偽ぎち忠ゅう狼ろう心しん
一
曹そう操そうを搦からめよ。 布ふ令れは、州郡諸地方へ飛んだ。 その迅速を競って。 一方―― 洛らく陽ようの都をあとに、黄馬に鞭をつづけ、日夜をわかたず、南へ南へと風の如く逃げてきた曹操は、早くも中ちゅ牟うぼ県うけん︵河南省中牟・開封―鄭てい州しゅうの中間︶――の附近までかかっていた。 ﹁待てっ﹂ ﹁馬をおりろ﹂ 関門へかかるや否や、彼は関所の守備兵に引きずりおろされた。 ﹁先に中央から、曹操という者を見かけ次第召捕れと、指令があった。そのほうの風采と、容貌とは人相書にはなはだ似ておる﹂ 関の吏やく事にんは、そういって曹操が何と云いのがれようとしても、耳を貸さなかった。 ﹁とにかく、役所へ引ッ立てろ﹂ 兵は鉄てっ桶とうの如く、曹操を取り囲んで、吟味所へ拉らっしてしまった。 関門兵の隊長、道尉陳ちん宮きゅうは、部下が引っ立ててくる者を見ると、 ﹁あっ、曹操だ! 吟味にも及ばん﹂と、一見して云いきった。 そして部下の兵をねぎらって彼がいうには、 ﹁自分は先年まで、洛陽に吏事をしておったから、曹操の顔も見覚えている。――幸いにも生いけ擒どったこの者を都へ差立てれば、自分は万戸侯という大身に出世しよう。お前たちにも恩賞を頒わかってくれるぞ。前祝いに、今夜は大いに飲め﹂ そこで、曹操の身はたちまち、かねて備えてある鉄の檻かん車しゃにほうりこまれ、明日にも洛陽へ護送して行くばかりとなし、守備の兵や吏事たちは、大いに酒を飲んで祝った。 日暮れになると、酒宴もやみ、吏事も兵も関門を閉じて何処へか散ってしまった。曹操はもはや、観念の眼を閉じているもののように、檻車の中によりかかって、真暗な山谷の声や夜空の風を黙然と聴いていた。 すると、夜半に近い頃、 ﹁曹操、曹操﹂ 誰か、檻車に近づいてきて、低こご声えに呼ぶ者があった。 眼をひらいて見ると、昼間、自分をひと目で観破った関門兵の隊長なので、曹操は、 ﹁何用か﹂ 嘯うそぶく如く答えると、 ﹁おん身は都にあって、董とう相しょ国うこくにも愛され、重く用いられていたと聞いていたが、何故に、こんな羽目になったのか﹂ ﹁くだらぬことを問うもの哉かな。燕えん雀じゃくなんぞ鴻こう鵠こくの志を知らんやだ。――貴様はもうおれの身を生いけ擒どっているんじゃないか。四の五のいわずと都へ護送して、早く恩賞にあずかれ﹂ ﹁曹操。君は人を観みる明めいがないな。好漢惜しむらく――というところか――﹂ ﹁なんだと﹂ ﹁怒り給うな。君がいたずらに人を軽んじるから一言酬むくいたのだ。かくいう自分とても、沖天の大志を抱いておる者だが、真に、国の憂いを語る同志もないため、空むなしく光陰の過ぎるのを恨みとしておる。折から、君を見たので、その志を叩きにきたわけだが﹂ 意味ありげな言葉に、曹操も初めの態度を改めて、﹁然らばいおう﹂と、檻車の中に坐りなおした。二
曹操は、口を開いた。 ﹁なるほど董とう卓たくは、貴公のいわれたようにこの曹操を愛していたに違いない。――しかしそれがしは、遠く相国曹そう参さんが末孫にて、四百年来、漢室の禄ろくをいただいて来た。なんで成上がり者の暴賊董卓ごときに、身を屈すべきや﹂ と語気、熱をおびてきて―― ﹁如しかず国のため、賊を刺し殺して、祖先の恩を報ずべしと、董卓の命を狙ったが、天運いまだ我に非ず――こうして捕われの身となってしまった。なんぞ今さら、悔いることがあろうか﹂ 白面細眼、自じじ若ゃくとしてそういう容子、さすがに名門の血すじを引いているだけに、争いがたい落着きがあった。 ﹁…………﹂ 黙然――ややしばらくの間、檻車の外にあってその態を見ていた関門兵の隊長は、 ﹁お待ちなさい﹂ いうかと思うと、檻車の鉄錠をはずして、扉を開き、驚く彼を中から引きだして、 ﹁曹操どの、貴君はどこへ行こうとしてこの関門へかかったのですか﹂ ﹁故郷――﹂ 曹操は、茫ぼうとした面持で、隊長の行為を怪しみながら答えた。 ﹁故郷の![※(「言+焦」、第3水準1-92-19)](../../../gaiji/1-92/1-92-19.png)
![※(「螢」の「虫」に代えて「水」、第3水準1-87-2)](../../../gaiji/1-87/1-87-02.png)
三
﹁ほ、こんな辺へん鄙ぴの地に、どういうお知合がいるのですか﹂ ﹁父の友人だよ。呂りょ伯はく奢しゃという者で、父とは兄弟のような交わりのあった人だ﹂ ﹁それは好都合ですな﹂ ﹁今夜はそこを訪れて一宿を頼もう﹂ 語りながら、曹操と陳宮の二人は、林の中へ駒を乗り入れ、やがてその駒を樹につないで、尋ね当てた呂伯奢の門をたたいた。 主の呂伯奢は驚いて、不意の客を迎え入れ、 ﹁誰かと思ったら、曹家のご子息じゃないか﹂ ﹁曹操です。どうもしばらくでした﹂ ﹁まあ、お入りなさい。どうしたのですか。一体﹂ ﹁何がです﹂ ﹁朝廷から各地へ、あなたの人相書が廻っていますが﹂ ﹁ああその事ですか。実は、丞じょ相うしょう董とう卓たくを討ち損じて、逃げて来たまでのことです。私を賊と呼んで人相書など廻しているらしいが、彼きゃ奴つこそ大逆の暴賊です。遅かれ早かれ、天下は大乱となりましょう。曹操も、もうじっとしてはいられません﹂ ﹁お連れになっている人はどなたですか﹂ ﹁そうそう、ご紹介するのを忘れていた。これは道尉陳ちん宮きゅうという者で、中ちゅ牟うぼ県うけんの関門を守備しており、私を曹操と見破って召捕えたくらいな英傑ですが、胸中の大志を語り合ってみたところ、時勢に鬱うつ勃ぼつたる同憂の士だということが分ったので、陳宮は官を捨て、私は檻を破って、共にこれまでたずさえ合って逃げ走って来たというわけです﹂ ﹁ああそうですか﹂ 呂りょ伯はく奢しゃはひざまずいて、改めて陳宮のすがたを拝し、 ﹁義人。――どうかこの曹操を扶たすけて上げてください。もしあなたが見捨てたら曹操の一家一門はことごとく滅んでしまうほかはありません﹂ と、曹操の父の友人というだけに、先輩らしく慇いん懃ぎんに将来を頼むのであった。 そして呂伯奢は、いそいそと、 ﹁まあ、ごゆるりなさい、てまえは隣村まで行って、酒を買って来ますから﹂ と、驢ろに乗って出て行った。 曹操と陳宮は、旅装を解いて、一室で休息していたが、主はなかなか帰ってこない。 そのうちに、夜も初更の頃、どこかで異様な物音がする。耳をすましていると、刀でも磨とぐような鈍い響きが、壁を越えてくるのだった。 ﹁はてな?﹂ 曹操は、疑いの目を光らし、扉とを排して、また耳をそばだてていたが、 ﹁そうだ、……やはり刀を磨ぐ音だ。さては、主の呂伯奢は、隣村へ酒を買いに行くなどといって出て行ったが、県吏に密訴して、おれ達を縛らせ、朝廷の恩賞にあずかろうという気かも知れん﹂ 呟いていると、暗い厨くりやのほうで四、五名の男女の者が口々に――縛れとか、殺せとか――云いかわしているのが、曹操の耳へ、明らかに聞えてきた。 ﹁さてこそ、われわれを、一室に閉じこめて、危害を加えんとする計にうたがいなし。――その分なれば、こっちから斬ッてかかれ﹂ と、陳宮へも、事の急を告げて、にわかにそこを飛び出し、驚く家族や召使い八名までを、またたく間にみな殺しに斬ってしまった。 そして、曹操が先に、 ﹁いざ逃げん﹂と、促すと、どこかでまだ、異様な呻うめき声をあげて、ばたばた騒ぐものがある。 厨の外へ出て見ると、生きている猪いのこが、脚を木に吊されて、啼いているのだった。 ﹁ア、しまった!﹂ 陳宮ははなはだ後悔した。 この家の家族たちは、猪を求めて来て、それを料理しようとしていたのだ――と、分ったからである。四
曹操は、もう闇へ向って、急ごうとしていた。 ﹁陳宮。はやく来い﹂ ﹁はっ﹂ ﹁何をくずぐずしているのだ﹂ ﹁でも……。どうも、気持が悪くてなりません、慚ざん愧きにたえません﹂ ﹁なんで﹂ ﹁無意味な殺生をしたじゃありませんか。かわいそうに、八人の家族は、われわれの旅情をなぐさめるために、わざわざ猪いのこを求めてきて、もてなそうとしていたんです﹂ ﹁そんなことを悔いて、家の中へ、掌を合わせていたのか﹂ ﹁せめて、念仏でも申して、科とがなき人たちを殺した罪を、詫びて行こうと思いまして﹂ ﹁はははは。武人に似合わんことだ。してしまったものは是非もない。戦場に立てば何千何万の生せい霊れいを、一日で葬ることさえあるじゃないか。また、わが身だって、いつそうされるか知れないのだ﹂ 曹操には、曹操の人生観があり、陳宮にはまた、陳宮の道徳観がある。 それは違うものであった。 けれど今は、一蓮れん托たく生しょうの道づれである。議論していられない。 二人は、闇へ馳けた。 そして、林の中につないでおいた駒を解き、飛び乗るが早いか、二里あまりも逃げのびてきた。 ――と、彼方から、驢ろに二箇の酒さか瓶がめを結びつけてくる者があった。近づき合うにつれて、ぷーんと芳熟した果実のよい匂いが感じられた。腕には、果物の籠も掛けているのだった。 ﹁おや、お客人ではないか﹂ それは今、隣村から帰って来た呂りょ伯はく奢しゃであったのである。 曹操は、まずい所で会ったと思ったが、あわてて、 ﹁やあ、ご主人か。実は、きょうの昼間、これへ来る途中で寄った茶店に、大事な品を忘れたので、急に思い出して、これから取りに行くところです﹂ ﹁それなら、家の召使いをやればよいに﹂ ﹁いやいや、馬でひと鞭むち当てれば、造作もありませんから﹂ ﹁では、お早く行っておいでなさい。家の者に、猪を屠ほふって、料理しておくようにいっておきましたし、酒もすてきな美酒をさがして、手に入れてきましたからね﹂ ﹁は、は、すぐ戻ってきます﹂ 曹操は、返辞もそこそこに、馬に鞭打って呂伯奢と別れた。 そして四、五町ほど来たが、急に馬を止め、 ﹁君!﹂と、陳宮を呼びとめ、 ﹁君はしばらく此処で待っていてくれないか﹂ と云い残し、何思ったか、再び道を引っ返して馳けて行った。 ﹁どこへ行ったのだろう?﹂と、陳宮は、彼の心を解きかねて、怪しみながら待っていたところ、やがてのこと曹操はまた戻ってきて、いかにも心残りを除いて来たように、 ﹁これでいい! さあ行こう。君、今のも殺やって来たよ。一突きに刺し殺してきた﹂ と、いった。 ﹁えっ。呂伯奢を?﹂ ﹁うん﹂ ﹁なんで、無益な殺生をした上にもまた、あんな善人を殺したのです﹂ ﹁だって、彼が帰って、自分の妻子や雇人が、皆ごろしになったのを知れば、いくら善人でも、われわれを恨むだろう﹂ ﹁それは是非もありますまい﹂ ﹁県吏へ訴え出られたら、この曹操の一大事だ。背に腹はかえられん﹂ ﹁でも、罪なき者を殺すのは、人道に反そむくではありませんか﹂ ﹁否﹂ 曹操は、詩でも吟じるように、大声でいった。 ﹁我をして、天下の人に反そむかしむるとも、天下の人をして、我に反かしむるを休やめよ――だ。さあ行こう。先へ急ごう!﹂五
――怖るべき人だ。 曹操の一言を聞いて、陳宮はふかく彼の人となりを考え直した。そして心に懼おそれた。 この人も、天下の苦しみを救わんとする者ではない。真に世を憂えるのでもない。――天下を奪わんとする野望の士であった。 ﹁……過あやまった﹂ 陳宮も、ここに至って、ひそかに悔いを噛まずにいられなかった。 男子の生涯を賭として、道づれとなったことを、早計だったと思い知った。 けれど。 すでにその道は踏み出してしまったのである。官を捨て、妻子を捨てて共に荊けい棘きょくの道を覚悟の上で来てしまったのだ。 ﹁悔いも及ばず……﹂と、彼は心を取りなおした。 夜がふけると、月が出た。深夜の月明りをたよりに、十里も走った。 そして、何処か知らぬ、古こび廟ょうの荒れた門前で、駒を降りてひと休みした。 ﹁陳宮﹂ ﹁はい﹂ ﹁君もひと寝入りせんか。夜明けまでには間がある。寝ておかないと、あしたの道にまた、疲労するからな﹂ ﹁寝やすみましょう。けれど大事な馬を盗まれるといけませんから、どこか人目につかぬ木蔭につないで来ます﹂ ﹁ムム。そうか。……ああしかし惜しいことをしたなあ﹂ ﹁何ですか﹂ ﹁呂りょ伯はく奢しゃを殺して戻ったくせにしてさ、おれとしたことが、彼がたずさえていた美酒と果実を奪ってくるのを、すっかり忘れていたよ。やはり幾らかあわてていたんだな﹂ ﹁…………﹂ 陳宮には、それに返辞する勇気もなかった。 馬を隠して、しばらくの後、またそこへ戻って来てみると、曹操は、古廟の軒下に、月の光を浴びていかにも快よげに熟睡していた。 ﹁……なんという大胆不敵な人だろう﹂ 陳宮は、その寝顔を、つくづくと見入りながら、憎みもしたり、感心もした。 憎むほうの心は、 ︵自分は、この人物を買いかぶった。この人こそ、真に憂国の大忠臣だと考えたのだ。ところがなんぞ計らん、狼虎にひとしい大野心家に過ぎない︶ と、思い、また敬服するほうの半面では、 ︵――しかし、野心家であろうと姦かん雄ゆうであろうと、とにかく大胆さと、情熱と、おれを買いかぶらせた程の弁舌とは、非凡なものだ。やはり一方の英傑にちがいないなあ……︶ と、ひとり心のうちで思うのであった。 そして、そう二つに観られる自分の心に質ただして、陳宮は、 ﹁今ならば、睡っている間に、この曹操を刺し殺してしまうこともできるのだ。生かしておいたら、こういう姦雄は、後に必ず天下に禍わざわいするだろう。……そうだ、天に代って、今刺してしまったほうがいい﹂と、考えた。 陳宮は、剣を抜いた。 寝顔をのぞかれているのも知らず、曹操はいびきをかいていた。その顔は実に端麗であった。陳宮は迷った。 ﹁いや、待てよ﹂ 寝込みを殺すのは、武人の本領でない。不義である。 それに、今のような乱世に、こういう一種の姦雄を地に生れさせたのも、天に意こころあってのことかも知れない。この人の天寿を、寝ている間に奪うことは、かえって天の意に反そむくかも知れない。 ﹁ああ……。なにを今になって迷うか。おれはまた煩ぼん悩のうすぎる。月は煌こう々こうと冴えている、そうだ、月でも見ながらおれも寝よう﹂ 思いとどまって、剣をそっと鞘さやにもどし、陳宮もやがて同じ廂ひさしの下に、丸くなって寝こんだ。競きそう南なん風ぷう
一
さて。――日も経て。 曹操はようやく父のいる郷土まで行き着いた。 そこは河南の陳ちん留りゅう︵開封の東南︶と呼ぶ地方である。沃土は広く豊ほう饒じょうであった。南方の文化は北部の重厚とちがって進取的であり、人は敏活で機智の眼がするどく働いている。 ﹁どうかして下さい﹂ 曹操は、家に帰ると、事の次第をつぶさに告げて、幼児が母に菓子でもねだるような調子でせがんだ。 ﹁――義兵の旗挙げをする決心です。誰がなんといっても、この決心はうごきません。そこで、父上にも、ひと肌ぬいでいただきたいんですが﹂と、いうのである。 父の曹そう嵩すうも、 ﹁ウーム……。偉いことをしでかして来おったな﹂ と、呆れ顔に、呻うめいてばかりいたが、元来、幼少から兄弟中でいちばん可愛がっている曹操のことなので、 ﹁どうかしてくれって、どうすればよいのじゃ﹂と、叱こご言とも出なかった。 ﹁軍費が要り用なんです﹂ ﹁軍費といったら、わしの家のこればかしな財産では、いくらの兵も養えまいが﹂ ﹁ですから、父上のお顔で、富かね豪もちを紹介して下さい。曹家は、財産こそないが、遠くは夏かこ侯う氏の流れを汲み、漢の丞相曹参の末流です。この名門の名を利用して、富豪から金を出させて下さい﹂ ﹁じゃあ、衛えい弘こうに話してみるさ﹂ ﹁衛弘って誰ですか﹂ ﹁河南でも一、二を争う財産家だがね﹂ ﹁じゃあ、父上が聘よんで、一日、酒宴を設けてくれませんか﹂ ﹁おまえのいうことは、なんでも簡単だな﹂ ﹁大きな仕事を手軽にやってのけるのが、大事を成す秘訣ですよ﹂ 父おや子こは、日を定めて、衛弘をわが邸に招待した。 衛弘は、曹操をながめて、 ﹁都へ行っていたと聞いていたが、いつのまにか、よい青年になったなあ﹂ などといった。 曹操は、彼を待遇するに、あらゆる慇いん懃ぎんを尽した。 そして、話のはずんできた頃、胸中の大事を打明けて、援助を依頼してみた。 もし嫌だといったら、生かしては帰さないという気を、胸にふくんでの真剣な膝づめ談判であったから、静かに頼むうちにも、曹操の眸は、刃やいばのように研とげていたに違いなかった。 ところが、衛弘は聞くとすぐ、 ﹁よろしい。ご辺の忠義にめでて、ご援助しましょう。近ごろの天下の乱れを、わしも嘆いていたが、わしの器量にはないことだから、時勢の成行きを眺めていた折です。――いくらでも軍用金はご用立てしよう﹂と、承知してくれた。 曹操は、よろこんだ。 ﹁えっ、ではお引きうけ下さるか。しからば、私は早速、兵を集めにかかるが﹂ ﹁おやんなさい。けれど、敗れるような戦いくさはすべきではありませんぞ。充分、勝算を握った上で、大挙なさるがよい﹂ ﹁軍費のほうさえ心配なければ、どんなことでもできます。河南をわが義兵をもって埋めてごらんに入れるから見ていて下さい﹂ 父の曹嵩には、幾つになっても、子は子供にしか見えなかった。曹操のあまりな豪語に、衛弘がすこし乗り過ぎているのじゃないかと、かえって側はたで心配したほどだが、それから後、曹操のやることを見ていると、いよいよ不敵をきわめていた。 まず彼は、近郷の壮丁を狩り集め、白い二旒りゅうの旗を作って、一旒には﹁義﹂と大書し、一旒には﹁忠﹂と大きく書いて、 ﹁われこそ、朝廷から密詔をうけて、この地に降くだった者である﹂ と唱えだした。二
今でこそ、地方の一郷士に落ちぶれているが、なんといっても、曹家は名門である。嫡子の曹操もまた出しゅ色っしょくの才人と、遠近に聞えている。 ﹁密勅をうけて降ったものである――﹂ という曹操の声に、まず近村の壮丁や不遇な郷士が動かされた。 ﹁陳宮、こんな雑兵じゃ仕方がないが、もっと有力な諸州の刺し史し、太守などが集まるだろうか﹂ 時々、彼は陳宮へ計った。 陳宮は献策した。 ﹁忠義を旗に書いて待っているだけでは駄目です。もっと憂国の至情を吐と露ろなさい。鉄血、人を動かすものをぶっつけなさい﹂ ﹁どうしたらいいか﹂ ﹁檄げきを飛ばすことです﹂ ﹁おまえ、書いてくれ﹂ ﹁はい﹂ 陳宮は、檄文を書いた。 彼は、心の底から国を憂えている真の志士である。その文は、読む者をして奮起せしめずにおかないものであった。 ﹁――ああ名文だ。これを読めば、おれでも兵を引っさげて馳せ参ずるな﹂ 曹操は感心して、すぐ檄を諸州諸郡へ飛ばした。 英雄もただ英雄たるばかりでは何もできない。覇業を成す者は、常に三つのものに恵まれているという。 天の時と、 地の利と、 人である。 まさに、曹操の檄は、時を得ていた。 日ならずして、彼の﹁忠﹂﹁義﹂の旗下には続々と英俊精猛が馳せ参じてきた。 ﹁それがしは、衛えい国こくの生れ、楽がく進しん、字あざなは文ぶん謙けんと申す者ですが、願わくば、逆賊董とう卓たくを、ともに討たんと存じ、麾き下かに馳せ参って候﹂ と、名乗ってくる者や、 ﹁――自分らは沛はい国こく![※(「言+焦」、第3水準1-92-19)](../../../gaiji/1-92/1-92-19.png)
![※(「言+焦」、第3水準1-92-19)](../../../gaiji/1-92/1-92-19.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
三
さきに都を落ちて、反はん董とう卓たくの態度を明らかにし、中央から惑星視されていた渤ぼっ海かいの太守袁えん紹しょうの手もとへも、曹操の檄げきがやがて届いてきた。
﹁曹操が旗をあげた。この檄に対して、なんと答えてやるか﹂
袁紹は、腹心をあつめて、さっそく評議を開いた。
彼の幕下には、壮気にみちた年頃の大将や、青年将校が多かった。
田でん豊ほう。沮そじ授ゅ。許きょ収しゅう。顔がん良りょう。
また――
審しん配ぱい。郭かく図と。文ぶん醜しゅう。
などという錚そう々そうたる人材もあった。
﹁誰か、一応、その檄文を読みあげてはどうか﹂
とのことに、顔良が、
﹁しからば、てまえが﹂と、大きく読み出した。
檄
操等 、謹ンデ、
大義ヲモッテ天下ニ告グ
董卓、天ヲ欺 キ地ヲ晦 マシ
君ヲ弑 シ、国ヲ亡ボス
宮禁、為ニ壊乱
狠戻 不仁、罪悪重積 ス
今
天子ノ密詔ヲ捧ゲテ
義兵ヲ大集シ
群凶 ヲ剿滅 セントス
願ワクバ仁義ノ師 ヲ携 エ
来ッテ忠烈ノ盟陣 ニ会シ
上、王室ヲ扶 ケ
下、黎民 ヲ救ワレヨ
檄文到ランノ日
ソレ速ヤカニ奉行サルベシ
大義ヲモッテ天下ニ告グ
董卓、天ヲ
君ヲ
宮禁、為ニ
今
天子ノ密詔ヲ捧ゲテ
義兵ヲ大集シ
願ワクバ仁義ノ
来ッテ忠烈ノ
上、王室ヲ
下、
檄文到ランノ日
ソレ速ヤカニ奉行サルベシ
﹁これこそ、我々が待っていた天の声である。地上の輿よろ論んである。太守、何を迷うことがありましょう。よろしく曹操と力を協あわすべき秋ときです﹂
幕将は、口を揃えていった。
﹁――だが﹂と、袁紹は、なお少し、ためらっている風だった。
﹁曹操が、密詔をうけるわけはないがなあ? ……﹂
﹁よいではありませんか。たとえ密詔をうけていても、いなくても。その為すことさえ、正しければ﹂
﹁それもそうだ﹂
袁紹も遂に肚をきめた。
評定の一決を見ると、さすがに名門の出であるし、多年の人望もあるので、兵三万余騎を立ちどころに備え、夜を日についで、河南の陳留へ馳せのぼった。
来てみると、その旺さかんなのに袁紹も驚いた。軍簿の到着に筆をとりながら、重おもなる味方だけを拾ってみると、その陣容は大したものであった。
まず――
第一鎮ちんとして、後将軍南陽の太守袁えん術じゅつ、字あざなは公路を筆頭に、
第二鎮
冀きし州ゅうの刺し史し韓かん馥ふく
第三鎮
予州の刺史孔こう
第四鎮
州えんしゅうの刺史劉りゅ岱うたい
第五鎮
河かだ内いぐ郡んの太守王おう匡きょう
第六鎮
陳留の太守張ちょ
第七鎮
東郡の太守喬きょ瑁うぼう
そのほか、済北の相しょう、鮑ほう信しん、字あざなは允いん誠せいとか、西涼の馬ばと騰うとか、北平の公こう孫そん
とか、宇内の名将猛士の名は雲の如くで、袁紹の兵は到着順とあって、第十七鎮に配せられた。
﹁自分も参加してよかった﹂
ここへ来て、その実状を見てから、袁紹も心からそう思った。時勢の急なるのに、今さら驚いたのである。
![※(「にんべん+由」、第4水準2-1-34)](../../../gaiji/2-01/2-01-34.png)
![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
![※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)](../../../gaiji/1-92/1-92-58.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
四
第一鎮から第十七鎮までの将軍はみな、一万以上の手兵を率いて各![※(二の字点、1-2-22)](../../../gaiji/1-02/1-02-22.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
五
かくて―― 曹操の計画は、今やまったく確立したといってよい。 布陣、作戦すべて成った。 会合の諸侯十八ヵ国。兵力数十万。第一鎮より第十七鎮まで備えならべた陣地は、二百余里につづくと称せられた。 吉日を卜ぼくして、曹操は、壇を築き、牛を斬り馬を屠ほふって祭り、 ﹁われらここに起つ!﹂ と、旗挙げの式を執り行った。 その式場で、諸将から、 ﹁今、義兵を興し、逆賊を討たんとする。よろしく三軍の盟主を立て、総軍の首将といただいて、われら命をうくべし﹂と、いう発議が出た。 ﹁然るべし﹂ ﹁そうあるべしだ﹂と異口同音の希望に、 ﹁では、誰をか、首将とするべきか?﹂ となると、人々はみな譲り合って、さすがに、われこそとあつかましく自己推薦をする者もない。 で結局、曹操が、 ﹁袁えん紹しょうはどうであろう﹂ と、指名した。 ﹁袁紹は元来、漢の名将の後こう胤いんであるのみでなく、父祖四代にわたって、三公の重職に昇り、門下にはまた、四方に良い吏やく人にんが多い。その名望地位から見ても、袁紹こそ盟主として恥かしくない人物ではあるまいか﹂ 彼のことばに、 ﹁いや、自分は到底、その器うつわではない﹂ と袁紹は謙遜して、再三辞退したが、それは他の諸将に対する一片の儀礼である。遂に推されて、 ﹁では﹂ と、型の如く承諾した。 次の日。 式場に三重の壇を築き、五方に旗を立てて、白はく旄ぼう、黄こう鉞えつ、兵へい符ふ、印いん綬じゅなどを捧持する諸将の整列する中を、袁紹は衣冠をととのえ、剣を佩はいて壇にのぼり、 ﹁赤誠の大盟ここになる。誓って、漢室の不幸をかえし、天下億民の塗とた炭んを救わん。――不肖袁紹、衆望に推されて、指揮の大任をうく。皇天后土、祖宗の明霊よ、仰ぎねがわくば、これを鑒かんせよ﹂ 香を焚いて、祭壇に、拝天の礼を行うと、諸将大兵みな涙をながし、 ﹁時は来た﹂ ﹁天下の黎れい明めいは来た﹂ ﹁日ならずして、洛陽の逆軍を、必ず地上から一掃せん﹂ と、歯をくいしばり、腕を撫ぶし、また、慷こう慨がいの気を新たにして、式終るや、万歳の声しばし止まず、ために、天雲も闢ひらけるばかりであった。 袁紹はまた、諸将の礼をうけてから、 ﹁われ今、菲ひさ才いをもって、首将の座に推さる。かかる上は、功ある者は賞し、罪ある者は必ず罰せん。諸公、また部下に示すに、厳をもってのぞまれよ。つつしんで怠り給うなかれ﹂ と、命令の第一言を発した。 ﹁万歳っ。万歳っ﹂と、雷のような声をもって、三軍はそれに応えた。 袁紹は、第二の命として、 ﹁わが弟の袁えん術じゅつは、いささか経理の才がある。袁術をもって、今日より兵糧の奉行とし、諸将の陣に、兵へい站たんの輸送と潤じゅ沢んたくを計らしめる﹂ それにも、人々は、支持の声を送った。 ﹁――次いで、直ちに我軍は、北上の途にのぼるであろう。誰か先陣を承って、![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
江こう東とうの虎とら
一
この暁。 洛陽の丞じょ相うし府ょうふは、なんとなく、色めき立っていた。 次々と着いてくる早馬は、武ぶえ衛いも門んの楊よう柳りゅうに、何頭となくつながれて、心ありげに、いななきぬいていた。 ﹁丞じょ相うしょう、お目をさまして下さい﹂ 李りじ儒ゅは、顔色をかえて、董とう卓たくの寝殿の境をたたいていた。 宿との直いの番士が、 ﹁お目ざめになりました。いざ﹂と、帳とばりを開いて、彼の入室をゆるした。 艶なまめかしい美び姫きと愛くるしい女めわ童らべが、董卓にかしずいて、玉盤に洗顔の温水をたたえて捧げていたが、秘書の李りじ儒ゅがはいって来たのを見ると、目礼して、遠い化粧部屋へ退がって行った。 ﹁なんだな、早朝から﹂ 董卓は、脂肪ぶとりの肥大な体を、相かわらず重そうに揺ゆるがして、榻とうへよった。 ﹁大事が勃ぼっ発ぱつしました﹂ ﹁また、宮中にか?﹂ ﹁いや、こんどは遠国ですが﹂ ﹁草賊の乱か﹂ ﹁ちがいます――かつてなかった叛軍の大がかりな旗挙げが起りました﹂ ﹁どこに﹂ ﹁陳ちん留りゅうを中心として﹂ ﹁では、主謀者は曹そう操そうか袁えん紹しょうのやつだろう﹂ ﹁さようです。たちまちのうちに、十八ヵ国の諸国をたぶらかし、われ密詔を受けたりと偽称して、幕営二百余里にわたる大軍を編制しました﹂ ﹁そいつは捨ておけん﹂ ﹁もとよりのことです﹂ ﹁で――まだ詳報はこないか﹂ ﹁昨夜、夜半から今こん暁ぎょうにかけて、ひんぴんたるその早馬です。――すでに、敵は袁紹を総大将と仰ぎ、曹操を参謀とし、その第一手の先鋒を呉ごの孫そん堅けんがひきうけて、![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
二
﹁誰だ。帳の蔭でいう者は﹂ 董卓が咎とがめると、 ﹁呂りょ布ふです﹂と、姿をあらわした。 呂布は、一礼して、 ﹁何をお迷いなされますか。たかの知れた曹操や袁紹輩はいの企くわだてなど片づけるに何の造作がありましょうや。こんな時、それがしをお用い下さらずして、何のために、赤せき兎と馬ばを賜わったのですか﹂ と、むしろ責めるような語気で、なお云った。 ﹁この呂布を、お差向けねがいます。芥あくたの如き大軍をかき分けて、孫堅とやらを始め、曹操、袁紹など逆徒に加担の諸侯の首を、一々大地に梟かけならべてご覧に入れん﹂ ﹁いや、たのもしい﹂と、董卓も大いによろこんで、 ﹁そちがおればこそ儂みも枕を高くして、安やす臥うしておられるのだ。決して、寝所の帳か番犬のように、忘れ果てていたわけじゃない﹂と、慰めた。 時すでに、丞相室の帳外には、変を聞いて馳けつけてきた諸将がつめあっていたが、 ﹁呂布どの、待たれよ。鶏を裂くに、なんぞ牛刀を用うべき。敵の先鋒には、それがしまず味方の先鋒となって、ひと当り当て申さん﹂と、云いながら、はいってきた一将軍があった。 諸人、眸ひとみをあつめて、誰かと見るに、虎こた体いろ狼うよ腰う、豹ひょ頭うと猿うえ臂んぴ、まことに稀代な骨こつがらを備えた勇将とは見えた。 すなわち、関かん西せいの人、華かゆ雄う将軍であった。 ﹁おお、華雄か。いみじくも申したり。まず汝、![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
三
味方の鮑忠が、抜け馳けして、早くも敵に首級を捧げ、敵をよろこばせていたとは知らず、先手の将、孫堅は、 ﹁いで、ひと押しに﹂ と、戦術の正法を行って、充分な備えをしてから、![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
関かん羽う一杯ぱいの酒さけ
一
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
二
﹁しまったッ――﹂ 折れた弓を投げ捨てて、孫堅また駒をめぐらし、林の中へと逃げ入った。 ﹁ご主君、ご主君﹂ 祖茂は、馳けつづいて来ながら、孫堅にいった。 ﹁――![※(「灰/皿」、第3水準1-88-74)](../../../gaiji/1-88/1-88-74.png)
![※(「灰/皿」、第3水準1-88-74)](../../../gaiji/1-88/1-88-74.png)
![※(「巾+責」、第3水準1-84-11)](../../../gaiji/1-84/1-84-11.png)
![※(「灰/皿」、第3水準1-88-74)](../../../gaiji/1-88/1-88-74.png)
![※(「灰/皿」、第3水準1-88-74)](../../../gaiji/1-88/1-88-74.png)
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![※(「灰/皿」、第3水準1-88-74)](../../../gaiji/1-88/1-88-74.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
三
袁紹に訊ねられて、公孫![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
![※(「さんずい+(冢ー冖)」、第3水準1-86-80)](../../../gaiji/1-86/1-86-80.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「灰/皿」、第3水準1-88-74)](../../../gaiji/1-88/1-88-74.png)
四
ひきもきらぬ伝令が、みな味方の危機を告げるばかりなので総大将袁紹をはじめ、満堂の諸将軍もさすがに色を失って、 ﹁いかがせん!﹂と、浮うき腰ごしになった。 曹操は、さすがに、 ﹁狼狽してもしかたがない。こんな時は、よけい胆たん気きをすえるに限る﹂ と、侍立の部下をかえりみて、 ﹁酒を持ってこい﹂と、命じた。 ﹁はっ﹂ 酒杯は、各将軍の卓にも、一ツずつ置かれた。曹操は、杯をもつと、ぐびぐび飲んでいた。 わあっッ…… うわあっ 百雷の鳴るような鬨ときの声だ。大地が、ぐわうぐわうと地鳴りしている。 また、血まみれの斥候が一名、堂の階下へ来て、 ﹁だっ、だめですっ﹂ 絶叫してこときれてしまった。 すぐまた、次の二、三騎が、 ﹁味方の中軍は、敵の鉄兵に蹂じゅ躙うりんされ、ために、四散して、もはやここの備えも、手薄となりました﹂ ﹁本陣を、至急、ほかへ移さぬと危ないと思われます。包囲されます﹂ ﹁あれあれ、あの辺りに、もはや敵の先駆が――﹂ 告げ来り、告げ去り、もはやここの本陣も、さながら暴風の中心に立つ一木の如く、枝し々しみな震い樹葉みなふるえた。 ﹁つげ﹂ 曹操は、部下に酒をつがせ、なお腰をすえていたが、酔うほどに蒼白となった。 ﹁包囲されては﹂と、早くも、本陣の退却を、ひそひそ議する者さえある。 酒どころか、諸将軍の顔の半分以上は、土気色だった。 万丈の黄塵は天をおおい、山川草木みな血に嘯うそぶく。 ――時に、突如席を立って、 ﹁云いがいなき味方かな。このうえは、それがしが参って、敵勢をけちらし、味方の頽たい勢せいを一気にもり返してお目にかけん﹂ と、咆ほゆるが如くいって、はや剣を鳴らした者がある。 袁えん紹しょう将軍の寵ちょ将うしょうで、武勇の誉れ高い兪ゆし渉ょうという大将であった。 ﹁行け﹂ 袁紹は、壮なりとして、彼に杯を与えた。 兪渉は、ひと息に飲んで、 ﹁いでや﹂とばかり、兵を引いて、敵軍のまっただ中へ駆け入ったが、またたく間に、彼の手兵は敗走して来て、 ﹁兪渉将軍は、乱軍の中に、敵将華雄と出会って、戦うこと、六、七合、たちまち彼の刀下に斬って落された﹂ とのことに、満堂の諸侯は、驚いていよいよ肌に粟あわを覚えた。 すると、太守韓かん馥ふくが、 ﹁さわぎ給うな。われに一人の勇将あり。いまだかつて、百戦におくれをとったことを知らない潘はん鳳ほうという者である。彼なれば、たやすく華雄を打取ってくるにちがいありません﹂ 袁紹は、よろこんで、 ﹁どこにおるか、その者は﹂ ﹁たぶん、後陣の右翼におりましょう﹂ ﹁すぐこれへ呼べ﹂ ﹁はっ﹂ 潘鳳は、召しに応じて手に大きな火かえ焔ん斧ふをひっさげ、黒馬をおどらして、本陣の階下へ馳けて来た。 ﹁いかさま、頼もしげなる豪傑だ。すぐ馳け入って、敵の華雄を打取ってこい﹂ 袁紹の命に潘鳳はかしこまって、直ちに乱軍の中へはいって行ったが、間もなく潘鳳もまた、華雄のために討ち取られ、その首は、敵の凱歌の中に、手玉にとられて、敵を歓ばしめているという報らせに、満堂ふたたび興をさまし、戦意も失ってしまったかに見えた。五
袁えん紹しょうは、股ももを打って嘆声を発した。 ﹁ああ、惜しいかな。こんなことになるならば、わが臣下の、顔がん良りょうと文ぶん醜しゅうの二大将をつれて来るのだったに﹂ 席を立って、地だんだを踏んだり、また席に返って、嗟さた嘆んをつづけた。 ﹁その顔良、文醜の両名は、後詰めの人数を催すために、わざと、国もとへのこして来てしまったが、もしそのうちの一人でもここにいたら敵の華雄を打つことは、手のうちにあったものを! ……﹂ と、一座は黙然。 袁紹の叱咤ばかり高かった。 ﹁ここには、国々の諸侯もかくおりながら、その臣下に、華雄を討つほどの大将一人持っていないとあっては、天下のあざけりではあるまいか。後代までの恥辱ではあるまいか﹂ とはいえ、総帥の彼自身が、すでに及ばぬ悔いばかり呶鳴って、焦躁に駆られているので、満座の諸侯とて言葉もなく、皆さしうつ向いているばかりだった。 すると、その沈痛を破って、 ﹁ここに人なしとは誰かいう。それがし願わくば、命ぜられん。またたく間に、華雄が首をとって、諸侯の台下に献じ奉らん﹂と、叫んだ者があった。 諸人、驚いて、 ﹁誰か﹂ と、階下を見ると、その人、身の丈は長幹の松の如く、髯の長さ剣けん把ぱに到り、臥がさ蚕んの眉、丹たん鳳ほうの眼まなこ、さながら天来の戦鬼が、忽こつとして地に降りたかと疑われた。 ﹁彼は、何者か。いったい誰の手に属している大将か﹂ 袁紹が訊ねると、公こう孫そん![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
六
関羽の揮ふるう青龍刀の向うところ、万丈の血けむりと、碧へき血けつの虹が走った。 はるかに、味方の陣を捨て、むらがる敵軍の中へ馳け入るなり、 ﹁華雄やある。敵将華雄はいずれにあるぞ。わが雄姿に恐れをなして潜んだるか。出合えっ﹂ と、呼ばわった。猛虎が羊の群れを追うように、数万の敵は浪打って散った。 喊ときの声は、天地をつつみ、鼓こせ声いはみだれ、山川もうごくかと思われた。 此こな方た――敗色にみなぎっていた味方の本陣では、彼の働きに、一縷るののぞみをかけて、 ﹁戦況いかに?﹂ と、袁紹、曹操をはじめ、国々の諸侯みな総立ちとなって、帷いば幕くのうちから、戦いの空を見まもっていた。 すると、やがて。 敵も味方も、鳴りを忘れて、ひそとなった一瞬――まるで血の池を渡って来たような黒馬にまたがって、関羽は静々と、数万の敵兵をしり目に、袁紹、曹操たちの眼のまえに帰ってきた。 ひらと、駒を降りるや、 ﹁いざ、諸侯のご実検に﹂ と、階を上がって、中央の卓の上に、まだ生々しい一個の首級を置いた。 それは、敵の大将、華雄の首であったから、満堂の諸侯も、階下の兵も、われをわすれて、 ﹁おお、華雄だ﹂ ﹁華雄の首を打った﹂ と、期せずして、万歳をさけぶと、その動ど揺よめきに和して、味方の全軍も、いちどに勝かち鬨どきをあげた。 関羽は、数歩すすんで、曹操の前に立ち、血まみれな手のまま、先に預けておいた酒さか杯ずきを取りあげて、 ﹁――では、このご酒を、頂戴いたします﹂ と、胸を張って、ひと息に飲みほした。 酒は、まだあたたかだった。 曹操は、彼の労を多として、 ﹁見事だ。もう一献こん、ついでやろう﹂ と、手ずから瓶びんを持つと、 ﹁いや、ひとりそれがしの誉れとしては済みません。どうか、その一献は、全軍のために挙げて下さい﹂ ﹁そうか。いかにも。――では万歳を三唱しよう﹂ 酒さか杯ずきを持って、曹操が起立すると、ふたたび破れんばかりな勝鬨の嵐が起った。 すると、玄徳のうしろから、 ﹁あいや、勝利に酔うのはまだ早い。義兄関羽が、華雄を斬うち取ったからには、此方とても、ひと手柄してみせる。この機をはずさず、全軍をすすめ給え。此方、先鋒に立ってまたたくまに洛陽へ攻め入り、董とう相しょ国うこくを生いけ擒どって、諸侯の階下にひきすえてお見せ申さん﹂と、誰か叫んだ。 人々が、振向いてみると、それは一丈八尺の蛇じゃ矛ぼこを突っ立てて玄徳のそばに付いていた張飛であった。 袁紹の弟、袁えん術じゅつは、にがにがしげに見やって、 ﹁いらざる雑言を申すな。諸侯高官、国々の名将も、各おの![※(二の字点、1-2-22)](../../../gaiji/1-02/1-02-22.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
虎ころ牢うか関ん
一
――華かゆ雄う討たれたり ――華雄軍崩れたり 敗報の早馬は、洛陽をおどろかせた。李りし粛ゅくは、仰天して、董とう相しょ国うこくに急を告げた。董卓も、色を失っていた。 ﹁味方は、どう崩れたのだ﹂ ﹁![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(二の字点、1-2-22)](../../../gaiji/1-02/1-02-22.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
二
そのうちに寄手の陣頭から、河かだ内いの太守王おう匡きょう、その部下の猛将方ほう悦えつと共に、
﹁呂布を討って取れ﹂
と、呼ばわりながら、河内の強兵をすぐって、呂布の軍へ迫った。
敵が打鳴らす鼓この轟きを耳にしながら、
﹁動くな。近づけろ﹂
呂布は、味方を制しながら、落着き払っていたが、やがて敵味方、百歩の間に近づいたと見るや、
﹁それっ、みな殺しにしてしまえ﹂
と号令一下、呂布自身も、またがれる赤兎馬に鉄鞭一打ちくれて、むらがる河内兵の中へ突入して行った。
﹁わッしょっ﹂
呂布の懸け声だ。
画がか桿んの方天戟を、馬上から右に左に。
﹁えおオッ! ……﹂
と振るたびに、敵兵の首、手足、胴など血けむりといっしょに、吹き飛んでゆくかと見えた。
﹁やあ、口ほどもないぞ、寄手の奴やつ輩ばら、呂布これにあり。呂布に当らんとする者はないのか﹂
傲ごう語ごを放ちながら、縦横無尽な疾駆ぶりであった。
無人の境を行くが如しとは、まさに、彼の姿だった。何百という雑兵が波を打ってその前をさえぎっても、鎧がい袖しゅう一触しょくにも値しないのである。
馬は無双の名馬赤兎。その迅さ、強靱さ、逞しさ。赤兎の蹄ひづめに踏みつぶされる兵だけでも、何十か何百か知れなかった。
洛陽童子でも、それは唄にまで謡っている――
牧場に駒は多けれど
馬中の一は
赤兎馬 よ
洛陽人は多けれど
勇士の一は
呂布奉先
馬中の一は
洛陽人は多けれど
勇士の一は
従って、かねて聞く五原郡の呂布を討ち取った者こそ、こんどの大戦第一の勲功となろうとは――寄手もひとしく思い目がけているところだった。
河内の猛将方悦は、
﹁われこそ﹂
と、呂布へ槍を突っかけたが、二、三合とも戦わぬうちに、呂布の方天戟の下に、馬もろとも、斬り下げられた。
太守王おう匡きょうは、またなき愛臣を討たれて、
﹁おのれ、匹夫﹂
と、みずから半月槍を揮って、呂布へ駒を寄せ合わせたが、﹁太守危うし﹂と、加勢にむらがる味方がばたばたと左右に噴血をまいて討死するのを見て、色を失い、あわてて駒を引返した。
﹁王おう匡きょう、恥を忘れたな﹂
呂布がうしろから笑った。しかし、王匡の耳には入らなかった。
もっともその時。味方の危機と見て、喬きょ瑁うぼ軍うぐんと袁えん遺い軍の二手の勢が、呂布の兵を両翼から押し狭めて、
うわッっ……
うわあ……っッ
と、鼓を鳴らし、矢を射、砂煙をあげて、牽制して来たのだった。
赤兎馬は、怯ひるまない。たちまち、その一方に没したかと見ると、そこを蹂じゅ躙うりんしつくして、またたちまち一方の敵を蹴ちらすという奮戦ぶりだった。
上じょ党うとうの太守張楊の旗下に、穆ぼく順じゅんという聞えた名槍家があった。その穆順の槍も、呂布と戦っては、苦もなく真二つにされてしまった。
北海の太守孔こう融ゆうの身内で、武ぶあ安んこ国くという大力者があったが、それも、呂布の前に立つと、嬰あか児ごのように扱われ、重さ五十斤という鉄の槌つちも、いたずらに空を打つのみで、片腕を斬り落され、ほうほうの態ていで味方のうちへ逃げこんでしまった。
三
呂布にはもう敵がなかった。 無敵な彼のすがたは、ちょうど万ばん朶だの雲を蹴ちらす日輪のようだった。 彼の行くところ八州の勇猛も顔色なく、彼が馳駆するところ八鎮の太守も駒をめぐらして逃げまどった。 袁えん紹しょうも、策を失って、﹁どうしたものか﹂と、曹操へ計った。 曹操も腕をこまぬいて、 ﹁呂布のごとき武勇は、何百年にひとり出るか出ないかといってもよい人中の鬼神だ。おそらく尋常に戦っては、天下に当る者はあるまい。――この上は、十八ヵ国の諸侯を一手として、遠巻きに攻め縮め、彼の疲れを待って、一斉に打ちかかり、生いけ擒どりにでもするしか策はありますまい﹂ ﹁自分もそう思う﹂ と、袁紹はすぐ軍令を認めて、![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
四
﹁何ッ﹂ 呂布は、赤兎馬を止めて、きっと振返った。 見れば、威風すさまじき一個の丈夫だ。虎とら髯ひげを逆立て、牡ぼた丹んの如き口を開け、丈八の大おお矛ほこを真横に抱えて、近づきざま打ってかかろうとして来る容子。――いかにも凜々たるものであったが、その鉄甲や馬装を見れば、甚だ貧弱で、敵の一歩弓手にすぎないと思われたから、 ﹁下郎っ。退がれッ﹂ と、呂布はただ大喝を一つ与えたのみで、相手に取るに足らん――とばかりそのまままた進みかけた。 張飛は、その前へ迫って、駒を躍らせ、 ﹁呂布。走るを止めよ。――劉備玄徳のもとに、かくいう張飛のあることを知らないか﹂ 早くも、彼の大矛は、横薙ぎに赤兎馬のたてがみをさっとかすめた。 呂布は、眦まなじりをあげて、 ﹁この足軽め﹂ 方ほう天てん戟げきをふりかぶって、真二つと迫ったが、張飛はすばやく、鞍横へ馳け迫って、 ﹁おうっッ﹂ 吠え合わせながら、矛ほこに風を巻いて、りゅうりゅう斬ってかかる。 意外に手ごわい。 ﹁こいつ莫ば迦かにできぬぞ﹂ 呂布は、真剣になった。もとより張飛も必死である。 貧しい郷軍を興して、無位無官をさげすまれながら、流戦幾年、そのあげくはまた僻地に埋もれて、髀ひに肉くを嘆じていたこと実に久しかった彼である。 今、天下の諸侯と大兵が、こぞって集まっているこの晴れの戦場で、天下の雄と鳴り響いた呂布を相手にまわしたことは、張飛としてけだし千載ざいの一遇といおうか、優うど曇ん華げの花といおうか、なにしろ志を立てて以来初めて巡り合った機会といわねばなるまい。 とはいえ、呂布は名だたる豪雄である。やすやすと討てるわけはない。 両雄は実に火華をちらして戦った。丈八の蛇矛と、画がか桿んの方天戟は、一上一下、人まぜもせず、秘術の限りを尽し合っている。 さしもの張飛も、 ﹁こんな豪傑がいるものか﹂ と、心中に舌を巻き、呂布も心のうちで、 ﹁どうしてこんなすばらしい漢おとこが歩弓手などになっているのだろう﹂ と、おどろいた。 幾度か、張飛の蛇矛は、呂布の紫金冠や連れん環かんの鎧よろいをかすめ、呂布の方天戟は、しばしば、張飛の眉前や籠こ手てをかすって、今にもいずれかが危うく見えながら、しかも両雄は互いにいつまでも喚わめき合い叫び合い、かえってその乗馬のほうが、汗もしとどとなって轡くつわを噛み、馬は疲れるとも、馬上の戦いは疲れて止むことを知らなかった。 あまりの目ざましさに、両軍の将兵は、 ﹁あれよ、張飛が﹂ ﹁あれよ、呂布が――﹂ と、しばし陣をひらいて見とれていたが、呂布の勢いは、戦えば戦うほど、精悍の気を加えた。それに反して、張飛の蛇矛は、やや乱れ気味と見えたので、遥かに眺めていた曹操、袁紹をはじめ十八ヵ国の諸侯も、今は、内心あやぶむかのような顔色を呈していたが、折しも、突風のようにそこへ馳けつけて行った二騎の味方がある。 一方は、関羽だった。 ﹁義おと弟うと、怯ひるむな﹂ と、加勢にかかれば、また一方の側から、 ﹁われは劉備玄徳なり、呂布とやらいう敵の勇士よ、そこ動くな﹂ と、名乗りかけ、乗り寄せて、玄徳は左右の手に大小の二剣をひらめかし、関羽は八十二斤の青龍刀に気をこめて、義兄弟三人三方から、呂布をつつんで必死の風を巻いた。五
いくら呂布でも、今はのがれる術すべはあるまい。たちまち、斬って落されるだろう。 そう見えたが、 ﹁なにをっ﹂ と、猛風一吼くして、 ﹁束たばになって来い﹂ と呂布はまだ嘲あざ笑わらう余裕さえあった。関羽、張飛、玄徳の三名を物ともせず、右に当り左に薙なぎ、閃せん々せんの光、鏘しょ々うしょうの響き、十州の戦野の耳目は、今やここに集められたの観があった。 両軍の陣々にあった国々の諸侯も、みな酒に酔ったように、遥かにこれを眺めていた。そのうちに呂布の一撃が、あわや玄徳の面を突こうとした刹那、 ﹁えおうッ﹂ ﹁うわうッ﹂ 双龍の水を蹴って、一つの珠を争うごとく、張飛、関羽のふたりが、呂布の駒を挟んだ。 呂布の鞍と、関羽の鞍とが、打ぶつかり合ったほどだった。 ダダダダ――と赤兎馬は、蹄を後ろへ退いた。とたんに、 ﹁こは敵かなわじ﹂ と思ったか、呂布は、 ﹁後日再戦﹂ と三名の敵へ云いすて、いっさんに馬首をかえして、わが陣地のほうへ引返した。 ――ここで彼を逸しては。 とばかり玄徳、関羽、張飛の三騎も駒をそろえて追いかけた。 ﹁あす知れぬ士さむらい同士だぞ。戦場の出合いに後日はない、返せっ呂布ッ﹂ と玄徳がさけぶと、 ――ぴゅッん と呂布から一矢飛んできた。 呂布は、駒を走らせ走らせ、振返って、獅子皮の帯の弓きゅ箭うせんを引抜き、 ﹁悪あしければ、おれの陣まで送って来い﹂ とまた、一矢放った。 三本まで射た。 そして、またたく間に、虎牢関の内へ逃げこんでしまった。 ﹁残念っ﹂ 張飛も関羽も、歯がみをしたがどうしようもない。 それもその筈、一日千里を走る赤兎馬である。張飛、関羽らの乗っている凡馬とは、ほんとに走るだんになると較くらべものにはならなかった。 しかし。 呂布が逃げたので、一時はさんざんな態ていだった味方は、果然、意気を改めた。国々の諸侯は総がかりを号令し、喊ときの声は大いに奮った。 敵軍は、呂布につづいて、虎牢関へ引き退いたが、その大半は、関門へ逃げ入れないうちに討たれてしまった。 潮うしおのごとく、寄手は関へ迫った。関門の鉄扉かたく閉ざされて敗北のうめきを内にひそめていた。 関羽、張飛は関門のすぐ真下まで来て、踏み破らんと焦あせったが、天下の嶮といわれる鉄壁。如いか何んとも手がつけられない。 ――時に、ふと。 関上遥けき一天を望むと、錦きん繍しゅうの大たい旆はいやら無数の旗き幟しが、颯さっ々さつとひるがえっている所に、青羅の傘さん蓋がいが揺よう々ようと風に従って雲か虹のように見えた。 張飛は、くわっと口をあいて、思わず大声をあげ、 ﹁おうっ、おうっ。――あれに見える者こそまさしく敵の総帥董とう卓たくだ。彼きゃ奴つの姿を目前に見て、空しくおられようか。続けや者ども﹂ と、真先に、城壁へすがりついて、よじ登ろうとしたが、たちまち櫓の上から巨木岩石が雨の如く落ちてきたので、関羽は、地だんだ踏んで口惜しがる張飛を諫いさめて、ようやく、そこの下から百歩ほど退かせた。 この日の激戦は、かくて引き別れとなった。世に伝えて、これを虎ころ牢うか関んの三戦という。洛らく陽よう落らく日じつ賦ふ
一
味方の大たい捷しょうに、曹操をはじめ、十八ヵ国の諸侯は本陣に雲集して、よろこびを動ど揺よめかせていた。 そのうちに、討取った敵の首級何万を検し大おお坑あなへ葬った。 ﹁この何万の首のうちに、一つの呂りょ布ふの首がないのだけは、遺憾だな﹂ 曹操がいうと、 ﹁いや、張飛や関羽などという雑兵に負けて逃げるようでは、呂布の首の値打ちも、もう以前のようにはない﹂と、袁えん紹しょうは大きく笑った。 勝てば皆、軍いくさは自分ひとりでしたように思い、負ければ、皆負けた原因を、他人に向けて考える。 凱歌と共に、杯を挙げて、一同はひとまず各![※(二の字点、1-2-22)](../../../gaiji/1-02/1-02-22.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
二
﹁なんだ、夜中﹂
孫堅は、寝所の帳を払って、腹心の程普にたずねた。
程普は、彼の耳へ、顔を寄せんばかり近寄って、
﹁この深夜に、陣門を叩く者がありました。何者かと思えば、敵方の密使二騎で、ひそかに太守にお目にかかりたいと申しますが﹂
﹁何。董とう卓たくから?﹂
孫堅は、意外に思って、
﹁ともかく会ってみよう﹂と、使者を室へ入れて見た。
生命がけで来た敵は、孫堅のすがたに接すると、懸命な弁をふるって云った。
﹁それがしは、董相国の幕下の一人、李りか
という者ですが、丞じょ相うしょうは常々からふかく将軍を慕っておられるので、特に、それがしに使いを命ぜられ、長くあなたと好よし誼みを結んでゆきたいとの仰せであります。――それも言辞の上や形式だけの好誼でなく、幸い、董相国には妙齢なご息女がありますから、将軍のご子息の一方を、婿として迎えられ、一門子弟、ことごとく郡守刺し史しに封ぜんとのお旨であります。こんな良縁と、ご栄達の機会は、またとあるまいかと存じられますが……﹂
みなまで聞かぬうちに、
﹁だまれッ﹂
孫堅は、一喝かつを加えて、
﹁順逆の道さえ知らず、君を弑しいし民を苦しめ、ただ、我慾あるのみな鬼畜に、なんでわが子を婿などにくれられようか。――わが願望は逆賊董卓を打ち、あわせてその九族を首斬って、洛陽の門に梟かけならべて見せんということしかない。――その望みを達しない時は、死すとも、眼をふさがじと誓っておるのだ。足もとの明るいうちに立帰って、よく董卓に伝えるがいい﹂
と、痛烈に突っぱねた。
鉄面皮な使者は、少しも怯ひるまず、
﹁そこです。将軍……﹂
となお、くどく云いかけるのを、孫堅は耳にもかけず、押しかぶせて呶鳴った。
﹁汝らの首も斬り捨てるところだが、しばらくのあいだ預けておく。早々立帰って董卓にこの由を申せ﹂
使者の李りか
ともう一名の者は、ほうほうの態で洛陽へ逃げ帰った。
そして、ことの仔細を、ありのままに丞相へ報告に及んだ。
董卓は、虎ころ牢うか関んの大敗以来、このところ意気銷沈していた。
﹁李りじ儒ゅ、どうしたものか﹂と、例によって、丞相のふところ刀といわれる彼に計った。
李儒はいう。
﹁遺憾ながら、ここは将来の大策に立って、味方の大転機を計らねばなりますまい﹂
﹁大転機とは﹂
﹁ひと思いに、洛らく陽ようの地を捨て長ちょ安うあんへ都をお遷うつしになることです﹂
﹁遷せん都とか﹂
﹁さればです。――さきに虎牢関の戦いで、呂布すら敗れてから、味方の戦意は、さっぱり振いません。如しかず、一度兵を収おさめて、天子を長安にうつし奉り、時を待って、戦うがよいと思います。――それに近頃、洛内の児童が謡っているのを聞けば、
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
東頭一箇ノ漢
マサニ
とあります。歌の詞を按あんずるに、西頭一箇の漢とは高祖をさし、長安十二代の泰平をいって、同時に、長安の富ふじ饒ょうにおいでになったことのある丞相の吉きっ方ぽうを暗示しているものと考えられます。東頭一箇の漢とは、光武洛陽に都してより今にいたるまで十二代。それを云ったものでしょう。天の運数かくの如しです。――もし長安へおうつりあれば、丞相のご運勢は、いよいよ展ひらけゆくにちがいありません﹂
李儒の説を聞くと、董卓は、にわかに前途が展けた気がした。その天文説は、たちまち、政策の大方針となって、朝議にかけられた。――いや独裁的に、百官へ云い渡されたのであった。
三
廟びょ議うぎとはいえ、彼が口を開けば、それは絶対なものだった。 けれどこの時は、さすがに、百官の顔色も動ど揺よめいた。 第一、帝もびっくりされた。 ﹁……遷都?﹂ 事の重大に、にわかに、賛同の声も湧かなかった。代りにまた、反対する者もなかった。 寂せきたる一瞬がつづいた。 すると、司徒の楊よう彪ひょうが、初めて口を切った。 ﹁丞相。今はその時ではありますまい。関中の人民は、新帝定まり給うてから、まだ幾日も、安き心もなかった所です。そこへまた、歴史ある洛陽を捨てて、長安へご遷都などと発布されたら、それこそ、百姓たちは、鼎かなえのごとく沸いて、天下の乱を助長するばかりでしょう﹂ 太尉黄こう![※(「王+宛」、第3水準1-88-10)](../../../gaiji/1-88/1-88-10.png)
![※(「比/必」、第3水準1-86-43)](../../../gaiji/1-86/1-86-43.png)
四
﹁遷都だ。遷都のお触ふれが出たぞ﹂ ﹁ここを捨てて長安へ﹂ ﹁後はどうなるのだろう﹂ 洛陽の市民は、寝耳に水の驚きに打たれて、なすことも知らなかった。 それにきのうの白昼、董相国の輦に向って直ちょ諫っかんした二忠臣が、相国の怒りにふれて、 ――斬れっ。 というただ一喝のもとに、武士たちの刀槍の下に寸断された非ひご業うな死にざまをも、市民は、まざまざと目撃しているので、 ﹁ものをいうな﹂ ﹁何もいうな﹂ ﹁殺されるぞ﹂ と、ひたすら懼おそれて、不平の叫びすらあげえないのであった。 危うい哉かな、董卓は、天をも惧おそれない、また、地に満つる民心の怨みも意としない。彼は、一夜を熟睡して、醒めるとすぐ、 ﹁李儒、李儒﹂ ﹁はっ、これにいます﹂ ﹁遷都の発令はすんだか﹂ ﹁万端終りました﹂ ﹁朝廷においても、公卿百官もみな心得ているだろうな﹂ ﹁引移る準備に狂奔しております。それから都門へ高札を立て、なおそれぞれ役人から触れさせましたから、洛内の人民どもも、おそらく車駕について大部分は長安へ流れてきましょう﹂ ﹁いや、それは貧乏人だけだ。富貴な金持は、たちまち家財を隠匿して、閑地へ散ってしまう。丞相府にも朝廷にも、金銀はすでに乏しかろう﹂ ﹁さればです。遷都令と同時に軍費徴発令をお発しありたいと存じます﹂ ﹁いいようにやれ、いちいち法文を発するには及ばん﹂ ﹁では、ご一任ください﹂ 李儒は五千人を選んで、市中に放ち、遷都と軍事の御用金を命ずると称して、洛中の目ぼしい富豪を片っぱしから襲わせた。そして金銀財宝を山のごとくあつめ、それを駄馬や車輛に積んでは、そばからそばから長安へ向けて輸送した。 洛陽は、無政府状態となった。 官紀も、警察制度もすべての秩序も一日のまに喪そう失しつして、市街は混乱におちいった。 富家の財宝を没収するやり方も実にひどかった。 狂風に躍る暴兵は、ここぞと思う富豪の邸へ目をつけると、四方を取囲んでおいて、突然、邸内へ乱入し、家財金銀を担ぎだして手むかう者は立ちどころに斬り殺した。年若い女子の悲鳴が、その間に、陰々と、人目のない所から聞えてきたり、また公然と、さらわれて行ったり、眼もあてられない有様だった。 また、発令の翌日。 御ぎょ林りん軍ぐんの将校たちは、流民が他国へ移るを防ぐために、強制的に兵力でこれを一ヵ所にまとめ、百姓の家族たちを五千、七千と一団にして、長安のほうへ送った。 乳のみ児を抱えた女房や、老人、病人を負った者や、なけなしの襤ぼ褸ろだの貧しい家財を担になって子の手をひいてゆく者だの――明日知れぬ運命へ駆り立てられながら、山羊の群れの如く真っ黒に追われて歩く流民の姿は、実に憐れなものだった。 鬼畜の如き暴兵は、手に刀を、たえず鞭の如く振って、 ﹁歩け、歩け、歩かぬやつは斬るぞ﹂ ﹁病人など捨てて歩け﹂と、脅しつけたり、白昼人妻に戯れたり、その良人を刺し殺したり、ほしいままな暴ぼう虐ぎゃくを加えて行った。 ために、流民の号泣する声が、野山にこだまして、天も曇るかと思われた。五
同じ日―― 董卓もその私邸官邸を引払い、私蔵する財物は、八十輛の馬車に積んで連ね、 ﹁さらば立とうか﹂と、彼も輦くるまにかくれた。 彼にはこの都に、なんの惜し気もなかった。もともと一年か半年の間に横よこ奪どりした都府であるから。 けれど、公卿百官のうちには、長い歴史と、祖先の地に、恋々と涙して、 ﹁ああ、遂に去るのか﹂ ﹁長生きはしたくない﹂ と、慟どう哭こくしている老官もあった。 そのため、遷都の発足は、いたずらに長引きそうなので、董卓は、李粛を督して、強権を布令させた。 今朝寅とらの刻こくを限って、宮門、離宮、城楼、城門、諸しょ官かん衙が、全市街の一切にわたって火を放ち、全洛陽を火葬に附すであろう。 という命である。 ひとつは、やがて必ず殺到するであろう袁えん紹しょうや曹操らの北上軍に対する焦土戦術の意味もある。 なににしても、急であった。 その混乱は、名状しようもない。そのうちに、寅の刻となった。 まず、宮門から火があがった。 紫金殿の勾こう欄らん、瑠るり璃ろ楼うの瓦かわら、八十八門の金きん碧ぺき、鴛えん鴦おう池ちの珠たまの橋、そのほか後宮の院舎、親王寮、議ぎせ政いび廟ょうの宏大な建築物など、あらゆる伝統の形見は、炎々たる熱風のうちに見捨てられた。 ﹁幾日燃えているだろうな﹂ 董卓は、そんなことを思いながら、この大炎上を後に出発した。 彼の一族につづいて、炎の中から、帝王、皇妃、皇族たちの車駕が、哭くがごとく、列を乱して遁のがれてきた。 また、先を争って、公卿百官の車馬や、後宮の女子たちの輿こしや、内官どもの馬や財産を積んだ車や、あらゆる人々が――その一人も後に停まることなく――雪な崩だれあって、奔ほん々ぽんと洛陽の外へ吐き出されて行った。 また、呂布は。 かねて、董卓から密々の命をうけていて、これはまったく、別の方面へ出て働いていた。一万余人の百姓や人夫を動員し、数千の兵を督して、前日から、帝室の宗そう廟びょうの丘に向い、代々の帝王の墳墓から、后妃や諸大臣の塚までを、一つ残さず掘り曝あばいたのだ。 帝王の墳墓には、その時代時代の珍宝や珠玉が、どれほど同葬してあるかしれない。皇妃皇族から諸大臣の墓まで数えればたいへんな物である。中には得がたい宝剣や名鏡から、大量な朱泥金銀などもある。もとより埴はに輪わや土器などには目もくれない。 これは車輛に積むと数千輛になった。値にすれば何百億か知れない土中の重宝だった。 ﹁夜を日についで長安へこれを運べ﹂ 呂布は、兵をつけて、続々とこれを長安へ送り立てると同時に、一方、今なお虎牢関の守りに残っている味方の殿しん軍がりに対して、 ﹁関門を放ほう棄きせよ﹂と、使いをやり、 ﹁疾風の如く、長安まで退け﹂と、命令した。 殿しん軍がりの大将趙ちよ岑うしんは、 ﹁長安までとは、どういうわけだろう﹂ と、怪しんだがともかく関をすてて全軍、逃げ来って見ると、すでに洛陽は炎々たる火と煙のみで、人影もなかった。 先に、知らせると、守備の兵が動揺して、遷都の終らぬまに、敵軍が堰せきを切って奔入してくるおそれがあるのでわざと間際まで知らせなかったのであるが、しかし、それほど遷都は早く行われたのであった。 もちろん。 呂布もいち早く、掘りあばいた帝王陵の坑あなを無数に残して、蜂のごとく、長安へ飛び去っていた。六
当時、寄手の北上軍のほうでも、ここ二、三日、何となく敵方の動静に、不審を抱いていた。 折から、諜報が入ったので、 ﹁すわや﹂と色めき、 ﹁一挙に占とれ﹂とばかり、国々の諸侯は、われがちに軍をうごかし、![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
![※(二の字点、1-2-22)](../../../gaiji/1-02/1-02-22.png)
![※(「螢」の「虫」に代えて「水」、第3水準1-87-2)](../../../gaiji/1-87/1-87-02.png)
![※(「螢」の「虫」に代えて「水」、第3水準1-87-2)](../../../gaiji/1-87/1-87-02.png)
七
帝陵の丘をあばいて発掘した莫大な重宝を、先に長安へ輸送して任を果たし終った呂布軍も、一足あとから![※(「螢」の「虫」に代えて「水」、第3水準1-87-2)](../../../gaiji/1-87/1-87-02.png)
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生せい死し一川せん
一
曹操は、見つけて、 ﹁おのれ、あれなるは、たしかに呂布﹂と、さえぎる雑兵を蹴ちらして、呂布の立っている高地へ近づこうとしたが、董とう卓たく直じき参さんの李りか![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「螢」の「虫」に代えて「水」、第3水準1-87-2)](../../../gaiji/1-87/1-87-02.png)
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二
﹁――しまったッ﹂ 曹操は叫びながら、駒のたてがみへうつ伏した。 またも、徐栄の放った二つの矢が、びゅんと耳のわきをかすめてゆく。 肩に突っ立った矢を抜いている遑いとまもなかったのである。 その矢傷から流れ出る血しおに駒のたてがみも鞍も濡れひたった。駒は血を浴びてなお狂奔をつづけていた。 すると、一ひと叢むらの木蔭に、ざわざわと人影がうごいた。 ﹁あっ、曹操だっ﹂と、いう声がした。 それは徐栄の兵だった。徒か歩ち立ちで隠れていたのである。一人がいきなり槍をもって、曹操の馬の太腹を突いた。 馬は高くいなないて、竿立ちに狂い、曹操は大地へはね落された。 徒かち歩へ兵い四、五人が、わっと寄って、 ﹁生いけ擒どれっ﹂とばかり折り重なった。 仰向けに仆れたまま、剣を抜き払って、曹操は二人を斬っただけで、力尽きてしまった。 落馬した刹那に、馬の蹄ひづめで肋あば骨らをしたたかに踏まれていたからだった。 時に。 曹操の弟曹そう洪こうは、乱軍の中から落ちて一人この辺りをさまよっていたが、異なる馬の啼き声がしたので、 ﹁や。……今のは兄の愛馬の声ではないか﹂と、馳けつけてきて、月明りにすかしてみると、今しも兄の曹操はわずかな雑ぞう兵ひょ輩うばらの自由になって、高手小手に縛いましめられようとしている様子である。 ﹁くそッ﹂ 跳ぶ如く馳け寄って、一人を後ろから斬り伏せ、一人を薙なぎつけた。驚いて、逃げるは追わず、すぐ兄の身を抱き上げて、 ﹁兄上っ、兄上。しっかりして下さい。曹洪です﹂ ﹁あ、おまえか﹂ ﹁お気がつきましたか。――さっさっ、私の肩につかまってお起たちなさい。今逃げた兵が、徐栄の軍を呼んでくるに違いありません﹂ ﹁だ、だめだ……曹洪﹂ ﹁なんですと?﹂ ﹁残念ながら、矢傷を負い、馬に踏まれた胸も苦しい。この身は打捨てて行け。おまえだけ、早く落ちて行ってくれ﹂ ﹁心弱いことを仰っしゃいますな。矢傷ぐらい、大したことはありません。いま、天下の大乱、この曹洪などはなくとも、曹操はなくてはなりません。一日でも、生きてゆくのは、あなたの天から享うけている使命です﹂ 曹洪は、こう励まして、兄の着ている鎧よろ甲いかぶとを解いて身軽にさせ、小脇に抱いて、敵の捨てたらしい駒の背へしがみついた。 果して。 わあっ……と、徐栄の手勢が、後から追って来た。 曹洪は、心も空に、片手に兄を抱え、片手に手綱をとり、眼をふさいで、 ﹁この身はともかく、兄曹操の一命こそ、大事の今。諸しょ仏ぶっ天てん加護ありたまえ﹂ と、祷いのりながら無我夢中に逃げつづけた。 逆落しに、山上から曠野まで馳せおりて来た心地がした。 ﹁やれ、麓へ出たか﹂と、思ってふと見ると、満々たる大河が行く手に横たわっているではないか。それと見た曹操は、苦しげに、弟をかえりみて、 ﹁ああ、わが命数も極まったとみえる。曹洪、降ろしてくれ、いさぎよくおれはここで自害する。――敵のやって来ないうちに﹂と、死を急いだ。三
曹洪は、兄を抱いて、馬から降りたが、決して抱いている手をゆるめなかった。 ﹁なんです、自害するなんて、平常のあなたのご気性にも似あわぬことを!﹂と、わざと叱咤して、 ﹁前にはこの大河、うしろからは敵の追撃、今やわたし達の運命は、ここに終ったかの如く見えますが、物もの窮きわまれば通ず――という言葉もある。運を天にまかせて、この大河を越えましょう﹂ 河岸に立つと、白浪のしぶきは岸砂を洗い、流れは急で、飛ひこ鴻うも近づかぬ水の相すがたであった。 身に着けている重い物は、すべて捨てて、曹洪は一剣を口にくわえ、傷てお負いの兄をしっかと肩にかけると、ざんぶとばかり濁流の中へ泳ぎ出した。 江に接していた低い雨雲がひらくと、天の一角が鮮明に彩いろどられてきた。いつか夜は白みかけていたのである。満々たる江水は虹に燃え立って、怪魚のように泳いでゆく二人の影を揉みに揉んでいた。 流れは烈しいし、深ふか傷でを負っているので、曹洪の四肢は自由に水を切れなかった。見る見るうちに、下流へ下流へと押流されてゆく。 しかし、ついに彼ひが岸んは、眼のまえに近づいた。 ﹁もうひと息――﹂と、曹洪は、必死に泳いだ。 対岸の緑草は、ついそこに見えながら、それへ寄りつくまでが容易でなかった。激浪がぶつかっては、渦となって波流を渦巻いているからだった。 すると。 その河畔からやや離れた丘に徐栄の一部隊が小陣地を布いていた。河筋を監視するために、二名の歩哨が立って、暁光の美観に見とれていたが―― ﹁やっ? なんだろ﹂ 一人が指さした。 ﹁怪魚か﹂ ﹁いや、人間だっ﹂ あわてて部将のところへ報しらせに馳けた。 部将もそれへ来て、 ﹁曹操軍の落武者だ。射てしまえ﹂と、弩どき弓ゅう手しゅへ号令した。 まさかそれが曹操兄弟とは気づかなかったので、緩かん慢まんにも弓組の列を布いて、射術を競わせたものだった。 びゅっん―― ぶうっん―― 弦は鳴り矢はうなって、彼かな方たの水ぎわへ、雨かとばかり飛沫を立てた。 曹洪は、すでに岸へ這いついていたが、前後に飛んでくる敵の矢に、しばらく、死んだまねをしていた。 その間に、﹁どう逃げようか﹂を、考えていた。 ところがかえって、遥か河上から、一手の軍勢が、河に沿って下って来るのが見えた。朝雲の晴れ渡った下にひるがえる旗き幟しを望めば、それはまぎれもなく![※(「螢」の「虫」に代えて「水」、第3水準1-87-2)](../../../gaiji/1-87/1-87-02.png)
四
丘から射放つ矢は集まってくる。 止とどまるも死、進むも死だった。 一難、また一難。死はあくまで曹操をとらえなければ止まないかに見えた。 ﹁この上は、敵の屍を山と積み、曹家の兄弟が最期として、人に笑われぬ死に方をして見せましょう。兄上も、お覚悟ください﹂ 曹洪も、ついに決心した。 そして兄曹操と共に、剣をふりかざして、敵の中へ斬りこんだ。 敵は、さわいで、 ﹁やあ、曹家といったぞ。さては曹操、曹洪の兄弟と見えたり﹂ ﹁思いがけない大将首、あれを獲とらずにあるべきや﹂ 餓がろ狼うが餌を争うように二人を蔽おおいつつんだ。 すると。 彼方の野末から、一陣の黄風をあげて、これへ馳けて来る十騎ほどの武士があった。 ゆうべから主君曹操の行方をさがし歩いていた夏かこ侯うじ惇ゅん、夏かこ侯うえ淵んの二将の旗はた下もとたちだった。 ﹁おうっ、ご主君これにか﹂ 十槍の穂先をそろえて、どっと横から突き崩して来た。 ﹁いざ、疾とく﹂ と曹兄弟に、駒をすすめ、夏侯惇はまっ先に、 ﹁それっ、落ちろっ﹂と気を揃えて逃げだした。 矢は急きゅ霰うさんのように追ったが、徐栄軍はついに追いきれなかった。曹操たちは、一ひと叢むらの蒼そう林りんを見て、ほっと息をついた。見ると五百ばかりの兵馬がそこにいる。 ﹁敵か、味方か?﹂ 物見させてみると、僥ぎょ倖うこうにも、それは曹操の家臣、曹仁、李典、楽進たちであった。 ﹁おお、君には、ご無事でおいで遊ばしたか﹂ と、楽進、曹仁らは、主君のすがたを迎えると、天地を拝して歓び合った。 戦は、実に惨憺たる敗北だったが、その悲境の中に、彼らは、もっとも大きな歓びをあげていたのだった。 曹操は、臣下の狂喜している様を見て、 ﹁アア我誤てり。――かりそめにも、将たる者は、死を軽んずべきではない。もしゆうべから暁の間に、自害していたら、この部下たちをどんなに悲しませたろう﹂と、痛感した。 ﹁訓おしえられた。訓えられた﹂と彼は心で繰返した。 敗戦に訓えられたことは大きい。得がたい体験であったと思う。 ﹁戦にも、負けてみるがいい。敗れて初めて覚さとり得るものがある﹂ 負け惜しみでなくそう思った。 一万の兵、余すところ、わずか五百騎、しかし、再起の希望は、決して失われていない。 ﹁ひとまず、河かだ内いぐ郡んに落ちのびて、後こう図とを計るとしよう﹂ 曹操はいった。 夏侯惇、曹仁たちも、 ﹁それがよいでしょう﹂ 兵馬に令してそこを発たった。 一竿かんの列伍は淋しく河内へ落ちて行った。山河は蕭しょ々うしょうと敗将の胸へ悲歌を送った。生れながら気随気ままに育って、長じてもなお、人を人とも思わなかった曹操も、こんどという今度はいたく骨身に徹こたえたものがあるらしかった。 途すがら、耿こう々こうの星を仰ぐたびに、彼はひとり呟いた。 ﹁――君は乱世の奸雄だと、かつて予言者がおれにいった。おれは満足して起った。よろしい、天よ、百難をわれに与えよ、奸雄たらずとも、必ず天下の一雄になってみせる﹂珠たま
一
――一方。 洛陽の焦土に残った諸侯たちの動静はどうかというに。 ここはまだ濛もう々もうと余よじ燼んのけむりに満ちている。 七日七夜も焼けつづけたが、なお大地は冷さめなかった。 諸侯の兵は、思い思いに陣取って消火に努めていたが、総帥袁えん紹しょうの本営でも、旧朝廷の建章殿の辺ほとりを本陣として、内だい裏りの灰を掻かせたり、掘りちらされた宗そう廟びょうに、早速、仮小屋にひとしい宮を建てさせたりして、日夜、戦後の始末に忙殺されていた。 ﹁仮宮も出来あがったから、とりあえず、太たい牢ろうを供えて、宗廟の祭を営いとなもう﹂ 袁紹は、諸侯の陣へ、使いを派して、参列を求めた。 いと粗末ではあったが、形ばかりの祭事を行って後、諸侯は連れ立って、今は面影もなくなり果てた禁門の遠お方ち此こ方ちを、感慨に打たれながら見廻った。 そこへ、 ﹁![※(「螢」の「虫」に代えて「水」、第3水準1-87-2)](../../../gaiji/1-87/1-87-02.png)
![※(「王+干」、第3水準1-87-83)](../../../gaiji/1-87/1-87-83.png)
二
いや、そればかりではない。
死美人の屍かばねには、もっと麗わしい物が添っていた。それは襟頸にかけて抱いている紫しき金んら襴んの嚢ふくろだった。
蝋ろうより真白い指が、しっかとそれを抱いている。――死んでも離すまいとする死者の一念が見えた。
孫堅は、そばへ寄って、近々と死体をながめていたが、
﹁なんだろう。はて、この嚢を取りあげてみろ﹂
郎党に命じて身を退いた。
彼の従者は、すぐ死美人の頸からそれをはずし取って、孫堅の手へ捧げた。
﹁おい、炬たい火まつを出せ﹂
﹁はっ﹂
従者は、彼の左右から、炬火をかざした。
﹁……?﹂
孫堅の眼は、なにか、非常な驚きに輝きだしていた。紫金襴の嚢には、金糸銀糸で瑞ずい鳳ほう彩さい雲うんの刺ぬ繍いがしてあった。打うち紐ひもを解いてみると、中から朱い匣はこがあらわれた。その朱さといったらない。おそらく珊さん瑚ごし朱ゅか堆つい朱しゅの類であろう。
可愛らしい黄金の錠がついている。鍵は見当らない。孫堅は、歯で咬かんでそれをねじ切った。
中から出てきたのは、一顆かの印章であった。とろけるような名石で方円四寸ばかり、石の上部には五龍を彫り、下部の角かどのすこし欠けた箇所には、黄金の繕つくろいがほどこしてある。
﹁おい、程てい普ふを呼んで来い。――大急ぎで、ひそかに﹂
孫堅は、あわてて云った。
そしてなおも、
﹁はてな? ……これは尋常の印いん顆かではないが﹂
と、掌中の名石を、恍こう惚こつとして凝視していた。
程普が来た。
息をきって、使いの者と共に、ここへ近づいて来るなり、
﹁なんぞ御用ですか﹂と、訊ねた。
孫堅は、印顆を示して、
﹁程普。これをなんだと思う?﹂と、鑑識させた。
程普は、学識のある者だった。手に取って、一見するなり驚倒せんばかり驚いた。
﹁太守。あなたはこれを一体、どうなされたのですか﹂
﹁いや、いまここを通りかかると井戸のうちから怪しい光を放つので、調べさせてみたところ、この美人の死体が揚ってきた。それはこの死美人が頸にかけていた錦の嚢から出てきた物だ﹂
﹁ああもったいない……﹂と程普は自分の掌に礼拝して、
﹁――これは伝でん国こくの玉ぎょ璽くじです。まぎれもなく、朝廷の玉璽でございます﹂
﹁えっ、玉璽だと﹂
﹁ごらんなさい。篤とくと――﹂
程普は、炬火のそばへ、玉璽を持って行って、それに彫ってある篆てん字じの印文を読んで聞かせた。
「むむ」
「これはむかし
「ウーム……。なるほど」
「二十八年始皇帝が
三
玉璽を掌てにしたまま孫堅は、茫然と、程普の物語る由来に聞き恍ほれていた。 そしてひそかに、思うらく、 ︵どうして、こんな名宝が、おれの掌に授かったのだろうか?︶ なにか恐ろしい気持さえした。 程普は、語りつづけて。 ﹁――今、思い合せれば、先年、十常じょ侍うじらの乱をかもした折、幼帝には北ほく![※(「氓のへん+おおざと」、第3水準1-92-61)](../../../gaiji/1-92/1-92-61.png)
四
﹁や、剣に手をかけたな。――汝、この孫堅を斬ろうという気か﹂ 孫堅がいえば、 ﹁おうっ﹂と、袁紹もいきり立って、 ﹁貴様の如き黄こう口こう児じになんでこの袁紹が欺あざむかれようぞ。いかに嘘を構えても、謀叛心はもはや歴然だ。成敗して陣門にさらしてくれる﹂ ﹁なにをっ﹂ 孫堅は、いうより早く剣を抜いた。袁紹も、大剣を払い、双方床を蹴って躍らんとした。 ﹁すわや!﹂と、満堂は殺気にみちた。 袁紹が後ろには、顔良、文ぶん醜しゅうなどの荒武者どもが控えている。――また、孫堅がうしろには程普、黄蓋、韓当などの輩が、 ﹁主人の大事﹂と、ばかり各![※(二の字点、1-2-22)](../../../gaiji/1-02/1-02-22.png)
![※(二の字点、1-2-22)](../../../gaiji/1-02/1-02-22.png)
![※(「螢」の「虫」に代えて「水」、第3水準1-87-2)](../../../gaiji/1-87/1-87-02.png)
五
破壊は一挙にそれをなしても、文化の建設は一朝にしては成らない。 また。 破壊までの目標へは、狼ろう煙えん一つで、結束もし、勇ゆう往おう邁まい進しんもするが、さて次の建設の段階にすすむと、必ずや人心の分裂が起る。 初めの同志は、同志ではなくなってくる。個々の個性へ返る。意見の衝突やら紛ふん乱らんが始まる。熱意の冷却が分解作用を呼ぶ。そして第二の段階へ、事態は目に見えぬまに推移してゆくのである。 曹操、袁紹らの挙兵も、今やそこへ逢ほう着ちゃくして来たのであった。 当初の理想もいま何処へ。 まず、その狼煙を最初に揚げて、十八ヵ国の諸侯を糾きゅ合うごうした曹操自身からまっ先に、袁紹の優ゆう柔じゅ不うふ断だんに腹を立てて、︵おれは俺でやろう︶と決意したものの如く、大勢には勝利を占めながら、残り少なきわずかな手勢と、鬱うつ勃ぼつたる不平と、惨心とを抱いて、いちはやく揚州の地へ去ってしまった。 また。 廃墟となった禁門の井戸から、計らずも玉璽を拾った孫堅は孫堅で、珠たまを抱いだくと、たちまち心変りして、袁紹と烈しい喧嘩別れをして、即日、これも本国へさして急いでしまったが、途上、荊けい州しゅうの劉りゅ表うひょうに遮さえぎられて、その軍隊はさんざんな傷手をうけ、身をもって黄河を遁れ渡った時は――その一舟中に生き残っていた者、わずかに、程普と黄蓋などの旗本六、七人に過ぎなかったという――後日の沙汰であった。 そんな折も折。 東郡の喬きょ瑁うぼうと、刺史劉りゅ岱うたいとが、またぞろ洛陽の陣中、兵糧米の借り貸しか何かのつまらないことから喧嘩を起し、劉岱はふいに夜中、相手の陣営へ斬りこんで、喬瑁を斬り殺してしまった――などという事件が起ったりした。 諸侯の間でさえそんな状態であったから、以下の将校や卒伍の乱脈は推して知るべきであった。 掠奪はやまない。酒は盗む。喧嘩はいつも女や賭博のことから始まった。――軍律はあれど威令が添わないのである。洛陽の飢民は、夜ごと悲しげに、廃墟の星空を仰いで、 ︵こんなことなら、まだ前の董とう相しょ国うこくの暴政のほうがましだった︶と、呟つぶやき合った。 夜となれば人通りもなく、たまたま闇に聞えるのは、人肉を喰って野生に返った野良犬のさけびか、女の悲鳴ばかりだった。 ﹁太守、お呼びですか﹂ 劉りゅ備うび玄げん徳とくは、一夜ひそかに、公こう孫そん![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
白はく馬ばし将ょう軍ぐん
一
さて、その後。 ――焦土の洛らく陽ように止まるも是非なしと、諸侯の兵も、ぞくぞく本国へ帰った。 袁えん紹しょうも、兵馬をまとめて一時、河かだ内いぐ郡ん︵河かな南んし省ょう・懐かい慶けい︶へ移ったが、大兵を擁していることとて、立ちどころに、兵糧に窮してしまった。 ﹁兵の給食も、極力、節約を計っていますが、このぶんでゆくと、今に乱暴を始め出して、民家へ掠奪に奔はしるかもしれません。さすれば将軍の兵馬は、たちまち土ど匪ひと変じます。昨日の義軍の総帥もまた、土匪の頭目と人民から見られてしまうでしょう﹂ 兵糧方の部将は、それを憂いて幾たびも、袁紹へ、対策を促した。 袁紹も、今は、見栄を張っていられなくなったので、 ﹁では、冀きし州ゅう︵河かほ北くし省ょう・中南部︶の太守韓かん馥ふくに、事情を告げて、兵糧の資もとを借りにやろう﹂ と、書状を書きかけた。 すると、逢ほう紀きという侍大将のひとりが、そっと、進言した。 ﹁大たい鵬ほうは天地に縦横すべしです。なんで区々たる窮策を告げて、人の資たすけなどおたのみになるのでござるか﹂ ﹁逢紀か。いや、ほかに策があれば、なにも韓馥などに借米はしたくないが、なにか汝に名案があるのか﹂ ﹁ありますとも。冀州は富ふじ饒ょうの地で、粮ろう米まいといわず金銀五穀の豊富な地です。よろしく、この国土を奪取して、将来の地盤となさるべきではありますまいか﹂ ﹁それはもとより望むところだが、どういう計をもってこれを奪とるか﹂ ﹁ひそかに北ほく平へい︵河北省・満城附近︶の太守公こう孫そん![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
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二
耿こう武ぶは、身を挺して、袁えん紹しょうを途上に刺し殺し、そして君国の危きた殆いを救う覚悟だった。 すでに袁紹の列は目の前にさしかかった。 耿武は、剣を躍らせて、 ﹁汝、この国に入るなかれ﹂ と、さけんで、やにわに、袁紹の馬前へ近づきかけた。 ﹁狼ろう藉ぜき者ものっ﹂ 侍臣たちは、立騒いで防ぎ止めた。大将顔がん良りょうは、耿武のうしろへ廻って、 ﹁無礼者っ﹂と、一喝して斬りさげた。 耿武は、天を睨んで、 ﹁無念﹂と云いざま、剣を、袁紹のすがたへ向って投げた。 剣は、袁紹を貫かずに、彼かな方たの楊柳の幹へ突刺さった。 袁紹は、無事に冀州へ入った。太守韓かん馥ふく以下、群臣万兵、城頭に旌せい旗きを掲げて、彼を国の大賓として出迎えた。 袁紹は、城府に居すわると、 ﹁まず、政まつりを正すことが、国の強大を計る一歩である﹂ と、太守韓馥を、奮ふん武ぶ将軍に封じて、態ていよく、自身が藩政を執り、もっぱら人気取りの政治を布いて、田でん豊ほう、沮そじ授ゅ、逢ほう紀きなどという自己の腹心を、それぞれ重要な地位へつかせたので、韓馥の存在というものはまったく薄らいでしまった。 韓馥は、臍ほぞを噛んで、 ﹁ああ、われ過てり。――今にして初めて、耿武の忠ちゅ諫うかんが思いあたる﹂ と、悔いたが、時すでに遅しであった。彼は日夜、懊おう悩のう煩はん悶もんしたあげく、終に陳ちん留りゅうへ奔はしって、そこの太守張ちょ![※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)](../../../gaiji/1-92/1-92-58.png)
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三
文ぶん醜しゅうは、袁紹の旗き下かで豪勇第一といわれている男である。 身みの丈たけ七尺をこえ、面おもては蟹かにのごとく赤黒かった。 大将袁紹の命に、 ﹁おうっ﹂ と、答えながら、橋上へ馬を飛ばして来るなり、公こう孫そん![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
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四
﹁やあ、なかなか偉観だな﹂ 対岸にある袁紹は、河ごしに、小手をかざして、敵陣をながめながら云った。 ﹁顔がん良りょう、文ぶん醜しゅう﹂ ﹁はっ﹂ ﹁ふたりは、左右ふた手にわかれて、両翼の備えをなせ。また、屈強の射手千余騎に、麹きく義ぎを大将として、射陣を布け﹂ ﹁心得ました﹂ 命じておいて、袁紹は旗下一千余騎、弩どき弓ゅう手しゅ五百、槍そう戟げきの歩兵八百余に、幡はん、旒りゅ旗うき、大たい旆はいなどまんまるになって中軍を固めた。 大河をはさんで、戦機はようやく熟して来る。東岸の公孫![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
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五
深入りした味方が、趙子龍のために粉砕されたとはまだ知らない――袁えん紹しょうであった。 盤河橋をこえて、陣を進め、旗下三百余騎に射手百人を左右に備え立て、大将田でん豊ほうと駒をならべて、 ﹁どうだ田豊。――公孫![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
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六
闘い終って。 公孫![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
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溯そこ江う
一
遷せん都と以後、日を経ふるに従って、長安の都は、おいおいに王城街の繁華を呈し、秩序も大いにあらたまって来た。 董とう卓たくの豪勢なることは、ここへ遷うつってからも、相変らずだった。 彼は、天子を擁して、天子の後見をもって任じ、位くらいは諸大臣の上にあった。自ら太だい政じょ相うし国ょうこくと称し、宮門の出入には、金花の車しゃ蓋がいに万珠の簾れんを垂れこめ、轣れき音おん揺よう々ようと、行装の綺き羅らと勢威を内外に誇り示した。 ある日。 彼の秘書官たる李りじ儒ゅが、彼に告げた。 ﹁相国﹂ ﹁なんじゃ﹂ ﹁先頃から、袁えん紹しょうと公こう孫そん![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
![※(「石+單」、第4水準2-82-58)](../../../gaiji/2-82/2-82-58.png)
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二
玄徳もかねてから、趙子龍の人物には、傾倒していたので、彼に今、別離の情を訴えられると、 ﹁せっかく陣中でよい友を得たと思ったのに、たちまち、平原へ帰ることになり、なにやら自分もお別れしとうない心地がする﹂と、いった。 子龍は、沈んだ顔をして、 ﹁実は、それがしは、ご存じの如く、袁えん紹しょうの旗き下かにいた者ですが、袁紹が洛陽以来の仕方を見るに、不徳な行為が多いので、ひるがえって、公こう孫そん![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
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![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
三
ここは揚子江支流の流域で、城下の市街は、海のような太たい湖こに臨んでいた。孫堅のいる長ちょ沙うさ城じょう︵湖こな南んし省ょう︶はその水利に恵まれて、文化も兵備も活発だった。 程てい普ふは、その日旅先から帰ってきた。 ふと見ると、大たい江こうの岸にはおよそ四、五百艘の軍船が並んでおびただしい食糧や武器や馬匹などをつみこんでいるのでびっくりした。 ﹁いったい、どこにそんな大戦が起るというのか﹂ 従者をして、船手方の者にただしてみると、よく分らないが、孫堅将軍の命令が下り次第に、荊州︵揚子江沿岸︶の方面の戦争にゆくらしいとのことだった。 ﹁はてな﹂ 程てい普ふはにわかに、私邸へ帰るのを見合わせて、途中から登城した。そして同僚の幕将たちにわけを聞いていよいよ驚いた。 彼はさっそく太守の孫堅に謁えっして、その無謀を諫めた。 ﹁承れば、袁えん術じゅつと諜しめし合わせて、劉表、袁紹を討とうとの軍備だそうですが、一片の密書を信じて、彼と運命を共にするのは、危ない限りではありますまいか﹂ 孫堅は笑って、 ﹁いや程普、それくらいなことは、自分も心得ておるよ。袁術はもとより詐いつわり多き小人だ。――しかし、予は彼の力をたのんで兵を興すのではない。自分の力をもってするのだ﹂ ﹁けれど、兵を挙げるには、正しい名分がなければなりません﹂ ﹁袁紹は先に、洛陽において、わしをあのように恥かしめたではないか。また、劉表はそのさしずをうけて、予の軍隊を途中で阻はばみ、さんざんにこの孫堅を苦しめた。今、その恥と怨みとをそそぐのだ﹂ 程普も、それ以上、諫かん言げんのことばもなく、自らまたすすんで軍備を督励した。 吉日をえらんで、五百余艘の兵船は、大江を発するばかりとなった。――早くもこの沙汰が、荊州の劉表へ聞えたので、劉表は、 ﹁すわこそ﹂と、軍議を開いて、その対策を諸将にたずねた。 時に、![※(「萠+りっとう」、第3水準1-91-14)](../../../gaiji/1-91/1-91-14.png)
四
﹁舎おと弟うとか、――やあ大勢で揃って来たな。明日は出陣だ。みんなして門出を祝いに来たか﹂ 孫堅は、上機嫌だった。 弟の孫静は、 ﹁いや兄上﹂と改まって、 ﹁あなたのお子たちをつれて、こう皆して参ったわけは、ご出戦をお諫いさめにきたので、お祝いをのべに来たのではありません﹂ ﹁なに。諫めに?﹂ ﹁はい。もし大事なお身に、間違いでもあったら、この大勢の公きん達だちや姫たちは、どうなされますか。このお子たちの母たる呉夫人も、呉姫も、兪ゆび美じ人んも、どうか思い止まって下さるようと、私を通じてのおすがりです﹂ ﹁ばかをいえ、この期ごになって――﹂ ﹁でも、敗れて後、戟ほこをおさめるよりはましでしょう﹂ ﹁不吉なことを申すな﹂ ﹁すみません、しかし兄上、これが、天下の乱にのぞんで億民の救生に起つという戦なら、私はお止めいたしません。たとえ三夫人の七人のお子がいかにお嘆きになろうとも、孫静が先に立ってご出陣を慶します。――けれどこんどの軍いくさは、私怨です。自我の小慾と小義です。その為、兵を傷つけ、百姓を苦しめるようなお催しは、絶対にお見合せになったほうがよいと考えられますが﹂ ﹁だまれ、おまえや女子供の知ったことじゃない﹂ ﹁いや、そう仰っしゃっても﹂ ﹁黙らぬかっ。――汝は今、名分のない戦といったが、誰か、孫堅の大腹中を知らんや。おれにも、救きゅ世うせ治いち民みんの大望はある。見よ、今に天下を縦横して、孫家の名を重からしめてみせるから﹂ ﹁ああ﹂ 孫静は、ついに黙ってしまった。 すると、呉夫人の子の長男孫策は、ことし紅顔十七歳の美少年だったが、つかつかと前へ進んで、 ﹁お父上が出陣なさるなら、ぜひ私も連れて行ってください。七人の兄弟のうちでは、私が年上ですから﹂と、いった。 にがりきっていた孫堅は、長男の健けな気げなことばに、救われたように機嫌を直した。 ﹁よくいった。幼少からそちは兄弟中でも、英気すぐれ、物の役にも立つ子と、わしも見込んでいただけのものはあった。明日、わしの立つまでに、身仕度をしておるがよい﹂ 孫堅は、さらに、大勢の子と、弟とを見まわして、 ﹁次男の孫権は、叔父御の孫静と心をあわせて、よく留守を護っておれよ﹂と、云い渡した。 次男の孫権は、 ﹁はい﹂と、明瞭に答えて、父の面に、じっと訣けつ別べつを告げていた。 孫策の母の呉夫人は、叔父と共に諫めに行った長男が、かえって父について戦に征ゆくと聞いて、 ﹁とんでもない。あの子を呼んでおくれ﹂ と、侍女を迎えにやったが、それがまだ夜も明けない頃だったのに、長男の孫策は、もう城中にいなかった。 孫策は、もし母が聞いたら、必ず止めるであろうと、あらかじめ察していたし、また、彼は鷹の子の如く俊敏な気早な若武者でもあったから、父の出陣の時刻も待たず、 ﹁われこそ一番に﹂と、まだ暗いうちに大江の畔ほとりへ出て、早くも軍船の一艘に乗込み、真っ先に船をとばして、敵の![※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)](../../../gaiji/1-92/1-92-80.png)
![※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)](../../../gaiji/1-92/1-92-80.png)
五
黎れい明めいと共に、出陣の鼓こは鳴った。長沙の大兵は、城門から江岸へあふれ、軍船五百余艘、舳じく艫ろをそろえて揚子江へ出た。 孫堅は、長男の孫策が、すでに夜の明けないうち、十艘ばかり兵船を率いて、先駆けしたと聞いて、﹁頼もしいやつ﹂と、口には大いにその健気さを賞したが、心には初陣の愛児の身に万一の不慮を案じて、 ﹁孫策を討たすな﹂と、急ぎに急いで、敵の![※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)](../../../gaiji/1-92/1-92-80.png)
六
船手の水軍は、すべて曠野へ上がって、雲の如き陸兵となった。![※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)](../../../gaiji/1-92/1-92-80.png)
![※(「灰/皿」、第3水準1-88-74)](../../../gaiji/1-88/1-88-74.png)
![※(「灰/皿」、第3水準1-88-74)](../../../gaiji/1-88/1-88-74.png)
![※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)](../../../gaiji/1-92/1-92-80.png)
![※(「萠+りっとう」、第3水準1-91-14)](../../../gaiji/1-91/1-91-14.png)
![※(「山+見」、第3水準1-47-77)](../../../gaiji/1-47/1-47-77.png)
![※(「山+見」、第3水準1-47-77)](../../../gaiji/1-47/1-47-77.png)
七
大兵を損じたばかりか、おめおめ逃げ帰って来た蔡瑁を見ると、初めに、劉表の前で、卑怯者のようにいい負かされた![※(「萠+りっとう」、第3水準1-91-14)](../../../gaiji/1-91/1-91-14.png)
![※(「萠+りっとう」、第3水準1-91-14)](../../../gaiji/1-91/1-91-14.png)
![※(「萠+りっとう」、第3水準1-91-14)](../../../gaiji/1-91/1-91-14.png)
![※(「萠+りっとう」、第3水準1-91-14)](../../../gaiji/1-91/1-91-14.png)
石
一
旋つむ風じかぜのあった翌日である。 襄陽城の内で、![※(「萠+りっとう」、第3水準1-91-14)](../../../gaiji/1-91/1-91-14.png)
![※(「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1-87-61)](../../../gaiji/1-87/1-87-61.png)
![※(「萠+りっとう」、第3水準1-91-14)](../../../gaiji/1-91/1-91-14.png)
![※(「山+見」、第3水準1-47-77)](../../../gaiji/1-47/1-47-77.png)
二
中に、孫堅の声がした。 ﹁敵は、山上に逃げたにちがいない。――なんの、これしきの断崖、馬もろとも、乗り上げろっ﹂ 猛将の下、弱卒はない。 孫堅が、馬を向けると後から後から駈けつづいて来た部下も、どっと、![※(「山+見」、第3水準1-47-77)](../../../gaiji/1-47/1-47-77.png)
![※(「萠+りっとう」、第3水準1-91-14)](../../../gaiji/1-91/1-91-14.png)
![※(「萠+りっとう」、第3水準1-91-14)](../../../gaiji/1-91/1-91-14.png)
三
両軍の戦うおめき声は、暁になって、ようやくやんだ。 何分この夜の激戦は、双方ともなんの作戦も統御もなく、一波が万波をよび、混乱が混乱を招いて、闇夜に入り乱れての乱軍だったので、夜が明けてみると、相互の死傷は驚くべき数にのぼっていた。 劉りゅ表うひょうの軍勢は、城内にひきあげ、呉軍は漢水方面にひき退しりぞいた。 孫堅の長男孫策は漢水に兵をまとめてから、初めて、父の死を確かめた。 ゆうべから父の姿が見えないので、案じぬいてはいたがそれでもまだ、どこからか、ひょっこり現れて、陣地へ帰って来るような気がしてならなかったが、今はその空しいことを知って声をあげて号泣した。 ﹁この上は、せめて父の屍かばねなりとも求めて厚く弔とむらおう﹂と、その遭難の場所、![※(「山+見」、第3水準1-47-77)](../../../gaiji/1-47/1-47-77.png)
![※(「萠+りっとう」、第3水準1-91-14)](../../../gaiji/1-91/1-91-14.png)
![※(「萠+りっとう」、第3水準1-91-14)](../../../gaiji/1-91/1-91-14.png)
![※(「萠+りっとう」、第3水準1-91-14)](../../../gaiji/1-91/1-91-14.png)
牡ぼた丹んて亭い
一
﹁呉の孫堅が討たれた﹂ 耳から耳へ。 やがて長安︵陝せん西せい省・西安︶の都へその報は旋風のように聞えてきた。 董とう卓たくは、手を打って、 ﹁わが病の一つは、これで除かれたというものだ。彼の嫡ちゃ男くなん孫策はまだ幼年だし……﹂ と、独りよろこぶこと限りなかったとある。 その頃、彼の奢おごりは、いよいよ募つのって、絶頂にまで昇ったかの観がある。 位くらいは人臣をきわめてなおあきたらず、太だい政じょ太うた師いしと称していたが、近頃は自ら尚しょ父うふとも号していた。 天子の儀ぎじ仗ょうさえ、尚父の出入の耀かがやかしさには、見みお劣とりがされた。 弟の董とう旻びんに、御林軍の兵権を統すべさせ、兄の子の董とう![※(「王+(廣ー广)」、第3水準1-88-26)](../../../gaiji/1-88/1-88-26.png)
![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
二
﹁おい。ちょっと起て﹂ 呂布の腕が伸びた。 酒宴の上席のほうにいた司しく空う張ちょ温ううんの髻もとどりを、いきなりひッ掴んだのである。 ﹁あッ、な、なにを﹂ 張温の席が鳴った。 満座、色いろ醒さめて、どうなることかと見ているまに、 ﹁やかましい﹂ 呂布は、その怪力で、鳩でも掴むように、無造作に、彼の身を堂の外へ持って行ってしまった。 しばらくすると、一人の料理人が、大きな盤に、異様な料理を捧げて来て、真ん中の卓においた。 見ると、盤に盛ってある物は、たった今、呂布に掴み出されて行った張温の首だったので、朝廷の諸臣は、みなふるえあがってしまった。 董とう卓たくは、笑いながら、 ﹁呂布は、いかがした﹂と呼んだ。 呂布は、悠々、後から姿をあらわして、彼の側に侍じり立つした。 ﹁御用は﹂ ﹁いや、そちの料理が、少し新鮮すぎたので、諸卿みな杯を休めてしまった。安心して飲めとお前からいってやれ﹂ 呂布は満座の蒼白い顔に向って、傲ごう然ぜんと、演説した。 ﹁諸公。もう今日の余興はすみました。杯をお挙げなさい。おそらく張温のほかに、それがしの料理をわずらわすようなお方はこの中にはおらんでしょう。――おらない筈と信じる﹂ 彼が、結ぶと、董卓もまた、その肥満した体躯を、ゆらりと上げて云った。 ﹁張温を誅ちゅうしたのは、ゆえなきことではない。彼は、予に叛いて、南陽の袁術と、ひそかに通謀したからだ。天罰といおうか、袁術の使いが密書を持って、過って呂布の家へそれを届けてきたのじゃ。――で彼の三族も、今し方、残らず刑に処し終った。汝ら朝臣も、このよい実例を、しかと見ておくがよい﹂ 宴は、早めに終った。 さすが長夜の宴もなお足らないとする百官も、この日は皆、匆そう々そうに立ち戻り、一人として、酔った顔も見えなかった。 中でも司徒王おう允いんは、わが家へ帰る車のうちでも、董卓の悪行や、朝ちょ廟うびょうの紊みだれを、つくづく思い沁しめて、 ﹁ああ。……ああ﹂ 歎息ばかり洩らしていた。 館やかたに帰っても、憤念のつかえと、不快な懊おう悩のうは去らなかった。 折ふし、宵月が出たので、彼は気をあらためようと、杖をひいて、後園を歩いてみたが、なお、胸のつかえがとれないので、茶やま![※(「くさかんむり/靡」の「非」に代えて「緋ー糸」、第4水準2-87-21)](../../../gaiji/2-87/2-87-21.png)
三
楽女とは、高官の邸に飼われて、賓客のあるごとに、宴にはべって歌かぶ舞すい吹だ弾んする賤せん女じょをいう。 けれど、王おう允いんと、貂ちょ蝉うせんとは、その愛情においては、主従というよりも、養父と養女というよりも、なお、濃いものであった。 ﹁貂蝉、風邪をひくといけないぞよ。……さ、おだまり、涙をお拭き。おまえも妙とし齢ごろとなったから、月を見ても花を見ても、泣きたくなるものとみえる。おまえくらいな妙齢は、羨ましいものだなあ﹂ ﹁……なにを仰っしゃいます。そんな浮いた心で、貂蝉は悲しんでいるのではございません﹂ ﹁では、なんで泣いていたのか﹂ ﹁大たい人じんがお可哀そうでならないから……つい泣いてしまったのです﹂ ﹁わしが可哀そうで……?﹂ ﹁ほんとに、お可哀そうだと思います﹂ ﹁おまえに……おまえのような女子にも、それが分るか﹂ ﹁分らないでどうしましょう……。そのおやつれよう。お髪ぐしも……めっきり白くなって﹂ ﹁むむう﹂ 王允も、ほろりと、涙をながした。――泣くのをなだめていた彼のほうが、滂ぼう沱だとして、止まらない涙に当惑した。 ﹁なにをいう。そ……そんなことはないよ。おまえの取りこし苦労じゃよ﹂ ﹁いいえ、おかくしなさいますな。嬰あか児ごの時から、大人のお家に養われてきた私です。この頃の朝夕のご様子、いつも笑ったことのないお顔……。そして時折、ふかい嘆息を遊ばします。……もし﹂ 貂ちょ蝉うせんは、彼の老いたる手に、瞼まぶたを押しあてて云った。 ﹁賤しい楽女のわたくし、お疑い遊ばすのも当り前でございますが、どうか、お胸の悩みを、打明けて下さいまし。……いいえ、それでは、逆さかしまでした。大人のお胸を訊く前に、わたくしの本心から申さねばなりません。――私は常々、大人のご恩を忘れたことはないのです。十八の年まで、実まことの親も及ばないほど愛して下さいました。歌かす吹い音楽のほか、人なみの学問から女の諸芸、学び得ないことはなに一つありませんでした。――みんな、あなた様のお情けにちりばめられた身の宝です。……これを、このご恩を、どうしてお酬むくいしたらよいか、貂蝉は、この唇くちや涙だけでは、それを申すにも足りません﹂ ﹁…………﹂ ﹁大人。……仰っしゃって下さいませ。おそらく、あなたのお胸は、国家の大事を悩んでいらっしゃるのでございましょう。今の長安の有様を、憂い患わずらっておいでなのでございましょう﹂ ﹁貂ちょ蝉うせん﹂ 急に涙を払って、王允は思わず、痛いほど彼女の手をにぎりしめた。 ﹁うれしい! 貂蝉、よく云ってくれた。……それだけでも、王允はうれしい﹂ ﹁私のこんな言葉だけで、大人の深いお悩みは、どうしてとれましょう。――というて、男の身ならぬ貂蝉では、なんのお役にも立ちますまいし……。もし私が男であるならば、あなた様のために、生命を捨ててお酬むくいすることもできましょうに﹂ ﹁いや、できる!﹂ 王允は、思わず、満身の声でいってしまった。 杖をもって、大地を打ち、 ﹁――ああ、知らなんだ。誰かまた知ろう。花園のうちに、回天の名珠をちりばめた誅ちゅ悪うあくの利剣がひそんでいようとは﹂ こういうと、王允は、彼女の手を取らんばかりに誘って、画閣の一室へ伴い、堂中に坐らせてその姿へ頓とん首しゅ再さい拝はいした。 貂蝉は、驚いて、 ﹁大人。何をなさいますか、もったいない﹂ あわてて降くだろうとすると、王允は、その裳もすそを抑えて云った。 ﹁貂蝉。おまえに礼をほどこしたのではない。漢の天下を救ってくれる天てん人じんを拝したのだ。……貂蝉よ、世のために、おまえは生命をすててくれるか﹂四
貂蝉は、さわぐ色もなく、すぐ答えた。 ﹁はい。大人のおたのみなら、いつでもこの生命は捧げます﹂ 王允は、座を正して、 ﹁では、おまえの真心を見込んで頼みたいことがあるが﹂ ﹁なんですか﹂ ﹁董とう卓たくを殺さねばならん﹂ ﹁…………﹂ ﹁彼を除かなければ、漢室の天子はあってもないのと同じだ﹂ ﹁…………﹂ ﹁百姓万民の塗とた炭んの苦しみも永えい劫ごうに救われはしない……貂蝉﹂ ﹁はい﹂ ﹁おまえも薄々は、今の朝廷の累るい卵らんの危うさや、諸民の怨えん嗟さは、聞いてもいるだろう﹂ ﹁ええ﹂ 貂ちょ蝉うせんは、目まば瞬たきもせず、彼の吐きだす熱い言々を聞き入っていた。 ﹁――が、董卓を殺そうとして、効を奏した者は、きょうまで一人としてない。かえって皆、彼のために殺し尽されているのだ﹂ ﹁…………﹂ ﹁要心ぶかい。十と重え二は十た重えの警固がゆき届いている。また、あらゆる密偵が網の目のように光っている。しかも、智謀無類の李りじ儒ゅが側にいるし、武勇無双の呂りょ布ふが守っている﹂ ﹁…………﹂ ﹁それを殺さんには……。天下の精兵を以てしても足らない。……貂蝉。ただ、おまえのその腕かいなのみがなし得る﹂ ﹁……どうして、私に?﹂ ﹁まず、おまえの身を、呂布に与えると欺あざむいて、わざと、董卓のほうへおまえを贈る﹂ ﹁…………﹂ さすがに、貂蝉の顔は、そう聞くと、梨の花みたいに蒼あお白じろく冴えた。 ﹁わしの見るところでは、呂布も董卓も、共に色に溺れ酒に耽ふける荒こう淫いんの性たちだ。――おまえを見て心を動かさないはずはない。呂布の上に董卓あり、董卓の側に呂布のついているうちは、到底、彼らを亡ぼすことは難むずかしい。まずそうして、二人を割さき、二人を争わせることが、彼らを滅亡へひき入れる第一の策だが……貂蝉、おまえはその体を犠いけ牲にえにささげてくれるか﹂ 貂蝉は、ちょっと、うつ向いた。珠のような涙が床ゆかに落ちた。――が、やがて面を上げると、 ﹁いたします﹂ きっぱりいった。 そしてまた、﹁もし、仕損じたら、わたしは、笑って白刃の中に死にます。世々ふたたび人間の身をうけては生れてきません﹂と、覚悟のほどを示した。 数日の後。 王おう允いんは、秘蔵の黄おう金ごん冠かんを、七しっ宝ぽうをもって飾らせ、音いん物もつとして、使者に持たせ、呂布の私邸へ贈り届けた。 呂布は、驚喜した。 ﹁あの家には、古来から名剣宝珠が多く伝わっているとは聞いたが、洛陽から遷せん都として来た後も、まだこんな佳品があったのか﹂ 彼は、武勇絶ぜつ倫りんだが、単純な男である。歓びの余り、例の赤せき兎と馬ばに乗って、さっそく王允の家へやってきた。 王允は、あらかじめ、彼が必ず答礼に来ることを察していたので、歓待の準備に手ぬかりはなかった。 ﹁おう、これは珍客、ようこそお出でくだされた﹂と、自身、中門まで出迎えて、下へも置かぬもてなしを示し、堂上に請しょうじて、呂布を敬うやまい拝した。傾けい国こく
一
王おう允いんは、一家を挙げて、彼のためにもてなした。 善美の饗きょ膳うぜんを前に、呂布は、手に玉杯をあげながら主人へ云った。 ﹁自分は、董とう太たい師しに仕える一将にすぎない。あなたは朝廷の大臣で、しかも名望ある家の主人だ。一体、なんでこんなに鄭てい重ちょうになさるのか﹂ ﹁これは異なお訊たずねじゃ﹂ 王允は、酒をすすめながら、 ﹁将軍を饗するのは、その官爵を敬うのではありません。わしは日頃からひそかに、将軍の才徳と、武勇を尊敬しておるので、その人間を愛するからです﹂ ﹁いや、これはどうも﹂と、呂布は、機嫌のよい顔に、そろそろ微びこ紅うを呈して、﹁自分のようながさつ者を、大官が、そんなに愛していて下さろうとは思わなかった。身の面目というものだ﹂ ﹁いやいや、計らずも、お訪ねを給わって、名馬赤兎を、わが邸の門につないだだけでも、王允一家の面目というものです﹂ ﹁大官、それほどまでに、この呂布を愛し給うなら、他日、天子に奏して、それがしをもっと高い職と官位にすすめて下さい﹂ ﹁仰せまでもありません。が、この王允は、董太師を徳とし、董太師の徳は生涯忘れまいと、常に誓っておる者です。将軍もどうか、いよいよ太師のため、自じち重ょうして下さい﹂ ﹁いうまでもない﹂ ﹁そのうちに、おのずから栄爵に見舞われる日もありましょう。――これ、将軍へ、お杯をおすすめしないか﹂ 彼は、ことばをかえて、室内に連れん環かんして立っている給仕の侍女たちへ、いった。 そして、その中の一名を、眼で招いて、 ﹁めったにお越しのない将軍のお訪ね下すったことだ。貂ちょ蝉うせんにもこれへ来て、ちょっと、ごあいさつをするがよいといえ﹂ と、小声でいいつけた。 ﹁はい﹂ 侍女は、退がって行った。間もなく、室の外に、楚そ々そたる気はいがして、侍立の女子が、帳とばりをあげた。客の呂布は、杯をおいて、誰がはいって来るかと、眸を向けていた。![※(「Y」に似た字、第4水準2-1-6)](../../../gaiji/2-01/2-01-06.png)
二
﹁貂蝉。――お待ち﹂ 王允は、彼女を呼びとめて、客の呂布と等分に眺めながら云った。 ﹁こちらにいらっしゃる呂将軍は、わしが日頃、敬愛するお方だし、わが一家の恩人でもある。――おゆるしをうけて、そのままお側におるがよい。充分に、おもてなしをなさい﹂ ﹁……はい﹂ 貂蝉は、素直に、客のそばに侍した。――けれど、うつ向いてばかりいて、何もいわなかった。 呂布は、初めて、口を開いて、 ﹁ご主人。この麗人は、当家のご息女ですか﹂ ﹁そうです。女むすめの貂蝉というものです﹂ ﹁知らなかった。大官のお女むすめに、こんな美しいお方があろうとは﹂ ﹁まだ、まったく世間を知りませんし、また、家の客へも、めったに出たこともありませんから﹂ ﹁そんな深しん窓そうのお女むすめを、きょうは呂布のために﹂ ﹁一家の者が、こんなにまで、あなたのご来訪を、歓んでいるということを、お酌み下されば倖せです﹂ ﹁いや、ご歓待は、充分にうけた。もう、酒もそうは飲めない。大官、呂布は酔いましたよ﹂ ﹁まだよろしいでしょう。貂蝉、おすすめしないか﹂ 貂蝉は、ほどよく、彼に杯をすすめ、呂布もだんだん酔眼になってきた。夜も更けたので、呂布は、帰るといって立ちかけたが、なお、貂蝉の美しさを、くり返して称たたえた。 王允は、そっと、彼の肩へ寄ってささやいた。 ﹁おのぞみならば、貂蝉を将軍へさしあげてもよいが﹂ ﹁えっ。お女むすめを。……大官、それはほんとですか﹂ ﹁なんで偽りを﹂ ﹁もし、貂蝉を、この呂布へ賜うならば、呂布はお家のために、犬馬の労を誓うでしょう﹂ ﹁近い内に、吉日を選んで、将軍の室へ送ることを約します。……貂蝉も、今夜の容子では、たいへん将軍が好きになっているようですから﹂ ﹁大官。……呂布は、すっかり酩めい酊ていしました。もう、歩けない気がします﹂ ﹁いや、今夜ここへお泊めしてもよいが、董とう太師に知れて、怪しまれてはいけません。吉日を計って、必ず、貂蝉はあなたの室へ送るから、今夜はお帰りなさい﹂ ﹁間違いはないでしょうな﹂ 呂布は、恩を拝謝し、また、何度もくどいほど、念を押してようやく帰った。 王允は、後で、 ﹁……ああ、これで一方は、まずうまく行った。貂蝉、何事も天下のためと思って、眼をつぶってやってくれよ﹂と、彼女へ云った。 貂蝉は、悲しげに、しかしもう観念しきった冷たい顔を、横に振って、 ﹁そんなに、いちいち私をいたわらないで下さい。おやさしくいわれると、かえって心が弱くなって、涙もろくなりますから﹂ ﹁もういうまい。……じゃあかねて話してある通り、また近いうちに、董とう卓たくを邸へ招くから、おまえは妍けんをこらして、その日には歌舞吹弾もし、董卓の機嫌もとってくれよ﹂ ﹁ええ﹂ 貂蝉は、うなずいた。 次の日、彼は、朝ちょうに出仕して、呂布の見えない隙をうかがい、そっと董卓の閣へ行って、まずその座下に拝はい跪きした。 ﹁毎日のご政務、太師にもさぞおつかれと存じます。![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
三
聞くと、董卓は、 ﹁なに、わしを貴邸へ招いてくれるというのか。それは近頃、歓ばしいことである。卿けいは国家の元老、特にこの董卓を招かるるに、なんで芳志にそむこう﹂ と、非常な喜色で、 ﹁――ぜひ、明日行こう﹂と、諾した。 ﹁お待ちいたします﹂ 王おう允いんは、家に帰ると、この由を、ひそかに貂蝉にささやき、また家人にも、 ﹁明日は巳みの刻こくに、董太師がお越しになる。一家の名誉だし、わし一代のお客だ。必ず粗そそ相うのないように﹂と、督して、地には青砂をしき、床しょうには錦きん繍しゅうをのべ、正堂の内外には、帳とばりや幕をめぐらし、家宝の珍ちん什じゅうを出して、饗応の善美をこらしていた。 次の日。――やがて巳の刻に至ると、 ﹁大たい賓ひんのお車が見えました﹂と、家僕が内へ報じる。 王允は、朝服をまとって、すぐ門外へ出迎えた。 ――見れば、太師董とう卓たくの車は、戟ほこを持った数百名の衛兵にかこまれ、行装の絢けん爛らんは、天子の儀仗もあざむくばかりで、車しゃ簾れんを出ると、たちまち、侍臣、秘書、幕側の力りき者しゃなどに、左右前後を護られて、佩はい環かんのひびき玉ぎょ沓くとうの音、簇ぞく擁ようして門内へ入った。 ﹁ようおいでを賜わりました。きょうはわが王家の棟に、紫しう雲んの降りたような光栄を覚えまする﹂ 王允は、董太師を、高座に迎えて、最大の礼を尽した。 董卓も、全家の歓待に、大満足な容子で、 ﹁主人は、わが傍らにあがるがよい﹂と、席をゆるした。 やがて、嚠りゅ喨うりょうたる奏楽と共に、盛宴の帳とばりは開かれた。酒泉を汲みあう客たちの瑠るり璃は杯いに、薫くん々くんの夜やこ虹うは堂中の歓語笑声をつらぬいて、座上はようやく杯はい盤ばん狼ろう藉ぜきとなり、楽人楽器を擁してあらわれ、騒そう客かく杯を挙げて歌舞し、眼も綾あやに耳も聾ろうせんばかりであった。 ﹁太師、ちとこちらで、ご少憩あそばしては﹂ 王允は誘った。 ﹁ウム……﹂ と、董卓は、主にまかせて、護衛の者をみな宴に残し、ただ一人、彼について行った。 王おう允いんは、彼を、後堂に迎えて、家蔵の宝ほう樽そんを開け、夜光の杯さかずきについで、献じながら静かにささやいた。 ﹁こよいは、星の色までが、美しく見えます。これはわが家の秘蔵する長寿酒です。太師の寿を万代にと、初めて瓶へいをひらきました﹂ ﹁やあ、ありがとう﹂ 董卓は、飲んで、 ﹁こう歓待されては、何を以て司徒の好意にむくいてよいか分らんな﹂ ﹁私の願うようになれば私は満足です。――私は幼少から天文が好きで、いささか天文を学んでおりますが、毎夜、天象を見ておるのに、漢室の運気はすでに尽きて、天下は新たに起ろうとしています。太師の徳望は、今や巍ぎ々ぎたるものですから、古いにしえの舜しゅんが堯ぎょうを受けたように、禹うが舜の世を継いだように、太師がお立ちになれば、もう天下の人心は、自然、それにしたがうだろうと思います﹂ ﹁いや、いや。そんなことは、まだわしは考えておらんよ﹂ ﹁天下は一人のひとの天下ではありません。天下のひとの天下です。徳なきは徳あるに譲る。これはわが朝のしきたりです。世よ定さだまれば、誰も叛逆とはいいません﹂ ﹁ははははは。もし董卓に天運が恵まれたら、司徒、おん身も重く用いてやるぞ﹂ ﹁時節をお待ちします﹂ 王允は再拝した。 とたんに、堂中の燭はいっぺんに灯ともって、白日のようになった。そして正面の簾すだれがまかれると、教坊の楽女たちが美音をそろえて歌いだし、糸しち竹くか管んげ弦んの妙たえな音にあわせて、楽がく女じょ貂ちょ蝉うせんが、袖をひるがえして舞っていた。四
客もなく、主もなく、また天下の何者もなく、貂ちょ蝉うせんのひとみは、ただ舞うことに、澄みかがやいていた。
舞う――舞う――貂蝉は袖をひるがえして舞う。教坊の奏曲は、彼女のために、糸竹と管弦の技わざをこらし、人を酔わしめずにおかなかった。
﹁ウーム、結構だった﹂
董卓は、うめいていたが、一曲終ると、
﹁もう一曲﹂と、望んだ。
貂蝉が再び起つと、教坊の楽手は、さらに粋を競って弾じ、彼女は、舞いながら哀あい々あいと歌い出した。
一片ノ
知ラズ誰カコレ
眼を貂蝉のすがたにすえ、歌詞に耳をすましていた董卓は、彼女の歌舞が終るなり、感極まった容よう子すで、王允へ云った。
﹁主あるじ。あの女性は、いったい誰の女むすめか。どうも、ただの教坊の妓おんなでもなさそうだが﹂
﹁お気に召しましたか。当家の楽女、貂ちょ蝉うせんというものですが﹂
﹁そうか。呼べ﹂と、斜めならぬ機嫌である。
﹁貂蝉、おいで﹂
王允は、さし招いた。
貂蝉は、それへ来て、ただ羞はじ恥らっていた。董卓は、杯を与えて、
﹁幾いく歳つか﹂と、訊いた。
﹁…………﹂
答えない。
貂蝉は、小指を、唇のそばの黒ほく子ろに当てて、王允の陰に、うつ向いてしまった。
﹁ははは、恥かしいのか﹂
﹁たいへんな羞はに恥かみ性しょうです。なにしろめったに人に接しませんから﹂
﹁いい声だの。すがたも、舞もよいが。……主あるじ、もう一度、歌わせてくれないか﹂
﹁貂蝉。あのように、今夜の大賓が、求めていらっしゃる。なんぞもう一曲……お聴きしていただくがよい﹂
﹁はい﹂
貂蝉は、素直にうなずいて、檀だん板ばんを手に――こんどはやや低い調子で――客のすぐ前にあって歌った。
一点ノ桜桃絳唇 ヲ啓 ク
両行 ノ砕玉 陽春ヲ噴 ク
丁香 ノ舌ハ※鋼 [#「衙」の「吾」に代えて「眞」、U+8860、77-9]ノ剣ヲ吐キ
姦邪 乱国 ノ臣ヲ斬ラント要ス
﹁いや、おもしろい﹂
董卓は、手をたたいた。
前に歌った歌詞は自分を讃美していたので、今の歌が自分をさして暗に姦かん邪じゃ乱らん国ごくの臣としているのも、気づかなかった。
﹁神仙の仙女とは、実に、この貂蝉のようなのをいうのだろうな。いま、
塢びう城じょうにもあまた佳麗はいるが、貂蝉のようなのはいない。もし貂蝉が一笑したら、長安の粉ふん黛たいはみな色を消すだろう﹂
﹁太師には、そんなにまで、貂蝉がお気に入りましたか﹂
﹁む……。予は、真の美人というものを、今夜初めて見たここちがする﹂
﹁献じましょう。貂蝉も、太師に愛していただければ、無上の幸せでありましょうから﹂
﹁え。この美人を、予に賜わるというのか﹂
﹁お帰りの車の内に入れてお連れください。――そういえば、夜も更けましたから、相しょ府うふのご門前までお送りしましょう﹂
﹁謝す。謝す。――王おう允いん司し徒と、ではこの美女は、氈せん車しゃに乗せて連れ帰るぞ﹂
董卓は、ほとんど、その満足をあらわす言葉も知らないほど歓んで、貂ちょ蝉うせんを擁して、車へ移った。
![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
五
王允は、心のうちで、しすましたりと思いながら、貂蝉と董卓の車を丞じょ相うし府ょうふまで送って行った。 ﹁……では﹂と、そこの門で、董卓に暇を乞うていると、ふと、氈せん車しゃの内から、貂蝉のひとみが、じっと、自分へ、無言の別れを告げているのに気づいた。 ﹁では、これにて﹂ 王允は、もういっぺん、くり返して云った。それは貂蝉へ、それとなく返した言葉であった。 貂蝉のひとみは、涙でいっぱいに見えた。王允も、胸がせまって、長くいられなかった。 あわてて彼は、わが家のほうへ引っ返してきた。すると、彼方の闇から、二列に松たい明まつの火を連ね、深夜を戛かつ々かつと急いでくる騎馬の一隊がある。 近づいてくると、その先頭には赤兎馬に踏みまたがった呂りょ布ふの姿が見えた。――はっと思うまもなく、呂布は、王允の姿を見つけて、 ﹁おのれ、今帰るか﹂ と、馬上から猿えん臂ぴを伸ばして、王允の襟がみをつかみ大の眼まなこをいからして、 ﹁よくも汝は、先日、貂蝉をこの呂布に与えると約束しておきながら、こよい董太師に供えてしまいおったな。憎いやつめ。おれを小児のようにもてあそぶか﹂と、どなった。 王允は、騒ぐ色もなく、 ﹁どうして将軍は、そんなことをもうご存じなのか。まあ、待ち給え﹂と、なだめた。 呂布は、なお怒って、 ﹁今、わが邸へ、董太師が美女をのせて、相府へ帰られたと、告げて来た者があるのだ。そんなことが知れずにいると思うのか。この二ふた股また膏こう薬やくめ。八ツ裂きにしてくれるから覚えておれよ﹂ と、従う武士にいいつけて、はや引ったてようとした。 王允は、手をあげて、 ﹁はやまり給うな将軍。あれほど固く約したこの王允を、なにとて、お疑いあるぞ﹂ ﹁やあ、まだ吐ぬかすか﹂ ﹁ともあれ、もう一度邸へお越しください。ここではお話もしにくいから﹂ ﹁そうそう何度も、貴様の舌には欺あざむかれぬぞ﹂ ﹁その上でなお、お合点がゆかなかったら、即座に、王允の首をお持ち帰りください﹂ ﹁よしっ、行ってやる﹂ 呂布は彼について行った。 密室に通して、王允は、 ﹁仔細はこうです﹂と、言葉巧みに云った。 ﹁――実はこよい、酒宴の果てた後で、董太師が興じて仰せられるには、そちは近頃、呂布へ貂蝉を与える約束をした由だが、その女性を、ひとまず予が手許へあずけて置け。そして吉日を卜ぼくして大いに自分が盛宴を設け、不意に、呂布と娶めあわせて、やんやと、酒席の興にして、大いに笑い祝す趣向とするから。――と、かような言葉なのでした﹂ ﹁えっ。……では、董太師が、おれの艶福をからかう心つも算りで、つれておいでになったのか﹂ ﹁そうです。将軍のてれる顔を酒宴で見て、手を叩こうという、お考えだと仰っしゃるのです。――で、折角の尊命をそむくわけにも参りませんから、貂蝉をおあずけした次第です﹂ ﹁いや、それはどうも﹂と、呂布は、頭をかいて、 ﹁軽々しく、司徒を疑って、何とも申しわけがない。こよいの罪は、万死に値するが、どうかゆるしてくれい﹂ ﹁いや、お疑いさえ解ければ、それでいい。必ず近日のうちに、将軍の艶福のために、盛宴が張られましょう。貂蝉もさだめし待っておりましょう。いずれ彼あ女れの歌舞の衣裳、化粧道具など一切もお手許のほうへ送らせることといたします﹂ 呂布は、そう聞くと、三拝して、立帰った。痴ちち蝶ょう鏡きょう
一
春は、丈夫の胸にも、悩ましい血を沸かせる。 王おう允いんのことばを信じて、呂りょ布ふはその夜、素直に邸に帰ったもののなんとなく寝ぐるしくて、一晩中、熟睡できなかった。 ﹁――どうしているだろう、貂ちょ蝉うせんは今頃﹂ そんなことばかり考えた。 董とう太師の館やかたへ伴ともなわれて行ったという貂蝉が、どんな一夜を明かしているかと、妄想をたくましゅうして、果ては、牀しょうのうえにじっとしていられなくなった。 呂布は、帳とばりを排して、窓外へ眼をやった。そして彼女のいる相しょ府うふの空をぼんやり眺めていた。 鴻こうが鳴き渡ってゆく。 朧おぼ月ろづきが更ふけている。――夜はまだ明けず、雲も地上も、どことなく薄明るかった。庭前を見れば、海かい棠どうは夜露をふくみ、茶やま![※(「くさかんむり/靡」の「非」に代えて「緋ー糸」、第4水準2-87-21)](../../../gaiji/2-87/2-87-21.png)
二
呂布は、われを忘れて、臥房のすぐ扉とぐ口ちの外まで、近づいて行った。 ﹁オ……。貂蝉﹂ 彼は、泣きたいように胸を締めつけられた。七尺の偉丈夫も、魂を掻きむしられ、沈ちん吟ぎん、去りもやらず、鏡の中に映る彼女のほうを偸ぬすみ見していた。 そして、煮え沸たぎる心の底で、 ﹁貂蝉はもう昨夜かぎりで、処おと女めではなくなっている! ……。ここの臥房には、まだすすり泣きの声が残っているようだ。……ああ、董とう太師もひどい。貂蝉もまた貂蝉だ。……それとも王允がおれを欺いたのか。いやいや董太師に求められては、かよわい貂蝉はもうどうしようもなかったろう﹂ 彼の蒼白い顔は、なにかのはずみに、ふと室内の鏡に映った。 貂蝉は、 ﹁あら?﹂ びっくりして振向いた。 ﹁…………﹂ 呂布は、怨みがましい眼をこらして、彼女の顔をじっと睨んだ。――貂蝉は、とたんに、雨をふくんだ梨花のようにわなないて、 ︵――ゆるして下さい。わたくしの本心ではありません。胸をなでて……怺こらえて……。このつらいわたしの胸も分っていて下さるでしょう︶ 哀れを乞うような、すがりついて泣きたいような、声なき想いを、眼と姿し態なにいわせて呂布へ訴えた。 すると、壁の陰で、 ﹁貂蝉。……誰かそれへ参ったのか﹂と、董卓の声がした。 呂布は、ぎょっとして、数歩跫あし音おとをしのばせて、室を離れ、そこからわざと大股に、ずっとはいって来て、 ﹁呂布です。太師には、今お目ざめですか﹂と、常と変らない態ていを装よそおって礼をした。 春宵の夢魂、まだ醒めやらぬ顔して、董卓は、その巨躯を、鴛えん鴦おうの牀しょうに横たえていたので、唐突な彼の跫音に、びっくりして身を起した。 ﹁誰かと思えば、呂布か。……誰に断って、臥房へ入って来た﹂ ﹁いや、今、お目ざめと、番将が知らしてくれたものですから﹂ ﹁いったい、何の急用か﹂ ﹁は……﹂ 呂布は、用向きを問われて口ごもった。――臥房へまで来て命を仰ぐほどな用事は何もないのであった。 ﹁実は……こうです。夜来、なんとなく寝ぐるしいうちに、太師が病にかかられた夢を見たものですから、心配のあまり、夜が明けるのを待ちかねて、相府へ詰めておりました。――がしかし、お変りのない容子を見て、安心いたしました﹂ ﹁何をいっておるのか﹂ 董卓は、彼のしどろもどろな口くち吻ぶりを怪しんで、舌打ちした。 ﹁起きぬけから忌いまわしいことを聞かせおる。そんな凶夢を、わざわざ耳に入れにくるやつがあるか﹂ ﹁恐れ入りました。常々健康をお案じしておるものですから﹂ ﹁嘘をいえ﹂と、叱って、﹁そちの容子は、なんとなくいぶかしいぞ。その眼の暗さはなんだ。その挙動のそわそわしている様さまはなんだ。去れっ﹂ ﹁はっ﹂ 呂布は、うつ向いたまま、一礼して悄然と、影を消した。 その日、早めに邸へ帰って来ると、彼の妻は、良人の顔色の冴えないのを憂いて訊いた。 ﹁なにか太師のごきげんを損そこねたのではありませんか﹂ すると呂布は、大声で、 ﹁うるさいっ。董太師がなんだ。この呂布を圧おさえることは、太師でもできるものか。貴さまは、できると思うのか﹂ と、妻に当って、どなりちらした。三
呂布の容子は、目立って変ってきた。 相府への出仕も、休んだり遅く出たり、夜は酒に酔い、昼は狂躁に罵ののしったり、また、終日、茫然とふさぎ込んだまま、口もきかない日もあった。 ﹁どうしたんですか﹂ 妻が問えば、 ﹁うるさい﹂としかいわない。 床を踏み鳴らして、檻おりの猛獣のように、部屋の中を独り廻っている時など、頬を涙にぬらしていることがあった。 そうこうする間に、一月余りは過ぎて、悩ましい後園の春色も衰え、浅あさ翠みどりの樹々に、初夏の陽が、日ましに暑さを加えてきた。 ﹁お勤めはともかく、この際、お見舞にも出ないでは、大恩のある太師へ叛そむく者と、人からも疑われましょう﹂ 彼の妻はしきりと諫めた。 近頃、董とう太師が、重いというほどでもないが、病床にあるというので、たびたび、出仕をすすめるのだった。 呂布もふと、 ﹁そうだ。出仕もせず、お見舞にも出なくては、申し訳ない﹂ 気を持ち直したらしく、久しぶりで、相府へ出向いた。 そして、董卓の病床を見舞うと、董卓は、もとより、彼の武勇を愛して、ほとんど養子のように思っている呂布のことであるから、いつか、叱って追い返したようなことは、もう忘れている顔で、 ﹁オオ、呂布か、そちも近頃は、体が勝すぐれないで休んでいるということではないか。どんな容体だの﹂と、かえって病人から慰められた。 ﹁大したことではありません。すこしこの春に、大酒が過ぎたあんばいです﹂ 呂布は、淋しく笑った。 そしてふと、傍らにある貂ちょ蝉うせんのほうを眼の隅から見やると、この半月の余は、董卓の枕元について帯も裳もすそも解かず、誠心から看護して、すこし面おもやつれさえして見える容子なので――呂布はたちまち、むらむらと嫉妬の火に全身の血を燃やされて、 ︵初めは、心にもなくゆるした者へも、女はいつか、月日と共に、身も心も、その男に囚とらわれてしまうものか︶と、遣やるかたなく、煩はん悶もんしだした。 董卓は、咳せき入いった。 その間に、呂布は、顔いろをさとられまいと、牀しょうの裾へ退いた。――そして董卓の背をなでている貂蝉の真白な手を、物に憑つかれた人間のように見つめていた。 すると、貂蝉は、董卓の耳へ、顔をすりよせて、 ﹁すこし静かに、おやすみ遊ばしては……﹂ とささやいて、衾ふすまをおおい、自分の胸をも、上からかぶせるようにした。 呂布の眼は、焔になっていた。その全身は、石の如く、去るのを忘れていた。貂蝉は、病人の視線を隠すと、その姿を振向いて、片手で袖を持って、眼を拭った。……さめざめと、泣いてみせているのである。 ︵――辛い。わたしは辛い。想っているお方とは、語らうこともできず、こうして、いつまで心にもない人と一室に暮らさなければならないのでしょう。あなたは無情です。ちっともこの頃は、お姿を見せてくださらない! せめて、お姿を見るだけでも、わたしは人知れず慰められているものを︶ もとより声に出してはいえなかったが、彼女の一滴一滴の涙と、濡れた睫まつ毛げと、物いえぬ唇のわななきは、言葉以上に、惻そく々そくと、呂布の胸へ、その想いを語っていた。 ﹁……では、では、そなたは﹂ 呂布は、断腸の思いの中にも、体中の血が狂喜するのをどうしようもなかった。盲目的に彼女のうしろへ寄って行った。そして、その白い頸うなじを抱きすくめようとしたが、屏びょ風うぶの角に、剣の佩はい環かんが引っかかったので、思わず足をすくめてしまった。 ﹁呂布っ。何するか﹂ 病床の董卓は、とたんに、大喝して身をもたげた。四
呂布は、狼狽して、 ﹁いや、べつに……﹂と、牀しょうの裾へ退がりかけた。 ﹁待てっ﹂と、董卓は、病も忘れて、額に青すじを立てた。 ﹁今、おまえは、わしの眼を偸ぬすんで、貂ちょ蝉うせんへたわむれようとしたな。――わしの寵ちょ姫うきへ、みだらなことをしかけようとしたろう﹂ ﹁そんなことはしません﹂ ﹁ではなぜ、屏風の内へはいろうとしたか。いつまで、そんな所に物欲しそうにまごついているか﹂ ﹁…………﹂ 呂布は、いい訳に窮して、真っ蒼な顔してうつ向いた。 彼は、弁才の士ではない。また、機知なども持ち合わせない人間である。それだけに、こう責めつけられると、進退きわまったかの如く、惨さん澹たんたる唇を噛むばかりだった。 ﹁不届き者めッ、恩寵を加えれば恩寵に狎なれて、身のほどもわきまえずにどこまでもツケ上がりおる! 向こう後ごは予の室へ、一歩でもはいると承知せぬぞ。いや、沙汰あるまで自邸で謹慎しておれ。――退がらぬかっ。これ、誰かある、呂布をおい出せ﹂ と、董卓の怒りは甚しく、口を極めて罵ののしった。 どやどやと、室外に、武将や護衛の力りき者しゃたちの跫あし音おとが馳け集まった。――が、呂布は、その手を待たず、 ﹁もう、来ません!﹂ 云い放って、自分からさっと、室の外へ出て行った。 ほとんど、入れちがいに、 ﹁何です? 何か起ったのですか﹂と、李りじ儒ゅが入ってきた。 まだ怒りの冷さめない董卓は、火のような感情のまま、呂布が、この病室で、自分の寵姫に戯れようとした罪を、外げど道うを憎むように唾つばして語った。 ﹁困りましたなあ﹂ 李儒は冷静である。にが笑いさえうかべて聞いていたが、 ﹁なるほど、不届きな呂布です。――けれど太師。天下へ君臨なさる大望のためには、そうした小人の、少しの罪は、笑っておゆるしになる寛かん度どもなければなりません﹂ ﹁ばかな﹂ 董卓は、肯がえんじない。 ﹁そんなことをゆるしておいたら、士気はみだれ、主従のあいだはどうなるか﹂ ﹁でも今、呂布が変心して、他国へ奔はしったら、大事はなりませぬぞ﹂ ﹁…………﹂ 董卓も、李儒に説かれているうちに、やや激怒もおさまって来た。ひとりの寵姫よりは、もちろん、天下は大であった。いかに貂ちょ蝉うせんの愛に溺れていても、その野望は捨てきれなかった。 ﹁だが李儒。呂布のやつは、かえって傲ごう然ぜんと帰ってしまったが、では、どうしたらよいか﹂ ﹁そうお気づきになれば、ご心配はありません。呂布は単純な男です。明日、お召しあって、金銀を与え、優しくお諭しあれば、単純だけに、感激して、向後はかならず慎むでしょう﹂ 李儒の忠言を容れて、彼はその翌日、呂布を呼びにやった。 どんな問罪を受けるかと、覚悟してきて見ると、案に相違して、黄金十斤きん、錦二十匹を賜わった上、董卓の口から、 ﹁きのうは、病のせいか、癇かん癖ぺきを起して、そちを罵ののしったが、わしは何ものよりも、そちを力にしておるのだ。悪く思わず、以前のとおりわが左右を離れずに、日ごとここへも顔を見せてくれい﹂ と、なだめられたので、呂布はかえって心に苦しみを増した。しかし主君の温言のてまえ、拝はい跪きして恩を謝し、黙々とその日は無口に退出した。絶ぜつ纓えいの会かい
一
その後、日を経て、董とう卓たくの病もすっかりよくなった。 彼はまた、その肥大強健な体に驕おごるかのように、日夜貂ちょ蝉うせんと遊楽して、帳ちょ裡うりの痴ち夢むに飽あくことを知らなかった。 呂布も、その後は、以前よりはやや無口にはなったが、日々精勤して、相府の出仕は欠かさなかった。 董卓が朝廷へ上がる時は、呂布が赤せき兎と馬ばにまたがって、必ずその衛軍の先頭に立ち、董卓が殿上にある時は、また必ず呂布が戟ほこを持って、その階下に立っていた。 或る折。 天子に政まつ事りごとを奏するため、董卓が昇殿したので、呂布はいつものように戟を執って、内門に立っていた。 壮者の旺さかんな血ほど、気けだ懶るい睡ねむ気けを覚えるような日である。呂布は、そこここを飛びかう蝶にも、睡魔に襲われ、眼をあげて、夏近い太陽に耀かがやく木々の新しん翠すいや真紅の花を見ては、﹁――貂ちょ蝉うせんは何をしているか﹂と、煩ぼん悩のうにとらわれていた。 ふと、彼は、 ﹁きょうは必ず董卓の退出は遅くなろう。……そうだ、この間に﹂と考えた。 むらむらと、思慕の炎に駆られだすと、彼は矢も楯もなかった。 にわかに、どこかへ、駆けだして行ったのである。 董卓の留守の間に――と、呂布はひとり相府へ戻って来たのだった。そして勝手を知った後堂へ忍んで行ったと思うと、戟ほこを片手に、 ﹁貂蝉。――貂蝉﹂と、声をひそめながら、寵姫の室へ入って、帳とばりをのぞいた。 ﹁誰?﹂ 貂蝉は、窓に倚よって、独り後園の昼を見入っていたが、振向いて、呂布のすがたを見ると、 ﹁オオ﹂ と、馳け寄って、彼の胸にすがりついた。 ﹁まだ太師も朝廷からお退さがりにならないのに、どうしてあなただけ帰って来たのですか﹂ ﹁貂蝉。わしは苦しい﹂ 呂布は、呻うめくように云った。 ﹁この苦しい気もちが、そなたには分らないのだろうか。実は、きょうこそ太師の退出が遅いらしいので、せめて束つかの間までもと、わし一人そっとここへ走り戻って来たのだ﹂ ﹁では……そんなにまで、この貂蝉を想っていて下さいましたか。……うれしい﹂ 貂蝉は、彼の火のような眸を見て、はっと、脅おびえたように、 ﹁ここでは、人目にかかっていけません。後から直ぐに参りますから、園のずっと奥の鳳ほう儀ぎて亭いで待っていてください﹂ ﹁きっと来るだろうな﹂ ﹁なんで嘘をいいましょう﹂ ﹁よし、では鳳儀亭に行って待っているぞ﹂ 呂布はひらりと庭へ身を移していた。そして、木の間を走るかと思うと、後園の奥まった所にある一閣へ来て、貂蝉を待っていた。 貂蝉は彼が去ると、いそいそと化粧をこらし、ただ一人で忍びやかに、鳳儀亭の方へ忍んで行った。 柳は緑に、花は紅くれないに、人なき秘園は、熟うれた春の香においにむれていた。 貂ちょ蝉うせんは、柳の糸のあいだから、そっと鳳儀亭のあたりを見まわした。 呂布は、戟ほこを立てて、そこの曲きょ欄くらんにたたずんでいた。二
曲欄の下は、蓮はす池いけだった。 鳳ほう儀ぎて亭いへ渡る朱の橋に、貂蝉の姿が近づいて来た。花を分け柳を払って現れた月げっ宮きゅうの仙女かと怪しまれるほど、その粧よそおいは麗わしかった。 ﹁呂布さま﹂ ﹁おう……﹂ ふたりは亭の壁の陰へ倚よった。そして長いあいだ無言のままでいた。呂布は、体じゅうの血が燃えるかと思った。うつつの身か、夢の身かを疑っていた。 ﹁……おや、貂蝉、どうしたのだね﹂ ﹁…………﹂ ﹁ええ、貂蝉﹂ 呂布は、彼女の肩をゆすぶった。――彼の胸に顔をあてていた貂蝉が、そのうちにさめざめと泣き出したからであった。 ﹁わしとこうして会ったのを、そなたはうれしいと思わないのか。いったい、何をそんなに泣くのか﹂ ﹁いいえ、貂蝉は、うれしさのあまり、胸がこみあげてしまったのです。――お聞きください。呂布さま。わたくしは王おう允いん様の真の子ではありません。さびしい孤みな児しごでした。けれど、わたしを真の子のように可愛がって下された王允様は、行く末は必ず、凜り々りしい英傑の士を選んで嫁かしずけてやるぞ――といつも仰っしゃって下さいました。それかあらぬか、将軍をお招きした夜、それとなく私とあなたとを会わせて賜わりましたから、私は、ひとたび、あなたにお目にかかると、これで平生の願いもかなうかと、その夜から、夢にも見るほど、楽しんでおりました﹂ ﹁ウむ。……ムム﹂ ﹁ところが、その後、董とう太たい師しのために、心に秘めていた想いの花は、ふみにじられてしまいました。太師の権力に、泣く泣く心にそまぬ夜々を明かしました。もうこの身は、以前のきれいな身ではありません。……いかに心は前と変らず持っていても、汚けがされた身をもって、将軍の妻さい室しつにかしずくことはできませんから、それを思うと、恐ろしくて、口く惜やしくて……﹂ 貂蝉は、あたりへ聞えるばかり嗚おえ咽つして、彼の胸に、とめどなく悶もだえて泣いていたが、突然、 ﹁呂布さま。どうか貂蝉の心根だけは、不ふび愍んなものと、忘れないでいてください﹂ と、叫びざま、曲欄へ走り寄って、蓮の池へ身を投げようとした。 呂布は、びっくりして、 ﹁何をする﹂と、抱き止めた。 その手を、怖ろしい力で、貂蝉は振りのけようと争いながら、 ﹁いえ、いえ、死なせて下さい。生きていても、あなたとこの世のご縁はないし、ただ心は日ごと苦しみ、身は不ふじ仁んな太師の贄にえになって、夜々、虐さいなまれるばかりです。せめて、後ご世せの契ちぎりを楽しみに、冥あの世よへ行って待っております﹂ ﹁愚かなことを。来世を願うよりも今こん生じょうに楽しもう。貂蝉、今にきっと、そなたの心に添うようにするから、死ぬなどと、短気なことは考えぬがいい﹂ ﹁えっ……ほんとですか。今のおことばは、将軍の真実ですか﹂ ﹁想う女を、今生において、妻ともなし得ないで、豈あに、世の英雄と呼ばれる資格があろうか﹂ ﹁もし、呂布さま。それがほんとなら、どうか貂蝉の今の身を救うて下さいませ。一日も一年ほど長い気がいたします﹂ ﹁時節を待て。それも長いこととはいわぬ――また、今日は老賊に従って、参殿の供につき、わずかな隙すきをうかがってここへ来たのだから、もし老賊が退出してくるとたちまち露ろけ顕んしてしまう。そのうちに、またよい首尾をして会おう﹂ ﹁もう、お帰りですか﹂ 貂蝉は、彼の袖をとらえて、離さなかった。 ﹁将軍は、世に並ぶ者なき英雄と聞いていましたのに、どうしてあんな老人をそんなに、怖れて、董卓の下かふ風うに従ついているのですか﹂ ﹁そういうわけではないが﹂ ﹁私は、太師の跫あし音おとを聞いても、ぞっと身がふるえてきます。……ああいつまでも、こうしていたい﹂ なお、寄りすがって、紅涙雨の如き姿し態なであった。――ところへ、董卓は朝ちょうから帰って来るなり、ただならぬ血相をたたえて彼方から歩いて来た。三
﹁はて。貂蝉も見えないし、呂布もどこへ行きおったか?﹂ 董卓の眸は、猜さい疑ぎに燃えていた。 今し方、彼は朝廷から退出した。呂布の赤せき兎と馬ばは、いつもの所につないであるのに、呂布のすがたは見えなかった。怪しみながら、車に乗って相府へ帰ってみると、貂蝉の衣は、衣いこ桁うに懸っているが、貂蝉のすがたは見当らないのである。 ﹁さては﹂ と、彼は、侍女を糺ただして、男女の姿を見つけに、自身、後園の奥へ捜しに来たのであった。 二人は鳳儀亭の曲きょ欄くらんにかがみこんで、泣きぬれていた。貂蝉は、ふと、董卓の姿が彼方に見えたので、 ﹁あっ……来ました﹂と、あわてて呂布の胸から飛び離れた。 呂布も、驚いて、 ﹁しまった。……どうしよう﹂ うろたえている間に、董卓はもう走り寄って来て、 ﹁匹ひっ夫ぷっ。白はく日じつも懼おそれず、そんな所で、何しているかっ﹂ と、怒鳴った。 呂布は、物もいわず、鳳儀亭の朱橋を躍って、岸へ走った。――すれ交かいに、董卓は、 ﹁おのれ、どこへ行く﹂と、彼の戟ほこを引ったくった。 呂布が、その肘ひじを打ったので、董卓は、奪った戟を取り落してしまった。彼は、肥満しているので、身をかがめて拾い取るのも、遅ちど鈍んであった。――その間に、呂布はもう五十歩も先へ逃げていた。 ﹁不ふら埓ちも者のっ﹂ 董卓は、その巨きな体を前へのめらせながら、喚わめいて云った。 ﹁待てっ。こらっ。待たぬかっ、匹夫め﹂ すると、彼方から馳けて来た李儒が、過って出会いがしらに、董卓の胸を突きとばした。 董卓は、樽の如く、地へ転げながら、いよいよ怒って、 ﹁李儒っ、そちまでが、予をささえて、不届きな匹夫を援たすけるかっ。――不義者をなぜ捕えん﹂ と、呶号した。 李儒は、急いで、彼の身を扶け起しながら、 ﹁不義者とは、誰のことですか。――今、てまえが後園に人声がするので、何事かと出てみると、呂布が、太師狂乱して、罪もなきそれがしを、お手討になさると追いかけて参るゆえ、何とぞ、助け賜われとのこと、驚いて、馳けつけて来たわけですが﹂ ﹁何を、ばかな。――董卓は狂乱などいたしてはおらん。予の目を偸ぬすんで、白昼、貂蝉に戯れているところを、予に見つけられたので、狼狽のあまり、そんなことを叫んで逃げ失うせたのだろう﹂ ﹁道理で、いつになく、顔色も失って、ひどく狼狽の態でしたが﹂ ﹁すぐ、引っ捕えて来い。呂布の首を刎はねてくれる﹂ ﹁ま。そうお怒りにならないで、太師にも少し落着いて下さい﹂ 李儒は、彼の沓くつを拾って、彼の足もとへ揃えた。 そして、閣の書院へ伴い、座下に降って、再拝しながら、 ﹁ただ今は、過ちとはいえ、太師のお体を突き倒し、罪、死に値します﹂ と、詫び入った。 董卓はなお、怒気の冷めぬ顔を、横に振って、 ﹁そんなことはどうでもよい。速やかに、呂布を召捕って来て、予に、呂布の首を見せい﹂ といった。 李儒は、あくまで冷静であった。董卓が、怒るのを、あたかも痴児の囈たわ言ごとのように、苦笑のうちに聞き流して、 ﹁恐れながら、それはよろしくありません。呂布の首を刎ねなさるのは、ご自身の頸うなじへご自身で刃やいばを当てるにも等しいことです﹂と、諫いさめた。四
﹁なぜ悪いかっ。なぜ、不義者の成敗をするのが、よろしくないか﹂ 董卓は、そう云いつのって、どうしても、呂布を斬れと命じたが、李儒は、 ﹁不策です。いけません﹂ 頑として、彼らしい理性を、変えなかった。 ﹁太師のお怒りは、自己のお怒りに過ぎませんが、てまえがお諫め申すのは、社しゃ稷しょくのためです。――昔、こういう話があります﹂ と、李儒は、例をひいて、語りだした。 それは、楚そこ国くの荘そう王おうのことであるが、或る折、荘王が楚城のうちに、盛宴をひらいて、武功の諸将をねぎらった。 すると――宴半ばにして、にわかに涼風が渡って、満座の燈火がみな消えた。 荘王、 ︵はや、燭しょくをともせ︶と、近習へうながし、座中の諸将は、かえって、 ︵これも涼しい︶と、興ありげにさわいでいた。 ――と、その中へ、特に、諸将をもてなすために、酌にはべらせておいた荘王の寵姫へ、誰か、武将のひとりが戯れてその唇を盗んだ。 寵姫は、叫ぼうとしたが、じっとこらえて、その武将の冠かんむりの纓おいかけをいきなりむしりとって、荘王の側へ逃げて行った。 そして、荘王の膝へ、泣き声をふるわせて、 ﹁この中で今、誰やら、暗闇になったのを幸いに、妾わらわへみだらに戯れたご家来があります。はやく燭をともして、その武将を縛からめてください。冠の纓の切れている者が下手人です﹂ と、自分の貞操をも誇るような誇張を加えて訴えた。 すると荘王は、どう思ったか、 ﹁待て待て﹂と、今しも燭を点じようとする侍臣を、あわてて止め、 ﹁今、わが寵姫が、つまらぬことを予に訴えたが、こよいはもとより心から諸将の武功をねぎらうつもりで、諸公の愉快は予の愉快とするところである。酒興の中では今のようなことはありがちだ。むしろ諸公がくつろいで、今宵の宴をそれほどまで楽しんでくれたのが予も共にうれしい﹂ と、いって、さてまた、 ﹁これからは、さらに、無礼講として飲み明かそう。みんな冠の纓おいかけを取れ﹂と、命じた。 そしてすべての人が、冠の纓を取ってから、燭を新たに灯ともさせたので、寵姫の機智もむなしく、誰が、女の唇を盗んだ下手人か知れなかった。 その後、荘王は、秦しんとの大戦に、秦の大軍に囲まれ、すでに重囲のうちに討死と見えた時、ひとりの勇士が、乱軍を衝ついて、王の側に馳けより、さながら降こう天てんの守護神のごとく、必死の働きをして敵を防ぎ、満身朱あけになりながらも、荘王の身を負って、ついに一方の血路をひらいて、王の一命を完うした。 王は、彼の傷いた手でのはなはだしいのを見て、 ﹁安んぜよ、もうわが一命は無事なるを得た。だが一体、そちは何者だ。そして如何なるわけでかくまで身に代えて、予を守護してくれたか﹂と、訊ねた。 すると、傷てお負いの勇士は、 ﹁――されば、それがしは先年、楚城の夜宴で、王の寵姫に冠の纓をもぎ取られた痴ちし者ゃです﹂ と、にこと笑って答えながら死んだという。 ――李儒は、そう話して、 ﹁いうまでもなく、彼は、荘王の大恩に報じたものです。世にはこの佳話を、絶ぜつ纓えいの会かいと伝えています。……太師におかれても、どうか、荘王の大たい度どを味わってください﹂ 董卓は、首を垂れて聞いていたが、やがて、 ﹁いや、思い直した。呂布の命は助けておこう。もう怒らん﹂ 翻ほん然ぜんと、諫めを容れて去った。五
李儒はかねて、呂布が何を不平として、近ごろ董卓に含んでいるか、およそ察していたので、 ――困ったものだ。 と、内心、貂ちょ蝉うせんに溺れている董卓にも、それに瞋しん恚いを燃やしている呂布にも、胸を傷めていた折であった。 それゆえ、﹁絶纓の会﹂の故事をひいて、諄じゅ々んじゅんと、諫めたところ、さすが、董卓も暗愚ではないので、 ﹁忘れおこう、呂布はゆるせ﹂と、釈然と悟った容よう子すなので、これ、太師の賢明によるところ、覇はぎ業ょう万ばん歳ざいの基であると、直ちに、呂布へもその由を告げて、大いに安心していた。 董卓は、李儒を退しりぞけると、すぐ後堂へ入って行ったが、見ると、帳とばりにすがって、貂蝉はまだ独りしくしく泣いていた。 ﹁何を泣くか。女にも隙すきがあるから、男が戯れかかるのだ。そなたにも半分の罪があるぞ﹂ 董卓が、いつになく叱ると、貂蝉はいよいよ悲しんで、 ﹁でも、太師は常に、呂布はわが子も同様だと仰っしゃっていらっしゃいましょう。――ですから私も、太師のご養子と思って、敬まっていたんです。それを今日は、恐い血相で、戟ほこを持って私を脅おどし、むりやりに鳳ほう儀ぎて亭いに連れて行ってあんなことをなさるんですもの……﹂ ﹁いや、深く考えてみると、悪いのは、そなたでも呂布でもなかった。この董卓が愚おろかだった。――貂蝉、わしが媒なかだちして、そなたを呂布の妻にやろう。あれほど忘れ難がたなく恋している呂布だ。そなたも彼を愛してやれ﹂ 眼まなこをとじて、董卓がいうと、貂蝉は、身を投げて、その膝にとりすがった。 ﹁なにをおっしゃいます。太師に捨てられて、あんな乱暴な奴ぬぼ僕くの妻になれというのですか。嫌いやなことです。死んだって、そんな辱はずかしめは受けません﹂ いきなり董卓の剣を抜きとって、咽のどに突き立てようとしたので、董卓は仰天して、彼女の手から剣を奪りあげた。 貂蝉は、慟どう哭こくして、床に伏しまろびながら、 ﹁……わ、わかりました。これはきっと、李儒が呂布に頼まれて、太師へそんな進言をしたにちがいありません。あの人と呂布とは、いつも太師のいらっしゃらない時というと、ひそひそ話していますから。……そうです。太師はもう、私よりも、李儒や呂布のほうがお可愛いんでしょう。わたしなどはもう……﹂ 董卓は、やにわに、彼女を膝に抱きあげて、泣き濡れているその頬やその唇へ自分の顔をすり寄せて云った。 ﹁泣くな、泣くな、貂蝉、今のことばは、冗じょ戯うだんじゃよ。なんでそなたを、呂布になど与えるものか。――明日、![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
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天てん
一
董とう太たい師し、![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
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二
そこは長安郊外の、幽ゆう邃すいな別業であった。 呂布は、王允に誘いざなわれて、竹裏館の一室へ通されたが、酒さか杯ずきを出されても、沈ちん湎めんとして、溶とけぬ忿ふん怒ぬにうな垂れていた。 ﹁いかがです、おひとつ﹂ ﹁いや、今日は﹂ ﹁そうですか。では、あまりおすすめいたしません。心の楽しまぬ時は、酒を含んでも、いたずらに、口にはにがく、心は燃えるのみですから﹂ ﹁王司徒﹂ ﹁はい﹂ ﹁察してくれ……。呂布は生れてからこんな無念な思いは初めてだ﹂ ﹁ご無念でしょう。けれど、私の苦しみも、将軍に劣りません﹂ ﹁おぬしにも悩みがあるか﹂ ﹁あるか――どころではないでしょう。折角、将軍の室へ娶めとっていただこうと思ったわが養むす女めを、董太師に汚され、あなたに対しては、義を欠いている。――また、世間は将軍をさして、わが女房を奪われたる人よ、と蔭口をきくであろうと、わが身に誹そしりを受けるより辛く思われます﹂ ﹁世間がおれを嘲わらうと!﹂ ﹁董太師も、世の物笑いとなりましょうが、より以上、天下の人から笑い辱はずかしめられるのは、約束の義を欠いた私と、将軍でしょう。……でもまだ私は老いぼれのことですから、どうする術すべもあるまいと、人も思いましょうが、将軍は一世の英雄でありまた、お年も壮さかんなのに、なんたる意気地のない武士ぞといわれがちにきまっています。……どうぞ、私の罪を、おゆるし下さい﹂ 王允がいうと、 ﹁いや、貴下の罪ではない!﹂ 呂布は、憤然、床を鳴らして突っ立ったかと思うと、 ﹁王司徒、見ておれよ。おれは誓って、あの老賊をころし、この恥をそそがずにはおかぬから﹂ 王允は、わざと仰ぎょ山うさんに、 ﹁将軍、卒そつ爾じなことを口走り給うな。もし、そのようなことが外へ洩れたら、お身のみか、三族を亡ぼされますぞ﹂ ﹁いいや、もうおれの堪かん忍にんもやぶれた。大丈夫たる者、豈あに鬱うつ々うつとして、この生を老賊の膝下に屈かがんで過そうや﹂ ﹁おお、将軍。今の僭せん越えつな諫言をゆるして下さい。将軍はやはり稀世の英えい邁まいでいらっしゃる。常々ひそかに、将軍の風姿を見ておるに、古いにしえの韓かん信しんなどより百倍も勝すぐれた人物だと失礼ながら慕っていました。韓信だに、王に封ぜられたものを、いつまで、区々たる丞じょ相うし府ょうふの一旗下で居たまうわけはない……﹂ ﹁ウーム、だが……﹂ 呂布は牙を噛んで呻うめいた。 ﹁――今となって、悔いているのは、老賊の甘言にのせられて、董卓と義父養子の約束をしてしまったことだ。それさえなければ、今すぐにでも、事を挙げるのだが、かりそめにも、義理の養父と名のついているために、おれはこの憤りを抑えておるのだ﹂ ﹁ほほう……。将軍はそんな非難を怖れていたんですか。世間は、ちっとも知らないことですのに﹂ ﹁なぜ﹂ ﹁でも、でも、将軍の姓は呂りょ、老賊の姓は董とうでしょう。聞けば、鳳ほう儀ぎて亭いで老賊は、あなたの戟ほこを奪って投げつけたというじゃありませんか。父子の恩愛がないことは、それでも分ります。ことに、未だに、老賊が自分の姓を、あなたに名乗らせないのは、養父養子という名にあなたの武勇を縛っておくだけの考えしかないからです﹂ ﹁ああ、そうか。おれはなんたる智恵の浅い男だろう﹂ ﹁いや、老賊のため、義理に縛られていたからです。今、天下の憎む老賊を斬って、漢室を扶け、万民へ善政を布しいたら、将軍の名は青せい史しのうえに不朽の忠臣としてのこりましょう﹂ ﹁よしっ、おれはやる。必ず、老賊を馘くびきってみせる﹂ 呂布は、剣を抜いて、自分の肘ひじを刺し、淋りん漓りたる血を示して、王おう允いんへ誓った。三
呂布の帰りを門まで送って出ながら、王允は、そっとささやいた。 ﹁将軍、きょうのことは、ふたりだけの秘密ですぞ。誰にも洩らして下さるな﹂ ﹁もとよりのことだ。だが大事は、二人だけではできないが﹂ ﹁腹心の者には明かしてもいいでしょう。しかし、この後は、いずれまた、ひそかにお目にかかって相談しましょう﹂ 赤せき兎と馬ばにまたがって、呂布は帰って行った。王允は、その後ろ姿を見送って、 ――思うつぼに行った。 と独りほくそ笑んでいた。 その夜、王允はただちに、日頃の同志、校こう尉い黄こう![※(「王+宛」、第3水準1-88-10)](../../../gaiji/1-88/1-88-10.png)
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四
ふたりの密謀を聞くと、李粛は手を打って、 ﹁よく打明けて下すった。自分も久しく董卓を討たんとうかがっていたが、めったに心底を語る者もないのを恨みとしていたところでした。善よい哉かな善よい哉かな、これぞ天の助けというものだろう﹂ と喜んで、即座に、誓いを立てて荷かた担んした。 そこで三名は、万事を諜しめしあわせて、その翌々日、李粛は二十騎ほど従えて![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
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人にん間げん燈とう
一
蜿えん蜒えんと行列はつづいた。 幡はん旗きに埋められて行く車しゃ蓋がい、白はく馬ば金きん鞍あんの親衛隊、数千兵の戟ほこの光など、威風は道を掃はらい、その美しさは眼もくらむばかりだった。 すでに十里ほど進んで来ると、車の中の董とう卓たくは、ガタッと大きく揺すぶられたので、 ﹁どうしたのだっ﹂と、咎めた。 ﹁お車の輪が折れました﹂と、侍臣が恐きょ懼うくして云った。 ﹁なに。車の輪が折れた﹂ 彼は、ちょっと機嫌を曇らし、 ﹁沿道の百姓どもが、道の清掃を怠って、小石を残しておいたからだろう。見せしめのため、村むら長おさを馘くびきれ﹂ 彼は、傾いた車を降りて、逍しょ遥うよ玉うぎ面ょくめんというべつな車馬へ乗りかえた。 そしてまた、六、七里も来たかと思うと、こんどは馬が暴れいなないて、轡くつわを切った。 ﹁李りし粛ゅく、李粛﹂と、金きん簾れんのうちから呼んで、彼は怪しみながら訊ねた。 ﹁車の輪が折れたり、馬が轡を噛み切ったり、これは一体、どういうわけだろう﹂ ﹁お気にかけることはありません。太師が、帝位に即つき給うので、旧ふるきを捨て新しきに代る吉兆です﹂ ﹁なるほど。明らかな解釈だ﹂ 董卓はまた、機嫌を直した。 途中、一宿して、翌日は長安の都へかかるのだった。ところがその日は、めずらしく霧がふかく、行列が発する頃から狂風が吹きまくって、天地は昏こん々こんと暗かった。 ﹁李粛。この天相は、なんの瑞ずい祥しょうだろうか﹂ 事毎に、彼は気に病んだ。 李粛は笑って、 ﹁これぞ、紅こう光こう紫し霧むの賀がず瑞いではありませんか﹂と、太陽を指した。 簾すだれの陰から、雲を仰ぐと、なるほど、その日の太陽には、虹色の環わがかかっていた。 やがて長安の外城を通り、市街へ進み入ると、民衆は軒を下ろし、道にかがまり、頭をうごかす者もない。 王城門外には、百官が列をなして出迎えていた。 王おう允いん、淳じゅ于んう瓊けい、黄こう![※(「王+宛」、第3水準1-88-10)](../../../gaiji/1-88/1-88-10.png)
二
その夜は、さすがに彼も、婦女を寝室におかず、眠りの清浄を守った。
けれど、明日は、九きゅ五うごの位をうける身かと思うと、心気昂たかぶって、容易に眠りつけない様子だった。
――と、室の外を。
戛かつ。戛。
と、誰か歩く靴音がする。
むくと、身を起し、
﹁誰かっ﹂と咎めると、帳の外に、まだ起きていた李粛が、
﹁呂布が見廻っているのです﹂と、答えた。
﹁呂布か……﹂
そう聞くと、彼はすっかり安心してかすかに鼾いびきをかき始めたが、また、眼をさまして、しきりと、耳をそばだてている。
――遠く、深夜の街に、子どもらの謡うたう童歌が聞えた。
眼に青けれど
運命の風ふかば
十日の
生き得まじ
風に漂ってくる歌声は、深沈と夜をながれて、いかにも哀切な調子だった。
彼は、それが耳について、
﹁李粛﹂と、また呼んだ。
﹁は。まだお目をさましておいででしたか﹂
﹁あの童謡は、どういう意味だろう。なんだか、不吉な歌ではないか﹂
﹁その筈です﹂
李粛は、でたらめに、こう解釈を加えて、彼を安心させた。
﹁漢室の運命の終りを暗示しているんですから。――ここは長安の帝都、あしたから帝が代るのですから、無心な童謡にも、そんな予兆が現れないわけはありません﹂
﹁なるほど。そうか……﹂
憐れむべし、彼はうなずいて、ほどなく昏こん々こんと、ふかい鼾の中に陥ちた。
後に思えば。
童謡の﹁千里の草﹂というのは﹁董とう﹂の字であり、﹁十日の下﹂とは卓の字のことであった。
千里草
何青々
十日下
猶不生
何青々
十日下
猶不生
と街に歌っていた声は、すでに彼の運命を何者かが嘲笑していた暗示だったのであるが、李粛の言にあやされて、さしもの奸かん雄ゆうも、それはわが身ならぬ漢室のことだと思っていたのである。
朝の光は、彼の枕辺に映うつしこぼれてきた。
董卓は、斎戒沐浴した。
そして、儀ぎじ仗ょうをととのえ、きのうに勝まさる行装をこらして、朝霧のうすく流れている宮門へ向って進んでゆくと、一旒りゅうの白旗をかついで青い袍ほうを着た道士が、ひょこり道を曲ってかくれた。
その白旗に、口の字が二つ並べて書いてあった。
﹁なんじゃ、あれは﹂
董卓が、李粛へ問うと、
﹁気の狂った祈祷師です﹂と、彼は答えた。
口の字を二つ重ねると﹁呂﹂の字になる。董卓はふと、呂布のことが気になった。鳳ほう儀ぎて亭いで貂ちょ蝉うせんと密会していた彼のすがたが思い出されていやな気もちになった。
――と、もうその時、儀杖の先頭は、宮中の北ほく掖えき門もんへさしかかっていた。
三
禁きん門もんの掟おきてなので、董卓も、儀仗の兵士をすべて、北掖門にとどめて、そこから先は、二十名の武士に車を押させて、禁廷へ進んだ。 ﹁やっ?﹂ 董卓は、車の内でさけんだ。 見れば、王おう允いんと黄こう![※(「王+宛」、第3水準1-88-10)](../../../gaiji/1-88/1-88-10.png)
![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
四
大奸を誅ちゅうして、万歳の声は、禁門の内から長安の市街にまで溢れ伝わったが、なお、 ﹁このままではすむまい﹂ ﹁どうなることか﹂と、戦せん々せん兢きょ々うきょうたる人心の不安は去りきれなかった。 呂布は、云った。 ﹁今日まで、董卓のそばを離れず、常に、董卓の悪行を扶たすけていたのは、あの李りじ儒ゅという秘書だ。あれは生かしておけん﹂ ﹁そうだ。誰か行って、丞相府から李儒を搦からめ捕って来い﹂ 王允が命じると、 ﹁それがしが参ろう﹂ 李粛は答えるや否、兵をひいて、丞相府へ馳せ向った。 すると、その門へ入らぬうちに、丞相府の内から、一団の武士に囲まれて、悲鳴をあげながら、引きずり出されて来るあわれな男があった。 見ると、李儒だった。 丞相府の下しも部べたちは、 ﹁日頃、憎しと思う奴なので、董太師が討たれたりと聞くや否、かくの如く、われわれの手で搦め、これから禁門へつきだしに行くところでした。どうか、われわれには、お咎とがめなきよう、お扱いねがいます﹂と、訴えた。 李粛は、なんの労もなく、李儒を生いけ擒どったので、すぐ引っさげて、禁門に献じた。 王允は、直ちに、李儒の首を刎はねて、 ﹁街頭に梟かけろ﹂と、それを刑吏へ下げた。 なお、王允がいうには、 ﹁![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
五
![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
![※(「王+(廣ー广)」、第3水準1-88-26)](../../../gaiji/1-88/1-88-26.png)
![※(「巛/邑」、第3水準1-92-59)](../../../gaiji/1-92/1-92-59.png)
![※(「巛/邑」、第3水準1-92-59)](../../../gaiji/1-92/1-92-59.png)
六
都堂の祝宴にも、ただひとり顔を見せなかった大将がある。
呂りょ布ふであった。
﹁微びよ恙うのため﹂と断ってきたが、病気とも思われない。
長安の市民が七日七夜も踊り狂い、酒壺を叩いて、董卓の死を祝している時、彼は、門を閉じて、ひとり慟どう哭こくしていた。
﹁貂ちょ蝉うせん、貂蝉っ……﹂
それは、わが家の後園を、狂気のごとく彷さま徨よいあるいている呂布の声だった。
そして、小閣の内へかくれると、そこに横たえてある貂蝉の冷たい体を抱きあげてはまた、﹁なぜ死んだ﹂と、頬ずりした。
貂蝉は、答えもせぬ。
彼女は、
塢びう城の炎の中から、呂布の手にかかえられて、この長安へ運ばれ、呂布の邸にかくされていたが、呂布がふたたび戦場へ出て行った後で、ひとり後園の小閣にはいって、見事、自刃してしまったのである。
﹁もう貂ちょ蝉うせんも、おれのものだ。はれておれの妻となった﹂
やがて帰って来た呂布は、それまでの夢を打破られてしまった。
貂蝉の自殺が、
﹁なぜ死んだか﹂
彼には解けなかった。
﹁――貂蝉は、あんなにも、おれを想っていたのに。おれの妻となるのを楽しんでいたのに﹂
と思い迷った。
貂蝉は、何事も語らない。
だが、その死顔には、なんの心残りもないようであった。
――すべきことを為しとげた。
微笑の影すら唇くちのあたりに残っているように見えた。
彼女の肉体は獣王の犠に牲えにひとたびは供されたが、今は彼女自身のものに立ち返っていた。天然の麗れい質しつは、死んでからよけいに珠たまのごとく燦かがやいていた。死屍の感はすこしもなく、生けるように美しかった。
呂布の煩ぼん悩のうは、果てしなく醒さめなかった。彼の一本気は、その煩悩まで単純であった。
きのうも今宵も、彼は飯汁も喉へ通さなかった。夜も、後園の小閣に寝た。
月は晦くらい。
晩春の花も黒い。
懊おう悩のうの果て、彼は、貂蝉の胸に、顔を当てたままいつか眠っていた。ふと眼がさめると、深夜の気はひそとして、闇の窓から月がさしていた。
﹁おや、何か?﹂
彼は、貂蝉の肌に秘められていた鏡かが嚢みぶくろを見つけて、何気なく解いた。中には、貂蝉が幼少から持っていたらしい神まも符りふ札だやら麝じゃ香こうなどがはいっていた。それと、一葉の桃花箋に詩を書いたものが小さく折りたたんであった。
詩しせ箋んは麝香に染しみて、名花の芯をひらくような薫りがした。貂蝉の筆とみえ、いかにも優しい文字である。呂布は詩を解さないが、何度も読んでいるうちに、その意味だけは分った。
![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
女の皮膚は弱いというが
鏡にかえて剣を抱けば
剣は正義の心を強めてくれる
わたしはすすんで荊棘 へ入る
父母以上の恩に報いる為に
またそれが国の為と聞くからに
楽器を捨て、舞踊する手に
匕首 を秘めて獣王へ近づき
遂に毒杯を献じたり、右と左にそして最後の一盞 にわれを仆 しぬ
聞ゆ――今、死の耳に
長安の民が謡う平和の歓び
われを呼ぶ天上の迦陵頻伽 の声
鏡にかえて剣を抱けば
剣は正義の心を強めてくれる
わたしはすすんで
父母以上の恩に報いる為に
またそれが国の為と聞くからに
楽器を捨て、舞踊する手に
遂に毒杯を献じたり、右と左にそして最後の一
聞ゆ――今、死の耳に
長安の民が謡う平和の歓び
われを呼ぶ天上の
﹁あ……あっ。では……?﹂
呂布もついに覚さとった。貂蝉の真の目的が何にあったかを知った。
彼は、貂蝉の死体を抱えて、いきなり馳け出すと、後園の古井戸へ投げこんでしまった。それきり貂蝉のことはもう考えなかった。天下の権を握れば、貂蝉ぐらいな美人はほかにもあるものと思い直した容よう子すだった。
大権転々
一
西せい涼りょう︵甘かん粛しゅ省くしょう・蘭州︶の地方におびただしい敗兵が流れこんだ。![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「言+栩のつくり」、第3水準1-92-6)](../../../gaiji/1-92/1-92-06.png)
![※(「言+栩のつくり」、第3水準1-92-6)](../../../gaiji/1-92/1-92-06.png)
![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
二
牛輔の死が伝えられた。また、それを殺した胡赤児も、呂布に斬られたという噂が聞えた。 ﹁この上は、死か生か、決戦あるのみだ﹂と、敵の四将も臍ほぞをかためたらしい。 四将の一人、李りか![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
三
騒乱の物音が遠くする。 夜も陰いん々いんと。 昼間も轟ごう々ごうと。 宮中の奥ふかき所――献けん帝ていはじいっと蒼あおざめた顔をしておられた。 長安街上に躍る火の魔、血の魔がそのお眸には見えるような心地であられたろう。 ﹁皇宮の危機が迫りました﹂ 侍従が云って来た。 しばらくするとまた、 ﹁西せい涼りょ軍うぐんが、潮のごとく、禁門の下へ押して参りました﹂と、侍臣が奏上した。 ――こんどは朝廷へ襲やってくるな、とはや、観念されたように、献帝は眼をふさいだまま、 ﹁ウム。……むむ﹂ うなずかれただけだった。 事実、朝臣すべても、この際、どうしたらいいか、為なすことを知らなかった。 すると侍従の一人が、 ﹁彼らも、帝座の重きことはわきまえておりましょう。この上は、帝ご自身、宣せん平へい門もんの楼台に上がられて、乱をご制止あそばしたら、鎮まるだろうと思います﹂と奏そう請せいした。 献帝は、玉ぎょ歩くほを運んで宣平門へ上がった。血に酔って、沸わいていた城下の狂軍は、禁門の楼台に瑤よう々ようと翳かざされた天子の黄こう蓋がいにやがて気づいて、 ﹁天子だ﹂ ﹁ご出御だ﹂ と、その下へ、わいわいと集まった。 李りか![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
四
宮門に軍馬をならべて、官職を与えよと、強請する暴臣のさけびに、帝も浅ましく思われたに違いないが、その際、帝としても、如何とする術すべもなかった。 彼らの要求は認められた。 で――李りか![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「言+栩のつくり」、第3水準1-92-6)](../../../gaiji/1-92/1-92-06.png)
![※(「言+栩のつくり」、第3水準1-92-6)](../../../gaiji/1-92/1-92-06.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
秋あき雨さめの頃ころ
一
諸州の浪人の間で、 ﹁近ごろ![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「或」の「丿」に代えて「彡」、第3水準1-84-30)](../../../gaiji/1-84/1-84-30.png)
![※(「或」の「丿」に代えて「彡」、第3水準1-84-30)](../../../gaiji/1-84/1-84-30.png)
![※(「日/立」、第3水準1-85-21)](../../../gaiji/1-85/1-85-21.png)
二
曹操は、一日ふと、 ﹁おれも今日までになるには、随分親に不孝をかさねてきた﹂と、故山の父を思い出した。 彼の老父は、その頃もう故郷の陳留にもいなかった。瑯ろう![※(「王+邪」、第3水準1-88-2)](../../../gaiji/1-88/1-88-02.png)
![※(「王+邪」、第3水準1-88-2)](../../../gaiji/1-88/1-88-02.png)
![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
![※(「門<豈」、第3水準1-93-55)](../../../gaiji/1-93/1-93-55.png)
![※(「門<豈」、第3水準1-93-55)](../../../gaiji/1-93/1-93-55.png)
三
冷たい秋の雨は、蕭しょ条うじょうと夜中までつづいていた。 暗い廊に眠っていた張![※(「門<豈」、第3水準1-93-55)](../../../gaiji/1-93/1-93-55.png)
![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
![※(「門<豈」、第3水準1-93-55)](../../../gaiji/1-93/1-93-55.png)
![※(「門<豈」、第3水準1-93-55)](../../../gaiji/1-93/1-93-55.png)
![※(「門<豈」、第3水準1-93-55)](../../../gaiji/1-93/1-93-55.png)
![※(「門<豈」、第3水準1-93-55)](../../../gaiji/1-93/1-93-55.png)
![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
四
復讐の大軍を催して、曹操が徐州へ攻進するという噂が諸州へ聞えわたった前後、 ﹁ぜひ会わせて下さい﹂と、曹操を陣門に訪ねて来た者があった。 それは陳ちん宮きゅうであった。 陳宮は、かつて曹操が、都から落ちて来る途中、共に心しん肚とを吐いて、将来を盟ちかい合ったが、やがて曹操の性行を知って、 ︵この人は、王道に拠よって、真に国を憂うる英雄ではない。むしろ国乱をして、いよいよ禍から乱んへ追い込む覇道の姦かん雄ゆうだ︶と怖れをなして、途中の旅はた籠ごから彼を見限り、彼を棄てて行方をくらましてしまった旧知であった。 ﹁君は今、何しているか﹂ 曹操に訊かれると、陳宮は、すこし間が悪そうに、 ﹁東郡の従じゅ事うじという小役人を勤めています﹂と、答えた。 すると曹操は、皮肉な笑みをたたえながら、早くも相手の来意を読んでいた。 ﹁じゃあ、徐州の陶とう謙けんとは親しい間がらとみえるね。たぶん君は、その知己のために、予をなだめに来たのだろうが、おそらく君の懇願も、この曹操の恨みと憤りを解くのは不可能だと思う。――まあ遊んで行き給え﹂ ﹁お察しの通りな目的で来ました。小生の知る陶謙は、世に稀な仁じん人じんです、君子です。――ご尊父がむごたらしい難に遭われたのは、まったく陶謙の罪ではなく、張ちょ![※(「門<豈」、第3水準1-93-55)](../../../gaiji/1-93/1-93-55.png)
![※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)](../../../gaiji/1-92/1-92-58.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
![※(「王+贊」、第3水準1-88-37)](../../../gaiji/1-88/1-88-37.png)
死しか活つお往うら来い
一
城兵の士気は甦よみがえった。 孤こり立つむ無え援んの中に、苦闘していた城兵は、思わぬ劉りゅ玄うげ徳んとくの来援に、幾たびも歓かん呼こをあげてふるった。 老太守の陶とう謙けんは、﹁あの声を聞いて下さい﹂と、歓びにふるえながら、玄徳を上座に直すと、直ちに太守の佩はい印いんを解いて、 ﹁今日からは、この陶謙に代って、あなたが徐州の太守として、城主の位置について貰いたい﹂ といった。 玄徳は驚いて、 ﹁飛んでもないことです﹂と、極力辞退したが、 ﹁いやいや、聞きく説ならく、あなたの祖は、漢の宗室というではないか。あなたは正しく帝系の血をうけている。天下の擾じょ乱うらんを鎮め、紊みだれ果てた王おう綱こうを正し、社しゃ稷しょくを扶けて万民へ君臨さるべき資質を持っておられるのだ。――この老人の如きは、もうなんの才能も枯れている。いたずらに、太守の位置に恋々としていることは、次に来る時代の黎れい明めいを遅くさせるばかりじゃ。わしは今の位置を退きたい。それを安んじて譲りたい人物も貴公以外には見当らない。どうか微びち衷ゅうを酌んで曲げてもご承諾ねがいたい﹂ 陶謙のことばには真実がこもっていた。うわさに聞いていた通り、私心のない名太守であった。世を憂い、民を愛する仁人であった。 けれど劉備玄徳は、なお、 ﹁自分はあなたを扶けに来た者です。若い力はあっても、老ろう台だいのような徳望はまだありません。徳のうすい者を太守に仰ぐのは、人民の不幸です。乱の基です﹂ と、どうしても、彼もまた、固こ辞じして肯きき容れなかった。 張飛、関羽のふたりは、彼のうしろの壁ぎわに侍じり立つしていたが、 ﹁つまらない遠慮をするものだ。どうも大兄は律りち義ぎすぎて、現代人でなさ過ぎるよ、……よろしいと、受けてしまえばよいに﹂と、歯がゆそうに、顔見合わせていた。 老太守の熱望と、玄徳の謙譲とが、お互いに相手を立てているのに果てしなく見えたので、家臣糜びじ竺くは、 ﹁後日の問題になされては如何ですか。何ぶん城下は敵の大軍に満ちている場合ではあるし﹂ と、側から云った。 ﹁いかにも﹂ 二人もうなずいて、即刻、評議をひらき、軍備を問い、その上で、一応はこの解決を外交策に訴えてみるも念のためであるとして、劉玄徳から曹操へ使いを立て、停戦勧告の一文を送った。 曹操は、玄徳の文を見ると、 ﹁何。……私の讐あだ事ごとは後にして、国難を先に扶たすけよと。……劉備ごときに説法を受けんでも、曹操にも大志はある。不ふそ遜んな奴めが﹂ と、それを引っ裂いて、 ﹁使者など斬ってしまえ﹂と、一喝に退しりぞけた。 時しもあれ、その時、彼の本領地の![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)](../../../gaiji/1-92/1-92-58.png)
二
――変なことをいう奴だ。 呂布は迂うさん臭い顔して、その男の風ふう采さいを黙って見つめていた。 それは、陳ちん宮きゅうであった。 先頃、陶謙に頼まれて、曹操の侵略を諫かん止しせんと、説せっ客きゃくにおもむいたが、かえって曹操に一蹴されて不成功に終ったのを恥じて、徐州に帰らず、そのままこの張ちょ![※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)](../../../gaiji/1-92/1-92-58.png)
![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
三
快かい鞭べん一打―― 曹操は、大軍をひっさげて、国元へ引っ返した。 彼は、難局に立てば立つほど、壮烈な意気にいよいよ強きょ靱うじんを加える性たちだった。 ﹁呂布、何なに者もの﹂ とばかり、すでに相手をのんでいた。奪われた![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
![※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)](../../../gaiji/1-92/1-92-70.png)
![※(二の字点、1-2-22)](../../../gaiji/1-02/1-02-22.png)
四
――時に、彼方から誰やらん、おうっ――と吠えるような声がした。 見れば、左右の手に、重さ八十斤もあろうかと見える戟ほこをひっさげ、敵の真っただ中を斬り開いて馳せつけて来る者がある。馬も人も、朱あ血けを浴びて、焔が飛んで来るようだった。 ﹁ご主君、ご主君っ、馬をお降りあれ。そして地へ這いつくばり、しばらく敵の矢をおしのぎあれ﹂ 矢攻めの中に立ち往生している曹操へ向って、彼は近よるなり大声で注意した。 誰かと思えば、これなん先ごろ召抱えたばかりの悪あく来らい――かの典てん韋いであった。 ﹁おお、悪来か﹂ 曹操は急いで馬を跳び下り、彼のいう通り地へ這った。 悪来も馬を降りた。両手の戟を風車のように揮って矢を払った。そして敵軍に向って濶歩しながら、 ﹁そんなヘロヘロ矢がこの悪来の身に立ってたまるか﹂ と、豪語した。 ﹁小癪なやつ。打殺せ﹂ 五十騎ほどの敵が一かたまりになって馳けて来た。 悪来は善く戦い、敵の短剣ばかり十本も奪い取った。彼の戟はもう鋸のこぎりのようになっていたので、それをなげうって、十本の短剣を身に帯びて、曹操の方を振向いた。 ﹁――逃げ散りました。今のうちです。さあおいでなさい﹂ 彼は、徒か歩ちのまま、曹操の轡くつわをとって、また馳け出した。二、三の従者もそれにつづいた。 けれど矢の雨はなお、主従を目がけて注そそいで来た。悪来は、![※(「灰/皿」、第3水準1-88-74)](../../../gaiji/1-88/1-88-74.png)
五
ここ呂布は連戦連勝だ。 失意の漂さす泊らいをつづけていた一介の浪人は、またたちまち濮ぼく陽よう城じょうの主あるじだった。先に曹操を思うさま痛めつけて、城兵の士気はいやが上にも昂たかまっていた。 ﹁この土地に、田でん氏しという旧家があります。ごぞんじですか﹂ 謀士の陳宮が、唐突に云い出したことである。呂布も近頃は、彼の智謀を大いに重んじていたので、また何か策があるかと、 ﹁田氏か。あれは有名な富豪だろう。召使っている僮どう僕ぼくも数百人に及ぶと聞いているが﹂ ﹁そうです。その田氏をお召出しなさいまし。ひそかに﹂ ﹁軍用金を命じるのか﹂ ﹁そんなつまらないことではありません。領下の富豪から金をしぼり取るなんていうことは、自分の蓄えを気短かに喰ってしまうようなものです。大事さえ成れば、黄金財宝は、争って先方がご城門へ運んで来ましょう﹂ ﹁では、田氏をよびつけて何をさせるのか﹂ ﹁曹操の一命を取るのです﹂ 陳宮は、声をひそめて、なにかひそひそと呂布に説明していた。 それから数日後。 ひとりの百姓が、竹竿の先に鶏とりの蒸したのを苞つとにくるみ、それを縛って、肩にかつぎながら、寄手の曹操の陣門近くをうろついていた。 ﹁胡うさ散んな奴﹂と、捕えてみると、百姓は、 ﹁これを大将に献じたい﹂と、伏し拝んでいう。 ﹁密偵だろう﹂ と、有無をいわさず、曹操の前へ引っぱって来た。すると百姓は態度を変えて、 ﹁人を払って下さい、いかにも私は密使です。けれど、あなたの不為になる使いではありません﹂ と、いった。 近臣だけを残して、士卒たちを遠ざけた。百姓は、鶏の苞つとを刺していた竹の節ふしを割って、中から一片の密書を出して曹操の手へ捧げた。 見ると、城中第一の旧家で富豪という聞えのある田氏の書面だった。呂布の暴虐に対する城中の民の恨みが綿々と書いてある。こんな人物に城主になられては、わたくし達は他国へ逃ちょ散うさんするしかないとも認しるしてある。 そして、密書の要点に入って、 ︵――今、濮ぼく陽よう城じょうは留守の兵しかいません。呂布は黎れい陽ようへ行っているからです。即刻、閣下の軍をお進め下さい。わたくしどもは機を計って内応し、城中から攪かく乱らんします。義の一字を大きく書いた白旗を城壁のうえに立てますから、それを合図に、一挙に濮陽の兵を殲せん滅めつなさるように祷いのる――機はまさに今です︶と、ある。 曹操は、破顔してよろこんだ。 ﹁天、われに先頃の雪辱をなさしめ給う。濮陽はもう掌のうちの物だ!﹂ 使いを犒ねぎらって、承諾の返辞を持たせ帰した。 ﹁危険ですな﹂ 策士の劉りゅ曄うようがいった。 ﹁念のため、軍を三分して、一隊だけ先へ進めてごらんなさい。呂布は無才な男ですが、陳宮には油断はできません﹂ 曹操も、その意見を可として、三段に軍を立てて、徐々と敵の城下まで肉薄して行った。 ﹁オオ、見える﹂ 曹操はほくそ笑んだ。 果たせるかな、大小の敵の旌せい旗きが吹きなびいている城壁上の一角――西門の上あたりに一旒りゅうの白い大旗がひるがえっていた。手をかざして見るまでもなく、その旗には明らかに﹁義﹂の一字が大書してあった。六
﹁もはや事の半ばは成就したも同じだ﹂
曹操は左右へいって、
﹁――だが、夜に入るまでは、息つきの小こ競ぜり合いに止めておいて敵が誘うとも深入りはするな﹂
と、誡いましめた。
城下の商戸はみな戸を閉ざし、市民はみな逃げ去って、町は昼ながら夜半のようだった。曹操の軍馬はそこ此処に屯たむろして、食物や飲水を求めたり、夜の総攻撃の準備をしていた。
果たして、城兵は奇襲して来た。辻々で少数の兵が衝突して、一進一退をくり返しているうちに陽はやがて、とっぷり暮れて来た。
薄暮のどさくさまぎれにひとりの土民が曹操のいる本陣へ走りこんできた。捕えて詰問すると、
﹁田氏から使いです﹂と密書を示していう。
曹操は聞くとすぐ取寄せてひらいてみた。紛れもない田氏の筆蹟である。
初しょ更こうの星、燦さん々さんの頃
城上に銅ど鑼ら鳴るあらん
機、逸し給うなかれ、即すなわち前進。
衆民、貴軍の蹄てい戛かつを待つや久し
鉄てっ扉ぴ、直ちに内より開かれ
全城を挙げて閣下に献ぜん
﹁よしっ。機は熟した﹂
曹操は、密書の示す策によって、すぐ総攻撃の配置にかかった。
夏かこ侯うじ惇ゅんと曹そう仁じんの二隊は、城下の門に停めておいて、先鋒には夏かこ侯うえ淵ん、李りて典ん、楽進と押しすすめ、中軍に典てん韋いらの四将をもって囲み、自身はその真ん中に大将旗を立てて指揮に当り、重厚な陣形を作って徐々と内城の大手へ迫った。
しかし李典は、城内の空気に、なにか変な静寂を感じたので、
﹁一応、われわれが、城門へぶつかって、小当りに探ってみますから、御大将には、暫時、進軍をお待ちください﹂と、忠言してみた。
曹操は気に入らない顔をして、
﹁兵機というものは機をはずしては、一瞬勝ち目を失うものだ。田氏の合図に手違いをさせたら、全線が狂ってしまう﹂
といって肯きき入れないのみか、なお逸はやって自身、真っ先に馬を進めだした。
月はまだ昇らないが満天の星は宵ながら繚りょ乱うらんと燦きらめいていた。たッたッたッたッ――と曹操に馳けつづく軍馬の蹄が城門に近づいたかと思うと、西門あたりに当って、陰々と法ほら螺が貝いの音が尾をひいて長く鳴った。
﹁やっ、なんだっ﹂
寄手の諸将はためらい合ったが、曹操はもう濠ほりの吊つり橋ばしを騎馬で馳け渡りながら、
﹁田氏の合図だっ。何をためらっているか。この機に突っこめっ――﹂と、振向いてどなった。
とたんに、正面の城門は、内側から八文字に開け放されていた。――さては、田氏の密書に嘘はなかったかと、諸将も勢いこんで、どっと門内へなだれ入った。
――が、とたんに、
﹁わあっ……﹂
と、闇の中で、喊かん声せいがあがった。敵か味方か分らなかったし、もう怒どと濤うのように突貫の行き足がついているので、にわかに、駒を止めて見返してもいられなかった。
すると、どこからともなく、石の雨が降って来た。石垣の陰や、州の政庁の建物などの陰から、同時に無数の松たい明まつが光りかがやき、その数は何千か知れなかった。
﹁や、や、やっ?﹂
疑う間に投げ松明だ。軍馬の上に、大地に、
に、袖に、火の雨がそそがれ出したのである。曹操は仰天して、突然、
﹁いかんっ。――敵の謀計にひッかかった。退却しろ﹂
と、声をかぎりに後ろへ叫んだ。
![※(「灰/皿」、第3水準1-88-74)](../../../gaiji/1-88/1-88-74.png)
七
敵の計に陥ちたとさとって、曹操が、しまったと馬首をめぐらした刹せつ那な、一発の雷砲が、どこかでどん――と鳴った。 彼につづいて突入してきた全軍は、たちまち混乱に墜ちた。奔馬と奔馬、兵と兵が、方向を失って渦巻くところへなお、 ﹁どうしたっ?﹂ ﹁早く出ろ﹂と、後続の隊は、後から後からと押して来た。 ﹁退却だっ﹂ ﹁退くのだっ﹂ 混乱は容易に救われそうもない。 石の雨や投げ松明の雨がやんだと思うと、城内の四門がいちどに口を開いて、中から呂布の軍勢が、 ﹁寄手の奴らを一人も生かして帰すな﹂と、東西から挟きょ撃うげきした。 度を失った曹操の兵は、網の中の魚みたいに意気地もなく殲せん滅めつされた。討たれる者、生捕られる者数知れなかった。 さすがの曹操も狼狽して、 ﹁不覚不覚﹂ と憤然、唇を噛みながら、一時北門から逃げ退こうとしたが、そこにも敵軍が充満していた。南門へ出ようとすれば南門は火の海だった。西門へ奔はしろうとすれば、西門の両側から伏兵が現れてわれがちに喚わめきかかってくる。 ﹁ご主君ご主君。血路はここに開きました。早く早く﹂ 彼を呼んだのは悪来の典韋であった。典韋は、歯をかみ眼まなこをいからして、むらがる敵を蹴ちらし、曹操のために吊つり橋ばしの道を斬り開いた。 曹操は、征そ矢やの如く駆けぬけて城下の町へ走った。殿しんがりとなった悪来も、後を追ったが、もう曹操の姿は見あたらない。 ﹁おういっ。……わが君っ﹂ 悪来が捜していると、 ﹁典韋じゃないか﹂と、誰か一騎、馳け寄って来た味方がある。 ﹁オオ、李りて典んか、ご主君の姿を見なかったか﹂ ﹁自分も、それを案じて、お捜し申しているところだ﹂ ﹁どう落ちて行かれたやら﹂ 兵を手分けして、二人は八方捜索にかかったが、皆かい目もく知れなかった。 何いず処こを見ても火と黒煙と敵兵だった。曹操自身さえ南へ馳けているのか西へ向っているのか分らない。ただ果てしない乱軍の囲みと炎の迷路だった。その中からどうしても出ることができないほど、頭脳も顛てん倒とうしていた。 ――すると彼方の暗い辻から、一団の松たい明まつが、赤々と夜霧をにじませて曲って来た。 近づいて見るまでもなく敵にちがいない。曹操は、 ﹁南なむ無さ三ん﹂と、思ったが、あわてて引っ返してはかえって怪しまれる。肚をすえて、そのまま行き過ぎようとした。 何ぞ計らん、従者の松明に囲まれて戛かつ々かつと歩いて来たのは、敵将の呂布であった。例の凄まじい大おお戟ほこを横たえ、左に赤せき兎と馬ばの手綱を持って悠然と来る姿が、はっと、曹操の眸に大きく映った。 ぎょっとしたが、すでに遅し! である。曹操は顔をそ向け、その顔を手で隠しながら、何気ない素振りを装ってすれ違った。 すると呂布は、何思ったか、戟の先を伸ばして曹操の![※(「灰/皿」、第3水準1-88-74)](../../../gaiji/1-88/1-88-74.png)
八
﹁やっ、怪しい……?﹂と、後見送りながら、呂布が気づいた時は、すでに曹操の影は、町中に立ちこめている煙の中に見えなくなっていた。 ﹁ああ、危うかった﹂ 曹操は、夢中で逃げ走ってきてから、ほっと駒を止めて呟いた。真に虎口を脱したとは、このことだろうと思った。 ――が、一体ここは何処か。西か東か。その先の見当は依然として五里霧中のここちだった。 そうしてさまよっているうちに、ようやく自分を捜している悪あく来らいに出会った。そして悪来に庇ひ護ごされながら、辻々で血路を斬り開き、東の街道に出る城外の門まで逃げてきた。 ﹁やあ、ここも出られぬ!﹂ 曹操は、思わず嘆声をあげた。駒も大地を蹄ひづめでたたくばかりで前へ出なくなった。 それも道理。街道口の城門は、今、さかんに焼けていた。長い城壁は一連の炎の樋といとなって、火熱は天地も焦がすばかりである。 ﹁どうッ。どうッ。どうッ……﹂ 熱風を恐れて駒は狂いに狂う。鞍つぼにも、![※(「灰/皿」、第3水準1-88-74)](../../../gaiji/1-88/1-88-74.png)
九
夜は白々と明けた。 将も兵もちりぢりばらばらに味方の砦とりでへ帰って来た。どの顔も、どの姿も、惨憺たる敗北の血と泥にまみれている。 しかも、生きて還ったのは、全軍の半分にも足らなかったのである。 そこへ、悪来と夏かこ侯うえ淵んに扶けられた曹操が、馬の鞍に抱えられて帰ってきたので、全軍の士気は墓場のように銷しょ沈うちんしてしまい、滅めっ失しつの色深い陣営は、旗さえ朝露重たげにうなだれていた。 ﹁何。将軍が戦傷なされたと?﹂ ﹁ご重傷か﹂ ﹁どんなご容体か﹂ 聞き伝えた幕僚の将校たちは、曹操の抱えこまれた陣幕の内へ、どやどやと群れ寄ってきた。 ﹁しッ……﹂ ﹁静かに﹂ と、中の者に制されて、なにかぎょっとしたものを胸に受けながら、将校たちは急に厳粛な無言を守り合っていた。 手当てに来ていた典医がそっと戻って行った。典医の顔も憂色に満ちている。それを見ただけで、幕僚たちは胸が迫ってきた。 ――すると、突然幕とばりのうちで、 ﹁わははは、あははは﹂ 曹操の笑う声がした。 しかも、平常よりも快活な声だ。 驚いて一同、彼の横臥している周りを取巻いて、その容体をのぞきこんだ。 右の肱から肩、太ふと股ももまで、半身は大火傷にただれているらしい。繃ほう帯たいですっかり巻かれていた。顔半分も、薬を塗って、白い覆面をしたように片目だけ出していた。玉とう蜀もろ黍こしの毛のように、髪の毛まで焦げている。 ﹁もう、いい。心配するな﹂ 片目で幕僚を見まわしながら、曹操は強いて笑いを見せて、 ﹁考えてみると、何も、敵が強いのでもなんでもない。おれは火に負けたまでだ。火にはかなわんよ。――なあ、諸君﹂と、いってまた、﹁それと、少し軽率だった。たとえ、過あやまちにせよ、匹ひっ夫ぷ呂布ごとき者の計におちたのは、われながら面目ない。しかしおれもまた彼に向って計をもって酬いてくれる所存だ。まあ見ておれ﹂ すこし身をねじろうとしたが、体が動かない。無理に首だけ動かして、 ﹁夏侯淵﹂ ﹁はっ﹂ ﹁貴様に、予の葬儀を命ずる。葬儀指揮官の任につけ﹂ ﹁不吉なお言葉を﹂ ﹁いや、策だ。――今暁、曹操遂に死せりと、喪もを発するがよい。伝え聞くや、呂布はこの時とばかり、城を出て攻め寄せて来るにちがいない。仮かり埋まい葬そうを営むと触ふれてわが仮の柩ひつぎを、馬ばり陵ょう山ざんへ葬れ﹂ ﹁はっ……﹂ ﹁馬陵山の東西に兵を伏せ、敵をひき寄せ、円陣のうちにとらえて、思う存分、殲せん滅めつしてくれるのだ。わかったか﹂ ﹁わかりました﹂ ﹁どうだ、諸君﹂ ﹁ご名策です﹂ 幕僚は、その場で皆、喪もし章ょうをつけた。――そして将軍旗の竿かん頭とうにも、弔ちょ章うしょうが附せられた。 ――曹操死す。 の声が伝わった。まことしやかに濮ぼく陽ようにまで聞えて来た。呂布は耳にすると、 ﹁しめた、おれの強敵は、これで除かれた﹂ と膝を叩き、念のため、探さぐりを放って確かめると、喪の敵陣は、枯野のように、寂せきとして声もないという。 馬陵山の葬儀日を狙って、呂布は濮陽城を出て、一挙に敵を葬り尽そうとした。ところがなんぞ計らん。それは呂布を拉らっして冥あの途よへ送らんとする偽りの葬列だった。 起伏する丘陵一帯の陰から、たちまち鳴り起った陣じん鼓こら鑼せ声いは、完全に呂布軍をたたきのめした。 呂布は、命からがら逃げた。一万に近い犠牲と面目を馬陵山に捨てて逃げた。――以来、それにこりごりして、濮陽を堅く守り、容易にその城から出なかった。牛うしと﹁いなご﹂
一
穴を出ない虎は狩れない。 曹操は、あらゆる策をめぐらして、呂布へ挑んだが、 ﹁もうその策には乗らない﹂と、彼は容易に、濮ぼく陽ようから出なかった。 そのくせ、前線と前線との、偵察兵や小部隊は日々夜々小ぜりあいをくり返していたが、戦いらしい戦いにもならず、といってこの地方が平穏にもならなかった。 いや、世の乱脈な兇相は、ひとりこの地方ばかりではない。土のある所、人間の住む所、血ちな腥まぐさい風に吹き捲まくられている。 こういう地上にまた、戦争以上、百姓を悲しませる出来事が起った。 或る日。 一片の雲さえなく晴れていた空の遠い西の方に、黒い綿を浮かべたようなものが漂ただよって来た。やがて、疾はや風てぐ雲ものように見る見るうちにそれが全天に拡がって来たかと思うと、 ﹁いなごだ。いなごだ﹂ 百姓は騒ぎ始めた。 いなごの襲来と伝わると、百姓は茫然、泣き悲しんで、鋤すき鍬くわも投げて、土蜂の巣みたいな土小屋へ逃げこみ、 ﹁ああ。しかたがない﹂ 絶望と諦あきらめの呻うめきを、おののきながら洩らしているだけだった。 いなごの大群は、蒙もう古こか風ぜの黄いろい砂粒よりたくさん飛んで来た。天をおおういちめんの雲かとも紛まごう妖虫の影に、白日もたちまち晦くらくなった。 地上を見れば、地上もいなごの洪水であった。たちまち稲の穂を蝕くい尽してしまい、蝕う一粒の稲もなくなると、妖虫の狂風は、次々と、他の地方へ移動してゆく。 後からくるいなごは、喰う稲がない。遂には、餓がひ殍ょうと餓殍が噛みあって何万何億か知れない虫の空なき骸がらが、一物の青い穂もない地上を悽惨に敷きつめている。 ――が、その浅ましい光景は、虫の社会だけではない。やがて人間も噛み合い出した。 ﹁喰う物がない!﹂ ﹁生きて行かれないっ﹂ 悲痛な流民は、喰う物を追って、東西に移り去った。 糧食とそれを作る百姓を失った軍隊は、もう軍隊としての働きもできなくなってしまった。 軍隊も﹁食﹂に奔ほん命めいしなければならない。しかも山東の国々ではその年、いなごの災厄のため、物価は暴騰に暴騰をたどって、米一斛こくの価あたいは銭百貫を出しても、なかなか手に入らなかった。 ﹁やんぬる哉かな﹂ 曹操は、これには、策もなく、手の下しようもなかった。 戦争はおろか、兵が養えないのである。やむなく彼は、陣地を引払って、しばらくは他州にひそみ、衣食の節約を令して、この大飢饉をしのぎ、他日を待つしか方法はあるまいと観念した。 同じように、濮ぼく陽ようの呂布たりといえども、この災害をこうむらずにいるわけはない。 ﹁曹操の軍も、とうとう囲みを解いて、引揚げました﹂ そう報告を聞いても、 ﹁うむ。そうか﹂とのみで、彼の愁しゅ眉うびはひらかれなかった。 彼もまた、 ﹁細く長く喰え﹂ と、兵糧方に厳命した。 自然―― 双方の戦争はやんでしまった。 いなごが、人間の戦争を休止させてしまったのである。 とはいえ。 また、春は来る、夏は巡って来る。大地は生々と青い穀物や稲の穂を育てるであろう。いなごは年々襲っては来ないが、人間同士の戦争は、遂に、土が物を実らせる力のある限り永えい劫ごうに絶えそうもない。二
ここに、徐州の太たい守しゅ陶とう謙けんはまた、誰に我がこの国を譲って死ぬべきや――を、日ごと、病床で考えていた。 ﹁やはり、劉りゅ備うび玄げん徳とくをおいては、ほかにない﹂ 彼はもう年七十になんなんとしていた。ことにこんどは重態である。自ら命めい数すうを感じている。けれど、国の将来に安心の見とおしがつかないのが、なんとしても心の悩みであった。 ﹁お前らはどう思う﹂ 枕頭に立っている重臣の糜びじ竺く、陳ちん登とうのふたりへ、鈍にぶい眸をあげて云った。 ﹁ことしは、いなごの災害のために、曹操は軍をひいたが、来春にでもなればまた、捲けん土どち重ょう来らいしてくるだろう。その時、ふたたびまた、呂布が彼の背後を襲うような天佑があってくれれば助かるが、そういつも奇蹟はあるまい。わしの命数も、この容子ではいつとも知れないから、今のうちに是非、確たる後継者をきめておきたいが﹂ ﹁ごもっともです﹂ 糜びじ竺くは、老太守の意中を察しているので、自分からすすめた。 ﹁もう一度、劉玄徳どのをお招きになって、懇ねんごろにお心を訴えてごらんになっては如何ですか﹂ 陶謙は、重臣の同意を得、少し力づいたものの如く、 ﹁早速、使いを派してくれ﹂と、いった。 使いをうけた玄徳は、取る物も取りあえず、小しょ沛うはいから駈けつけて、太守の病を見舞った。 陶謙は、枯木のような手をのばして、玄徳の手を握り、 ﹁あなたが、うんと承諾してくれないうちは、わしは安心して死ぬことができない。どうか、世の為に、また、漢朝の城地を守るために、この徐州の地をうけて、太守となってもらいたいが﹂ ﹁いけません。折角ですが﹂ 玄徳は、依然として、断りつづけた。そして―― ︵あなたには、二人のご子息があるのに︶と、理由を云いかけたが、それをいうとまた、重態の病人が、出来の悪い不ふし肖ょうの実子のことについて、昂奮して語り出すといけないので、――玄徳はただ、 ﹁私は、その器うつわでありません﹂と、ばかり頑かたくなに首をふり通してしまった。 そのうちに、陶謙は、ついに息をひきとってしまった。 徐州は喪もを発した。城下の民も城士もみな喪服を着け、哀あい悼とうのうちに籠った。そして葬儀が終ると、玄徳は小沛へ帰ったが、すぐ糜竺、陳登などが代表して、彼を訪れ、 ﹁太守が生前の御ぎょ意いであるから、まげても領主として立っていただきたい﹂ と、再三再四、懇請した。 すると、また、次の日、小沛の役所の門外に、わいわいと一揆きのような領民が集まって来た。――何事かと、関羽、張飛を従えて、玄徳が出てみると、何百とも知れない民衆は、彼の姿をそこに見出すと、 ﹁オオ、劉備さまだ﹂と、一斉に大地へ坐りこんで、声をあわせて訴えた。 ﹁わたくしども百姓は、年々戦争には禍いされ、今年はいなごの災害に見舞われて、もうこの上の望みといったら、よいご領主様がお立ちになって、ご仁政をかけていただくことしかございません。もし、あなた様でなく他のお方が、太守になるようでもあったら、私どもは、闇夜から闇夜を彷さま徨よわなければなりません。首をくくって死ぬ者がたくさん出来るかも知れません﹂ 中には、号泣する者もあった。 その愍あわれな飢餓の民衆を見るに及んで、劉備もついに意を決した。即ち太たい守しゅ牌はい印いんを受領して、小沛から徐州へ移ったのである。三
劉玄徳は、ここに初めて、一州の太守という位置をかち得た。 彼の場合は、その一州も、無名の暴軍や悪あく辣らつな策謀を用いて、強しいて天に抗して横おう奪だつしたのではなく、きわめて自然に、めぐり来る運命の下に、これを授けられたものといってよい。![※(「さんずい+(冢ー冖)」、第3水準1-86-80)](../../../gaiji/1-86/1-86-80.png)
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四
その年の十二月、曹操の遠征軍は、まず陳の国を攻め、汝南︵河南省︶潁えい川せん地方︵河南省・許昌︶を席せっ巻けんして行った。 ――曹操来きたる。 ――曹操来る。 彼の名は、冬風の如く、山野に鳴った。 ここに、黄巾の残党で、何か儀ぎと黄こう邵しょうという二頭目は、羊よう山ざんを中心に、多年百姓の膏こう血けつをしぼっていたが、 ﹁なに曹操が寄せて来たと。曹操には![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
五
この壮士は一体何者だろう。 悪来典韋は、闘いながらふと考えた。 賊将を生擒って、どこかへ拉らっして行こうとする様子から見れば、賊ではない。 といって、自分に刃向って来るからには、決して味方ではなおさらない。 ﹁待て壮士﹂ 悪来は、戟ほこをひいて叫んだ。 ﹁無益な闘いは止めようじゃないか。貴様は黄こう巾きん賊ぞくの残党でもないようだ。賊将の何儀を、われらの大将、曹操様へ献じてしまえ。さすれば一命は助けてやる﹂ すると壮士は、哄笑して、 ﹁曹操とは何者だ。汝らには大将か知らぬが、おれ達には、なんの恩顧もない人間ではないか。せっかく、自分の手に生擒った何儀を、縁もゆかりもない曹操へ献じる理由はない﹂ ﹁おのれ一体、どこの何者か﹂ ﹁おれは![※(「言+焦」、第3水準1-92-19)](../../../gaiji/1-92/1-92-19.png)
![※(「ころもへん+睹のつくり」、第3水準1-91-82)](../../../gaiji/1-91/1-91-82.png)
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六
まるで材木か猪いのこでも引っぱるように、熊手や鈎かぎ棒ぼうでわいわいと兵たちが許きょ![※(「ころもへん+睹のつくり」、第3水準1-91-82)](../../../gaiji/1-91/1-91-82.png)
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愚兄と賢弟
一
出稼ぎの遠征軍は、風のままにうごく。蝗いなごのように移動してゆく。 近頃、風のたよりに聞くと、曹そう操そうの古巣の![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
![※(「風にょう+炎」、第4水準2-92-35)](../../../gaiji/2-92/2-92-35.png)
![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
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二
呂布は牙きばを噛んで、 ﹁やいっ、開けろ、城門を開けおらんか。うぬ、憎ッくい賤せん民みんめ、どうするか見ておれ﹂ と、口を極めて罵ってみたが、どうすることもできないのみか、城壁の上の田氏は、 ﹁もうこの城は、お前さんの物ではない。曹操様へ献上したのだ。さもしい顔をしていないで、足もとの明るいうちに、どこへでも落ちておいでなさい。――いや、なんともお気の毒なことで﹂ といよいよ、嘲ちょ弄うろうを浴びせかけた。 利を嗅かいで来た味方は、また利を嗅いで敵へ去る。小人を利用して獲た功は、小人に裏切られて、一挙に空しくなってしまった。呂布は、散々に罵り吠えていたが、結局、そこで立ち往生していれば、曹軍に包囲されるのを待っているようなものである。ぜひなく定てい陶とう︵山東省・定陶︶をさしてひとまず落ちて行った。 かくと聞いて、陳宮は、 ﹁田氏を用いて、彼に心をゆるしていたのは、自分の過ちでもあった﹂ と、自責にかられたか、急遽、城の東門へ迫って、内部の田氏に交渉し、呂布の家族たちの身を貰いうけて、後から呂布を追い慕って行った。 城地を失うと、とたんに、従う兵もきわだって減ってしまう。 ︵この大将に従ついていたところで――︶と、見み限きりをつけて四散してしまうのである。田氏は田氏ひとり在るのみではなかった。無数の田氏が離合集散している世の中であった。 だが、ひとたび敗軍を喫して漂泊の流軍に転落すると、大将や幕僚は、結局そうなってくれたほうが気が安かった。何十万というような大軍は養いかねるからである。いくら掠奪して歩いても、一村に千、二千という軍がなだれこめば、たちまち村の穀倉は、いなごの通った後みたいになってしまう。 呂布は、ひとまず定てい陶とうまで落ちてみたが、そこにも止ることができないで、 ﹁この上は、袁えん紹しょうを頼って、冀きし州ゅうへ行ってみようか﹂と、陳宮に相談した。 陳宮は、さあどうでしょう? と首をかしげて、すぐ賛成しなかった。呂布の人気は、各地において、あまり薫かんばしくないことを知ったからである。 で、一応、先に人を派して、それとなく袁紹の心を探らせてみているうちに、袁紹は伝え聞いて謀士の審しん配ぱいへ意見を徴していた。 審配は、率直に答えた。 ﹁およしなさい、呂布は天下の勇ですが、半面、豺さい狼ろうのような性情を持っています。もし彼が勢力を持ち直して、![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
三
糜竺はいうのである。 ﹁呂布の人がらは、ご承知のはずです。袁えん紹しょうですら、容いれなかったではありませんか。徐州は今、太守の鎮守せられて以来、上下一致して、平穏に国力を養っているところです。なにを好んで、餓がろ狼うの将を迎え入れる必要がありましょう﹂ 側にいた関羽も張飛も、 ﹁その意見は正しい﹂と、いわんばかりの顔してうなずいた。 劉玄徳も、うなずきはしたけれど、彼はこういって、肯きかなかった。 ﹁なるほど、呂布の人物は、決して好ましいものではない。――けれど先頃、もし彼が曹操のうしろを衝いて、![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
四
そこから劉玄徳は先に立って、呂布の一行を国賓として城内に迎え、夜は盛宴をひらいて、あくまで篤くもてなした。 呂布は、翌る日、 ﹁その答礼に﹂と、披露して、自分の客舎に、玄徳を招待したいと、使いをよこした。 関羽、張飛のふたりは、こもごも、玄徳に云った。 ﹁お出でになるつもりですか﹂ ﹁行こうと思う、折角の好意を無にしては悪いから﹂ ﹁なにが好意なものか。呂布の肚の底には、この徐州を奪おうとする下した心ごころが見える、断ってしまったほうがいいでしょう﹂ ﹁いや、わしはどこまでも、誠実をもって人に接してゆきたい﹂ ﹁その誠実の通じる相手ならいいでしょうが﹂ ﹁通じる通じないは人さまざまで是非もない。わたしはただわしの真まご心ころに奉じるのみだ﹂ 玄徳は、車の用意を命じた。 関羽、張飛も、ぜひなく供について、呂布の客舎へのぞんだ。――もちろん、呂布は非常な歓びで、下へもおかない歓待ぶりである。 ﹁何ぶん、旅先の身とて、充分な支度もできませんが﹂と、断って、直ちに、後堂の宴席へ移ったが、日ごろ質素な玄徳の眼には、豪ごう奢しゃ驚くばかりだった。 宴がすすむと、呂布は、自分の夫人だという女性を呼んで、 ﹁おちかづきをねがえ﹂ と、玄徳に紹ひき介あわせた。 夫人は、嬋せん娟けんたる美女であった。客を再拝して、楚そ々そと、良人のかたわらに戻った。 呂布はまた、機嫌に乗じてこういった。 ﹁不幸、山東を流りゅ寓うぐうして、それがし逆境の身に、世間の軽薄さを、こんどはよく味わったが、昨日今日は、実に愉快でたまらない。尊公の情じょ誼うぎにふかく感じましたよ。――これというのも、かつて、この徐州が、曹操の大軍に囲まれて危きた殆いに瀕ひんした折、それがしが、彼の背後の地たる![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
五
﹁これっ。何をするっ﹂ 劉備は、一喝に、張飛を叱りつけた。関羽も、あわてて、 ﹁止さないか、場所がらもわきまえずに﹂と張飛を抱きとめて、壁ぎわへ押しもどした。 が、張飛は、やめない。 ﹁ばかをいえっ。場所がらだから承知できないのだ。どこの馬の骨か分りもしない奴に、われわれの主君たり義兄たるお方を、手軽に賢弟などと、弟呼ばわりされてたまるか﹂ ﹁わかったよ、分った﹂ ﹁そればかりでない。さっきから黙って聞いていれば、呂布のやつめ、自分の野望で![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
毒と毒
一
一銭を盗めば賊といわれるが、一国を奪とれば、英雄と称せられる。 当時、長安の中央政府もいいかげんなものに違いなかったが、世の中の毀きよ誉ほう褒へ貶んもまたおかしなものである。 曹操は、自分の根ねじ城ろだった![※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)](../../../gaiji/1-14/1-14-50.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
二
楊彪の妻は怪しんで、良人を揶や揄ゆした。 ﹁あなた。どうしたんですか、いったい今日は﹂ ﹁なにが?﹂ ﹁だって、常には、私に対して、こんなに機嫌をとるあなたではありませんもの﹂ ﹁あははは﹂ ﹁かえって、気味が悪い﹂ ﹁そうかい﹂ ﹁なにかわたしに、お頼みごとでもあるんでしょ、きっと﹂ ﹁さすがは、おれの妻だ。実はその通り、おまえの力を借りたいことがあるのだが﹂ ﹁どんなことですか﹂ ﹁郭![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
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![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
三
楊彪の妻は、わざと同情にたえない顔をして見せながら、 ﹁ほんとに夫人様は、なにもご存じないんですか﹂ と、空おそろしいことでも語るように声をひそめた。 郭かく![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
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四
﹁おお! 怖ろしい﹂ 郭夫人は、良人にしがみつきながら、大おお仰ぎょうに、身をふるわせて云った。 ﹁ごらんなさい。妾わたしがいわないことではないでしょう。この通り、李司馬から届けてよこした料理には毒が入っているではありませんか。人の心だって、これと同じようなものです﹂ ﹁ウむむ……﹂と、郭![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
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![※(「言+栩のつくり」、第3水準1-92-6)](../../../gaiji/1-92/1-92-06.png)
五
﹁李司馬の甥が、天子を御みく輦るまにのせて、どこかへ誘かど拐わかして行きます﹂ 部下の急報を聞いて、郭かく![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
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![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「眉+おおざと」、第4水準2-90-21)](../../../gaiji/2-90/2-90-21.png)
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六
折も折である。
帝は、容かお色いろを変えて、
﹁何事か?﹂と、左右をかえりみられた。
﹁見て参りましょう﹂
侍臣の一人があわてて出て行った。そして、すぐ帰って来ると、
﹁たいへんです。郭かく
の軍勢が城門に押しよせ、帝の玉体を渡せと、喊ときのこえをあげ、鼓こを鳴らして、ひしめいておりまする﹂と、奉答した。
帝は、喪そう心しんせんばかり驚いて、
﹁前門には虎、後門には狼。両賊は朕ちんの身を賭かけ物ものとして、爪そう牙がを研とぎあっている。出ずるも修羅、止まるも地獄、朕はそもそも、いずこに身を置いていいのか﹂と、慟どう哭こくされた。
侍じち中ゅう郎ろうの楊よう
は、共に涙をふきながら、帝を慰め奉った。
﹁李りか
は、元来が辺土の夷えびすそだちで最前のように、礼をわきまえず、言語も粗野な漢おとこですが、あの後で、心に悔いる色が見えないでもありませんでした。そのうちに、不忠の罪を慚はじて、玉座の安泰をはかりましょう。ともあれ、ここは静かに、成行きをご覧あそばしませ﹂
そのうちに、城門外では、ひと合戦終ったか、矢やた叫けびや喊かん声せいがやんだと思うと、寄手の内から一人の大将が、馬を乗出して、大音声にどなっていた。
﹁逆賊李りか
にいう。――天子は天下の天子なり、何なに故ゆえなれば、私わたくしに、帝をおびやかし奉り、玉座を勝手にこれへ遷うつしまいらせたか。――郭かく
、万民に代って汝の罪を問う、返答やあるっ!﹂
すると、城内の陰から李
、さっさっと駒をすすめて、
﹁笑うべきたわ言ごとかな。汝ら乱賊の難を避けて帝おん自らこれへ龍りゅ駕うがを奔はしらせ給うによって、李
御ぎょ座ざを守護してこれにあるのだ。――汝らなお、龍駕をおうて天子に弓をひくかっ﹂
﹁だまれっ。守護し奉るに非ず、天子を押しこめ奉る大逆、かくれないことだ。速やかに、帝の御身を渡さぬにおいては、立ちどころに、その素っ首を百尺の宙へ刎ねとばすぞ﹂
﹁なにをっ、小ざかしい﹂
﹁帝を渡すか、生命を捨てるか﹂
﹁問答無用っ﹂
李
は、槍を振って、りゅうりゅうと突っかけてきた。
郭
は、大剣をふりかざし、おのれと、唇をかみ、眦まなじりを裂いた。双方の駒は泡あわを噛んで、いななき立ち、一上一下、剣けん閃せん槍そう光こうのはためく下に、駒の八蹄ていは砂塵を蹴上げ、鞍あん上じょうの人は雷らい喝かつを発し、勝負は容易につきそうもなかった。
﹁待ち給え。両将、しばらく待ち給え!﹂
ところへ。
城中から馳はせ出して、双方を引分けた者は、つい今し方、帝のお傍から見えなくなっていた太尉楊よう彪ひょうだった。
楊彪は、身を挺してふたりに向って、懸けん河がの弁をふるい、
﹁ひとまず、ここは戦をやめて、双方、一応陣を退きなさい。帝の御命でござる。御命に背そむく者こそ、逆賊といわれても申し訳あるまい﹂と、いった。
その一言に、双方、兵を収めてついに引ひき退しりぞいた。
楊彪は、翌日、朝廷の大臣以下、諸官の群臣六十余名を誘いざなって、郭かく
の陣中におもむいた。そして一日もはやく李りか
と和睦してはどうかとすすめてみた。
誰もまだ気づかないが、もともとこの戦乱の火元は楊彪なのである。ちと薬が効きすぎたと彼もあわてだしたのだろうか。それともわざと仲裁役を買ってことさら、仮面の上に仮面をかむって来たのだろうか。彼もまた複雑な人間の一人ではある。
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「王+奇」、第3水準1-88-6)](../../../gaiji/1-88/1-88-06.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)
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![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)](../../../gaiji/1-86/1-86-50.png)
![※(「にんべん+確のつくり」、第4水準2-1-76)](../../../gaiji/2-01/2-01-76.png)