
節だらけに結びしてあつて、
切れる柴垣の燒ける柴垣です。
ここに王子がまた歌いますには、
大おおきい魚の鮪しびを突く海人よ、
その魚が荒れたら心戀しいだろう。
鮪しびを突く鮪しびの臣おみよ。
かように歌つて歌を掛け合い、夜をあかして別れました。翌朝、オケの命・ヲケの命お二方が御相談なさいますには、﹁すべて朝廷の人たちは、朝は朝廷に參り、晝はシビの家に集まります。そこで今はシビがきつと寢ねているでしよう。その門には人もいないでしよう。今でなくては謀り難いでしよう﹂と相談されて、軍を興してシビの家を圍んでお撃ちになりました。
ここでお二ふた方かたの御子たちが互に天下をお讓りになつて、オケの命が、その弟ヲケの命にお讓り遊ばされましたには、﹁播磨の國のシジムの家に住んでおつた時に、あなたが名を顯わさなかつたなら天下を治める君主とはならなかつたでしよう。これはあなた樣のお手柄であります。ですから、わたくしは兄ではありますが、あなたがまず天下をお治めなさい﹂と言つて、堅くお讓りなさいました。それでやむことを得ないで、ヲケの命がまず天下をお治めなさいました。
イザホワケの天皇の御子、イチノベノオシハの王の御子のヲケノイハスワケの命︵顯宗天皇︶、河かわ内ちの國の飛あす鳥かの宮においで遊ばされて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は、イハキの王の女のナニハの王と結婚しましたが、御み子こはありませんでした。この天皇、父君イチノベの王の御骨をお求めになりました時に、近江の國の賤いやしい老婆が參つて申しますには、﹁王子の御骨を埋めました所は、わたくしがよく知つております。またそのお齒でも知られましよう﹂と申しました。オシハの王子のお齒は三つの枝の出た大きい齒でございました。そこで人民を催して、土を掘つて、その御骨を求めて、これを得てカヤ野の東の山に御陵を作つてお葬り申し上げて、かのカラフクロの子どもにこれを守らしめました。後にはその御骨を持ち上のぼりなさいました。かくて還り上られて、その老婆を召して、場所を忘れずに見ておいたことを譽めて、置おき目めの老ば媼ばという名をくださいました。かくて宮の内に召し入れて敦あつくお惠みなさいました。その老婆の住む家を宮の邊近くに作つて、毎日きまつてお召しになりました。そこで宮殿の戸に鈴を掛けて、その老婆を召そうとする時はきつとその鈴をお引き鳴らしなさいました。そこでお歌をお詠みなさいました。その御歌は、
茅ちぐ草さの低い原や小谷を過ぎて
鈴のゆれて鳴る音がする。
置目がやつて來るのだな。
ここに置目が﹁わたくしは大變年をとりましたから本國に歸りたいと思います﹂と申しました。依つて申す通りにお遣わしになる時に、天皇がお見送りになつて、お歌いなさいました歌は、
置目よ、あの近江の置目よ、
明日からは山に隱れてしまつて
見えなくなるだろうかね。
初め天皇が災難に逢つて逃げておいでになつた時に、その乾ほし飯いを奪つた豚ぶた飼かいの老人をお求めになりました。そこで求め得ましたのを喚び出して飛鳥河の河原で斬つて、またその一族どもの膝の筋をお切りになりました。それで今に至るまでその子孫が大和に上る日にはきつとびつこになるのです。その老人の所在をよく御覽になりましたから、其處をシメスといいます。
天皇、その父君をお殺しになつたオホハツセの天皇を深くお怨み申し上げて、天皇の御靈に仇を報いようとお思いになりました。依つてそのオホハツセの天皇の御陵を毀やぶろうとお思いになつて人を遣わしました時に、兄君のオケの命の申されますには、﹁この御陵を破壞するには他の人を遣つてはいけません。わたくしが自分で行つて陛下の御心の通りに毀して參りましよう﹂と申し上げました。そこで天皇は、﹁それならば、お言葉通りに行つていらつしやい﹂と仰せられました。そこでオケの命が御自身で下つておいでになつて、御陵の傍を少し掘つて還つてお上りになつて、﹁すつかり掘り壞やぶりました﹂と申されました。そこで天皇がその早く還つてお上りになつたことを怪しんで、﹁どのようにお壞りなさいましたか﹂と仰せられましたから、﹁御陵の傍の土を少し掘りました﹂と申しました。天皇の仰せられますには、﹁父上の仇を報ずるようにと思いますので、かならずあの御陵を悉くこわすべきであるのを、どうして少しお掘りになつたのですか﹂と仰せられましたから、申されますには﹁かようにしましたわけは、父上の仇をその御靈に報いようとお思いになるのは誠に道理であります。しかしオホハツセの天皇は、父上の仇ではありますけれども、一面は叔父でもあり、また天下をお治めなさつた天皇でありますのを、今もつぱら父の仇という事ばかりを取つて、天下をお治めなさいました天皇の御陵を悉く壞しましたなら、後の世の人がきつとお誹り申し上げるでしよう。しかし父上の仇は報いないではいられません。それであの御陵の邊を少し掘りましたから、これで後の世に示すにも足りましよう﹂とかように申しましたから、天皇は﹁それも道理です。お言葉の通りでよろしい﹂と仰せられました。かくて天皇がお隱かくれになつてから、オケの命が、帝位にお即つきになりました。御年三十八歳、八年間天下をお治めなさいました。御陵は片岡の石いわ坏つきの岡の上にあります。
――以下十代は、物語の部分が無く、もつぱら帝紀によつている。――
ヲケの王の兄のオホケの王︵仁賢天皇︶、大和の石いその上かみの廣高の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。天皇はオホハツセノワカタケの天皇の御子、春日の大郎女と結婚してお生みになつた御子は、タカギの郎女・タカラの郎女・クスビの郎女・タシラガの郎女・ヲハツセノワカサザキの命・マワカの王です。またワニノヒノツマの臣の女、ヌカノワクゴの郎女と結婚してお生みになつた御子は、カスガノヲダの郎女です。天皇の御子たち七人おいでになる中に、ヲハツセノワカサザキの命は天下をお治めなさいました。
七、武烈天皇以後九代
ヲハツセノワカサザキの命︵武烈天皇︶、大和の長はつ谷せの列なみ木きの宮においでになつて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は御子がおいでになりません。そこで御子の代りとして小おは長つ谷せ部べをお定めになりました。御陵は片岡の石いわ坏つきの岡にあります。天皇がお隱れになつて、天下を治むべき王子がありませんので、ホムダの天皇の五世の孫、ヲホドの命を近江の國から上らしめて、タシラガの命と結婚をおさせ申して、天下をお授け申しました。
ホムダの王の五世の孫のヲホドの命︵繼體天皇︶、大和の磐いわ余れの玉穗の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇、三み尾おの君等の祖先のワカ姫と結婚してお生みになつた御子は、大郎子・イヅモの郎女のお二ふた方かたです。また尾張の連等の祖先のオホシの連の妹のメコの郎女と結婚してお生みになつた御子はヒロクニオシタケカナヒの命・タケヲヒロクニオシタテの命のお二方です。またオホケの天皇の御子のタシラガの命を皇后としてお生みになつた御子はアメクニオシハルキヒロニハの命お一方です。またオキナガノマテの王の女のヲクミの郎女と結婚してお生みになつた御子は、ササゲの郎女お一方です。またサカタノオホマタの女のクロ姫と結婚してお生みになつた御子は、カムザキの郎女・ウマラタの郎女・シラサカノイクメコの郎女、ヲノの郎女またの名はナガメ姫のお四方です。また三尾の君カタブの妹のヤマト姫と結婚してお生みになつた御子は大郎女・マロタカの王・ミミの王・アカ姫の郎女のお四方です。また阿部のハエ姫と結婚してお生みになつた御子は、ワカヤの郎女・ツブラの郎女・アヅの王のお三方です。この天皇の御子たちは合わせて十九王おいでになりました。男王七人女王十二人です。この中にアメクニオシハルキヒロニハの命は天下をお治めなさいました。次にヒロクニオシタケカナヒの命も天下をお治めなさいました。次にタケヲヒロクニオシタテの命も天下をお治めなさいました。次にササゲの王は伊勢の神宮をお祭りなさいました。この御世に筑紫の君石井が皇命に從したがわないで、無禮な事が多くありました。そこで物もの部のべの荒あら甲かいの大連、大おお伴ともの金かな村むらの連の兩名を遣わして、石井を殺させました。天皇は御年四十三歳、丁ひの未とひつじの年の四月九日にお隱れになりました。御陵は三島の藍あいの陵みささぎです。
御子のヒロクニオシタケカナヒの王︵安閑天皇︶、大和の勾まがりの金かな箸はしの宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇は御子がございませんでした。乙きの卯とうの年の三月十三日にお隱れになりました。御陵は河内の古市の高屋の村にあります。
弟のタケヲヒロクニオシタテの命︵宣化天皇︶、大和の檜ひの隈くまの廬いお入り野のの宮においでになつて、天下をお治めなさいました。天皇はオケの天皇の御子のタチバナのナカツヒメの命と結婚してお生みになつた御子は、石いし姫ひめの命・小こい石し姫の命・クラノワカエの王です。また川かわ内ちのワクゴ姫と結婚してお生みになつた御子はホノホの王・ヱハの王で、この天皇の御子たちは合わせて五王、男王三人、女王二人です。そのホノホの王は志比陀の君の祖先、ヱハの王は韋い那なの君・多治比の君の祖先です。
弟のアメクニオシハルキヒロニハの天皇︵欽明天皇︶、大和の師しき木し島まの大宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇、ヒノクマの天皇の御子、石いし姫ひめの命と結婚してお生みになつた御子は、ヤタの王・ヌナクラフトタマシキの命・カサヌヒの王のお三方です。またその妹の小こい石し姫の命と結婚してお生みになつた御子は、カミの王お一方、また春日のヒノツマの女のヌカコの郎女と結婚してお生みになつた御子は、春日の山田の郎女・マロコの王・ソガノクラの王のお三方です。またソガのイナメの宿禰の大臣の女のキタシ姫と結婚してお生みになつた御子はタチバナノトヨヒの命・イハクマの王・アトリの王・トヨミケカシギヤ姫の命・またマロコの王・オホヤケの王・イミガコの王・ヤマシロの王・オホトモの王・サクラヰノユミハリの王・マノの王・タチバナノモトノワクゴの王・ネドの王の十三方でした。またキタシ姫の命の叔母のヲエ姫と結婚してお生みになつた御子は、ウマキの王・カヅラキの王・ハシヒトノアナホベの王・サキクサベノアナホベの王、またの名はスメイロト・ハツセベノワカサザキの命のお五方です。すべてこの天皇の御子たち合わせて二十五王おいでになりました。この中でヌナクラフトタマシキの命は天下をお治めなさいました。次にタチバナノトヨヒの命・トヨミケカシギヤ姫の命・ハツセベノワカサザキの命も、みな天下をお治めなさいました。すべて四王、天下をお治めなさいました。
――岡本の宮で天下をお治めになつたというのが、古事記中最新の事實である。――
御子のヌナクラフトタマシキの命︵敏達天皇︶、大和の他おさ田だの宮においでになつて、十四年天下をお治めなさいました。この天皇は庶妹トヨミケカシギヤ姫の命と結婚してお生みになつた御子はシヅカヒの王、またの名はカヒダコの王・タケダの王、またの名はヲカヒの王・ヲハリダの王・カヅラキの王・ウモリの王・ヲハリの王・タメの王・サクラヰノユミハリの王のお八方です。また伊勢のオホカの首おびとの女のヲクマコの郎女と結婚してお生みになつた御子はフト姫の命・タカラの王、またの名はヌカデ姫の王のお二方です。またオキナガノマテの王の女のヒロ姫の命と結婚してお生みになつた御子はオサカノヒコヒトの太子、またの名はマロコの王・サカノボリの王・ウヂの王のお三方です。また春日のナカツワクゴの王の女のオミナコの郎女と結婚してお生みになつた御子はナニハの王・クハタの王・カスガの王・オホマタの王のお四方です。
この天皇の御子たち合わせて十七王おいでになつた中に、ヒコヒトの太子は庶妹タムラの王、またの名はヌカデ姫の命と結婚してお生みになつた御子が、岡本の宮においでになつて天下をお治めなさいました天皇︵舒明天皇︶・ナカツ王・タラの王のお三方です。またアヤの王の妹のオホマタの王と結婚してお生みになつた御子は、チヌの王、クハタの女王お二方です。また庶妹ユミハリの王と結婚してお生みになつた御子はヤマシロの王・カサヌヒの王のお二方です。合わせて七王です。天皇は甲きの辰えたつの年の四月六日にお隱れになりました。御陵は河かわ内ちの科しな長がにあります。
弟のタチバナノトヨヒの命︵用明天皇︶、大和の池の邊の宮においでになつて、三年天下をお治めなさいました。この天皇は蘇そ我がの稻いな目めの大臣の女のオホギタシ姫と結婚してお生みになつた御子はタメの王お一方です。庶妹ハシヒトノアナホベの王と結婚してお生みになつた御子は上の宮のウマヤドノトヨトミミの命・クメの王・ヱクリの王・ウマラタの王お四方です。また當たぎ麻まの倉の首ヒロの女のイヒの子と結婚してお生みになつた御子はタギマの王、スガシロコの郎女のお二方です。この天皇は丁ひの未とひつじの年の四月十五日にお隱れなさいました。御陵は初めは磐いわ余れの掖わき上がみにありましたが後に科しな長がの中の陵にお遷うつし申し上げました。
弟のハツセベノワカサザキの天皇︵崇峻天皇︶、大和の倉くら椅はしの柴垣の宮においでになつて、四年天下をお治めなさいました。壬みず子のえねの年の十一月十三日にお隱れなさいました。御陵は倉椅の岡の上にあります。
――古事記がここで終つているのは、その材料とした帝紀がここで終つていたによるであろう。――