野のわ分けのあと
敗者の当然ながら、直ただ義よしの三河落ちはみじめであった。 淵辺伊賀守の斬り死になどもかえりみてはいられず――敵に追われどおしで、とくに手越河原では残りすくない将士をさらにたくさん失い、今川、名な児ご耶や・細川、斯し波ばなど一族子弟の討死も幾人かしれなかった。 ついに、ここでは直義も進退きわまったとみてか、 ﹁腹掻き切って、左さひ兵ょう衛えノ督かみ︵兄尊氏︶どのへお詫びせん﹂ といったのを、 ﹁何の、ここはお討死のつぼにあらず。いかなる恥をしのんでも、生きてこそ﹂ と、今川範のり国くにのいさめに思いとまって、苦闘に苦闘をつづけ、やっと川を渡りえたとつたえられている。だがこの段はさて、どんなものだろうか。 直義の性格として、めったに斬り死にだの自害だのとは言いだしはしまい。もし事実なら、おそらくまわりの将士にさいごの決意を奮わすための指揮者の血相をみせたまでのものではなかったか。 なぜなれば、彼には、彼の身ひとつ以上な重任が考えられていたはずである。――鎌倉から救出して連れていた成しげ良なが親王・みだい所の登子・またとくに若わか御ごり料ょう︵尊氏の一子・千寿王︶らの足弱をおいて――そうした短気はおこしえないところであった。 また、べつに淵辺をやッて、このどさくさ紛まぎれに、大塔ノ宮を暗殺せしめたなどの、直義がとった処置をみても、惨敗の中でこそあれ、彼はなかなか狼狽などはしていない。次の段階――将来というものにたいして、兄の尊氏以上にも、 ﹁ここは﹂ と、はや今日の鎌倉放抛を、大望第二期への峠として、独断、思いきった手段に出ていたこととわかる。 そして要するに、彼の胸にあったのは、長いあいだのもどかしさを、宮弑しい逆ぎゃくの一事にかなぐり捨て、つねに政治的に、またつねにじれったい、兄の態度をして、いやおうなしに明確な反朝廷へとここで引きずりこんでしまおうとする彼一流の強ごう引いんな腹だったにちがいない。 とまれ、手越河原の難はからくも脱だっしえたが、矢やは矧ぎまでまだ四十里ほどはあった。――が幸いにも、ところの地頭、入江ノ左衛門春はる倫ともの一隊が味方にはせ加わり、どうやら月の末、三河国の矢矧についた。 ここは郷党の地だ。即、足利方の勢力範囲といっていい。直義は、みだい所の登子の身をひとまず一色村へあずけ、また成良親王は、そのまま兵をそえて都へお送りし奉った。そしてひたすら兄尊氏の下向を待ちつつ、また一面、奪回された鎌倉を、さらに再度奪回するの策やら準備におこたりなかった。 一方、都の空では。 つとに敗軍の報がひっきりなしに朝廷へも六波羅へもはいっていた。 まだ、直義の鎌倉放抛とまでは聞えないうちからである。尊氏は、 ﹁あぶないもの﹂ と、はやくも形勢を察し、みずから赴いって、直義を扶たすけたい旨を、再三、朝廷へ奏請していた。しかるに朝廷では、これにたいして、断じておゆるしを降くださなかった。 もっとも、尊氏が朝廷へ願い出ていたのは、ただたんに、 ﹁こと火急。鎌倉は無勢。みずから馳はせくだって弟直義をたすけねば﹂ というだけのものではなかった。 同時に、このさい、 征せい夷い大将軍総そう追つい捕ぶ使し の印いん綬じゅを自分にたまわりたいと、あわせて、請こうていたのである。だが、 ﹁もってのほかな!﹂ とする廷臣の強硬な反論のあろうことぐらい、彼が想見していないはずもない。知りつつ持ちだした奏請なのだ。尊氏も引くいろではなかった。 つまるところ、窮極は天皇の御採否一つにかかる。おそらく叡慮をなやまされたことであろう。 征夷大将軍 は武家最上の任である。それを尊氏にゆるすのは、かつての鎌倉将軍家の格式を彼に与え、幕府再建をみとめることにほかならない。 一日一日、日はすぎた。 朝廷はゆるさず、六波羅はうごかず、ただ東の、敗報ばかりが、矢つぎ早であった。 するうちに、鎌倉の放抛、直義の敗走、つづいて大塔ノ宮がその幽所で何者かに殺されたなどの取沙汰も聞えて、都じゅうは容易ならぬ風ふう騒そうの中におかれだした。 そうした八月一日。 朝廷は発表した。 鎌倉をのがれ出た成しげ良なが親王をして“征夷大将軍トスル”という補任の令である。――これで尊氏もあきらめよう。そしてまた、尊氏の野望をも、これをもって塞ふさごうという窮余の封じ手だったのはいうまでもない。 ﹁殿は﹂ 高こうノ師もろ直なおはいま、どこからか、馬で六波羅へ飛んで帰って来たばかりである。 例の廂ひさしノ間まで、一ト汗拭いて、やがてのこと、薔しょ薇うび園えんの書院のうちに、ぬかずいていた。 ﹁いや、その儀は、いましがた、ほかの筋から耳に入っておるよ。かさねて、そちから聞くにもおよばん﹂ 尊氏は言った。いつもの尊氏とかわりもない。 いささか拍子抜けのかたちである。師直は、また出る顔の汗を懐紙でそっと叩きながら、それとは離れて、とっさに言った。 ﹁いよいよ、お腹の決めどきでございまするな。朝廷がわのご態度はさだまりまいたで﹂ ﹁いまさら何を﹂ 尊氏はうすら笑って。 ﹁そちには、用が多いぞ。いつでも廂ノ間へひかえておるようにいたせ。かかる折、執事のそちがどこへ行っておった﹂ ﹁てまえならではなるまいかと存じ、佐さめ女う牛しまで一ト鞭むちあてて行いてまいりました﹂ ﹁道誉の許か﹂ ﹁さようで﹂ ﹁よく気がついた。気がかりはあの男のうごきにある。いたか﹂ ﹁おりませぬ﹂ ﹁参内か﹂ ﹁でもございませぬ。はや佐女牛は無人同様で、昨夜、国元の伊吹へひきあげたと、留守の者が言いおりまいた﹂ ﹁奴。さすがだな﹂ ﹁そして、この一書を、足利殿へと、あとの家臣に託して行ったよしにござりまする﹂ 文面を一読、尊氏は苦笑をみせ、それなりで黙っていた。 ﹁殿﹂ と、師直は膝をすすめ、 ﹁道誉が何を書き残しておりますので﹂ ﹁見るがよい。――このさい二心なし、と道誉がわざわざこれに証判しておる。そして、わしの東国出しゅ勢つぜいを、途中の伊吹にてお待ちせんとも書いておるのだ﹂ ﹁はアて?﹂ 師直はうめいた。誇張したあきれ顔をその下に作って。 ﹁まだ、ご当家の出勢は布ふ令れてもいず、朝廷もまた例の、殿がお願いの件を、おきき入れはなく。……いやその奏そう請せいは蹴られて、征夷大将軍の任命は、成良親王へご決定と、公布がみられたばかりなのに﹂ ﹁道誉は早耳だ。すでにその内定を、きのうのうち、知ったのだろう﹂ ﹁それにしても、殿のご意中もようたださず、伊吹へ帰って、ご軍勢の通過を待つなどという先廻りは﹂ ﹁よくいえば、機を見るに敏びんなやつ。悪くいえば抜け目ない横着者だ。が、よかれあしかれ、彼が二心なしといってきたのは、大きな幸せ。……さもなければ、尊氏はここで這しゃ奴つにのど首をしめられねばならなかった。たとえどう膝を屈くっしても、道誉の機嫌をとって味方に迎えねば、うごきのつかぬところであったよ﹂ ﹁ではやはり?﹂ ﹁師直。きょう中にあらゆる準備をぬかりなくすましておけ﹂ ﹁ご発足は﹂ ﹁明朝、あかつき﹂ ﹁そして、朝廷へは﹂ ﹁そのままでよい。お届けにはおよばん。再三、お願い出ではしてあるのだ。……のんべんくらりと、御ぎょ命めいの降下を待っていたら、東国の様相はそのあいだに一変してしまうだろう。さもあらば、とり返しはつかぬ﹂ 事実、尊氏はいま刻々にそれが案じられていた。 天下の武士あらましは、公家政治に失望して王政ならぬべつな“何か”の形態を統一のうえに欲している。――北条残党ののろしが、東国の野でたちまち巨大な火勢となったのも、現状に不平な枯れ草が土壌いたる所にあるからだ。 これは、尊氏として、坐視できない。武士の不平は、彼にすれば、彼のいだく大望の理想楼閣をきずく良材なのだ。味方なのだ。その素した地じを、北条再建軍にうばわれては、彼の立脚する所はなくなる。 かつは、朝廷としても、ここまできた北条討滅の意義は霧消してしまう。――だからたとえ朝命をまたず無断東征に赴おもむいても、それは天下の御為ともいえるのではなかろうか。 尊氏は、しいて自分の行為に、そう理由づける。 直ただ義よしとちがい、彼には暴を暴と知ってはできない思慮があった。朝廷度外などの不逞は敢あえてなしえないのだ。あくまで彼のなかには朝廷への崇敬があり、上への越権は気にかかるらしい。 にもかかわらず、彼は師直へ、無断離京の準備を命じた。 ひとつには、望んでいた征夷大将軍の補任が外はずれた業ごう腹はらもあったが、なによりは弟直義を見殺しにはできないとする情があった。分別顔に似ず、情には奔はしるほうなのである。 明けて、八月二日は、空もようまでが、ただならなかった。颱たい風ふう期きである。どこか遠国で大荒れをしているのだろう。近畿いったいは強風だった。都の朝も雲くも脚あしの迅い明滅をしきりにして、加茂川の戦そよぎがそのまま大内裏の木々をも轟ごう々ごうとゆすっていた。 ﹁あれ、御み簾すが﹂ ﹁蔀しとみが﹂ と、殿上でも、舎とね人りや蔵くろ人うどたちが風にもてあそばれ、てんてこ舞いな姿だった。雨のないのがまだ見つけもので、木の葉まじり、大屋根の檜ひわ皮だまでが空に黒いチリのつむじを描きぬいている。 こんなところへの頻ひん々ぴんな取沙汰だった。 ﹁朝まだき、暗いうちに、足利の宰さい相しょう︵参議︶をはじめ、六波羅じゅうの勢せいは、東へ立った﹂ ﹁はや六波羅には、武者らしきものはひとりもいぬと申す﹂ ﹁総勢千七、八百騎とか﹂ ﹁いやいや、それが大津越えにかかる頃は、尊氏を慕うてあとより追っかけ加わる勢せいもおびただしく、いつか三千余騎にもなっていたという﹂ ﹁いずれにせよ、尊氏は、八座の宰相の身にありながら、君恩もわすれ、朝命も待たいで、無断、東とう下げをあえてしたことは確かとみゆる﹂ ﹁不忠不逞な臣﹂ ﹁断乎たる御処分な降くだされねばあいなるまい﹂ 公卿口の姦かしましさ。殿上いずこの間までも廊でも紛ふん々ぷんたる騒ざわめきである。 公卿ばかりでない。新田、名和、結城などの武臣も、ひっきりなしの参内だった。――わけて千種忠顕は早々に出しゅ仕っしして、上卿の面々とともに中ちゅ殿うでんの御ぎょ座ざへまかり出ていた。 ﹁皇威にかかわります。勅使を立て、尊氏の意をただすべきでございましょう。もちろん、尊氏は理くつをならべ、朝命に畏かしこみますまい。そのさいは、ぜひもございません﹂ 忠顕は言った。 ――義貞をさし向けて討ち取るべきだという意見である。 すでに直義は東国でやぶれた敗残の将、尊氏は六波羅をすてて途中にある無拠地の旅軍、これを追ッて討つのは容易だともいうのだった。 ﹁だがの﹂ ここは待たれよ、とする上卿たちの声もつよい。彼の無断東とう下げが、さまで不逞不忠な罪といえるだろうか。朝命を待たず戦争におよんだ例は、古来、たびたびある。――後ご三年ノ役の源義家、前ぜん九年のさいの頼義、みなそうだった。――いつ降くだるかわからない朝命を待っていたら、戦機、とり返しがつかぬ大事にたちいたるからである。 尊氏のこんどのばあい。 尊氏からいわせれば、そうも主張できようか。武士の間には、﹁軍中将軍ノ令ヲ聞クモ、天子ノ詔セウハ聞カズ﹂ということばすら信ぜられているものを――と、上卿の老公卿は危ぶみ、また、名分の稀薄を指摘するのだった。 こんな論議のうち、いつか午ひるすぎてもいたのに、 ﹁在京の武門、あまたな武士ども、足利宰相のあとを慕したい、なおぞくぞくと都を離れ出て行きます﹂ と、刻々その動揺ぶりは宮廷内へも聞えてくる。 すでにその頃、尊氏は瀬田大橋もこえ、彼の東下の軍勢は、野のわ分けの爪つめあとのひどい稲田を途中に見つつ近江路を急いでいた。 ﹁えらい風﹂ と、尊氏はつぶやいた。 従う三千余騎もみな風の中である。歩兵はヨレヨレに縒よれてあるいた。 ﹁吉良。追い風だな﹂ ﹁は。西風で﹂ ﹁舟にも似て、風を負って行くゆえ、駒も軽い﹂ ﹁得え手てに帆ほとやら、お門かど出では上々吉です。が、野分のあとを見てくると、東へ行くほど、荒れがひどいようですが﹂ ﹁途中、崖がけなだれや出水のさまたげに会うかもしれん。……しかし従う面々がこの意気なら何ほどのことでもない﹂ 尊氏が﹁意気﹂と言ったには、ふくみが聞える。 吉良貞義は、ふと他の面々を見まわした。 高ノ師直、桃井直常、一色右馬介、引田妙源らはべつとし――自分をはじめ、仁木、畠山、斯し波ば、石堂、荒川などの一族輩はみな例外なしに、尊氏が弟直義を案じる思いと変わらぬものを胸に持っていた。 なぜならば、その誰もが、兄や弟や、我が子らを、東国の空においていたからで、 生きているやら? はや死者のかずか と、口にこそ出さないが、急へ赴おもむく悲壮ないろが、しぜん、たれの眉にもあったのだ。 行く行く兵は増すばかりで、翌々日、近江番場へかかったとき、引田妙源は尊氏へ ﹁お供の軍勢はもう四千をかぞえまする﹂ と、告げていた。 在京の武門のほぼ三分の一は尊氏を慕って従ついて来たし、土とこ地ろ土地の無主無名のやからも、腹はら当あて一つに柄つかもほつれた腰刀や、古長巻など引っかかえて、十人二十人の徒党で﹁――足利の宰相が御東下の端に﹂と、陣へ投じて来るのであった。もとより深い頼みにはならぬ烏うご合うだが、ばかにならない数にはなる。 やがて、不破ノ関は近い。柏かし原わばらノ宿場だ。ここには約束の佐々木道誉が、約をたがえず、自軍を立て並べて待っていた。 尊氏の姿を見ると、道誉は、宿場の一陣屋から立ち出て来た。そしていつもの倨きょ傲ごうな彼とは別人のように、腰ひくく、 ﹁御ごち着ゃく。お待ち申しあげておりました﹂ と、臣礼をとって、 ﹁軍旅のお疲れもやと、あれにご休息の用意をさせおきまいてござりまする。……いかがでしょう。しばしお憩いこいあっては﹂ と、誘いかけた。 ﹁いや﹂ と尊氏は、鞍あん上じょうのまま。 ﹁知っての通りだ。直義の安否も気づかわれる矢さき、このまま行こう。御辺もすぐつづいてまいられい﹂ ﹁もとより伊吹の手兵一千、挙げて参陣の心ぐみで、これにひかえておりましたなれど、寸時、彼方の陣屋の内で、このさい会うてお上げなされてはいかがなものと愚考しますが﹂ ﹁会うてやれと? 誰に﹂ ﹁ご一子、不いさ知や哉ま丸るさまに﹂ ﹁…………﹂ ﹁また、藤夜叉どのとも。……いやその藤どのは、名をかえて、いまでは越えち前ぜんノ前まえと申しあげ、以後ずっとお変りなく、伊吹の城に、今日を待っておられました。ひと目会うておあげなされませぬか﹂ 尊氏はふと胸をさいなまれた。 なろうなら目をふさいで過ぎてしまいたかったものを――その罪ざい業ごうの形見みたいな者たちへ――苦にがい想いを余儀なくされていたからだった。 道誉の言によれば。 藤夜叉は、越前ノ前と名をかえて不知哉丸とともにつつがなく伊吹の城にいるという。あれいらい三年になる。不知哉丸もはや十三か。 その母子をわすれているどころか尊氏は自己のおかした罪業のつぐないをいつかは果たさねばならぬものとして日頃にも悩んでいた。けれど実の子や妻とも一つにいられぬほどな時局だった。大望の達成までは、家庭や身辺の犠牲はやむをえないとあえて顧慮から忘れようとしていたのである。彼はわざと非情を顔に作って道誉へ言った。 ﹁いや、御辺の親切気はかたじけないが、この日において、申さば、つまらぬもてなしというものよ。さし措おいてもらいたい﹂ ﹁では、ご対面は﹂ ﹁いたすまい﹂ ﹁ふたりは、がっかりするでしょう。ここを御通過ときいて、ひそかにお会いがかなうかと、愉しんでいたふうですから﹂ ﹁いまはそんな時ではない。いかに先をいそぐ身かは、御辺がよくわかっているはず﹂と、言い捨てた。そして﹁――妙源いるか。引田妙源﹂ と、ほかを見て呼び、軍の編成について早口にいいつけた。 ﹁ここから加わる佐々木の伊吹兵一千は、二の備えに組み入れろ。――道誉。すぐ行くぞ。二の陣について来い﹂ 軍命として言った彼のことばは、個人を超えたひびきで、もうそれに、私事をさしはさむ余地などなかった。従来の佐々木道誉も、麾き下かの一部将としてしか扱っていず、またそれ以上には眼の中においてもいない尊氏なのだった。 ﹁はっ﹂ と、道誉は唯い々いとして去って、中軍から次の隊伍に加わった。それの編入にやや手間どったが行軍はすぐつづけられ、前隊はもう不破ノ関を通過していた。 その間かん。おそらくは不いさ知や哉ま丸ると越前ノ前は、柏原の陣屋のほとりか、寺院の門の蔭にでもいて、よそながら尊氏の通過を見ていたかもしれなかった。しかし尊氏の眸にははいらなかった。またその眸は、それをさがしていたような風でもない。 美濃路―― 尾張平野 道をひがしするほど、過ぐる日の颱風が、東国寄りの地方であったことがわかる。 行軍は、出水のあとや、まだ水カサのひかない川の渡河になやんだ。が、ようやくのこと、京都発足いらい七日目の八月八日、三河国に着いた。 ﹁お見えか﹂ 待ちかねていた直ただ義よしは、矢やは矧ぎの陣所から八やつ橋はしまで出て、兄尊氏の全軍を迎えた。 相互、無量な感であったろう。﹁梅松論﹂がいう――当夜、矢ヤハ矧ギニ御ゴチ着ヤクアツテ、京都鎌倉ノ両大将御対面、久々ナル御物語リ、尽クトモ見エズ――とある一条の短みじ夜かよは、こうして、あわただしいまにすぐ白む。 そして翌九日。尊氏、直義の兄弟軍は、もうそこを発して、ただちに鎌倉へさしていた。 鎌倉を奪とりかえした北条遺臣の寄合軍は、統一上、 御先代の軍 と、みずからを称となえていた。 その先代軍は、 ﹁必定、敗北した直義の次に来るものは尊氏!﹂ と見、うらみかさなる尊氏、目にものみせんと、遠江からひがしの要所要所に陣地を構築して、備えには、おさおさ怠りなかったのである。 だが、先代軍の大将、名越式部大だゆ輔うがまず、橋本︵浜名湖附近︶の序戦にやぶれた。つづいてまた敗れ、その総なだれを初めとして、 佐夜の中山合戦 駿河の高橋縄手︵興津附近︶ 箱根越の山いくさ 相模川渡河戦 片瀬、七里ヶ浜 鎌倉口 と、敗走に敗走をかさねた。足利方は、要害七ヵ所七度のたたかいも、ついぞ負け色をみせず、行くところで勝ち、十九日、尊氏の馬は、もう鎌倉の内へ突き入っていたのである。 連戦わずか十日だった。この迅さ強さにみても、このときの足利勢が、いかに気鋭新鮮な、いわゆる風雲児の下に引率された軍であったかが察しられる。 道誉でさえも。 といってしまうと、彼は弱い凡将のようだが、彼の天分は別な面にあって実戦場ではむしろ狡こう将しょうと呼ぶべき方の者だろう。その道誉でさえも、このときばかりは必死な目にあって働いた。いや働かされたといってよい。 それは、相模川の合戦の日であった。 敵は、遠江から退いた名越式部の死にもの狂いな兵を中心に、伊豆の伊東祐すけ持もちや、三浦、諏す訪わなどの新手を加え、頑強にふせぎ戦って一歩もひかない。 このとき、尊氏が、 ﹁ここはよい。ここはよいから上野︵太郎頼勝︶の隊と、仁木︵三郎太義照︶の隊は、川の上かみを乗り渡せ。また、佐々木︵道誉︶の隊は下し流もを渡って、無二無三、対岸の敵の腹背に出ろ﹂ と、軍令した。 これはきつい令である。決死隊にほかならない。 道誉は心で、ほかに足利譜ふだ代いの将も多いものをと、 ﹁ちッ﹂ と、思ったがぜひもなかった。馬うま筏いかだを組んで、敢かん然ぜんたる渡河戦の先陣を切った。もとより河中では矢ぶすまを浴び、対岸へ斬りこんでからも、たくさんな犠牲を出したのはいうまでもない。 従軍はしても、彼は自分が子飼いの伊吹兵は、これを極力大事にして、武功と取り換える消耗はつねに巧く逃げている。 ﹁……尊氏め、それを知って、おれを今日の難場に使ったな﹂とは思ったが、しかし彼の上には勝かち鬨どきが沸いていた。悪感情もたちまちそれに吹き消されていた。 こうして彼は、今川頼国と並んで、海道下くだりの二大将となり、鎌倉口まで先陣をつづけたが、しかしその道誉には、上野と仁木の二部隊が付いていた。軍監として、彼を督戦していたのである。 とまれ、鎌倉はまた、足利方の下に回かえった。 先代軍の脆もろさは案外というしかない。北条時行以下、各地へ四散し、ふたたび元の残党境界の陽かげにひそんだ。この先代軍が鎌倉を占領していたのはわずか二十日間に過ぎなかったので、世上これを﹁二十日先代ノ乱﹂といった。東あず景まげ色しき
これで、鎌倉の地は、高時いらい、わずかな年月に、四たび主あるじをかえたことになる。 義よし貞さだ 直ただ義よし 先代軍の北条時行 そして、今からはまた、尊氏が事実上の﹁鎌倉殿﹂たる座にすわった。 さきに直義がいた二階堂御所は手ぜまなので、さっそく、若宮小路に新邸が造営された。といっても全体の落成ではない。とりあえず一部を普ふし請んし、あとは昼夜兼行の鑿のみや手ちょ斧うなの音だった。 人々はそこを、いつか、 大御所 と呼んだり、将軍御所といったりした。そして直義の二階堂の営えいはたんに“下しも御所”といいならわした。﹁鎌倉大日記﹂に――尊氏ノ鎌倉ニ入ルヤ、自ラ征夷大将軍ト称ス――などとあるのは事実でないし、世間から観た彼でもない。 世上ではこんどのいきさつを知っている。 なるほど尊氏は将軍宣せん下げを求めていたが、朝廷はそれを拒否して、他の宮へ征夷大将軍を与えてしまった。のみならず、朝議はその後、おかしな叙じょ任にんを尊氏へ贈っていた。 尊氏が、無断、都を発したあと朝議紛ふん々ぷんの結果ではあろうが、追っかけに、彼が矢やは矧ぎについた日の頃、 征東将軍ニ補ホス との沙汰をとどけていたのである。征夷大将軍でないべつな官称だ。これなら尊氏が幕府を再建するものとはならない。しかも似ている。という姑息な慰撫であったのだ。尊氏は笑っておうけしたが、直義はあとで、なぜ御返上しなかったかと、ひどく腹を立てたことだった。 だから、似て非なる征東将軍でも、将軍御所にはちがいない。また大御所と呼ぶのも不当ではなかった。けれど尊氏はそんな実のない敬称によろこんでもいず、また無頓着なほうでもあった。そしてこのさいは、諸将の功にむくいる行賞などの方にむしろ興味があったらしい。彼は、尻尾を振ってよろこぶ者を見るのが第一の好きらしく、余りに気前がよすぎるほどだった。それが過ぎて、すでに朝廷で没収していた旧北条遺領や、新田義貞が受領した土地までを、麾き下かの将につい頒わけてやってしまったほどである。直義をよく叱るが、やり過ぎは、彼にもある。 それと彼は、降伏者には寛大だった。――直義はきびしい。峻烈に斬る者は斬る。――だが尊氏の耳にはいると、いつも彼がなだめる方にまわっていた。たいがいな旧怨も忘れ顔で助けてしまう。先代軍の余類からも少なからぬ降人があったなどは、しぜんそんな風評が武士間にあったからにちがいなかった。 こうしたうちに。十月。 都からは、ゆゆしい勅使の下向と聞えてきた。やがて、詔みことのりを奉じてきた御みつ使かいは、中院ノ源げんの中将具とも光みつで、こういう朝命の降くだしであった。 ﹁東国の逆乱もすみやかな静せい謐ひつを見、相共によろこばしい。さっそく将士の軍功の施せ与よは、綸りん旨じの下に、朝廷で宛あて行おこなうであろう。されば尊氏には、一日も早く帰洛し、六波羅にもどって、逐一の報告を親しく上聞に達しおわられよ﹂ 時局も時局である。しかも、勅の旨は、 尊氏みずから、すみやかに、上洛あるべし という厳命だ。 勅使中院ノ具とも光みつは、おごそかに尊氏へ伝達してから、個人的なくつろぎに返って、 ﹁いやなに宰さい相しょう。即答はごむりであろ。何かと周囲むずかしい御多端も拝察に難くない﹂ と、言い足した。そしてまたいうには、一族間の御協議などもおありであろうゆえ、両三日のことなら逗留してお待ち申すもよい。とにかく、明確なご返辞をえて帰洛したい、と釘を打つのだった。 ﹁こころえてござりまする﹂ 尊氏は、旨を拝した。 それなり沈黙におちている。――熟慮のうえでともいわず、即答したことでもない。 中院ノ具光がじっと観るところ、なにさま、尊氏の心中は困惑そのもののようにうかがわれる。くるしげな彼の立場と腹の中が鏡にかけてみるようにわかる気がするのであった。 ややあって、尊氏は、こころもち胸をただした。 さしうつ向いていたうちに、その苦渋を顔から除とっていたのか、はしなく具光の眼と見あった眸は、細ほッそりと笑えみを描き、頬の薄らあばたまでがこの人特有な茫ぼうとした愛嬌をたたえて、何の屈くっ託たく顔でもなかった。 ﹁いや両三日が間は、旅のおつかれを休め、まためったには東国への御下向もありますまいから、鎌倉あたりの御見物もなされませい。……それにせよ、尊氏が返答如い何かにと、重き御みつ使かいを胸につかえておられたのでは、心から東あず景まげ色しきもお楽しみのお眼には入るまい。その儀はどうぞ御ごあ安ん堵どあって﹂ ﹁では﹂ と、具光は意外そうに。 ﹁お召には、否やなく、ご承諾と仰せられるか﹂ ﹁勅。なんで否やがありましょう。さきごろ、みゆるしも待たず、急遽、六波羅を出てまいりましたのも、もしその果断を取らなかったら、今日の勝利もなく、尊氏は弟直義を失い、都は北条遺臣軍の包囲を見、天下の再乱、君のおん大事は必至と、憂えられた以外、何の私心でもございません﹂ ﹁ごもっともじゃ。さればその儀については、君もさらさら、お咎めではおわしまさぬ。そればかりか、其そ許この功を嘉よみせられ、征東将軍の称を贈って、宰相の心をなだめようとさえしておいであそばす﹂ ﹁もったいないことでした。不肖尊氏にたいする君の御優遇には、いつも心のそこからありがたいとおもっております。乱らん麻まの時代、権謀の多い君臣の内外。時には、叡慮にもそむき、また時には、お気にくわぬ自じ恣しもあえて振舞う尊氏にはござりますが、正直申せば、僭上ながら自分は当今のみかどを、比類なき英君なりとあがめておる。そして主上もこの尊氏をかくべつお目かけて下されいるものと、鴻こう恩おん、忘れたことはありませぬ﹂ ﹁ううむ、おことばのまま、ようおつたえ申しあげよう。いかばかりおよろこびか﹂ ﹁されば、御みつ使かいなくとも、夙つとにわれから上洛すべきでしたが、戦後なお鎌倉は乱らん離りの状です。なにとぞ、ここ数日のご猶予をばお願い申しあげまする﹂ 勅使の中院ノ具とも光みつは、 ﹁これで安心いたした﹂ と、ひとまず宛てがわれた饗応屋敷へ引きとった。そして尊氏からは、 いつ上洛するか の日取りを、数日中に答えることになったのだった。そのあいだの饗応役は、高ノ師直。これは適任であったろう。 がしかし。勅使下向のその日から、どことはなく全足利党は殺気立っていた。朝廷から何をいって来たのか。その難題とは何か。そこの饗応屋敷をめぐって険悪な臆測をさまざまにし、あたかも敵国の軍使でも迎えたかのような反抗気分さえあるのだった。 ﹁万一でもあっては﹂ と、尊氏は上杉憲のり房ふさをして、勅使の宿所から一町四方を警固させた。それほどな動揺の中にであった。 ﹁あとはたのむぞ﹂ と、尊氏は今、大御所の広間に居ながれた一同へ向って、 ﹁ぜひなく自分は、勅を畏かしこんで早そう々そうに上洛いたす。君もお待ちかねとの勅使のおことば。何はおいても、罷まからねば相なるまい﹂ と、言っていた。どうしようと諮はかる評議ではない。決意を告げ渡していたのである。 ﹁…………﹂ 弟の直義。 以下、細川和氏、仁木、今川、一色、畠山、斯し波ばなどの重臣から、そして佐々木道誉までが、たれひとり尊氏の言をそのまま胸にうけ容れたらしい顔つきでない。沼のような沈黙がつづくだけだった。こうなると直義以外には一族の気もちを率直に口に出せる者はなかった。 ﹁宰さい相しょう﹂ と、彼も兄弟としての馴れなどはどこにも示さず、重おも々おもしく、その頭かしらを下げて。 ﹁仰せではありますが、このさいの御上洛などは、もってのほかと存じられます。何とでも辞を構えて、ここはお断り申し上げておかれますように。……一同もひとしく同じ憂いに相違ございませぬ。いや、問わずもがな。揃って、お見合せのほどを、こうお願いつかまつッておりまする﹂ すると尊氏は、 ﹁いや﹂ と、刎ね返すように、きっぱり言った。 ﹁そうはまいらん。ほかならぬ勅のお召めし、またも違勅をかさねては畏おそれ多い﹂ ﹁ですが﹂ ﹁ならんのだ、そこが﹂ ﹁そこがと仰せられますが、しかし、時にもよれ、勅にもよること﹂ ﹁直義﹂ ﹁は﹂ ﹁一同へも、かさねていう。すでに拝諾の旨は、勅使へお答え申しあげてしまったのだ。――時も時なる危うさは、尊氏とて、知らぬはずがあるものか。上洛なせば、堂上こぞって尊氏を指しだ弾んし、身の申し開き如いか何んを問わず、万々の御ごけ譴んせ責きはあるだろう。……が、わしは天皇の御ごち寵ょう恩おんにそむき奉ることはできぬ。このまごころをもって咫しせ尺きにお訴え申しあげてみるつもりなのだ。おそらくは君もおわかりくださることと思う。……な、直義。また一同もそれの結果をおとなしく待て。かまえて妄動しては相ならんぞ﹂ ﹁では、どうありましても﹂ ﹁む。上洛は変更し難い﹂ ﹁いや私どもは、何としても、お止めせいではいられません。断じてお止めいたしまする!﹂ ﹁いうな、直義﹂ 尊氏は叱った。 だが。直義が黙ると、仁木、今川、細川、みな口を揃えて、 ﹁何とかお考え直しを﹂ と、上洛の危険を説き、尊氏の決意を諫いさめてやまなかった。 佐々木道誉も、おなじ見解で、 ﹁このさい、もしご上洛あらば、必ず義貞の要撃をうけて、天皇への御拝顔をとげる以前に、千種忠ただ顕あきらの罠わなにおちいるものと、お覚悟あらねばなりますまい。なぜなれば﹂ と、ここで彼は知るかぎりな公卿間の内情をかたった。在京中には、千種や新田とも、つきあいよくつきあっていた道誉である。そのことばには、耳をかしていいものがある。 すでに、尊氏要撃の企くわだては、大塔ノ宮いらいの根深い計であり、今とて変更されているはずはない。むしろ、宮の遺臣やその勢力は、義貞の下に編入され、打倒尊氏の計画は、義貞を中心に一ばい強大になっているだろう、と道誉はいう。 そのほか、幾多の悪条件をかぞえて、極力、道誉も諫かん止しした。けれど、尊氏はいぜん、うなずく風もなかった。――ただ一ト言、考えてみる、といっただけである。そしてかえって、留守中のさしずなどして一同を退がらせた。 ﹁なにとぞ、ご賢慮を﹂ ぜひなく、一同は退出まぎわの一言に一いち縷るをつないで退きさがったが、しかしこれで安らげるはずもない。その夜、またあくる日と、この面々は直義の下しも御ごし所ょに寄合って、どうしたら朝廷の難題をのがれうるか、また、尊氏を思い止まらすことができるか、直義を中心に、鳩きゅ首うしゅ、談合の様子だった。 その果てとみえる。 直義はただひとりで、一夜、下御所から兄の大御所をおそくに訪ねた。 ﹁はやおやすみの時刻、あすにゆずろうかと思いましたが﹂ ﹁いやまだ寝るにはちと早いから頼春︵細川︶を相手に碁ごでも打とうかといっていたところだ。そちが来たのなら酒でも酌くもうか﹂ ﹁いえ、ちとおはなしもございますから﹂ ﹁なんだの﹂ ﹁そのご、何かよいお考え直しがおつきでございましょうか。直ただ義よしもそれのみが苦慮され、一同もひたすらお案じ申しあげている次第ですが﹂ ﹁上洛の件か﹂ ﹁はい﹂ ﹁あれなりだ﹂ ﹁あれなりとは﹂ ﹁鎌倉の留守の方がむしろ心配でな。ご勅使への返答も迫っておるが、出発の日取りだけがつい決めかねておる﹂ ﹁兄上﹂ ﹁なんだ﹂ ﹁ではまだお迷い中なので﹂ ﹁迷ってはいない。一同の案じるところもよくわかっているが、勅命、畏かしこんで行くしかない。上洛ときめているだけだ﹂ ﹁ばかな!﹂ 直義はついに張りつめている胸のものを破って、兄の、まともに瞠みはった眸へ向って、挑いどみかかった。 ﹁勅が何ですっ、勅が。勅とあれば兄あに者じゃには、そんなにもありがたいのか。そむけないものなのか。兄者は近頃、どうかしてしまッている!﹂ 尊氏は、屹きっと、きつい厳きびしい顔をしてみせた。 ﹁…………﹂ ものはいわず、それはただ兄の顔になりきっている。 これにぶつかると、直義は幼少からの習性に抑よく止しされている平常の屈従感から、別な“弟の反抗”が抑えようなくむかっとクビをもたげてくる。 直義にはつねに、公おおやけの兄なる人と、私の兄とが意識無意識にくべつされていた。――今夜この室にはたれもいない。――直義の感情は丸裸なものになれと内からささやかれている呼い吸きづかいなのである。兄ふた弟りにして一人にひとしい骨肉感が濃厚に彼の血のうちで何をいおうと恐れはないような勇を想起させていた。 がしかし、一瞬だけの反逆だった。いつまで、ものもいわぬ兄の眼に、直義はつい気を崩した。そして位くら負いまけみたいな卑屈にすぐ妥協しかかる自分を腹だたしく厭いといながらも、 ﹁兄あに者じゃ。……思い出してください。直義は鑁ばん阿な寺じの置おき文ぶみを今とて夢にも忘れてはおりません。兄者には、いつかあれを、お忘れではないのですか﹂ と、ことばを直した。自分の激血と兄の反射とをなだめ合うつもりで強しいて低く静かに言ったのだった。 ﹁おたがい、いつか年をとりました。都の風にも吹かれ、一門三十二党それぞれに家運を伸ばし、わけて兄者は、正三位左さひ兵ょう衛えノ督かみに叙じょされ、八座の宰さい相しょう︵参議︶の御一人にも挙げられ、殿てん上じょ人うびとの列にも列せられてみると、置文のお誓いなど、自然お心からうすらいでしまうのは、人情自然かともぞんじますが、しかしそれでは一体なんのために﹂ ﹁直義、直義……﹂ ﹁いやもすこしいわせてください。そんな小さい望みのために。そ、そんな小しょ成うせいに安んじるくらいなら何も﹂ ﹁過ぎるぞ、口が﹂ ﹁いいや、先祖家時公の置文などを御一門に誓わせたり、またこれまで、あらゆる恥に耐え、多くの者を奮い死なせ、その秘事のため、私はいまにいたるも妻を持たず、兄者は妻子はあるも妻子と一つに居ることもないなどの苦労は何もすることはなかったはずです﹂ ﹁だまらんかっ、ばか﹂ ついに、苦しいものは、彼よりは尊氏を耐え難くして来た。尊氏もとうとう公おおやけには吐かない語気で弟を呶鳴った。 ﹁直義。きさまこそ少しどうかしておるぞ。それしきのこと、きさまから聞くまでのことはない。ちと、あたまを冷やせ﹂ ﹁どちらが﹂ ﹁なにっ﹂ ﹁われらの大望はまだ中途でしょうが。だのに、はや公卿なみの優遇ぐらいで骨抜きにされ、勅とあれば理非なくありがたがる兄者なのでは情けない。直義は一同に代り、その晏あん如じょを醒まさいではなりません﹂ ﹁だまれ。青臭い広言をば﹂ ﹁お叱りは何とうけてもいい。かくなる上はだ。――兄者っ﹂ ﹁なんだ、その眼まなざしは﹂ ﹁僭上ですが、今日、勅使の方へは、尊氏事上洛つかまつらずと、兄者に代って、いや足利三十二党を代表して、直義からお断り申しておきました。勅使は明早々に、帰洛のはずです。もう御断念のほかはございますまい﹂ ﹁な、なに﹂ 尊氏はせきこんだ。あきれ返った態ていでもある。穴のあくほど直義の顔をみて。 ﹁き、きさまは、この兄をさしおいて、直じき々じき、勅使へさような無礼をお答えなどして、わしを窮地へおとす所存なのか﹂ ﹁なんで。ばかな!﹂ 直義は言い放した。もう腹をすえた眉なのだ。 位置を変えて、弟が逆に兄へ食ッてかかるときの盲目的な顔を見ては、その暴言の底のものに、尊氏もはっと怯ひるまずにいられなかった。その常軌のワクにしばられている兄へ、弟はなおさら果敢だった。 ﹁そこがあなたの頭がどうかしている所だ。兄あに者じゃを待つ窮地とは京都のことでしかない。そんな危地へわれらの棟とう梁りょうをやってはならん。断じて、上洛は阻止すべきだと、一族どもは寄より寄り憂えているのですぞ。その憂いを負って、私は勅使にきっぱりとお断りを呈したまでだ。それが何で兄者を陥すことか!﹂ ﹁ああ、きさまもまだ依然むかしのままな青侍だったか。浅あさ慮はか者ものめがッ。これでまず九きゅ仭うじんの功こうも一いっ簣きに欠いてしもうたわ。思えば、きさまの如き無謀小こさ才いなやつを大望の片腕とたのんだなどがすでに尊氏のあやまりだった。返す返すも残念な﹂ 尊氏は一歩自分を内省に退いている。ここで弟と争ったら全足利党は真二つに割れる。必死にことばを抑えている風なのだ。が、直義にはそれも弟への揶や揄ゆに聞えた。 ﹁これやおかしい。すべてを直義の小才や無謀のせいになさるが、兄者はどうだ! その兄者はもう公卿風の毒に魅せられて、苦難の大業よりは、いまの栄位に小さく安んじていたいのだろう。大望に魁さきがけて死んだやからこそ不ふび愍んなものだ。幾多の将士の白骨は浮かばれもしまい﹂ ﹁ちと、おちつけ、直ただ義よし﹂ ﹁この私が﹂ ﹁よく聞け。そもそも、われらの望みとは、そんな易い々いたる道ではあるまい。第一この国では、逆賊朝敵とよばれたら大事を成すなど全く望めぬ不利となる。またあくまで朝廷は朝廷としてあがめおくのが尊氏の本心でもあるのだ。そこがきさまらには分っておらぬ﹂ ﹁分りません! てんで分りませぬ! どうして朝廷をそう恐がるのか﹂ ﹁ちがう。尊氏の意はちがう。どうなろうと、天皇はやはり至上の上にあがめおきたい。この国の美だ、また要かなめだ。もしそれをなくしたら、さなきだに俺が俺がの天下は、のべつ乱らん麻ま乱世のくりかえしだろ。それを恐れる﹂ ﹁それなればだ、なぜ大望などいだいたのか。初めから矛盾でしょうが﹂ ﹁いや矛盾でない。頼朝公はそれを成しとげた。いやもっとよい武家統治も不可能ではない﹂ ﹁ちッ、それで兄者の夢は夢とわかった。幕府を廃し、武家を政治から無力にし、すべてを天皇の下もとに帰きすというのが後醍醐の一貫した御方針。いや王政としてじっさいにもう布しかれている。それをその朝廷も崇あがめ、また武家統治の再興も見ようなどとは、元々出来ない相談だ。矛盾も矛盾、いやはや、ばかげきっている!﹂ ﹁直義。いかにとはいえ、下げ種すの喧嘩ではなかろうぞ。雑言はやめい!﹂ ﹁やめます! いう気力もありはせぬ。痴人の夢には、もう、がっかりだ﹂ ﹁そちは大望を矛盾といったが、朝廷を上に崇あがめることと、武家政治をもつこととは、矛盾しない﹂ ﹁もうお説せつ諭ゆはたくさんだ。頼朝公の時代とは時がちがう。あのころは後醍醐の御代でもなし、朝廷でも、王政一新などを世に布しいてはいなかった﹂ ﹁だからこそ、尊氏はひたすら機を待つに如しくなしとしていた。自然、御みこ心ころが、人心の望まぬ王政の非をさとられる日を、気長に待つの腹でおった。しかるに、きさまと来ては、短慮だけの者でしかなく、事々に先ばしッて大望の道を邪さまたげ、それのみか、この兄を叛逆者の名に追いこみ、大事の達成を、われから進んで打ち壊している﹂ ﹁はて。いつ私が足利党のめざす希望をさまたげたろう。また、ぶち壊したと仰っしゃるのか。いくら兄者でも聞き捨てならん。これまで戦場の犠に牲えとしてきた多くの白骨に対してもだ。兄者ッ、自分の卑劣を弟の私にかぶせて、それでお気がすむのか﹂ ﹁ではいうが。直義。きさまはまだこの兄にさらと打明けぬな﹂ ﹁何をです﹂ ﹁大塔ノ宮弑しい逆ぎゃくの不逞をあえて犯したことだ﹂ ﹁いやお耳には入れてある﹂ ﹁それは一片の報告にすぎまい。部下の淵辺とかをやって、このたびのどさくさ紛れに、殺せといいつけたのは、ほかならぬきさまではないか。下手人は汝なんじ直義なのだ。それをば今日まで、あからさまに、そうとは告げず、ただ鎌倉放抛のさい、何者とも知れぬ者の兇行であったかのごとくぼかしておる﹂ ﹁おお、ご存知ならいってしまおう。いかにも私が命じてやらせた。直義こそは下手人と世上から指さされても私はいい!﹂ ﹁たわけめ。何でさような暴をむざとしたか。非情、無思慮、それで一軍の将といえるか。言語道断、いつかは、きさまを罰しずにはおかぬぞ﹂ ﹁これは異いなお叱りだ。私心私怨のように仰っしゃる。だが直ただ義よしの心は、未来恐るべきあの宮はかかるさいにこそ除いてしまえ。きっと兄者も腹の中ではよろこぶに違いない。そう考えていたしたものを﹂ ﹁だまれ。かりそめにも至しそ尊んの御み子こ。しかも陪臣ずれの無慈悲な刃で殺し奉る法があろうか﹂ ﹁では、女にょ奏そうの讒ざんを用いて、宮を初雪見参の夜に、陥おとしいれたのは誰ですか。兄者、あなたの計ではないか﹂ ﹁…………﹂ ﹁それだ。そのように、あなたのすること、いうことは、すべて矛盾だらけなのだ。尻尾と頭とが一つでない。道誉を鵺ぬえというが、兄者こそ上うわ手てをこす大おお鵺ぬえだわ!﹂ ﹁こやつ、止めぬな、悪口を﹂ ﹁いうまいとしても、こよいばかりは直義も﹂ と、直義は眼のうちのものを煮えたぎらせた。ふと幼少の頃そっくりな顔にみえる。せつな、尊氏はいきなりその弟の頬をピシッと烈しく一つ撲はりつけていた。 ﹁いえッ。いくらでも申してみよ﹂ ﹁打ちましたな、兄者!﹂ 尊氏にもままかっとなる性情がなくはない。 そこもまた、直義からいわせれば、“矛盾の人”であるのだろう。けれどそれを外に出したせつなに彼は後悔する。いまもそうであった。弟を打つには打ッたが、とたんに胸は凝ぎょ縮うしゅくの痛みをしていた。そしてもう半分は理性の自己にもどりながらも、 ﹁オオ打った。まだいうなら、いくらでも打つぞ﹂ と、怒いかった眼だけはそらさなかった。 ﹁…………﹂ 直義は蒼白な顔に鬢びんの毛を垂れていた。とっさに、あらい感情を吐きそこねて、かえって、打たれた自分を憐あわれむようにしゅんと色を沈めている。そして、静かに、曲まがった烏え帽ぼ子しの緒おをむすび直すあいだに、薄い自嘲と度胸をすえた太ふて々ぶてしさとを、どこやらにたたえていた。 ﹁兄上――﹂兄者とはいわなかった。﹁ついまたあまえて、言いたい放題を吐きすぎました。ご折せっ檻かんは身にこたえる。お気のすむまで打ってください﹂ 救われたように尊氏もすぐ顔を解ほぐした。 ﹁いやおれも大人気ないわ。そちと二人だけでいると、とかくわがまま同士になりやすい。そのくせ兄のおれの中には亡父のおもかげや先祖の遺言などが常住無意識に住んでいる。それを直義にまで水臭くされるとこれまた淋しい。そこらが尊氏の矛盾だろうよ。だがどう争ッたところで、しょせん二人は兄弟なのだ。かんべんしろ、弟﹂ こういわれると直義は口ほどもなかった。ほろッと涙をこぼした。 尊氏はそのとき、その眸をじろっと斜め後ろへやった。近侍の細川頼春だろう。主君同士ふたりの争いを心配して、廊のそとにかがまっていたらしいが、すうと退がって行った気配である。尊氏はすぐ言った。 ﹁な、直義。とかく口論してみても始まらぬ。大塔ノ宮弑しい逆ぎゃくの一事も、勅答の一条も、はや、やってしまった後のまつりだ。いまさらどうなるものではない。またそちの悪意でもなく、みなこの尊氏を思ってしてくれたことではある。このうえはあとの思案だ。が、その思案には﹂ と、尊氏は襟もとに顔を埋めて、 ﹁……いささか、わしも途方にくれる。さてどうしたものか﹂ と、つぶやいた。 ﹁いやその儀なら﹂と、直義は初めからの覚悟のていで﹁――すべての悪名は私が着ます。いかなる難関にも身を以てあたる所存ではおりまする。がただ一つ、兄上の胸底には、いまなお、鑁ばん阿な寺じの置おき文ぶみが、お忘れなくあるのかないのか、それだけが﹂ ﹁気がかりか﹂ ﹁気がかりです﹂ ﹁はははは﹂尊氏は、初めて笑い出して。﹁見損うな。殿上の衣冠などは雛ひな人にん形ぎょうでも着る。また、すでに白骨となった者、生ける一門の族やか党ら、ましてそちまでを、裏切っていいものか。尊氏はそちたちが観ているよりは、ずんと欲望の深い悪党なのだ。わしが仕尽くす業ごうはこんなことでは終るまい。頼朝公ですら、さしも死しに際ぎわはよくなかった。この尊氏もそれには似るかもしれん。……それでの、そろそろ後ごし生ょうを心がけたい。ここでしばらく仏門に入りたいのだ﹂ ﹁えっ、仏門に?﹂ 本気かと、直義は疑った。 だが、あいまい模も糊こな尊氏の顔はまた笑っていた。 ﹁いや謹慎のためにだよ。近日中にわしはここの将軍邸を捨てて、寺へ移る。身はそのままな俗尊氏だがの﹂ ﹁どうして急にさような思い立ちを﹂ ﹁なんといたせ、大塔ノ宮を殺あやめまいらせたことは申しわけない。下手人淵ふち辺べには科とがもない。当然そちの犯した逆罪だが、この尊氏も同罪たるはまぬがれ難い。かたがた、上洛も拒否し、違勅をかさねたうえは、寺へでも籠こもって心からな詫びを、朝廷及び世上へ、かたちで示すしかみちはなかろう﹂ ﹁では、しばし仮の?﹂ ﹁そうではない。また兄の矛盾よと笑うだろうが、本心、宮の御ごぼ菩だ提いも弔とむらう気だ。むごたらしいご最期をお遂げさせた。尊氏の強敵たるには違いないが、もはや無力なお人なりしを、さまでにはせんでもよかった。いや、直義、またそちを責めるわけではないぞ。いわば後ごし生ょうの怖れか。ふと夢枕に宮のすさまじいお顔を見た夜もあった。ともあれ、わしは寺へ移る﹂ ﹁あとは﹂ ﹁そちがやれ﹂ ﹁軍も諸政も﹂ ﹁一切ここはそちに委す﹂ ﹁かまいませぬか﹂ ﹁ただしわしが今夜言ってきかせたことだけは以後踏みはずすな。八はち幡まん、尊氏がこよいの言に偽りは持たぬ。何事もその辺を考えてやってくれい﹂ ﹁ですが、朝廷の御目標と、わが足利家の大望とは、まったく相容れぬ逆です。出来るでしょうか、その両立が﹂ ﹁できる﹂ ﹁むずかしい﹂ ﹁もとよりやさしくはない。百難もあろう﹂ ﹁ですが、朝敵となるのをひたすら怖れてばかりいた日には、大事を成すなど思いもよらぬ難事ではありませぬか。いくら委すと仰せ下されても﹂ ﹁時運はたえまなく動いているのだ。そうこだわるな。眼前の事態にのみ固着した頭あた脳までは手も足も出せはせぬ。――やがて勅使も帰洛のうえには、何かの変も生じて来よう。打つ手も自然出てくるものだ。尊氏もここしばらくは静観しよう﹂ やがて、両三日後に、はやこのことは実現された。 尊氏は、細川頼春、一色右馬介らの近習小姓わずか七、八名を身につれただけで、突然、 蟄ちっ居きょする の旨を内外に触れ、浄じょ光うこ明うみ寺ょうじのうち深くに籠こもってしまったのだった。 いきさつは直義とおもなる者しか知るところでない。一門の族党は大きな驚愕に打たれた。しごく単純な武者ばらでもある。彼らは主君の謹慎のすがたをそのまま信じた。理由なく傷んだり何かへ憤慨したりした。そして一時的ではあるが、鎌倉は冴えない景色のうちにあった。 勅使、中院ノ具とも光みつは、すでに帰洛の途にあったが、これらのことも海道では早耳に入れていたにちがいない。 彼の見た“東景色”はそのまま朝廷へ復命された。――尊氏勅ヲ奉ゼズ――は、なかば予期されていたものの、いよいよ事実化されると、あらためて衝動は大きかった。朝敵尊氏ということばは、宮中公然な声になった。義貞・駁ばくす
連日の公くげ卿せ僉ん議ぎである。そのふんい気といい宮廷内の緊張は、かつてのどんな時局にも例をみないほどだった。
﹁もはや僉議の要はない!﹂
この声は最もつよい。また多い。
彼ら若公卿はいう。
﹁尊氏の反逆は、すでに歴然といえる。それなのに再度の勅を奉じさせて、法勝寺の慧えち鎮ん上人をさし下くだしてみたらなどという儀は、あまりにも手ぬるすぎて、彼を増長せしめるばかりか、賊に軍備をかためさせる余よじ日つを与えるだけでしかない﹂
﹁かつは御威光にかかわろう。朝廷に人なく軍威なきにも似る﹂
﹁それはすぐ在京武者に弱味をおもわせ、いたずらに去きょ就しゅうを迷わせる悪結果をよぶ﹂
﹁すでに、足利の叛旗とみるや、諸家の武門を脱走して、ぞくぞく、鎌倉さして行く兵も少なくないとか﹂
﹁いや、それは憂えるほどなことでもない。事態の急に、京から鎌倉へと、身の処置をきめて行くのもある代りに、また都に祗しこ候うの主筋や縁えん故こを持つ輩やからは、これまたぞくぞく、東国から京へと急ぎ、海道はそのため、西ゆく者、東する者、櫛くしの歯を挽ひくが如しじゃと、いわれておる﹂
﹁いずれにせよ、もはや右うこ顧さ左べ眄んしているときではない。朝敵尊氏を討つに、なんのおためらいなのか﹂
﹁新田義貞に、逆賊討伐の朝命をさずけ、あるかぎりな王軍を催して、いまのうちに、禍かこ根んを断たちおかねば、百年の後、悔いてもおよばぬ﹂
﹁それこそは、さきの大塔ノ宮護もり良なが親王の御遺志でもあった。いまにして宮の御先見がおもいあたる﹂
僉せん議ぎの席では、しばしば宮の御名が人々の口に出た。
しかし、宮の御受難とは、ひろく知られていても、その死期のありさまなどは、まだとんと確かなことはわかっていない。――もっともひそかには、先代軍か足利勢の兇刃のもとに? という臆測もおこなわれていなくはなかったが、見た者はなし、確証もないことだった。――ただいえることは﹁これも尊氏が女奏の讒ざんに始まったことだ﹂という恨みだけなのである。
この恨みは当然、大塔ノ宮遺臣のあいだに強かった。かねがね屈くっ強きょうな侍や多くの兵を内に蓄えていた宮家でもある。――この者どもは扶ふ持ちにも離れかけたが、しかし浮浪にまではならずにそのほとんどが新田義貞の麾き下かにかかえられた。近ごろとみに義貞の二条烏丸屋敷の周辺が喧騒にみち、尊氏罵倒の気概りんりんたるものがあるのも、ひとつはこれによるといってよい。
異様な充血はしかしここだけの現象ではなかった。
千種忠ただ顕あきの邸なども近来は、半公卿半武将ともいえる陣装を構えており、つねに義貞をはじめ、目ぼしい武門との連絡を、緊密にもっていた。――無二の味方とばかりおもっていた佐々木道誉が、尊氏へ奔はしってしまったなどのことが――彼をしてこのさいの警戒心をいちばい強めさせていたにはちがいない。
その忠顕は、外では義貞とむすび、公卿僉せん議ぎでは、たれよりつよい主戦論をとっていた。そして後醍醐へもしばしば直じき奏そうの下に迫るなどの熱中のしかたであった。
この日ごろのお悩みは龍りゅ顔うがんのうえにもうすぐろい隈くまとなって、さしもお身の細りすらうかがわれる後醍醐だった。
いつの公卿僉議にも、
﹁……まずは﹂
とのみで入にゅ御うぎょ。また、
﹁考えておく﹂
とばかりで御裁可はない。
いわんや、千種忠顕が直じき々じきの奏上などに、ご意志を左右されるはずもなく、
﹁ま、さは逸はやるな。息いきりたつな。坊門ノ清忠ら一部の意見にも耳をかせ﹂
と、抑えてしまう。
要するに、僉せん議ぎの決まらぬ原因は、ほかならぬ帝のお心にあったのだ。――そして暗に清忠の説を支持しておられるやのふしがあるのも、あるいは帝のおむねを彼にいわせているものなのかもしれなかった。
その左大臣坊門ノ宰相清忠ひとりは、ほかの激越な即戦主義者とは大いにちがって、
﹁尊氏にも功はある﹂
と、言い、
﹁その功もたちまち措おいて、ただ罪のみをあらだてるのは如いか何がかとおもう。――たとえば元げん弘こうの六波羅探題攻めのさい、彼の反かえり忠ちゅうがなかったら、あのせつ天皇御帰還は仰げぬことであったかもしれぬ。――また高時の滅亡をはやめたのも、ひとえに義貞の善戦によるとはいえ、もし足利千寿王が一軍の参陣なくんば、これまたどうであったろうか。――そのほか戦後の混乱時に、よく闕けっ下かの治安を維持したなども、尊氏の功は少なしとせぬ。……さればこそ。おん諱いみ名なの﹃尊たか﹄の一字をさえ賜うたほどなご嘉賞ではなかったか。さるを……手のひら返すごとく、逆賊とよび、王軍をくだして討たんなどとは、それこそ朝廷の不見識、朝ちょ令うれ暮いぼ改かいのたのみなさを、われから世へあかす愚ぐでなくてなんであろう。よろしくここは人心をなだめ、いくたびなりと尊氏の存意をただして、事を政治による解決へ見いだしてゆく工夫こそ、われら朝臣の務つとめと申すべきではなかろうか﹂
というのであった。
これが衆論にうけつけられなかったのは、前述のとおりである。けれど後醍醐の顧慮のうちには、ほぼこれと同じなものが、たゆたっていた。
元来、この君としては、尊氏なる人間を、根からお嫌いではないのである。いや人間的には彼の一種魅力めいたものに引かれてさえおいでになる。君臣というかきさえなければ一壺こし酒ゅを中において膝ぐみで議論してみたい男ですらあるくらいな思おぼ召しめしなのだ。かつは彼には実力がある。その実力にも御ぎょ意いはつねに、あの薄らあばたの一壮者を、御無視できない。
断だん
のお迷いはかくてつづくばかりだった。このさいにおける英断には、玄げん以いに学んだ儒じゅ学がくも、大だい燈とう、夢むそ窓うの両禅師からうけた禅の丹心も、その活機を見つけるところもない幾十日の昼の御ぎょ座ざ、夜よるノ御おと殿どのおん悩みらしかった。――そして来るべきものはひたひたと月日がついに帝をも浸ひたしてきた。突如、即戦派には有力な材料が、諸国から帝のおん目の前につきつけられた。
それは何かといえば。鎌倉から発した檄げき――すなわち足利家による――諸国への軍勢催促状なのだった。
﹁かかる物が国元へまいりました由。朝ちょうへ二心なきおちかいに、内覧に入れたてまつりまする﹂
と、在京武門の国々から届け出てきたその数は、何十通にもおよんでいた。
尊氏の逆心を証拠だてるにはこれ究くっ竟きょうなものである。ひと束たばにして僉せん議ぎの席へもちだされた。
帝も御覧あるに。
新田右衛門佐 義貞
誅伐 セズンバ有ル可カラズ
一族相催シ
急ギ馳 セ参 ジラレヨ
一族相催シ
急ギ
と、すべて同文で、また、はなはだ簡である。そして日付けもみな一様に、
十一月二日
の発になっている。
だが、署名は尊氏ではなく、左さま馬のか頭みとあり、すなわち弟直ただ義よしの花かき押はんだった。
内覧ののち、僉議の公卿一統へ廻覧された。色めきたつ小声小声の下にすべての者がやがて見終る。
﹁みられたか﹂
洞とう院いんノ実さね世よが言った。
千種忠顕、二条為冬など、声をそろえて。
﹁この檄げきに見るも、王軍のお手まわしはもうおそいほどだ。名を、義貞誅伐にかり、賊はすでに、全国から起たたんとしておる﹂
﹁檄げきの名分を、君クン側ソクノ奸カンヲ除ノゾク、というところへ持ってゆくのは、いつのばあいでも、むほん人が世のていをつくろう口実ときまっている。はや一日とて、猶予あるべきではない﹂
﹁しかも、尊氏の狡ずるさよ﹂
という者もあった。
﹁檄の上に、わが名はあらわさず、弟直義の名を唱うたうなども、這しゃ奴つの隠れ蓑みの! 見すかさるるわ﹂
このとき、坊門ノ清忠はなお、いつもの騒がない語調で、
﹁いやいや悪あしゅうとれば物事はいかようにも悪しゅうとれる。つたえ聞くに、尊氏は先の月、違勅の畏おそれをいって諸政を弟の直義に託し、身は謹慎を表ひょうするため、浄光明寺に入ったままふかくつつしんでいると申す。――そして以後は、元げん弘こうにおける戦死者の霊をなぐさめんがため、高時の旧館のあとに、円えん頓とん宝ほう戒かい寺じの建こん立りゅうをするなど、ひたすら恭順の意を表しているとあるが﹂
﹁それよ、そこが尊氏の食えぬところとお気がつかぬか。――つたえ聞くところなら、這しゃ奴つは一族の斯し波ば家長なるものを、私に、奥州管領となし、ひそかに奥州へ下向せしめたと聞いておる。――これなども、事をあぐる日、奥州東北の地を、同時にわが麾き下かに取り込まんとする謀意でなくてなんであろうぞ﹂
清忠は一言もなかった。
そのうえにも、また、ちょうどこのころ。大塔ノ宮の侍かし女ずき南ノ御方が、宮のおかたみなどをたずさえて、病後のやつれもまだ癒いえぬ身でやっと都へたどりついてきた。――果然、これによって、宮の死は、足利家の一武士の兇刃によってなされたことが明白になった。――後醍醐もこれのみは、よもやとしておられただけに、南ノ方からつぶさな当夜の惨状をおききとりあるや、さすが御父子である。逆げき鱗りんすさまじい御みけしきだた。朝敵、それ以上にも増す尊氏兄弟へのお憎しみが、どっとお胸の堰せきを切った。
朝廷が尊氏討伐を決定してこれを公卿僉せん議ぎに宣せんしたのは、十一月に入ってからのことにはちがいないが、その幾日頃であったろうか。
﹁公卿補任﹂をみるに、
陸奥守北畠
十一月十二日
鎮守府将軍ト
とあるに徴ちょうしても、この日すでに東征の用意があったのはあきらかだ。
これはいうまでもなく東海東山両道から兵をすすめるのみでなく、北の奥羽からも官軍を攻めのぼらせて鎌倉を挟きょ撃うげきさせようとの兵略にほかならなかった。しかし鎮守府将軍の官位はさきに尊氏へさずけられていたのだから、いまそれを褫ちだ奪つして、顕家へ与えられたことにもなる。
ところが、﹁神皇正統記﹂にもみえる通り、ここに、
十一月十日あまりにや
謀叛のよし聞えける尊氏
かへつて
義貞追討の請 ひを
闕下 に奏し奉る
と、ある一ト波瀾が起き、これが問題の、尊氏が細川和氏を使者として、朝廷へさし出した“義貞謀叛のよし聞えける尊氏
かへつて
義貞追討の
尊氏ノ奏状到来
十一月十八日
十一月十八日
との明記もあり。――いずれにせよ、すでに官軍発向の準備や任命などに、朝廷の内外ともに沸くばかりな空気のところへ、この奏状がとどいたことはたしかであった。
ところで、その上書なる物だが。そのなかで尊氏はこう訴えているのである。
義貞と自分との、年来にわたる確かく執しつを述べ、つまるところ、このようなはめになったのも、ひとえに佞ねい臣しんの讒ざん口こうによるもので、その張本は義貞であるとし、
﹁――願わくば、乱将義貞誅ちゅ伐うばつの勅許をたまわりたい。つくすべき忠も、荼とど毒くの輩が君の側かたわらにはびこっていたのでは捧げようもない。君側の奸かんを一掃してのうえでなら、微臣たりとも海内静せい謐ひつのためどんな御奉公も決していとう者ではない。どうかご推量を仰ぎたい。恐きょ惶うこ謹うき言んげん﹂
と、結んでいるのだ。
内覧のあと。
上卿のおもなる者もこれを見た日のことである。千種忠顕は参内の帰途、新田義貞の烏から丸すま屋敷をたずねていた。そして云しか々じかと、わけを語り、弾劾文の写しを彼にみせたのだった。
﹁…………﹂
義貞は読んでゆくなかばのうちに、もうありありと感情に燃やされた色で耳のあたりまで紅あかくしていた。
﹁心外な﹂
と、一ト言いって。
﹁……千種どの。これに黙っていては、佞ねい臣しん乱賊の汚名を義貞が自認しているものになる。義貞も一文を駁ばくして内覧に供えたい。そのような前例はどうであろうか﹂
﹁なんの、前例の顧慮などいるものか。すでに御辺は、王軍の大将として、ご内定もみておるのだ。――尊氏の奏状など、その一行の文も、おとりあげにはなっておらんが、それにせよ、ご潔白を立てる要はある﹂
その夜、義貞は灯をかきたてて、痛烈な反駁の一文を草そうし、あくる日ただちに上覧にいれた。
義貞の上奏文は、じつに激越な文辞であった。自分に対する尊氏の弾劾状を、完かん膚ぷなきまでにたたいて﹁尊氏兄弟こそは、大逆無道な人非人である﹂ときめつけ、箇条書きに、尊氏の“八逆の罪”なるものをそれにあげている。
一つ 臣義貞が上こう野ずけの旗上ゲは五月八日であり、尊氏が宮方へ返り忠して六波羅攻めに出たのは同月七日だった。相距ること八百余里。何で一日のまに連絡がとれよう。それを尊氏は、あたかも自分の令で新田を起たせたかのように誣ふそ奏うしている。これ罪の一つ。
一つ 尊氏みずからはじっさいには元弘の鎌倉攻略に参加しておらず、幼弱な千寿王に少数の兵をつけて、新田の陣じん借がりをしていただけのものにすぎない。しかるにそれも足利の功として誇っている。これ世上を欺ぎま瞞んし上を偽る。罪の二。
一つ 尊氏の六波羅にあるや、みだりにみずから奉行を称となえ、上のみゆるしもなき御みぎ教ょう書しょを発し、親王の卒そつをとらえて、これを斬ざん刑けいするなど、身、司直にもあらざるに法を執とり行う。これ罪の三。
一つ 東国にあっては、ひそかに禁府を開き、公おおやけの物をもって、私の恩を売り、征夷大将軍の位いみ名ょうを偽称す。その罪の四。
一つ 軍功の施せ与よは朝廷直じき々じきの令に待つべきを、北条時行を追って府に入るや、僭上にも身勝手に諸所公領の地を割さいて、これを餓がろ狼うの将士に分つ。罪の五たり。
一つ さきには讒ざん構こうをもうけて、巧みに、兵ひょ部うぶ卿きょうノ親王︵大塔ノ宮︶を流りゅ離うりに陥す。その罪の六。
一つ 親王の御ぎょ罰ばつは、ひとえに宮の驕おごりをこらす聖せい衷ちゅうに存するを、私しえ怨んをふくんで、これを囹れい圄ごに幽ゆうす。罪の七。
一つ 混乱に乗じょうじて、部下の兇兵を使しそ嗾うし、宮に害刃を加えたてまつる。天人ともに憎むところ。その罪の八。
伏して請 ふ
乾臨明照 のもと
尊氏直義 以下
逆党の誅命 あらん事を
畏 みて 奏 し仰ぐ
義貞誠惶誠恐 謹言
尊氏
逆党の
義貞
とした長文だった。
尊氏の言いぶん。
義貞の言いぶん。
いずれが是ぜか非ひなどは、もはや問題の時期ではない。またたれがみても、尊氏のそれは、義貞との確かく執しつを口実に、鉾ほこをかえて挑発している詭きべ弁んのもののようだし、義貞がかぞえあげた尊氏の八逆のほうが、はるかにその論拠にも力があった。しいて歪わい曲きょくしている点もなくはないが、不ふぐ倶たい戴て天んの仇敵をやッつけた筆誅の余勢である。多少の誇張はしかたがあるまい。
しかも、彼の昨今は、
﹁待ちに待ったる日が来た!﹂
と心を奮ッている風だった。得意さだった。
その義貞への朝命は、十八日に降くだり、十九日には、はや京中出陣ぶれの勢揃いがおこなわれていた。――早朝に、彼は曠はれの大よろいを着かざって、いそいそと参内に向った。朝敵征伐の節せつ度ど︵出征の祝い︶を賜わるためにである。義貞はかがやく栄光の中に自分をみていた。
朝敵追討大将軍の首かど途で
それには当然、朝廷でもなみならぬ期待のもとに、ずいぶん、古式に則のっとってその鼓こ舞ぶをさかんならしめたものらしい。
王軍をうごかす。
それじたいが、朝廷の浮沈もここに賭けたことになる。やぶれれば朝廷たりとも、争そう覇はの敵の驕おごりに屈くっする覚悟のもとでなければならない。
その大任を負って、新田右うえ衛もん門のす佐け義貞はいま、身のしまるおもいで、南なん殿でんの下にぬかずいた。――すこしさがって、弟の脇屋義助、式部義よし治はる、堀口美濃などの身内が、これまた、ひとかたまりに平伏している。
御みに庭わの階下には、内弁、外げべ弁ん、八座、八省の公卿百官がしゅくと整列しており、その視線はすべて、義貞ひとつに自然そそがれたままだった。――日ごろにも見てはいるが――わけて今日はその人物にたのみをかけて、
この人に栄はえあれ
と祈りをこめた衆目だった。
義貞はそれを感じる。武門最上な本懐と感じる。彼はすでにかつての旗上げの日、郷土の産うぶ土すな神がみに願がん文もんをささげて、
――古 ヨリ源平両家、朝 ニ仕 ヘテ、平氏世ヲ乱ストキハ、源氏コレヲ鎮 メ、源氏世ヲ侵 ス日ハ、平家コレヲ治 ム
と、告白していた。彼にもこの下心はあったのだ。いまや平氏の北条はない。足利が取って代ろうとしている。しかし自分も源氏の嫡流だ。有資格者である。八逆の賊尊氏を逐って、自分が覇武の権を取ッて代るに、世上の誰もふしぎとはしまい。
しかも優ゆう渥あくなるみことのりと大将軍の印いん綬じゅを賜わってそれに向うのだ。義貞はすでに尊氏を呑んでいた。やがて下された祝酒の一ト口にさえ、それは色になって彼のおもてをほの紅くした。
朝廷では、万一このたびの東征にやぶれでもしたら、建武新政の緒しょも根本からくつがえるものと、さまざま古例の吉凶なども案じて、治承四年、頼朝追つい罰ばつのさいに、三位惟これ盛もりをつかわされたさいの仕しきたりは不吉であった、よろしくこんどは天てん慶ぎょう承平の例に倣ならうべきであるというところから、特に、義貞へは節せっ刀とうを賜わり、やがて、三みたびの万歳の唱となえのうちに、華はな々ばなと、彼のすがたは大内を退出してきた。
そして衛府の門を出ると、なに思ったか、
﹁高倉へ﹂
と、軍兵をうながして、彼の馬はとうとうと先をきって二条高倉ノ辻へ馳はせむかっていた。そこで馬を止め、
﹁やよ船田ノ入道、朝敵退治の都立ちには古例がある。知っているか。古式いたせ﹂
と、一つの門を指さして、命令した。
そこは今は人もなき、旧足利直ただ義よしの空あき館やかたなのである。――船田ノ入道は、その前に兵をそろえて、三たび鬨ときの声をあげさせ、また、三すじの鏑かぶ矢らやを邸内へ射込んだのち、中門の柱を切っておとした。
するとここの鬨ときの声にあわせて、三条河原の空でも、わああっと、武者の諸もろ声ごえがわきあがっていた。
上将軍の陣であった。
大将軍義貞のほかに、後醍醐の一ノ宮、中なか務つか尊さた良かなが親王が、上将に任ぜられ、この日ともに都を立つこととはなっていた。
まもなく、義貞の軍は、尊たか良なが親王の騎馬一群をまん中に迎え入れて、その長ちょ蛇うだのながれは、順次、三条口からえんえんと東していた。
このさい、親王の中ちゅ書うし軍ょぐんがささげていた日にち月げつの錦の旗が、とつぜん突風に狂い、竿かん頭とうから地に落ちたので、人々みな、
﹁あな忌いまわし﹂
と、不吉感に吹かれたなどと古典太平記にはあるが、作為であろう。ほんととは思われない。
また兵力なども、
その数六万七千余騎
前陣すでに
尾張の熱田に着きけるに
後陣はまだ大津相坂 の関
四ノ宮河原にささへたり
前陣すでに
尾張の熱田に着きけるに
後陣はまだ大津
四ノ宮河原にささへたり
などとあるのも大ゲサに過ぎたものだ。もちろん、物見、伝駅などの小隊は、先へ先へと、先行してはいたろうが、それにしてもの感がある。
じっさいの兵数は、中書軍をあわせても、二万がらみではなかったか。
親王の軍を、中書軍とよんだのは、親王が“中なか務つか卿さきょう”であったからで、ナカツカサの御子を唐名では﹁中書王﹂という。それからの敬称である。
しかし軍の中堅は、ほとんどが宗むね徒との新田一族で――脇屋義助、義よし治はるをはじめ、堀口、綿打、里見、烏山、細屋、大井田、大島、籠こも守りざ沢わ、額ぬか田だ、世良田、羽川、一の井などの諸将いずれも越後から坂ばん東どう上こう野ずけの出生者だった。
これになお、他家の大小名がある。勅にこたえて、一議なく官軍側に拠よった在京中の諸国の武門で、それには、
千葉ノ介貞さだ胤たね
宇都宮公きん綱つな
菊池肥後守武重
大友左近将監
塩えん冶やの判官高貞
熱田ノ大宮司、薩摩守義遠などの百数十家、所領の分布からみても全国にわたっていた。まさに王おう師しとよぶにふさわしい。
なおこのほかに。
同日から三日おくれの都立ちで、尾張黒田から東山道をとって下くだって行った別手の搦からめ手軍もあった。
それの大将には大智院ノ宮、弾正ノ尹いん宮のみや、洞とう院いんノ実世、二条ノ中将為冬など、公卿色がつよく、侍大将では、島津、江田、筑前の前ぜん司じら、二十余家の旗がみえる。兵力はざッと五、六千騎で、行く行く信濃の反軍を揉みつぶし、甲州を掃はいて、鎌倉武蔵口へせまる作戦。
時をあわせ、奥州からは北畠顕家が一路南下の予定である。――この両翼を心にえがきながら、義貞は東海の征途にあった。――濃尾のあいだでは一矢も錦旗に抗むかってくるものはなく、十一月の寒烈はかぶとの眉まびさしに霰あられを打ち、弓手も凍るばかりだったが、彼の頬にはたえず自負の信念か微笑かがあった。
﹁尊氏は以前から戦にかけてはから下手よ。また直義は、たんなる血気の逸はやり者﹂――と。
このあいだにも、都の使いは、たびたび、義貞をはげましに下っていた。――朝廷では諸大寺の座ざ主すから天皇ご自身までも、連日にわたって戦勝祈願の大威徳法の修法をこらし、また再度の綸りん旨じを諸国に発して、逆賊尊氏の必ひつ滅めつを天地にちかっておられるとのこと。まさに天下分け目の様相だった。
網あみ引ひき地じぞ蔵う
鎌倉泉いずみヶ谷やつの浄じょ光うこ明うみ寺ょうじは、ほんの一堂に庫く裡りがあるだけの、草くさ寺でらだった。 むかし北条長時が何かの忌きえ縁んに建てたものだという。いかにも侘わびた禅室ですぐ裏の泉谷山には朝夕鴉からすばかり啼いていた。それに時は十一月。枯こぼ木くか寒ん鴉あ図ずそのままな冬木立の中でもあった。 ﹁もどりまいてござりまする﹂ 馬は山門の外に。 駒のあるじは今、旅ぼこりの身もそのまま、すぐ、ここにさきごろから引き籠こもっていた尊氏のまえにあって、平伏していた。 ﹁和かず氏うじか﹂ 待ちかねたぞというばかりな顔である。が、大いに労をねぎらって。 ﹁早かったな和氏。――海道の往復を、こんな日数でもどるには、さだめし道中夜もかけて帰って来たか。大儀大儀。して、上奏文の響きはなんとあったぞ﹂ ﹁すでに朝議一決のあとにござりましたが﹂ ﹁うむ﹂ ﹁上書は、洞院ノ実さね世よき卿ょうからただちに叡覧に入れ、僉せん議ぎの席でもご披露あったやにうけたまわります。が、ついにお返し沙汰は何もございませぬ﹂ ﹁それでいい。だが、義貞の反応についてはどうだ。聞きおよぶところはなかったか﹂ ﹁いや、それは大いにございました﹂ ﹁大いにあったと? ふ、ふ﹂ 予期していたものの手ごたえに、思わず彼の相そう好ごうが笑えみ破われた。 使者の細川和氏も、これを土産として帰るには、よほどな苦心を要したらしく、やおら革かわ苞づとを解いて、 ﹁まず、ご一読を﹂ と、尊氏の前においた。 それは彼が和氏を使いとしてわざと朝廷へ提出した“義貞弾だん劾がい状じょう”にたいして、当の義貞が、ただちに﹁尊氏こそ八逆の賊である﹂と反駁上奏したと聞く全文の写しなのだった。 和氏は殿上の誰かにそっと手を廻して、それの写しを入手してもどって来たものにちがいない。……尊氏は手にとるや、眼をそばめてその全文を黙読していた。
一つ、何
一つ、何
一つ、何
と箇条書きにしてある自分への痛烈な八罪なるものに目を通していながら、尊氏の面にはしかしなんの波紋も起って来ず、むしろ容認しているふうですらあった。いやもっと何か目的を別にした﹁――思うつぼ﹂とこれを読んで、ほぼ満足のうちに巻き収めていたといえないことでもなかった。
﹁和氏。老ろう躯くに鞭むち打うたせて、ご苦労だったが、使いの功は上々であったぞ。これでまず、義貞もじっとはしておられまい﹂
﹁されば即日、朝廷からは義貞へ、尊氏追討の総大将を任ぜられ、中ちゅ書うしょの宮尊たか良ながを上に、約三万騎、東海東山の両道から、ぞくぞく東へ下りつつありまする﹂
和氏はべつな覚書をふところから取り出して、その密みっ牒ちょうなども、尊氏の前にならべかけた。しかし、尊氏は手にもとらずこういった。
﹁待て待て。わしは世に告げてあるとおり籠ろう居きょの身だ。軍事は聞いても、せんかたない。諸政一切も直ただ義よしにまかせてあること、戦のことなら直義の許へ報告せい。この尊氏はあずかり知らん﹂
晩の勤ごん行ぎょう、朝のおつとめ。ここでの禅院生活を、尊氏は出家の身とも変りのない規律と日課の中においていた。
大塔ノ宮の霊
元げん弘こうの戦歿者敵味方の霊
高時の霊
いくたの有うえ縁ん無縁の霊
に心からな回えこ向うをささげている姿にみえる。また心から朝廷へも恭きょ順うじゅんの意を表ひょうしている彼かに見える。
もちろん、酒も魚肉も断ち、法ころ衣もこそつけていないが、道服すがたで、昼は机によって読書三ざん昧まい、閑居まだ日は浅いが、倦うむ色もみえないのだった。
したがって、近習の細川頼春と一色右馬介も、庫く裡りの裏で、ぜひなく薪まき割わりや水汲みまでをやっていた。彼らだけが日々ただ武者張って無む為いにもいられないのであろう。――今も、裏山から担かつぎ出だして来た粗そ朶だのタバに腰をおろしていた二人はいささか味気ない顔の疲れを見あわせていた。
﹁右馬どの﹂
﹁む?﹂
﹁貴公には分っておるだろ﹂
﹁何が﹂
﹁大殿の御本心だ。本心、このまま世捨て人となるおつもりだろうか﹂
﹁さあ、どうかな﹂
﹁幼少からのお傅もり役やく。その右馬どのなら﹂
﹁いや、ご舎弟︵直義︶さまでさえ分らぬ兄といっておられる。どうして拙者などにわかるものか。……だが、ああしていらっしゃる今日は今日だけの御本心だとはいえるだろう﹂
﹁では、あしたは﹂
﹁あしたのことは、おそらく御自身でも……。いやもっと遠い先は観ておられるに相違ないが﹂
﹁つかみどころのないことを﹂
﹁そう、つかみどころがない――それがあのお方そのものだな。まだ又太郎さまだった十代のお若い頃からだ。……しかしそれは、ぼんやりしているのとは違う。何か、人とは異ことなる時点と観点に立っておられるせいであろう。だから、人には矛盾とみえることも平気でなされる風もあるのだ。またそんな一面が年ごとおつよくなってきた風でもあるな﹂
﹁…………﹂
頼春は、目くばせした。寺の庫く裡りにもよく里さとの販ひさぎ女めたちが物売りに廻って来る。いまもふと山着姿の小娘が、方丈の庭口をとりちがえて、戻って来たらしく、うろうろしていたが、ここの二人へ気づくと急に、
﹁山の芋いも買うておくんなされ。お侍さん、山の芋はいらんかね﹂
と、馴れ馴れしく、そばへ来て、強しいるのだった。要いらぬというと、
﹁では、麦の粉はどうですえ。菓子にしたらええがの﹂
﹁いらんと申すに﹂
﹁お茶は﹂
﹁茶もある﹂
﹁でも、ことし摘つんだよいお茶なのに、見ても貰わんでは﹂
﹁解くな。荷を解いても、買いはせぬぞ﹂
追い払っていたときである。ちょうど庫く裡りの縁を通りかけた尊氏がこれを見て。
﹁頼春。買ってやれ、何ぞ﹂
﹁お。これはいつのまに﹂
﹁愛くるしい娘だ。その芋の苞つと、持っているだけ求めてやるがよい﹂と、言った。
﹁運のよいやつだ。殿さまへようお礼を申せ﹂
頼春は、値あたいをきいて、販ひさぎ女めの手に銭ぜにをわたし、早そう々そうに追い立てたが、女はぬかずいたまま、縁の上の尊氏の姿へ、
﹁ありがとうございまする﹂
なんども、それをくり返し、またお願いいたしますると、やっと立って去りかけた。
その背へ、浴びせるように、
﹁これこれ。これに狎なれて、またうるさく来てはならんぞ﹂
右馬介が言った。けれど女は返辞もしなかった。そのくせ遠くから縁の尊氏の姿を二度も振り向いて行った。
尊氏はあとで二人へ訊ねた。
﹁あのむすめは、よくここへ見えるのか﹂
﹁いえ、里の物売りは、よくまいりますが、いまのような小娘は﹂
﹁初めてか﹂
﹁は。きょう初めて見たようにおもいまする﹂
﹁気をつけたがよい﹂
﹁それはまたどういうわけで﹂
﹁ただの山家女や浦うら人びとのむすめとは思えぬ。何かいわくのある者だろう……﹂と、そのまま縁を下りて、あり合う草ぞう履りに足をつッかけながら。
﹁右馬介﹂
﹁はっ﹂
﹁この裏山の洞ほらに、地蔵が祀まつってあるといったな。ゆうべの炉辺で、そんな話を二人でしておったが﹂
﹁は。いやしかし、つまらぬ地蔵でございますので﹂
﹁何でもよい。地蔵は母の信仰でもあり、わしの守護仏ともいわれておる。行ってみよう﹂
尊氏はもう歩いていた。
鎌倉の海もここの山も、冬を忘れたような小春日だった。右馬介たちが柴採りに来てふと見つけたという横穴を覗いてみると、二尺ばかりな石の地蔵が、ちょこんと石の台座に乗せてあった。
﹁これか﹂
﹁はい﹂
﹁地蔵だろうか?﹂
﹁弥み陀だとも見えませぬ﹂
﹁やはり地蔵尊かの。しかしお顔も衣えも紋んも、ひどく磨滅して貝殻なども附着しておる。察するに、地蔵は地蔵でも、海上がりの御みほ仏とけだろ﹂
﹁お目がねの通りです﹂と、頼春が答え――﹁これはいつの頃か、近くの漁師が海から拾い上げた物のよしで、里さと人びとのあいだでは、網引き地蔵と呼んでおるやに聞きました﹂
﹁ほ。網引き地蔵と﹂
尊氏は急にその前へうずくまった。そしてつらつら地蔵を見て、また、うやうやしく掌てを合せた。そのあとで笑いながら二人の近習へ言ったのだった。
﹁どうだ、地蔵のお顔は、この尊氏と、どこかよう似ているであろうが﹂
﹁お戯れを﹂
﹁いや戯れではない。網引き地蔵とは、おん名からして気に入った。粗略にするな﹂
このときは、ただこれだけで帰って来たので、二人には、尊氏が何でそのような冗談をいったのか、またひどく機嫌のいい一いっ瞬ときを顔に見せたのか、主君の心は酌くめなかった。
が、その意味がわかってきたのは数日の後だった。いやその晩、下しも御ごし所ょの直ただ義よしがここの禅院を訪ねて来た時からだといってもよい。
﹁こよいは、お別れにまいりました﹂
直義は、冷静だった。
尊氏もそうと察していたらしく、かくべつ、怪しみもしなかった。
﹁出陣は明朝かの﹂
﹁は。すでに高こうノ師もろ泰やす以下三千騎ほどを、とりあえず一陣として先に急がせ、吉良、細川、佐々木道誉らも、つづいて戦場へむかわせました﹂
﹁そうか﹂
﹁敵は、東海東山の両道を数万の大軍で急下してまいるよし。このたびこそは、天下分け目の一戦と期しているもののようにござりまする﹂
﹁むむ﹂
﹁おそらくはなかなかの苦戦。直義も生きてふたたびお目にかかれるや否やわかりませぬ﹂
﹁ぜひもない儀だ﹂
﹁一族の諸将は、このさい、まげても、大御所︵尊氏︶の御出馬を仰がずにはと、軍議紛ふん々ぷんではございましたなれど﹂
﹁…………﹂
﹁否いな々いな、一たん寺門に入って、世へ屏へい居きょと触れたからには、たとえ剃てい髪はつはなさらぬまでも、めったにお心をひるがえす兄上ではない……と一族どもを押しなだめて、一切はこの直義が独断にて指揮いたしまいてござりまする。その僭上は、おゆるしのほどを﹂
﹁なんの、軍事も諸政もすべてを捨てた恭きょ順うじゅんの身。あとは、あとの者の一存に委すしかない。……だが﹂
と、間まをおいて。
﹁直義﹂
﹁は﹂
﹁このたびの戦の相手は一体誰だ?﹂
﹁異いなおたずね。おたずねまでもございますまいに﹂
﹁いや心得ておかねばならん。敵は新田義貞であることを。皇室ではない、義貞であるのだ﹂
﹁が。その義貞は、朝命をこうむって、朝敵討伐の節せっ刀とうを拝した者にすぎませぬ﹂
﹁かたちは、さもあれ、名めい分ぶんの上においてはだ。あくまで、わが足利家は新田を誅ちゅ伐うばつするものと世上へ唱となえろ。――和かず氏うじからも、その義貞弾劾の件は、聞いたであろうが﹂
﹁はい﹂
﹁尊氏のあの上奏は、朝廷を相手どッたものではない。いや朝廷との対決を、わざと、足利新田両家の確執に外そらして、義貞を陣頭におびき出すためにした挑戦状にほかならぬのだ﹂
﹁ではあれも、そうした深いご用意であったので?﹂
﹁もちろん、実戦でもその域いきを越えてはならん。――はや高ノ師泰を先せん鋒ぽうにやったそうだが、その師泰の軍勢にも、三河の矢やは矧ぎから西へは進み出るなと固くいましめておけ。……三河までは足利家の分国︵領分︶だが、そこから先を侵おかせばしぜん反逆の軍になる。あくまで我は、受けて立つ、そこが足利家の名分であるぞよ﹂
﹁心得ておきましょう﹂
ぜひなく、直義はそう言ってまもなく退さがって行ったが、決して釈しゃ然くぜんとした色ではなかった。いや奮然と死を期して別れ去ったものと見られなくもない。
すると、当夜の夜半だった。
何か、尊氏の寝所の方で、異様な物音がしたので、近習の二人は、押っ取り刀でそこへ駈けこんで行った。
﹁殿っ﹂
﹁おうっ、介すけと頼春か﹂
﹁なんでございますな、いまの物音は﹂
﹁盗ぬす人びとが入ったのだ﹂
﹁え、盗人が﹂
﹁あかりをつけろ﹂
﹁は。ただ今﹂
室はまっ暗だったのである。右馬介は宿との直いの方へ灯を呼んだ。
すると尊氏は、
﹁ほかの侍どもは入れるな﹂
と、頼春に命じて、廊の仕切り戸を閉めさせた。
寝所の内には、枕が飛んでいた。また研とぎすました短い刀が落ちている。尊氏に投げつけられたものであろう。隅には小さくなって、うずくまっている人影があった。
﹁お。そやつでございますな、曲者は﹂
二人はそばへ寄って行った。山着の筒袖に膝たっ行つ袴けを穿はき、布ぬの頭ずき巾んで顔をくるんでいたその者は、左右の腕を、いきなり介と頼春の二人につよく捻じとられたので、いやおうなく伏せていた胸を反らし、覆面のうちを短たん檠けいの灯に曝さらした。その顔は、思いがけなく、花みたいに白かった。
﹁やっ?﹂
二人は思わず手を離した。きのう庫く裡りへ物売りに来たあの販ひさぎ女めなのである。またとっさに、あのとき尊氏が言ったことばも思い出されていた。
﹁介――﹂と、あきれ顔でいる彼へ、尊氏は一方の座から声をかけて。﹁ま。やさしく訊いてやれよ。なんでこの尊氏の命を狙うなどの不敵を抱いてここへ忍んできたものか。ましてまだ年もゆかぬ小娘の身でよ。よほどな仔細がなくてはなるまい﹂
﹁では、これに落ちている刃は﹂
﹁その小娘の物だ。それをもって、わしの寝首を掻かこうと神かけていたものだろう。可こ恐わいな。尊氏、大軍は何の怖れともせぬが、こういう目に見えぬところの刃には心も恟すくむ。何でわしにさまでな恨みがあるのか、介よ、やさしく訊いてみい。おそらくは娘も逆上していようほどに、あとでもよい、よくいたわって、訊いておけ﹂
﹁かしこまりました﹂
介が、そう答えると、すぐその尾について、小娘が言ったのだった。
﹁仰せられますな尊氏さま。いたわってなど、いただきたくはありません﹂
﹁ほ。いうたな﹂
﹁逆上もしておりませぬ。さむらいの娘です。仕損じた上の覚悟もしておりまする。あなたはよくよく悪運のつよいお方。わたくしは不運なお人たちの味方。それだけのこと。すぐご処分をしてくださいませ﹂
﹁よし﹂
尊氏は、うなずいた。
﹁望みのようにしてやる。だが、一応の理由を問わねば処分をくだし難い。まず訊こう。名は﹂
﹁棗なつめといいまする﹂
﹁棗か。して生国は﹂
﹁信しな濃のの諏す訪わです﹂
﹁諏訪の祝はふりの一族だの﹂
﹁はい。兄の三郎盛高は、鎌倉の亡ぶ日まで、御先代︵高時︶の近侍の内の一人でした。そしてわたくしは﹂
﹁あ。思い出したわ﹂
﹁ご存知でしたか﹂
﹁二位殿︵高時の妾︶の御所に仕えていた者であろ。……かねて和かず氏うじから聞いていた﹂
いつであったか。細川和氏の夜話に聞いたことがある。
高時滅亡の直後。
そして鎌倉の焦土に“犬神憑つき”という奇病が流行っていた頃のこととか。和氏と弟の師もろ氏うじは、浜の漁師小屋で、一夜、ふしぎな小娘を見かけたという。
戦後のちまたには、亡家の女たちが、みな身を売ったり浅ましい生たつ業きのもとに生いき喘あえいでいたが、その小娘は、亡主の二位殿と高時との仲に生なした亀かめ寿じゅ丸まるの行方を独りさがしあるいていた。――と聞いて、和氏はそのけなげさに感じ、舟を与えて落してやった。――という巷ちま話たばなしを尊氏はいまふと思いだしたのだった。
﹁そのときの棗なつめとやらだな。棗か、そちは﹂
﹁和氏さまのあのときのお情けは、いまも忘れてはおりませぬ﹂
﹁ではその折から、兄や父のいる諏訪へ帰って、亡君のわすれがたみ、亀寿さまのおそばに、再び仕えていたわけだの﹂
﹁はい。兄の三郎盛高は、あの日、亀寿さまを背に負うて、信濃へ落ちておりました﹂
﹁むむ。さすが北条遺臣の中には良い武士はあったのだな。さきごろ、信濃北越に大兵をおこし、わずか二十日の間でしかなかったが、一時にせよこの鎌倉の府を奪回した先代軍の大将は――その亀寿さまが名をかえた――北条時行どのであった﹂
﹁そうです。……足利直義どの以下を追い落し、ふたたび、亀寿さまをいただいて、この鎌倉へ入ったときの、一族方のよろこびは、ことばにも言いつくせません。けれどそれもわずか二十日、たちまち、京からあなた御自身が加勢に来て、あわれ私たちの夢は、二十日先代と、世の人が笑うほど、つかの間まに、みじんとなってしまいました﹂
﹁ぜひもない。なべて、弱いものは、亡ぶしかない世の中だ﹂
﹁いいえ﹂
と、棗はするどく首を振った。解け落ちた頭巾の下も無造作なつかね髪にすぎず、紅白粉も知らない顔はただ一いち途ずで異様な若さだけに研とがれていた。
﹁おことばですが、ほんとの人らしい人は、弱い群れの中にこそ大勢います。弱いながら人の美しさを持って必死に生きているものを、そんな者は亡んでしまえとは、あなたらしい言い草です。だから、わ、わたくしは﹂
ふと、嗚おえ咽つになりかけた。唇をむすぶ。キラと目だけで尊氏を射、そして、涙をこらえてから、なお次をいおうと体じゅうの敵意を少しも解いていない。
尊氏は、じっと、見すえた。男にもこれほどの者は少ない。女である。しかも小娘だ。時代の風雲が作った荒磯の奇形な姫小松の一つともいうべきだろうか。
尊氏は、ふと、からかい気味に、
﹁だから、どうなのだ?﹂
と、反問すると、棗なつめは、血ぶくろを切られたようにばッと答えた。
﹁あなたを殺してやりたいと思ったのです!﹂
﹁なんで﹂
﹁あなたは強い﹂
﹁それだけか﹂
﹁それだけではありません。あなたは悪人だ。先には、ご恩顧ある北条家を裏切り、今また、朝臣の身で朝敵に立っている﹂
﹁はははは﹂
尊氏は笑った。だが、どこか空うつ虚ろをおおいえない笑いでもあった。
ふと。朝早い寒雀のさえずりが耳につく。
尊氏は三名をそこへおいたまま黙って廊へ出て行った。まもなくまた、ここへ戻ってきた彼は、衣服もかえ、洗顔や髪の手入れもすましていた。そして、
﹁介すけ。……袈け裟さを﹂
と求め、その袈裟を掛け、手に数ず珠ずを持ってから、介と頼春へ、こういいつけた。
﹁棗なつめの処置は、そちたち二人へ預けておこう。あわれな者だ。酷むごくはするな﹂
﹁はっ﹂
しかし、二人は当惑顔を見あわせた。小娘とはいえ尋じん常じょうな不敵さではない。もし逃げでもしたらどうしようかという惧おそれである。で、そのへんのお指図を仰ぎたいと重ねていうと、尊氏は事もなげに笑い捨てた。
﹁たまたま、わしの室へ舞い込んだ小鳥のようなものだ。逃げたいなら元の野へ放してやれ。居たいなら幾日でもここへおいてやれ。ま、遊ばせておけばよい﹂
ゆるい、しかし大きな跫音は、もう本堂のほうへ通う暗い廊を踏んで遠とお退のいていた。例の勤ごん行ぎょうの時間なのである。まだ夜のような冬の晨あしただが、彼はここに屏へい居きょいらい、朝々のそれを欠かしたことはない。
みずから壇の燈とう明みょうをとぼし、香こうを拈ねんじ、経文一巻をよみあげる。そのあとも、氷のような床ゆかの冷えもわすれきって禅ぜん那なの黙想をつづけるのだった。この修行は彼としてはすでに久しいもので、いま始まったことでもない。師の疎そせ石き夢窓国師の許へは、在京中にも折あるごとに参さんじていたし、その師を都へ迎えたのも彼であった。また、後醍醐との禅縁をむすぶにいたらしめた蔭にも彼のすすめがあった。
ただにそればかりでなく、後醍醐と尊氏とのあいだには、疏そつ通うみ微みょ妙うな間かんに、禅の眼があった。どっちも、禅の人である。その観かん見けんをとおして互いの人間を量はかりあっているところがなくもない。禅は何らの扮飾も見ない。直じき指し人心だ。赤裸と赤裸だ。いやその赤裸すら禅にはないのだ。しかも機応自由の中に世を見つくす、世を生きぬく。そうして今という大地を舞台にこの両者は禅と禅とのたたかいを無意識に意中でしていたともいえないことはない。
﹁……。殿﹂
誰か、後ろでよんでいた。
われにかえると、尊氏の耳にも遠い所の貝かいの音ねが聞えていた。
直ただ義よしの軍勢が、今朝、由比ヶ浜から西へ立つはずである。それだな、とすぐ覚さとる。
﹁介すけか。……何事だ﹂
﹁はっ。ただいま山門まで、仁木殿が、出陣のごあいさつまでに、と申しまいて﹂
﹁見えたのか﹂
﹁はい﹂
﹁あいさつだけを受けておけ。屏へい居きょの身だ。会えし釈ゃくにおよばん﹂
﹁かしこまりました﹂
退さがる。
まもなく、また来て。
石堂父子がお別れに参りましたと告げ。つづいては、畠山左京、今川修しゅ理りの亮すけ、小山の判官、武田甲斐、そのほか幾十将が、出陣のいとま乞いにと訪れたが、尊氏はそのたれへも会わなかった。
そして昼はまた、机によって、独り読書に耽ふけっていたが、なに思い出したか、急に右馬介を呼びたてていた。
﹁介か。もそっと、ずっと前へすすめ。急にそちならではの用事ができた﹂
﹁は、何事で﹂
﹁極秘のこと、書状にしては万一が惧おそれられる。しかしそちならば年来の馴な染じみだ。先の道誉も疑うまい﹂
﹁お使いでございますな﹂
﹁そうだ。直義の軍勢は今朝立ったが、佐々木道誉らの先せん鋒ぽうは、すでに鎌倉を立っておる。――その佐々木の陣へ、秘命をつたえに行って欲しいのだが﹂
﹁おやすいこと、さっそくにも﹂
﹁いや、やさしくない。味方のたれ一人にも知られてはまずいのだ。行く行く味方の陣地を通らねばならんが、そちの顔は余りにも味方には知れすぎておる﹂
﹁お案じなされますな。それほどの御秘命なら、頭を剃そりこぼち、寺の備えにある笠、法ころ衣もを着てまいります﹂
﹁俄か坊主か。それやよかろう。道誉に会うて、云しか々じか、尊氏の意中をかく申せ﹂――と、その云しか々じかの内容を小声で彼にささやいたが、また一考して、
﹁いやあの疑いぶかい道誉ではあるな。そちの使いでも、言葉だけではなお、これほどな大事、なかなか信じぬかもしれぬ﹂
と、机の上の禅書に、目をおとしていたが、やがて朱筆をとって、その禅書の文字の諸所に、朱点を打ったり、棒を引いたり、また欄外に書き入れするなど、苦吟、長いことかかって、
﹁これでよい﹂
と、やっと筆をおいた。朱しゅをたどれば、いわゆる﹁暗文﹂をなすのであった。
﹁介すけ。これならば僧侶が持ってもふしぎはない。また他人が見ても解げど読くはできぬ。併あわせて、これを道誉へ渡せ﹂
﹁こころえました。ではおあずかりしてまいりまする﹂
﹁ときに﹂
と、尊氏はことばをかえて。
﹁昨夜の小娘――棗なつめと申したな――あの小むすめはどうしておるな﹂
﹁一室にふさぎこんでおりまする﹂
﹁朝あさ餉がては﹂
﹁与えました﹂
﹁逃げもせぬのか﹂
﹁は。朝餉を喰べたあとも、釜屋部屋の片すみに坐ったまま、じっと考えこんでいるのみで、べつに泣いてもおりませぬ。何か、ご処置のことでも﹂
﹁いやべつに﹂
﹁では、身の支度もございますので、このままおいとまを﹂
﹁待て待て﹂
﹁は﹂
﹁尊氏はつつしみの身、かかることを命じた者は、尊氏ではないぞ。裏山の網引き地蔵が命じるのだ。たとえ途中で直ただ義よしの陣に行き会い、直義と出会うても申すなよ、道誉の件は﹂
﹁申すことではございませぬ﹂
右馬介は退がって、こっそり一と間のうちで頭をまろめ、法衣、頭ずだ陀ぶく袋ろの雲うん水すい姿すがたになりすました。
同僚の頼春は、それを見て驚いた。しかしその頼春にさえ、介は、仔細を打ちあけなかった。そしてただ、
﹁どうだこの姿、お地蔵そっくりだろう。じつは裏山の網引き地蔵尊のお使いで急に西の旅へ立つ。頼春どの留守をたのむぞ。わけてあの小娘に油断するな﹂
とばかり、冗談に言いまぎらわし、たそがれの山門から飄ひょうとして飛び出て行った。
門
官軍は、十一月の二十五日、三河の矢やは矧ぎまで来て、はじめて足利勢の抵抗をうけた。 海道の合戦は、この日に始まり、交戦三日後には早やそこの矢やは矧ぎ川も官軍二万の後しり方えにおかれていた。そして序戦にやぶれ去った足利方の先せん鋒ぽう高ノ師もろ泰やすは、鷺さぎ坂さか︵遠州見附の北︶までなだれ退いて、 ﹁残念だが、味方の来援を待つしかない﹂ とし、初めからおおうべからざる敗勢だった。 師泰らが、無念がったのも、むりではない。彼らは、すでに当初、 ﹁矢矧川から西へは一歩も進んではならぬ﹂ という軍命令の下におかれていたのである。当然、こんな制約下では士気もあがらず、積極的な作戦もとれなかったにちがいない。――そのため、まもなく仁木、細川、今川、吉良などの味方を加えるには加えたが、鷺坂のふせぎもならず、またぞろ、駿州の手越河原まで敗退するの余儀ない破は目めになってしまった。 官軍は強かった。 わけて新田義貞の采さい配はい振りも、かつての鎌倉入りの日以上な冴えで、その用兵ぶりなど、さすがと思われるものがある。 加うるに、 王軍 の威光もあった。なんといっても錦の旗には人心がひかれる。多くの犠牲を捨てながらも、兵数は逆にふくれあがっていた。土地土地の土豪の参加、降参兵の投入。勝敗の帰きす趨うはもう、それだけでも官軍強し、と誰の目にも卜ぼくしうるものがあったのだ。 一方。 鎌倉をややおくれて出た足利直ただ義よしの本軍は、手越で味方の退却とひとつになった。ほとんど全兵力の足利勢がここに結集したわけである。直義はすぐ布陣を立て直し、士気をはげまし、 ﹁もしここでもやぶれたら、われらの途は死しかないぞ。万事は休やむ﹂ と、みずから指揮の陣頭に立った。――宿敵義貞と一騎打ちの覚悟であった。 激戦幾昼夜。 しかしここでも一戦ごとに、足利勢は敗色を否みようなくしていた。その上にもである。突如、 ﹁佐々木道誉の一軍が、義貞へ降参をちかって寝返った﹂ という驚くべき声が陣中を騒がせはじめた。 ﹁よもや?﹂ 直義はなお信じかね、また、とくに、道誉とは昵じっ懇こんな高ノ師直なども、 ﹁そんなばかな。おそらく、それは敵方の流るげ言んだろう﹂ と、頑強に否定していた。けれど彼の信念も半はん刻ときとは持たなかった。道誉が守備していた上流から押し渡った官軍の強力な大部隊が、夜のうち早くも味方の後方にまわって、直義の退路を断たちにかかっているとすぐ分った。 ﹁すわ!﹂ と、ここに暁の総なだれをおこし、その日から翌日へかけ、海道は敗走の足利兵がひきもきらず、直義はやがて、箱根の水みず飲のみ︵三島口の山中︶に拠って、味方をまとめていると聞えた。 このとき。もし官軍が急追さらに急追撃を加えていたら、直義は危なかったかもしれず、鎌倉も一挙に義貞の馬ばて蹄いの下であったかもしれない。だが官軍も連日の戦いで疲れていた。それに心も驕おごっていたか、義貞はつい国府の三島に馬を駐とめて数日は凱歌の快に酔ってしまった。 どんどん、どん…… さっきから山門の外を烈しく叩いている者がある。朝だが、まだ星があって、浄光明寺の内はまっ暗だった。 だが、尊氏はすでに起床していた。いつものとおり勤ごん行ぎょうの座ざにすわるためにである。かじかむ手、白い息、みずから灯ともす燈とう明みょうの虹の中に彼はふと耳をすまして、頼春頼春、と二た声ばかり呼んだ。 すぐ庫く裡りのほうから跫音がとんで来る。近習の頼春であった。釜屋働きの襷たすきを解いて。 ﹁殿。何ぞお召で﹂ ﹁お﹂ と言って、尊氏はまた、遠い所の音を待つように面おもてを澄ました。 ﹁頼春。外は風だな。聞えなかったか?﹂ ﹁はて。何かお耳に﹂ ﹁しきりに山門を打叩く者があった。風の音とも思われぬ﹂ ﹁それはどうも。……竈かまどに火をたきつけておりましたので、つい、うかとしておりました。ことによったら、お待ちかねの右馬介が立帰ってまいったのかもしれませんな﹂ ﹁いやいや、一両人でない、馬のいななきもしたようだった。うかと門を開けず、まず何者かをたしかめて来い﹂ 頼春はかしこまって、すぐ外へ駈けだして行った。 そのとき、山門の外の者は、あきらめたのか、鳴りをひそめていた。が、なるほど少なからぬ人馬が騒ざわめいている様子だった。 頼春は、太刀の鯉口をかたくつかんだ。武者の習性といっていい。すぐ不測な敵の襲来が胸をつきぬけていたのである。そこで彼はいわれたとおり、門もん扉ぴのかんぬきもそのままに、まず何者か? また何の用か? を大音声でたずねていた。 そしてまもなく。 彼は、門外の者の答えを持って、もとの本堂へもどって来た。 が、尊氏は、はや勤ごん行ぎょうの座について、読経をあげていた。――その三ざん昧まい一念な背を見ると彼はぜひなく遠くにそっと坐ってしまった。そして機をうかがっていたが、近づいていえる機はなかなかなかった。――誦ずき経ょうがすむと尊氏は半はん跏か趺ふ坐ざ︵片あぐら︶のかたちをとり、丹たん田でん︵下腹︶に印いんをむすび、呼吸をひそめて、いつもの坐禅に入ったまま、またしばらくは他もなく自己もない“面心面仏”の人そのものになりきっている姿だったからである。 ﹁…………﹂ いつか堂の欄らん間まに朝の陽の刎ね返りが映していた。尊氏はやっと、趺ふ坐ざをかえて、頼春をふりむいた。 ﹁どうした? 門外のことは﹂ ﹁お味方の勢ぜいにござりました﹂ ﹁味方﹂ ﹁は。……戦場より抜けてこれへ急使としておいでなされた下しも御ごし所ょ︵直ただ義よし︶さまのお旗本、上杉伊豆守重房、須す賀が左衛門、そのほか十騎ばかりの﹂ ﹁ならば門をあけてやれ﹂ ﹁お目通りへ請しょうじてもよろしゅうございましょうか﹂ ﹁む。二人だけを﹂ ﹁では、すぐこれへ﹂ 頼春は、飛んで戻った。そして山門をひらくと、破やれ鎧よろい、あるいは乱髪、または負てお傷いの足をひきずるなど、惨たんたる敗戦の泥土をそのまま身に持った武士大勢が、ぞろぞろ霜を踏んで境内へ入って来た。 尊氏は道服に袈け裟さすがた。 通されて平伏した二人は血ちど泥ろもそのままな戦場の身なりである。尊氏は後ろの頼春へむかって、 ﹁御みだ壇んの御みあ明かしを消せ﹂ と、命じ、さらに、 ﹁堂の四面の扉を閉めろ﹂ と、先にいいつけた。 それから使者二人の話を聞き、また直義からの書状も見て、さて言った。 ﹁むむ。いくさは負けか。直義以下そんなにもさんざんにやぶれたのか﹂ ﹁まことに面目もござりませぬ。矢やは矧ぎが川わの一戦を仕損じてからは、海道の要害でも、いたる所でお味方は討ちなされ、あまつさえ、手越河原では佐々木道誉の裏切りなどもあって、残念至極ながらいかんともなしがたく﹂ ﹁そうだろう。――兵数においても味方は敵の四分の一。――初めから負けは分っていたといえなくもない﹂ ﹁いやしかし、もし矢矧川より先へは出るなとの制約さえなければ、濃尾の地じざ侍むらい、半島のお味方も、呼こお応うして来ましたろうし、また作戦も自由に、よい勝負ができたろうにと、それだけを、みな無念にぞんじておりまする﹂ ﹁だまれ﹂ ﹁はっ﹂ ﹁元々、尊氏は朝廷を敵とする意志でない。さればこそ、恭順の意を表ひょうし、戦は、義貞との対決として、直義以下のそちたちにまかせたのだ。敗れてからの泣き言などは聞きぐるしいぞ﹂ ﹁ゆめ、泣き言など申しはしません!﹂と、上杉伊豆守︵重房︶は大声で言い返した。これは憲のり房ふさの長子である。したがって、尊氏とも他人ではない。 ﹁……まずはお聞きくださいまし。直義さまはいわずもがな、足利方の諸士、みな名に恥じぬ戦はしたとおもいます。けれど、敵は官軍の名に誇り、いまや三万におよぶ大兵を擁ようすにいたり、お味方はといえば、からくも箱根山中の一塁るい二塁にしがみついて、孤軍、必死のふせぎにあたっておりまする﹂ ﹁わかった。いま、直義の書状に見るも、その辛つらさのほどはようわかる。……だが、それゆえ、わしに起たてとすすめに来ても、それは無理だろ﹂ ﹁なぜ、ご無理ですか﹂ ﹁尊氏は公約しておる。本心、朝敵たるは好まぬところと﹂ ﹁でも、過ぐる日、朝廷では、尊氏ノ官位ヲ褫チダ奪ツス、と世に公布しておりまする﹂ ﹁仔細ない、仔細ない﹂ ﹁のみならず、軍状その他、すべて官軍の合言葉は、逆臣尊氏でしかありませぬ﹂ ﹁それもよし﹂ ﹁いや殿はそうでも、朝廷方では、殿の恭順など一切みとめてなどおりません。――ひとたび、官軍がここへ迫らば、たとえ染せん衣えて剃いは髪つのお身とおなりであろうとも、何で、仮かし借ゃくなどするものですか﹂ ﹁…………﹂ ﹁申しては憚はばかりながら、大塔ノ宮の仇あだとばかり、八ツ裂きにもいたしかねますまい。さらには、ご舎弟直ただ義よしさまをも、お見殺しになさるお腹でございましょうか。いまや箱根の孤こる塁いには、譜ふだ代いの御一族の全生命が、ただ一つのお救いのみを、ひたすら、お待ちしておりますものを﹂ 重房が言い疲れると、代ってまた、須賀左衛門が言って、尊氏へ迫った。 じっと、恐い目をしたまま、黙りこくっている尊氏へ。 ﹁何としても、おきき入れかなわぬ上はこれまでのものです。御一門の魁さきがけに、まずわれら両名ここの御みど堂うを拝借して、腹掻ッ切って相果てまする﹂ ﹁…………﹂ ﹁また直義さまも、孤軍の味方も、箱根の一塁るいを枕に、立ち腹切るか、斬り死にか、いずれともみな最期の途をえらぶでしょう﹂ ﹁…………﹂ ﹁ですが、これがわが殿のご誓約であったでしょうか。――そもそも元弘の初め、はじめてわが足利勢が上洛の途中、矢やは矧ぎの柳堂において、一族宿老すべての者へ、ご大望を打ちあけられ、一同、源氏重代のみ旗と祖霊のまえで血判をいたしました。よもあれをお忘れではございますまい。いらい拙者どもは、それのみを、ただただ、弓矢の大願とちかい、子を捨て、親の死をも見てきました﹂ ﹁…………﹂ ﹁しかるに今日、殿には、恭順を称となえて寺を出で給わず、それもそのお心が、天てん聴ちょうにとどいているならまだしものこと、そうでもないのに、ひとり何を守ろうとなさるのか。われら将卒には、得心がゆきません。……孤軍の御舎弟を見殺しにし、お味方すべてをも失ッた後に、いったい何があるのでしょう。……あわれ、三河におわす千寿王さま、みだい所さま、いや足利一類と見なさるる者、ひとりも世には残りますまい﹂ ことばは、切せつ々せつ、ていねいであっても、身はそのまま戦場人の二人だった。このとき、上杉重房も言った。 ﹁左衛門ッ。これまでだ。殿はつんぼとみえる。もう申すもせんない。やめろっ、腹切ッてお目にかけるばかりだわ﹂ ﹁おうっ、御ごろ覧うぜよ殿﹂ 二人は坐り直した。革胴の紐を解いて短刀を左に持った。――が、尊氏はそれも見ている気か、なお黙っていた。 しかし、尊氏の蔭に控えていた頼春が、ばっと進み出て二人を止めた。たかぶる声と声の下に三名のからだは一つものに見え、相擁しながら、主君を後ろに、その主君を罵倒し、 ﹁見損った! ああ、見損ったおれたち家来も馬鹿だッた﹂ と、無念泣きに泣き入ってしまったのであった。すると尊氏は初めて、 ﹁頼春﹂ と、重い口をひらき、身に掛けていた袈け裟さを外して、 ﹁袈けさ裟ば筥こへおさめておけ。そしてまず朝飯を食おう。それからすぐ身仕度だ、具ぐそ足くび櫃つを取出して来い﹂ と、いいつけた。何か凛りんとした語気だった。そして命じ終るやいな本堂を立って方丈の方へ行ってしまった。 ﹁や、や?﹂ 頼春は躄いざるように、主君の姿を、廊の外へ追いふためいて。 ﹁殿との々との、よろい櫃びつとは、お身仕度とは、ご出馬のご用意にござりまするか﹂ ﹁おおよ!﹂ 遠くの房ぼうの内で、尊氏の返辞が、大きく聞えた。 本堂前には大おお焚たき火びが焚たかれた。浄光明寺のうちも外もたちまち活気と人ざわめきの坩るつ堝ぼと変り、尊氏は、あらためて方丈へ呼びよせた上杉重房と須賀左衛門のふたりへ、 ﹁すぐ行け﹂ と、何事かを命じていた。 ふたりはすぐ馬にとび乗って山門を出て行った。おそらくは鎌倉じゅうを駈けまわり、なお各所の木戸や屋敷には多少残っている留守の将士へ、尊氏の出馬を告げ、 ﹁すぐ御馬前へ集まれ﹂ と、布ふ令れに廻ったものに相違なかろう。 尊氏はそのあとで芋いも粥がゆを三杯も喰べた。出陣には武門しきたりの古式もあるのだが、家族はおらず、時もこんな場合である。頼春の給仕のみで、すぐ粥かゆ腹ばらに鎧よろいを着込む。 かつての元弘の年。 はじめて、彼が高時の命で上方へ出陣したときは、父貞氏の喪もに会していた。よくよく、出陣祝いにはめぐまれない巡めぐり合あわせがつきまとっている。 しかし彼は、こんな形式事を気に病むものではないらしい。粥腹に温ぬくもった五体をよろいにつつむと、かえって、彼本来の面目とおちつきを持ち、そして、頼春や寺中の家士がそれぞれの腹拵えや身仕度をすますあいだ、独りあぐらをくんでゆったりと庭の朝霜に対していた。 もちろん心はもう戦場へとんでいよう。自分が駈けつけてゆくまで弟の直ただ義よしがよく敵の大軍をささえて生きているかどうか。あれこれ、限りのない惑念も湧いたであろう。 しかも、この敗退の因は、彼にある。尊氏が初めから起たなかった出ばなの士気の不振にあったと言っていい。――その大事な機会を――なぜ彼はわれから恭順をとなえて寺へなど籠こもっていたのか。 後世の史家は、これを尊氏が打った“賊名のがれの芝居”であったと結論する。 なるほど多分に意識的な計算のあとはある。だが、これが彼の名分だけの擬態であったとするなら、何もこうまで、あぶない橋は渡るまい。足利一門の致命ともなりかねないような最悪の最後まで、じっと、蟄ちっ居きょをまもっている愚ぐはしまいし、その必要もなかったのだ。 おもうに。――彼が後醍醐の恩おん寵ちょうをふかくわすれず、また朝廷は朝廷としてあがめておきたいと声明していたのも、それは彼の本心で決して偽りではなかったものと考えられる。けれど、足利一門の滅亡もそのためには捨てて惜しまぬというほどまでには徹底した恭順でもなかったのである。――そして彼は、朝廷へは抗したくないが、対義貞との戦いならば――と、義貞のおびき出しには、むしろ主戦的な構えですらあったのだった。 矛盾の兄、と直ただ義よしがいったのも道理であって、今朝の尊氏はまた、自己のそうした行為のあとを、いささかも矛盾だったとはしていないふうだった。――天も照しょ覧うらんあれ、自分の本心はこうである。にもかかわらず、あくまで朝ちょ権うけんをかさにきた王軍はわがのどくびを締めてくる。坐して待てば死あるのみ。足利一門は地上から消滅する。これは我慢ならない。たとえ朝廷の軍であろうと今は忍べるときではない。 ﹁行くぞ、頼春﹂ 尊氏は、方丈から起つやいな、大きくどなった。 ﹁それっ、お出ましだぞ﹂ 寺中の将士は、尊氏につづき、一せいに山門の外へ流れ出た。といってもすべてで四、五十人をこえてはいない。このわずかなものがじつに尊氏の、天下の分け目をみかどと争う門出の兵力であったのだ。 つい今朝はまだ、身に袈け裟さをかけていた恭順の人が、具ぐそ足く馬上の人だった。かぶとは背に負い、烏帽子だったので、まだうらうらと冬ふゆ靄もやの高きにはあがっていない太陽が彼の顔をまともから染めていた。そのきらやかなる“矛盾像”を、しかしその人自身は決して眩まぶしげになしていなかった。しかと腹では割りきッている眉だった。 ﹁頼春、頼春﹂ ﹁はっ﹂ ﹁わしの馬の尻について、よく駈けてくる童わっぱはだれだ、どこの童わら武べむ者しゃだ﹂ ﹁ごぞんじの棗なつめでございます﹂ ﹁女か﹂ ﹁はいっ。先夜の﹂ ﹁なんであんな者を連れてまいる。追っ返せ﹂ ﹁ききません。何といってもきかないのです。けれどあくまで殿のおん供をして行くのだと﹂ ﹁修しゅ羅らまた修羅だぞ、行く先は﹂ ﹁合がて点んなのです、充分に﹂ ﹁どういう料りょ簡うけんだ﹂ ﹁わかりません、まったくわからぬ女です。……が、察しまするに、これまで自分が考えていた足利の大殿というものと、目に見た殿とは、まったくちがっていたと、いたく悔かい悟ごの念ねんに打たれたものと思われまする﹂ ﹁ふうむ﹂ ﹁そのうえ、ここ幾日を共にいて、殿のご起居から一切を知るにおよび、いよいよ初めの恨みも畏いけ敬いにかわり、いつまでもおそばにいたいと願うたのではありますまいか﹂ ﹁まるで、やんちゃ娘だな、ただならぬ生死のちまたを、なんとも恐れていぬなどは﹂ ﹁ここを追われても、行く所はないとも言っておりました﹂ ﹁それはそうだ。先代軍などは、はや一ト村雨の露とどこかへ消えてしまった。女の兄の諏訪三郎なども生きてはおるまい。不ふび愍んといえば、不愍な女﹂ ﹁この明け方も、いちどは、おん供などは相ならんと、追っ払ったのでございましたが、どこか近くの農家にでも預け置いてあったものか、たちまち、小姓具足を身に着け直し、殿が御出門となるやいな、ああしておあとについて来たものにござりまする。お目ざわりなれば、もいちど叱ッて、追い返しましょうか﹂ ﹁いや待て﹂ 尊氏は、振返って。 ﹁ほッとけ、放ッとけ﹂ 彼の駒足、彼の前後につづく駒足、自然に駒と駒とは勇みを競ッて、加速度に流れは早くなっていた。 また、辻々へかかるたび、その参加者も激増していた。――すでに伊豆守重房と須賀左衛門とが、ふれ廻っていたことなので、鎌倉じゅうの留守屋敷は、この朝、その老幼までをあげて身の物もの具のぐもあわただしく、すべて辻の木戸や浜べ口にむらがり出て、尊氏の駒を迎え、﹁――先は知らず、ただ大殿が行く所へ﹂と、いのちを託していたのだった。 かくて由比ヶ浜を西へこの一勢が急いだときは、老兵童卒を加えおよそ六、七百の兵数にはなっていた。風かざ花ばな
時は、真冬だった。諸書に
建武二年
十二月八日
鎌倉をお立出で……
と一致しているから、尊氏の発向は、この日とみてまちがいないが、以後の合戦中には、十二月八日
鎌倉をお立出で……
「タビタビノ氷雨 」
とか、
「終夜ノ風」
とかの記録がまま出て来るから、終始、天候はよくなかったようである。
ところで作わた者くしはよくものしり顔に古書の端々を引きあいにもちだすが、これは決して物語の辻褄をあわせるための手段ではない。必要な脚色や小説模様はわたくしもわたくしなりの仕立て方で染め上げてはいるが、素材の史し糸しはどこまで史家の糸で織って行きたいと思うし、またすこしでも往おう時じの実際を紙しは背いに読む読者の試案にもなろうかと、折にふれお目にかけているにすぎない次第である。
大体、古典の戦記物なる物では、たたかいの奇略、一騎打のさま、筆を惜しまず、つぶさな描写はこころみられているが、これを絵画的でなく、理念でたどると、しょせん現代人にはウ呑みにできかねる。
たとえば、このさいの、
箱根、竹の下合戦
の一条もまたしかりで――両軍の配置、地理、兵数、機動の経路――そして尊氏が断行した兵略の根底など、すべて大切なことはなに一つそれからは知ることができないといっても決して言い過ぎでない。
というようなわけで、ここでもまた、阿あ蘇そ家、相馬家の軍忠状とか、古こも文んじ書ょの断片とか、古典太平記よりはややましな梅松論などの傍証を綜合して書いてゆくしかないことになる。
と、まず前提して――そしてその推定から尊氏軍の進路を図はかってゆくと、彼が酒さか匂わが川わ附近へさしかかった頃には、おそらく、箱根山中にとりかこまれていた弟直ただ義よしの孤軍からも、
﹁ありがたし。これこそ天てん助じょの御到着﹂
と、直義の口上を持って、さっそく出迎えの将士がこれへ来合せたことと思われる。
それもあり、また伊豆や海道筋からも味方の相当数が﹁尊氏出馬﹂の声から声をつたえ聞いて集まり、須しゅ臾ゆにして麾き下かは、数千にのぼっていたろう。軍記調の古典ではすぐこれを十八万騎の二十万騎のと称するが、せいぜいのところ、じっさいは三、四千騎か。
しかも彼は、このさい、
﹁直義から迎えによこした武者どもは、ただちにまた、直義の陣所へ返って、そこのみをかたく守れ﹂
と、その数百人も、自軍には加えなかった。
この意外な指令に驚いたのは、細川頼春、上杉重房、須賀左衛門らの左右だけではない。あたりの将士はみな、耳を疑った顔つきで、
﹁――では、いったい、孤軍の味方も援けに向わず、この軍はどこへ行くのか?﹂
と、一せいな怪しみを尊氏へそそぎあった。
尊氏はしかし何のためらいもなく、それらの一隊は元の箱根路へ返し、自身は自軍だけで、さらに酒さか匂わの岸を上流へ急ぎ出した。
つい言いのこしていることがある。
それはさきに、尊氏の密命をうけて、浄光明寺の門から、旅の一雲うん水すいに化けて、どこへともなく立去っていた侍臣一色右馬介についてであるが。
その右馬介は、尊氏の軍が酒さか匂わの駅に着いた日、
﹁途中、ご出馬と噂をきき、ここにお待ち申しておりました﹂
と、どこからともなく姿を現わし、彼の前へ来て初めてその破やれ笠がさのひもを解いた。
﹁介すけか﹂
待ちかねていた尊氏は人を避けてすぐ彼とふたりだけで駅の伝馬役所の内に入り、しばし密談をかわしていた。
要は、介の報告であったにちがいない。――報告の内容に尊氏は満足した容子であった。彼がこれから臨まんとするいちかばちの戦場の賭けは、このときにおいて一いっそう腹がすわったものといっていい。
﹁介すけ。……すでにそちが去ってからまもなく、佐々木道誉の寝がえりと聞えて来た。それ聞いて、ひそかにやったわと思うていたぞ。そしてまた今、そちのことばでまた一ばいたしかめえた。このうえは、大儀だが、もういちど、あとへ戻って使いしてくれい﹂
﹁いずこかは存じませぬが、いとやすいことにござりまする。して次はどこへ﹂
﹁直義の陣場へだ﹂
﹁こころえまいてござりまする﹂
﹁直義一勢ぜいはいま、箱根路の三島口、水みず飲のみという部落の前に壕ほりを切って、一族死に物狂いでふせぎ戦っていると申す。……我慢はここわずかなまだ。死ぬなと申せ﹂
﹁きっとおつたえ申しまする。いやおん兄君の御出馬とお聞きあれば、それだけでも勇気は百倍。およろこび目にみえまする。そのほか何ぞおつたえは﹂
﹁書面はいらん。そちの口だけで充分だろう。序戦、そちが遠くへ策に出ていたなどは、直義もまた、何も知っていないのだ。そこを打明けて、よう話せ﹂
﹁ご遠謀には、さぞお驚きなされましょうず。では﹂
﹁待て待て。いま、そちから敵状の仔細あらまし聞きとったが、もいちど、念のため、覚えをしておきたい﹂と、尊氏はよろいの袖から小さい綴とじ物ものと矢立の筆をとり出した。そしてそれへ地形の図を描き、また介の調べによる官軍方の陣所人員その他の符号をざっと誌つけて行った。
﹁ま、こんなことでいい。いくら確かとそちが見ておいたことでも、軍は生き物だ、いくらでも動く。その動きを見こして把握せねばならぬ﹂
﹁しかし、三島あたりの町沙汰でも、義貞はじめ、官軍の公卿大将輩ばら、みな勝ちに酔って、はや凱がい旋せん凱がい歌かの有うち頂ょう天てんとあるのは事実にござりまする﹂
﹁そこがありがたい。……ありがたい無形な味方と申さずばなるまい。――では右馬介﹂
﹁は。おいとまを﹂
﹁裏から出て行けよ﹂
﹁そのつもりで笠、杖なども離しておりません。さらば御武運を﹂
介は、一礼して、伝馬役所の裏から誰にもその面を知られず立去ってしまった。じつにこの一布石があったればこそ、尊氏も自信をもって、直義が迎えの一隊も返し、自軍のみで目ざす山波深くへ進んで行ったものであったろう。
いったい、どこへ。
歩いている将士すら軍の方向は知らなかった。が、翌日の彼らはもう酒さか匂わの上流を折れて足あし柄がら山やまにかかっているのを知っていた。――やがて地蔵堂を経へ、金きん時とき山やまの北を峠越えに出ると、南へのぞむすぐ目のさきに、
竹の下
さらに三島まで一路降くだり坂で、その彼方には駿河湾の冬の海が黒いといっていいほど深い碧あおをしている。
しかし、そこまでを見とどけたのは、先駆の物見隊だけで、尊氏の本隊は、なお地蔵堂のあたりにとどまり、吹きすさぶ風かざ花ばなまじりの山やま颪おろしの下にその晩は夜営していた。
地名、竹の下とは“岳たけの下”の意味か。――物見の言によれば、そのへんから足柄明神へかけて、およそ七、八千とみられる敵が諸所に団々たる大おお焚たき火びをあげて温ぬくもっているという。――いまは疑いの余地もない。大将尊氏の胸にあるものは、その搦から﹇#ルビの﹁から﹂は底本では﹁かめ﹂﹈め手ての敵軍を、不意に、真まう上えから撃うち下ろすにあったにちがいない。
﹁旗は﹂
と、尊氏は物見の者に、彼らが眼で知りえたかぎりの旗じるしなど聞きとっていた。
それによって、敵の主陣は、義貞の弟、脇屋義よし助すけ、義よし治はるとわかった。
また中ちゅ書うしょノ宮尊たか良なが親王以下、八人の公卿大将がそのうえにいることもわかった。
﹁よしよし、ほかの大名旗本勢など、いちいち知る要もない。まずは腰こし糧がてを食うてよく寝ておけ﹂
と、これは物見隊へだけでなく、全軍の将士へも同様な令でつたえられた。
けれど腰兵糧は氷を噛むようなものだし、火の気はもちろんゆるされず、その寒烈は骨を刺す。が、それでもいつか横たわると三千の兵は死んだように眠っていた。眠っているまが人間の本望を充たしている最良の時でもあるかのように。
尊氏も一とき眠った。
そのほかは地蔵堂の縁をめぐって思い思いな寝相をえがいていたが、折々には、むくと誰かが首をもたげて耳をたてた。そしてまた眠りにおちた。
こうして寅とらの刻こく︵午前四時︶をやや過ぎたかの頃になると、初めて、地蔵堂附近は騒然となり、人も馬もふるい起きて、やがて一せいに峠の上へ出て行った。――そこに立つと、竹の下はすぐ眼の下にあり、敵の所在は燃え残りの火の気で知れる。尊氏は歯の根のふるえを禁じえなかった。心のなかでさし上げた大石を一気に落すような思いで言った。
﹁あの真ん中へ突っ込め﹂
そしてまた、
﹁坂下へ廻るな。いつも敵の上に足場をとっていためつけろ﹂
と、追っかけに注意した。
まだ夜は明けていず、足もとすらもまっ暗なのだ。――敵の驚きはいうまでもない。寝耳に水の奇襲だった。脇屋義助の本陣のあたりが、須しゅ臾ゆのまにぱっと赤い火光に染まってみえる。すでに火が放かけられたものであろう。
また。近くの足柄明神もすぐ黒煙にくるまれていた。中書ノ宮をはじめ長袖の公卿大将ばらは、うろたえに右うお往うさ左お往うし、打物すら持ち忘れてただ逃げ惑った。そして手もなく討たれてゆく将も二、三にはとどまらなかった。
何か、地異天変のような錯さっ覚かくにもとらわれる。
七千人の旗きえ営いが一瞬にどうかしてしまったとしか見えない。――どろどろと熔よう岩がんのような黒いものが、山の中腹から逃げまろび重なりあって、はるか麓ふもとまで押し流れて行く。すべてそれは、人間と馬と、また新田勢や中書軍の旗差物などだった。
﹁まずかった﹂
脇屋義助。兄の義貞にまさるこの勇将は、どこかで地だんだ踏んだことだろう。
﹁これというのも、足手まといな中書ノ宮や、公卿大将の大勢を、上に奉じていたためだ﹂
と、くやしがったにもちがいない。
およそ兵略として、夜の陣を、山腹の急坂において眠るなどは、法外な無知である。――と知りつつも、つい竹の下にとどまったのは、足柄明神や民家の屋根もあるので、宮以下の陣座の便宜につい惹ひかれての処置だった。
﹁もう追いつかぬ!﹂
彼の号令も、今は一兵の足さえ踏みとどまらせる力にはならなかった。――敵は、金時山を負って、逆落しに、猛火は山風を孕はらんで、これも味方のあたまからおおいかぶさってくる。そしてひとたび浮き足立った自失のなだれは加速度を加えるばかりで、その群影は――御殿場――御坂――佐野ヶ原――黄瀬川べりと、止とどまるところを知らなかった。
しかも雑ぞう兵ひょ輩うばらは、こんな潰滅状態のなかにありながらも、
﹁気をつけろ、新手の敵は足利の宰相らしいぞ﹂
と、はや尊氏の出現を知って、尊氏の名を口から口へつたえていた。そしてこれも予想になかった震しん撼かんをよびおこし全官軍の大だい驚きょ愕うがくとなった。
時に、当の本軍たる新田義貞はどこに陣していたかといえば、この日の前日も箱根山中の一要害――足利直義の孤軍を――まだ攻めあぐねていたのであり、この明け方の、
尊氏来たる
の声には、ここでもまた、竹の下と同様な寝耳に水の驚きと共に、総退却を余儀なくしていた。
なぜならば、竹の下や足柄明神から崩れ立った兵は、みな渓流三島口へ落ちかたまり、その三島口は、義貞の本軍からもただ一路の後方陣地だったからで、
﹁なに、尊氏の軍が﹂
と、ここでは、その恐慌状態を背後からうけたかたちだったのである。
義貞もあわてた。
足柄峠を突破して、尊氏自身が、背後へ深く廻ってくるなどは、よくよく捨て身の戦法に出て来たものにちがいない。――おそらくは精兵をすぐり、決死の兵でもあるだろう。恐るべし、決死の軍には当るべからず、として彼は急に、
﹁全軍、退け﹂
と令して、その大軍を、徐々に、駿すん豆ずざかいの藍あい沢ざわ方面へ移しだしたものだった。
すぐ。前面にあった足利直義らの孤軍は一せいに攻撃に出てきた。また新田方のうちからも突如、寝返り軍が行動を起すなど、みるまに義貞の本軍はズタズタに乱れ、その陣地変えさえおぼつかなく見えてきた。
果てなく戦場の地域はひろがっていた。函かん南なみの裾野から足柄、愛あし鷹たかのふもとへかけ十里は人馬のとどろきといってよい。
ひょうひょうとこの日は風があって白い風花が旗や剣槍を吹きかすめた。義貞はひとまず三島ノ国府に兵をまとめて陣容をたて直すつもりで藍あい沢ざわヶ原を駈けていたが、幾度となく、
﹁裏切りとは何者の裏切りだ。一体、誰のどこの軍が、寝返ったのか﹂
と、前後の騎影に訊いていた。しかし皆かい目もくそれの真相はわかって来ない。そしてただ味方のどの方面を見わたしても、西へ南へ、なだれうごいているか、支離滅裂な雄おたけびのうちに、しかもまた、あらぬ地点に敵が見えたりもするのであった。
﹁船田、船田。あれなる小高い岡へ旗を立て、義貞ここにありと味方へ知らせろ﹂
そこは三島に近く、西に黄瀬川をのぞんだ土とか狩りの岡だった。
船田ノ入道はまっさきに登って行って一引両の幟のぼりを立て、また螺らし手ゅに命じて貝を吹かせた。つづいては堀口、世良田、里見などの一族。さらに義貞のそばを杉原下総、高田義遠、篠塚伊賀守、川波新左など――新田十六騎――の旗本がとりまいていた。
けれど、味方をよび集めるための旗きじ陣んと貝の音は、かえって敵を求めてしまった。
黄瀬川の向うには、足柄峠から脇屋義助と中書軍とを追いくだしてきた尊氏の麾き下かがまっ黒にみえ、またうしろからは、直義の兵馬が追ッかけて来、岡は孤立に陥りかけた。
もちろん、空むなしく待ってはいない。河原の低地、背面の平野ではすでに激戦を展じている。
烈風なので、矢は用をなさず、どこでも騎馬歩兵の接戦だった。そのうち国府︵三島︶方面から黒煙がのぼりはじめた。官軍にとっての重要な本営地である。義貞は愕然とした。
﹁や、や。退路を断った敵があるぞ!﹂
もはや三島の内からも寝返り軍の出たことは疑ってみる余地がなかった。いや今暁来の裏切り者が、誰と誰であったかも今はほぼわかって来た。
四十人、五十人と、組々で敵へ降参してゆく小族などは物の数でもなかったが、千、二千という兵をつれて敵へ寝返ッた大物もある。そのうちの優なる者は、
筑つく紫しの大友左近将監
出雲の塩えん冶や判官高貞
近江の佐々木道誉
などであると聞えた。
﹁えっ、道誉が?﹂
と、それには義貞も唖然とした。――その道誉は、つい先ごろには足利方として矢やは矧ぎの陣にいたのであるが、手越河原の対陣のさい彼から款かんを通つうじて来たので、渡りに舟と味方に用い、以来、後ろ備えにしておいたものだった。
﹁さては﹂
と、今にして思い当らぬわけにゆかない。
出雲の塩えん冶やは元々佐々木一族だし、筑紫の大友は、初めから信じ難いふしがあるので後陣においた者である。ここで彼はハッとした。あるいは、道誉の降参は初めから尊氏との黙もっ契けいで行われた二度のとんぼ返りではなかったのか、と。
﹁しまった!﹂
何処かで、あの薄らあばたが――そのあばたをみな笑クボにしているような尊氏の顔が――義貞の瞼に、ふと見えた。
風花はひる頃からほんとの雪に変り出していた。
その雪雲の下に、炎々と焼けつつある国府︵三島︶の町屋根が望まれる。
新田軍は三島を捨てた。ぜひなく、愛あし鷹たか山やまの根に沿った西への道を、幾段にもなって、落ちて行った。敵に追われ、雪風に捲かれながら、逃げなだれてゆく人馬の影が日没まで絶えなかった。
﹁中ちゅ書うしょの宮はどうなされたか。宮以下の公卿軍は﹂
こう訊きながら義貞はひと息ついた。鈴川の近くであった。
旗本十六騎のうち、そばにいたのは葦あし堀ぼり七郎、篠塚伊賀守、川波新左などの四、五名にすぎず、兵もせいぜい二、三百しかみえなかった。
﹁いや、もう先です﹂と、旗本の中の一人がいう。
﹁――宮の軍は、はや富士川まで落ちて行ったと聞きまする。しかし二条の中将為冬卿はお討死とか﹂
﹁二条殿は死んだか﹂
﹁ほか二、三の公卿大将も討たれ、その手にあった諸家の兵など、どうなったのか、ほとんど確かにはわかりません﹂
﹁義助︵脇屋︶はまだ後だな﹂
﹁ご舎弟様の一軍は、黄瀬川の上を取って、烈しく敵をくいとめ、船田ノ入道なども、必死な殿しん軍がりをつとめておりますが……﹂
まもなく烏山修しゅ理りの亮すけ、大井田式部があとを慕って追ッついて来る。また一ノ井兵部、厚こう東とう駿河守、堀口美濃守貞満も、満身、朱あけの姿で、
﹁おお殿﹂
と、残念そうに、みな義貞の駒のまわりに寄って来た。
が、なお義助が見えないので、
﹁いかにせし﹂
と、義貞は気が気でない。けれどその義助もやがて見え、わが子、義よし治はるを連れていた。
この式部大たゆ輔う義治は、まだ十四の年少武者だった。父義助は、この子を乱軍中から救い出すためにずいぶん苦労をしたらしい。父子のすがたにその難戦苦戦を通って来た状がそのまま出ていた。しかし脇屋義助は、ここへ来るとすぐ兄へ忠告した。
﹁馬もうごかず、お疲れでもありましょうが、ここで夜は過ごせませぬ。どうでも夜のうちに富士川を越え渡らねば危険です﹂
﹁大敗だなあ﹂
と、義貞は浩こう嘆たんして。
﹁きのうまでのあの大勝が、こんな一敗地に終ろうとは﹂
﹁無念です。まったく尊氏めにしてやられました。――大友、塩冶、佐々木などの寝返りさえなくば﹂
﹁それはやはり尊氏の計だったのか﹂
﹁――としか考えられません。思うに、這しゃ奴つが蟄ちっ居きょの入にゅ寺うじなどと事々しく世にふれていたのからして、こちらに油断を噛ませる策であったのでしょう。……そして道誉という化け物を巧みにつかい、その道誉をして、官軍中の諸将へ密々後日の恩賞を約束させ、今暁、一ときの返り忠に出たものと思われまする﹂
﹁むむ。……﹂
義貞のせつなの眉を、このとき、誰も正視にたえなかった。
﹁よしっ、忘れまいぞ。いつかは尊氏にこの逆の目を見せずにおこうや。が、ぜひもない。今は無念をのんで退ひいておこう﹂
全軍、富士川を雪の夜半にやっと渡った。
一方。
足利勢は三島を中心に夜っぴての凱歌だった。降りやまぬ雪の下にはまだ炎々と民家が焼けているのだが消し手はなく、ただ戦勝の驕おごりに燃えた顔の狂奔と、降参兵の大群が、諸所に茫然と給与の粥かゆを待ってたたずんでいるほか、折々、前線からの騎馬が泥土を飛ばしてその夜の本陣の森へ入って行くのが見られるだけで、いつか十四日の朝は来ていた。
尊氏と直ただ義よしとは、きのうここの国府の館たちで落ち合い、
﹁いまは何もいえぬ﹂
と、いう尊氏に、
﹁私もただ胸がいっぱいで﹂
と、直義も眼をうるませ、二人はあとの陣務に追われていた。
その降将のうちでも、とくべつに尊氏が床しょ几うぎを与えて、やあと、親しげに迎えたのは、かの佐々木道誉であった。
﹁道誉。健在でまずめでたいの﹂
﹁おかげで。ははは﹂
﹁いやこのたびの勝かち軍いくさは御辺の功を第一と思う。ご苦労だった﹂
﹁お賞めにあずかって身の面目でおざる。したが、およそ道誉のいたしたことは、武門の名誉とはうらはらなもの。おかげで道誉は海内随一の寝返り上手という名を博はくしたことになり申そうか。いや、自嘲にたえん﹂
﹁人には人の才能がある。それも器量の一つ。道誉にあらずんばなしえない﹂
﹁お賞めやら? お貶けなしやら? とにかく道誉を知る者はあなたでしかない。同時に、あなたを知る者もそれがしだと自負しておる。そのためにや、分ぶの悪い役割とは思いながらも唯い々いとして、御計略の道具になった﹂
﹁珍ちん重ちょう珍重﹂
と、尊氏も戯たわむれて、
﹁この後も使うぞ﹂
と、顔じゅうのあばたを笑クボにして言った。
入れ代りに、陣とば幕りを揚げて、直義が顔を見せた。明け方のつかの間まだったろうが、よく眠った朝の顔だった。
﹁兄あに者じゃ﹂
と、つい出たことばを、言いあらためて。
﹁兄上。――一夜考えておく――との昨夜の御ぎょ意いでしたが﹂
﹁む。この後の方針か﹂
﹁されば。いちど鎌倉へひきあげて地固めするか。または、このまま義貞を追ッて都へ迫るかの、二途ですが﹂
﹁きめたよ、直義﹂
﹁どう?﹂
﹁このまま行こう﹂
﹁即日?﹂
﹁今日にも﹂
﹁こころえました﹂
﹁鎌倉などは欲しいものにくれてやれ。直義、中ちゅ原うげんとは真ん中のことだ﹂
﹁そこまでのお腹をうかがえばわれら死んでも本望です﹂
﹁ばかを申せ。死ぬに苦労はいらん。これからこそ実みのある苦労を尊氏はする気なのだ﹂
﹁朝敵とよばれても﹂
﹁照しょ覧うらんあれ、人はいおうと、天は知るだろう。尊氏はただ正しいと信じる道を行くだけだ。……いやこんなはなしは後日後日。直義、すぐ前進の貝を吹かせろ﹂
﹁お待ち下さい。さっき師直が、降参の将の簿ぼを作って、お目にかけるといっておりましたから﹂
直義はあわてて出て行った。まもなく発向の貝が鳴った。この朝の足利勢は、一夜に万を超える兵力となっていた。
ほとんど抵抗らしい抵抗もみず、以後の足利勢は、行く先々でいよいよその兵力を強大にするばかりであった。
当日、加島に夜営
翌朝、富士川渡河
次の日、興津
やがて手越、大井川と一路東海の道は足利色に風ふう靡びされて行った。
しかしその間、大雨の一昼夜もあったので、尊氏は新田の敗残勢力を叩くよりも、これ以上、自軍を疲れさせまいと心していた。わけて海道一の大河、天龍川を越えるには、しょせん一ト難儀はとしていたのである。
ところが、ほどなく遠州に入りその天龍川を前に眺めわたすと、濁流満々ながら対岸にいたるまで堅固な舟橋がえんえんとなお無事に架かかっていたので、
﹁これはどうだ!﹂
と、軍勢は笑いどよめいた。
﹁新田勢のあわてぶりよ。逃げるに急であとの舟橋を断きり落して行く大事な退軍の常法すらも忘れている――﹂と。
が、尊氏は、
﹁はて? うかと渡るな﹂
と、全軍を待たせた。
そして附近の川小屋から土とこ地ろの者数名を狩り出し、何で舟橋が無事にあったかを直じき々じきに質ただした。
すると彼らは。――これはつい四、五日前のこと。新田勢がさんざんな敗まけ軍いくさのていでこの地へかかり、俄に村々へ合力を命じ、そのせつ架かけおかれたもの、と前提して。
﹁まる二日二た晩は、馬やら兵が西へ西へ越え行かれましたが、てまえどもはまたこれへ呼びつけられ、やい聞け、われらの勢せいが渡りきったら、すぐさま舟橋を断きり放はなち、一そうの舟も附近に置いてはならんぞとの、ご厳命でございまする﹂
﹁む、新田がの﹂
﹁いえ、仰おっしゃったのは、ご幕ばっ下かのお方で……。すると、おん大将の新田殿は、それを聞いて橋の途中からお戻りになり、たいそうご機嫌のわるいお声で、お侍たちを叱ッておいでられました﹂
﹁叱ッた?﹂
﹁はい。おことばには、敗軍のわれらさえ架かけえた橋を、断きり落したとて何になろう。およそ、大敵に向う戦の始めなら、舟橋などは焼いて、背はい水すいの陣を布しくという兵略もあるが、敗戦して落ちてゆく今、敵にもやすやす架かけ得られるものを毀こわして行っても益はない。むしろ義貞の小心を見すかされよう。狼狽したといわれても末代までの恥だ。そっくり残しておけ、との御意。わたくしどもへも、しかとお命じで、そのままお立ち去りあったような次第にござりまする﹂
﹁そうか。……川守どもに褒美をやれ﹂
そして、尊氏はそれから言った。感に打たれている麾き下かの将士を見て。
﹁さすがは義貞よ。逃げつつも見事な一いっ矢しのあいさつを残して行った。武士はこうありたいもの。彼にかかる鎌倉武士の余香があろうとは思わなかった。尊氏もここでは見事彼に負けたぞ。好敵手、好敵手。いちばい心をひきしめようわい﹂
途中、さらに軍の強化に努めながら、やがて足利軍は、近江へ達した。近江柏かし原わばらに軍ぐん営えいを張り、年の終りをここにみた。――すでに十二月二十九日であった。
内だい裏りえ炎んじ上ょう
何を感じるのだろう、痩せ犬すらも目を光らしてどこかに異常なふうである。ちまたの人間はいうまでもない、都じゅうが日ごろの姿一切を喪そう失しつし――春を待つ――そんな年く暮れ景色など見たくとも見られなかった。 敗軍の新田勢が洛内にぞろぞろたどりついて来たのが二十五、六日のこと。それからは一日たりと兵馬の東とう奔ほん西せい走そうを見ぬ日はない。足利軍が近江まで迫ったことはたれもみな知っている。けれど洛民の恐怖はそれだけのものでなかった。べつに兵庫、摂津方面からも西国の反官軍が尊氏に呼こお応うし、淀、山崎の口へ攻めのぼって来るとさかんな風説だったのでもある。 ﹁西も、東もか﹂ ﹁都はどうなる?﹂ ﹁どうなるものか、都はふくろの中の何とやらじゃ﹂ ﹁いや、わしらはよ﹂ ﹁こうなったら、どうしようもあろうか。命一つをかかえて、戦のやむまで、どこぞへじっとかがんでいるほか思案もないわ﹂
さるほどに――
と、古典はいとかんたんに書いている。京、白河には
家をこぼちて堀に入れ
財を積んでは持ち運ぶ……
庶民は﹁すわ﹂とまたもや山野へ逃げ込む騒ぎだったのだ。しかも暮正月を跨またいでである。なんの因果でと、嘆きの声は枯れ野や冬山に充ち充ちても、血まなこな武者ばらには、何と無用な生き物の多さよと、かえりみられもしないのか。荷を負ったり手に手をつないで行く老幼が馬蹄にかけられて転こけまろんでいるなどは、めずらしくない巷ちまたであった。
明けた年は、建武三年。――だがそれは後世には、北朝側の年号とされ、後には同じ年を、延えん元げん元年とも併称された。
だからその意味で、南北二朝に別れた最初の年だ。
その年の始め。
一月元旦というのに瀬田ノ大橋では戦争の支度だった。いやその防禦工事中も、しばしば敵陣からの奇襲におびえ、どこかではもう不吉な年の前ぶれに似て、魔の声みたいな矢うなりが虚こく空うの冬を引き裂いていた。その配備は、
瀬田方面、三千騎 総大将 千種ノ中将忠ただ顕あき、名和伯ほう耆きの守かみ長年、結ゆう城きの判官親光
宇治方面、五千騎 楠木左衛門尉じょう正成
淀方面、一万騎 新田右衛門佐義貞
山崎方面、七千騎 脇屋駿河守義助
遊軍、山さん徒との僧兵千余人 延えん暦りゃ寺くじノ僧、道場坊宥ゆう覚かく
ほかに若じゃ干っかんの舟軍がある。――舟軍は琵琶湖上を遊ゆう弋よくしていた。
この兵力と配置でもよくわかるのは、義貞の敗報いたるや、いかに今はと朝廷もあわてたかということである。在京の地方軍はもちろんのこと、公卿指揮者、滝口の兵、叡山の僧兵までをあげて都門の東西にそそぎこみ、
﹁万が一にも、ここにやぶれなば﹂
と、廟びょ議うぎとしては、じつに稀け有うな即決と、また一大覚悟のもとに、これの布陣となった経過がありありわかる。何しろ元日、これはただならぬ元日だった。
由ゆら来い、洛内攻めには、いつも近江路と大津の中間、瀬田川の瀬田ノ大橋、また宇治川が、攻守決戦の境になる。
壬じん申しんノ乱の大おお海しあ人まの皇み子こ軍。木曾義仲の寿じゅ永えいの都入り。承じょ久うきゅうノ乱らんの北条勢と朝廷方がた。
そしてまいど、守備のほうが、そのたび破られていることも例外がない。
という前例もあるので、このたびはと、千種忠ただ顕あき、結城判官親光らは、その防禦構築にはあらん限りな力をそそいだ。
瀬田から石山の下へかけ、川へ向って諸所に櫓やぐらを組み――櫓には出櫓、高櫓の二種があって――楯たてのうちに弓隊の弓の上手を選抜して揃えた。
もちろん、大橋の橋板はすべて撤去し、橋づめの口には、厳重な鹿しし垣がき。ここには弓隊だけでなく、その後方に長槍隊と歩兵部隊が厚く見える。
そしてなお、川の中には、乱らん杭ぐいを打込み、大綱を張りまわし、膳ぜ所ぜヶ瀬せ、供く御ごノ瀬せのあたりまでは水も見えぬほどな流りゅ木うぼくだった。すべて敵の渡河にたいする防禦であるのはいうまでもない。
﹁天野経つね顕あきの軍忠状﹂に見ても、
正月元日より十一日迄
連日の合戦
警固毎日
高矢櫓 にありて
軍忠に抽 んづ
とあり、いかに肉薄戦がむずかしく、遠矢合戦に暮れていたかがわかる。連日の合戦
警固毎日
軍忠に
が、これは正面大手だけのことだった。
――宇治方面では楠木正成の五千騎が、宇治橋を
魔風、大厦 に吹きかけ
宇治平等院 の宝蔵仏閣
たちまちに焼けうせしこそ
浅ましけれ
と、古典の筆者も古来の文化財が宇治
たちまちに焼けうせしこそ
浅ましけれ
いやそのような暴状はここだけでなく、石山寺の宝蔵もこのときに破壊され、淀、八幡、山崎へかけても同様だった。とまれ都門の東西南北、今やぐるりと剣槍の長城だったわけである。
また、ここで視野を大きく、全国的なうごきへも目を
さきに足利方が、直義の名で、諸国へ飛ばしておいた
五畿 、七道、四国九州、全土の朝敵
一時に蜂起 すと聞えしかば
朝野 肝 を消さずといふ事なし
一時に
とあるような情勢にもあったので、都はまさに海つな嘯みの中の一楼ろうに似ていたのである。――現げんに、刻々と兵庫、摂津方面からせまって来る四国の細川定じょ禅うぜん︵足利一族︶、山陽、山陰の武族など、みなそれの呼こお応うで起ったものだった。
だから尊氏には、確信があった。心に期して、あせらなかったようである。
彼は大おお晦みそ日かも元日も行軍中にあった。そして途上、江州の伊い岐きノ宮の小城を一昼夜で攻めつぶし、前線に着いてからでも、入念に巡察をおこなっていた。しかる後、いよいよ瀬田の攻撃を弟直義と師もろ泰やすの手にあずけ、自身は中軍の精兵一万余をひきいて宇治へ向った。
足利方の兵力は、官軍より数倍多かったようである。
勝てばどっと降兵を加えて強大となり、負くれば一夜にその旗きえ営いも痩やせ細ってしまうのが、今の合戦の特徴だった。低い士分、雑兵のあらかたが﹁命いのち﹂を一つの投機にして、戦場をただ食う職場とも考えていた風潮がひろい底辺にはあったのだろう。
とまれ、尊氏は敵に数倍する兵を計算に入れて、ひとつの人海戦術に出た。
それは上手な戦法では決してない。坐しての政略には富むが、馬上実戦の奇手などはない彼である。しかし、策はあった。
その日、七日から八日へかけて。
かねがね、しめしあわせを持っていた足利軍は、瀬田、宇治、大渡、山崎、丹波口、のこらずの前線から一せいに攻撃をおこした。――主力はもちろん尊氏の麾き下かで、その中軍は、八日、大渡をつき破り、同夜、八やわ幡た方面まで進出した。
そして、翌九日、
﹁山崎の口も、細川定じょ禅うぜん、赤松円心らの手勢が、かち取ってござりまする﹂
との伝令をうけたとき、尊氏は口にこそ出さないが、
﹁もう、しめたもの﹂
と、思ったような態ていだった。
はじめ、彼は宇治を突破口と考えたが、その手の守りには菊水の旗が見えた。すると、彼は、
﹁楠木勢だな﹂
と、すぐ転てんじて、大渡へ移ってしまった。なぜか正成を避けたのである。
もし尊氏がそこの守りを突いたら、楠木勢も一敗地にまみれていたかもしれなかった。なぜなら、瀬田、供く御ごノ瀬せ方面の味方あやうしと聞えたので、正成は麾下の矢や尾おノ別当、志賀右衛門らに八百騎をつけて、加勢に割さいてやったところであり、義貞は淀口、脇屋義助は遠い山崎だったから、とても尊氏の兵力はささえきれなかったにちがいない。
けれどまた、もし楠木へぶつかって行ったら、尊氏軍の死傷もおそらくかず知れなかったことだろう。――尊氏はよくそれを予察していた。――いや正成を知ちし悉つしていたのである。彼はまだ心のどこかで正成に惹ひかれている。
﹁縁あらば﹂
と、他日一つの酒を酌くみ合い、同どう床しょ異うい夢むにあらぬ同夢をみることがないでもないと思っていたのだ。
十日の昼合戦は、伏見、鳥羽、桂川の沿岸など、長い戦線で展開された。――しかし細川定禅、赤松円心らの四国、中国勢は、すでに洛内の一角に入っていた。――義貞の一万余騎は、いくつもに分裂し、日没前、諸所に乱れ立つのが見えた。
﹁宇治もやぶれた……﹂
とは、その時刻の声だった。
尊氏の軍は、伏見へ出、このさいまたも、馬淵義綱、田上正氏などの降将とその兵九百人を加えていた。
そして味方の細川定禅、赤松円心則のり村むらの二将と、鳥とば羽で殿んの門外で落ちあった。つまり東西両軍の連絡を遂げたのだった。
﹁本望を遂げまいた﹂
と、円心は言った。この円心も、いぜんは宮方であったが、例の建武恩賞のさい、余りにもひどい冷遇に怒って、いらい国元の播州にひき籠っていた者であった。
瀬田はひがしの関門だが、都の西の八やわ幡た、山崎はもっと重要である。畿きな内い、西国街道へののどくびなのだ。
尊氏はいつも目先の障害にとらわれない。先のたたかいをたたかって行く。万難を排して、今やこの方面の赤松円心や細川定禅らの西国勢と手をむすび、そして鳥と羽ば伏見から羅生門にわたる都門の動脈を扼やくしてしまったものである。
﹁洛内の占領も、はや、今夜のうち!﹂
当然、波はと濤うの軍勢は、逸はやっていた。が、尊氏は、
﹁あしたにする﹂
と、急に、この日の合戦を、ひとまず都の郊外にとどめ、そして、
﹁もう急ぐことはない。むしろ宇治、大渡、丹波口などに、なお、うごめく敵へそなえて、味方をかためろ﹂
と、いう令を出した。
停てい頓とんは意外だった。麾き下かの将士には理解できないことである。このへんを彼の戦下手という者はいうのだろう。古典﹁太平記﹂﹁保ほれ暦きか間ん記き﹂﹁梅松論﹂の諸書はその理由を、
この日、十日は厭 み日(悪日)なればとて、洛中攻めは翌日にのばす――
として、あえて尊氏の気もちには入っていない。しかしそんな御ごへ幣いをかつぐ尊氏でなかったことは、これまたいうまでもないことである。
血に狂う豼ひき貅ゅう数万の大将として、尊氏が慎重でないわけはない。おそらくは、いまや動どう顛てん狼狽の極にあろう内裏の大おお宮みや人びとたちが――わけても後醍醐のご進退が――彼の胸にも想像されて、
﹁まず、こよい一夜は、ご猶予を差上げておくべきか﹂
と、したのがその胸底であったと思う。
この期ごにしろ、彼には本心、後醍醐を憎みたてまつる気などは毛頭ないのである。ただしかし尊氏にとっては当面、まことに困るお人なのだ。退いてもらえばよいのだった。――すでに叡慮としてもお勝目はありますまい。聖断いかがなされますや。尊氏、これにて一夜だけはお待ち申し上げましょう――。という無言の表示がその停戦であったと観る。
まさに、その通りで。
洛中は早や死の街に似、どこか戦線の綻ほころびから潜入した西国兵が、町屋の裏にひそんで火をつけ出したのが消し手もなく燃えひろがり、煙は二条内裏へも忍び入って、いつにない早い黄たそ昏がれが御所一円をおおい出していたのであった。
﹁いかにせん?﹂
との、御評議もまたたくまだった。――主上には叡えい山ざんへ御ごら落っき去ょあるぞ! ――と声大きく触れ出された瞬間からの光景といってはもう一ひト方かたな騒ぎではない。
賢かし所こどころの神器を、玉体にお添えし、鳳みこ輦しへと、お急せき立てはしたものの、それをかつぐ駕かよ輿ちょ丁うの者はいず、ぜひなく、衛府の士が前後を担にないまいらせる。また、供ぐ奉ぶの公卿も、若きはあらかた甲かっ冑ちゅう弓きゅ箭うせんをおびて前線へ出払っていたし――吉田大納言定房が牛くる車まをとばして参さんじたほか、老ろう殿てん上じょう十数人、滝口、蔵人の輩やからなど、寒さむ々ざむしいばかりである。――そしてただ多かったのは、准じゅ后んごうの廉やす子こ以下、あまたな女にょ御ごやそれに侍かしずく小女房たちの女人だった。
十日の宵には、瀬田はまだ陥ちていない。
前線の義貞からは、夕方、
﹁お気づかいあるな﹂
と、宮門まで強気な伝令もあったりしている。にもかかわらず、洛内の危機感は、刻々、不気味さを濃こくしていた。玉座をまもる侍臣のあわてふためきも度どを過ぎてはいたが、このさいの、
主上、山門へ御動座
の措そ置ちは、よくよくなことだった。窮余の急、やむをえなかったともいえようか。
こんな例は、平家都落ちのむかし、木曾義仲の侵入にあたって、一時、後白河法皇が叡山へ難をお避けになったあれ以来のことである。しかも後白河のばあいは、源平両勢力の上になお中立的な余地を残しておられたが、こんどはそうでない。――後醍醐はその経過やら綸りん旨じの上からも、御自身、軍の御指揮者たるのかたちで、公卿すらも弓きゅ箭うせんを取って陣頭に出ていたのだった。
だからおなじ蒙もう塵じん︵天子の御避難︶でも、今日の恐怖は、往むか時しの比ではない。――賢かし所こどころの渡とぎ御ょ︵三種ノ神器の移動︶を忘れなかったのがやっとであった。――日ごろ、紫しし宸ん、清せい涼りょう、弘こき徽で殿んなどになぞらえられていた所の一切の御ぎょ物ぶつ――また昼の御ぎょ座ざの“日の簡ふだ”、おん仏間の五大尊の御みぞ像う、后きさ町きまちのきらびやかな御み簾すごとの調度なども――すべてそのままお立退きのほかなかった。
それから、まもなく。
これらの巨大な洞窟の宝財はチラチラと煙のなかに静かなそして妖しいばかり美しい火を持ち出していた。飛び火か。兵の放火か。バチバチとしばらくは火ハゼの音であったが、やがて天に冲す炎の柱になり出した。――その中天には、寒烈一月十日の、月があった。
ここわづか天下一統して
朝恩にほこりし月卿 雲客
さしたる事もなきに
武具もたしなみ
弓馬を好みて
朝儀、道に違 ひ
礼法、則 に背 きしなど
いつかは
かかる不思議の
出来 るべき前表 なりけん
朝恩にほこりし
さしたる事もなきに
武具もたしなみ
弓馬を好みて
朝儀、道に
礼法、
いつかは
かかる不思議の
とは、古典にみえる浩こう嘆たんであるが――この炎をうしろに、叡山東坂本へと落ち行った鳳みこ輦しの供ぐ奉ぶの人々にしても、それぞれの感や反省の傷いたみに、足も心もそぞろであったに違いあるまい。
が、かくと知って、途中からは、追い追いと、お供の人影なども増していた。
阿あ蘇そノ大宮司惟これ時とき、出雲の宇う佐さ兵衛ノ尉じょう助景の手の者が、まっさきに来て、ご警固に付き、新田の諸しょ侍ざむらい、千葉、宇都宮、そのほか戦線から脱落していた軍兵なども、北白川から志賀越えへかけては、ぞくぞく、おあとを慕って来る。
すると、このうちにあった結ゆう城き太おお田たノ大たゆ夫うの判ほう官がん親ちか光みつは、なに思ったか、
﹁いや君のお供をして叡山へ行くよりは﹂
と、急に独ひとり言ごちして、鳳みこ輦しのおそばへ走ってゆき、あたりの公卿へこう告げた。
﹁少々、思い立ったことがござりますゆえ、それがし一人は、ここにておいとま申しあげます。主上へは、よそながら後日にでもよろしく御ごそ奏うも聞んおきを﹂
と、理由もいわずに、元の道へ蹌々ともどってしまった。――親光ほどな侍さえ臆病風か? と口惜しがらぬ者はなかった。
瀬田口は依然としている。諸所の守りで官軍は破れたが、ここのみは頑強だった。
﹁師もろ泰やす﹂
と、直ただ義よしはいま呼んだ。猛攻まる二昼夜の号令に喉のどもつぶれた声である。
副将の高こうノ師泰も疲れきッた姿だった。すぐそれへ来たが、直義が黙然とただ戦線をにらんでいるので、彼も腕ぐみを共にしばらく側に突っ立っていた。
戦線は瀬田川の川かわ床どこだった。上か流みは石山寺辺りから湖水口へかけてまで、折々にわあッと喊かん声せいをあげている。
だがまだ、一騎も対岸へ駈け渡ってはいない。
無数な人馬の屍かばねは、河中の張り縄や乱らん杭ぐいにひッかかったまま水に洗われており、橋板のない大橋の上にも矢に仆れた味方の死者が、あえなく橋ゲタに伏したり、ブラ下がって、水面に落ちかかッている。――それさえ収容できぬほど、対岸の高たか矢やぐ櫓らや出でや矢ぐ櫓らの弓陣は、進み出る人影さえ見れば、どっと、矢の乱射を集中してくるのだった。
﹁師泰。どうかならんか。何かよい策はないか、何か……﹂
﹁さあ。死傷もかぞえきれません。さまざま、手を変えてみるものの﹂
﹁くりかえしだな﹂
﹁ただ累るい々るいの犠牲を河に埋めるばかりで﹂
﹁だが怯ひるんでなどいられるか。すでに兄あに者じゃの軍は大渡を破り、きのうは八幡、山崎まで進んだとある。直義何をしているのだとのお叱りが聞えるようだ﹂
﹁師泰とて笑われ者、歯ガミを禁じえませぬが、これ以上の死者を出すのもどうかと考えられまする。ま、明朝ともなれば﹂
﹁明朝、何が?﹂
﹁道誉の船手が、湖上、遅くもこれへ着きましょう﹂
﹁その佐々木は、疾とくにこの瀬田攻めに参加しておるはずの者。またも日ひよ和り見みかもしれん。元々、風上にはおけぬやつだ。あてにはするな﹂
先に道誉が味方を救った二度寝返りの芸などは、いかに大きな軍功であろうと、直義には内心、軽蔑の感しか残されていない。尊氏はとかく珍重しているが、もとから彼には性の合わない男なのだ。苦戦、このさいにおいてはなおさらだった。
ところがである。十二日の未明だった。
まだほの暗い湖上を、数十の船影が、瀬田の岸へ寄って来た。佐々木勢であったのだ。道誉は、直義に会うとすぐ言った、
﹁ご苦戦もさぞと、心はせいていましたが、船手の準備に日がかかり、途中敵の舟陣の目をかすめるなども容易でなく、思わぬ日時を費やしました﹂と。
﹁いや、むりもない﹂
直義は怒りもわすれた。正直、百倍の力を得たよろこびだった。がしかし、そのすぐ次に、道誉は容易ならぬ情報を彼に告げた。――それには、船手の加勢をえた直義の強味も、差引き、大きな狼狽を余さずにいられなかった。
何事かといえば。
かねがね、予測はされていたことだが、奥州の北畠顕あき家いえが、北の精兵七千騎をひきつれ、長途、王軍をたすけるべく疾しっ風ぷう迅じん雷らいのように西下して、はや不破を越え、今日にも、近江愛えち知が川わには着くであろうとのことだった。
﹁なに。――北畠顕家の奥州軍が、今日にも愛知川へ着くというのか﹂
足の裏から地ひびきでも聞いたように、直義は恐れ慌てた。予期はしていたが、こう迅はやく! とは想像外であったらしい。
﹁もしその大敵を背うし後ろにうけ、ここもまだ陥ちぬとあったら一大事ぞ﹂
と、道誉と共に作戦をねッた。そして遮しゃ二無む二、今日中にはと、水陸から瀬田の敵をおめきつつんだ。
この湖上奇襲はみごと功をそうし、直義と道誉の兵が、やがて粟あわ津づの岸を占領してからは、官軍も腹ふく背はいの脅威にあきらかな苦悶をみせはじめ――またまもなく、正面の高こうノ師もろ泰やすも、瀬田の一角を突破していた。
柵さく、櫓やぐら、幕、陣小屋。たちまちそこは火の海となり、官軍はぞくぞく大津、坂本方面へと退却し出した。しかしこのむりな突破に払った足利方の損害は寡かし少ょうでない。直義が行くところ、その戦場はいつも余りに烈しく余りにも血なまぐさい。
時に、この十一日。
一方の尊氏軍は都の西から入洛して、洞とう院いんノ公きん賢かたの空あき館やかたを、仮の本営とさだめていた。
同日、こんな事件があった。
尊氏もまだそこへ床しょ几うぎをさだめたばかりの混雑最さな中かに、
﹁申し上げまする。――結ゆう城き太田ノ判官親光が降参の由を申して、そのおとりなしを、かねて親しい大友左近将監貞さだ載としまで願い出ておりますが、いかがいたしたものかと、大友よりの問い合せにござりますが﹂
と、営門の将から伺いを立てて来た。
折ふし――降参ノ輩、注チユウスルニ暇イトマアラズ――の状だったが、親光といえば、東北の大族結城宗広の子である。またとない者だ。尊氏はすぐ大友に伴つれてまいるようにと、いいつけた。
その伝命で、大友左近将監は、すぐ親光をつれて陣所を出た。そして樋ひの口くち東ひがしノ洞とう院いんの小川べりづたいに来て土橋を越え渡ると、大友が言った。
﹁はや、そこが御門前。法なればお腰の刀ものをお預かり申したい﹂
﹁こころえた﹂
と、親光は太刀を外はずし、鞘さやの鯉口を左に持って差出しながら、
﹁年来、そこもととは、武士のおつきあいをして来たが、よも、こんな降参のお扱いを願おうとは思わなかったな﹂
﹁まったくじゃ。したが名よりも実だ、今の世は﹂
﹁げに、そこもとは気転がよいな。伊豆三島の合戦に官軍が破れたのは、まったく御辺と佐々木が寝返りのためであったと聞く。――おおッ、人非人! よくも戦友を売り、君恩を裏切ッたなッ﹂
﹁あッ!﹂
と、大友は額ひたいから左の目へ抜き打ちに浴びせられた半身を朱あけにし、本営内へ逃げこんで行く。――親光は、阿あし修ゅ羅らとなり――逆賊尊氏にも見げん参ざんせん! 尊氏にも一ト太刀! ――とつづいて門へ駈け入ったが、たちまち大勢の白刃に囲まれ無残な死をとげてしまった。
大友もまた、翌る日、息がたえた。この騒動は日常血ぐさい戦陣での出来事ながら、余りに無節操な降将やら時の人心をいたく衝撃したようだった。――また前夜、後醍醐に供ぐ奉ぶしていた叡山落ちの人々も、親光が列を脱けたその折の思いちがいを、あとではいたく慚ざん愧きしたとやら、これも当時の評判であったという。
小公子
四しみ明ょうヶ岳たけの樹じゅ氷ひょう、湖水を研とぐ北風。叡山東坂本の行あん宮ぐうは、寒烈、そんな一語ではつくせない。言語に絶する寒さだった。また敗報に次ぐ敗報のうえに、
主上はすでに
大宮の彼岸所 に御座 あれど
未 だ参 ずる大衆一人もなし
さては
衆徒も心を変じぬるや……
大宮の
さては
衆徒も心を変じぬるや……
と、あるのを見ても、この日まだ、山門の意向さえも、はっきりしていなかった形勢であったとみえる。
おそらくは、山門の僉せん議ぎも、
お味方か、中立か
の二論にわかれていたのだろう。尊氏軍の洛中占領も、直義の瀬田陥落も、山上にはわかっていたはずである。いやそこから手をかざせば、洛中洛外の兵火は、一望に見えもする。
﹁もし叡山が、足利がたへ傾いたら?﹂
これを思うと、供ぐ奉ぶの公卿たちは、食べる物も今朝はのどに通らなかった。
主上以下、皇室の大御家族は、日ひえ吉さん山の王う二十一社の“彼ひが岸んし所ょ”とよぶ空院に、それぞれ一夜をやっと凌しのがれたが、玉座のおかれた一院でさえ、氷の床、氷つら柱らの御み簾す、吹き騒ぐ枯こよ葉うのほかは参さんずる人もなかったらしい。
まさに、後醍醐御一生のうちでも、この日はもっとも険しい、そして、あやうい御浮沈の刻々だった。
が、ひる頃。
はじめて、藤本坊の英えい憲けんやまた円宗院の法印定じょ宗うしゅうらが、五百余人の堂衆を後しりえにつれて、大床の下に来て伏し、
﹁まずは三千の衆徒、臨りん幸こうを厭うとんじたてまつるなどの者は、一人もあるまじきにて候う。一山同心、ふた心はあらじと、ご叡慮を安んぜられて、しかるびょう存じあげまする﹂
と、奏そうした。
さらに、南岸坊の僧そう都ず、道場坊の宥ゆう覚かくなども、千余の僧兵をひきいて行あん宮ぐうをかためにかかった。また、みかどに随身して来た将士のためには、坂本、比叡辻つじの坊々や民家の家々に札を打って宿所にそなえ、軍需として、延暦寺からは銭貨六万貫、米穀七千石を提供した。
山上、十禅寺の大おお鐘がねは、はやたえまなく鳴りつづけ、ついにここも戦場と化して来た。
およそ戦雲のつばさはどんな法のりの山だろうが避よけてはいない。――つい嶺みねの南、大津の三みい井で寺らは、由ゆら来い、叡山とは何事につけても反目していた。幾世にわたって対峙してきた宗門と宗門だった。そこへ、尊氏の麾き下か、細川定じょ禅うぜんの軍が、瀬田の直義に代って、今朝から入った。――法城を軍城として、坂本へ襲よせる気勢をみせているという。叡山もまた、当然に、城塞化した。
けれど、よく幾日を、ここにささえられるだろうか。
千種、楠木、新田、名和、それらの味方とここの行あん宮ぐうとはほとんど連絡もとれていない。寸断され、包囲され、随所で苦戦におちていた。――しかるに尊氏軍は刻々と叡山一点にその重包囲を圧縮しつつある状だった。東坂本の下からも、西坂本の方面からも。
﹁……ああ、潮うしおの中よ﹂
行あん宮ぐうの憂いは濃い。ただ望みは、奥州軍北畠顕あき家いえの援軍が、まに合うか、まに合わぬか、それただ一つでしかなかった。
奥州軍――
ここでそれの動きを見るには、どうしてもまず北畠顕あき家いえの人とその立場とに一章を割さいておかねばなるまい。
こんどの、尊氏討伐の大命が発せられたさい――あの去年十一月二十日のころ――朝廷ではそれと同時に、遠い地の陸むつ奥のか守み顕家へたいしても、
直タダチニ発向セヨ
の檄げきを飛ばし、
郷軍、鎮台兵ノ全力ヲ挙ゲテ、北方ヨリ衝ツイテ上ノボレ
と逐次、朝命を急達していた。
しかし、当時としては何しろたいへんな遠隔だった。
鎮守府の柵さく、多賀城のあった地は、いまの宮城県宮城郡多賀城町市川、岩切駅の東一里で、仙台から松島へ行く塩釜街道の途中にあたる小山である。
延えん喜ぎ年間の碑ひというそこの多賀城碑によれば、
京ヲ去ル、一千五百里
と見え――もちろんこれは古こ里りの六町を一里とかぞえる大ざっぱな里程ではあるが――歩いての旅でも、片道二十五、六日といわれていた。
﹁すわ、御みく国にの大事﹂
顕家は、勅を拝すなりその遠さにまず胸がつかえた。
鎌倉までとしても半月の余はかかる。彼は父の親ちか房ふさにはかって、地方政まん所どころノ執事、評定所所員、侍所の面々、寺社、安あん堵ど奉行までを加えて、国司の議場で大評議をひらいた。そしてその場ですぐ宣言した。
﹁案じられる! このたびの大乱こそ、御国のありかたを決するものだ! 一日のまも猶予はならぬ。わしは今日にも多賀城を立つ。――家の子郎党の糾きゅ合うごうなどに手間取るものは、急いであとより追ッかけて来い。――柵さくの留守には、南部師もろ行ゆき、冷れい泉ぜい家行らを残す。――あとはすべてわしにつづけ。時を逸いっして、馳はせおくれたら一代の不覚だろうぞ﹂
顕家は時に十八歳だった。
おととし十六の秋に、奥州鎮定の大任を負い、幼い義のり良なが親王を上に、父の親房や結ゆう城き宗広を後見として、この地へくだって来ていたのである。
陸羽の奥はまだ蝦え夷ぞ地ちのままといってよい。乱らん妨ぼう、反乱、同族の闘いなど、絶えまもない。――顕あき家いえは二年の在任ですっかり戦陣の起居に馴れた。根は根からの大おお宮みや人びと、任は国司という文官なのだが、いつか純粋花のようなこの童貞の人は、自身を馬上の将軍にきたえていた。
後見の父親房は、あの﹁神皇正統記﹂の著ちょ者しゃでもあった。それでもわかるように身を持じすことみずからきびしく、神国、皇室、万世一系を緯いとする主義のほかには生きがいもないかのような人である。顕家はこの人の鋳いが型たに鋳られた理想の子として親の目にも映っていた。
そのむかし、この顕家もまだ十四歳の左中将の若者であったころ、北山殿どのの行みゆ幸きに、花の御ぎょ宴えんに陪ばいして、陵りょ王うおうの舞を舞ったことがある。
よほどその紅こう顔がん可かれ憐んな姿がお目にのこったものとみえ、みかどはそのごもよく﹁あの、花かり陵ょう王おうはどうしているの?﹂と父の親房へままおたずねがあったりした。――その紅顔の子顕家が、今日の国難に赴ゆく奥州軍の総そう帥すいだった。思わぬ任地へ来て二年、北国の朔さく風ふうに研がれた馬上の子は、その生涯の方向を、いまは誰かに決定づけられていた。
ともあれ、どう急いでも顕家がその鎮ちん守じゅ地ち――陸前多賀城ノ柵さく――を発したのは十二月半ば頃であったろう。
みちのくの山はすべてまッ白だった。行軍は明け暮れ吹雪になやまされた。
柵さくの留守も要いる。初め兵は千にも足りぬ編成だったので、その長途をあやぶまれたが、顕家は、
﹁行く行く、途中で参陣の約ある者三、四千はかぞえられる。いまは兵力よりも一日でも早く立つほうが、はるか大事ぞ﹂
と、言って出た。いかに彼の純真な意気が行くてを急いでいたかわかる。
軍中には、父親房も交じっている。その親房は、ことし八歳の義良親王を綿わた帽ぼう子しにくるんで馬の鞍くらツボに抱いていた。――しょせん、輿こしでは道もはかどらず、駕かよ輿ちょ丁うの者も、雪の歩行にたえられぬからだった。
旗は、錦の旗の一旒りゅうをかざし、ほかは弓まで袋にしていた。弓ゆづ弦るなども張ッたままでおくとピンと凍ッてまま切れてしまう。また不意な雪中合戦が起るとしても、こんな大雪では矢バネも用をなすまいかと思われた。
が、顕家の南下を、
――やらじ
と、さまたげたのは、途上の風雪だけではない。久く慈じ郡の佐竹ノ楯たて。亘わた理り郡の相馬一族。またさきに尊氏から、奥州管かん領りょうの名で東北に派はけ遣んされていた斯し波ば家長の党などが、
﹁親王を奪い、顕家、親房を討って取れ﹂
と、あらゆる妨害と、またしばしばの奇襲に出た。
しかしまた、顕家の軍も、遠からず参会の将を加えて、威風堂々をなしてきた。そのおもなる隊には、伊だ達て、南部、結城などの大族があり、やがて白河を越え、雪もうすらぐと、上こう野ずけ地方から新田与よと党うの参陣もみえて、兵は五千余騎に達していた。
だが、予想以上な日かずを費やされたのはぜひもない。
何しろ斯し波ば家長らの追つい躡じょう︵尾行してくる攻撃︶も執しつ拗ようなので、鎌倉を横に見捨て、ひたむき、東海道を急いだが、ついにあの――箱根竹ノ下合戦には――間に合わなかった。
もし、それに間に合っていたなら、足あし柄がら山上から黄瀬川谷へかけ、尊氏の軍はそのとき限り時代の墳墓に埋没され去ッていたことであったろう。――時運の機微、寸秒の作用のふしぎ、それらをあとでかえりみれば、人意人力のほかに、また一つの、天意みたいなものがあるのを何としても否みきれない。
こうして、顕家の奥州軍は、年の瀬も正月もなく急いでいたが、都へ近づくほど、官軍方の聞えは悲風ばかりで、足利方の優勢は断然たるものがあり、一夜の宿陣も気が気ではなく、
みかどは如いか何がなされし?
都の姿もどうなったか
と、奥州出発いらい、およそ二十八、九日めに、やっと近江愛えち知が川わの湖畔に着いた。いや着くやいな、戦旅の疲れも、鎧よろ虱いじらみや泥土を払う暇いとまもなく、
﹁船はないか。叡山はここから見えるが、瀬田、大津は敵の陣地だ。一刻も早く、これを彼方の行宮へ知らせたいが﹂
と、またはたとその連絡には当惑していた。
船集めは容易でない。
まして敵地だ。数千の兵馬が着いた日すぐ湖上を渡ったなどは考えられぬことである。おそらくは、顕家が着くいぜんに、先発隊が来てすでに幾日も前から愛え知ち川口に手配をしていたものだろう。
いやそれにしても、湖東や湖南に住む水上生活者の協力がなければできないことだった。古来、堅田や焼やい津づには、叡山勢力下の船持ちがたくさんに部落していて“堅田湖族”などと世によばれていたし、同様な水辺部族は、湖南の野や洲す川や能の登と川口にもあまたいたものにちがいない。――おもうに顕家は、後日の報賞を約して、彼らのかくしている“隠し船”を集めさせるに成功したものではないか。
とまれ、奥州軍七千は、湖東と堅田の間を幾往復もくりかえして、十三日から十四、十五の三日間にわたり全軍琵琶湖を船で渡った。
このさい、陸路では、瀬田ノ大橋が落ちているし、また足利方の占領区域ではあり、どうしても、奥州軍は一兵のこらず水路によったものと見るしかない。
﹁おお、援軍が見えたぞ! 援軍が着いた!﹂
﹁奥州の猛卒猛将﹂
﹁しかも七千が﹂
﹁万歳﹂
﹁万歳っ﹂
東坂本はまるで狂気のあらしだった。山門の大鐘も全山の衆徒へ、ごんごんと告げ鳴らしている。――これはすでに前日から分っていたことだが、日ひえ吉ひが彼ん岸し所ょにおける行あん宮ぐうのあたりの色めきは一ぺんに春が来たような騒ぎに見える。公卿侍臣たちは、抱きあって泣いた。或る者は、展望のきく所へ駈けのぼって、堅田ノ浜から整然と進んで来る黒い長途からの軍列へ手を振っていた。わけて、俄に明るさの流れていたのは、准じゅ后んごうの一院やら、女にょ御ご小こに女ょう房ぼうなどの密ひそまっていた避難所だった。
そうしたうちに、麓からは、
﹁顕家、参内﹂
の由が行あん宮ぐうへ聞えて来た。
お待ちかねだった。生なまやさしいお待ちようではない。後醍醐はここ十数日の憂色も初めて、何処かにほころばせて、
﹁来たか。――あの花かり陵ょう王おうがやって来たか﹂
と、お口をついて仰っしゃったほどだった。
花陵王とは、かつて、顕家が十四のとき、花の御宴に陵王を舞ってお目にとまったときからの、帝が彼をよぶ愛称だった。――その顕家は十八となり、花の将軍となって、お目の前にぬかずいていた。後醍醐は彼の援軍をえて、再生のお気もちでもあったが、あの小陵王が、こんなけなげな者になったかというご感慨なども入りまじり、あらゆるおことばで、顕家の労をねぎらわれた。
﹁…………﹂
顕家は感泣していた。かぞえ年の十八はまだ年少な香をもっている。感情の琴きん線せんは純で一いち途ずだった。情じょうに極きわまると子供みたいな咽むせびを洩らす。
父親房は、やがて親王にお添いして、准后の院へ伺候して行った。――が、顕家はなお御前にのこって、宵のころまで御酒を賜わり、その夜は行あん宮ぐうの廊ノ床に、鎧よろいも解かず、宿との直い寝ねしていた。ここのおよろこびもただならない。しかし、当夜も麓は合戦の火の手やら地獄を思わす人間のおめきであった。
まだらな残雪に見える。十四日の月のこぼれだ。
顕家は綿わたのごとく疲れていたのにさてなかなか眠れなかった。――山風はつよく、麓では遠い兵馬の喧騒が海うみ鳴なりに似、夜じゅう、何か事ありげだった。トロとしかけては本能的にすぐ筋肉が目をさます。
それに吹きさらしな行宮の外廊は、氷に坐しているようだった。だが、これは彼が求めてしていた宿との直いだった。――宵に、親しく御酒をいただいたとき、たまたま後醍醐のおくちから、
﹁顕家、覚えておるか﹂
と、元弘元年の北山御ぎょ遊ゆうのおはなしが出たのである。その平和な一日の楽しさ、尊さ。顕家にも忘れられない。
それで彼は北山殿でも花の終よす夜がら、君に宿との直いしたことなども思い出して、あす知れぬ戦陣の身、これがお名残りになろうもしれずと、独り今夜をここに懐なつかしんでいたのであった。……するうちに、いつか彼は、長途千里の疲れやらここに着いた安心も出て、眠るともなく過去層の幻影の中にふと居眠っていた……
――あれは春の三やよ月いで、
花を見ばや
の北山行みゆ幸きだった。
中宮を初め、女院の鏡子や瑛えい子この君なども御一しょであった。みかどは寝しん殿でんの階はしノ間まにお茵しとねをおかれ、階はしの東に、二条ノ道平、堀河ノ大納言、春とう宮ぐうノ大夫公きん宗むね、侍従ノ中納言公きん明めい、御みこ子ひだ左りノ為定などたくさんな衣冠が居ながれていた。
御ぎょ遊ゆうは終ひね日もすにおよび。
やがて、楽がく所その御ごき興ょうには、右大臣兼かね季すえの琵琶、権ノ大夫冬信の笛、源中納言具とも行ゆきの笙しょう、治部ノ卿きょうのひちりき、琴は宰相ノ公きん春はるなど秘曲をこらした。
なお、それにもまさる聞き物は、女にょ蔵のく人ろうどノ高砂、播はり磨まの内ない侍したち、あまたな女人の合奏だった。そのころ中なか務つかさの宮も、おん直のう衣しに太刀姿で見えられ、御随身どもと一つに、舞まい謡うたの手拍子などに興じ入られたと、この日のさまは﹁増鏡﹂の“むら時雨の巻”にも眼まのあたり目に見るように描かれている――
暮れかかるほどに
花の木この間ま、夕日花やかに移ろひて、陵りよ王うわう︵扮装せる当年十四歳の顕家︶のかがやき出でたるは、えもいはず、おもしろし。
そのほど
うへ︵後醍醐︶にも、御おん引ひき直なほ衣しにて、椅い子すにつかせ給ひて、御笛を吹かせ給ふ。――宰相ノ中将顕あき家いへ、陵王の入いり綾あやを、いみじう尽して罷まかづるを、召返して、前さきノ関白殿、御おん衣ぞとりてかづけ給ふ。
紅梅の上は着、二あゐの衣きぬなり。左の肩にかけて、いささか一曲舞ひて罷まかン出ぬ。右の大臣、太鼓打ち給ふ……
﹁ああ、夢よ﹂
顕家は目醒めた。
しかし、太鼓は夢でない。何が起ったのか。とうとうと麓で陣太鼓が鳴っている。
あの君、この公卿。夢の中の人にしてなお今日も生きている人が何人あるだろうか。顕家の瞼には、一瞬、儚はかない花びらが、水の上の花はな屑くずのように流れ去ッた。
﹁やっ? 敵の襲来か﹂
あたりは急に騒然とし、坂本、唐から崎さきの遠くにまで、潮うしおのようなどよめきや飛ぶ火が見えた。
夜すがらな山下のあらしは、明けてみれば、それも味方の吉事とわかった。
洛内のすみに追いこまれていた新田義貞の手が、敵中突破に成功して、やっと東坂本へたどり着いて来たものだった。
また。宇治の手の楠木も、千種、脇屋、名和などもそれいぜんにみな行あん宮ぐうの守りに返っており――これに奥州軍の来援もみたこの朝の官軍は、まったく生色を新たに、
﹁いまは時措おくべきでない。われから攻勢に転じ、まず三井寺の賊軍を殲せん滅めつして後、尊氏、直義を洛中に囲み、このたびこそは、その首級をあげねばならん﹂
と、義貞は衆に豪語していた。その日の評定においてである。
顕家も加わっていた。
﹁……ですが﹂と、彼は年少なので、いと控え目に、
﹁われら、千五百里の道︵古里の数︶を昼夜なく馳はせのぼって来たみちのくの兵馬は何ぶんにも疲れはてておりまする。せめて一日は休息させてやりたいと思いますが﹂
﹁オオ花の将軍北畠殿よな﹂と、義貞の総大将ぶりも、その人へは眸を和なごめて﹁ごもっともだ。途中風雪の御難儀だけでもずいぶんえらかったことでおわそう。……したが、長途を来た兵馬というものは、生なまじ一両日休ませると、かえって骨がゆるんで物の役にはたたぬものだ。いッそ息を抜かせぬにかぎる。――北畠どの、それが用兵のこつというものです。おわかりかの﹂
と、訓おしえるような口調だった。
顕家は赤面して、
﹁よくわかりました﹂
といったきりで黙った。次いで諸将の発言もあったが、多くは義貞の意向ですすめられ、みかどのご裁可をみるや、ただちに大規模な作戦活動に移っていた。
園おん城じょ寺うじ、すなわち三井寺の炎上を見たのはこの日のことである。この正月十六日合戦は、大津合戦とも当時呼ばれた激戦だった。
﹁しまった﹂
と、尊氏方の細川定禅は、すぐ洛中の尊氏、直義の許へ、火急に! と援軍を求めていたに相違ない。
さきごろから尊氏の命で、定禅の軍は、ここを足場に、行あん宮ぐうのおかれてある叡山攻めをしきりに策していたのである。反叡山の三井寺大衆一千余も、もちろんそれを援けていた。
が、叡山は嶮だし、伝教以来のゆゆしい御みや山までもあるとして、尊氏がそれの攻略には大事をとらせていたことが、かえって、今日の遅れであった。義貞の猛攻撃がツケ入る好機となっている。
義貞は懲こりていた。
さきの箱根、足あし柄がらの苦杯を彼は忘れ難い。あのときの戦略的な“読ミ”の不足は大将として恥ずべきだった。だから今はその逆に出た急襲といえなくもない。
はや三井寺には黒煙があがっている。――一番、千葉ノ介高たか胤たね、二番、北畠顕家、三番、結城宗広。四番、伊達と信しの夫ぶの連合勢。――ほか楠木や名和の隊も突進してゆき、攻守入りみだれて、炎の下のたたかい半日余、たそがれにはもうそこは無残な火かじ塵んの広場だった。そして山科から京方面へ黒々と足利兵の逃げなだれが続くばかりで、ついに尊氏からの援軍は見なかった。
第五列
洛内はさっそく兵糧に欠乏していた。 首都占領の優位も、大軍勢も、その点では、無条件に楽観してはいられなかった。 ﹁円心。播はり磨まぶ船ねはまだか。糧米輸送の見込みはどうだの?﹂ 尊氏は、赤松円心を見るたびにこう訊きかぬ日はない。 昨今、山陽道は杜とぜ絶つしていた。楠木の別動隊が淀の水路や河内、摂津口をさまたげているためだという。――先に細川定禅の軍を三井寺へやっておいたのも、近江口の糧道抑おさえが一つの目的だったのだが、瀬田ノ大橋は破壊され、湖上の輸送はなおままならない。そしていまやこの焦土の洛中なのだ。日々数万の兵が糞するほどな食糧が残されているはずもなく、 ﹁はて、負ければさんざん、勝ってもこの餓鬼のすがた。とかく、戦とは、難しいことがいろいろ起るものだ﹂ と、尊氏はつらつら痛感していた。――それでも数万の兵が何とか食っているからだった。そのかわりあらゆる軍の悪に目をつぶっていなければならないのである。彼にはそれが自分の悪行みたいにつらく見えた。 そして彼のあたまは、朝夕、本陣の床几の前に据えられる敵将の首を見るなどよりも、どうしてもほかへ熱意をひかれていた。わけていま、彼が求めていたのは、性急な戦果ではなかった。その戦果を確実なものにする戦争名分であった。 ﹁わからんか。お行方は?﹂ 今日も尊氏は、つい司令部の貴重な一刻を、それの詮せん議ぎに、過ごしてしまった形だった。 彼が求めるものの捜査の主任は、例により一色右馬介が命ぜられていた。右馬介はあの雲水姿を便べん衣いとして、手下も使い、ここ数日それに奔ほん命めいしていたが、 ﹁なんとしても、お一ト方すら分りませぬ。これ以上は叡山にでも登ってみぬことには﹂ と、毎度のむなしい復命をまたくりかえしていた。 ﹁ではやはり……﹂と、尊氏も今は半ばあきらめ顔に。 ﹁持じみ明ょう院いん統とうの後ごふ伏し見み、花園の二法皇から新院︵先帝、光厳︶の君まで、すべて過日の内裏落去のさい、共に叡山の上へ、いやおうなしにお座所変えを強しいられて行ったものと考えるしかないか﹂ ﹁必ひつ定じょうは﹂ 介すけも、さじ投げ気味で。 ﹁それに相違ございますまい。およそ御避難ありそうな先は、くまなくお捜し申しあげまいたこと。……が、なお、望みはないでもございません﹂ ﹁さはいえ、叡山では、近づきまいらせる手もあるまい﹂ ﹁いえ。持明院統の臣で、去こ年ぞの騒動、西園寺公きん宗むね︵北山殿︶の一件にからみ、以来、剃髪して寺にかくれている公卿がありますそうな﹂ ﹁たれか﹂ ﹁日野資すけ名なき卿ょうです﹂ ﹁日野?﹂ ﹁はい。むかし、佐渡ヶ島の配所で、あえなく亡くなられた資すけ朝とも卿の弟御。てまえとも、まんざら縁なきお方ではありません﹂ ﹁それは絶好なお取次だ。資名どのを捜し出せ。資名を介かいして、持明院統の院いん宣ぜんを請こおう。――軍いくさはここまで勝ってきたが、院宣を持たねば、遂にさいごの実みは結ぶまい。その者ならば、居所は分っているのか﹂ ﹁いえ、まだ……﹂と、介は首を振って。﹁これから捜すわけですが、しかし、手がかりもないではございませぬ﹂ ﹁はやくいたせ。――もはや今日の戦いは、足利と新田のいくさとは見せようがない。この尊氏は朝敵とみられておる。我に名分がないのは、軍に旗がないのにひとしい。――大きな弱みだ。一日も早く、持明院統の院宣を請こい奉って逆軍でない証しるしを示さぬことには﹂ ﹁は。きっと、急ぎまする﹂ ﹁して。その日野資名の居どころを、どこに捜すの?﹂ ﹁戦前ですが、仁和寺の尼長屋に、佐渡で亡くなられた資すけ朝とも卿きょうの後家の君が隠れ住んでおりました﹂ ﹁む。資名には、嫂あによめにあたるお人だな﹂ ﹁そうです。その後家君ぎみの許に、ご存知の、小右京の君も一つに身をよせていましたゆえ﹂ ﹁おおあの、小右京か﹂ ﹁おそらくはこの戦乱で、尼長屋の人々もどこぞへ散り去ったかもわかりません。……けれど仁和寺のあたりへ行けば、知れぬことはございますまい。また資朝卿の後家ぎみに会いさえすれば、しぜん資名どのの居る所も分ろうかとも存じられます﹂ はしなく、小右京の名を聞いて、尊氏は、この大きな世の波濤に会ってその姿も見せなくしている無数な弱き者――磯べの貝殻のような力なきもの――盲めしいの覚一やら草心尼などの安否もふっと思い出されていた。 が、そのとき、陣外は急に騒然としていた。 ﹁黒煙が望まれる!﹂ ﹁園城寺だ、三井寺の方ではないか﹂ 尊氏は、さすがすぐ床几を立って、さっと陣とば幕りを出て行ったが、また戻って来て。 ﹁介すけ﹂ ﹁はっ﹂ ﹁いくさの勝敗はまだいずれともわからん。しかしそちに命じておいたことは目前の一勝一敗にかかわらぬ大事中の大事だ。はやくそちはそちの使命に向って吉報を持って来い﹂ ﹁では、後刻また﹂ 追われるように右馬介は笠をかぶって巷ちまたへ出て行った。 その巷は、狂奔する兵馬以外には、ただの生たつ業きのかけらもなかった。――三井寺の味方危うし――の声が高い。山やま科しな、四の宮あたりには、高こうノ師もろ泰やすや石堂、仁木などの味方が陣していると聞いていた洛中兵は、 ﹁なあに、大丈夫さ﹂ と、尊氏の本陣とにらみ合せてたかをくくっていたが、たそがれ近くから模様は妙に険しく変り出していた。 尊氏の陣営内へ入って行った直ただ義よしや今川範のり国くには、いつまでもその幕舎から姿をみせず、やがて、外に現われた直義は、何か、兄とまた激論でも交わしたらしく憤然と唇をかんでいた。そして俄に鞍馬口にあった自陣を三条河原へすすめたが、すでに三井寺から敗れ落ちて来た衆徒やら細川兵は、さんざんな態ていで、粟田口のへんに吹き溜められていた。 ﹁後ご手てだ。ざまはない!﹂ 直義はくやしがった。 ﹁またしても、兄あに者じゃの念入りが、敵に虚きょを突かせたわ。せっかく勝っていた戦をよ。三井寺はもう奪り返せまい!﹂ 後手を取った。 と、直義が切せっ歯しや扼くわ腕んしたのもむりでない。 たしかにわずかな時間差だった。洛中の足利方は、みるみるうちに、その優位を逆転されて、苦しい守勢を余儀なくされた。 だが、立場をかえていえば、新田勢を中心とする官軍方のこの迅速な巻きかえしは、まったく義貞の捨て身な勇が人の予想をこえていたもので――彼は箱根、足柄で舐なめた不覚な教訓をここに生かし――敵の橋きょ頭うと堡うほともいえる三井寺を攻めつぶすやいな、まだその炎もさかんなうちに、 ﹁この勢いで、洛中へ突きすすめ!﹂ と、はやくも次の段階へ指揮を振るッていたものだった。 そして味方一同の勝ち誇りにも、 ﹁まだ、早い﹂ と、勝かち鬨どきも揚げさせていなかったほどなのである。 が、諸軍はとにかく、北畠顕家の奥州勢は、ここの行あん宮ぐうに着いてからさえ、休息なしに参加していた長途の兵なので、 ﹁余りにも……﹂ と、その疲労を思いやる声もあった。けれど義貞は、 ﹁いや、ここで弛ゆるむより、洛中の一ヵ所を占領して後、ゆるりと草枕に休むがいい。逢坂越えはあと一気ぞ﹂ と、耳もかすことではなかった。またすでに暮ぼし色ょくの頃なので、兵に腰こし兵が糧てを摂とらせようとする諸将もあったが、 ﹁すべて次のさしずを待て。もし飯を食ってなどいる間に、洛中の尊氏、直義が大挙してこれへ来たら、三井寺の一勝も、またたちどころに水の泡となる。この勝ちを、勝ちとさだめるまで、少々我慢させい﹂ と、これをすら無視して、全軍すぐ前進に移っていた。だからその迅さには、山やま科しなにいた高こうノ師もろ泰やすの一陣さえ、ひとたまりなく一いっ掃そうされてしまい、三井寺の崩れの中へ、さらに敗走兵を大きく加えて、ごった返しに、三条口までの坂道を、黒い流れが、逃げおめいて行った。 ﹁保たもつッ、瓜うり生ゅう保たもつっ﹂ と、義貞はそれの追撃に躍り逸はやッている馬上から後ろを見て―― ﹁瓜生の勢せいはちょっと待て。そちの隊は何人いる?﹂ ﹁百五十人がやや欠けました。およそ百二、三十人、あとに駈けつづいておりまする﹂ ﹁よしっ。その者どもの笠かさ印じるしをみな脱とって捨てさせろ。そして、敗走する敵の中へまぎれ入り、偽わッて、敵陣の中へ敵兵となって潜り込め﹂ ﹁あっ。心得ました﹂ 瓜生隊の中には忍者組織があったのである。同様な第五列に馴れている者は、越後新田党の羽川一族や烏山一族にもある。 義貞は、それらの乱らっ波ぱた隊いにも、むねをふくめて、ぞくぞく、敵の潰かい乱らん状態のうちへ味方の第五列を送りこんだ。 宵はすでに暗かったし、三井寺衆徒のうちには、正規の僧兵のみでなく、服色一様でない土民兵もたくさん交じっていたことでもある。――そのうえ細川、高こう、仁木、西条など、けじめもつかぬ泥ンこな兵どもが、われがちに三条河原を逃げ渡って、対岸の足利陣地内へ混こみ入ったことなので、尊氏、直義の帷いば幕くでは、まったくこの手には気づかずにいた。 三井寺の失墜などは、いわば一橋頭堡の争奪にすぎず、それへ主力をうごかすまでのことはないと、たかをくくっていた尊氏も、 ﹁なに﹂ と、耳を疑い、 ﹁着いたばかりの奥州勢も加え、敵は義貞以下、総勢をあげて、三条口へ出て来たのか﹂ と一いっ驚きょうを喫きっしたようだった。――が、それはまだ宵のくちのことで、――あわてて彼もその本陣を三条北の河原から悲ひで田んい院んあ址とへかけて押しすすめていた。 そして偵察を放つと。 義貞は、自己の陣地を、粟田口から十禅寺ノ辻の辺に占め、楠木勢は、祇ぎお園んば林やしへ下がって潜み、最勝寺の森には千ちぐ種さ、名和。――また吉田山周辺には、北畠顕家らの奥州勢――結ゆう城き、伊達、南部、幾多の陣が、加茂川の一水を前に、たとえば碁ごい石しをつらねたように望まれるとある。 ﹁さすがは﹂ 尊氏はその手際を聞き、 ﹁義貞は戦上手よ﹂ と、淡々としてつぶやいた。そして、 ﹁義貞は元来、平場︵平地︶の駈けを好み、またそれが得意の騎馬隊が中心なのに、前に川を当て、後ろに山を負った布陣は、どういう腹か﹂ と、すこし無気味な感を抱いたふうでもあった。 おもえば、百余年来、郷国を隣にし合い、代々確かく執しつをつづけ、和解また不和をつづけて来た新田と足利とは、ここにその総決算をつけるべき宿命を、長い月日にかけて作ってきたものかもしれない。と、ひしひし、闘志に胸を打たれながらも、 ﹁すべてはわが大望の素した地じだった。そして義貞もまた、この尊氏の土つち持もちしてくれた一人とすれば憎くもない﹂ 尊氏は苦笑をたたえた。 だがこの夜、彼の不敵さ以上にも敵を呑んでいた者は、義貞であったろう。義貞にはすでに必勝の算があった。悠々、その夜は休んで朝を待った。 十七日、夜は矢さけびに明けた――。両岸の矢いくさに始まり、やがて加茂川河原の上下にわたっての接戦となった。くわしい一騎打ち合戦はここでは省はぶく。――が、ただ乱軍中突とつとして、新田方の第五列が尊氏の中軍に大混乱を呼び起したことだけはのぞきえない。――このため、足利軍は総敗北におち、一時、北野から七条、九条へ遠く退いた。 しかし官軍側も、追撃また追撃にまかせすぎて、あまりにその力を分散させ過ぎた嫌いがある。これが司令者の一失であったことは、その晩のうちに証拠だてられた。 いちど総退却した足利勢は、夜半からふたたび活動をおこし、全市の路地にくたくたとなって駐ちゅ屯うとんしていた官軍へ逆さか襲よせをかけてきたのである。 まったくの暗闇合戦で、この市街戦では、新田の重臣、船田ノ入道義昌が戦死し、千葉ノ介高たか胤たね、由ゆ良ら新左衛門なども、巷ちまたに仆れた。 総じて官軍は、わけて義貞の旗は、派手な敗れ方をして、きのうの戦果も、いちどに画がべ餅いとしてしまったのだった。 ぜひなく、官軍は川の東へ、総ひきあげを呼び交わし、加茂の上流、糺ただすのへんへかたまった。そして徐々に、叡えい山ざん山麓の西がわ――西坂本、雲きら母らざ坂か――へかけて厚い布陣をみせ、なお次の新手を翌日には加えていた。 このさい。俄な新手が補強され出したというわけは、先に、洞とう院いんノ実さね世よを大将として、信濃へ入り、やがて義貞の本軍と会合すべき計画だった東山道軍の七千が、 ﹁主戦場は都へと変った﹂ ﹁いまは引っ返せ﹂ と、遅おく﹇#ルビの﹁おく﹂は底本では﹁むく﹂﹈れ走ばせながら、前夜、行あん宮ぐうの下に帰り着き、そしてすぐ前線の配備へと廻されていたためだった。 これに、三千の僧兵も、向きを変えて、叡山の布陣は、すべてここに、 山の東側から西側へ と、まったく移った。――そして以後の十日間――正月二十七日までは、両軍共に、次の大決戦にのぞむべく、その陣立てや整備に過ごし、物見同士の小ゼリ合いのほかは、たいして見るべき戦もなかった。 状況は、いわゆる四ツの相撲になったのである。 もしこの期間に、尊氏が期するところの、 持明院統の三皇 に接近するの機会をつかみえていたなら、なんらかのかたちで、彼の軍旗の上に、それが闡せん明めいされていたであろうが、ついにその様子はみられなかった。――一色右馬介そのほか、尊氏の秘命をうけて戦陣もよそに八方奔命していた者どもも、いまだになお、目的への暗中摸索をつづけているに過ぎないものか。――とにかく尊氏にすれば心ならずも賊軍の名の立場のままで、ついに二十七日合戦の大戦争へ突入するしかないものとなっていた。 しかも彼はこの日の戦いで大敗した。 賊軍、逆賊、不逞な反軍と、口にまかせて敵が罵る声々をあびて彼の部下は総くずれに崩れ立った。――錦の旗の前に脆もろかっただけでない。――洛中の食糧不足に足利勢の兵色がとみに痩せ飢えていたことがその敗因であったと言いうる。 すでに、洛中占領の当初から食糧政策には欠けていた。いや皆無であった。都へ入れば食糧はあるものときめ、兵たち個々の心理までおなじだった。 ところが、官の廩りん倉そうも公卿の私物もほとんど他へ移されており、疎開民家ときてはなおさらで一ト釜の粟あわすら残してはいなかった。したがって足利勢数万は、入洛以来、勝手な食い漁りによって生きていたのである。軍律がよく行われるはずはない。また“軍の悪”を伴ともなわずにそれのできるわけもない。 ﹁悪兵は用をなさず、か﹂ 大敗した尊氏はすぐそのことばに思い当っていた。 それにしても、この日の惨敗はみじめ極まるもので、主戦場となった下さがり松まつから糺ただ河すが原わらのあいだでは、彼が若年以来のまたなき相談相手だった叔父の上杉憲房を敵の囲いち中ゅうに亡くしてしまい、また、味方の大名、二階堂道みち行つら、三浦貞さだ連つら、曾我ノ入道などをも、随所の激闘で、あえなく討死させてしまった。 ﹁だめだ! もはやここでは﹂ 気がもろい。というよりも彼にはすぐ先の見通しがついてしまう。しかし、勝負は時の運、最後の最後までは――としているのは、いつもながら強気な弟直ただ義よしの血相だった。 彼はどこまで梟きょ将うしょう直義の風を失わない。二十七日合戦の挫折にも怯ひるまず、 ﹁戦いく下さべ手たの兄者はとかく指揮をあやまる﹂ と、尊氏を後陣に庇かばい、自分が中軍の総指揮をとった。 直義の督とく戦せんとなると、麾き下かの将士はみな死神の鞭むちを聞くように、武者肌をそそけ立てた。かならず、死人の山を越えさせるからであった。 ﹁退くやつは斬るぞ﹂ その叱しっを、振り向けもしないのだ。兵は発狂状態をやがておこす。――二十八日合戦は、こうして加茂の一角で勝った。 これに満足する直義ではない。天まだ暗い翌暁からさらに攻勢を烈しくして、 ﹁師もろ泰やす、下り松を占とれ﹂ と、号令していた。 高こうノ師もろ泰やす、首すど藤うみ通ちつ経ねらが先陣していた。午ごろ、そこの敵も一蹴しゅうし去った。 すると、どこからとなく、 ﹁――敵は大原から龍りゅ華うげ越ごえして、北国街道へと、徐々に逃げ退いている﹂ と、聞えた。 義貞も、また行あん宮ぐうも、叡山をすてて、一時北陸へ避ける用意らしいという風聞なのである。 ﹁それみろ。味方が苦しいときは敵もまた苦しいのだ。兵力の底はつき、叡山の兵糧も乏しくなったに相違ない﹂ と、直義は誇った。 が、その見解を、甘い見方として、 ﹁いや、敵の偽計だ。おそらくは乱らっ波ぱの流る布ふ?﹂ と、いさめる声も多かった。石堂、荒川、仁木、畠山などの部将らだった。 こんな乱軍中の浮説が、いかに危なッかしいものであるかの実例には、つい十日前の闇夜合戦のあとでも、 ﹁敵将の楠木正成と脇屋義助が昨夜討死した﹂ と、その首まで拾って来て立ち騒いだことなどある。もとよりそれは偽にせ首くびだった。が、偽首と分ったあとの空そら々ぞらしい敗北感はいつまで後味わるく尾をひくものであった。 果たして。――官軍方の北国落ちなども、その日の夕には、第五列の流言とわかった。しかし、そのときもう直義の軍は深入りをしすぎていた。敵は、山に拠より、夜を待っていたものらしい。 雲きら母らざ坂かにいた山法師の一軍、赤山明神下の洞院ノ実さね世よの七千人。これが一時にうごき出すと、鼓こを合せて、白川越えの上や鹿ししヶ谷たにのふところでも山を裂くような武者声がわきあがった。新田義貞、義助の一万余騎だ。 そして、山科から粟田口へかけても、北畠顕家の奥州勢が、とつぜん、直義のうしろを通って、いきなり二条の尊氏の本陣へ、突進していた。 形からみても、足利軍は、四分五裂のほかなかった。 そのうえ、楠木、名和、千種などの、昼から陣旗をひそめていた部隊が、五条、七条を渡河して、 ﹁逆賊、のがさじ﹂ と、尊氏の退路とみられる所へ、所かまわず火を放つけた。 尊氏の旗本は奮戦した。明け方まで市街の辻でふせぎ戦った。――が、驚くべきことが起った。二引両の足利旗の真ン中に墨を塗って、急に、新田旗の一引両の旗に拵え直して持ち廻っている隊がたくさんある。――早くも寝返りが続出していたのであった。魚うお見みど堂う
尊氏の行方、直ただ義よしの生死、それすらも諸説紛ふん々ぷんで、かいもく、一時はわからなかった。
が、あれほどな足利勢も午ひる頃ごろには洛中のくまぐまにさえ一兵も影をみせず、遠く丹波境の山波の彼方へ没し去っていたことだけはたしかであり、さらには、まだ諸所の屍かばねもかたづいていないこの生々しい戦せん塵じんの中へ、はやくも後醍醐の還幸さえ見られたのだった。
その日は正月の三十日で、尊氏の洛中没落も、園えん太たい暦りゃく、元弘日記裏書、建武三年記、どれもみな同日の事としているのをみれば、天皇には、﹁――尊氏、退く﹂と聞き給うやすぐ、叡山の行あん宮ぐうをひきはらって、
﹁都にあらでは﹂
と、即日、御ぎょ座ざを洛中へ還かえされたものとみえる。
まる一ト月の余であった。宮廷すべての大御家族を連れての御ごど動う座ざでもあったから、一日もはやく元の御所へと願う女にょ性しょうたちのせがみも容いれての還幸ではあったろう。しかし、敗退したといえ、なお丹波境には、足利勢の蠢しゅ動んどうも充分ありうるのを見こしながら、その日すぐ御座を洛中へ還かえすなどは、よほどなご確信のないかぎり、よくなしうることではあるまい。
しかもである。
﹁内裏は一時どこへおく?﹂
と、御随身以外の者はそのおちつく所もまだ知らなかった。――なぜなれば去こ年ぞお立退きのさい、二条富小路の内裏はすでに焼けうせている。――そして元々の大内山は大内裏造営工事の工もいまだ半ばのままで、しょせんお入りあるにはたえない。で、一時、鳳ほう輦れんは、
成じょ就うじゅ護国院
へ入らせられたが、ここも手ぜまやら御不便となって、あくる日すぐまた、
花山院亭
へお移りになった。
いかに難に屈しない御性格のみかどであったことか。翌二月二日には、はやくも仮の政庁にたって諸政や軍務にたずさわっておられたのだった。過般来の合戦にぬきんでた功のあった人々への御ぎょ感かんの軍忠状には、ままこの二月二日付けのものが多い。わけて北畠顕あき家いえ、結ゆう城き宗広、その一族、田村の荘しょ司うじらへの感状には、
遠路をしのぎて
たちまちに参洛 し
おん大事に会 ふの条
御感 ななめならず……
たちまちに
おん大事に
という特別な叡えい慮りょも辞句にはいっていた。またそれに徴ちょうしてもこれ以外のあまたな将士にもそれぞれ何かのかたちで嘉賞の沙汰が一せいにおこなわれたのはいうまでもないだろう。
洛中はこうしてさかんな凱歌にわいた。この声につられて山野の疎開者もたちまち元のわが家へ帰っていたろう。すなわち、一日のまもおかなかった還幸の急は、洛民へのそのねらいが第一であったものとおもわれる。
一方。――一時は戦死説までつたえられていた尊氏、直ただ義よしのふたりは、途々、みじめな残軍をかきあつめては、これをひきつれて、丹波の篠しの村むらへ落ちのびていた。――ここの篠村八幡は、彼が弱じゃ冠っかんのときの曾そう遊ゆうの地。また、彼が反北条の旗上げをした地。――思い出多い三度めの宿命地だった。
九死に一生をえてたどりついた篠村八幡の森は、尊氏に再生の思いだけでない何かをさらに誓わせていたにちがいない。
ここには、かつて自分が旗上げの日に籠こめた願がん文もんがおさめられてある。――一には世のために、二には朝家のため、三にはわが源家再興のため――と素そ志しを天にちかった願文だった。そしてついにそのどれもまだ達していないのみか、かえってこんな蹉さて跌つからみじめな惨敗をみてしまった。
﹁直義﹂
﹁は﹂
﹁いたか﹂
﹁途中、何度かお姿を見失いかけましたが﹂
﹁つかれたなあ、さすが﹂
﹁茫として、つかれた感じすら今はわかりませぬ﹂
﹁そんなことではならぬ。まずおちつけ。ここの御堂は尊氏にとって、何かといえば峠の茶屋のような憩いこいの場となっている﹂
拝殿へむかって礼らい拝はいはしていたが、ことばどおり彼はここを峠の一床しょ几うぎとしているのだろう。階きざはしの一端に腰をおろして、さて? とここまでの帰結やこれからの方向にしばらく思案顔だった。そして旗上げ当初は何もかもが順調であったが、さいごへ来ては事すべて、自分の布ふ置ちや考えとくいちがってむりな戦をあえてしてきた手際のまずさに思いいたらずにいられなかった。
﹁直義、妙源はいるか、引田妙源は﹂
﹁ついに見えませぬ﹂
﹁師もろ直なおは﹂
﹁師直、師泰の兄弟も﹂
﹁いないか﹂
﹁ほかの道へ落ちたものとみえまする﹂
﹁道誉はどうした?﹂
﹁神かぐ楽らヶ岡おかの合戦までは見えましたが、さて、這しゃ奴つのこと、いかがあろうかわかりません﹂
﹁では、近江路かの﹂
﹁おそらくは、道誉もまた、味方の敗北と共に、二引両の間を墨で塗りつぶした旗をかつぎ廻った組の一人ではありますまいか﹂
そこへ宮司が見えた。尊氏は宮司のあいさつをうけたのち、さっそく兵たちに食わせる炊たき出だしの手当を依頼したので、ここまで共に落ちてきた人員を点てん呼こさせてみると将士あわせてわずか二百余人にすぎなかった。
ほどなく土地の内藤三郎兵衛道どう勝しょうも来て大釜で粥かゆを煮に、兵の飢えはしのがれたが、尊氏はなお、腰こし糧がて三百人分を道勝の手に託して、
﹁こよいは休み、ここは、明朝立つ﹂
と、ふれさせた。
あくる朝、ここを立つさい、彼は篠村八幡宮へ佐さえ伯きノ荘しょうの一部を寄進して、所しょ願がん成じょ就うじゅの祈りをこめた。そのとき今川範のり国くにが、
﹁ご先祖義家公にも、奥州征伐のみぎりには、ただ七騎とならせ給うた例があります。はじめの負けは御当家の佳かれ例いかと覚えまする﹂
と、なぐさめた。
尊氏は、大きにさようだと、うなずいて、
﹁負けもよし。ふかく思えば、きのうまで勝ってばかりいたことのほうが、むしろ不吉だった﹂
と、左右へ言った。
その朝︵二月三日︶の情報によれば、官軍は西山峰ノ堂から大江山ぐちまでは追ってきたが、以後は見えないとのことだった。さらば行けと、尊氏は裏丹波を西へさして行った。
尊氏の行くての先は兵庫であった。山陽道と四国をむすぶ兵庫を無視して勝目はないとしていたからだ。
その兵庫への道を、彼の落ちてゆく残軍は、裏丹波の三みく草さへとった。この道は寿じゅ永えいのむかし、源義経がひよどり越えを突いて出たときの間道である。おそらくは尊氏、直義、敗残の将士、たれの胸にも、なにかの感慨がなくていられなかったろう。
いま向ふ方 は明石 の
浦ながら
まだ晴れやらぬ
わがおもひかな
浦ながら
まだ晴れやらぬ
わがおもひかな
尊氏の歌である。
彼が三みく草さ越えの途で詠よんだ歌として歌集﹁等持院殿︵等持院は尊氏の院号︶百首﹂のうちに載っている一つである。おもうに三草の山間のまだ残雪もまだらな道を疲れた馬にゆられつつ行く途中でふと矢立の筆をとってたれかに示したものではないか。
だが、この歌の意味は、どうにもとれる。
大望の道、まだまだ遠し、とする心にも。
または、やるかたない敗軍の将の断だん腸ちょうの思いとも。
あるいは、家郷をも失わせて、ちりぢりにさまよわせている子や妻や愛する者たちへのつぶやきかとも解いて解かれないことはない。
もしたれかが、
﹁さようなお歌の意にございましょうな﹂
というとしたら、尊氏は﹁うん﹂とうなずいて、わが意をえたりとしたろうか。おそらくはそのどれへも笑ってうなずいたかもしれぬ。けれどもわが意を解といたものとはしないだろう。――彼のむねに、まだ晴れやらぬ、思いをなさしめていたものは、逆賊尊氏の汚名を着たままやぶれ去って行くことだったにちがいない。
篠しの村むら八幡へこめた願がん文もんにも、彼は国内平安と朝家の御為をうたっている。家の名をはずかしめずともいっている。また彼の思想からも元々、逆賊叛臣が本ほん懐かいではない。やぶれは時の運と観かんじ去っても、それだけはなにか拭いきれぬような――晴れやらぬおもい――となり、口でいえぬ歌となっていたかにおもわれる。
﹁介すけは、どうしたか﹂
彼が、切望に切望していた持じみ明ょう院いん統とうのお一ト方による院いん宣ぜんはついにこの日までまだ手にすることができなかった。
右馬介をして、序戦のうちからそれの宣せん下げをいただくべく、八方、奔走させていたことではあったが、ついにまだなんの音沙汰も今日までない。
日野資名と行き会えないのか。小右京の行方もさがし出せずにいるのか。あるいは、後醍醐の大だい覚かく寺じと統うの警戒の目がきびしく、後伏見、花園、光こう厳ごんのどなたにも近づきまいらすことができずにいるのか。
﹁……さても﹂
と、彼にはそれが成るか成らぬかの便りだけでも待ちびさしかった。万が一、事が絶望とでもなればいかにせんと、行くての明あか石しの浦すらも暗い未来におもわれてくるのだった。
道は播はり磨まへ入った。
山路を降り、明石の大蔵谷へ行きつくと、この方面、垂たる水み、須磨、兵庫へかけては、たくさんな味方が落ち合っているのがわかった。高こうノ師もろ直なお、師もろ泰やす。赤松円心。細川定じょ禅うぜん。――吉良、仁木、石堂らの一族。そして佐々木道誉もまたそれらの敗退軍のうちにまじっていた。
﹁おお御無事だった﹂
桃井直常、引田妙源らが、まっさきに来てよろこびあい、
﹁どれほどおさがし申したことかしれませぬ。すぐ味方じゅうへ﹂
と、これを兵庫から播磨境までの諸所へわたって触れわたした。
明石の陣は、一夜にすぎず、尊氏は次の日さっそくその陣所を兵庫︵現・神戸市︶へすすめた。――港にちかい逆さか瀬せが川わの川ぐち、魚見堂を本営地として、ここに敗軍の再編成と再挙反撃の床しょ几うぎをさだめたものだった。
兵庫は建武の初年いらい楠木正成の勢力範囲にはいっている。が、正成の代官もここに見えなかったのはいうまでもない。生田、和田ノみさき、会えげ下さ山ん、湊川、見えるところの山野は、期せずして先おととい頃からこの地方へ逃げ集まって来た足利方の兵馬だった。
﹁兄上﹂
直ただ義よしはすっかり意気をもち直していた。
﹁なおこれほどなお味方はのこっています。そのうえに今朝、鞆ともノ津つからの早馬もありました。それによれば、かねて御みぎ教ょう書しょを発しおかれた周すお防うの守護、大内長なが弘ひろ、長なが門との守護、厚こう東とう一族らが兵船五百そうの帆を揃えて、もうつい播磨沖まで、ご加勢に近づきつつあるよしにございまする﹂
﹁おう﹂
と、尊氏も眉をひらいた。これも待ちに待っていたものである。
﹁大内や厚こう東とうの船手がみえて来たとあるか﹂
﹁ご安心なされませ。つづいては九州の大友、相さが良ら、島津らの後陣も馳はせさんずるにちがいなく――それにこの地にあれば兵糧の憂いもないこと。兵馬にはここ幾日かを休養させ、ふたたびの御指揮あらば、義貞の勢せいをけちらして、洛中をとりかえすことも、なんの造ぞう作さではございません﹂
だが、直義のいうようなものでもない。その事実はまだ軍の装備や編成も完まったからぬうちに、ここへはひんぴんと入ッて来た破はち竹くな敵の大軍の情報によっても分っていた。
いわく。
八やわ幡た、山崎の線を死守していた武田信武は、ついに官軍の大兵にもみつぶされて、多くは官軍へ降参し、大将信武は、いまのところ生死も不明――と。
また、二次の報では。
楠木正成は、神かん崎ざき川がわから難なに波わの浜はまをひだりに御みか影げ街道へ急進をしめしており、脇屋、宇都宮の二軍も伊いた丹み野のから西へうごき出で、さらにそのうしろには、北畠顕家の万余の兵、新田本軍の義貞朝あそ臣んが旗じるしなど、霞かすむばかりな厚さをなし、その兵数もちょっとつかめぬほどだという。
尊氏の床几をめぐる性急な軍議では、
﹁この不揃いな装備のまま打って出るのは如いか何がなもの?﹂
と、ひとまずは、受けて守るが利とする説が多かった。
﹁すぐうしろには摩まや耶さ山んの険がある。摩耶とこことはわずか五十町。よろしく御大将と御舎弟とは、摩耶をとりでとして、そこへご籠ろう城じょうがよろしからん﹂
という意見なのだ。
すると、佐々木道誉が、笑って言った。
﹁それはまずかろう。いちど大負けに負けているうえ、両大将が山やま城じろへ入りこんで、および腰な御指揮とあっては、士気が立ち直れるはずもない。また遠方にあるお味方への聞えも悪い。始しじ終ゅうの利こそ大切と思わるる﹂
道誉というと、たれもが蔑さげすむ。しかし尊氏はうなずいた。そしてすぐ断をくだした。
﹁よくいった。道誉の言はただしい。攻勢に出るとしよう﹂
ちらと、直義に不満がみえた。自分がいいたかった主張を、道誉に先せんを越された不快さかもしれなかった。が、尊氏は、気づいていたかどうか。
﹁直義、異議あるまいな﹂
﹁ありませぬ﹂
﹁ではすぐ布ふ令れしろ﹂
﹁は﹂
﹁先陣には、細川、赤松﹂
﹁いや私も﹂
﹁よし、直義もまいれ。次いで尊氏も馬をすすめよう。道誉はわしの中軍に付け﹂
そのほか、指令をうけた各将は、すぐ軍議の場から散って行った。そしてこの日もう六甲のふもとや御みか影げ附近では物見隊の衝突があった。
いかに官軍側の急追が怒濤の急であったかわかる。またすでに、敗残の賊軍などただ一いっ掃そうのみとしていたかもわかる。
その官軍の先鋒は、西の宮に陣していた楠木正成の手勢だった。――いまはこの人も河内、和いず泉みの守護職である。――その勢力もかつての南河内の一土豪にすぎなかった頃の比ではない。そして千ちは早やこ金んご剛うで鳴らした往年の勇名だけはなお生き生きと全土の武者の記憶にふかくのこっている。――だからそれに直面した敵は、菊水の旗と見れば、
﹁ぬかるな﹂
﹁計られるな﹂
﹁めったに出るな﹂
と、かたくなって、つねに手固い対陣になりやすかった。
御みか影げの前哨戦から二日後、両軍ははやくもこの膠こう着ちゃく陣形におちてしまった。いや、﹁菊水の旗も、鬼神の魔ま符ふではあるまい。正成、何ほどのことやある﹂と、あえて吶とっ喊かんをこころみた細川阿波守の弟頼春が、序戦をし損じ、自分もまた重傷を負って仆れてからの膠着だった。
ところが、どうしたのか。
菊水の旗は、一夜のうちに、どこへか見えなくなっていた。前線から後陣へまわされたふうなのである。――或る説では、河内へひきあげてしまったなどの噂すらあった。
しかしそれは事実でない。足利方の乱らっ波ぱの探りでは、三日にわたる膠着戦が因もととなって、正成と尊氏とのあいだには微妙な黙契があるらしい、とうたがわれ、両者は款かんを通つうじているものだ、との声が官軍内にぱっとさかんになったことが、その第一の原因らしいと、尊氏の床几へも、さっそくな秘報がきていた。
﹁そうか﹂
尊氏は、誰へも言っていない。じつは自分がやったことをである。
彼は正成をきらったのだ。正成とは戦いたくない。むしろ味方に求めたい。他日を待っても彼とは共に天下済さい世せいのはかりもじっくりはなしてみたい。
だから避けたのだった。尊氏は、正成宛ての懇ねんごろな書簡を書いて、それを兵の肌に持たせ、わざと捕まるように、昆こ陽や野の方面の敵中へ放したのだ。伊丹には義貞の弟義助が陣している。義貞は疑いぶかい、勇将だが、惑まどいに弱い質たちである。かならずや、正成を観る目に変化をおこすにちがいない。――そう考えてほどこした計だった。そのため、おそらくは義貞と正成とのあいだに、一紛争がおこったものと想像されうる。
﹁だが、正成には気の毒﹂
と、ほくそ笑みにも、ふと惻そく隠いんを抱く尊氏だった。
ひろい六甲の山野から打出ヶ浜の長ちょ汀うていへかけて急なうごきがみえだしていた。
正成の菊水旗きが後陣へ消え、代って、脇屋義助の軍が、武むこ庫が川わのかみから急下してきた朝からの緊迫した鳴動だった。
﹁賊軍の息のねをとめろ﹂
となす総攻撃の開始か。
新田義貞の本軍と、それの左翼をなす北畠顕家の万余の兵も、すべて、昆こ陽や野のから芦屋へと、前進をみせている。
いや、足利方にとって、もっと脅威的なものは、有馬越えから六甲の中腹を通って住吉川へ出て来ようとする一軍の敵もみえていたことである。――これが越後新田党の精鋭だとわかったときは、さすがの直ただ義よしも、
﹁しゃッ、一大事だ﹂
身の毛をよだてずにいられなかった。――もしその猛兵に破はた綻んをゆるせば、御影から西の宮までの味方は――敵のふくろの中の物になってしまう。
﹁師もろ泰やす、師泰。山の手へ向え。おおっ、細川定禅も、住吉、岡本の辺を踏んまえて、有馬ぐちの敵をふせげ﹂
彼は声をからした。
そして直義自身は、赤松円心の手勢とがっちりくんで、浜寄りのなぎさと、昆こ陽や方面とから西進してくる敵へむかって、その陣を扇なりに展ひらいた。――あらゆる形勢、また条件からも、勝敗は、今日じゅうのものとみえてきた。
この急迫を見ては、はるかうしろな尊氏の陣といえ、戦そよぎ立たたずにいられない。
尊氏のまわりには。
高こうノ武蔵守師直、吉良左さひ兵ょう衛えノ尉じょう、桃井修しゅ理りの亮すけ、大たい高こう伊予守、上杉伊豆、岩松の禅師頼らい有う、土岐弾正、おなじく道どう謙けん、佐竹義よし敦あつ、ほか三浦、石堂、仁木、畠山などから老臣今川範国までがかたずをのんで前線との伝令をとっていた。また佐々木佐渡の判官入道道誉もこの中の一人だった。
刻々の戦況をききながら、尊氏はこのうちの将を引き抜いては、
﹁繁しげ氏うじ︵細川︶。山の手の助けに行け。三河ノ三郎︵吉良︶。なぎさづたいに御みか影げの後うしろ詰づめに駈けろ﹂
と、しばしば、応援をおくり出していた。
――するうちに、この日、明石の沖あいに、大小数百そうの兵船群が列をなして見えてきた。これがわかると陸くがでは兵庫から生田、御影へかけて狂喜の歓かん呼こがうねりのようにつたえられ、
﹁長なが門と、周すお防うの兵船五百がここへ着くぞ。大内、厚こう東とうがお味方なるぞ﹂
と、歓呼しあった。
けれど次にはやがて大きな失望と戸惑いが諸陣の兵の顔を吹いた。――兵庫島へ着いた兵船も多かったが、うち二百余そうの船せん影えいは、足利方の陣を横にみながら官軍方の旌せい旗きをさがして西の宮の南へ着け、ただちに兵をあげて、義貞の指揮のもとに就いたのだった。
あとでは分った。
四国の宮方、得とく能のう一族や土ど居いの軍勢だったのである。それが海路の途中ではしなく足利方へ加勢におもむく船団とぶつかってしまったため、海戦には出なかったが、相互、微妙な牽けん制せいをしあい、また、日時もよけい費やして、同時にここへ着いたのである。そしてすぐ敵味方の岸へ別れたものだった。
官軍方へも海上の新手が参加し、足利方の兵庫島にも周すお防う、長門の大船団が加わったので、たたかいはいやがうえにも大きくなった。そしてまた、その日は勝敗もつかずに暮れてしまった。
あすこそは――
と前線の直ただ義よしからは、尊氏のいた摩まや耶さん山ろ麓くへ、意気さかんな伝令があり、
――きっと勝しょ運ううんをひらいてみせます。大内、厚こう東とうの新手の勢せいも参着したよし。ねがわくばなおぞくぞく、新鋭の隊を、前線へおくり出し給わりたい。
と、いって来た。
よし
と、尊氏は答えに附して、なお、かんたんに、
さあれ、義貞は戦上手、わけて平ひら場ばは彼の得意だ、勢いにつられて深入りすな。特に兵力を分散するな。
と、注意をさずけて、伝令を返していた。
尊氏は夜すがら寝もやれぬふうだった。彼の待ちかねていたこと︵持明院統の院宣︶はもう絶望にちかい。直義をはじめ奮戦の中にある諸将はすべて強気だが、いくさを意気だけで勝てるとする単純にまではなりきれぬ尊氏でもある。あすの勝敗にかかわらず、彼のあたまは大局から万一のときの副線へも思いをいたさずにいられなかった。
やがてのこと。――道誉がそっとそこへ呼ばれていた。尊氏のあたまの気泡が何かその一つをかたづけておこうと、急に思いついたものらしく、
﹁ほかでもないが﹂
と、声をひそめた。あたりは夜営寂せきとして、陣とば幕りを透とおす外の篝かがり火びが、かすかな明りを二人の間に見せているだけだった。
﹁道誉。事にわかだが、御辺はここを脱けて、近江へ帰ってくれまいか。摩ま耶やの裏を越えて、丹波へ出れば、敵にも出会うまい﹂
﹁ほ。……?﹂と、一驚のいろの下に﹁またこの道誉へ、寝返れとでも仰せあるか﹂
﹁いや、同じ手は二度効きくまい。しかし、たたかいも七分は勝目なしとおもわれる。朝敵の名を負った不利いかんともなし難い。よし一時は勝っても、官軍の義貞には、いくらでも後ごづ詰めがつづこう﹂
﹁さては早やお見通しか﹂
﹁尊氏は身一ツのみのいくさはしておられん。多くの者の運命をにのうておる﹂
﹁近江へもどれとの御ぎょ意いはそれか。伊吹には越前の前︵藤夜叉︶と御一子不いさ知や哉ま丸るとが残してある。お気がかりよの﹂
﹁されば、尊氏がここに敗れて、しばらく京みや師こも踏めぬからには、御辺の保護の下に、二人を頼みおくしかない﹂
﹁こころえ申した。したが千寿王どのや御台所は﹂
﹁三河においてあればこれはさして後こう顧この要もない。万が一にも、危うしとなれば、舟で落ちゆく島もあろうというもの﹂
それからも、両者のあいだには、たれ知らぬ密談が交わされていた。そして道誉はこの深夜ひそかに一族一隊をつれて、摩ま耶やの裏越えから戦線を脱落し去った。
すると、すぐそのあとのことである。――夜の戦せん野やから拾ッて来たと称して、物見組の一将校が、二人のかよわい者を連れ、おそるおそる尊氏の陣とば幕りへそれを告げに来ていた。
尊氏はおどろいた。その物見組の一将校が語るのを聞けば――
﹁されば、有馬街道から西の野のず末えでございました。ひるの合戦に、そこらは馬のかばねやら兵のむくろが算さんをみだしておりまする。しかるに、歩みも遅ち々ちと、夜風の中をさまようている不審な人影が見えますゆえ、馬をとばして行き、何者かと呼びかけまするに、逃げもせず、新田殿の者か、足利どのの内かとたずね返しまする。――おおよ、おれどもは足利方だと言って聞かせますと、ならば御陣所へ連れて行って給われと、母おや子こして訴えるではございませぬか﹂
﹁で、伴とものうて来たわけよな﹂
﹁はっ﹂
﹁草そう心しん尼にとはいわなかったか。ひとりは、覚かく一法師とも﹂
﹁やはりお心あたりのある者で?﹂
﹁む、ちと有うえ縁んの者だ。すぐこれへつれて来い﹂
有縁どころか、尊氏には叔母にあたるひと、また、いとこにあたる覚一なのだ。それにせよ、どうしてこんな戦場の夜をさまようていたものか。
まもなく丘の下から兵にともなわれて来るたどたどしい二人があった。尊氏は陣とば幕りの内に入れて敷物を与え、そこらの将士をしりぞけてから、自分も楯たての上に胡あぐ坐らした。
﹁尼あま前ぜではないか。どうしてこのようなあぶない所へは﹂
﹁オ、尊氏さま﹂
と、草心尼は、旅のわらじのまま居住居をちょっとかえて。
﹁おもいがけなくお目にかかり、またお変りもあらせられず、こんなうれしいことはございませぬ﹂
﹁いや尼あま前ぜ、六波羅にいた頃とは、大変りだ。其そ許こたちの目から見たら、今の尊氏のすがたなど羅らせ刹つのように見えようがな。……生きるか死ぬかだ。はははは﹂
と、自嘲して。
﹁が、われらは是非もない。これや宿しゅ業くごうだ。したが、何も知らぬ其そ許こたちこそ、世の大波に、さぞや憂うき目を見つらんと、ひそかに案じておった。さるを、なぜ洛中を出て、戦場などへ﹂
﹁いえ、洛中こそが、居るところもない修羅地獄でございました﹂
﹁おおそうよの。洛らくの北山も東山も、あの大戦では﹂
﹁あなたこなた、逃げさまよい、火にも追われ、ぜひなく、明石の知る辺をたよって、淀の西をまいる途中、新田殿の御陣に捕まり、きのうまでは、御陣について、歩き暮れておりました﹂
﹁では、義貞のそばに﹂
﹁はい、むかしの世良田殿も、いまはいかめしゅう、総大将の陣座にわせられ、尼あま前ぜよ、心配すな、そばにおれ、いくさはすぐにすむ。必ひつ定じょう、尊氏は自滅か斬り死のほかあるまい。さあれ、其そ許こたち母おや子こは、朝敵のとがに連つらなる者とはせぬ。――安住の地を与えてやろう、これにおれ――と仰せてはくださいましたが、なんぼうにも居い耐たえ難がとうて﹂
﹁では、無断でそこを去って出たのか﹂
﹁とは申せ、盲めしいを連れていること。行き暮れておりますうちに……﹂
言いながら、尼は、うしろの覚一へいたいたしい目をやった。背の琵琶を重たげに、覚一はさっきから、墨絵の中の者みたいに、うつむいたままでいた。
覚一はやつれていた。
あわれなほど、草心尼にもそれは見えるが、若くして若さの影もない覚一の痩せは、ただの憔しょ悴うすいともみえなかった。心の滅ほろびとたたかっている苦悶に肉を削そがれている若者の頬骨だった。
ひと言こと、ふた言……
尊氏は彼へはなしかけたが、たちまち目をそらしてしまった。
何か、この盲法師が、無言の責めを尊氏へ責めているように思われたらしい。
しかし、覚一は、そんな片言も言ってはいない。人のしている戦いくさを、この地上の業ごうを、むしろ彼は、自分の罪業みたいに身のうちで憂悶しているにすぎないのだ。ただ理解しがたい人の世の相そう剋こくぶりが彼には悲しくて恨めしくて、つい尊氏へも、多くをいわず、うつむきがちな姿になっているものだった。
﹁して?﹂
と、尊氏はすぐ、
﹁明石の、何処へ﹂
尼へことばを向けかえた。
﹁明石の浦に、和う歌たのお師、冷泉為定さまの古いお家がありますので﹂
﹁はて、為定どのは、とうに亡きお方だが﹂
﹁いえ、幾たりとなく、歌の同門たちが、早くから戦を避けて住もうておりまする。わたくしたちも、覚一がお覚えをうけた東宮の御門や女院さまにおすがりすれば、身の無事はえられましょうが、覚一はそれを好みませぬ。またふと、巷ちまたで行き会うた右馬介も、明石へ行くことがよいとすすめますゆえ、ならばと、思い切って都を出て来たわけでございました﹂
﹁なに。巷で、介すけに行き会うたとか﹂
﹁はい﹂
﹁いつ、どこで﹂
﹁つい都を離れる前の日ごろ。嵯さ峨が野のの辻で﹂
﹁介のおる所を、その折、どこか聞かなんだかの﹂
﹁双ならびヶ岡おかのさる法師の家にいて、小右京さまと共に、誰やら申す元お公卿の僧を、懸命に毎日さがし歩いているとのことでございましたが﹂
﹁ああ、まだ日野資名どのに会えずにおるのか。……いや何﹂
と、急に語尾を消して、陣とば幕りの上にうすらいで来た空明りへ顔を上げた。
﹁おう、はやまもなく朝が来よう。朝ともなれば、たちまちここは戦場のちまた。其そ許こたちのいる所でない。……止めおきたいが置かれもせぬ。……妙源おらぬか。妙源﹂
﹁はっ。おめしで﹂
引田妙源の姿を、とばりの裾に見ると、尊氏はそれにいいつけた。
﹁この二人を馬に乗せ、兵庫の魚見堂まで送らせい。そして、よういたわり取らせたうえ、さらに二人のたずねる明石の冷泉殿の家まで兵を添えてとどけてやれ。心ききたる兵数名をつけて、過ちのないようにな﹂
﹁かしこまりました。では﹂
﹁おおすぐがよい。尼あま前ぜ、覚一、また会おう。再会はまだ先の日遠いかもしれぬが、きっと会おう。その日まで、つつがなく暮しておれよ﹂
尊氏は何か、急に、心せわしげであった。そしてこの二人を見送るとすぐ、薬師丸という小姓武者を、陣の内からよびよせていた。
未成年者は一様に童わら武べむ者しゃとよばれている。
十三、四から六、七歳の年少もかなり軍中にいたことは事実で、うちには寵童もまじっていたといわれるが、尊氏には美童を愛していたようなあとはない。その多くは将座に侍じして、総大将の雑用をなすいわゆる“小姓組”に配されていた。
薬師丸もまたそのひとりで、可憐な童体だった。髪を稚ち子ご輪わに結い、朱しゅ胴どう朱しゅおどしの小具足を着き、尊氏によばれると、
おん前に――
と、かたのごとく、いつもの恰かっ好こうでひざまずいた。
﹁薬師丸か。もそっと寄れ﹂
﹁はい﹂
﹁そちはたしか、熊野山の別当法ほっ橋きょ道うど有うゆうが乙おと子ご︵末子︶であったな﹂
﹁はい﹂
﹁日野殿のお家と其そ許この別当家とは、浅からぬ所しょ縁えんのあいだではなかったか﹂
﹁母は日野家から輿こし入いれされたお方にちがいありません﹂
﹁そうだったなあ。御一門の一家、日野資すけ朝とも卿きょうは、正中ノ乱に与くみし、大覚寺統の今上に忠誠をしめして佐渡ヶ島の配所で死んだ。……が、その御兄弟、資すけ名な、資明の二卿は、持明院統につかえられ、例の、西園寺公きん宗むねの北山事件に連座して、いまはいずこかに蟄ちっ居きょの身とか聞いておる﹂
﹁…………﹂
﹁いや、そのようなわけがらはいま申すにも及ばん。要は、そちの所縁がたのみだ。尊氏の旨をおびて、その資名、資明二卿のいずれかに、いそいでお会いできる工夫はないか。わしに代ってだ。どうじゃな、薬師丸﹂
﹁できぬことはございません。おいとまさえいただけば﹂
﹁もとよりすぐ都へ立たねばなるまい。したが、右馬介以下十人ほどを、京にのこしおき、八方おさがし申すといえども、いまだに梨なしのつぶてなのだ。薬師丸、そちならばどこを尋たずねる?﹂
﹁まず醍だい醐ごの三宝院へ行ってみます。あそこの僧正も日野家から出たお方です。それでも分らなければ日野ノ荘の萱かや尾お明神や、法界寺や、日野ノ里をくまなく訊けば、わからぬはずはございませぬ。いずれは由ゆか縁りへお身を潜めているものと思われますから﹂
﹁む! たのもしい﹂
尊氏は俄に一いち縷るの光を見いだしたようだった。自分の待ちかねている――いや絶望さえしかけている――持明院統の皇きみの院宣をどうしてもその日野殿のお手から奏そう請せいして欲しいのだ――ということを、この薬師丸へ、熱意をこめて、いいつけたものだった。
﹁双ならびヶ岡おかの法師といえば、あの兼好にちがいない。右馬介がそこの庵いおりに寝泊りして、八方、院宣の入手に奔走しておるよしを、たったいま耳にした。……薬師丸、そちが介を案内して、日野どのにまみえ、首尾ようまた一日もはやく、院宣をくだし給わるよう、いまより急いでここを立ってくれい﹂
童体の一小武者に、このような大秘事を託して、二次の追っかけに洛中へやったなどをみても、尊氏がいかにそれを急ぎまた重要視していたかもわかる。一説には、これは赤松則のり村むら︵円心︶のすすめだともいわれている。
大覚寺統の君がただしい皇統なら、持明院統の君もまたまぎれない皇統であることぐらいな常識は当年のどんな武者でも持っている。
だから赤松円心ひとりでなく尊氏帷いば幕くの老将たちも、それの献言はみな尊氏へしていたにちがいなく、それも諸将の心に余裕があった日のことだろう。
ところが。後醍醐のご警戒きびしく、当時、持明院統のおかたも、みな叡山へ移され、近づきまいらせる手がかりなどはまったくなかった。――そしてやがて御帰洛を見たころには、足利方は総敗北――洛外遠くへ没落の日であった。
だから﹁梅松論﹂や古典﹁太平記﹂も、尊氏が院宣を請こうための、薬師丸の派遣を、すべて三草越え以後のこととしているのである。さんざんに敗けいくさとなり、もうほかに手段もない切せっ迫ぱつまッての思いつきから、
このたたかひを
皇 と皇 との
お争ひになさばや
お争ひになさばや
と彼が言って、急遽、薬師丸をみやこへやったという態ていに作られてしまっている。
しかし、後にはこれが南北両帝分立の正因にもなるのである。ここらは大いに熟考を要しよう。
かりにもそんな大秘事が、敗北のすえの土壇場へきて、俄に思いつかれたなどは、信じられぬはなしである。――尊氏の政治的才能からみても、それはすでに義貞を追って、海道を馳はせのぼって来たころから――そして洛中合戦のあいだにも――四六時中彼の心にあった重要政略の一つではなかったか。
――けれど万事は休した。
その院宣はついに、西の宮、御みか影げの再起戦でも負け、完かん膚ぷなきまで、官軍にたたかれたさいごの日まで、彼の手には入らなかった。
﹁いまは﹂
と、彼はワラをつかむ気もちで、薬師丸まで追ッかけの使いにやったが、しかしまだ元服前の一童子武者である。それへ大きな望みは望んでみてもムリだった。
しかも戦況は、その日頃をさかいに、悪化の一路をたどっていた。今はすこしでも味方を損じまいとして、尊氏はしきりに退却をうながしたが、直義は頑がんとして退かず、細川、赤松らも遠くたたかって伝令はまま切断され、ために退軍の令もほとんど思うようにおこなわれなかった。
これが救出のために、尊氏も馬を出してついには乱軍中の人となった。
後世、伝承された“尊氏馬上像”はこのときの彼の奮戦像であるという。――ようやく、負けいくさの手勢を合がっして、兵庫の魚見堂へ、一族の諸将が落ち合ったのは、乱軍四日めのことであり、魚見堂伝説として、ここでは尊氏および直義が﹁――腹を切るべきか﹂﹁いや生は大事、死を急ぐべきでない﹂と、諸将共々、論議があったなどともつたえられている。が、もとより尊氏には、自刃の意などは毛頭なかったものと、断言してよい。
筑つく紫しびらき
﹁これまで﹂ と、尊氏は見切りをつけて、ついに船へ移った。いや逃げたという方がここではただしい。 ただの陸地における総退却にしても、いわゆる“負け引き”には非常な危険がともなうといわれている。ましてこの折の足利勢がまたまた、大混乱におち、おびただしい犠牲を浜のなぎさに捨てたのはぜひもない。 かねて大小の兵船三百そうの用意はあったが、 ﹁すわ、大殿には海上へ移られたぞ﹂ と、おめきあって、われがちに船へなだれこんだ一ときの騒ぎは言語に絶していた。うしろには早や官軍がせまっていたし、殿しん軍がりとても、すでに戦意はくずれていたことだった。 溺おぼれ死しぬもの。あるいは、敵に捕われる者数千。余りに一そうの内へ人や馬が混み乗ったため、満載のまま、くつがえる船さえあった――と古典はその惨状を写すに文字を惜しまずつかっている。 尊氏もいまは、非情に、 ﹁つづく者はつづいて来よう。わが船よりまず帆をあげて西へ急げ﹂ と、船手の者を、せきたてた。このさい、時をかせば、官軍方にも四国の兵船二百余そうがいたのである。海上で包囲されるおそれも多分にあったのだ。 それゆえ、掩えん護ごの船列も布しいたろうが、とうてい、秩序のある船出などではない。さきへ行く尊氏の船を目あてに、あとあとから、帆に帆を慕ッて行ったことだった。――ために陸へとりのこされた残軍はまた残軍で、陸路を西へ、離り々り続々、落ちのびて行くのも見えた。 もしこの機に、官軍方が、陸上の顧慮を一切おいて、 ﹁今こそだ。足利一族を海のもくずに﹂ と、すぐその戦力を四国船隊の上へ移して、海上、さらに追撃をつづけていたなら、おそらくは尊氏もついに逃げきれなかったかもわからない。――が、なぜか義貞はそれを敢行しなかった。野戦の驍ぎょ将うしょうも海には自信がなく、ふとためらいを抱いたのか、でなければ、 ﹁これほどに打ちたたいたこと、尊氏とて、もはや再起はおぼつかなかろう﹂ と、敵を見くびッての、驕おごりであったとしか考えられない。 もっとも、官軍側には、公卿大将も多かった。そして古来、堂上の制としては、これを
追捕は武士を以て任ず
というのが朝廷の本則だった。だからいまや海に陸に逃ちょ散うさんする離り々りたる敵影を見た公卿たちは、この習例をよい口実に、
﹁あとは、義貞まかせ﹂
とし、義貞もつい、
﹁まずは兵馬を休めろ﹂
と令して、みすみすここに長ちょ蛇うだをみのがしてしまったものではなかったか。
なにしても、ここは尊氏の僥ぎょ倖うこうというしかない。――彼の乗船、およびそのほか大小の兵船は、乱離な影を明石海峡にみだしながら、ひとまず播ばん州しゅう室むろノ津つの港へさして落ちたのだった。
僥倖といえば、海上での風向きも、その日は、尊氏に倖さいわいしていて、﹁梅松論﹂には、
お座 ふね
辰 ノ刻 (午前八時)に出さる
俄に、西風吹きけり
是 はたつと云つて
追手なりければ
寅 ノ刻(翌・午前四時)
ばかりに室 ノ津 へ御著
とあり、また。俄に、西風吹きけり
追手なりければ
ばかりに
もし順風なくば
一期 の御浮沈たるべきに
ひとへに
神仏の御加護也 とて
下御所 (直義 )には
渡海のあひだに
舎利 ノ御剣 を
龍神へ向て海底に沈 らる
と書いている。これでみても尊氏以下の兵庫脱出の困難さが、いかにあぶないものだったか、想像以上なものだったろう。ひとへに
神仏の御加護
渡海のあひだに
龍神へ向て海底に
それとまた、あの
新田義貞が鎌倉攻めのさいに稲村ヶ崎で剣を龍神へむかって
また、すでにそうした伝承心理が一般のあいだに根ぶかくあったとすれば、その心理を兵法に利用して、士気を振るわすなどのことは、兵家の常套手段でもあった。義貞もしたろうし、直義もまたこのさいは、意識的にそれを演じて、
「われらの武運はまだつきぬところぞ。心落すな人々」
と、大いにその偶然を
けれど、これの半面には、脱落者が多かったことも証拠だてられている。――おん船に従ひ奉る船三百余
さるほどに
おん供仕 つるべき大将共
その中の七八人は
京都へ赴 くあり
後日、降参 とぞ聞えし
おん供
その中の七八人は
京都へ
後日、
などの記事もあるのだ。
このとき一方の旗頭たる大将たちが七、八人も降参洩れしていたなどは、決して少ない兵数の減少ではない。
――当然、たたかい破れて落ちてゆく船上には、落莫な感、悲痛な顔が、おもたく口をとじ合っていたことだろう。そしてこういう中に在る日こそ、その全体の上にある首将の人間そのものが、微妙に、末端の一兵士にまですぐ敏感なひびきをもって映ってゆくものだが、その点でも、尊氏のすがたにはなんのとげとげしさも沈痛な気色もなかった。さっぱり日頃とも余りかわりのない彼だった。
﹁やれ、着いたか﹂
と、彼はまもなく船上を立った。そしてまだほのぐらい室むろノ津つの静かな朝をながめ廻して、
﹁浦うら人びとをおどろかすな。ここに合戦はないとすぐ布ふ令れておけ。赤松、案内をたのむ﹂
と、赤松円心の人数を先に、室むろ山やまの城へその朝入った。
室ノ津は室の遊女でも知られている古い脂しふ粉んの港だが、時ならぬ軍勢の上陸に、町じゅうは戦慄を暗くしていた。
が、尊氏の軍令で、ほどなく、日頃以上な生業の活気に返った。室山の城へも湾内の兵船のうちへも、多くの物資や食糧が買上げられ、ここ両三日、小さな軍需景気を見たのであった。
﹁まずは筑つく紫し︵九州︶までも、海上、物に困らぬだけのお支度は、ととのい終ってござりまする﹂
高こうノ師もろ直なおからこう尊氏へ報告があった。
出航の奉行は、彼と、赤松一族の信濃守範のり資すけ︵室山城主︶とが協力でしていた。――ここら播ばん州しゅうの沿海はあらまし赤松円心の勢力下である。――尊氏が創そう痍いの舟軍をひきつれて、ひとまずここへ寄港したのも一に円心のすすめであった。
﹁円心。忘れはおかんぞ。赤松一族の助力なくば、尊氏も今度はどうなっていたかわからぬ﹂
﹁仰せられな﹂と、円心入道は猛気な人だが、尊氏の前ではつねに低目であった。﹁お味方であるからには、あたりまえなこと。あくまで大御所と喜憂も共にの所存でおざる。一に君の御人徳と申すもので﹂
﹁はて、まずい戦ばかりしつづけてきた尊氏に、なお、何の人徳などがあるだろうか﹂
﹁いやあの佐々木すらも、さように申しておりまいた﹂
﹁道誉が﹂
﹁失意のときこそ、総大将の人間のまことがわかる。この敗軍で、つくづく、足利の宰さい相しょうの御器量が一そう大きく眺められた、と﹂
﹁はははは﹂
笑い消して。
﹁負けいくさに感心するやつもないものだ。道誉らしいわ﹂
そこへ直義が迎えに来た。
城中の広間に、はや一同が顔をそろえ、出座をお待ちしているというのである。この日、さいごの評議をすまし、そしてこよい、尊氏はここを出航、筑紫へさして行くというかねてからの計画だった。
もとより敗戦は予定していたものではない。しかし、いついかなる変で、都落ちを見まいものでないとして、尊氏は、とうから腹に副線を持っていたらしいかたちがある。
ゆらい、九州の武族は、強豪な聞えが高い。尊氏はまだ六波羅のころから、筑紫の少しょ弐うにや大友の族党へはいちばい恩義をかけていた。そのほか、蒔まいておいた胚た子ねも多い。で、彼の九州落ちは、あてなき落おち人ゅうどの漂泊とは違い、ひそかに期するところもあったのだ。
その期するものとは、いうまでもなく、捲けん土どち重ょう来らい、大挙して、都へのぼる日のことでしかない。――それにそなえるべく、今日最終の室ノ津会議で、万端の手はずもきまッた。
すなわち。
この播州地方には、赤松円心一族を防ぎにのこす。
また、備中には今川頼貞、頼兼の兄弟を。備前には、尾張親ちか衛もり、松田一族を。
さらに安あ芸きには、桃井、小早川一族を差し置く。周すお防うには大島義政、大内豊前守。長門には守護の厚こう東とう一族を。
そして四国は、細川阿波守や細川定禅の軍で固め、山陰にも仁木、上杉の族を配しておくなど、すべて後日のための考慮がなされた。
すべて他日のための布ふ置ちだということは誰にもわかる。尊氏のさしずにもその遠謀にも寸分、余すところはない。
﹁……したが?﹂
と、諸将は不安をのこした。
やがて衆座のうちから、大内豊前守義弘がすすんでその疑点をただした。
﹁おそれながら、おうかがいつかまつりますが﹂
﹁豊前か――﹂と、尊氏は眼をやって﹁何事よの?﹂
﹁仰せのように、山陽、山陰、四国へまで、ここの御軍勢を分けて留めおかれましては、筑紫へ渡らせられる宰相のおん供には、どれほどな兵力がお付添いできましょうか﹂
﹁さ。……どれほどあとに残るかな。直義﹂
訊かれた直義はまた、かたわらの師直を見て。
﹁師直。千五、六百人程はひッさげて行かれようか﹂
﹁いや、とんでもない﹂
と、師直は首を振った。
﹁その半数にも足りますまい。せいぜい、筑紫落ちのおん供は五、六百人に過ぎぬかと存じられまする﹂
﹁それでいい!﹂
と、尊氏はためらいなく二人の横から断をくだして。
﹁手勢は五百もつれておれば充分。尊氏の兵力は行く先々においてある。――が、師直はいま何と申したか﹂
﹁はっ。……?﹂
﹁筑紫落ちといったな。たわけめ。尊氏の下げこ向うは、敗れたりとはいえ、落おち人ゅうどの身隠しなどとはわけがちがう。いうならば、筑紫びらきと申せ﹂
﹁これは、師直の失言でござりました。平におゆるしを﹂
﹁余人ならともかく、執事のそちが知ってないはずはない。かねがね筑紫の武者どもへは、他日のため、何くれとなく手を打っておいたことぞ。尊氏はその刈入れに下くだるのだわ﹂
こう師直を叱っておいて、尊氏はそのおもてを全体の武将たちへむけ直した。そして筑紫入りにいたずらな大兵は要すまいという見解に次いで、
﹁むしろ、瀬戸内の海路こそ、あとの大事。もし沿岸の国々が敵手に落ちたら、わが再上洛もむずかしくなるだろう。尊氏の先途を案じるよりは、各はそれぞれの国元にいて、尊氏が二度の上京を鶴かく首しゅして待て。その日は決して遠いさきのことではない﹂
と、説明もし、またことばづよく励ました。
大勢のうえに、どよめきと明るさがただよった。敗戦のただよい以来、やっと、よみがえッてきたいささかな活気であった。――筑紫びらき、ということばが諸将の口からしばしば談笑になって流れたりした。
軍議の席はそのまま酒宴の夕となった。晩には、赤松一族をこの地にのこす以外、みな船へ移ってそれぞれの国へさして別れ去る――。その別宴でもあり、またこれは、筑紫びらきの門かど祝いわいであるぞ、とも誰かが言った。そして、かたちばかりの茶碗酒に他日をちかいあったのだった。
しかもまた。この宵、久しく、尊氏へも消息を絶っていた一色右馬介が、折も折、早馬でここ室ノ津へいま着いたと、城門からの知らせが入った。
﹁何。介すけがいま着いたと﹂
待ちに待っていた者だ。しかし尊氏はなぜか諸将のいる座をついとはずして、べつな一室へ移って行った。そして、これへと侍に命じ、そこで介を待ったのだった。
おそらくは、ひそかに、事の不ふじ成ょう就じゅを、胸にえがいていたのではなかったか。
もしこのさい、ここへもたらしてくる介の報告が、かねがねの切望を裏切って――持明院統の皇きみによる院いん宣ぜん降下の不成功を告げるものであったら――どうなるか。それは、はなはだまずいものになる。
時も時だ。大きなうつろを味方にまねき、ひいては、他日の結束にも亀きれ裂つを生じまいものではない。﹁と、なっては一大事﹂として、尊氏もそこで介を待つ間は、吉か凶かに、肋あば骨らもいたむような胸むな騒ざいをいだいていたにちがいなかった。
﹁…………﹂
やがて侍の声がし、介だけが、そっとそこへ入って来て、平伏した。
例の雲うん水すい姿である。だが髪もひげも伸びに伸びて、乞食僧のように疲れはてた影は、尊氏の目もいたむほどだった。
﹁おう、介すけか﹂
﹁申しわけもございませぬ﹂
﹁なに、申しわけがない?﹂
﹁余りにも日時をついやし、それに今日まで、何らのお便りもつかまつらず……﹂
﹁あの乱軍つづき。しかもそちは都の中だ。いちいち仔細の連絡がとれぬなどは仕方もない。それよりは、結句、どういう情勢か。……持明院統の方々へ、ちかづきまいらする手づるは得たのか。また駄目か﹂
﹁およろこびなされませ。首尾ようお志こころざしは院へ聞え上げられました﹂
﹁えっ。かなえられたと?﹂
﹁はいっ﹂
﹁では院宣の御みく降だしはあるのだな﹂
﹁しかと﹂
﹁……が、その御みつ使かいは﹂
﹁すぐてまえのあとよりこの室むろノ津つへお着きあるはずでございまする﹂
﹁そうか﹂
尊氏は初めてその胸をのばして大きく呼吸した。そして介の労をいたわると、介すけは、
﹁いえいえ。てまえのはたらきなどは微々たるもので﹂
と、恥じて言った。
﹁こうさっそくに、事のはこびがついてきましたのは、まったくお差向けの薬師丸が双ならびヶ岡おかへ見えたからでございまする﹂
﹁お、薬師丸が、そちの許へたずねて行ったか﹂
﹁されば、その薬師丸のみちびきで、資名どのの弟御、三宝院の僧、日野賢けん俊しゅん御坊にお会いできたのでございました﹂
﹁ではその賢俊より院へ﹂
﹁はい。その間かん、朝廷方のきびしい御監視をくぐるため、ことばにも現わせぬ苦心は数かず々かずでござりましたが﹂
﹁ム、さもあろう﹂
﹁が、賢俊御坊には、これぞ持明院統の時節到来と、必死な御助力でございました。そこでついに光厳上皇の御院宣を拝受いたし、それを肌身に秘めるやいな、てまえが京を立つ日と同時に、賢俊御坊と薬師丸のふたりも、讃さぬ岐きへもどる干ほし魚かぶ船ねの船底へ身をかくし、淀の口より海へのがれ出たはずにござりまする﹂
宿望の院宣はもうお手に入るばかりなのだ。
尊氏がどんなに狂喜するだろうかを、介は、期待していたが、案外その人にはなんの表情もうごいてこず、かえって、介のことばのはしに、ふとおもてを曇らせて。
﹁相違ないのか。介﹂
﹁逐ちく一いち申しあげたことに、何の相違がございましょうや﹂
﹁しかし、院宣の御みつ使かいが、はたしてこれへ御ごち着ゃくあるやいなや、そちのはなしでは、ちと心もとなく案じられる。――讃さぬ岐きがよいの干魚船に潜んで海へ出られたということだが﹂
﹁や。申しおくれました。まったくは佐々木道誉の計らいによることでございました﹂
﹁道誉の?﹂
﹁病のため、兵庫から御陣を離れて、近江へ帰るのだと申す道誉が、途中、双ならびヶ岡おかの法師へ使いをよこしましたので、さっそく彼の屯たむろへまいって行き会いましたような次第で﹂
﹁む﹂
﹁聞けば、病とは表向き、云しか々じかで帰国するとのうちあけばなし。で、じつはこなたも、極秘の院宣を、いかにせば無事におとどけなしうるか、御みつ使かいの賢けん俊しゅん御坊も、おなやみの最中と、事を割ってはなしますと、思案のすえ、ならば供のうちに、備前飽あく浦らの佐々木党の一人、加治源太左衛門安綱がおる、これは海上の案内にくわしい侍、その者の才覚におまかせあれとのことだったのでございまする﹂
﹁では、源太左衛門安綱が、御使の賢俊と薬師丸を、送って来るのか﹂
﹁さらに道誉の家臣、田子大弥太も干魚船の水か夫ことなって、淀をまぎれ出で、海上これへまいる手はずとなっています﹂
﹁そちはなぜ、べつに?﹂
﹁万一のさいには、誰がわが殿へこれをお知らせいたしましょうか。それも思い、また一刻もはやくと、てまえは陸路をムチ打って先にまいったわけでござりまする。八はち幡まん、天の御加護もありましょう。今明中には、御使の一舟が、沖へ見えるに相違ございません﹂
ここまで聞くと、尊氏は初めて高い感激に体じゅうを耐えられない程なものにした。幼年からの愛臣介すけのことなので多くは口に出さないが﹁よくぞ。よくやった!﹂と見ている眼が、介へも映うつってかっと彼の心を熱くさせた。無言のままで二人はつい涙ぐんでしまっていたものだった。
が、すぐ尊氏はたちあがって、
﹁幸さいわい、こよいここを別れ去る諸国の大将どもへ、さっそくこの吉報を披露しておこう。またそちはただちに港の船をひきつれて、御使の迎えに行け。播磨灘の沖あいまで﹂
と、言いのこして去った。
やがてしばらくすると、彼方の広間なる大酒盛りの席が、一瞬しいんとひそまった。それからである。尊氏のことばによって、持じみ明ょう院いん統とうの院いん宣ぜんここにわれらへ降くだる――と、満座へ発表されたものであろう。室山の城もゆるぐばかりな歓声が突然わっとそこで揚がった。
﹁それっ、船を出せ﹂
﹁御使に万一あっては﹂
と、その席からも、ただちに、数人の将がどやどや駈け出し、介もまた、人々と共に、港のほうへ駈けていた。
つづいて、尊氏以下、諸軍もみな城を出払って、室むろの港からそれぞれの船へ乗りわかれた。
こうしたうちに、
﹁おう、見えた﹂
﹁御使の迎えに行った船がもどって来るわ﹂
と、港いっぱいに蕩とう揺ようしている無数の船影のうえに、どよめきがわいた。
まさしくそれであろう。この夜は二月十六日であったから雲間にはまろい月があり、鱗うろこのような波光のうちを、その一舟とまた一群の船列とが、近づくほどにあざらかとなって来る。
院の御みつ使かいの船は、まもなく、尊氏の乗船の横へ着いた。すぐ右馬介の介かい添ぞえで、自船から大船の上へと移った日野賢けん俊しゅんと薬師丸の影は、一とき湾内の者の視線を粛しゅくとあつめていた。
はやくも大船の胴どうノ間までは、むしろを清めて、尊氏が座をただして御使を待ち、直義とほかの諸将も艫ともへかけて身を一様な敷しき波なみにして平伏していた。
﹁あなたが足利の宰相尊氏どのでおわされるか﹂
賢俊のことばであった。
個人的な応答と察して、尊氏がしかる由をこたえると、賢俊もまた、
﹁拙僧は三宝院ノ僧正賢俊と申すものですが、つい先さいつ頃までは、院のお側そば近う仕えたてまつっていた中納言日野の資すけ明あきにおざりまする﹂
と、その身分を一応あきらかにしたうえで。
﹁このままでは世はどう成りゆくことでしょう。永えい劫ごう、乱に乱を見ねば相なりますまい。かねがね、後伏見、花園、光厳の三院におかれましても、深くおむねを傷いためられていたところです。そこへ、はしなくあなたからのお働きかけでした。身を僧門に隠してはおりましたものの、この賢俊とても、同憂でない者ではございません。――御密使の介すけと薬師丸から委細を聞くやいな、よろこんで、いや身命を賭として、このお仲立ちに当った次第でございまする﹂
﹁…………﹂
﹁足利どの﹂
﹁はっ﹂
﹁同慶のいたりです。ここに不ふし肖ょう賢俊を以て、すなわち、光厳上皇の御院宣を、足利家へお降くだしあらせられました。つつしんでお受け申されい﹂
陣中、三方の用意もない。
賢俊はそれの奉ほう書しょと、それに添えられた錦の旗の一ひと巻まきとを、両の手に持ち添えて、すこし前へ身をすすめる。尊氏は無言のまま拝受してあとへさがった。そして、もいちど奉書を押しいただいた上で畏おそる畏るひらいてみた。
月のひかりに紙の白さがなお白かった。光厳︵先の帝みかど︶の綸りん旨じには、
義貞と与党 一類を誅伐 して
天下平穏の来 らん日を
一日も早かれと
汝 の忠誠に待つ
天下平穏の
一日も早かれと
という意味のものだった。
これによれば、相手は大覚寺統でもなし後醍醐でもない。義貞こそが当とうの敵だ。そしてこの綸旨に敵対する義貞は、やはり朝敵逆賊の名をまぬがれえないことになる。
尊氏も、ここに錦の旗を持った。すでに名分においては同等な立場となった。ただ錦の旗と錦の旗。天下の人心が、そのいずれを選ぶかだけにある。
﹁直義﹂
尊氏は、そばへ呼んで。
﹁賜たまわった院宣は、そちも拝読しておくがよい。そしてすぐ全軍の船へつたえろ。終ったらすぐ纜ともづな解といて、筑紫へくだるぞ﹂
直義は、かしこまって、親船のみよしから大だい音おん声じょうで味方へ告げた。
﹁聞けよ人々。新院光こう厳ごんの御みつ使かいより、ただいまわが足利党へ、天下平定の綸りん旨じがここで降くだったぞ。――義貞一類の徒を誅伐して、世のため、忠誠をぬきんでよとの院宣だ。――そのしるしをここにかかげる。仰ぎ見ろ味方の衆﹂
と、一人の郎党に命じて、長い竿を持たせ、そのさきに、錦の旗を解いて、月の空へ高々と振らせた。
声は船から船へ、一ときのまに、つたえられてはいた。夜目ながら錦の旗も月影に見たことだろう。やがて港じゅうが沸ふっ騰とうしたようにわああッという武者声を捲きおこした。そしてすぐそれは勇ましい櫓ろひびきや水みず谺こだまと変じて、
﹁さらば後日﹂
﹁さらば、またの再会に﹂
と、呼びあいながら、かねての諜しめし合せどおり、船列の端から、続々、沖へさして別れ出て行った。
尊氏の船も、この夜、室ノ津を離れて西へ去った。
多くは、それぞれの自国へさして一たん帰きは帆んして行ったが、あらかじめ覚悟のとおり、尊氏の船列には五、六百の兵しか扈こじ従ゅうしていなかった。
その中に、日野賢俊もついて行った。
彼はそのまま陣中僧として、尊氏のために犬馬の労をとり、後、室町幕府成立の日にいたッては、その枢すう機きにまで参加した。
元々、日野家は貴族中の名門でもあり、これが機縁で後には足利家とも通婚した。そしてかの東山殿︵足利義政︶の妻として、利殖に長たけ、政治内争をみだし、ついに応仁ノ大乱の一因にもなったといわれる日野富子という室町型の一女性なども、この日野家から出たひとだった。しかしそれは、はるか後代になってのはなし。
ここでは、尊氏にせよ賢俊にしろ、明日の運命すら何でよく知りえようか、である。――わけて尊氏はまだ茫洋な感だったろう。行くての九州に、なお何が待つかも、予知はできない。
味方の一将、石橋和かず義よしを、途中の備前で下ろし、備後鞆ともノ津つに半日ほどいて、またすぐ西下をつづけた。
そして、長門にとどまった。
すると月の二十五日。
筑紫の少しょ弐うに貞経の子、頼より尚ひさ兄弟が大だざ宰い府ふから一族五百余人をひきつれて、
﹁筑紫びらきの御案内に﹂
と、迎えに来た。
これへの迎えも、来る方は容易ではなかったのだ。九州諸党の多くは朝廷の召しに応じて京都へ出ていた。――大友貞さだ載とし、上島惟これ頼より、阿あそ蘇これ惟と時き、菊池武重――みな宮方として早くから義貞の麾き下かに付いている。
そのうちの大友だけは、海道箱根ノ合戦で、道誉や塩えん冶や高貞らと共に、足利方へ寝返っていたが、なお他の九州宮方は健在なのだ。――月のすえ二十九日、尊氏は頼尚の案内で、海路、赤間ヶ関から筑前芦あし屋やノ浦へ渡ったが、それは薄はく氷ひょうを踏み行くような敵地上陸にことならなかった。
勾こう当とうの内ない侍し
ちょうど、尊氏の流亡軍が、筑前芦あし屋やノ浦へつき、ここに初めて九州の地をふんでいたころ―― その二月二十九日。 都では、改元の令があった。爾じこ今ん、年号を、 延えん元げん と改められ、前さきノ大納言花山院亭の仮かり内だい裏りでは、発布の神事がおこなわれていた。また同日を期して、このたびの大戦大勝の賀をのべる貴きけ顕んの馬やら車やらが混み合って、三条洞とう院いんの四ツ辻に、仕しち丁ょうたちの間で“くるま喧嘩”が起るほどな騒ぎだった。 やれ、車をぶつけたとか。 車のあるじが礼を欠いたとか。 車くる副まぞいの侍から、牛うし飼かいの童わっぱまで、みな気が立っているのである。そしてみな戦勝の驕おごりに酔っているのでもある。 なにしろ、尊氏の筑つく紫し隠れは、大きな反映をこの洛中へ投じていた。それを﹁尊氏退散﹂とさえいって、ふたたび、花の都が地に降りたような景観を俄にしていたのだった。 しかし、ほんとの姿にはまだまだ遠く、いたるところは焼け跡だらけな洛内なのだ。――その中へ過日来の兵庫からの凱旋軍が、何万となく入りこんで、各勝手屯だむろに、空地や空あき館やかたを占めてごッたがえしているし、日が暮れると婦女子は一人で歩けぬような戦勝の都である。――だが内裏へ参内するほどな人々は、公卿といわず、武将といわず、相見るたびにこう祝福しあっていた。 ﹁やあ、おめでとう﹂ ﹁いや同どう慶けい、同慶﹂ ここにたれよりも百戦の功を燦さんと身にあつめていたものは新田義貞で、きのう今日の彼は稀世の名将みたいにあつかわれていた。――ソノ日義貞朝アソ臣ンニハ、天下ノ士卒ノ将トシテ、降カウ人ニン数万ヲ後シリヘニ召シ具シ、花ノ都ニ帰リ給フ――と彼の凱旋をたたえた古記はそのまま義貞の風采と見てもよかろう。年は三十のなかば、元々の美男でもある。 そのうえこのほど官位も、 左さこ近ん衛えノ中将 に昇のぼされ、弟の脇わき屋やよ義しす助けは、右うえ衛も門んノ佐すけとなった。 彼の得意時代が今や来たかのようである。今日も親しくみかどに召されて﹁以後、山陰山陽十六ヵ国の事を管領せよ﹂との朝命を拝して御ぎょ座ざのあたりをさがって来たところだった。 近く、義貞はまた、尊氏追つい討とうの軍をもよおして、再び西さい下かしなければならぬ。山陰山陽十六ヵ国にわたる軍令権のみゆるしは、その挙きょにあたっていちいち都へ使いを往おう返へんしていてはまにあわないのですべてをゆだねられたものではあった。けれどこれもまた左中将義貞の名をいよいよ三軍のうえに重からしめるものであることは言げんをまたない。 ﹁ここ七日以内に﹂ と、義貞はその発向の日どりまでを今日はおちかいして来たのである。一族将兵たちの休養もだが、自身もまた去年いらいの血臭い生活をこの日に少し憩いこいたかった。……で、君からいただいた賜しし酒ゅに染まって、頬にはほのかな色が出ていた。憩いの色といってよかった。 ﹁お。……左中将どの﹂ すると、一いち簾れんの蔭からさし招くものがあった。たれかとみれば、これも近ごろ勲功の臣として、内裏でも、また外でも、かくれない羽振りの人、千ちぐ種さの頭とうノ中将忠ただ顕あきだった。 ﹁左中将どの。一度折入って、おはなし申したい儀もあるが﹂ ﹁うけたまわりましょう。ここでよろしければ﹂ ﹁いや、ここではちと﹂ 千種忠顕は間まを措いて。 ﹁尊氏追つい捕ぶのために再度の御発向もおひかえあること。お忙しさは察しるが、貴邸へ伺うてはいかがであろうか﹂ ﹁お待ちする﹂ ﹁今宵にでも﹂ ﹁けっこうです。ただ近来家中も急増して手ぜまのため、旧居は弟の義助にゆずり、それがしは高倉ノ辻にいますが﹂ ﹁御新亭の方か﹂ ﹁いや新居などではありません。もと足利直ただ義よしのいた旧館をそのままつかっているわけで﹂ ﹁ならば人目も遠くてなおよい都合だ。じつは自分のほかに、もひとりお連れしてまいるお方もあるしの……﹂ ﹁あなたのほかに﹂ ﹁む。それは、女にょ性しょうのお方とだけを、ここでは、おうちあけ申しておこう。くわしくいってしもうては色も香も浅くなる。ま……いずれ晩に﹂ 忠顕も忙しげだった。右うべ弁んか官んの局きょくから迎えにきた蔵くろ人うどと袖をつらねてすぐ立ち去り、義貞はそのまま退出して、高倉ノ辻へ帰った。 私邸に帰れば彼を待つ客や軍務はここにも山とつかえていた。“時の人義貞”にまたたく春の半日は暮れてしまう。﹁所しょ用ようあれば、あとの時務は一さい明日聞く﹂と表方へいいわたして、湯殿の湯けむりに浸ひたったのがもう約束の宵だった。そろそろ千種忠顕が見える頃である。 ﹁折入ってとは?﹂ 千種とは、刎ふん頸けいの仲なかだ、悪いこととはおもわれない。 それよりも、その千種が連れてくるといった女性とは誰なのか。そのことのほうが彼には昼から気がかりだった。思い当りがないでもなく、あるいはと、心が浮いてくるからでもある。 左さこ近ん衛えノ中将に叙じょす との恩命に接したのは、さきごろ兵庫合戦でまだ在陣中のことだったが、凱旋の日、さっそくそれのお礼とご報告とをかねて参内し、たいそう面目をほどこしたのみならず、宮中の慣例にもないほどな、おもてなしを賜たまわったことがある。 後醍醐は御酒がおつよい。諸卿はみな知っているが、義貞は正直におあいてしていたので、ついに酔いつぶれてしまったらしく、やがてふと気づいたときは誰もみえない朧おぼ夜ろよの一殿でんだった。のみならず、目をさますとすぐ楚そ々そと薬やく湯とうをささげて来てやさしく気分を問うてくれた一女性がある。 更こう衣いとか典てん侍じとかよばれる深しん宮きゅうの女性にちがいない。いよいよ恐縮して、義貞は半なかば夢心地で薬湯をおしいただいたが、あたりの花明りに、ふと、そのひとの顔を見たせつな、 あ、草心尼? と、叫びかけて、おもわずはしたない驚きの目をしばらく彼女の花かん顔ばせから離しえなかったものだった。それほど彼女の眉み目めは若き日のかの草心尼に似て美しく眩まばゆくもあった。 忘れかねて。 そのご、このことを忠顕にもらすと、忠顕がまたそれを、みかどのお耳へ達したらしく、みかどのおことばとして﹁――左中将がそれほど忘れかねる女なら、左中将へつかわしてもよいの﹂と、仰せられたということだった。――それもまた煩ぼん悩のうの身には、忘れかねるみことばではあった。 まさか。 よしんば、帝がほんとにそう仰っしゃったにしろ、女を賜うなどとは、かりそめのお戯れにちがいない―― それとは義貞も心で打消してはいたが、やはり多少はそぞろめいて、その折、千種忠顕から女の名やら素姓などは訊きさぐってみたのであった。――で、知りえたところによると、彼女は一条行房の妹で、宮中での御ごし所ょ名なは、 勾こう当とうノ内ない侍し と呼ばれているという。 内侍とあるからにはもちろん御ぎょ寝しに侍はべる御みや息すん所どころや更こう衣いにならぶ女性のひとりにちがいない。高たか嶺ねの花だ、訊かぬがましであったよと、義貞はなおさら失望したものだった。 けれど、栄達と名声と、彼の昨今には、彼を満みたすものが充分だった。さらには、尊氏追討のもう一段階もひかえている。彼の失意も空うつ洞ろとまではならずに忘れかけていた。そうして、せっかく忘れかけていたものをである。またも思い出させるなどはあの忠顕も罪がふかい。――彼が言ったこよいの同伴者とは誰なのか。――それに代るべき女でも連れて来る気か。でなければ、まったく何かべつな用か。 ﹁…………﹂ 湯ぶねのうちで、義貞はうっとり思おもい耽ふけっていた。外はおぼろ夜らしく、湯殿の窓にも花の影がサヤサヤあった。 ふるさとの花、世せ良ら田たノ館たちの桜もふとおもい出されてくる。恋が成っても破れても、男には忘れえぬ女が生涯に一人はかならずあるというが、それが自分には草心尼であったかと、義貞はいま知った。 その人と、勾当ノ内侍とは、瞼のうちで、けじめもつかぬほどよく似ている。まだ髪をおろさぬ若後家ごろの草心尼と――。 いや草心尼といえば。つい先頃も彼には妙なことがあった。 摂津の戦場で、兵に捕われて来た旅の母おや子こがあり、見ると、それが彼女と覚一だったのだ。 しょせん尊氏は亡びる。尊氏を頼って行っても行くすえ頼む人にはなるまい。自分の陣にいたがよい、と――それはもうむかしの美しさは褪あせた尼なので色恋などでなくいたわってやったものだが、無断でいつか見えなくなってしまっていた。おそらくは、以後の戦場にまき込まれたか、路頭に迷っていることだろう。 ﹁……殿。……殿﹂ 湯殿の外の声だった。 ﹁新兵衛か﹂ ﹁は。新兵衛にございますが﹂ ﹁いま出る。いますぐ﹂ ﹁お耳へまでちょっと﹂ ﹁千種どのが見えたのであろう﹂ ﹁さようで﹂ ﹁いいつけておいたように離はな亭れのほうへお通し申しあげておいたろうな﹂ ﹁はい﹂ ﹁おひとりか﹂ ﹁いえ、女にょ性しょうの御方と﹂ ﹁老女か。お若い方か﹂ ﹁み車を降りさせ給うたとき、よそながら拝しただけでございますが、花うるしのきらやかな女にょ御ごぐ車るま、おん姿といえば、夜目にさえやかなお方のようにぞんじられました﹂ ﹁ふ……ム﹂ 義貞は内で体を拭いていた。壮者のゆたかな肉しし塊むらは、拭ふくそばからまたすぐ汗になってくる。 用意されていたことなので、主客はすぐ酒になっていたが、義貞はまだ、忠ただ顕あきの来意がとんとわかっていない。客は忠顕だけで、連れていると聞いた女性は、この場には見えないのである。 ﹁いや、おひきあわせはあとにいたそう。その前にちとすましておかねばならぬおはなしもありますから﹂ と、問わぬ先に忠顕のほうから言った。そのひとは、どこか別室にでもおいて、まず用談を先にとしているらしいのである。 ﹁仰せください﹂義貞はさいそくした。﹁――ここは離はな亭れです。呼ぶまではたれも来るなと、家臣どもも遠ざけてござりますれば﹂ ﹁じつはの……﹂と、語気を凝こらして﹁佐々木道誉の降参についてじゃが﹂ ﹁ほ。そのことなら義貞も聞いていました。さきごろ大江山より道誉が使いを出して、あなたの御門へ、降参のおとりなしを、すがって来たとか﹂ ﹁いやこの忠顕だけに来たわけではない。准じゅ后んごう︵廉やす子こ︶のおん許へも懇願の使いを出して、るる、恭きょ順うじゅんのこころを陳のべ、前非を悔いておる態ていなのだ﹂ ﹁はははは。およしなさい、およしなさい﹂ 義貞は手を振った。 ﹁あの道誉が、いまさら前非を悔いたなどとは、笑しょ止うし千せん万ばん。なんで真顔に耳が仮かせましょうか﹂ ﹁なるほど。左中将どのには、あくまで御反対と聞いていたが﹂ ﹁されば宮中にても御内議ありとうかがったせつ、義貞は強いこう不本意でござると、申したことはたしかです﹂ ﹁お嫌いかの。あの人物は﹂ ﹁さような感情からではありませぬ。去年、海道諸所の合戦では、二度まで這しゃ奴つは寝返りをやっておる。およそ廉れん恥ちを知らぬ男でしょうが﹂ ﹁しかし彼のみではない。いまの武将は﹂ ﹁いやいかに道義が廃すたった今でも彼のごときは全く稀まれです。稀れな鵺ぬえです。箱根合戦の後ごじ陣んから裏切って、この義貞を死地におとしたのも彼の才覚。またぞろ尊氏の非運をみるや、尊氏をすてて兵庫から脱陣したものの、京を通らねば近江へも行くことならず、途中の大江山で立ち往生をしているのでしょう。……そしてくるしまぎれに、准じゅ后んごうへすがり、またお気のいいあなたをだまそうとしているのだ﹂ ﹁さ。それで困る。元々、佐々木道誉なる者は、元げん弘こうの年、みかどが六波羅の獄から隠岐へ流され給うた日の出いず雲も路じまで、その御警固にあたっていた人物だ。――さるがゆえに、みかども准后の御方も、彼は情けある武士よと今もって信じておられる。また深くそのせつの道誉の忠義をお憶おぼえあらせられて、ここは助けとらせよとの叡えい慮りょでもあるらしい﹂ ﹁…………﹂ ﹁ところが、左中将には御不服との聞えがある。いま御辺につむじをまげられたら、これまた朝廷のみならず宇うだ内いの大事といわねばならん。そこで忠顕がたれのおさしずというでもなけれど、ま、篤とくとお胸をうかがってみたいと存じてまいったわけだが﹂ ﹁ご苦労でした﹂ 義貞は冷たい杯を手に挙げて白く笑った。 ﹁申しおくが﹂ 義貞は、あらたまって。 ﹁准后のおぼしめしは情じょうとしてわかりますが、義貞の不服は一切私心ではおざらん。ただ軍いくさのためを思うのみです。せっかく、戦勝の瑞ずい気きにわいている今日、道誉のごとき二タ股者、いや三ツ股者の降参をゆるすなどの過誤を冒おかしてはと﹂ ﹁が、人には功罪いずれもある﹂ ﹁道誉に何の功がかぞえられましょうか﹂ ﹁まだ北条の勢威もさかんだった正しょ中うちゅうの頃から、彼のみは、幕臣でありながら公卿方に交まじわり、探たん題だいの弾圧がくだる日も、蔭で宮方をたすけておった﹂ ﹁日ひよ和り見み者の打算、それなど、功というには当りますまい﹂ ﹁いちがいに打算とのみは言いきれん。笠かさ置ぎ落城後、あまたな公卿は斬られ、みかどは六波羅ノ獄に囚とらわれ給うなどの日においてさえ、彼は北条の目をぬすんでまで、みかどにお尽し申しあげた﹂ ﹁それはある﹂ ﹁また、隠岐護送のおん供の途と次じにおいても﹂ ﹁すでに最前うかがった﹂ ﹁さらに、みかど還かん幸こうの日となっても、建武の御新政始めには、御ごな内い帑どのくるしさ、ひと方ならず、楮ちょ幣へい︵紙幣︶を発はつ兌だして、おしのぎあったほどだが、そのおりもまた道誉は、私財をかたむけて、宮廷の御費用をおたすけしておる。……いやこれを知る者は、准じゅ后んごうの御方だけだが……いまとなっては申してもさしつかえあるまい。准后のお暮らしなども、ずいぶん彼によって、当時は息をおつきになっていたものだそうな﹂ ﹁千種どの﹂ ﹁ム?﹂ ﹁あなたもまた、彼にみつがれていたお一人だったのか﹂ ﹁受けんとはいわぬ。彼のみつぎをうけぬ大官はまずないからの。なんとなれば、道誉の佐々木支族は、南海から出雲地方にまでおよんでおる。それらを通じて、彼は海外との交易をやらせ、およそ都に見られる唐から物もののすべては佐さめ女う牛しの門から密々市いちへ捌さばかれていた物といってよい。そして朝廷の大官は日本政府の名による印いん可か符ふ︵許可証︶を彼の交易船に貸していたというわけでもある﹂ ﹁お待ちください。それは商あき人びとのすること。商人の功かは存ぜぬが、軍功ではありますまい﹂ ﹁軍功ではない。しかし軍功にもつながるものだ﹂ ﹁義貞は武人、軍は論じますが、商論はぞんじません﹂ ﹁元々、道誉は純な武将とはいいかねる。半商半武人とも申すべきか。そうした人物も経世の面ではまた要なしとせぬ。まずは彼の旧領を助けおいて、後日、その能才を得意な方に働かせるぐらいな寛度もあってよかろう﹂ ﹁はははは。ご熱心よな。仔細の商論は伺った。お取引はご随意に﹂ ﹁それではこまる﹂ ﹁と申されても﹂ ﹁はて。このままでは二人の仲もついに論争の物別れになりかねん。左中将どの。もう止よそう。こよいは酒なと酌くみ給え﹂ ﹁酒はすでに酌んでいる﹂ ﹁いやお連れしてまいった御方を加え、なごやかにと申すのだ。お待ちあれ……﹂ 何思ったか、忠ただ顕あきは離はな亭れを出て、ふと何処かへ立ってしまった。 義貞は独り酌ついでは飲んでいた。忠顕が去ったあとのうつろは、いやおうなしに彼に自分を考えさせてくる。 道誉の無節操を罵ッたが、義貞といえ、北条遺臣の中先代軍からいわせれば、主家に弓をひいた離反者のほかではなく、天下の武門あらましも寝返りの前科者であらぬはない。 ﹁つまらぬ強情を﹂ と、義貞はかえりみて、忠顕との論争もやや後悔されだしてきた。それは即そく、准后の廉やす子こへたてをつくことにもなるからだ。 おそらく忠顕のおとずれは、廉子の命で来たものだろう。――とすれば、彼が連れて来た女にょ性しょうというのも、あるいは、准后腹心の局つぼねのひとりかも知れぬ。 ﹁目をつぶろう……﹂ 義貞は自我をなだめた。准后と事を構えて争うなどはおろかである。また争って勝てッこはない。現朝廷の妲だっ己きである。いつかは女にょ奏そうの難なんに会おう。そのとき、腹をたてて弓をひけば、自分もまた道誉の無節操と似た者となるしかない。 すくなくも自分の忠誠は現帝の御理想へささげているのだ。道誉のごとき男、尊氏のごとき者と、同列であってはならない。産うぶ土すなの神も照しょ覧うらんあれ願がん文もんの誓いはきっとつらぬいてみせよう。――ここにただ尊氏をさえ滅ぼしてしまえばだ。道誉一人の存否などは問題でない。どうにでもなる。そのどうでもいいことに、准后のごきげんを損じ、忠顕と気まずくなるなどは、愚であった。おろかしさよと、ようやく、彼の酒気が身のうちでほのぼのと色を醸かもしかけていた。すると、そのときである、 ﹁……お召しあそばしましたか﹂ と、どこやらで声が匂におう。 きれいなせせらぎの階音にも似た声こわ音ねには気のせいか覚えがあった。 ﹁たれだ?﹂ ﹁わたくしです﹂ ﹁わたくしとは﹂ ﹁…………﹂ 答えにつまって、そして羞は恥じらってでもいるような気配が朧おぼろな勾こう欄らんのあたりでしていた。その間には、細殿の簾すが垂れている。義貞はもどかしくなり、われから立って、簾を押しはらった。簾の目にたかっていた花の幾ヒラが舞って、その下に手をつかえていたひとの黒髪にもハラとこぼれた。 ﹁や、そなたは﹂ ﹁勾当ノ内侍でございまする﹂ ﹁……これは﹂ 義貞はあきれた。茫然と口もきけなかった。 声で、もしやと思わぬでもなかったが、あまりに欲ほっしていたものが余りにたやすく目の前におかれた驚きの反作用が奇異な戦慄にもなるのであった。 ﹁はて、人の悪い﹂ 義貞は、胸の戸まどいを、ふとそんな呟きにして。 ﹁では、千種どのが、こよいお連れあった女性というは﹂ ﹁私でございました﹂ 内侍は、どこかに怯おびえの翳かげを持ちながらかすかに答えた。 ﹁お召ゆえ、この離はな亭れへ罷まかれと仰せなので、まいりましたが﹂ ﹁いや、義貞は呼んだ覚えはない。ないどころか、連れがそなたとも知らなかった。して千種どのはどこに﹂ ﹁はやお帰りになりました﹂ ﹁えっ。帰った?﹂ ふしぎな行為をするものだ。なんでこんな謎めいたまねを彼はするのか。 義貞には、忠顕の腹が、彼の腹芸みたいな行為が、 ﹁妙な?﹂ としか考えられない。何かウラが? とさえ疑われてくる。 しかし残された勾当ノ内侍が、ひとり残っていることをすこしも疑っていないのは一体どういうわけだろう。義貞がそのことをただすと、彼女は消えも入りたげな姿をみせてやっと答えた。 ﹁どうぞおそばにお置き給わりませ。内裏のおいとまも今日を限りに、いまよりはお館にいるようにとの、仰せつけを畏かしこんでまいりました。ふつつかな者ではございますが﹂ ﹁仰せつけ? ……。はて、たれの?﹂ ﹁もとよりお上うえの﹂ ﹁みかどのおことばだと仰っしゃるのか﹂ ﹁くわしいことは千種さまから、はやお耳かとぞんじますが﹂ ﹁いやなにも聞いていない﹂ ﹁まだ、なにも﹂ ﹁まったくなにも﹂ ﹁…………﹂ 彼女は初めてうろたえの色をあらわした。しずかでいた眸よりは、心ここ噪ろさわがしい眸のほうが一いちばい美しさを増していた。とつぜん意中の者同士がなんらの前提もなく密会の機にめぐまれたようなときめきをすら義貞はとたんに覚えた。 ともあれと、彼はべつな小部屋へ彼女を誘いざない入れた。 ﹁内侍。そなたのいうに従えば、そなたもこのままいることを、承知のうえで今宵これへ参ったように聞えるが﹂ ﹁はい。もしお厭いといなくば﹂ ﹁それがわからぬ﹂ ﹁どうしてですか﹂ ﹁みかどのお心も﹂ ﹁でもお上には左中将との一約、ぜひもなければと私へお言いふくめでございました﹂ ﹁約束と仰せられて﹂ ﹁はい﹂ ﹁……約束とな﹂ あとの呟きはほとんど口のうちだった。義貞は心のちぢむ思いがした。忠顕から洩れ聞いていた叡慮とはやはり一時のお戯れではなかったのか、と。 どうしよう。急に彼は惑まどった。むかしには源げん三ざん位み頼政が菖あや蒲めノ前まえを主上から賜わったというはなしはある。が、自分の上にそんな僥倖がめぐんで欲しいなどとは思いもしていなかった。――忘れかねるという想いを率直に忠顕へ洩らしただけのことである。もしこの勾当の内侍がみかどにとって寵ちょ幸うこうもただならぬ愛あい妃ひであったとしたら、それをねだッた自分はいとも罪深い者になろう。恐きょ懼うくといっても言い足りはしない。ただただ申しわけないかぎりである。 彼のそうした容子がふと内侍を不安にさせてきたのかもしれなかった。急に、つきつめたその眸に涙さえ差しぐんで。 ﹁左中将さま。居てもよろしいのでございましょうか﹂ ﹁居てもとは﹂ ﹁おそばに﹂ ﹁そなたさえ居る心なら﹂ ﹁わたくしはもう……﹂ と、彼女は思いきったようにあふるる涙と共に言った。 ﹁ここへ来て、真実ほっといたしました。内裏という火かた宅くをのがれ出てきたような思いがして﹂ 義貞は内侍のことばをあやしんだ。内裏も火宅同様とは。 煩ぼん悩のうの炎ほむら、その中での業ごう苦く遁のがれ難い人間の三界住ずま居い。――それが仏典でいう﹁火宅﹂と彼は承知している。 内裏の後宮もまたそんな所だろうか。勾当ノ内侍は、問われて袂を濡らすばかりだったが、やがて、とぎれとぎれに語りだした。いまは義貞にゆだねるしかない女の一生と、どこかで観念のみえるのもあわれであった。 彼女の生家は公卿中での名門である。とくに兄の一条頭とうノ大たゆ夫う行房は、隠おき岐はい配し所ょにまでお供をして、始終、帝とあの一ト頃の艱苦を共にした侍じし者ゃの一人でもあったから、還幸の後は、みかども、いちばい行房にはお目をかけられ、末の妹の勾当ノ内侍も後宮に入って、あまたな妃ひひ嬪んのうちでさえかがやく寵ちょ幸うこうを身一つにほこっていた。 これだけならば、彼女になんの不足があろう。後宮を茨いばらの園と恐れにおののくわけもない。 が、やがて彼女は、みかどの寵幸が厚うなればなるほど、准じゅ后んごうの廉やす子この監視がたえず身にそそがれているのに気づいた。廉子ときけば、后きさ町きまちの局つぼ々ねつぼね、あまたな寵ちょ姫うきも、みなお姑しゅうとめのようにおそれ憚はばかっているのである。それに内侍はいつか帝のおたねをやどしていた。 身をいとしんで、珠の御み子こを産めと、彼女は実や家どへさげられた。すると或る日、兄の行房が来て、ひそかに妹へ﹁おろしたがよい﹂とすすめた。﹁……兄がこの目で見た小こさ宰いし相ょうノ君のような例もあるからのう﹂と、恐ろしいことをいて聞かせた。 かつて、みかどが隠岐脱出のさいには、なおまだ三人の妃がおそばに仕えていた。廉子、大納言ノ局、小宰相の三名である。ところがそのうちで身ごもっていた小宰相ノ君だけが、伯ほう耆きノ地に上陸後には、いつのまにか見えなくなっていた。 ……ふびんや、過ッて船着きの折、海へ落ちて。 と、廉子は後日、傷いたましげに奏そうしていたが、じつは追手にせまられた混乱中、その廉子が船上から波間へ突きおとしたものであった一瞬を、運悪く行房だけがふと見ていたのだった。――いらい行房はどうかしてこの悪夢を記憶から打消そう打消したい――と念じて今日にいたって来たが、妹のそちがおなじ立場になってみては黙っておれぬ。――語るのは、いま初めてだが、ゆめ、准后のおねたみを受けてはならぬという兄の注意なのだった。 世にそんな恐ろしいことがと、疑われもし悲しまれて、内侍はそれをしおに病といって後宮へはもどらずにいた。しかし、みかどからは﹁……いかにせし?﹂と、そのごも再三なお召めしである。で、ついにまた入じゅ内だいをやむなくしたが、前にもまして廉子が恐こわく、また廉子の目もなんとなくほかの寵ちょ妃うひを見るのとちがい、自分へのみはすさまじく思われて仕方がない。そして、ひとの秘密を知ったことの恐ろしさがついにはわが身の患わずらいとまでなっていた。 これにはまた、みかども常々お悩みらしくあって、近ごろはとみに自分への寵幸も衰おとろえぎみとなっていた折……はしなくも﹁義貞へ嫁ゆけ﹂との御ごじ諚ょうであったという。――内侍はそう語り終って、しんそこ、ほっと息をした。 世間は暗かった。洛中、一種の鬼気が深夜になるとただよってくる。 義貞には体でわかる。 豼ひき貅ゅう︵戦いを好む猛獣︶数万の者が、このところ刀とう鎗そうの血をぬぐって、いささか休息のため人間社会の中へ返っている。そして戦いなき夜を眠っていた。いやなかなか眠りもしていまい。乾き切った意欲が女を漁あさり酒を追って、百鬼夜行図さながらに、罪の香を嗅かぎあるいているに相違なかろう。 なにしろ兵は野性だ。将も人間である。本能やりばなき、血のなかのものを、義貞もいま、三条高倉邸の離はな亭れの一灯とうに照らして、みずからの身に見ていた。 おれも豼ひき貅ゅうの一匹 と覚らざるをえまい。――目のまえの勾当の内侍は、ともすればただうつむきがちだった。あれから義貞はそこへ酒をはこばせてしきりに酔いをいそぎ、そして内侍へも、 ﹁飲まぬか﹂ と、すすめていたが、ふたりの仲はたやすく美うま酒ざけのごとく醸かもされては来なかった。――天皇から賜たもうた女と、賜わった男とである。いわばまたその初夜だった。――人はやはり品ではない。溶けきれないもどかしさを徒いたずらにふたりはいつまで心の外側にむかい合っていたままだった。 ﹁……そなた、武む者さの家の生くら活しはまだ知るまいがの﹂ 義貞はふと、こんな緒いとぐちをみつけて言った。ひとつの話がとぎれると、あとの話題も彼がもちだすほかないのであった。 ﹁ええ……﹂と、内侍もやや頬の解ほぐれをみせて﹁武者のお家はおろか、世間のことも、何一つようぞんじてはおりませぬ﹂ ﹁さいぜん、内裏は火宅じゃとの嘆なげきだったが、武者には武者の業ごうがある。ここもまた火宅とあとで悔いねばよいが……﹂ ﹁いいえ、人誰もの苦くげ患んはわきまえておりまする。ましていまのような世の中。それを憂うい辛つらいとは申しませぬ。……ただせめて、人の真まこ情とがほしいのです﹂ ﹁真まこ情ととは、男の﹂ ﹁もとより女でございますから﹂ ﹁内裏にはそれすらないか﹂ ﹁みかどはおひとりでいらせられます。かしずく後宮の私たちは、廉やす子こさまはじめ二十人もの妃ひひ嬪んで御おん寵ちょうを競きそっていました。どうして真実が生れ出ましょう﹂ ﹁真実になれば燃えように﹂ ﹁そのような炎ほむらと炎は、おたがいを喘あえぐ火宅とするほかのものではありません。それがあの怖ろしい後宮という所です﹂ ﹁ここならば﹂ ﹁でも、殿のお心はまだわかりませぬ。この私というものは、恩賞の品代りに、みかどから殿へ下されたもの。私は人形です。自分の気もちを余り言ってはいけないのでした﹂ ﹁いやそなたは奴どれ隷いではない。誇れ、義貞の想おもわれ人びとだ。義貞がおせがみしていただいたそなたなのだ。人形のたましいはわしが入れてやる﹂ 義貞は杯を横へ抛ほうった。――投げると見えたほど朱の杯は輪を描いてころがり、そしてとっさに一匹の豼ひき貅ゅうは、その盲目的な勢いとたくましい体の下に勾当の内侍をねじふせていた。裳ものみだれ、黒髪のふるえ、彼女に与えられるたましいとは彼女を窒ちっ息そくさせるほどなものだった。 今朝。 春シユ眠ンミン、暁アカツキヲ覚エズ――の春の朝でもあるが、義貞はすかっとした上機嫌で、近侍にたいする語調まで快活だった。 ﹁なに。義助︵脇屋︶や貞満︵堀口︶らが、はや表おもての間まに詰めて待っているというのか。待たせておけ、待たせておけ﹂ いちど、書院に姿をおいたが、こう言ってまた対たいノ屋やの奥へ遠くかくれてしまった。きのうまではなかった部屋の色いろ彩どりや物の香が、美しいあるじを持って、春の日影までを新たにしていた。 ﹁内侍、さびしかろ﹂ ﹁どうしてですか﹂ ﹁こわらしき男ばかりだ。内裏のさまとは、おそらく余りな違い方﹂ ﹁それがかえって、そぞろにうれしゅうございます。人の中に立ちまじって、自分も世間のひとりになったことかと﹂ ﹁いまに街も見せてやる。輿こしにかくれて、仁和寺へも行ってみい。清きよ水みずの春もよい﹂ ﹁いえ、ただもうこうしているだけでも﹂ そのあかるい黛まゆが、ふと義貞に、ゆうべのある一ときに顰ひそめた黛を思い出させた。たましいは人形にうちこまれ、彼女は人間に返っている。彼女もまた今朝のひとりの男を自分の生涯のそとにおいては眺められなかった。 ﹁内侍、したくは﹂ ﹁お待ちしておりました﹂ ﹁妻めと朝あさ餉げをひとつにするなどは、義貞、ほとんど忘れていたことだったな﹂ 中ノ坪を前にした一室へ移り、給仕人もしりぞけて、ふたりだけで膳についた。内侍にしても、このような朝餉のためしは宮中ではなかったであろう。ひそと女の幸福感を箸はしに持った彼女の姿には、もう何らのくらい翳かげもなく、館やかたのあるじの想おもわれ人びとになりきっていた。 ﹁それにしても……﹂と、内侍はさっそく今朝の噂にしていった。﹁……おかしな千種さま。どうして昨夜は黙って、帰ってしまわれたのでございましょうか﹂ ﹁いや、忠顕どのの腹、准后のお胸、いぶかりはみな解けた。そなたは何も知らぬままがよい。義貞もまた、彼に会うても一切知らぬ顔で通すつもりだ……。そして、道誉降参の一件なども﹂ ﹁道誉と仰せられますのは﹂ ﹁佐々木道誉だ。いや、わずらわしい。そなたがきいてもせんないこと﹂ 次の部屋へ近侍が来ていた。 ふたりの声がとぎれると。 ﹁殿。……江田行義、篠塚伊賀守などが、明日先発のうちあわせとかで、さいぜんよりお表の間までお待ち申しあげておりますが﹂ ﹁いま参る。しばし休息しておれといえ﹂ 義貞はつい起つのが惜しまれてはそう言っていた。久しい戦陣の飢渇が花野の露にでも逢ったようで飽かない心地なのである。するとまた、青侍の足音がして、思わぬ客の来訪を告げた。 ﹁……誰だ。客とは﹂ ﹁河内守正成どのでございまする﹂ ﹁楠木が。……?﹂ いちど、黙考してから。 ﹁また来てもらおう。今日は播磨へ発向の先発をえらび、かたがた、軍議に一日を要する。御用あらば、また明日にでも来給え、と申してやれ﹂路ろと頭うの子こ
たそがれ、正成は、京での居宅、六条油小路の門で、駒を降りた。
ひる、義貞を三条高倉の邸におとずれたが、会えなかったので、玄げん恵え法印をたずね、また、二、三の知人を訪うてもどったのだが、彼の行く先はみな時流の外にある僧や学究の家だった。好んで今を時めく権門を避けているような彼にもおもわれる。
﹁お帰りなされませ﹂
帰れば、いつもまっ先にとび出してくるのは、赭しゃ顔がん白はく髪はつの老臣恩智左近で、
﹁やれやれ、さぞやお疲れで﹂
と、正成の手から駒のたづなを取るとすぐ、正成の顔を読んで、その出先から胸のうちまでを、ちゃんと見てしまうのも、この左近であった。
油小路の邸は、正成が和泉河内の守護をかねて、摂津昆こ陽や野のの代官を管理する身となってから賜わったいわゆる﹁在京公務所﹂だった。だからどこにも私邸らしさはない。
ただ恩智をはじめとし、妹聟の服部治郎左衛門元成、一族の松尾、南江、和田のともがらや、郷土の若殿ばらが、黒い板じきにずらと並んで、
﹁お帰り﹂
と一様ような姿をみせ、それにたいして正成が、
﹁何事もなかったか﹂
と、一いっ顧こをみせて通るのが、せめてここにある彼の家族的なくつろぎといえばいえる。
総じて、彼の位置は、官職にしても大きく昇進したはずだが、暮らし方はいぜんむかしの河内の一豪族とさして変った風もなかった。あたかもこれを家憲としているかのようにである。
そこで公卿たちのあいだには、
河内のつくね芋殿
などという蔭口がまま聞かれた。どろくさいという意味だろう。正成自身もそのことは知らなくはない。
しょせん自分は地中の鈍どん根こん
と、みずから自己の性をどうしようもないとして、世事の毀きよ誉ほう褒へ貶んなどは一こう気にもとめないふうだった。
しかし昨今、上下とも、戦勝気分にわきかえっている洛中にあって、ここ一門だけが、何とも列外におかれた感で、正成はともかく、老臣若党ばらは、忿ふん懣まんやるかたないものを鬱うつ々うつと抑えているにはちがいない。
過ぐる兵庫合戦の日においてである。――打出ヶ浜から御みか影げへかけての大事な一戦の日に――理由なく後ごじ陣んへさげられ、そのまま不面目な帰洛を余儀なくされていたのだった。
もちろん、総大将義貞にすれば、理由はあったことであろう。それは尊氏の筆になる正成宛ての密書だといわれている。
しかし、嫌疑はすでにはれているはずだった。それが尊氏の偽計であったことは、降参の将の談話で、そのご証拠だてられており、検断所の公卿裁きでも、
ほかからも同文の書があらわれたゆえ、あれはおかしい――
といわれているのだ。にもかかわらず、義貞だけは、それの訂正も声明していず、さらには、二次の発向にも、ここへは何らの沙汰さえまだ来ていない。
次の尊氏追討は、当然、山陽九州への出兵なので、すべて命は武門の大将一司令下にゆだねられる。楠木といえ義貞の命によらねばうごけないことなのだ。
﹁左中将どのへ、今日は親しくお会いなされましてございまするか﹂
やがて室に灯を見ると、左近は案じ顔の下から、正成へそっとたずねた。
﹁いや、会えなんだ﹂
と、正成は、これは正成のもちまえだが、口おもたげにぽつんと答えたのみだった。
――これはまずい、と爺の左近はすぐ覚さとると正成の気い色ろを見てたちまち話の穂をかえ。
﹁――そうそう。ひる、おるす中に、常ひた陸ちからのお飛脚がまいっておりまするが﹂
﹁久く慈じの正家からか﹂
﹁は。御状をたずさえて﹂
﹁見ようか﹂
﹁お夜食は﹂
﹁あとにする﹂
東国の常陸久く慈じ郡へは、一族のひとり楠木正家が彼の代官として年く暮れから下向していた。そこからの一便びんらしい。
長い書面だった。
見終ると。
﹁飛脚の武士を呼んでくれい﹂
﹁お会いなされますか﹂
﹁ム、東国の事情を訊こう﹂
﹁あちらの形勢など深い事情は余りわきまえぬかのような走はしり下しも部べにすぎませぬが﹂
﹁それでもよい﹂
これの話がまた長かった。訥とつ々とつ、素朴きわまる飛脚武士なのである。正成はそれをつかまえて、物の値ねだ段んをきいたり、去年の作物の刈入れをたずね、また東国のことしの正月はどんな? ――などとそれからそれへ雑談を求めて倦うむこともない。
しかし彼にすれば、正家の書状の内容とあわせ観て、何かうるところがあるのだろう。やがておそく寝所へ入った。
枕は彼の憩いこいでなく、枕は近来彼の憂いをさらに研とぐ一座の思念石となっている。枕につくと、彼には日本じゅうの物音がその石から聞えてくるのだ。坐いながらでなく寝ながらにして世の人心まで映ってくる。
﹁せんない憂いを﹂
と、彼は思う。
一個の力などではどうにもならない限界と、滔とう々とうたる世の趨すう勢せいが彼には観えた。
それは誰も見ていよう。そして人の目で見得る範囲と深度だけを人と同じように見ているほど気の安いものはない。けれど正成の患わずらいは、人以上に世が愛かなしまれ世の行方や人心が観みえるところにあった。智恵学問から持っていたものでなく、天性の彼の感受性といってよい。――たとえばである。
世間の目一般は、天皇軍対尊氏だけにとらわれ、はや北条遺臣軍の、信濃、越後、裏日本へわたる蠢しゅ動んどうなどは、消えたものと思っている。
ところがそうでない。
奥州も、てんやわんやだ。北畠顕あき家いえが留守となった東北の乱脈さなどわけて想像に難くない。さらに思いが筑つく紫しに飛べばなおゾッとした。――彼のさぐり知るところでは、尊氏は、持明院統の皇きみの院いん宣ぜんをにぎっている。
さもあらば。
みかどとみかどの争いだ。
二つの日輪がせめぎ闘うて全土の上に燃え狂うときは地上も寸土をあまさぬ血に染まるだろう。
……正成は寝返りを打った。老人のように、その肩は温ぬくもっていず、その背はまろい。
﹁……そうさせては﹂
ならじ! と彼は寝つつも寝られず体を硬くするのだった。さきには大塔ノ宮のあえなき死を、人皆も見ているのに、と痛憤に似たものが涙をすらふとついてくる。
﹁が、正成ひとりでは﹂
と、無力の感がげっそりと彼の疲労を誘ってきてやがては自然眠りにおちた。その間だけ彼は救われた寝顔を持った。
﹁なんだ?﹂
祐ゆう筆ひつの安間了りょ現うげん。
朝の役宅へ入って行ったばかりだが、また門へひっ返してきて、六条油小路の往来へ首を出していた。
門外では八尾ノ新介、富田正光らの若侍から組頭たちまでたちまじって、しきりに﹁道誉が﹂とか﹁佐々木が﹂とか言い騒ざわめいているのだった。
訊けば。近くの佐さめ女う牛しの一邸へ、佐々木道誉の手勢二、三百人が今暁から帰って来て、久しく空あけていたやかたが俄に賑わい立っているというのである。
﹁それやいぶかしいな﹂
了現は、さらにたずねた。
﹁這しゃ奴つは、足利方の一将、この都へ、帰って来られるはずの者ではなかろう﹂
﹁それが帰って来たのです﹂と富田五郎正光は、ゆゆしい椿ちん事じと、ふんがいして。﹁おそらくは、尊氏の敗戦で脱陣したものでございましょう。さきごろ来らい、大江山に立ち往生して、進みもせず、もどりもせぬ一陣の兵がいるとは聞いていました。ところがその佐々木道誉、ぬけぬけと、山を降りて、佐女牛へおちつき込んだではございませぬか﹂
﹁たしかなのか﹂
﹁見てきたのです﹂
﹁ふうん? ……﹂
﹁わけがわからん、なんとも、このごろの世態や武門は﹂
﹁この了現も、なんの沙汰も聞いておらぬ。みかどへ降こうを乞うたものなら、すぐ左金吾︵義貞︶の沙汰なり窪くぼ所しょ︵武者所︶の門もん触ぶれが廻るはずだが﹂
﹁道誉の、またぞろな降参など、それこそ沙汰のかぎりでしょう。よもやいかに、しっ腰のない左金吾殿でも、また、みかどのおうちにしろ﹂
﹁ばかげたことだ﹂
たれかが呟いたしおに。
﹁やめろ、やめろ、こんな往来評議もこけのひまつぶしでしかないわ。はははは﹂
正成がこれを耳にしたのは、やかたの奥で爺の左近のかしずきを受けながら、外出の身支度をしていたときだった。
﹁……道誉がの﹂
と、彼は笑った。そして、
﹁いまさら不審がるにも当るまい。彼は彼の道をあるいているのだ。もそっと、べつな所には表に見えぬ醜事や奇怪事が数しれずひそんでいよう。世はいぶかしいことだらけよ。……爺、爺はさように思わぬか﹂
ともいった。
この日も彼は左中将新田義貞の高倉の亭をおとずれに出たのである。が、きのうの約もむなしく会えなかった。﹁――弟、義助でよくば﹂との伝言だったが﹁また﹂と彼は辞して去った。
事実、門前には播磨へ先発する軍兵が屯たむろしていて、正成が求めた二人だけの懇談などに応じられなかったのもムリはない。とは思われたもののまた、
﹁私わたくしの訴え事と取られたのか﹂
と、それが少しばかりは残念だった。彼にはいま、これ以外に世を救うみちはない、と思いつめている一信念があったのだ。ついてはまずたれよりも義貞とじっくりはなしあってみたい。そう考えて二日通かよったのだが、時めく左中将の威風を門に見ての帰りにはそれも絶望のほかなきものとあきらめたようだった。
この思い。
これしかないと正成が思いきわめている考えは、義貞に会い、とくと義貞の大度量と理解とを求めるしかない問題だった。
秘かくれてすれば陰謀になる。
およそ陰謀などは彼にない才覚だし、よしまた義貞に会いえても、得意の絶頂にある今の左中将の耳には、正成が抱いている考えなどは、とうてい、善意にうけられそうもない。
﹁はて……﹂
帰路の馬は路頭に迷った。
義貞がだめならば――
千ちぐ種さた忠だあ顕きに会って逐一胸のうちをはなそうか。
いやいや、千種は義貞と親しい仲、すぐ義貞へ通じるだろう。直接でなく人を介かいした意見となれば、いよいよ義貞が素直に容いれる可能性はすくなくなる。
﹁ならば……﹂
正成は心のうちで他をさがす。
洞とう院いんノ実さね世よき卿ょうはどうか。
力がなさすぎる。やっと一方の公卿大将たるのが関のやまの人で、大局の動向を察したり勇断をもつ人ではない。
在京の鎮守府将軍北畠顕家の名もかれの胸にうかんでいた。
すがすがしいほど純で忠誠一筋な人とはおもう。けれど多くの日をみちのくに送り当今の複雑怪奇な時局を知れといってもムリである。かたがた年も若く、それに父北畠親房卿ときては、地位、学問、階級などに左右される意識が濃く、気位がたかい。またついぞ、河内守正成などいう者が朝あそ臣んの端にいることすらお目のすみにもある風ではなく、禁中などでも目礼一つ返されたことはなかった。
﹁……語る相手はたれもない﹂
ひるの京洛は人間で息れていた。
辻々は黒山な庶民。隊伍をなして西へ行くのは、播磨の赤松攻めへさす諸家の兵であろう。ひがしの方へ行く軍隊もみえる。それは尊氏一族の本国三河を席せっ巻けんして、尊氏が秘かくしている妻子や母を召捕る戦略だとか聞いている。また宮門へむかって牛にムチ打つ車、もどる輿こし、じつに人は多い。しかも正成が心をかたるたれひとりこの都にはいなかった。
彼の心は路頭をさまよう子に似ていた。
こんなとき、むかしからの賢けん人じんなる者は、山林へ去って行く。世をすてて隠遁する。
だがそれのできる正成でもなかった。名みょ利うりに恋れん々れんたるのではないが、彼も一族の族長だ。乱らん世せの権ごん化げみたいな熱血そのものの輩やからも多くかかえている。弟正まさ季すえがしかりである。いやいや彼の自由をもっと狭い立場に追いつめていたのは彼にはどうしても軽く持てない自じせ責きだった。長としての責任感だった。
もしこの重い業ごうをのがれたいのであったら、そもそもは、元げん弘こうの初め、笠かさ置ぎからの天皇のお招きをお断りすればよかったのである。しかるにすすんで勅を畏かしこんだ。そのときすでに平和の民、南河内の一族有うえ縁んの女子供にいたるまでの運命はこの正成が業ごうの輪りん廻ねに巻きこんでいたものだった。長としてのその原罪を、彼はみずからの性格のためにごまかしきれない。
しかし、拒こばんだら、のがれえたか。平和の民があのまま平和でいられたろうか。
むずかしい。考えられない。
でも正成の責任はそれで消えぬ、この正成の……と笠置の過去をかえりみたとき、彼ははっと、いまの衷ちゅ心うしんを訴えうるただひとりの御一人を胸のうちに見つけていた。
正成はその日、六条へもどるとすぐ、祐筆の安間了現に願書をもたせて、宮廷の大納言ノつかさ︵職局︶へ使いにやった。
﹁――何とぞ不ふ時じノ賜しえ謁つの儀をおはからい願いたく﹂と朝ちょうへ手続きをとらせたのだった。
﹁戻りまいた。――折よく閑院ノ権大納言さまにお目通りを得、仰せには、はかろうてやる、お沙汰を待てとのこと。まずは御ごち聴ょう許きょあるものとぞんぜられます﹂
了現の返事であった。
大納言のつかさは﹁天下喉こう舌ぜつノ官﹂ともいわれる局きょくである。聖旨を下達し、下の善言も納いれる機関とあるのでそんな称となえもあったとみえる。
﹁そうか﹂
正成は安堵のていで、
﹁閑院の侍従がお扱いくださるるとあれば――﹂
と、やがての沙汰を待った。
この日いらい、どこやらに腹のきまったとも見える姿が彼の一両日を長の閑どけくしていた。――河内守左衛門ノ少しょ尉うじょうという一朝あそ臣んの身は五位ノ官位にすぎず、単独で主上へ拝はい謁えつをねがい出るなどは、おこがましく、おそれ多いとも万々わかっていたが、やむにやまれぬ果てであったらしい。が、そこまでのつきつめた憂いも、帰結を心に観てしまうと、低てい雲うん一過か、あとは迷うことなく暢のび々のびとしているのも彼にきわだっている性情の一面だった。
ちょうど正成もそのいささかなおちつきにあった間のことである。――一族の楠木弥四郎や和田弥五郎など十騎ほどの従者にまもられて、正成の一子正まさ行つらが、郷土南河内から、
﹁母ぎみのお使いで﹂
と、これへ父を訪ねてきた。
元服を去年すまして、幼名多たも聞んま丸るを正まさ行つらとあらため、ことし十四をかぞえる正行だった。もとより重大な使いならこの正行をよこすはずもない。去年いらい、正月も帰郷していない正成であったので、ここわずか戦陣も休止の都と窺うかがって、おそらくは母から﹁……そっと父上にお会いして、御容子を見ておじゃれ。そしてお国元の幼い者から皆も無事息災におりますと、そなたからよう申し上げてもどるがよい﹂といわれたか、あるいは、父の顔見たさに、正行自身﹁何でも行きたい﹂と、せがんで来たかの、どちらかにちがいなかった。
――とは、正成も察している。そして正行が、
﹁これは、母ぎみからです﹂
と、父の前にかしこまってすぐさし出したのを披ひらいて見ても、まずは何事もない妻の久子の手紙だった。その文中には、
……去年 の冬から初春 へかけて、都の御陣は、やごとなきあたりからあなたさまやら郎党たちまで、矢たけびのなかに明け暮れのおすごしとあるのに、河内の奥は何事ものう、正月は正月の真似びもしたり、この頃の麦踏み唄にも、近年にない百姓衆の長閑 かな励みが見られるなど、みなお蔭によるものと、もったいのう存じて、ただ朝夕の蔭膳へのみ、一日も早くと、御世のしずもりを祈っているのが、私たちのせめてもな力でしかございませぬ――
などと見え、そのあたりの文字には正成もふと瞼を熱く持ったことだった。しかし彼の後顧の安心と家族への張合いもそれ以外なものではなかった。
正行は母に似て小づくりだった。おもざしも父の自分よりは母はは御ご似にだとよく他人はいう。
﹁……十四となったか﹂
正成はこの正月もついに家郷を見ずにしまったので、いま、妻の手紙を巻きおさめながら、その妻の手塩の愛を――可憐な小こか冠じゃ者すが姿たに隈くまなく持って――ちょこんと目の前に畏かしこまった正まさ行つらにどこか急に大おと人なびて来たものすら覚えて、
﹁……正行、大きくなったな。しかしよう母がそちを手放してよこしたの﹂
と、男親の幅のひろい目でゆったり眺めた。
正行はかたくなっていた。
だが、恐こわいからではなく、ふくら雀のように、満足感にみちた姿であったのだ。――それほど、この長い乱世下におかれた武門の家では、子と親とが、或る日を無事で一つにいることも稀れだったからではあった。
﹁はい。お願いしても、初めなかなか母上のおゆるしが出ませんでした﹂
﹁そうだろう﹂と苦笑して――﹁めったに、ゆるすはずはない。世上は殺さつ伐ばつ、子を遠くへは出すなと、この父がかたく申しつけておいたのだから﹂
﹁ですが父上。河内の奥にばかりいると、無性に正行は遠くが知りたくなって来ます。居ても立ってもいられなくなって来て﹂
﹁どうしてだ﹂
﹁日本じゅうが戦争なのに、河内の奥で自分だけがこんなにしていていいのかしらと思うのです﹂
﹁悪いことを、母がさせておくはずはない。あいかわらず観心寺の御坊の許へ通って、勉強はしているのであろうが﹂
﹁はい﹂
﹁それでいいのだ。そちも世を案じるなら、学問に精出して、今の世情などにはわき目をふるな。すぐそちたちが、いまの大人に代って、その乱脈な世をになう時が来る﹂
﹁でも、叔父君ぎみは、そんな世間見ずではいけない。正行もはや十四、初うい陣じんもすべき年ごろなのに……と再三、母上へお手紙を下さいました﹂
﹁正まさ季すえがか?﹂
﹁はい。四天王寺の御陣所からです。……それでじつは、叔父君を四天王寺にお訪ねして、京へ廻って来たのです﹂
﹁ははは……。さては母がゆるさぬので、正季を頼んで出て来たわけだの。して正季はそちに、何を教え、何を見せたか﹂
﹁四天王寺を中心に、難なに波わ、住吉を二日ほど見て歩くうち、こう仰せられておりました。……和泉、摂津の浜は、なべて楠木勢の持ち場だが、欲しい船がたくさんにはない。やがて足利尊氏との会戦には、どうしても、海上の力が要いる。ところがお味方には用意がないのだ。――お父上にお会いしたら、ぜひこのことを、左中将どのへ御献策あるように――正季が申しおりましたと﹂
﹁正季の言こと伝づてか﹂
﹁ええ。それから……正行も来きたるべき次の戦いくさには、ぜひ初陣したがよい。叔父からもお父上へようお願いしてやると仰っしゃっても下さいました﹂
﹁ふム……﹂
と、正成はあいまいな顔してまた笑った。
﹁いけません? 父上﹂
﹁従軍の望みか﹂
﹁叔父上のおことばでは、たとえ一時は筑つく紫しへ逃げた尊氏でも、いまにきっと大軍で攻めのぼって来るぞ、と仰っしゃっておいででした﹂
﹁それは必ひつ定じょうだ、かくごしておかねばならん﹂
﹁ですから﹂
﹁ははは、単純だの。正季もその程度か。しかしな正行、覚悟はいるが、日はわからぬ。いつの日尊氏がそう出て来るか――﹂
﹁でも、それを待たず、左中将どの以下、みな播磨から西国へまで、攻めてくだるのでございましょう。そのいくさへ、正行もお供させてくださいませ﹂
﹁まあ待て﹂
と、正成は子の一いち途ずを、いささか持てあまして。
﹁男おの子この初うい陣じんとは、元服以上大事な日だ。初めて烈しい世へ出て、世の大敵と渡りあうこと。――悔いのない相手と正義の戦場をえらばねばならん﹂
﹁今のいくさは正義ではないのですか﹂
﹁さてさて、そちもなかなか口くち賢さかしゅうなって来たな。人はたれも正しからんとし、正しいと号しているのだ。みずから邪悪の軍と思っている者はいない。……だがそれがまま邪軍となり魔行をほしいままにし出してくる。大本は忘れやすく、人は大昔の獣に返りやすい。いくさとはそんなものなのだ﹂
﹁…………﹂
﹁いや、こんな話、まだそちには、ちと難しかろ。とまれこの父はの、元来が今いま様ようの武人でないのじゃ。それゆえ、ただ功名我慾の首狩りのような戦に、わが子のそちを初陣させる気にはならぬ。……連れてゆくときがあれば、そのときは連れてゆく。……かまえて、それまではただ学問に精出しておれ﹂
﹁はい﹂
正行はききわけた。これ以上は、叱られることを知っている。また叱言となればきびしいことも知りすぎていた。
正行がここにいたのは、わずか三日ほどだった。――滞京中には、服部治郎左衛門に連れられて、洛中を見てあるき、東西の市いちノ棚たなでは、弟たちへの土産に、独こ楽まを買った。また、母やら卯うつ木ぎへの土産も買って、やがていそいそ、従者十騎と共に河内へ帰って行った。
折ふしまた、正成へは、同日、大納言のつかさから、
特ニ
参内アルベキ
との通達があった。
待ちぬかれていたことである。そのため、正行の訪れも、国の便りも、じつは心の外だったような容子がなくもなかった。事実、彼はこの参内と、そして、めったにはめぐまれえない天子直々の拝謁を機に、或る一いち期ごの覚悟をしていたらしい。
早朝から正成は身みぎ浄よめして自室にこもっていたが、やがて五ご位いノ尉じょうの衣冠をただし、供にも南江正忠、矢尾ノ常正など、いつにない列伍をただして出て行った。定刻、花山院の仮皇居へつくようにである。――それを爺の左近は、さすが何か、ただ事ならじと察したらしく、六条の門から不安そうな眼まなざしでいつまでも見送っていた。
豆と豆がら
やがて定刻が来ていた。 母も屋やの玉ぎょ座くざには御み簾すがたれ、お胸のあたりが仰がれる程度にそのすそは巻かれてある。 一だん低く。 正成は“廂ひさしの床ゆか”にひれ伏していた。 もとよりここは花山院の今いま内だい裏り︵仮の皇居︶だが、天皇のおわすところ、どこでもそこを清せい涼りょ殿うでんと呼ぶのが慣ならわしなのである。で、左右の公卿列座もすべて清涼のかたちどおりであるが、ただどこか狭くはあった。そして玉座と謁えっ者しゃとの距離も、まったく間まぢ近かであったから、正成の姿も、咫しせ尺きの畏おそれを、いちばいその背に平たくしていた。 ﹁廷尉﹂ ﹁はっ﹂ ﹁直じき々じき、奏そう聞もんにおよびたいとは、いかなる儀か、それにて申しのべたがよろしかろう﹂ 一公卿の声だった。 侍座には坊門ノ清忠、洞とう院いんの公賢、近衛、三条など、上卿たちの顔も見える。そして、正成がそも、何を訴え出たのかと、彼ひとりへ視線をそそぎあっていた。 ﹁時局、容易ならぬときにいたりましてござりまする。……そのうえに、叡えい慮りょをわずらわし奉るは、まことに、恐きょ懼うくにたえぬとはぞんじますなれど﹂ ﹁む……﹂ と、後醍醐のおうなずきが洩れた。 後醍醐も、この功臣を、おわすれでは決してないが、なにぶん、群臣あまたな中である。とかく家柄の低い一廷尉正成をとくに日頃お召というわけにもゆかない。……折ふし正成からの願いだった。……何かは知らぬが、きいてやろうという優ゆう渥あくなお気もちは、充分、御ぎょ簾れんのうちからもうかがわれた。 ﹁正成﹂ ﹁はっ﹂ ﹁遠慮なく申せ、なんぞ軍いくさについての意見でもあるか﹂ ﹁さようにござりまする。もし今をおいて、このまま推移いたしましては、悔いを百年におよぼし、また、せっかく建武の御新政を見て、ここ三年の聖業も、ついには、いかがなろうかと、昼夜、案じられます余りに……﹂ ﹁要は?﹂ ﹁正成の存念を、直言つかまつるなれば、なにとぞ、いまを以て、御みい軍くさをやめ、公武一体のすがたをお取りあらせられ、ひとまず、すべてを御政事に帰きせられたしと希ねがう次第にございまする﹂ ﹁公武一体とな﹂ ﹁は﹂ ﹁解げせんことを申す。尊氏をおいてか﹂ ﹁いえ。勅を賜うて、足利尊氏をなだめ、親しくお召めしあらせられなば﹂ ﹁では、尊氏へ、和を請こうようなものになる﹂ ﹁なんで天下の目に、さようなことに映うつりましょうか。御みい軍くさは兵庫に大捷を博はくしており、尊氏は遠く筑つく紫しへ落ちのびている敗軍の人。……さればこそまた、いまが絶好なときでもございまする。一たんの勝利をば、ここでゆるがぬ御勝利といたさねばなりませぬ﹂ ﹁しっ﹂ と、そのとき、公卿列座の中の一つの顔が、正成の注意を衝ついて、こう言った。 ﹁廷尉。不吉な言はつつしまれい!﹂ ﹁…………﹂正成は、そのためちょっと絶句したが、しかし姿勢は御ぎょ簾れんを仰いだままで、それへ眸をそらしたわけでもない。根をふかく土にかくしている巌いわみたいに、今日の彼は、いつもの正成ともみえず何かうごかぬものをその姿にもっていた。 ﹁勝ちは負けの始めとか。まことに不吉な兆きざしは、勝者の陣にすぐあらわれるものにござります。勝つことだけを知って、勝ちを収めることを思わねば﹂ ﹁待て……﹂ 後醍醐が仰せられた。 ﹁そちが憂いとは、つまり後日となれば、軍いくさはわが方の負けになる。それゆえ、いまのうちに尊氏と和して、公武合体とやらの工夫をしたがよい、というに尽きるな﹂ ﹁御ごじ諚ょう、さようにござりまする。しかもその時機は今をおいてはありませぬ。……もし時移せば、筑つく紫しの尊氏は、須しゅ臾ゆのまに、西国の諸豪を手なずけ、四国、山陽山陰の与よる類いをあわせ、おそくも年内には、大挙、ふたたび闕けっ下かへせまってくることは、火を見るよりも明らかとおもわれまする﹂ ﹁正成。……それはそちの案じすぎぞ。筑紫にも誠忠の士は多い。四国、中国とても同様。そのうえに、義貞もくだってゆく。何条、尊氏の意のままになろうや﹂ ﹁……あいや、申すも畏れ多くはありますが、建武の制として、新たにお示しあらせられた御政事の主旨は、かならずしも、武士どもの心から迎えているものでございません﹂ ﹁尊氏一類の徒とにとってはさもあろう。さればこそ、撃うたではおけまい﹂ ﹁しかるに、尊氏には同調しても、聖慮を畏かしこまざる武士の方が、全土にはいかに多いか知れませぬ。……かつは左中将どのの不人望と、尊氏の衆望とは、これまた、くらべものになりません﹂ ﹁義貞はそれほど諸武士に気うけが悪いか﹂ ﹁人の蔭口に似て、申すも憚はばかりなれど、ここには公卿方も御列座あること。あえて明言つかまつります。……もし左中将どのに、よく人心収しゅ攬うらんのご器量があるものなれば、さきに鎌倉を陥し、また勅宣の御みい軍くさをひきいて治平の帥すいにあたりながら、今日まで天下の諸族を、いまだにこんな支離滅裂にはしておきますまい。――ひるがえって尊氏をみれば、賊名をうけながらも、またいくたび窮地に立ち、いくたび破れながらも、なお彼の筑つく紫し落ちには、あまたな武士が、付き従うなど――尊氏が赴ゆくところ、何せい、衆和と士気の高さがうかがわれまする﹂ 御ぎょ簾れんのうちには、なんのお声もなくなった。 おそらくは、おん眉をひそめておわすに相違ない。わけて公く卿げ座ざに居ならんでいる顔、顔、顔……のすべては、みな、にがりきって正成を見すえていた。 直ちょ言くげんにも程がある。 時の人、左中将義貞をさして、こんなにまで無遠慮に評価し切った者がほかにあるだろうか。公卿たちは、正成の正気をさえ疑って、ただあきれるのみだった。 しかし後醍醐はさすが、帝王の寛ひろい御分別ともいうべきか。正成を観みるにも、彼らの冷蔑や気色ばみとは、はるかにお心の在り方がちがっている。――これは容易ならぬ正成の決意――と、みそなわせられたらしく、御簾をとおして、彼の姿へいちばいな凝視を垂れ、 ﹁正成﹂ と、呼ばれていた。 ﹁はっ﹂ ﹁そちは、尊氏が何者なるかを、わきまえておるのか。あきらかに、彼は幕府を立て、おのれその幕府の上に臨まんとする者だぞ﹂ ﹁御ごじ諚ょう。そのとおりとぞんじられます﹂ ﹁しかるに、そちは言ったな。君臣一和、公武合体の制をとれとか﹂ ﹁はい﹂ ﹁ならば、王政一新の実はどこにおくか。幕府を廃やめ、政まつりを古いにしえに回かえすなどは空名になる﹂ ﹁さは相なるまいかと思いまする﹂ ﹁どうして﹂ ﹁上かみおんみずから、親しく諸政をみそなわす儀は、うごかざる政まつりの大たい本ほんとして、その下における武門の統とう御ぎょのみを、尊氏におゆだねあらせられるぶんには﹂ ﹁それ自体、幕府をみとめることではないか﹂ ﹁いや、頼朝いらい、幕府の害、また思いあがりは、朝政にくちばしをいれ、皇統のお世よ嗣つぎをさえ、意のままにうごかし奉るなどの僭上沙汰にありました。その牙きばをだに与えなければ。……そして武門は武門の分を守らすに止とどめおけば﹂ ﹁さような制を、武家が守れるはずはない。わけて尊氏めは、おのれ第二の頼朝にならんと、望んでおるものを﹂ ﹁まこと、御ごし宸んね念んのほど、ご無理はございませぬ、が、もし正成にみゆるしを給わるなら、正成自身、即刻、筑紫へ下向いたし、尊氏に会うて、きっと古今の弊へいを論じ、また、おろかなる戦乱の果はかなさを説き、かならず恭きょ順うじゅんを誓わせ、無用な戈ほこは、これを収おさめさせまする﹂ ﹁して、義貞はどういたすか。義貞の同意なくして﹂ ﹁されば、左中将どのの許へも、自身二度もお訪ね申してはおりました。――しかし左中将どのが、やすやす、御同意あろうとはおもわれません。ぜひなくば、新田はこれを討つ、とするもまたやむをえぬかと考えられます﹂ ﹁新田を討つ?﹂ ﹁まこと、よんどころなくば﹂ ﹁そうしてまでも、尊氏とは、たたかいを避けろというのか﹂ ﹁皇統の長き御未来のため。大きくは、民ぐさのためにも。……聖慮におん曇くもりなきよう、正成、伏して、かようにおねがいつかまつりまする﹂ ﹁ばかな﹂ ついに、逆げき鱗りんのみけしきが、御ぎょ簾れんをゆすった。 ﹁ならん! ……。さような進言なれば聞くにも足たらん。正成、そちはどうかしたか﹂ ﹁……ただただ憂いのみにござりまする。いまや尊氏の許には、持じみ明ょう院いん統とうの皇きみの院宣も密ひそかに降下されておること。――君と君との血みどろを、臣として、何で心なく見ておられましょうか﹂ 低すぎるくらいな声で、声の表に感情は出ていない。彼の悪い方の片目のまぶたとひとしく静かに抑おさえられている。それでいて正成のことばは、公卿列座のすべての者の肺はい腑ふをドキッとさせたようだった。 ――申すことにも事を欠いて。 ――聖せい慮りょもはばからず。 と、みな色を失い、彼ら衣いか冠んのつつしみぶかい眸も、せつな、こぞって御ぎょ簾れんのうちの御みけ気し色きへ、思わずうごいたほどである。 しかし、そこも龍りゅ淵うえんのごとく溟めいとしていた。しばしは何の御ごじ諚ょうもなかった。そしてただあの大きなおん目を凝こらして、じっと正成を見ていらっしゃるのみである。――まだかつて、これほどなことを直言したやつはない――、ふしぎな男かなと、後醍醐は、むしろ逆な御寛度に返って、もっと正成にいわせてみようとしておられるのかもしれなかった。 ややあって。 ﹁正成……﹂ と、御諚、おもたげに、 ﹁いかにもそちの申すがごとく、持明院統の院宣が、尊氏の手に渡ったとは、ちかごろ四国中国の武士どもが、しきりと揚言するところとは聞いておる……。が、それはまことではない。風説にすぎん。朝廷での調べでは﹂ ﹁あいや、おそれながら、正成が知るかぎりにおきましては、かなしいかな、虚きょ伝でんともおもわれませぬ﹂ ﹁なにをいう。たとえ尊氏が光こう厳ごん︵持明院統の先帝︶をそそのかして、そのような物を手に持とうと、すでに廃帝たる院の院宣などは反ほ古ごにひとしい。天に二つの日輪があろうや﹂ ﹁げによき御みこ言と葉ばにこそ。――天に二日じつあらせてはなりませぬ。さるがゆえに正成、微臣に過ぎぬ身にござりますが、ここ昼夜、肝かん嚢のうを病むばかり世のすえ案じられてまいりまする……。ひとえに、皇統の破滅のみならず、その下における、あわれ民ぐさ、千万の精しょ霊うりょうも、みな戦土に喘あえぎ哭なかねばなりません﹂ このとき、ついにたまりかねたように、公卿座のうちから、参議坊門ノ清忠が、 ﹁廷尉! 廷尉﹂ と、制止して、 ﹁なにさま、其そ許この奏そう上じょうを伺っておると、其許は時局を思い病む余り、ちと気きう鬱つの症にかかっておられるようだ……。いたずらに、病者の進言などは、畏おそれ多おおい。むしろお耳わずらわしかろうぞ﹂ と、言った。いや叱った。 ﹁は。……重じゅ々うじゅう﹂ と、正成は、ほんのこころもち、その膝を、公卿たちのほうへ向けかえて。 ﹁――不ふそ遜んのつみ軽からずと恐きょ懼うくしてはおりまする。なれど、ことは国事です。上うえつ方かたのみならず下しも億おく衆しゅうの地獄か楽土かのわかれ、その今を坐視してはいられませぬ﹂ ﹁では、あくまで其そ許こは、朝廷と尊氏と和せというのか。そして、その御みつ使かいには、自分が尊氏を説きに筑つく紫しへ行ってもよいとまで望むのか﹂ ﹁一定じょう、それしか、世を救うみちはなしと信じまする﹂ ﹁さてこそ、先頃じゅうの噂も噂ではなかったわい。……かねてより尊氏と正成とは、よほどよほど、ねんごろな仲であったとみえる。……もはや、何をかいわんや。はははは﹂ 侮辱だ。聞き捨てはなるまい。と公卿たちにさえ、清忠の言は、 ﹁ちと、言い過ぎ﹂ と、おもわれた。 意見の相違はともかく。正成の誠意はたれにもわかっている。その必死な諫かん奏そうを﹁――尊氏と親しいからであろう﹂などとは、嘲ちょ弄うろうもまた、はなはだしい。さすが正成も、カッと逆上するのではないかと、みな、目をこらして、正成を見まもっていた。 けれど、正成は、清忠の嘲笑を浴びると、じぶんも共に、その面に、うっすらと苦笑を持って、 ﹁おからかいを……﹂ と、かろく危険な一瞬を交わしていた。 そして、自分は尊氏を、世の敵としては憎むが、私わたくしの敵とは憎んでいない。むしろ当今武門のうちでは、第一の人物とおもっている、と率直に言った。 世の敵と、憎む理由は、これまでは尊氏が、朝ちょ家うかに弓をひき、逆賊の名を負っても、なおその野望をかえるふうもなかったからであるが、その彼が、朝家のおん一ト方の院宣を持って、 われも廷臣 足利も皇軍 と名のるからには、手のくだしようもないではないか。 また、世上沙汰さるる如く、 ﹁このいくさを、君と君とのお争いにせばや﹂ と彼が謀はかっているものなら、なおさらのこと、彼の術中に陥ちるなどは、現朝廷の極力避くべきところではあるまいか。 正成は怯ひるみもなく言った。――そしてなお、坊門ノ清忠の姿を中心に、公卿ばらの方へ、その膝をきっと向け直しながら、 ﹁およそ何が浅ましい、何が忌いまわしいといって、おなじ血の同はら胞からが、憎しみあい、墜おとし合い、また殺し合うなどの惨さんを見るほど、世に情けないものはありません。畜生道です。いや禽きん獣じゅうにすら見られないこと。なぜか人間だけにかかっている人にん間げん業ごうです。これを、凡ぼん下げが演じるならまだ知らず。――朝廷おんみずからやってどうなりましょうか﹂ と、一人一人の胸に訴え。 ﹁持明院統もただしい皇統。また現朝廷の大覚寺統もひとつ皇統。いずれが帝てい血けつに非ずというものでありません。――としたら同じ帝血のお争いです。そして、ひとたび骨肉相そう剋こくのたたかいとなれば、うらみも憎しみも、他人以上、解けがたいものとか。必然、百年はこの地上に修羅地獄の血を見なければ止みますまい﹂ と、痛嘆した。 さらに、その弁も訥とつ々とつではあったが、倦うまず、熱意をこめて、 ﹁正成ごときが申しあげるまでもなく、ここには博識な方々のみ。つとに御存知と拝察しますが、このさい御一考として、かの異いち朝ょうの詩人、魏ぎの曹そう植しょくが作ったと称される“七歩の詩”を思いあわせていただければ倖せです。それは正成の百言よりも、はるか勝まさるかとぞんじまする﹂ と、御ぎょ簾れんへむかってするとおりに、公卿へも、平身低頭して言った。 ﹁なに。七歩の詩?﹂ 人々のあいだに、小さいきが流れ、そしてしばしは、その詩句と詩意とに、各思いをひそめ合うらしい容子だった。 七歩ノ詩とは。 ――みな沈黙におちたが、訊きかえす公卿はない。 正成も説明はしなかった。なまじな説明はかえって反感をかうだろう。異国の文ぶん藻そうや学問なら人後に落ちぬとする誇りは公卿の誰もが持っている。 魏ぎの文帝の時代だ。 文帝はかの三国志中の梟きょ将うしょう、曹そう操そうの子であり、父曹操の帝位を受けたひとであるが、弟の曹植は、素質性行、兄とはまるでちがっていた。 つまり風流子というものか。諸般の芸事には通じ、詩しそ藻うゆたかで、文学の才華はなみならぬものだが﹁――戦はごめんだ﹂と、つねに言って、軍事は嫌い、政治にはそっぽを向き、兄の文帝とも事々うまく折合わず、その人生観でも兄ふた弟りはまったく両極の人だった。 だが、世は戦雲の下。呉ごは蜀しょくと同盟して、魏の洛らく陽ようを衝つかんとし、曹操の建業も一いっ朝ちょうの間まかとあやぶまれていたような秋ときである。いかに自分の弟だからといえ、詩ばかり作って超然と逸いつ人じんの境きょうを独りたのしんでいる曹植を、諸臣のてまえ、文帝もついにはこれを黙視してはいられなくなった。 或るとき。一閣の内に弟を呼びつけて。 ﹁植しょく。きさまは父帝の遺業をわすれたか。今をどんな時だと思う。今日かぎり詩作はやめろ、筆を捨てて剣をとれ﹂ と、いいわたした。 ﹁やめられません!﹂と、曹植はひざまずいて、涙の目で兄を見あげた。﹁――私。ほかに能のうもなく、ただ文学だけが生きがいなのです。詩を作るなと仰っしゃられても、自然と詩が心にうかんでくるのでどうしようもありません﹂ ﹁ああ、きさまというやつは……。しかし群臣の目、軍ぐん紀きのてまえ、そんな気ままはゆるしておけん。どうしても、詩を止めんなら、今日はきさまの首を斬って、父帝の霊に詫び、三軍にも示して、たとえ骨肉たりと、戦を厭いとう者はこうだぞという実証とするつもりだ。それでもやめんか﹂ ﹁やめられません﹂ ﹁よしっ。斬れッ﹂ と、文帝は後ろの兵へ手を上げた。がまた﹁いや待て﹂と、何かを思い返したらしく、 ﹁植しょく。まず立て!﹂ ﹁はい﹂ ﹁わしがここで、一イ二ウ三イ……と七ツまでかぞえるから、声に従って、七歩あるけ。そして七歩のあいだに一詩を作ってみせろ。出来なかったら途端に首を落すぞ。もし佳よい詩を作なしたらぜひもない。よくよくな生れ損いとあきらめて、ゆるしてくれる﹂ と、厳命した。 力りき者しゃは大剣のつかをつかんで傍かたわらに立ち、文帝は指をあげて、一……二……三……とかぞえて行った。――歩むこと、まさに七歩目、曹植は哀かなしげに一詩をさけんだ。
豆ヲ煮 ルニ
豆ノ ヲ燃 ク
豆ハ釜中 ニ在 リ泣ク
本 コレ同根 ヨリ生 ズルモノヲ
相 ヒ煎 ルコトノ
何 ンゾ太 ダシク急 ナル
豆ノ
豆ハ
詩は、五ごご言んよ四んぜ絶つ、わずか二十字にすぎないが、同どう胞ほう相そう剋こくの悲ひき泣ゅうとうらみを訴えて人の胸を打たずにおかない。
文帝も詩の真理にうごかされ、以後は弟の天性とその好む所にまかせたとのことである。
龍りゅ顔うがんはくもって、はたと、ご苦悶のいろかのように仰がれた。
七歩ノ詩は聖慮にとり決してご愉快な詩であろうはずがない。万民は赤せき子しとか。
たとえ、どういう御理想によろうが、たたかいは帝王の最大な罪と御自身責められているはずである。戦いくさとは――豆ヲ煮ニルニ豆ノ豆ガラヲ燃タク――ようなもの。また――本モトコレ根ハ同ヒトツカラ生ジタモノ――。どんなたたかいにせよ、赤せき子しの殺し合いは、それだけでも最大な御悲嘆でなければならない。
まさに、今の世を観みれば、万民は釜かまの中で煮られている豆のようなものだった。そして釜の下を焚たきやまぬ焔も、ひとつ根の親とも兄弟ともいえる豆の豆ガラなのである。
豆は、何を怨うらめばいいのか。――沸ふつ々ふつたる熱湯の中の悲ひき泣ゅうは、たれが聞いてくれるのか。
正成は、豆に代って、豆の怨みを御ぎょ簾れんへ暗あんに訴えていたのだった。――たしかにそれはここの人々をして、暗鬱な反省の一瞬ときには立たせていた。――が、その一瞬ときがたつとすぐ、
﹁だまれ、無用な雑談﹂
と、公卿のひとりが、こう自己を晦くらます逆作用にまかせて烈しく発言していた。
﹁知らぬか、廷尉。――大タイ義ギ親シンヲ滅メツス、とあるのを。異いち朝ょうでもそれが新しい朱しゅ子しの学として奉じられておる。遠い魏ぎち朝ょうにあった故ふる事ごとなどは早やカビ臭いわ。……いや、坊門どの﹂
と、その公卿は、おなじ列にある清忠のほうを見て。
﹁さだめしお上うえにおかれても苦にが々にがしゅうおわせられましょう。微びせ賤んな一廷尉の分ぶん際ざいが、かくも長々と、愚言を奏したてまつろうなどとは、たれしも夢思わぬことではあったが、賜しえ謁つをお取次いたした奏そう者じゃのつみも軽くない。……ま、ともあれ、早や御ごり立ゅう座ざをねごうてはいかがでしょうか﹂
﹁ウむ﹂
と、清忠が、玉座へむかって、笏しゃくを正しかけたときである。後醍醐のおひざも、すっと同時にお立ちになった様子が、簾すの下からうかがわれた。
正成は、おもわず、
﹁……あ﹂
と、両手を下へつかえ直した。なろうものなら、その手は、帝のおん衣ぞのすそにすがりついて、なお一ひト言ことの御ごじ諚ょうをと、おせがみしたかったに違いあるまい。指のさきも、ひれ伏した鬢びんの毛けも、ふるえていた。潸さん然ぜんと、涙してないだけだった。
﹁廷尉。退さがんなさい﹂
﹁……は﹂
﹁疾とう。退さがらっしゃい﹂
﹁はい﹂
﹁なにを猶予﹂
﹁未みれ練んにはございますが、いまを措いては、まったく時を逸いっします。あわれ、まいちど、御集議にかけ給わって﹂
﹁それどころでない。逆げき鱗りんあらせられた御みけ気し色きですらある。――きっと、今日のことは、やがて重いおとがめでもあろうぞ﹂
﹁正成の身、たとえいかような罪に問われましょうとも、その儀はいといません。ただ何とぞ以て、いま一度の御評議でも﹂
﹁何と、物の見えぬ鈍にぶい男よ。ばかな!﹂
と、公卿たちは一せいに立った。
そして声のない笑いを正成の背へ向けながらみな去った。