北国下向
寿じゅ永えい二年三月上旬、同じ源氏同志の木きそ曽のよ義しな仲かと兵ひょ衛うえ佐のす頼けよ朝りともとの仲にひびが入った。頼朝は、義仲を討つために十万余騎を引き連れて、信濃国へ乗込んでいった。驚いた義仲は、依よだ田のじ城ょうを出ると、信越の境にある熊坂山に陣をとり、信濃国善光寺に着いた頼朝のところへ、乳母の子で、腹臣の家来でもある今井四郎兼かね平ひらを使者として送った。 ﹁どういうおつもりで、義仲を討とうとおっしゃるのですか。貴方は、東八カ国を従え東海道から、私は、東山、北陸道よりと、目的は同じ、一日も早く平家を滅したいということである筈、それを、ここで、貴方と私が仲違いし、同志討ちしたとあっては、今までの苦心も水の泡です、平家の者どもから嘲笑を買うことも目に見えております。確かに、貴方と仲の悪い十郎蔵くら人んど殿は私のところに来ました。しかしわざわざ、義仲の許に来たものを、すげなく帰すのも、気の毒で、今はいっしょにくらしておりますが、そうかといって、この義仲が、貴方に恨みがあるとは、余りに突飛ないいがかりでしょう﹂ これに対する頼朝の返事は、 ﹁今はそう申しているが、確かに貴殿が、この頼朝を討とうという謀むほ叛んの企てがあると申した者がいるのです。今更、何をいわれても無駄ではありませんか?﹂ といって取り合わなかった。その上、土ど肥ひ、梶かじ原わらなどを先陣に、既に討手さえ差し向ける気配であった。慌てた義仲は、謀叛心のないことを証明するため、嫡子清しみ水ずの冠かん者じゃ義重という当年十一歳の息子に、海うみ野の、望もち月づき、諏す訪わなどといった一騎当千の侍達を付けて、人質にさし出したので、頼朝も始めて義仲の本意を覚り、まだ子のないところから、義仲の子を引きとって育てようと、一緒に鎌倉に連れて帰った。 義仲は、東山道、北陸道をあらかた従え、旭日昇天の勢いで、都を目指して攻めのぼる気配であった。 平家の方でも、去年から、今年は戦があるからと予告しておいたので、山陰、山陽、南海、西海から雲霞のごとき軍勢が集ってきた。東山道からは、近江、美濃、飛ひ騨だのものが来たが、東海道では、遠とお江とうみから東の者は源氏に味方し、それが北陸道となると、若わか狭さ以北は一兵も集らなかった。 義仲を討った後、頼朝を平げようと、北陸に向けて平家の諸将が下向することになった。 大将軍に、小松三さん位みの中将維これ盛もり、越前三位通みち盛もり、但たじ馬まの守かみ経つね正まさ、薩さつ摩まの守かみ忠ただ度のり、三河守知とも度のり、淡あわ路じの守かみ清きよ房ふさ、侍大将には、越中前のぜ司んじ盛もり俊とし、上かず総さの大たい夫ふの判はん官がん忠綱、飛ひだ騨のた大い夫ふ判官景高、高たか橋はし判のは官んがん長綱、河内判官秀国、武むさ蔵しの三郎佐衛門有国、越中次郎兵衛盛もり次つぐ、上総五郎兵衛忠光、悪あく七しち兵びょ衛うえ景かげ清きよの面々、合わせて十万余騎の大軍が、寿永二年四月十七日、都を出発したのである。途中、沿道よりの徴発を許された彼らは、行く道々で、租税といわず、物具、食料、ありとあらゆるものを奪いとったので、しまいに、沿道に当る家の者は、家財道具を持って逃げ出す始末であった。竹ちく生ぶし島ま詣もうで
北国へ向けて進軍を開始した平家の一門のうち、経正、忠度、知度らはひと足遅れ、近江国塩しお津つ、貝かい津づのあたりで、暫く止まっていた。経正は、詩歌管絃にひときわすぐれた技倆の持主で、こういう戦乱の最中にあっても、決してみやび心を忘れなかった。琵琶湖のほとりで、何心なくあたりの景色を観賞していると、不図、湖の中にある島が目に入った。供の藤とう兵ひょ衛うえ有あり教のりを召して聞いた。 ﹁あれは何という島か?﹂ ﹁あれこそ、名高い竹ちく生ぶし島までござります﹂ ﹁ほう、あれがそうだったのか、それならば事のついでだ、参詣いたそう﹂ 経正は、有教ほか五、六人の供を連れて、島に渡った。丁度四月も半ばすぎて、春もようやく、盛りを過ぎようとしている頃である。鶯うぐいすの声は絶えだえに、今や、ほととぎすの初声も聞えようといった気配であり、島に降りたってみると、その趣きの面白さは、しばらく言葉も出ないほどであった。かの秦の始皇帝、漢の武帝が、尋ねあぐんだ蓬ほう莱らい洞どうも、丁度こういうところではないかと思われるくらいであった。古いお経の文句にある。﹁閻えん浮ぶだ提いの内に湖あり、その中に金輪際より生い出でたる水晶の山あり、天女の住む所なり﹂というのはこの島のことであろうか。 経正は、竹生島明神の前にひざまずくと、しばらく心をこめて祈念をこめた。そのうちにいつしか、あたりに夕闇がたちこめてきた。折しも昇ってきた陰暦十八夜の月が湖上を昼間のように照し出した。月の光に社しゃ壇だん始め、あたりの景色は、昼間とは趣きを変えて、神秘的な美しさを漂わしている。 ﹁よい折でござります、かねてよりご名声の高い琵琶を是非お聞かせ下さい﹂ 住持が寺にあった琵琶を差し出したので、元々好きな道でもあり、興ものっていたので、経正は喜んで弾き始めた。秘曲といわれる上じょ玄うげん、石せき上じょうの秘曲にまでくると、いつしか、あたりの空気も、草も木も人も一体になって、唯、澄みきった琵琶の音だけが、静かな湖水の夜を流れてゆくのである。明神も、経正の神技に感じ入ったらしい。経正の袖の上に、白びゃ竜くりゅうとなって姿を現した。 経正は、あまりのうれしさに、感激の涙を流しながら一首の歌を詠んだ。 ちはやぶる神に祈のかなえばや しるくも色の現われにけり 幸さい先さき良しと勇みたった経正は、喜び勇んで湖岸の陣所に戻っていった。火ひう打ち合戦
信濃国にあって、全軍の指揮をしている木曽義仲は、越前国に火ひう打ちが城じょうという城を築かせた。ここは天然の要害で、四方を険しい峰に囲まれ、直ぐ後には山を控え、あたり一面は、巍ぎ峨がたる岩石の山であった。城の前には、能のう美みが河わ、新しん道どう河が流れ、この二つの川の落ち合うところは、大木を伐きって逆さか茂も木ぎとし、水流をせき止めるために杭を打ち渡した。そのために、せきとめられた水が山のふもとにあふれて、時ならぬ湖ができあがった。これでは、舟でもなければとても渡ることは不可能であったから平家の軍勢は、対岸に陣を敷いて、手をこまねいて見ているばかりであった。 火打城を守っていたのは、平へい泉せん寺じの斎さい明めい威い儀ぎ師し、稲いな津づの新しん介すけ、斎さい藤とう太だ、林六郎光明、富とが樫しの入にゅ道うど仏うぶ誓っせいといった面々六千余騎であったが、その中の一人、斎明威儀師は、かねて平家には並々ならぬ恩顧を蒙っていたので、内通の決心をすると、そっと密書を矢尻に入れて、平家方に矢を放った。 平家の兵がこれを取って早速、大将軍の前に持ってきた。 ﹁かの湖は天然の湖水ではなく、山の川をせきとめて人工的につくったものです。夜に入ってから、そっと水をせきとめている柵を切って落せば、たちまちの内に水の引くことは確かです。さすれば、馬の足場も良いところ故、急いでお渡り下さい。城内よりご加勢いたしましょう、かく申す私は、平泉寺の長吏斎明威儀師にございます﹂ 平家方は、その夜のうちに、ひそかに足軽に命じて柵を切らせた。たちまちのうちに水の引いたところで、平家の軍勢は、どっとばかりに、ときの声をあげて、城に殺到した。多勢に無勢の木曽勢は、奮戦むなしく一刻ごとに、敗色深くなるところへ、更に斎明の裏切りも手伝って総崩れとなった。大将格の稲津、斎藤、富樫らの面々は、加賀国を目ざして退却した。 平家は、なおもこれら残党を追って加賀国に追撃、林、富樫、両人の城を焼き払って気勢をあげた。 勝利の知らせは、直ぐ都に伝わったが、一門の喜びようは大変なものであった。 続いて、加賀国篠しの原はらで勢揃いした平家の軍勢は、そこで二手に分れた。大手に向ったのは、小松三位中将を大将軍とする七万余騎、搦から手めてには、薩摩守忠度、三河守知度を頭とする三万余騎で、能登、越中の国境、志保山に向った。 越後の国こ府うでこの知らせを聞いた義仲は、五万余騎の手勢をひきいて駆けつけてきた。義仲は軍を七手に分ち、叔父蔵人行ゆき家いえは一万余騎で志保山へ、仁にし科な、高たか梨なし、山田次郎らで北きた黒くろ坂さかへ七千余騎、南黒坂には樋ひぐ口ちの次じろ郎うか兼ねみ光つらが七千余騎、又一万余騎は伏兵として、礪とな並み山の口、黒坂の裾、松長の柳原、茱ぐ萸みの木き林ばやしに、今井四郎兼平のひきいる六千余騎は、鷲わしの瀬せを渡って日ひの宮みや林に陣を構え、大将義仲は、一万余騎を引き連れ、埴はに生ゅうに陣を敷いた。願書
平家の軍勢の様子をうち眺めた義仲は、おもむろに口を開いた。 ﹁平家は大軍じゃから、恐らくは礪並山を越え、広い場所で正面から戦を挑むつもりであろう。しかし、そうなっては、無勢の我が方の不利、それよりも、旗差し物を何十本かつくり、源氏の白旗を一時にさしあげよ。すると、平家方は、源氏方は定めて大勢の様子、のこのこと広い場所に出ていってとりこめられては敵わない、それよりもこの山は、要害堅固の地だから、暫く休息していても大丈夫であろう、と思ってきっと山中で一時の休息をいたすであろう。その間、こちらは、ほどほどにあしらっておき、夜に入ってから、平家方を一挙に、倶くり利から迦と羅う峠げへ追い落すのじゃ﹂ 義仲の予想はうまく的中した。平家は案の定、礪並山の山中、猿さるの馬ば場ばというところで腰を据え、馬に水をやって暫く休息することになった。 一方義仲は、埴はに生ゅうに陣をとり、あたりを眺めていると、赤い鳥居が目に入った。 義仲は、すぐ、地理に詳しい者を呼び、 ﹁あれは何の宮じゃ、何の神を祭ってあるのか?﹂ と尋ねた。 ﹁あれは八幡様でございます。このあたりは、八幡の御領なのでございます﹂ 義仲はその返事をきくと直ぐに、書記として連れていた大だい夫ふぼ房うか覚くめ明いを呼びだし、 ﹁きくところによれば、八幡宮の側近いようじゃ。義仲は、唯今より合戦に臨むにあたり、後代のため、また勝利の祈祷のため、願書を書いて納めたいと思うがどうじゃ?﹂ ﹁まことに結構なことでございます﹂ といって覚明は馬から下りたって願書を書く用意にかかった。覚明はその日、黒くろ皮かわ縅おどしの鎧を着て二十四差した黒くろの矢を負い、塗ぬり籠ごめ籐とうの弓を脇にかいばさんだ勇ましい姿であったが、兜かぶとを脱いで背中にかけ、箙えびらから、小こす硯ずりと畳たと紙うがみを取りだすと、すぐ願書を書きはじめた。 覚明は、儒家の出身で、蔵くら人んど道みち広ひろと名乗って、一時、勧かん学がく院いんにいたことがあるが、出家して最さい乗じょ坊うぼ信うし救んぎゅうと名乗っていた。例の高倉宮の旗上げのとき、園おん城じょ寺うじの牒状に対する南都の牒状を書いたのが、この信救で、﹁清きよ盛もりは、平氏のかす・ぬか、武家のごみ﹂という痛烈な文句で清盛をかんかんに怒らせ、南都から北国に逃げて来たのである。今では、義仲の書記として、名も大夫房覚明と改めていた。覚明は誠心こめて、戦勝の祈願文を書き綴った。それに義仲始め十三人の上うわ矢やの鏑かぶらをぬいて、御宝殿に納めた。八幡大菩薩も、この誠心あふるる祈願には心を動かされたのであろう、折しも雲の中から飛んできた山鳩が三羽、源氏の白旗の上を飛び翔かけったという。 その昔、神功皇后の新羅征伐の時も、味方の勢が弱く今にも破れそうな時、皇后が天に祈りを捧げると、三羽の霊鳩がとんできて、戦はたちまち逆転、皇后の勝利となったことがある。又、義仲の祖先、源頼義が、貞さだ任とう、宗むね任とうを攻めたとき、味方の旗色が悪くなったので、頼義は敵陣に向い、﹁これは、神火なり﹂と火を放つと、風向きが変り、火は貞任の城を焼き払い、頼義の軍は大勝したのである。 義仲はこれらの先例を思いだすと、急いで馬から下り、兜を脱ぎ、うやうやしく鳩を伏し拝んだ。倶利迦羅落し
礪とな並みや山まをはさんで向い合った源平両家の軍勢は、その間、僅か三町という近さに対陣しながら、一向に動き出す様子がなかった。源氏も進まず平家も進まず、源氏が、弓の精兵十五騎をくり出し、上矢の鏑を平家の軍に射こめば、平氏も又同じ十五騎で、十五の鏑を返すという有様である。源氏が三十騎出すと、平家方も三十騎、源氏が五十騎になると平家も五十騎、源氏方は、一時でも時をかせぐつもりだから、はやる将兵を戒めて、勝負をさせない。平家はこんな術策があろうとは夢にも知らず、便々と日の暮れるまで、このばかばかしい戦いを続けているのであった。 やがて、いつかあたりも暗くなり、人の姿も定かには見えなくなった頃、北南より廻った搦から手めての一万余騎が、頃は良しと倶利迦羅堂前あたりで落ち合い、箙えびらをたたき、一度にどっと鬨ときの声を挙げた。これに呼応するかのように大手の木曽勢は、日宮林の六千余騎、松長の柳原、茱ぐ萸みの木林の一万余騎も、どっとばかりに鬨の声をあげる。四万余騎の鬨の声は夕闇の山々にこだまして、頭上に何千という雷が落ちかかってきたようであった。 慌てたのは平家である。 ﹁確かに囲りは岩石ばかりで、搦手から廻られるとは思ってもみなかったのに﹂ とぼやいたところで後の祭であった。 腹背に敵をうけて逆上した平家の軍勢は﹁帰せ、帰せ﹂という、必死の下知も何のその、もう命が惜しいばかりに、後へ後へと泡を喰くらって逃げ出した。ところが後は、名にし負う倶利迦羅谷が、闇黒の口をあけて待っている。先の者が見えなくなるから﹁ああ後に道があるのだな﹂とばかり我もわれもと、谷を目がけて押寄せるので、さしもに深い谷も、みるみるうちに人と馬とで埋まってしまった。子は親の後を追い、弟は兄を追い、それぞれ家来は主の後を追うというわけで、あらかたの平家の軍勢が、倶利迦羅谷の露と消えた。中には、平家方の主だった侍、上総大夫判官忠綱、飛騨大夫判官景高、といった一騎当千のつわものも含まれていた。大力を以て聞えた瀬せの尾おの太たろ郎うか兼ねや康すは生捕となり、火打城で裏切った平泉寺の斎明威儀師も捕われ、即刻、首をはねられた。 七万余騎の平家勢の内、辛うじて助かったのが二千余騎、大将維盛、通盛も、漸く命だけは助かって加賀国に逃げのびた。 翌くる日義仲の許へ、奥州藤原秀衡のところから、駿馬を二頭送ってきた。一頭は黒白毛、一頭は連れん銭せん葦あし毛げの、二頭とも稀に見る逸物であった。義仲はそれに銀の鞍をつけ、白山神社へ戦勝のお礼のために神馬として遣わした。 倶利迦羅谷の一戦に大勝を博した木曽勢は志保山に廻った。十郎蔵人の軍の様子が気にかかったので、四万余騎の中から、特にえりすぐった二万余騎を引連れて、援軍にかけつけた。途中、氷ひ見みの湊みなとを通るとき、折からの満潮で、深さが見当つかない。義仲は、咄とっ嗟さに鞍を置いた馬十匹を水の中に追い放った。水は丁度、鞍と端はしと﹇#﹁鞍と端と﹂はママ﹈すれすれのところで、無事に十匹は向う岸に着いた。これをみてすかさず、二万余騎が、どっと湊を渡った。 志保に着いてみると、行家の軍は、平家側に散々てこずって疲労の色が甚しく、一息入れているところだった。義仲は、新手二万余騎を、平家の三万余騎の真中へ突入させた。 先刻からの激戦で疲れている上に、新手の敵の勢に、平家方も、ここを先途と戦ったがついに空しく攻め落された。 平家の大将、三河守知度は、この戦で討死した。篠原合戦
義仲は、そのまま志保山を越え、能登の小こだ田な中か、親王の塚の前に陣を構えた。そこから各神社神領を寄附した。白山には横江、宮みや丸まる、菅すご生うへは能の美みの庄、多た田だの八幡へは蝶ちょ屋うやの庄、気け比ひへは飯はん原ばらの庄、平泉寺へは藤島七郷といった具合である。 治承四年の石橋山合戦の際、平家に味方し頼朝に弓を引いた者たち、俣また野のの五ごろ郎うか景げひ久さ、長なが井いの斎さい藤とう別当実さね盛もり、伊いと藤うの九郎助すけ氏うじ、浮うき巣すの三郎重親、真まし下もの四郎重しげ直なおらは、そのまま京へ逃げのぼって、平家の侍となっていたが、戦のない時は、それぞれの家に寄り集まっては、酒をくみ交わし世間話に興じていた。ある時、実盛の家で例の通り酒宴が行なわれた時、主人の実盛が一膝乗り出して声をひそめていった。 ﹁近頃の世の有様をみていると、どうも源氏の方に運が強く、平家はどうやら落ち目らしい。このまま平家についていても、面白くない。いっそ木曽殿に味方しようと思うがどうじゃ?﹂ 一座の者は、実盛の意外の言葉に、急に言葉もなく、﹁そうだのう﹂というあやふやな返事をするばかりであった。翌くる日、再び寄合が、今度は浮巣三郎の家であった。すると実盛は、又昨日と同じ様に一膝のり出すと、 ﹁昨日、わしの言ったこと、各々方、どのようにお考えじゃ?﹂ と尋ねた。再び一座がしんとしていると、俣野五郎が進み出た。 ﹁我々一同は、とにかく東国では一応、名も知られた者、旗色の良い方にばかりついて尾をふるのは、余りにもみっともない。方かた々がたはどうあろうと、この景久だけは、平家にお仕えして最後の花を飾るつもりじゃ﹂ すると実盛は、笑いながら、 ﹁実は、わしは各々方の気を引いてみたまでの事じゃ、わし自身は、今度の戦で立派に討死をするつもりで、二度と生きて都の土は踏むつもりはないと、宗むね盛もり卿にも申し上げておいたのじゃよ﹂ 一同は、もちろんこの言葉に同意して、同じ決心を固めていた。その約束通り、その座にあった者は残らず今度の北国の軍いくさで討死を遂げている。 志保山、倶利迦羅谷で手痛い打撃を蒙った平家は、加賀国篠原に陣を敷き、人馬の休息をしていた。 義仲は、五月二十一日の午前八時、鬨ときの声をあげ、篠原目がけて攻撃を開始した。 平家方からは、畠はた山けや庄まの司しょ重うじ能しげよし、小山田別当有重らを先陣とし、木曽勢は、今井四郎兼平、両軍三百騎の手兵で軍を進めた。始めは、五騎、十騎と小競合であったが、次第に戦が進むにつれて、今は敵も味方も全くの乱戦であった。正午を過ぎて、戦はますます白熱化し、両軍共、死傷者がおびただしかった。続いて、今井、畠山の両勢が退くと、代って平家方から、高たか橋はし判のは官んがん長綱、五百余騎、木曽方からは、樋ひぐ口ちの次じろ郎うか兼ねみ光つ、落おち合あい五のご郎ろう兼かね行ゆきの三百余騎が、たがいに鬨の声をあげながら戦った。しかし、高橋判官のひきいる面々は、それぞれ、国々から狩り集めた駆かり武むし者ゃであったから、命あっての物種と、戦わぬ先から逃げ腰で、戦のさなかになると続々と退却するので、しまいには、判官の囲りの味方は殆どいなくなってしまった。判官は今は仕方なく、一人落ちのびようとしたところへ、乗りつけてきた一騎があった。馬を並べると、むんずと組みついてきた敵を、判官は鞍の前まえ輪わに押しつけた。 ﹁何者じゃ、名を名乗れ﹂ ﹁越中国住人、入にゅ善うぜんの小太郎行重、生年十八歳﹂ 兜の下からのぞいている若々しいひとみを見出したとき、判官は思わず溜ため息いきを吐いた。 ﹁去年失った、わしの息子も、今生きておれば、そなたと同い年どし、とてもわしには、そなたを殺す事はできぬ、助けよう﹂ 判官は、入善を馬から下し、自分も下り立って暫く休んでいた。 ﹁助けて貰ったが、何としても立派な敵、どうにかして首級を挙げたい﹂ そう思っている入善の心中も知らず、判官は、すっかり心を許していろいろ話しかけたりした。そのすきをねらっていた入善は、あっと思う間に判官の内兜に刀を突きさした。﹁しまった﹂と思ってももう遅い。更に運悪く入善の郎党もかけつけて来る。大力の判官も深傷には勝てず、遂にそこで討たれたのである。 平家方の武むさ蔵しの三郎左衛門有国は三百余騎、源氏方からは、仁科、高梨、山田次郎、五百余騎で、かけつけて来た。有国は、敵中に突入して戦ううちに、いつか味方と離れていた。群がる敵を射倒し、うち倒しているうちに、矢種は、すっかり尽きてしまった。乗馬も射たれたが、有国はそれでもひるまず、刀を抜くと、あたりの敵を何人か斬り倒したが、自分もその間に体中に矢を射られ、立ったまま討死した。実盛の最後
斎藤別当実盛は、その日、赤地の錦の直ひた垂たれに萌もえ黄ぎお縅どしの鎧を着け、鍬くわ形がた打った兜の緒をしめ、黄こが金ね作りの太刀に、切きり斑ふの矢、重しげ籐とうの弓という装立ちで、連銭葦毛の馬に、金覆輪の鞍を置き、人目をひく颯さっ爽そうたる姿で立ち現れた。木曽の家来、手てづ塚かの太たろ郎うみ光つも盛りは、実盛に目をとめて呼びかけた。 ﹁天晴れ見事なる装い、味方の落ちゆく中を唯一人、残られたは、一体誰どな方たか、名乗らせ給え﹂ ﹁そういう貴殿は何者じゃ﹂ ﹁手塚太郎光盛﹂ ﹁これはよい相手、わしはちとわけがあって名乗りたくないのじゃ、いざ参れ﹂ と、光盛の傍らに寄ろうとすると、光盛の郎党が、主人の一大事とばかり、二人の間に割って入り、実盛にむずと組付いた。 ﹁天晴れな奴め、そなたは、日本一の剛力者に組みつこうというのか?﹂ 実盛は、郎党の首を前まえ輪わにひき寄せると、頸をかき切った。目前に、家来の討たれるのを見た光盛は、実盛の左手に寄ると、鎧の草くさ摺ずりを引きあげて、ぐいと刀を二度突きさした。さしも剛気な実盛もこの深傷にはたまらず、どうと馬から落ちるところを、上からむずと押えつけて首をとった。 光盛は、首級を持って義仲の前に出ると、 ﹁おかしな男を討ち取ってございます。唯の侍かと思うと錦の直垂などを着け、大将軍かと思えば後に続く侍もなく、名乗れといっても名乗りたがらず、それに声は坂ばん東どう声ごえでござったようです﹂ ﹁うーん、これは実盛のようじゃが、わしが幼い頃の記憶では、既にその時、白髪混りだったと覚えているが、この首の鬢びんも鬚ひげも黒いのはおかしいのう。そうじゃ、樋口次郎は実盛とは昔なじみ、樋口を呼べ﹂ 樋口次郎は、実盛を一目見るなり即座に、 ﹁これは確かに斎藤別当でござります﹂ と、いいながら、はらはらと涙を流した。 ﹁しかし、それにしてはおかしい。鬢も鬚もまだ黒々としておるわい。もし実盛ならば、もう七十一のはずじゃ﹂ ﹁それだからでございます。あまりにもあわれで、つい涙をこぼしたのですが、実盛は常から、六十歳過ぎて戦場に出るときは、鬢、鬚を黒く染めて、年より若く見せようと思うといっておりました。若者達にまぎれて先駆けするのも大人気はなし、さりとて老武者と侮どられるのも口惜しいからじゃと申しておりましたが、やっぱりその通りにしたものと見えます。とにかく洗ってみれば、はっきりいたします﹂ 実盛の首を洗ってみると、白髪頭の老人であった。これには、座にある一同、深く感銘したのであった。 大将軍でもないのに、錦の直垂を着て出陣したのには、こんな話がある。 出陣の暇乞いに宗盛のところに赴いたとき、 ﹁実盛、かねがね、例の富士川で、水鳥の羽音に驚いて逃げ帰ったことを残念に思っておりましたが、この度は、北国征伐に加わることができ、老いの身の本望、この上は立派に討死して果てたいと存じまする。就きましては、私は元越前国の者、昔から故郷には錦を着て帰れといわれております。私に錦の直垂をお許し願えないでしょうか?﹂ 宗盛は、実盛の心掛けにひどく感服して、錦の直垂の着用を特に許したのであった。牒ちょ状うじょう
四月中旬、都を立つ時は十万余騎の軍勢が、一月経って京に戻ったときは、僅か二万余騎という有様で、夫を失い、子を失った人々の嘆きの声、念仏の声が、あちこちから聞えて来た。 越前の国こ府うにひと先ず落着いた義仲は、家の子郎党を一堂にあつめて会議を開いた。というのは、義仲が都を攻めるにあたって先ず、気になるのは、何といっても山門の去就であったからだ。 ﹁山門を滅ぼしたために、悪運尽きて都を落ちようという平家を倒そうとする義仲が、これまた、山門に刃向うというのでは、平家の二の舞も同然、しかし、近江を通って都へ入ろうという義仲を、やすやすと通す山門でもないと思うし、如いか何がいたしたものであろう﹂ 大夫房覚明が、一歩進み出た。 ﹁山門の衆徒と申せば、その勢せい、三千という大人数でござります。彼らの意見が、全く同じとは考えられません。とにかく一度、牒状をやってみたらいかがなものでしょうか、山門のあらかたの思惑もわかるかとも思います﹂ 義仲も、覚明の意見を尤もと思い、直ぐに牒状を書かせた。 ﹁保元、平治以来の平家の悪逆無道振りは、目に余るものありと覚え候。去る治承三年には、法皇を鳥羽殿に押し籠め奉り、又、四年には、高倉宮、以もち仁ひと王の御所を取り囲むという無法も敢て行ない候。義仲は、以仁王からの令旨を頂き、勇躍出陣、爾来、連戦連勝の幸運を得候。これ全て義仲の武略に非ず、ひとえに神仏のご加護とのみ覚え候。今日、平氏敗北の後を追い、都への道を急ぐに当り、山門諸兄の思惑いかがかと思い候。平家に同心か、或は源氏へ同心か、もし平家に同心、ひといくさの心構えならば、山門の滅亡は既に時の問題と覚え候。願わくは、神のため、国のため、君のため、源氏に味方されん事を切に乞い願い候﹂ 山門の大衆は、この義仲の手紙によって動揺した。源氏に味方しようという者、長年の恩義に依って平家を見捨てるべきでないという者、意見は全く二つに分れたかに見えた。するうちに老僧が立って、 ﹁つまるところ、我々は、唯、国家の安泰と天地の長久をお祈りすることが義務であって、政治的な恩義は何一つ受けておらぬはず、平家は天皇の御外戚でもあり、その繁昌を祈るのは当然なれど、余りにも悪行が多過ぎ、今や権威も地に落ちた感がある。それに引き替え、源氏の勢は、あなどり難い。勝運の波に乗っている源氏に背むいて、落ち目の平家に味方して、何の益があろう。そのため、山門の滅亡を招くがごときことあれば当山建立の精神にも反する。平家長年の恩義は恩義じゃが、この際、源氏にお味方するのが当然じゃ﹂ この言葉には、山門の一同も尤もなことだとうなずき合い、直ぐその趣旨に従って、義仲に返牒を送った。 平家の方は、義仲と山門の間に、こんな盟約の交わされたことは夢にも知らなかった。 ﹁興福、園城の両寺とは、いろいろ因縁のある間柄故、とても味方はしまいが、山門は未だ当家に怨もないはず、山王大師に祈誓して、三千の衆徒を味方につけよう﹂ と、一門の公卿十人が、連署の願書を書いて山門に送った。 ﹁山門は、伝でん教きょう大師この方、仏法繁昌の霊場として、鎮護国家に備え候。此度、源頼朝大胆にも、朝廷を軽んじ奉り、義仲、行家とかたらって、隣境、遠境、数カ国を掠りゃ領くりょう、暴虐目に余るものあれども、官軍利を得ずして、形勢非なり。今神明仏陀のご加護なくんば、反乱を鎮撫するを得ん。いかで今日以後、山門の喜びは一門の喜び、社家の憤りは一門の憤りとなさん。仰ぎ願わくは、山王七社、王子眷けん属ぞく、東西満山護法聖しょ衆うじゅ、日光月光、無二の丹誠を照らし、唯一の玄げん応おうを垂れ給え。さすれば逆賊謀臣はたちどころに軍門に下り、首こうべを京土にさらさん。依って一門の公卿、異口同音に礼をなし、祈誓をいたす。 従三位行兼越前守平朝臣通盛、従三位行兼右近衛中将平朝臣資すけ盛もり、正三位行右近衛権中将兼伊予守平朝臣維盛、正三位行左近衛中将兼播磨守平朝臣重しげ衡ひら、正三位行右衛門督兼近江遠江守平朝臣清宗、参議正三位皇太后宮大夫兼修理大夫加賀越中守平朝臣経盛、従二位行中納言兼左兵衛督征夷大将軍平朝臣知とも盛もり、従二位行権中納言兼肥前守平朝臣教のり盛もり、正二位行権大納言兼出羽陸奥按察使平朝臣頼より盛もり、従一位平朝臣宗盛﹂ 天台座ざ主すは、この願状にはさすがに気の毒に思い、直ぐに衆徒には披露せず、十禅ぜん師じの御殿で三日間加持をした上で、始めて一同に見せた。願書の上巻に一首の歌が書かれていた。 平らかに花咲く宿も年経れば 西へ傾く月とこそみれ しかし、今となっては既に手遅れであった。源氏同心の決意を固めた衆徒にとっては、山王大師の憐れみも、天台座主の祈りも、無駄であったのだ。平家は、既に運に見放されていたのである。主上都落
鎮西の反乱を鎮めに西下した肥後守貞さだ能よしは、叛徒を平げて無事に帰京した。時に、七月十四日である。 すると、二十二日の夜半、俄かに六波羅のあたりが騒がしく、人馬の往来が激しくなり、家財道具などをあちこちへ運び隠している様子で、まさに敵が京に乗り込んできたかのようであった。 翌くる朝になって、事の真相がわかった。美濃源氏、佐さど渡のえ衛もん門のじ尉ょう重しげ貞さだという男があった。保元の乱のときである。鎮西八郎為朝が落おち人うどになったところをからめ取った手柄がもとで右衛門尉に任ぜられ、それがために源氏一門から憎まれ平家方にこびへつらっていた。 二十二日の夜、その男が六波羅に駆けつけてきて、 ﹁木曽義仲、既に五万余騎にて攻めのぼり、比叡山東坂本まで来ております。又楯たての六郎親ちか忠ただ、大夫房覚明六千余騎は、山門の衆徒三千と合併して都へ攻め入る模様です﹂ この突然の知らせに、平家一門は狼ろう狽ばいの極に達していた。しかし、このまま慌てふためいても仕方がないので、方々に討手だけは差し向けることになった。先ず、知盛、重衡のひきいる三千余騎は山やま階しなへ、通盛、教のり経つねら二千余騎は宇治橋を固め、行盛、忠度の一千余騎が淀の守りに当った。一方、源氏方は行家が数千騎で宇治橋に来たとか、又矢やだ田のは判んが官んよ義しき清よが大江山方面から都へ攻めのぼるとか、あるいは摂津国河内の源氏が雲霞のごとき大軍で都へ寄せてくるとか、さまざまな怪しい不安にみちた風説がしきりに乱れとんだ。 ﹁此の上は、何処までも一緒になって、どうにでもなろうという意見が、平家の大勢を占め、方々に差し向けられた討手一同を再び都に呼び返し、都落ちの用意をすることになりました﹂宗盛は、建礼門院のいる六波羅池いけ殿どのを訪ねてそういった。﹁勝ちに乗じた木曽勢は、早晩都へ攻め入る所存と思われます。一族諸共、都の中で、どのようになろうという意見もありますが、私としては、院を始め内裏ともども、一先ず西国へ落ちのび、その上で対策を講じようと思いますが、如何なものでござりましょう﹂ ﹁今となっては、どのようにでも貴方のいう通りにいたしますよ。それにしても余りに情ない世の中になりましたね﹂ と、さめざめとお嘆きになるご様子に、宗盛もこれからの暗澹たる未来を思って、首をうなだれるのであった。 法皇は、平家の計画を、いつかお気づきになったものらしい。按あぜ察ち大納言資すけ賢かたの御子息、右うま馬のか頭みす資けと時き一人を供にして、いずくともなく、そっと御所を忍び出られた。誰一人としてこのことに気づいた者はいなかった。 その日、法住寺殿の宿直をしていたのは、平家の侍で、橘きち内ない左衛門尉季すえ康やすという常々気転のきく男だった。法皇の御座所のあたりが騒がしく、忍び泣きの声さえもれてくるので、そっと聞耳をたてていると、 ﹁法皇はどこへゆかれたのでしょう﹂ ﹁お姿が先程から見えませぬ﹂ などという声が聞えてきた。 季康が慌てて六波羅へ注進すると、宗盛もどきっとして、 ﹁まさかさようなことがあろうとも思われぬ、――何かの間違いであろう﹂ と、いうが早いか、すぐ法住寺殿へかけつけた。確かに、法皇だけがもぬけの殻からであった。二位殿、丹後殿以下の女房たちは、そのまま居残っているが、誰一人法皇がいつ御所を脱け出られたのか、何処へ行かれたのか知る者もなかった。宗盛は、すっかりがっかりして邸に戻ってきた。 法皇の失しっ踪そうはたちまち京の町に知れ渡った。人々の驚きは大きかった。それまではまだ冷静を保っていた平家の一族にとって、それは決定的な打撃に近かった。今は唯、幼い主上ばかりが、唯一の頼みである。その日、主上は、国母建礼門院の膝に抱かれて輿にお乗りになった。六歳の幼児では、もちろん何もわかろうはずはない。そのいとけない様子がかえって哀れである。 ﹁宝剣、神鏡、玄げん上じょう︵琵琶︶、鈴すず鹿か︵和琴︶などをとり忘れるなよ﹂ 平大納言の声がかかったが、何しろ、ごたごた騒ぎの最中で忘れる物も多く、そのとき御座所にあった御ぎょ剣けんなども忘れた物の一つであった。 しかし、ようやく出発の準備が整った。平大納言をはじめ、内くら蔵のか頭みの信ぶも基と、讃さぬ岐きの中将時とき実ざねの三人が衣冠束帯で御みこ輿しのお供をし、武装した兵たちが囲りを警護していった。 摂政基もと通みちも、主上の行幸にお供して加わっていたが、七条大宮のほとりで、一人の童子が車の前を横切った。何気なく見ると、童子の左袂たもとに、﹁春の日﹂という文字の書かれているのが眼に入った。﹁春の日﹂とは、代々藤原氏の守り神である春日大明神のことだから、基通も何となく心強い気持になっていると、その童子の声らしく、 いかにせん藤ふじの末すえ葉ばの枯れゆくを ただ春の日にまかせてやみん 何事も春日大明神にまかせよというご神意であろうか? 基通は、供の進藤左衛門尉高直をかえりみて、 ﹁どうも世の中の様子をみると、主上の行幸はあっても法皇のお行方はわからぬし、この先は不安じゃのう、そなたはどう思う?﹂ と、暗に西国落ちに参加したくないことを仄めかすようにいったので、高直も直ぐに主の気持を察し、車の牛飼に目くばせした。牛飼も心得たもので、都落ちの方角とは反対に、都を北へとひた走りに走り、北山の知ちそ足くい院んに入った。基通の車が一人外れて、方角違いに走り去るのを見た平家の侍が追い掛けようとしたが、囲りの人々から沮はばまれて、やっと思い留まった。維盛都落
三位中将維盛には、過ぐる鹿ヶ谷事件で憤死した新大納言成なり親ちかの娘で、当代一の美女といわれるほどの美しい北の方があった。二人の間には、六代御前と呼ばれる十歳になった若君と、八歳の姫君がいた。常日頃から、いつかはこういうこともあろうかと覚悟はしていたものの、いざ別れが現実に迫ってくると、さすがに別れの辛さが身にしみるのである。 桃の花びらのように可憐な面ざし、風になびく柳のように長く美しい髪の毛、何年間かなれ親しんだ奥方との別れは殊に辛いものだった。 ﹁日頃からそなたも存じておらるるように、此のたびの戦局は我が一門に不利なことばかり、一先ず西国に落ちてその上で、再び旗を挙げようという宗盛卿のお言葉じゃ。依ってわたしも一緒に一門と運命を共にするつもりじゃ。何しろ、行く先々で敵を迎え討ちながらの都落ち故、わたしの身に万一のことがあろうかも知れぬ。もし維盛討死の知らせを耳にしても、決して髪を下して尼などに身をやつすではない。そなたはまだ若く美しい身空、情をかけてくれる人もあろうから、その人にすがって幼い者たちを大事に育ててくれよ﹂ 維盛の心からの慰めも、今の北の方には一言も耳に入らないらしい。唯、頭から衣をかぶって泣き伏しているばかりである。そのうちに時間も迫ってきて、維盛も気が気ではない。後髪をひかるる思いで立ちあがると、泣き伏していた北の方が、漸く頭をもたげて維盛の袂をしっかとおさえると、 ﹁父成親がこの世を去って以来、私はまったくの天涯孤独の身の上、貴方に捨てられたら一体誰を頼りに生きてゆけばよろしいのですか、それをまた、他の人に縁づけなどと、あまりにもつれないお言葉でございます。夫婦の縁は前世のちぎり、貴方様以外にまみえる気はございませんのに、夜半のむつごとにも、どこまでも一緒に、生きるも死ぬるも一緒、野原の露でも、水の底の藻もく屑ずでも、共になり果てようという約束をしておりましたことが、みんなうそになるはずがござりましょうか。それもせめて独り身ならばどのように辛くともがまんもいたしましょう、あの可愛い二人の子をどうせよと仰おっ有しゃるのですか、あまりにも情のうございます。何卒、ご一緒にお供させて下されませ﹂ ﹁私が十五の時に十三のそなたと知りあって以来の縁、私とても、火の中、水の中までも連れて行きたい心は山々なれど、このたびの西国落ちは戦も同然、行く先きざきで、どんな辛い目が待っているかわからぬくらいじゃ、それを思うと、私にはどうしてもそなたたちを連れてゆく気がしないのじゃよ。その上、今度は余りの不意の出立で、用意も何一つできてはおらぬ。この上は、先ずわが身一人先に行き、どこの浦でも、あるいは島でも、仮の宿を決めたところができたらば、直ぐに迎えを寄越そうと思う。せめて、それまで辛抱していてくれぬか﹂ 維盛の声涙あふるるばかりの嘆願も、今は北の方の嘆きの声にかき消されがちであったが、維盛ももはやこれまでと決心をすると、中門から馬に乗ろうとした。ところへ邸の内から幼い若君と姫君が、ぱたぱたとかけ出してきて、 ﹁いずこへお出ででございます、私も行きとうございます﹂ ﹁父上、お連れ下さいませ﹂ と口々にいいながら、鎧よろいの袖、草くさ摺ずりに取りすがって離れようとしない。これには維盛も、どうしようもなく、暗然と涙にむせぶばかりであった。そのとき、門外よりひづめの音がして、門の中に入ってきたのは、実弟の資盛始め、清きよ経つね、有経﹇#﹁有経﹂はママ﹈、忠ただ房ふさ、師もろ盛もりたちだった。 ﹁いかがなされた、あまりに遅いので案じて参りました。行幸が遅れますぞ﹂ その声に、維盛は気を取直し、幼い者の手を優しく離すとひらりと馬にまたがったが、不図思い返し、弓の弭はずで御み簾すをかきあげた。 ﹁各々方、ご覧下されい、彼ら幼き者たちが余りに慕いまするので、あれこれなだめすかしているあいだに、気になりながらも遅れをとりました﹂ この言葉に並みいる一同は、鎧の袖を拭うばかりであった。 維盛の家来に斎藤五、斎藤六という二人の兄弟があった。例の北国の戦でいさぎよい討死を遂げた実盛の息子であったが、兄は十九、弟は十七の若侍で、この日も馬の手綱に取り付いて維盛の供を願った。 ﹁そなた達の志は嬉しいが、父実盛が、北国の戦にそなたら二人を残したのも、今日あることを予想してのことと思う。その志をうけついで、今度だけは邸に留まって、か弱い者達の力になって呉れよ、頼む﹂ こうまでいわれては仕方なく、兄弟は涙を呑んで邸に残った。維盛の馬が門を出て、次第にひづめの音も遠去かってゆくのを聞きながら、北の方は、 ﹁長年連れ添っていたが、あれほど強情な夫とは思わなかった。これからはどうやって暮していけばよいのか﹂ と、唯もう泣き伏すばかりで、若君姫君の父を慕う声、女房達の泣き叫ぶ声は、遠く西国の空にも響くかと思われるばかりであった。 平家は都落ちの際、後顧の憂いを絶つために、一門にゆかりのある邸宅、宿所、家屋などをすべて焼き払った。 代々、聖主臨幸の地であった京都も、今や全く灰に帰そうとしていた。御所を始めとして、かつては華やかなりし后妃達が遊び戯たわむれていた宮殿、月夜に憂さをわすれ、釣に一時の心を慰めたことのある広大な庭園、また日夜管絃の宴にうつつを忘れて騒いだ大臣、公卿、殿上人の邸宅、それらが真紅の炎の中に次第に消えていく光景は、哀れとも、壮絶とも、いいようのないものだった。昨日までは、雲の上に雨を降らす神竜として、当るべからざる平家の勢も、今は衰微の一途をたどるばかりであった。真まことに福と禍は常に表裏一体というものである。保元の春、わが世の春を謳歌した平家も今、寿永の秋を迎えるにあたり、秋風もそぞろ身にしむ風情であった。 ところで、治承四年七月、大番のために上洛し、そのまま平家方に仕えることを余儀なくされていた一群の東国武士があった。すなわち、畠山庄司重しげ能よし、小山田別当有重、宇都宮左衛門朝とも綱つならである。いよいよ平家一門都落ちということになり、彼らの処置が問題になった。 ﹁面倒だ、どうせ彼らは東国のもの、即刻、首を斬れ﹂ という意見も多かった。その中で、新中納言知盛だけは、首を横に振っていった。 ﹁たとえ彼らの首を百人千人斬ったところで、大たい勢せいには関かかわりございません。そのために、故郷の妻子を嘆き悲しませるのは気の毒でございます。もし一門の運命が開かれ、再び都へ帰って来るときは、何かの役に立つこともありましょう、今度は許しておやりなされませ﹂ 宗盛も、知盛の言葉に動かされて、彼らを放免することにした。思いがけぬ助命の言葉から、遂には暇までくれた寛大な思いやりに、彼らも嬉し涙を流しながら、 ﹁治承より今日まで、お命を助け下されたご恩に対しても、われらは、どこまでもご一門と行を共にいたしとうございます﹂ としきりに願ったが、宗盛は、 ﹁いや、いや、言葉ではそう申しても、誰しも生国はなつかしいもの、そなたたちの魂は東国にあり、ぬけがらばかり西国へ連れて参っても無駄だからのう﹂ といって聞き入れなかった。忠ただ度のりの都落
いったん一門といっしょに都を後にした薩摩守忠度は、何を思ったか、もう一度京に取って返した。総勢七騎という僅かな人数で、五条の三さん位みし俊ゅん成ぜいの邸にやってきた。もちろん、一門の都落ちの騒ぎで、どこの家も門戸を堅く閉じてひっそりと静まり返っていたが、俊成の邸も、その例にもれなかった。 ﹁誰方かお出でになりませぬか、薩摩守忠度でございます﹂ と声をかけると、そら﹁平家の落おち人うどだ﹂と、家の中は急にさわがしくなってきた。忠度は馬から下りて、門の傍に歩み寄り、 ﹁お案じ下さいますな、決して乱暴をするために帰ってきたのではないのです。実は、一言だけ、三位殿に申しあげる事を思い出し、わざわざ途中から引き返し参りました。後にご迷惑になっても相済みませぬ、門は開かなくとも結構でございます。唯、この門の傍近く三位殿にお出でになっては頂けますまいか?﹂ この口上を聞いて、俊成卿は愁しゅ眉うびを開いた。 ﹁薩摩守だと? その方ならば遠慮は要らぬ、中へお通し申せ﹂ 主あるじの言葉で、門が開かれ、主従は中へ通された。向い合って対面した二人は、急には言葉もなく、黙って顔を見つめていたが、やがて忠度が口を切った。 ﹁長年、和歌の道には一方ならぬお教えを承っておりますが、ここ二、三年ばかりは、戦乱兵乱打ち続き、とかく世の中が騒がしく、心ならずも、ご無沙汰を重ねております。しかしこのたびは、主上も都を捨てて、西国へお下りになるという重大な事態、一門の運命も今や風前の灯ともしびでございます。以前から、勅撰集撰定のことある由聞き及び、一生の思い出に一首でもと思っておりましたが、騒乱の世となっては一時沙汰止みと承りました。しかし、これから世の中が静まれば、再びそういう折もあろうかと思います。たずさえ持ちました巻物には、私のつたない和歌の数々、時にふれ折にふれ書き記して参ったものです。もしお目に留まったものがあれば、一首なりと撰集にお加え下されば、どんなに嬉しいことかと思います﹂ 忠度は鎧の引き合せから、大事そうに巻物を取り出すと俊成に渡した。 俊成はそれを押し戴いて、中を開いた。日頃から詠んだ歌の中で、特に秀歌と思われるもの百余首が、ずらりと記されていた。そのゆかしい志に、ともすると、涙がにじんで来るのを押えながら、 ﹁かように貴重な忘れ形身をお預りして、俊成これほど嬉しいことはございません。ゆめゆめ疎略にはいたしませぬ。それにしても、この一巻のため、混乱の最中をわざわざ戻っておいでになったとは、あわれを知る人にしてこそ始めてできる行ない、俊成この年にして感涙を押えることができませぬ﹂ ﹁それほどまでにいって頂いて、忠度今は何一つ思い残すことはございません。今はいさぎよく西海の波に沈むこともできます。さらば、お暇いたしまする﹂ 忠度は、にっこりと笑うとひらりと馬に乗り、兜かぶとの緒を締め直すと、西国へ向って落ちていった。 俊成は、名残惜しくて、いつまでも、いつまでもと門の外にたたずんでいるうちに、忠度の声らしく、高らかに漢詩を口ずさむのが聞えてきた。 ﹁前ぜん途と程ほど遠とおし、思いを雁がん山ざんの夕ゆうべの雲に馳はす﹂ 二度と再び相逢うことのできぬ悲しみをこめたその歌の文句が、俊成の心を深く突き刺すのであった。 これは後日談になるが、後に千載集の選にあたり、俊成は約束通り、形見の巻物の中から一首を撰えらんで入れた。勅勘の身なので、読みびと知らずとして入っているのがこの歌である。 さざ浪や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな経つね正まさ都落
皇こう后ごう宮ぐう亮のすけ経正は、幼い頃、仁にん和な寺じの御おむ室ろの許で、稚児姿で仕えたことがあった。慌しい都落ちにも経正は五、六騎の供を連れ仁和寺へお別れにやってきた。 門の前で馬をおりると経正は、 ﹁此のたび、武運つたなく、都落ちをいたすことになりましたが、この世に思い残すことといっては、唯、八つのときから十三のときまで、お仕え申しましたわが君さまのことだけでござります。病気以外は、決してお離れしたこともなかったのに、今後は、西海千里の波を枕に、いつ帰るとも知れぬ戦の道でござります。今一度、拝顔の栄に浴したくは思いまするが、何分甲かっ冑ちゅうで、御前に伺候することも、如いか何がかと思うのでござります﹂ 経正の口上を聞かれた御室は、 ﹁構わぬ、そのままでよいから参れ﹂ といわれたので、経正はそのまま門に入り、お庭先に控えていた。 この日経正は、紫むら地さきじの錦の直ひた垂たれに、萌黄匂の鎧、長なが覆ふく輪りんの太刀をはき、切きり斑ふの矢負い、重籐の弓小脇にかいばさんだ雄々しい出で立ちであった。 親皇がお部屋の御み簾すを高く掲げて、お招きになったので、経正は前に進み寄ると、供の藤兵衛有あり教のりに赤地の錦の袋に入れた物を持って来させた。琵琶であった。 ﹁先年、私に賜わりました青せい山ざんでござります。もちろん日頃いつくしみましたる物ではございますが、この稀代の名器をむざむざ都落ちさせるにしのびませぬ。又折よく運の開けた折には、再び頂きに参上いたしますからそれまでお預り下さい﹂ と涙を流していった。親皇も、その心根に感じて一首の歌をおよみになった。 あかずして別るる君が名残をば 後の形見に包みてぞおく 経正にも硯すずりを下すったので、彼も即座に一首を書きのこした。 呉竹の筧かけひの水はかわれども 猶すみあかぬ宮の内かな 暇を告げて外に出ようとすると、稚児を始め侍僧達が、袖に取りすがって名残を惜しむのであった。 その中でも、経正の幼友達であった大納言法印行ぎょ慶うけいなどは、わざわざ桂川の端はずれまでついてきて、別れを惜しむのであった。別れるにあたって、行慶は一首の歌を贈った。 あわれなり老おい木き若木も山桜 おくれ先だち花は残らじ 経正も直ぐに、 旅衣よなよな袖をかた敷きて 思えばわれは遠くゆきなん と答えた。 行慶とも別れた経正は、今はと、持っていた赤旗をさっと高く打ち振った。ここかしこで経正の帰りを待っていた家来たちはすわこそと集ってきた。それが百騎ばかりになったところで経正は、一門の後を追って行くのであった。 この青せい山ざんという琵琶は、仁明天皇の御代、掃かも部んの頭かみ貞てい敏びんが唐の琵琶の博士、廉れん承しょ武うぶから、三曲の秘曲を授かったときもらった三つの名器のうちの一つである。帰朝する際、三器の内玄げん象じょう、青山は無事だったが、もう一つの獅しし子ま丸るだけは海神の怒りを鎮めるため、海に投げたといわれる由緒のあるものである。 村上天皇の時だった。その夜は丁度中秋の名月であった。主上は、玄象を手にして、暫し独りで楽しんでいらっしゃると、影のようなものが御前にしのび寄り、気高い声で歌を和し始めた。主上は、弾く手をやすめ、 ﹁誰じゃ、一体どこから入ってきたのじゃ﹂ と尋ねられた。影が答えるには、 ﹁私は昔、御おん朝ちょうの貞敏に三曲を教え伝えた廉承武でござりますが、三曲の内に秘曲を一曲伝え忘れた罪に依り、魔道に落ちているのです。今、なつかしい琵琶の音につられて、ついのこのこ入りこみましたが、唯今ここで秘曲をお授け申し、わが身も、魔道から浮きあがりたいと思いますので﹂ いい終るとすぐ立てかけてあった青山をとり、調子を変えて、秘曲を弾き始めた。今伝わる上玄右上がこれである。このことがあって、主上始め誰も青山に手を触れるのを怖れたので、仁和寺の御室にお預けになった。その青山を、御室はご寵愛の深かった経正に又お預け下されたのである。 経正は、琵琶の名手であったが、十七の年、宇佐八幡宮に勅使として下向した際、この青山を持って、八幡宮の御殿で秘曲を弾いた。日頃、琵琶の音など聞いた事もない神官が涙を流したほど、その腕の冴えは見事だった。 青山という名のいわれは、夏山の峰の緑の木の間から、有明の月のさしのぼるすがたをいう。玄象と共に、当代の琵琶の二名器といわれている。一門都落
池大納言頼盛は、池いけ殿どのに火を放ち、鳥羽のあたりまで落ちていったが、鳥羽の南門まで来ると、﹁忘れたことがあった﹂といって急に平家の赤あか印じるしを切り捨て、手勢三百余騎を引き連れ、再び京へとって返した。これを見ていた一門の人々は誰しも、奇異の感じを免れなかったらしい。侍の一人、越中次郎兵衛盛もり次つぐは、宗盛の前に進み出て、 ﹁ご覧になりましたか? いくら忘れ物と仰おっ有しゃっても三百騎が全部付いて参らずともよさそうなもの、ちと様子がおかしゅうございます。大納言殿にはともかく、侍の一人か二人に矢でも射かけてみましょうか?﹂ と申し出た。宗盛も、この様子をさっきからみていたが、 ﹁日頃のご恩を投げすて味方を裏切るような奴じゃ、捨てておけ﹂ といまいまし気にいい放ったので、盛次もそれ以上は何もいわずに引き下った。 ﹁ところで、小松殿の方かた々がたは如何いたした?﹂ その宗盛の問いに、傍らに控えていた知盛が無念そうに口をゆがめた。 ﹁未だ一人も参りませぬ。それにしても、都を出て一日も経たぬうちにこの有様、人の心のうつろい易さは何としたことでござりましょう、この分では行く末が思いやられます。どうせのことなら都の中で、とあれほど申し上げたのに﹂ 彼は宗盛の顔を口惜しそうに見あげた。 池大納言が、平家を見捨てて都に留まったのには、こんなわけがあった。というのは、戦乱が始ってからも、彼は頼朝から何度も書状を貰っていたのである。池大納言の母は、頼朝の命乞いをした池禅尼で、頼朝にとっては命の大恩人であったのだ。だから平家追討の者にも﹁決して池殿の侍に弓を引くな﹂と固く戒めているのであった。 最後の際まで迷いに迷い抜いた池大納言は、とうとう、どたん場になって、頼朝の情にすがろうと思いついたのであろう。頼盛は、妻の宰相の縁故を頼って、八条女院がしのんでおいでになる仁和寺の常とき盤わど殿のに身をかくした。 ﹁万一の時は、お助け下さい﹂ と頼盛がいうと、女院は、 ﹁昔ならばとにかく、今の世の中では如ど何うでしょうかね﹂ と頼りないお言葉であった。一門とは離れ、敵中唯一人、頼朝の好意ばかりを頼りにしている頼盛は、どっちともつかぬ不安な気持であった。 維盛を始めとする小松殿の兄弟六人が、千騎ばかりで一門に追いついたのは、淀の六むつ田だ河原近くでだった。さすがに宗盛の顔は喜びをかくし切れなかった。 ﹁今まで何をしておいででした?﹂ ﹁それが、幼い和子たちが、仲々離さぬのでいろいろなだめておりますうちに遅れてしまいました﹂ ﹁又どうして、お連れにはならなかったので?﹂ ﹁つらつら思うに、世の行末も、余り頼もしいとは思われず﹂ と暗然として言葉を濁した。 この日都を落ちゆく面々は、前内大臣宗盛、平大納言時とき忠ただ、平中納言教盛、新中納言知盛、修理大夫経盛、右衛門督清宗、本三位中将重衡、小松三位中将維盛、新三位中将資盛、越前三位通盛、内蔵頭信基、讃岐中将時実、左中将清経、小松少将有盛、丹後侍従忠房、皇后宮亮経正、左馬頭行盛、薩摩守忠度、能登守教経、武蔵守知とも章あきら、備中守師盛、淡路守清房、尾張守清定、若狭守経つね俊とし、兵部少輔雅明、蔵人大夫成盛、大夫敦あつ盛もり、二位僧都全真、法勝寺執行能のう円えん、中納言律師仲ちゅ快うかい、経誦坊阿闍利融円、等、等、等。 その勢ざっと七千騎、東国北国の戦で、漸く一命を長らえた人たちであった。 平大納言時忠は、主上の御輿を山崎関せき戸どの院いんに据えると、男山を伏し拝んだ。 ﹁南無帰命頂礼八幡大菩薩、願わくは君を始め、我等一同、再び都に帰れますように﹂ 出て来たばかりの都の空を眺めやると、空はぼうっとかすんで、ところどころに、煙が一すじ二すじ立ち昇るのが見えるだけである。 教盛は思わず一首をくちずさんだ。 はかなしな主は雲井に別るれば 宿はけぶりと立ちのぼるかな 経盛も続いて、 故ふる郷さとを焼野の原とかえりみて 末もけぶりの浪路をぞ行く 肥後守貞さだ能よしは、淀川の川尻に源氏が来たと聞いて、五百余騎を引連れて出たが、間違いとわかって引き帰してくる途中、宇う度ど野ので都落ちの一行に出会った。 貞能は馬からとび下りると、宗盛の前にかけ寄った。 ﹁一体どこへ行こうとなされるのです? 西国へおいでになったら、落人として、あちこちで討ち散らされ、寄る辺のない身の上におなりになりますぞ。それよりも、どんなことになろうとも都においでの方がよいと思いまするが﹂ ﹁そちは聞かなかったか、木曽勢、五万余騎は既に叡山東坂本まで到着いたしたという話じゃ。昨夜から法皇もどこかに姿をかくしてしまわれた。もちろん、われらばかりであれば、都の内にて一戦も試みたいと思っていたが、女院や二位殿に辛い目をおあわせするのも心苦しい。とにかく一度西国に落ちた上で、陣容を立て直して、再び捲土重来を期そうと思うのじゃよ﹂ ﹁それなれば、貞能、一先ずお暇を賜わり、自由の身になって、とくと考えまする﹂ ﹁それはそなたの勝手じゃ、よいようにいたせ﹂ 貞能は、手勢五百騎の内、大半を小松殿の公達にと残し、自分は三十騎で都に帰っていった。 貞能、都に帰る、という知らせを聞いて、青くなったのは、池頼盛である。大方、自分を討ちに帰ってきたのだと、彼は小さくなって震えていた。 貞能は、西八条の邸跡に幕を引かせて、一夜を明かしたが、誰一人、戻って来る者もいないので、翌くる日、重盛の墓を掘りおこし、源氏の馬の蹄にはかけたくないと、骨を取り出し高野山に送り届け、あたりの土は賀茂川に流した。その上で、これ以上、平家に味方しても無意味と覚ったらしく、かつて、貞能が宇都宮を預り、手厚くもてなししたよしみを頼り、宇都宮のもとに落ちていった。 平家の一門は、維盛以外は、大臣以下、妻子同伴での都落ちであったが、身分の低い者はそうもいかず、いつの日再会することも覚束ないままに、愛する妻子や恋びとを都に見捨てたまま、西国に落ちて行ったのである。福原落
都を後にした一同は、憶い出のふかい福原に着いた。ここで宗盛は、数百人の重立った侍を呼び集めた。
﹁平家の一門、このたびは、ご運も尽き果て、神明からも見放され、君からも見捨てられるという事態に立ちいたった。今後、都を後に、仮寝の夢を結ぶ旅客の身の上、まことに頼りないことじゃ。そなたたちは祖先伝来の家人として、家代々平家の重恩を蒙ってきたものじゃ。今こそ、恩にむくいずして何といたそう。我々は主上を頭と仰ぎ、三種の神器をたずさえて参った。どうじゃ、野の末、山の奥まで、行幸の御供を仕る気はないか﹂
宗盛の赤裸々な言葉に一同は深く感動していた。
﹁鳥や獣さえも恩に報いる心は存じております。まして私共は人間でござります。何でその道に背きましょうか、二十余年間、妻子を育て一家を支えてまいったのも、ひとえに平家のご恩でござります。まして弓矢とる身に二心はあるはずはござりませぬ。雲の果て、海の果てまでもお供いたしまする﹂
と異口同音に申し出るのであった。
その日は福原の旧都に一夜を明かすことになった。丁度月の明るい夜で、眠られぬまま、人々は三年間留守にした、なつかしい都のあたりをあちこちと歩き廻った。
春の花見の岡の御所、秋の月見の浜の御所、泉いず殿みどの、松まつ蔭かげ殿、馬場殿といった所や、人々の邸宅も三年の間にすっかり朽ち果て、寝所には、月の光がさんさんと降り注いでいた。この都を造った頃が、平家栄華の最盛期であったかも知れぬ。それだけに、ひとしお感慨が胸にこみあげ、人々の心に涙をそそるのである。
翌日は、福原の内裏にも火を放ち、主上以下一門は、そこから船で更に西へ落ちていった。