私がどんなに質屋の世話になつたかといふ事は、これまで、小説に、随筆に、既にしばしば書いたことである。だが、私だとても、あの暖簾を単独でくぐるやうになる迄には、余程の決心を要した。私が友人を介して質屋の世話になり始めてから、友人なしに私一人でそこの敷居をまたぐやうになつた迄には、少なくとも二年の月日がかかつた。 それは私が二十四歳の秋の末のことであつた。その秋の初の頃、私の出世を待ち兼ねて、私の母が長い間居候をしてゐた大和の知合の家に別れを告げて私を便つて上京して来たのであるが、当時私はただ一文の収入の方法も知らなかつたのであるが、仕様がないので、取敢ず本郷区西片町に小さな借家を見つけて、母と二人で暮しはじめた。さうして私は中学校の国語、漢文、英語等の教科書の註釈本の仕事をしてゐる人に頼んで、その下仕事をさしてもらふやうになつた事まではよかつたのであるが、幾ら私が精出しても、その人が報酬をくれないのである。いや、あの原稿は大分誤謬が多いので、私が今訂正中だとか、いや、本屋の主人が今旅行中で留守だとか、いや、昨日までの本屋は失敗して夜逃げしたとか、――それで、私は三ヶ月の間に、一度金十円もらつたことがある切りだつた。当時私の母は五十歳であつたが、五十年の間に彼女はその時私たちが陥つたやうな貧乏な境涯の経験は初めてであつたに違ひない。彼女は月末の言訳に困る時、少女の泣顔のやうな表情をした。が、私にして見ると、全然あてがない訳ではなかつたから、もう三日、もう五日と彼女に約束するのであるが、註釈本の親方が一向その約束を守らないので、しぜん母が勘定取に対する約束も間違つて来るのである。彼女は、﹁もう国の方から為替を出したといつて来たんですが、まだ参りませんので、もう今日にも届くだらうと思ひますから、﹂などといふ、私が教へた口実にも、直ぐに窮してしまつて、茶の間の隅で小鳥のやうに震へてゐた。実際、あの頃の、玄関の明くベルの音に対する恐怖は、その後長い間私の記憶に止まつて、どんなベルの音にも、私は聞く度にはツとしたものである。恐らく彼女もさうであつたに違ひない。 その頃には、私も彼女に、彼女が私の長い学校生活の間に送つてくれたもので、質屋に入れて失つてしまつたものがあることは、すつかり打明けてゐた。が、それ等はみな私自身の手ではなく友人を通じて質屋の世話になつたものであつた。――或る日、私は彼女と火鉢に差向ひに坐つてゐた。その頃は、私には彼女と二人で差向ひになることが非常な苦痛であり恐怖であつた。私たちはなるべく二人切りにならないやうに、二人になつてもなるべく口をきかないやうに、出来るだけ張り合つて、顔を見合したら睥み合ふやうにして暮してゐた。心の中で、私は彼女に、あなたがこんなに突然出て来るものだから、こんな貧乏な目を見なければならないのだ、然し、私だつて遊んでる訳ではない、あなたの見てゐる通りあんなに仕事をしたのに不都合なのは先方で金をくれないことなんです、私が悪いせゐぢやアない、と云ひたかつた。また彼女は私に、自分はこんなに長年の間苦労して待つてゐた甲斐もなく、お前は私に楽みを与へてくれるどころか、毎日の食べることにさへ、年とつてからこんなに苦労をかけられるとは! と云ひたかつた。――こんな風に、互に相手をなるべく悪く思つて、さう思つて気を張りつめることに依つて暮してゐた。私の方で、自分が不甲斐ない為めに、年取つたこの人に苦労をさせるとか、母の方で、この子も随分苦労をしてゐるらしいんだが、それがうまく行かないのだから、無理もない、まだ世間馴れないんだからとか、そんな風に同情し合つたら最後、私たちはわツと泣いてしまはねばならなかつたからだ。 が、或る日、どちらから云ひ出したともなく、母の着物を、例の註釈本の親方が金をくれる迄、一時質屋に入れて都合しようといふことになつた。年とつても、女が着物に愛着を感じる心持には変りはないと見える。それを現すまいと努めながら、彼女が押入を明けて、貧弱な柳行李の中からひろげた縞の風呂敷の上に、着物や羽織を一枚一枚と重ねてのせて行く姿を、私は見るに堪へられなかつた。が、最後にそれを調べる時、私は遠慮して﹁これは残しておきませう、これは入るでせう、﹂などと云ふと、﹁いえ、もうこんなものは入りやへん。その代り、この方は今度お金が出来たとき出してくれたらええ、﹂などと母らしい優しさでいふ。さうして、﹁お前、お前のやうな男が、そんなところへ行くのは何やから、私、私がそのお友達に連れて行つてもらつて、持つて行つて来ます、﹂と云つたところで、﹁いえ、かまひません、僕の方が矢張り都合がいいでせう、友達の手前も。それに、あなた、あなたはお耳も遠いんですから……﹂と云つて、私は手早く、風呂敷包を抱へて、大急ぎで玄関の方へ歩いて行きながら、泣けて困つた。 質屋が林町で、友人が千駄木町にゐた。私は、その朝の、縞の風呂敷包を抱へて、これで一時を逃れられるといふ安心と、たうとう母の着物を質屋に持つて行くといふ悲しさとで胸を一ぱいにふくらませながら、第一高等学校の横手を、今の電車通の裏町の筋を、とぼとぼと歩いて行つた私自身の姿を、第三者として見たやうに、今も尚思ひ出すことが出来るのである。その時、友人に連れられて林町の高山といふ質屋の暖簾をくぐつたのが、これから私がしようとする因縁話の始まりなのである。 私を紹介した友人の布施が、その質屋の番頭たちと、そんな風に交際し馴れてゐたためであらうか、私も行つた日から、その店に坐つてゐる三四人の、いづれも私と同年輩位の中番頭たちと、友達のやうな言葉づかひで応対した、﹁これや、これ以上奮発出来ないよ、﹂﹁駄目かね、もう一円位出せないかね、﹂﹁それや無理だよ、﹂などと。かと思ふと、私がその後一人でしばしばその店の暖簾をくぐるやうになつてからのこと、それ等の中番頭たちが﹁布施さんはどうしてる、この頃少し景気がいいのか、ちつとも顔を見せないよ、﹂などと云つた。﹁岩崎君は来ない、﹂と私が聞くと、﹁昨日来たよ。傘と下駄を持つて来たよ。岩崎さんもあの細君と一緒のうちは駄目だね、うだつが上らないね、﹂などと、彼等自身の友達の噂でもするやうに彼等は云つた。 考へて見ると、さういふ質屋の番頭などといふ、私自身とは境遇の違つた者たちのことであつたから、年ふけて見えたのであらうが、彼等は当時の私たちより四五歳も若く、二十歳前後に違ひなかつた。仕舞には、宗吉といふ十三四歳の小僧までが﹁やあ、大分来なかつたな、﹂などと、私に向つて対等に物云ひかけた。この宗吉は、又、毎月の二十五日頃になると、鼠色の封筒に、私の名を宛てた書状を配達して来た。いふまでもなく、それは質物の流れの期日を警告したもので、いやなら、来月三日までに利息を入れてくれ、と断り書きした書状である。私はしばしば彼を止めて、﹁君、これから布施君のところへも廻るだらう、﹂と私は云つた、﹁もし布施君のところへ行つて、会つたら、今夜暇なら遊びに来いと云つてくれないか、﹂と、彼は、﹁布施さんのとこには今度はないよ、﹂などと答へた。―― どういふ訳か、私はそれ等の番頭小僧たちに贔屓にされた。それは多分その中の誰かがそんなことを云ひ出して、みんながそれに雷同したものであらうか。というのは、彼等は、私にはどこか見どころがあると異口同音に云ふのである、今に私は出世するだらうといふのである。だから、主人が店にゐない時で、僅な値段が折合はない時など、﹁ぢやア、ね、斯うし給へ。これはこれで二円五十銭、それより駄目だよ。二円五十銭でも、きつと高いと親爺からお目玉を喰ふに極つてゐるんだから。それで、別に一円だけ僕が貸さう。その代り、一円の方はこの月末までに僕に内所で返してくれ給へ、利息は入らんから、﹂などといふやうな恩典に私はしばしば浴した。 だが、それ等の話は既に十年から四五年前にかけてのことである。四五年前には、私が初めてその家の暖簾をくぐつた頃にゐた中の何人かは、或る者は放蕩の為めにお払箱になつたり、また或る者は店を分けてもらつて余所で質屋を始めてゐたり、或ひは徴兵検査と共に国に帰つて、国で質屋を始めたりといふやうな次第で、大分馴染の顔が少なくなつてゐたが、どんな新来のものでも、その店では私にはみんな昔からの顔馴染の如く応対した。今でも、私は全然足を絶つた訳ではないが、此頃はほんの三ヶ月に一度か、半年に一度位その店に顔を出す事がある。今はすつかり昔の顔触れが見えなくなつて、その昔の小僧の宗吉が、その家の一番番頭にまで昇進してゐるのである。 私がここで語らうと思ふのは、その宗吉のことで、彼は此頃めつきり大人になつて、たまに私が行つても、昔の面影はなくなつて、﹁やア、どうも暫くでございました、﹂とか、﹁益々お盛んのやうでございますな、﹂などと、四角張つた挨拶をするのである。私は、それに対して、昔の調子を取戻すつもりで、わざと、﹁やア、宗どん、いつの間に毛を延ばしたんだい、こてこて光らしてるな。なる程、蜻蛉とはよくいつたものだな、﹂と云つても、﹁ヘヽヽヽ、恐れ入ります、﹂と答へ、﹁こいつはちよつと家に知らせられない物だから、利息の期日が来ても、例の鼠色の封筒で知らしてくれちやア困るよ。いい時分に僕が払ひに来るから、﹂などと云つても、﹁へえ、かしこまりました。先生、なかなかお安くありませんな、﹂といつたやうな調子で、少しも寛くつろがないのである。 その宗吉が、最近突然私の家の玄関に現れて、取次に出た女中に一通の手紙を渡して行つたのである。それは鼠色の代りに、女学生の使ふやうな、水色の西洋封筒で、開いて見ると、﹁尊敬する宇野先生﹂と書き出してある。私は人違ひではないかと思つて、改めて封筒の差出人を調べて見たが、間違ひなく﹁高山内、金井宗吉﹂と認めてある。いふには、彼は、子供の頃から文学が好きで、自然、昔から私が好きであつた、自分はどうかして一生文学と別れたくないと思つてゐる、就いては一度先生にああいふ店先でなく、お目にかかつてお話を伺ひたいと思ふ、で、何度も何度も躊躇した末でやつと思ひ切つてこの手紙を書いたが、書いてからも、店の用で使に出る度に、これを私の家に届ける段になつて、これで三度目の決心の末であるといふのである。さうして最後に自分が近頃書いたものが少しばかりある。今度一度お目にかけるから、批評していただけないだらうか、と結んであつた。その用紙は、近頃よく町の文房具屋の店頭で見かける、草花などをその片隅に印刷した書簡筆で、丁寧な書体で書かれてあつた。多分、私が筆者宗吉の身分を知らなければ、世間一般の幼稚な文学青年の手紙の一つと見過ごしたであらう。が、それの出し手が宗吉であるだけに、私は甚だくすぐつたい思ひと共に、一種の感慨に打たれない訳に行かなかつた。 が、私はそれについ返事を出し後れたのであるが、それから一週間ほど後の或る日、突然宗吉の訪問を受けた。彼は店頭で見るよりも一層堅くなつてゐた。 ﹁そんなに堅くなるなよ、﹂と私はわざと昔馴染の言ひ方でいつた、﹁いつ頃から文学をやつてるんだい!﹂ ﹁ええ、いつつてこともありませんが、﹂と宗吉は恥かしさうに子供のやうな恰好をして云つた。まつたく一枚の質物の古着を前に置いて首を傾けてゐる時の彼と何といふ相違であらう。 ﹁で、原稿持つて来たのかい?﹂ ﹁ええ、﹂と宗吉は、今度はわりに躊躇しないで、懐中から大切さうに二三種の原稿らしいものを取り出した。そのうちの二つは謄写版刷りの同人雑誌に出てゐるものであつた。署名には﹁金井宗﹂とあつて﹁吉﹂の字を省いてあつた。三つとも短いものだつたから、私は彼の目の前で、多少の興味を以つて、読んで見た。が、それは私の予期の反対のものであつた。 いふのは、文章は有島武郎を下手に真似たやうな、四角張つたもので、その代り悪く整つてはゐるのだが、内容は或る大学生がその下宿してゐる娘との恋を書いたものとか或ひは新思想の女学生が駈落をしようと決心する心理を書いたものとか、等、甚だ無味な空虚なものであつた。 ﹁これは、君、いかんよ、﹂と、私はつい大真面目になつて云つた。﹁こんな事を書く暇に、もつと正直に自分の見たものを、﹂と私は火鉢の中の煙草の吹殻を取上げて、﹁たとへば材料はどんなつまらないもの、――こんな煙草の吹殻でもいいんだ。それを自分が見て、自分が感じた通りに書くんだ。﹂ ﹁はア、はア、﹂と宗吉は膝の上に手を置いて、かしこまつて聞いてゐた。彼のてかてか光らして分けた頭の具合や、然しどう見ても矢張り質屋の番頭らしい着物や体の様子が、変に堅くなつて学生のやうに坐つてゐるのが、私に何ともいへぬ気の毒さが感じられた。恐らく彼は今私に見せた彼の小説に書いてあるやうな生活に、却ち質屋の番頭などに甚だ縁の遠い生活に、憬れてゐるのに違ひなかつた。現に、彼のもう一つの小説には、中学生が毎日学校へ行く途で見る女学生に恋をして成功する筋が書いてあつた。 ﹁たとへば、わざわざこんな君自身の暮しとは縁の遠いものを書かないで、﹂と私は妙にむきになつてつづけた。 ﹁現に、君が毎日あの店の格子の中に坐つてゐる間に見たこととか、遭つたこととかを、そのまま飾らずに書いて見給へ。文章なども、こんな変な、滅多に使はないやうな言葉でなしに、なるべく君の不断使つてゐる言葉を工夫して書く方がいいんだよ。﹂ すると、その時宗吉は、忽ち彼が帳場格子の中に坐つてゐる時の態度を思ひ出させるやうな恰好で頭の後に片手を上げながら、﹁その、さういふ事を書いてあるのもあるにはあるんですが、﹂と云ひにくさうに、﹁そんなのはいけないと思ひまして……﹂ ﹁どうしてそんなのがいけないと思つたんだ。今度ついでがあつたら、その方を見せ給へ。﹂ ﹁ええ、﹂と彼は益々いひにくさうにして、﹁ですけど、先生、その方だと、先生や、広津先生やが出て来ますので……﹂ これは、この最後の落し話のやうな句を書く為めに書いたのでは勿論ない。唯、十年前の小僧の宗吉が文学青年になつて、十年前の最も低級な客であつた私のところへ原稿を持つて来るやうになつた顛末を、書いて見ようとしたまでのことである。さうして、これは今からまだ一週間ほど前のことであるから、宗吉の後日談に就いては、未だ書くべき材料を私は経験してゐないのである。