今を去る三十年の昔、三題だい噺ばなしという事一いち時じの流行物となりしかば、当時圓朝子が或る宴席に於おいて、國くに綱つなの刀、一ひと節よぎ切り、船せん人どうという三題を、例の当とう意いそ即くみ妙ょうにて一座の喝采を博したるが本話の元素たり。其の時聴衆咸みな言って謂いえらく、斯かばかりの佳作を一節切の噺はなし捨ずてに為さんは惜おしむべき事ならずや、宜よろ敷しく足らざるを補いなば、遖あっぱれ席上の呼び物となるべしとの勧めに基もとづき、尚なお金かな森もりに充分の枝しよ葉うを茂らせ、國綱に一層の研とぎを掛け、一節切に露つゆ取とりをさえ添え、是に加うるに俳優澤さわ村むら曙しょ山ざんが逸事を以もってし、題して花はな菖しょ蒲うぶ沢の紫と号せしに、この紫や朱あけより先の世の評判を奪い、三十年後の今こん日にち迄まで依然として其の色を変ぜざるのみか、一ひと度たびやまと新聞に写し植う字えたるに、這こも復また時期に粟あわ田だぐ口ち鋭き作意と笛ふえ竹たけの響き渡り、恰あたかも船せん人どうの山に登るべき高評なりしを、書ふみ房やは透すかさずこの船人の脇わき艪ろを押す事を許されたりとて、自おの己れをして水先見よと乞うて止まねば、久しく採らぬ水みず茎ぐきの禿ちびたる掉さおを徐やおら採り、ソラ当りますとの一いち言げんを新しん版ぞお発ろ兌しの船唄に換えて序とす。 弄月庵主人記