キリスト教入門

矢内原忠雄





 徳川時代における切支丹キリシタンの活動は別として、明治維新後キリスト教が日本に伝道されてから八十年であるが、この間キリスト教の伝道は、見方によっては相当成功したとも言えるし、あまり成功しなかったとも言える。ただ政府も国民も概してキリスト教に対して冷淡であり、はなはだしきはキリスト教は日本の国体にそむくものであるとして、公然これを排斥した有力学者も少なくなかった。加藤弘之や井上哲次郎らは、その急先鋒であった。このような碩学せきがくによって排斥されたため、キリスト教は日本の国体に合致しないということが教育界の常識となり、それが国民の間にキリスト教の布教及び信仰を困難ならしめたことは明白である。もしも明治政府とその指導的な政治家並びに教育者がそのような態度をとらなかったならば、キリスト教の伝道はもっと順調に行なわれたであろう。
 国家主義者のキリスト教排斥は、満州事変後太平洋戦争の終局に至るまでの間において最高潮に達し、迫害による受難者も少なからず出た。しかるに敗戦と、それに引きつづいた占領下の政策は、過去の政府と国民とがキリスト教を迫害した思想的並びに政治的根拠をくつがえし、天皇はみずから現人神あらひとがみであることを否定して、従来日本におけるキリスト教の伝道及び信仰を阻害した最大の障害が除去され、思想及び信仰の自由は実質的に強化された。GHQは特にキリスト教を保護する政策は決して取らなかったけれども、思想及び信仰の自由を確立し、民主主義的な改革を実施した結果、日本におけるキリスト教の布教及び信仰はかつてなき自由を享受し、キリスト教の信仰を求める者の数は著しく増加したのである。
 それにしても日本国民は、まだあまりにもキリスト教を知らなさすぎる。西欧文明の内容及び基礎を知るためにも、民主主義的精神を理解しこれを身につけるためにも、ひろく日本国民は一般にキリスト教のことを知らねばならない。しかしそのような知識の問題としてだけでなく、宗教の本来の意味であるところの信仰を得て、人生の生きがいとよりたのみを知るためにこそ、キリスト教を学ぶことがいっそう必要なのである。
 私自身は年齢十九歳(数え年)の時、内村鑑三先生の門に入ってキリスト教の聖書を学び始めてから、すでに四十年を越えた。この間、学問のかたわらキリスト教の聖書について講義をしてきたことが多年であり、その一部は終戦後角川書店から単行本として出版された。その縁故によって、キリスト教の入門書を出すことの依頼を同書店から再三受けたが、多忙のために容易に着手することができなかった。しかるにこの夏、ふと思い立って禿筆とくひつし、本書の主要部分である「キリスト教入門」の第三章以下、並びにはしがきに当たる「門をたたけ」の一篇を書き上げ、それに従来私の個人雑誌に発表したことのある数篇を加えて出版することにした。(このうち、「キリスト教早わかり」という一篇は、前に郵政省の「教養の書」叢書の一つである拙著『キリストの生涯』の付録として出版されたことがあるが、郵政省の了解を得て本書に加えた。)
 私は大正六年大学を卒業したのであるが、卒業後二年を経たころ、親戚や周囲の人々に対する啓蒙的な信仰弁明書を執筆し、これは『基督者の信仰』と題して、大正九年内村鑑三先生の好意により聖書之研究社から出版された。これが私の生涯における最初の著述、すなわち処女作であった。この書物はその後昭和十二年まで数回別々の人の手によって刊行され、累計して相当の発行部数をみたのであるが、終戦後の今日それを再刊するには時代的感覚の推移を著しく感ずるものがあるから、今回はそれによらず、新たに書きおろしの入門書を執筆することにしたのである。
 私は、ことわるまでもなく牧師でも神学者でもない。ただの一平信徒であるにすぎぬから、本書のごときも専門の宗教家から見ればいたって素人しろうとくさい、素朴な解説であるだろう。しかし本書は宗教専門家のために書いたのではなく、ただの素人のために書いたのであり、しかもできるだけ平易に書いたのであって、素人には素人の書いたものがかえってわかりやすい点もあるかもしれまい。否、信仰のことについては、専門家も素人も区別はない。信仰はすべての人にわかる共通の真理であり、共通の恩恵なのである。これが大胆にも一人の平信徒であるにすぎぬ私が本書を書いた理由である。
 本書がわが国民の間にキリスト教についての理解をひろめ、進んでキリストを信ずることを求める人々の助けになることがあれば、どんなにか喜ばしいであろう。
昭和二十七年(一九五二年)八月十五日、終戦記念日。山中湖畔において
矢内原忠雄
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門をたたけ



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求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門をたたけ、さらば開かれん。
(マタイ伝第七章七、八節)





 
  
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狭き門より入れ。ほろびにいたる門は大きく、その道は広く、これより入る者多し。生命にいたる門は狭く、その路は細く、これを見出す者少なし。(マタイ伝第七章一三、一四節)


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 Life is real, life is earnest.
 
 
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 キリストによる罪のあがないの効果は、人間の身体にも及ぶ。前章で述べたように、身体は霊の宿る器であり、霊の強き影響の下にある。したがって人が罪をおかして神に背反している状態にあっては、その結果として身体の死を招いたのである。しかるに人の罪が赦されて、神への背反がいやされ、聖霊による新しい生命が人の中に宿される時は、その効果は身体そのものの救いにまで及び、信仰によりて宿された神の霊は、人の死ぬべき身体をも活かす力をもつのである。というのは、新たな生命の霊は、その器としてふさわしい新たな体を必要とするからである。かくして、キリストを信ずる者には身体復活の希望が与えられ、この復活の希望は、死の恐怖と死別の悲しみを克服させる。我らもパウロとともに、
「死よ、汝の勝はいずこにかある。死よ、汝の刺は何処にかある。死の刺は罪なり、罪の力は律法なり。されど、感謝すべきかな、神はわれらの主イエス・キリストによりて勝を与え給う」(コリント前書第十五章五五―五七節)

 
 
 
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 内村鑑三先生が召されましたのは一九三〇年三月二十八日であります。ご承知のように先生は無教会主義というものを唱えられましたので、今日の演題は『無教会早わかり』といたしました。
 キリスト教のことを学ぼうとする人が教会にいきまして、しばらくいっておりますと、「洗礼をお受けなさい」と言われる。洗礼の意味もよくわからないうちにこう言われて困ることがある。あるいは教会の会員となっておりまして、どうもぴったりしないことがあって教会を出たいと思うが、なかなか許されないで、教会を出ればキリストの救いから離れてしまうかのごとくに言われる。そういうぐあいに実際問題として教会ということにぶっつかることが多いのであります。
「教会」という語の原語は、ギリシャ語の「エクレシヤ」であります。エクレシヤは元来ギリシャの都市国家の正式に召集せられた市民議会でありました。使徒行伝第十九章三十九節に「議会」とありますのが、この意味での用例であります。この語を利用しまして、ユダヤ人の会堂すなわちシナゴグと区別するために、キリスト信者の集まりをエクレシヤと呼んだのです。「教会」という訳語は宗教的エクレシヤの意味を現わすものとしてよい訳語でありますが、今日の具体的な教会は、聖書に記されているエクレシヤとはだいぶ性質の違ったものになっている。聖書に記されているエクレシヤは、たいていは家のエクレシヤと言い、家庭集会であります。地域的にコリントのエクレシヤとかエペソのエクレシヤとか言いましても、その性質は家庭的集会でありまして、今日あるような教会の制度はまだ初代教会の時にはなかったのです。
「聖書」にはエクレシヤという語のほかにバシレイアという語があります。それは「神の国」の「国」ということばです。基督者の集まりと神の国とは共通の内容をもっている。ルカ伝の十七章をあけて見ますと、
 神の国の何時きたるべきかをパリサイ人に問われし時、イエス答えて言いたまう「神の国は見ゆべきさまにて来たらず。また『視よ、此処ここに在り』『彼処かしこに在り』と人々言わざるべし。視よ神の国は汝らの中に在るなり」

 
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(一九四九年一月稿)
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あとがき


「イエスの生涯」は今度この冊子のために新たに書いたものであり、「キリスト教早わかり」はかつて昭和二十一年十二月、非売品として嘉信社から発行したものである。
 日本人の多数はあまりにも基督教を知らなさすぎる。文化国民としてはどうしても、イエスの生涯と基督教の教理についてひと通りの知識はもたなければならない。そうでなければヨーロッパやアメリカの文化・学問・芸術をよく理解することができず、今の時代に生きる人間として教養の不足を暴露することになる。
 それだけでない。この困難な時代にありていかに正しく生きるか、どこに生活の希望を見出すか、心の平安とたましいの歓喜はどこにあるか、心のよりたのみとする大磐石の立場はどうして得られるか。その希望と力を得るために、イエスの教えを学ぶことは実に有意義である。
 個人を正しい人間とし、家庭を清い家庭としなければ、日本の国の復興はできず、真の民主的な国民にはなれない。制度や組織の改革の基礎に、どうしても人間としての救いがなければならない。
 こうして日本が正しい国として復興することは、世界の平和・人類の福祉に真に寄与する道である。これらのことのためにも、基督教の信仰が何であるかを、なるべく多数の日本人に知ってもらいたいと思うのである。
 私の心を占める二つの大きな事柄がある。それは福音と平和である。人々の心にイエスの福音がやどり、それによって動かぬ平和が、個人にも、家庭にも、国にも、世界にも実現することが私の祈りであり、この小冊子もまたその祈りをもって世に送り出される。
昭和二十四年(一九四九年)一月
東京自由ヶ丘にて

矢内原忠雄


*この冊子とは「キリストの生涯」(郵政省・一九四九)のことである。この「あとがき」は、その冊子のためのものの転載である。






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